−3−

「あー、まだちょっと頭がずきずきするぞー」

 折原浩平の横の席で、住井護が頭を抱えて机に突っ伏している。まだ酒が残っているらしく、吐く息が明らかに酒臭い。浩平はよく間に合ったなと思いながら、住井に口臭用のガムを一個手渡した。

「それで息を隠せ。今のままじゃ、髭が近付いてきたら即、アウトだ」

「おお、すまないなあ、いつも迷惑かけて」

「それを言っちゃあ駄目だよ、おとっつあん」

 久々にノリがあったことを確かめるため、二人は視線を重ねる。しかし、住井の瞼は直ぐに落ち、そして再び机に突っ伏した。ほとほと重症らしい。浩平はだらしなく横たわる住井に飽き、直ぐに次の標的を探して目をさまよわせた。見ると、前の席に陣取る七瀬留美が、期待込みの眼差しでこちらを伺っている。不思議に思い、浩平は声をかけた。

「七瀬、なに監視してるんだよ」

 浩平が尋ねると、留美は露骨に肩を震わせた。何かを企んでいるか隠してるか、どのどちらかであることが容易に分かる。

「えっ、あ、あはは、監視なんかしてないわよ、ほほほ」

 乾いた留美のおばさんくさい笑い声が、洒落にならないほど胡散臭い。浩平は自然、追及を強めた。

「本当か? もしかして、今までの件で逆襲とか企んでるんじゃないのか? その類稀なる格闘センスで」

「誰がするかっ、そんなことっ!」

 留美は明らかに憤慨していたが、しかしその怒りようから単なる逆襲でないこともまた明白だった。浩平は思わずほっとする。だが、それなら何を監視しているのか。浩平の疑問は当然の如く、目の前の少女に向けられた。

「そうか。なら、改造だな。長森と組んで、俺の足をロックできるよう改造しようと企んでるに違いない。というわけで七瀬、ネタは割れてるから白状しろ」

「折原あんたねえ――もう良いっ、どうぜ直ぐに分かるわよ。せいぜい、楽しみに待ってなさいね」

 まるで三流悪役の捨て科白そのままだったが、しかし留美はそれでも自信に満ちているようだった。どこかもどかしい。留美の態度にやきもきしていると、浩平は不意にもう一つの視線を強く感じた。誰かと思い、クラスを見回すと、何故か広瀬真希がこちらをぼんやりと眺めていた。しかし、浩平の視線に気が付くと、俯きがちに目を逸らした。二者二様ながら妙な態度を示す二人に、浩平は自分だけが蚊帳の外にいることを自覚せざるを得ない。

 釈然としないものを感じながら、しかし刻々と過ぎる時は二時間に跨るロング・ホームルームの後半の開始を促していく。髭がいつもの口調で話し始めたので、浩平は表面だけそちらに注目した。住井はまだ伏せている――その姿を哀れと思いながら、気遣うことはなかった。何故なら、日常茶飯事だったからだ。

 また、視線を感じる。振り向くと真希が浩平の方を見ており、その感づくところによって再び視線を逸らす。浩平は苛々の募る中、ある結論に辿り着いた。即ち、広瀬真希と七瀬留美の二人が結託して、何かを隠しそして驚かせようとしていると。無性に腹が立ってくる。新学期の戒めを片耳で聞きながら、浩平は特に真希の方をどうやって問い詰めようかと算段を練っていた。

 そして、今学期も頑張りましょうという教師の言葉で三学期の初日がしめられる。続いて起立、最後に礼。初日と言えど、学園は既に規範という歯車の中できちんと機能しているようだった。浩平はいの一番に、教室から抜け出して下駄箱に向かう。もし、真希と留美の二人が何かを企んでいるのだったら、逃げ道を確保しておかなければならない。浩平はその愚鈍な頭脳の思うがままに、迅速だった。

 わざとらしくのろのろ靴を履き替えていると、後ろから焦るような駆け足の音がする。相手の先を取り心の中でほくそえむ浩平の元にやって来たのは案の定、真希だった。

「お、どうした――息を切らせて。何か急ぎの用事でもあるのか?」

 少し意地悪く言ってみたのだが、息を整え顔をあげる真希のその表情を見て、そんな軽口も直ぐに凍った。時折、荒く吐き出される息と共に、彼女はとても哀しげであった。まるで、うっかり手を離して届かなくなった風船を必死で追いかけるような真剣さと、そして諦めにも近い感情。浩平は確かに、それらのものを感じ取った。

