−5−

 家に戻り、テレビを見たり音楽を聴いたりしても、胸の中を去来するのは心地の悪い後悔の念だけだった。折原浩平はイヤホンを外すとベッドに寝転び、再びテレビのリモコンでチャンネルを変えながら、広瀬真希と彼女の気持ちについて考え続けていた。

 チャンネルが国営放送のニュースに変える、事務的にニュースを読み上げるアナウンサに飽き、数分もしない内に民放の番組に。まだ特別番組のラッシュ真っ最中なのか、普段よりもハイ・テンションで大して面白くもない番組を垂れ流している。浩平はテレビを消し、寝返りを打ち、両手を枕にして仰向けになった。衣擦れの音がやけに大きく聞こえる。その他に聞こえるものと言えば、風が窓を僅かに叩く音、良い加減に使い古した目覚し時計の秒針が時を刻みつける音くらいのものだった。

 妙に苛々する。浩平は天井の染みを見つめながら、彼女のことを思う。もう、何度自問してきたか分からないこと。自分は広瀬真希のことをどう思っているのか、どうしたいのか。

 どう思っているのか――は、分かっている。住井に問い詰められた時には分からなかったが、今日になってようやく分かった。真希の瞳を見て全てが理解できたのだ。友情とか言えるレヴェルなんて、もうとっくの昔に通り越していた。あいつの言うとおりだった。救いようのない鈍感なのだと、自分が少し情けなくすら思える。浩平はその気持ちを再確認する為、わざと声に出してみた。

「やっぱ――好きなんだろうな――」

 言ってみて思わず恥ずかしくなり、浩平は温度の上がっていく頬をぴしゃりと叩いた。何者をも冒されぬことが折原浩平という自分であるという自負がある。それを平気で捻じ曲げてしまった気がして、己を戒めるための一撃だった。

 何度も深呼吸し、ようやく落ち着いてきたところでもう一つのことを考える。即ち、自分が真希のことをどうしたいのかということだ。普通なら、好きだと気付いたところでその思いを何らかの方法で伝えに行くのだろう。勇気があれば直接、勇気がなければ手紙か何かの間接媒体で、もっと勇気がなければ想いを伝えることすらなく消えていくことだろう。浩平は、自分が勇気のある方だと思っていた。正しくないと思ったことは教師にでも反論できたし、あの癖のある叔母とも対等くらいには渡り合える。色々と馬鹿げたことを計画して、それを目的通りに果たす力もあった。

 でも、その全てが異性に告白するという事象とは別の場所から絞られる勇気であるらしい。真希を前にして何もできなかったことを鑑み、浩平はそう判断せざるを得なかった。

 いや――と、浩平は首を振る。勇気ならあった。実際、真希の求めているものが恋情とかそういうものだけだとしたら、躊躇いはしなかっただろう。しかし、と浩平は付け加える。彼女の目を見た時、浩平は真希がそれだけを求めているのではないと知った。縋るような、助けを請うような。あいつは俺の全てを欲している。無くならないものを、願っている――。

 それが、浩平を何故か引き留めるのだ。浩平には、無くならないものを彼女に与える自信がない。そして、そういうものを求める人間を受け入れてはならないと、体が強く念じているような気もした。無くならないもの、普遍なもの――永遠のもの。

 無理だ。浩平は絶望的な気分で、天を仰いだ。永遠のものを与えるなんてできるわけがない。浩平は思い進める。俺にそんなことができるわけがない。何故、できない――浩平は更に深く自分自身に問い質す。

 何故、できないのだ?