 息が整うと同時にそれは苦しげな笑みへと変化していく。頬が少し紅いのは、走ってきたせいだろう――それほどまで必死に追いかけてくるということは余程、大事なことだったんだなと思い込み、浩平は少しだけ心を和らげた。少なくとも、どんな悪戯をも受け入れようと思えるくらいには寛容だった。

 ようやく酸素が体中に行き渡ったのだろう。真希は浩平の顔をじっと見つめ、不意に逸らし、微妙な角度を保ったまま、しかし何も語る気配がない。浩平は、彼女の言葉をじっと待った。先程の態度からして、茶化したりしたら本気で泣かれるかもしれないことは分かっている。面倒事は、できれば避けたかった。

 しかし、真希は浩平を困らすどんな行動も文句も発しなかった。ただ、浩平の機嫌を伺うかのようにそっと、ささやくのみだった。

「あの――あのさあ、えっと、折原――」

 いつもは明朗である筈の真希なのに、今日に限って非常にしどろもどろで、どう考えても普通じゃなかった。何か知らぬ間に変なことをしたのか心配になったが、両手を胸に添えながらうろたえる彼女の姿を見ているのは何だか少し楽しくもあった。要は浩平の嗜虐心をそそったのだ。

「なんだ? もしかして、今日もクレープかワッフルを奢って欲しいのか?」

 普段なら致命的なことを口にできたのは、正月明けで財布が割と膨らんでいたからだった。浩平はそれをからかい半分で言ったのだが、しかし真希はとびつくような大声で肯定した。

「え、ええ、そうよ。折原もお年玉が沢山入っただろうから、たかろうとしてたの」

 だが、直後に口を噤み、少しソフトな言い方に訂正する。

「その――嫌だったら、わたしの分はわたしが払ってもやぶさかでないっていうかその――」

 ただ、最後は逆切れしたらしく、真希らしい姉御的な喋り方だった。

「ああもうっ――兎に角、食べに行くのっ。折原も付いてきてっ!」

 どうして感情がころころ変わるのか分からないが、別に真希と甘いものを食べに行くのが嫌な訳ではなかった。浩平は趣味の合う人間と遊び回るのが決して嫌いではなかったし、正直に言えば、彼女が側にいることで感じる温かさや心地良さが好きだった。そこに彼女自身が好きかどうか――そういう感情が含まれているかは意識しなかったが。いや、無理矢理押し込めていたというのが正しいのかもしれない。要は、いつもにまして心が複雑怪奇であったというだけのことだ。

「分かった分かった。仰せのままに付いていくから」

 浩平は真希を宥めるように言い伏せ、履きかけの靴を両の足に収めた。彼女も後を追い、浩平の横にぴたりと収まった。と思うと不自然に距離を空けたり、詰めたりの繰り返し。校門を出る前にすーっと近付いてきた真希に、浩平は我慢できなくて声をかける。

「広瀬――お前、何やってるんだ? さっきから距離を詰めたり離れたり。まさか俺のこと、水月に当身食らわす実験台にでもしようというんじゃないだろうな」

「し、しないわよ、そんなこと――」

 真希の怒声は、しかし以前のものと比べると明らかに歯切れが悪い。何かがおかしいと思うのだが、浩平にはその原因が分からなかった。

 こういう時、捻くれた問い方をするのが折原浩平という男性の人格だ。

「何か怪しいなー、地獄車とか巴投げ、意表を突いて外掛け――ほらほら何でもあるじゃないか。好きな技で白状して良いんだぞ」

「――もう良いっ。水月狙いでも地獄車でも巴投げでもないの」

「外掛けが抜けてるぞ」

「んなのどうでも良いっ! ただ、余り近付くと折原が――暑苦しくて嫌なんじゃないかって。なんか急にそんな詰まらないことが浮かんだだけ。その――」

 しかし、真希はその続きを言わぬまま沈黙してしまった。対する浩平は、逆に簡単な悩みだと思い、距離を取ろうとする真希にそっと歩み寄り、すかさず距離を埋める。真希がびっくりして見上げるので、浩平は直ぐに言葉を返した。

「別にそれくらいなら構わないって。夏なら兎も角、今は冬だろ。肩寄せ合って歩いた方が、少しは温かいかもしれないじゃないか」

 流石にその言葉は少し恥ずかしいと思ったのか、浩平は少し足早に動き出した。真希はほんの少しの間だけ立ち止まっていたが、やがて歩みを再会して浩平にそっと近付く。ゼロではない、しかし親しさを感じる距離。ゆっくりと、商店街までの道程を言葉少なに歩んでいく。途中、浩平は真希の姿を何度も横目で伺った。笑顔ではないが、とても嬉しそうだった。

 そんな真希の姿を見て――。

 無性に心が落ち着かない。

 今まで、とても冷静であれた筈なのに――。

 全てが急速な浮遊感を伴い、蘇ってくる。笑顔――あの日と同じ笑顔、頬に伝わる淡い温かみ、そして笑顔――。

 浩平は迸る感情から逃れようとして、真希と僅かだけ距離を置く。彼女はそれに気付かないようだった。しかし、明らかに動揺していた。分かるのだ、心拍数がどんどん上がってきている。妙なところにばかり目が行き、気付かれぬように逸らしては赤面を留めるのが精一杯の自分。

 まるで、きつく締め過ぎた水道の蛇口――パッキンが脆く壊れ、だらしなく溢れる水のように、感情を制御できない。何かが壊れてきている。何だ――。

 商店街の入口まで来た時だった。どのような偶然か、運命的な作用が働いたのか分からないが、見合わせた浩平と真希の視線が深く交錯する。その望みを望む瞳に浩平の顔がおぼろげに映し出されるのを見て――浩平は心の内に潜むものを初めて理解した。

 彼女の望みはきっと、鏡を映すように俺の望みなのだ――と。

「どうしたの、ぼーっとして」

 捉えようのない感情にほうとする浩平に、真希は不安げな表情を浮かべる。しかし、それすらも気遣う余裕がなかった。浩平は「なんでもない」と素っ気なく述べ、視線を外す。相対したままでは最早、冷静な思考すらできそうにない。心が不当に疼き、ただただ一つのことしか考えられずにはいられない。その髪や肌や表情や瞳や、柔らかな体や唇の感触から何までただ一人、目の前にいる女性のことだけしか考えられなかった。

 ずっと考えてきたこと。自分の、広瀬真希に対して抱く感情が何であるか。その答えが今、浩平の中を激しく駆け巡っている。それこそが、全てだった。

「何でもないって――じゃあ、何でそんな苦しそうな顔してるのよ」

 真希は半ば怒るようにして、そっと浩平の顔を覗き見る。憂いを帯びた瞳と、自分にだけ向けられた心が、浩平には、愛しさと、しかし――恐怖が――。

「なんでもないって、言ってるだろっ!」

 激情に後押しされる形で、しかし浩平は真希を責めるようにして言葉を紡いだ。真希は肩を震わせ、明らかに怯えている。失敗したと思ったが、何故か浩平は言い繕う気にならなかった。真希のことを何よりも欲しいのに、それを求めてはいけないと警告を発する何かが、浩平に冷静を促す。刹那の感情は緩く消え、浩平はできる限りの柔らかさある声で、真希と接した。

「悪い。その、別に嫌って訳じゃないんだが、元気なのにそれが疑われたようで――ああ、もう何言ってるんだ。兎に角、ごめん――俺が言い過ぎた」

 とてもじゃないが、納得など得られそうにない謝罪の言葉。しかし、真希は怪訝な表情を見せはしても、追求することはなかった。

「そう、だったら良いんだけど――。もしかして、わたしが何かしたから折原が嫌だなって思ったのかなって心配だったから。そうよね、しつこくされると誰だって嫌よね。ごめんね――」

 そう言う真希の目は怯えと、ただ一つ縋れるものに対する救済の求めに溢れている。浩平は妙な既視感を覚えた。彼女のそんな姿を、浩平は遠くない過去に見たことがあるような気がした。しかし、考えるよりも先に、真希がその顔を更に歪めていて、自分の記憶の果てへと辿り着けない。酷い動揺が自らに満ちているのが染み入るように理解できた。

「本当に――わたしはいつも、人のことを傷つけて――折原っ!」

 突然、弱気に思えた口調と心が一本の筋を張ったようだった。浩平は足を止め、真希と対峙する。彼女は確かに何かを伝えようとしていた。何かを――。

「折原、あのね。あの――わたし、わたし――」

 しかし、それをどう口にして良いか迷っていた。瞳の中の像が揺らぎ、徐々に力が弱まってきているのが分かる。そして――浩平はそんな彼女を支えなかった。声すらかけなかった。どうしてかは分からない――分かりたくもない。けど、浩平は真希を助けたくないと思った。そしてその願いに呼応するよう、真希は物憂げに首を振る。

「ううん、その――何でもない。その――やっぱ、毎日クレープだけじゃ飽きるから、別のものを食べたいなって言おうとしただけ。それだけよっ」

 そして、わざとらしく軽快に背を向けると、早足に歩き出す。浩平は慌ててその後を追いながらも、真希の本当に言いたかったことが菓子などのことではないと、それだけを考えていた。多分、求めているものは全く同じなのに――。浩平には真希を促すことを明らかに避けたがっていた。自分からリアクションを起こすなど、更に考えられないことだ。なのに、それでいて心の奥底では真希のことを――そう、今でははっきりと自覚している――強く求めている。

 酷く複雑な矛盾に、シンプルなものを好む浩平は自然、苛々が募らざるを得ない。ただ言えば良い。心から求めていると――そう伝えるだけで良い筈だった。

 それが何故、できない?