 浩平は思わず身を起こした。胸に手を当てると、妙に心臓が早く打っている。息苦しいし、体が錆びた鉄のように上手く動かない。目の前が一瞬だけ真っ白になった。まるでこの世界が消えてしまったかのように、切り取られたかのように虚ろとなる。喉が妙に渇く。耐え切れずに、浩平は階下の冷蔵庫に向かった。

 麦茶をコップに注ぎ、一息で飲み干しても落ち着かない。何か良いものはないかと冷蔵庫を漁っていると、叔母の小坂由起子がストックしているビールの缶を見つけた。酒でも飲めば心が静まるのではと思い、適当なつまみと共に取り出しテーブルに置いた。

 プルトップを空けると炭酸の抜ける心地良い音が響き、麦の酒ならではの香りが満ちてくる。浩平は一気に三分の一ほどあおり、ささみチーズを口の中に放り込んだ。酒飲み用の少し濃い味付けが、ぼんやりとした頭脳を目覚めさせてくれるようだった。他に摘むものもないため、ささみチーズを食いながらアルコールをあおりの繰り返しで、直ぐに二本のビールを空けた。元々、浩平は酒が強いほうだった。しかも中学生の頃から、由起子に隠れてビールや酒を割と飲んでいた。下手をすれば、体育会系の大学生とも張り合えるくらいだ。当然、ビールくらいでは酩酊できる訳がなかった。思考は相変わらず明敏で、しかも目が冴えてしまった分、明らかに物事を考える状況に適応したようだった。

 親父臭いげっぷをした後、まるでいきなり僻地に左遷させられた会社員のように蹲る。こめかみやうなじに思考を止めるスイッチがありはしないかと探ってみるのだが、そんなものが見つかる筈がない。

「畜生、こうなったら冷蔵庫の酒を全部空けてやる。幸い、明日は休みだ――誰も文句は言わないっ!」

「――私が言う」

「うわあっ!」背後から飛び込んできた声に慌てて仰け反る浩平。振り向くと予想通り、小坂由起子がにこにことそれでいて人を威圧する笑顔を浮かべている。「今日は早いんだな――えっと、取り合えずビールでも一本」

 こういう時には卑屈になるに限る。浩平が動けないでいると、由起子はあっさりと残酷なことを言い捨てた。

「飲んだ分と食ったは来月の小遣いより棒引き。でも――珍しいな。馬鹿騒ぎする時なら兎も角、普段から酒を飲むとは珍しい。それとも正月気分が抜けてないのか?」

 言いつつ、浩平の横をすり抜けて冷蔵庫からビールの缶を二本取り出す。由起子はその内の一本を、未だ呆然としている浩平の手に渡そうとする。

「ほら、飲まないのか?」その問いかけでようやく浩平の活動が再開する。無意識のうちにビールを受け取ると、しかし先程の宣告からか迂闊に手を出せない。すると由起子が気付いたのか、今度は上機嫌そうに告げた。「気にするな、さっきのは冗談だ。ビールの二本や三本で女々しいことを言うたまか? 私が」

 妙に上機嫌な由起子に、浩平は少々面食らった。まあ、こういう時は仕事が上手くいったか嫌な上司が机の角で足を打ったとかその辺りなので、敢えて気にしないことにする。由起子はほぼ二息でビールを飲み干し、今度は焼酎を取り出した。冷凍庫から氷、冷蔵庫から檸檬、食器棚からコップと絞り器を取り出し、器用にレモン割りを作り始める。

「お前も飲むか? 純米酒だから癖もないし後をひかないぞ。騙されたと思って飲んでみろ」

 未知の味に誘われ、浩平も対抗してビールを飲み干してから焼酎に手をつけた。より純粋なアルコールが鼻腔を抜け、清冽な香りが肺腑を駆け巡っていく。浩平は一口含むと、その味を吟味した。焼酎によく言われる癖がないし、何よりビールに数倍するアルコールが容易く思考を奪ってもくれそうだった。

「確かに美味いな――」

「だろ。この味が分かるなら、酒飲みとして一人前だ、自慢してよいぞ」

と言いつつ、一献呷る由起子の姿は非常に豪快だった。酒が弱い人間なら、彼女の飲みっぷりを見ているだけで気分が悪くなるかもしれない。

「で、なんだ――」立て続けに焼酎を三杯飲み、他につまみがないかと冷蔵庫を漁り始めた由起子が、何の脈絡もなく浩平に声をかける。「お、するめにたらこ発見――炙るか」

 彼女は台所の下の引き出しから無煙七輪を取り出し、スイッチを入れる。炭が入っていないので本格的とは言えないが、色々なものを軽く炙るのには丁度良い代物だ。七輪が温まるまでの間が適当だと思ったのか、由起子は言葉を続けた。

「酒に逃避したい出来事でもあったのか?」

 率直な尋ね方に、浩平は思わず言葉に詰まる。それは正しく肯定の意味だったのだが、浩平にはそこまで慮る余裕すらなかった。

「となると女か? その顔を見ると図星――振られでもしたのか?」

 それを幸いと、由起子は浩平の顔色を伺いながら鋭く切り込んでくる。一応、ポーカフェイスのつもりだったが、彼女には簡単に見破られてしまうようだ。浩平は諦めた。大晦日の時の手合いもあって、相談せざるを得ない状況へと追い込まれていたことに気付いたからだ。浩平は振られたという単語を否定し、言い訳がましくならない程度にあれからの経緯を語ってみせた。

「つまり、お前はその広瀬って娘が好きで、向こうもそう思ってくれてそうってわけか」

 少し自惚れているかもしれないが、浩平は軽く肯いた。

「だったら簡単じゃないか。告白しろ――それだけで薔薇色の学園生活が待ってるぞ。何が良いって、恋人のいる学園生活ほど楽しいものはない。経験者は語る、だ」

 その経験者らしい女性が断言するのを、浩平は胡散臭い目で見た。しかし、直ぐにそれを打ち消しうなだれる。それができれば苦労はしない。問題がなければ既に突っ走っていた。それができないから困っているのだ。

「そりゃあ、まあ分からないでもないんだが――」

 確かに、真希がいつも隣にいてくれるなら学園生活においてどれほど張りが出るだろうか。放課後も憚ることなく騒げるし、切磋琢磨できる。何より、その全てが愛おしかった。でも――浩平は思わず言い訳する。

「告白しようと思ったけどできなかった。怖かったんだ――なあ、そう思うのは弱いだろうか?」

「弱いな」由起子は即座に言い切った。「何を恐れる必要がある? もしかして、金銭的に問題があるとか人とは違う特徴があるとか、そういう自分勝手な理由なのか?」

「違う――そんなものは言い訳にしない。でも、あいつは俺に――永遠であることを求めてる。決して消えないものであることを――あいつの目はそうだった。俺は知ってるんだ――同じだった。同じだったんだ――そう、同じだったんだよ。同じ――」

 同じ? 何と同じなんだ? 浩平は自分の言葉ながら、酷く混乱していた。記憶が曖昧としていて、上手く取り出せない。浩平の混乱を察したのか、由起子は彼の肩を強く揺すった。そして落ち着かせてから、暴漢を説得する警官のような口調で語り始める。

「落ち着け浩平――成程、言いたいことは何となく分かるよ。愛してはいる、でも末永く愛していく自信がない。お前はそう言いたいわけだ。何処まで真剣なのか、愛情とは何処まで続いていくものか、悩んでいる――そうだな」

 浩平はまだ整理されない頭を必死で回転させた。愛情は何処まで続くか――そう、そこに永遠がないのなら、真希の想いに答えて良いのか。浩平は大きく肯いた。由起子の言葉でようやく、自分が何に惑っていたのか、その一部分が明らかになったような気がした。

 それが永遠のものであるのか。浩平にとっては何よりも、どのようなものよりも大事なものであるような気がする。しかし、由起子はまるで些細なことであるかのように一蹴した。