 心が何かを拒否している?

 漠然とした不安と焦燥、そして何故か一握の恐怖をない交ぜにしながら、しかし仮初めの目的地は既に、浩平を覆っている。商店街――真希は少し寂しそうに笑っている。ならばせめて今、少しでも楽しめることを共有しようと思った。

 何か買い食いをして、ウインドウ・ショッピングにちょっとうんざりしたり、CDを見て回ったり、本を物色したり。ゲームも良いし、紅白歌合戦の後で歌のレパートリィも増えていた。きっと楽しめる――楽しめる筈だ。

 それでいて、浩平はこれらの全てが欺瞞でしかないと分かっていた。分かっているけど、どうしようもなくて、ただ日常を演じるだけで――。

 浩平は自己嫌悪の嵐の中を漂いながら、それでも真希から離れることはなかった。

 それくらい、彼女の側にいたいと思うのもまた事実だった。

−4−

 既に空気は馴れ合いのそれだった。真剣な告白など受け付けもしない。仕方なく広瀬真希は二学期の時と同じ仕草で折原浩平に別れを告げ、しかし自己嫌悪を心に満たしたまま帰路に着いていた。あれほど言おうと思っていたのに、七瀬留美にも約束したのにそれができない。あの時、商店街の入口で視線を強く交わした時――真希は自分の求めているものを浩平も求めていると直感的に理解できた。そのことが嬉しく、浩平から何としてでもそれを聞き出したかった。彼の心が自分にあることを確かめたかった、それだけだったのに――それが全ての過ちの元だった。

 何故か浩平は頑なになり、以降は決して本音を真希に向けてはくれなくなった。ワッフルを奢ってくれた時の優しい声も、ゲームをプレイしている時の歓声すら、真希には空虚で嘘めいているように感じられてしょうがなかった。拍手はぎこちなく、笑顔もどこか乾いているのが真希にはよく分かった。彼をずっと見ていたから――もう否定しなかったが、自分でも不思議なくらいに浩平のことを観察していたらしい。でも、それが苦しみを助長している。

 そこから逃れる為に、真希もまた楽しい振りをした。確かに楽しかったが、真希の欲しかったのは仮初めの心地良さではない。胸が苦しくても、どんなに心落ち着かなくても良い、たった一人の男性に求められ、こちらからも求めるような、充足に満ちた関係だった。

 好きだって言いたい。

 願わくば、好きだって言われたい。

 二つの事象が真希の中を掻き乱し、溜息と苦悩ばかりをますます冬めく大気へと昇らせていった。空気より温かいそれは大気で冷やされ、やがて憂鬱の雨を降らせるのだろう。真希はそんなことを想像して自嘲的な笑みをもらす。今の自分なら、何人もの人間を鬱に陥れることができる。真希は重たい体を引き摺り、自宅に戻った。そして腹いせ紛れに、鞄を床に叩き付けた。

「ああもうっ! 何でわたしはこう――」

 臆病者めっ! 鞄はしばし転がり、止まる。その痛ましい姿に真希は我にかえり、鞄を拾って埃を払った。悪いのは自分で、この鞄じゃない。そのまま部屋に戻ると、鞄を机の上に置いてベッドの縁に座り込んだ。布団の柔らかさは少し心地良すぎると思ったからだ。硬い床に座り、膝をぎゅっと抱え込む。心が少しだけ楽になった気がした。

 ワッフルは美味しかった。ゲームもした、電気屋のテレビに少し釘付けになりどうでも良いドラマの再放送やニュースで盛り上がってもみた。楽しかった、それはそれで楽しかったのだ。でも――でも、求めてるものはそんなものではなかった。真希が一番欲しいと思っているのは――浩平だった。折原浩平という男性だった。彼だけが手に入らない、彼だけが――。

 意気地のない自分が嫌になる。何が、ノックアウトしてやるだ。パンチ一発も震えない拳闘に何の意味があるだろう。真希は右手を床に叩き付けた。鈍い痛みだけが骨から皮膚に、そして全身に広がっていく。けど、求めているのはこの傷みではない。浩平のくれる、痛みだった。温かい痛み、痛みが欲しい。胸の充足を、想いの通じ合いを確かめ合えるような、そんな痛みが。

 どうやって気を紛らわそう。どうやって七瀬留美に弁解しよう――真希はそんなことばかりを考えていたから、ドアの開く音に全く気付かなかった。

「おっ、そこにいたのか挨拶がないから心配して――どうしたんだ?」

 唐突な声に驚き顔を上げると、そこには真希の父親、希春がいた。

「おとうさん、お帰りなさい。今日は早いんだ――」

「ようやく仕事が一段落着いた。今週は土日も休めるし、貯まってた代休も掃き出して良いそうだ。来週の前半、水曜日くらいまでは遅い冬休みということでずっと家にいられると思う」

 希春は肩を左右に傾け鳴らしながら、ほっとした表情を見せている。年末どころか年始も結局、正月から働きどおしだったのだから当たり前かもしれない。真希は、そのことに色々な意味で安堵を抱いていた。勿論、その最たるものは忙しい父にようやく休息が与えられたということだが、理由はもう一つあった。人生の先輩として――今の状況のことで是非とも相談に乗って欲しいと思っていたのだ。真希は立ち上がり、表面上は明るい笑顔を見せる。

「そっか――ずっと大変だったもんね。ご苦労様――肩でも揉んであげよっか?」

「いや、それは後で良いよ。今は兎に角寝たいからね」或いは遠慮もあったのかもしれない。希春は柔く微笑み、真希の申し出を断った。「じゃあ、私は一足先に一風呂浴びてくる。夕食は――今日だけ奮発して美味いものでも頼もう。寿司でも特重でも好きなものを頼んで良いぞ」

 どうやら、半ばやけくそで言っている感じだ。しかし、真希も今から食事を作る気にはならなかったから、好意に甘えることにした。しかし、和食は食べる気がしなかったので、ピザを頼むことにした。烏賊に蛸に海老、兎に角好きなだけのっけたやつ。それくらいやっても罰は当たらないだろう。

 真希が電話をかけている横を、希春が横切っていく。

「ピザ頼むなら、玉蜀黍は抜いといてくれな。あれだけは苦手なんだ」

「はいはい、頼んでるって」いの一番にそう、念を押しておいた。「あと三十分くらいしたら来るって。長湯したいならもう少し遅く来て貰っても良いけど」

 保留は押してないので向こうに丸聞こえだろうが、別に構わないだろう。真希は、希春が長風呂好きだと知っていたから、そう尋ねた。

「そうだな。一時間後にしといてくれ」

「了解」

 真希は受話器に耳を当て、その旨を述べると受話器を置いた。さて――一時間の暇が出来てしまった。どうしようかと悩んでいると、今度は矢継ぎ早に電話がかかってくる。何か漏れたことがあって、ピザ屋が聞き直しに来たのだろうかと素早く受話器を取ると、しかし野太い男性ではなくトーンの高い女性の声が聞こえてくる。友人の一人で、三森節子の声だった。

「こんちは真希、玉砕してきた?」

 第一声がこれということは、留美がきっと口を滑らせたか何かしたのだろう。真希は声を詰まらせ、何も喋ることができなかった。そのことで節子は誤解したのか、腫れ物を触るような様子で真希に尋ねて来る。

「ごめん――もしかして本当に玉砕したの?」

 真希は心の中で溜息を吐く。もしかしたら、その方が楽だったかもしれない。浩平に好きでも何でもないと言われたとしても、まだ今の状況よりはましたっだろうから。

「できなかった」

 それが何を意味するか分からず、節子は何も語ろうとしない。真希は合いの手を入れられる前に、自らまくし立てる。自分を守る為に。

「ちょっとねー、まあ色々あってさ。タイミング計り損ねちゃったのよ。ごめんね、期待させといて悪いけど、続きは明日ってことで。それでさ――」

 真希はそこから別の話へと方向を捻じ曲げ、これ以上の追求を押さえ込んだ。もしかしたら、節子は気付いていたのかもしれない。けど、何も聞かずに他愛もないおしゃべりだけで見逃してくれた。勇気のないせいで気を遣わせている、そのことをとても悔しいと思いながら。

「でさ。今日ね、物好きにも鈴華にアプローチかけてきた男の子がいたのよ、これが」ようやく落ち着きかけてきた真希の心が、その一言で一転する。恭崎鈴華は間違いなく、真希のいるグループ一の変人だ。元は良いが、男と見間違う程の姿形を好む為に損をしていると思わせる唯一の女性だった。自然、真希はその結末に心を傾ける。「で、どうなったか――知りたい?」