「馬鹿」そして腕を組み、もっともらしく真面目な表情で浩平に詰め寄る。顔が間近まで近付き、焼酎の――或いは酒精の匂いが脳をくらくらさせた。しかし、由起子はお構いなしに言葉を続ける。「そんな若い年で、永遠なんて考えるな。今を生きていくだけで精一杯の子供の癖に、そんな先まで考えるなんて、私に言わせれば片腹痛い。良いか、好きって感情はな、案外簡単なものなんだ。あそこに毛の生えた同士の男と女がいれば、自然と生まれるんだから」

 浩平はその物言いに、思わず眉を潜める。恋が高尚なものであるとはちっとも思っていない浩平だったが、そこまで欲望丸出しな訳ではなかったから、少し不快に感じた。だが、由起子は気にとめる様子もなく――とめたとしても全く表に出さず――不敵な微笑を浮かべる。それはまるで切り札を隠し持ついかさま師のようで、浩平は思わず身構えた。

「永遠に続く感情なんてありはしないのさ。お互いを好き合う気持ちでさえ微妙に変わっていく。変わらない気持ち――確かに良い響きだな。二人いつまでも変わらない気持ちで、いつまでも幸せに暮らしましたか。安っぽい理想論だよ、そんなの。お互いが想いあっているのなら、それは想いの中で、日々の積み重ねの中で、徐々に変わっていく筈だ。変わらないということは、進歩がないということだ。そういうのほど、肉体の結び付きがなくなった時、脆い。直ぐに壊れる。何故なら、体を重ねるだけで心を育んでいなかったからだ。まあ――私も、人のことは言えないが」

 そう言って、少し寂しそうな顔をしたのは身に強い覚えがあったからだろうか。だが、今は詮索している時ではないと、浩平は思った。

「お前がどうしようと、それはお前の勝手だ。けどな、大事なことを伝えられなかった後悔は一生、心の中に負の遺産として残るぞ。お前より十歳は先輩の私からの忠告だ。言っておくが、私は忠告なんて滅多にしないからな」

 そんなことは十年近くも一緒に暮らしていれば、自ずと分かってくることだから、浩平には何を今さらという類のものだ。しかし、ただ一つ――見過ごせない一言があった。

「なあ、俺は思うんだが」

「ん、なんだ。私の忠告に感謝の言葉でもくれるのか?」

「十歳というのは――サバ読み過ぎなんじゃないか」

 暫しの沈黙。のち、由起子の瞳がすーっと細くなる。

「――ほう? 身に余る言葉、恐れ入る。これは是非とも、感謝の気持ちを示さないとな」

 ぞくりと。背筋を走る悪寒が自然と、浩平の歩をさげる。しかし、由起子はそれに倍する速度で浩平の頬を掴み、斜め上に引っ張り上げた。

「生意気なことを言う口はこの口か?」

「ひ、ひへぇひへぇ、びぶ、びぶ――」

 ギヴ・アップを必死で宣告するのだが、由起子はその手を離そうとはしない。

「はあ、聞こえんぞ。もっとはっきり喋らないとな――」

 耳を近づけつつも酷く意地悪い笑みを浮かべる彼女に、浩平は妙齢の女性を年のことでからかうことだけは避けた方が良いことを、身にしみて実感していた。付け加えるならば、怒った叔母ほど恐ろしいものはない――ということも。浩平はそのまま一分近くも抓りあげられ、解放された時には虫歯の時のような痛みが頬からわき出していた。

「――ったく、お前は都合が悪いと直ぐに人の話を茶化す。悪い癖だぞ」

 しかし、浩平は答えない。肌の痛みと図星を突かれて何も言えなかったのだ。そう――浩平は迷っている真っ最中だった。答えを要求されることが、正直言えば怖かった。避けたかった。でも、それではいけないとも思う。