「勿論。で、どうなったの? まさか――受け入れたとか」

「まさかあ」節子はこれ以上ないという調子で否定した。だが、真希も多分そうだろうなとは思っていたので、驚きは少なかった。もし受け入れたのだとしたら、声が出ないほどに慌てただろうが。「そしたらさ、鈴華ってば近くにいた静子に抱きついて、これが僕の彼女だって。その男の子、顔真っ青にして走って逃げてって――もう傑作ったらありゃしないって感じで」

 とんでもない結末だ。確かに鈴華らしい断り方ではあるが、同性愛と誤解されて良いのだろうか? 当然、真希の考えにあるのは鈴華ではなく、静子のことだった。

「そんなことして静子は大丈夫なの?」

 去年の暮れ、これでもないかというくらい男性不振になった静子のことだ。些細なこととは言え、恋愛関係云々で振り回すのは酷じゃないかと思った。

「うーん、でも良いんじゃない。あの娘も暫くは男と付き合いたくないって言うし、それだったら同姓の彼女がいるって噂、格好のバリアになったりするのかな、なんて思ったけどなあ」

「――それって、そういう問題なの?」

「どうかなあ? でも、鈴華はそれで良いって言ってたから良いんじゃない? 鈴華の言うことはいつも悔しいけど、大体は当たってるし。テストの問題でも、現実の問題でも」

 確かに節子の言うとおりだった。恭崎鈴華という女性は前提がどうあれ、出す結論はいつも正しい。彼女は間違わないし、彼女がそうなると言えばきっと、本当にそうなるのだろう。信じるものはその通りになり、皆の憧憬を集めるのかもしれない。そして盲目的ではなく、鈴華の人柄を良く知っているからこそ、真希は彼女のことを信用できた。やり方に難ありという感情は捨てきれなかったが。

「だったらそれで良いか――でね――」真希が今日のドラマのことについて話そうとした時だった。ピザの宅配が届いたのだろう、ブザーが大きな音を立てた。電話の内蔵時計を見ると、確かに一時間きっかり過ぎている。時間に正確だなと感心しつつ、真希は弁解するように会話の流れを止めた。「ごめん、これから夕食だから話はまた明日、学校でね」

「うん。それじゃまあ、焦らずにやるんだぞ」

 節子の言葉が何を差しているかが分かったので、真希は何も答えず受話器を置いた。一瞬、考え込む風に俯いていたが、再びブザーの鳴る音を聞き、直ぐ正気に戻った。

「はいはーい、今行きますー」後で建て替えて貰うとして、風呂に入った素っ裸の父親を召還するのは年頃の女性として気が引けた。自室に戻ると財布を手に取り、とんぼ返りして玄関に。ドアを開けると、ストライプの制服を着た男性が手にピザを抱えていた。包装越しでも、チーズとトマトソース、生地の芳ばしさが鼻をくすぐり、胃やお腹を刺激する。真希はお金を払い、食料を受け取ると馬鹿丁寧な礼を何度も繰り返して去っていくピザ宅配の男性を他所に、それをダイニングに運んだ。

 箱に入ったピザは既にカッティングされており、何時でも食べられる状態だった。早速一口という思いを何とか閉じ込めるようにして、包装を閉じ直す。ブザーの音で食事の存在に気付いたのだろうか? 風呂場から慌しい音が聞こえる。きっと、希春が慌てて風呂から上がっているのだろう。真希はくすくすと笑いながら、湯気をこもらせやってくる姿を想像していた。

 五分後。案の定、いかにも風呂上りですといった気配を漂わせて希春がダイニングに現れた。

「すまんすまん、ちょっと遅れた」

本当は少しではないのだが、久々の長風呂を堪能したかったのだろうと思い直し、真希は何も言わないことにした。先ずは労いの言葉をかける。

「取り合えず、今日までのお仕事、ご苦労様。多分――休みが終わったらまた忙しいんだろうけど」

 それはかなりの確信をついていたらしく、希春はうっと喉を詰まらせた。あまり触れて欲しくはなかったことなのだろうか? 真希が心配そうに覗き込むと、わざとらしい咳払いをして場を取りなした。

「まあ、そのことは忘れてだな。先ずは飯でも食べて、それから――ふあ――」

「寝る?」これまたダイナミックな欠伸をするので、余程眠たいのだろうと気遣ったのだが、希春は首を横に振った。

「確かに眠いが、ずっと話をしてなかったからな。お互い、どういう風に暮らして来たか少しくらいは話しておいた方が良いだろう。これじゃ、同じ家でめいめい、一人ぼっちで暮らしているようなものだし――それはちょっと悲しいと思うんだ」

 その申し出に、真希は即座に肯いた。今抱えている問題をなるべく早く、打ち明けてしまいたかったからだ。人生の先輩として何か、役立つことを教えてくれるのではないかと期待していた。真希が余りに物欲しげな目をしていたからだろう――彼は簡単にその魂胆を見破ったようだった。

「――何か話したいことがありそうだな。悩みか何かか?」

 真希はこくりと肯いてから――このことを語って良いのかなと迷ってしまった。本当は同姓の親に話すのが一番良いのだろう。しかし、そういう存在は今、この場にいない。唯一、頼りになりそうな姉の美晴ともかなり以前から疎遠な状況が続いていて相談できそうになかった。それに希春は父だけでなく、母の代わりとなるようにも接し続けてくれていた。ならば大丈夫ではないだろうか? 真希はそう判断を下した。

「うん。その、ね――人を好きになった時、どうしたら良いんだろ?」

 その一言――。

 暫しの静寂と共に一瞬、物凄く冷たい空気が流れたような気がした。まるで、幽霊でも刺激したかのように、鋭く世界が凍り付いたような錯覚を覚える。真希は思わず怯え、辺りを見回す。白いヴェイルのような幕が視界を覆ったような気がした。そう、まるで――。

「うーん、それは非常に難しいなあ。誰か好きになった男性でもいるのか?」

 腫れ物でも触るかのようにそっと尋ねて来る希春の声に、真希は我を取り戻す。もう、恐怖を誘う精神的な冷気は存在しない。安堵し、口ごもりながらも真希は肯いた。何か悪いものが生まれたような気がするのだが、しかし今は己の抱いている感情を早くどうにかしてしまいたかった。だから――。

「そういう時、お父さんはどうした? 好きな女の人がいる時、どうしても打ち明けたいって気持ちがある時、どうしたの?」

 どうしたのだろう。しかし、希春は黙ったままだった。俯き、頻りに何かを考え込んでいた。やはり異性の親にはするべき会話ではなかったのだろうか――不安に思い続けていたが、希春はようやく顔をあげた。その表情は何故か、とても苦しげだった。何かに惑い、膨れ上がる感情を必死に抑え付けている、そんな形相だ。真希はそれを、少し怖いと思った。

「あ、はは――すまんな。やっぱりそういう話は苦手のようだ。余りそういうのが得意じゃなかったからな。うん、力になれなくてすまないな」

 ふらふらと。それだけ言い残すと希春は、ピザを一切れ食べ終わったところで力なく立ち上がった。目は眠そうに装っているが、しかしそうでないことは直ぐに分かった。

「ちょっと悪い――どうやらお風呂に入ったら酷く眠くてな。先に眠らせて貰って良いかい?」

 その言葉は、真希に選択権を委ねているにも関わらず、一方的であった。断ることを許さない情念がこもっており、それに従って首を縦に振ることしか出来なかった。ドアが開き「すまないな」ともう一度、付け足しのようにぞんざいな謝罪の言葉と共に、閉じられる。真希は手に持つピザを皿に置くことすら忘れて、父の変貌振りに呆然としていた。しかし、直ぐに思い直す。もしかして、恋愛のことで何か辛い思い出があるから尋ねてはいけないのかもしれないと――。

 刹那――。再び、部屋の中を冷たい悪寒のようなものが駆け巡ったような気がした。幽霊――その言葉が再び思い出され、真希はぞっとする。そう言えば去年の暮れ、天皇誕生日だった。学校にいた時、出会った白いワンピースの影は一体、何だったのだろうか? 幻覚――精神が混乱していた為に見た、想像の産物? だとしたら、この部屋に満ちるこうも悪意に満ちた冷たさは一体、何だと言うんだろう。これも幻? 自分の創り出した有り得ない幻の一つ? でも、それにしては――。

 急に真希は、唐突に態度の変わった希春のことが心配になった。真希は幽霊なんて信じない方だ。でも、何かが変だった。今、この場所を境にして過去と未来に途轍もない壁が作られた。確信はないが、そんな気がする。急いで後を追ったが、ダイニングのドアを開けたと同時に部屋のドアが閉まる音が聞こえた。一足遅かった――一度閉じこもってしまうと以外にも、希春は何も話してくれないのだ。だから、今日は諦めて明日の朝にでも聞くことにした。

 そして、ダイニングに戻ると当面の一大問題が幅を広げて待っていた。トッピングをふんだんにきかせたピザ二枚だ。当初、二人分ということでこの量を頼んだのだが、今となっては絶望的な量だった。