 何故、人を好きになるとこんなにも苦しいのだろう。自分ではない誰かのことを考えることがこんなにも難しいことだなんて知らなかった。

 でも、考えれば当たり前かもしれない。人の心を深く知る前に、茶化して浅く散らしてばかりの自分だったのだから。由起子の言うとおりだと浩平は思った。人付き合いは良いけど、人と深く関わろうなどと、今まで思ったことがない。何故か、怖いと感じるのだ。

「そうかもしれない」と、浩平の口から素直に言葉がもれる。それは彼なりに考えたうえでの発言だったのだが、いつもはまるで素直でない浩平ゆえか、逆に由起子が目を丸くした。

「――お前、今回に限って凄く素直だな」

「な、なんだよ、その顔は。俺だって、一度くらい素直になったって良いだろ」

「まあ、文句はないが――」由起子はやれやれと言わんばかりに首を振り、浩平を庇護者――まるで母親のような眼差しで見る。「だとすればお前は――自分を曲げて素直になりたいと思うくらい、その広瀬真希って娘を好きだってことになる訳だ」

 由起子の断定に、浩平は喉を詰まらせる。そうではないと抗弁しようとしたが――何故かできなかった。否定するのが面倒臭いと思っただけ、いやそんな天邪鬼な理由ではない。浩平は、ある種の覚悟を決める。それは――確たる肯定の肯きだった。

「でも、そういうのは余り得意じゃない。あいつのいない時にはいくらでも好きだって思える、口に出来ると思うんだ。でも、一晩経つと情けないくらいに決意が薄れていくんだ。そして、何もできないまま一日が終わる。今日もそうだった、そして明日も、これからもそうなりそうで――結局、何も出来ずに全てが終わってしまいそうで――」

 珍しく、浩平から出てくるのは弱音だけだった。由起子は相当参っているなと微笑ましく感じながらも、内心ではこの男に何とかふんぎらせなくてはとも思っていた。勿論、浩平の為ではない。彼の為に焦らされているであろう、女性の為にだ。

 そしてふと。由起子の頭に一つの発想が浮かんだ。この愚図な浩平を、馬鹿だけど一途で我武者羅な浩平へと戻す方法をたった一つだけ。彼女は時計をちらと見て、言った。

「明日か――浩平、明日は来てない。まだ、三時間近くあるじゃないか」

 浩平は最初、彼女が何を言いたいのか分からなかった。

「明日になると怖くなるなら、今から電話をかけて呼び出せば良い。そして、その場で言ってしまえば良いんだ――お前の好きなように。今日出来ることを明日に伸ばす――そんな意気地のないことを考えてるから、何時まで経っても何もできないんだ。やってしまえ」

 浩平の観点からしても、由起子の言い分は無茶苦茶だった。浩平は思わず叫び返す。

「でも、もう夜遅いのに――いきなり呼び出したら迷惑じゃ」

「お前が今更、迷惑なんて考えるガラか? 今まで、他人がどう思っているか考えて自分のペイスを合わせたことがあるのか?」

 また酷い言われようだったが、浩平には否定することができないのもまた事実だった。

「だったら、今回もそれを貫け。確かにお前は馬鹿だ。人に迷惑もかける。だけどな、そういう自分を貫ける部分が時には、他人を救うことがある、慰めることだってある。きっとその娘もな、お前のそういうところが好きになったに違いない。だから、今回もそうするんだ。自分を貫けば良い――第一、好きとも思われてないのなら、そもそも呼び出しに応じる筈がないだろう。悪い言い方をすれば、相手を試せるんだ。悪くはないと思うがな」

 相手を試す――正直、余り好きな言葉でないことは確かだ。しかし、今の浩平には何かたった一つでも拠り所が欲しかった。それが一つあるだけで、いつものようにやれる気がする。いつもの通りというのがどういうものかすら分からないけれど、きっと分からないからこそいつも通りなのだ。要は――何も考えるなということか。