「一枚はラッピングしといて――本当は味が凄く落ちるからヤなんだけどなー」

基本的に宅配ピザは、再び温め直すと生地もチーズもパサパサしてて余り美味しくない。トマトの芳ばしさも具材の魅力も弾け飛んでしまう。しかし、捨ててしまうのも勿体無かったし、夜中にお腹の空いた希春が摘みにこないとも限らない。我慢して、ラップにかけると冷蔵庫に放り込んだ。そして、今になって考えれば洒落になってない熱量のピザを、ゆっくりと胃の中へ押し込む。久々に穏やかながら明るい食卓も、今となっては水の泡だ。真希は自分の迂闊さに思わず息を吐いた。

「でも――そんなの、分かんないじゃない」

 真希は、父が恋愛で酷く悩んだ過去があるらしいことを知らなかった。勿論、失礼なことではあったのだろう。でも、一言くらい説明があって然るべきだ。真希は胸の中に満ちる理不尽を封じ込めようと、希春に対する反感で胸を満たした。でも、やはり納得できない。

 何があるのだろう。何があったのだろう。それははっきりしないといけないような――自分にも関係のあるような――いや、それはない。真希は首を振った。誰であろうと、恋に悩むというのは学生か社会人になって直ぐくらいまでだ。その時、真希はまだ生まれていない。だから、自分には全く関係ないことだ。そう結論付ける――いや、付けようとした。

 しかし、何かがそれを拒む。何か――忘れてはいけないのに忘れてしまったものの中にそれが隠されているような――分からない、何か。

 それは何だったんだろう――。

 真希はピザの入った箱を片付けることも忘れて、自らの思考へと深く、深く入り込んでいく。自らを惑わす元凶、幽霊、白いワンピース、紅い――苦しみと、紅い――嫌な臭い、血と薄暗く嫌悪を引き込むような、生臭い――。

 白と、紅と――。

 思わず、真希は目を見開いた。そして、心の中に浮かんだイメージを必死に打ち消す為、何度も瞬きした。目を開け閉めする度、異なるイメージがわいては消え、消えてはわいていく。そして、記憶は何も生まなくなる。それは断片的過ぎて、理解できなかった。しかし、恐怖を生むものであるというのは分かる。真希の体は怯えのせいですっかり震えていた。

 怖かった。

 悪意の塊のようなものを、覗き込んだ気がした。

 それが自分の中に潜んでいるのが怖かったし、正体の分からないのが嫌だった。

 真希は叫びだしたくなるのを堪え、自分の部屋に戻る。電気を点け、布団を被り、何も近付いてこないようにと祈った。幽霊――そう、幽霊になって自分の元にやってくるものなんて限られていた。家族、死んでしまった家族――また呼びに来たのだろうか。それとも、嗅ぎ付けたのだろうか。そして恨んでいるのだろうか。自分だけ喜びを掴むことを、愛するという感情を抱いて我を忘れるほどに心揺らしていることさえも。

 その全てが、許されていないのだろうか。

 分かっている。幽霊なんて本当はいないってこと。本当は上手く行かないことを何かの責任にしたくて、それで幽霊とか悪意とか、本当は有りもしないものを心の中で生み出しているだけだ。今の真希には、それが分かっていた。理解できていた。

 それでも、何もできない。例え正体が分かっていても、それが余りに強大過ぎると立ち向かう勇気さえなくなる。そして誤魔化し、挫いてしまう。本当は一番、やってはいけないことだ。強い人間なら、例え負けると知っていても引いてはならないことができる。でも――。

「でも――できない。わたし――わたしなんて弱いのに――口先ばかりで何もできないのにいっ!」

 自分の弱さが嫌だった。そして、感情がここまで揺れ動く自分も嫌だった。幸せの次には不幸のどん底みたいな絶望がわいてきて、どうにも止められなくなる。こうなるともう、自分にあるのは諦めだと知っていた。

 何が無力じゃないだ。真希は自らを嘲る。

 口先だけじゃないか。口先だけ――言ったことを少しでも実行した? してないじゃない。何でこう、いつも上手く行かないの? 勇気が出ないの? たった一歩で良いのに――。

 その一歩を踏み出すことができない。

 相手が嫌うだろうとか、相手は自分を想ってはくれないとかくよくよ気にして――いつまで経っても変わらない。

 折原――。

 一度は手に届くほどまで近いように思えた彼との距離が、今では北極光の彼方にまで離れていったようだと、真希は思った。そう思いながら、制服姿ということも風呂に入っていないということすら忘れ、意識は急速に飲まれていった。まるで現実から逃避するかのように。

 

 ギイ。

 扉の開く音。

 先程までの恐慌も今はなく――。

 ただ、穏やかな寝息が聞こえるのみ。

 邪なるもの。

 今はまだその理性を称え、ただ立ち去るのみだった。

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