 浩平は立ち上がり、そして受話器をあげる。あげて――電話番号を知らないことに気付く。まるで雪山登山前にピッケルを忘れて立ち竦む登山家のように、間抜けだった。

「――電話番号が分からん」

「阿呆か、お前は。クラスメイトだろ――名簿くらい持ってるんじゃないのか?」

「あ」と思わず間抜けな声をあげ、しかしプリント類などロクに整理もしていない浩平は、一瞬迷う。しかし、次には二階に駆け上がり引き出しの中に押し込んでいたプリントやノート、果てには夏休みの課題まで引っ張り出していた。名簿はクラスが変わって直ぐ渡されるので、浩平はプリントを一番奥までほじくりかえさなけれなならない。しかし、そんなことはどうでも良かった。どうせ、春休みになったら大事なものそうでないものも含めて、ゴミ袋に詰めるつもりだった。散らかったところで未練などない。

 浩平は入学式の資料を見つけると、少し用心深く一枚一枚検分していく。高校二年生になっての心得、そんなもの知ったことか。今年の目標を書いた紙、そんなの守る気などなどさらさらなかった。ただ一枚の紙切れが見つからない。自分と、自分の心を占める女性と。今や、二人を繋ぐたった一つの糸であるというのに。底辺の資料を漁り尽くすと、浩平は書類を自棄になって放り投げた。そして、その上に寝転ぶ。

「くそっ、どうして大事な時に大事なものが見つからないんだっ!」

 浩平は思わず紙を一枚手に取り、くしゃくしゃと握って壁に投げつけた。そうして一枚、一枚、確かめずに不恰好なボールになった紙切れが壁を叩く。こつん、こつんと音がする。もう一枚、そして更にもう一枚壁に投げつけようとして、浩平はようやく堪えた。そして、申し訳なく丸まった紙を薄く延ばし広げていく。

 それは、一枚の名簿だった。何だ名簿かと投げ捨てようとした浩平の手がぴたりと止まる。そして素早く目を通していく。出席番号三番、折原浩平――。

「これだ――あぶね、もう少しで八つ裂きにするところだった」

 冷や汗を流しながら、浩平は真希の電話番号を見つけ指でなぞった。そのまま、受話器を手にとる。今度こそ――迷わない。浩平は無機質なコール音にいらつきながら、彼女が電話に出るのを待った。十回、二十回――コールは続けど反応はない。もう、眠ってしまったのだろうか。心の中を徐々に不安が満たし始めていた。二十一回、二十二回、二十三回、浩平が観念して受話器を置こうとしたその瞬間。

 フックの上がる音がした。そして、そこから聞こえてくる声は確かに――。

――もしもし? 誰?

 その呼びかける声は僅かに掠れているが、確かに広瀬真希のものだった。

 浩平は耳に受話器をあて――そしてそっと囁いた。

 たった一つの声、それは自分にも真希にも強く――響く。

 二人の声が――繋がれた。

−6−

 何処かで――。

 何か、不快な音が響いている。寝ぼけ眼を擦りながら、広瀬真希はその音の発信源を探る為、みみをそばだてた。直ぐに、それが電話の音だと知れ、急いで受話器を取った。寝起きにしては俊敏だったが、その第一声は少しかすれていたかもしれない。

「もしもし? 誰?」

 電話のディスプレイを見ると、既に九時半を少し過ぎている。大方、友人の内の誰かだろうとたかを括っていたので、返ってきたのが男性のものであることに少し驚いた。

――あの、もしもし? その――。

 しかし、何だか的を得ない。勧誘にしては余りに歯切れが悪いし、かといって正体が分かると言えばそうではない。もしかして、間違い電話かなと思っていると。

――折原だけど。

 途端、眠気で冴えなかった瞳が軽くなり、それと引き換えに頭が情けないほど混乱し始めた。何故、彼がいきなり電話なんてかけてくるのだろうか。放課後の勇なき自分を否が応でも思い出し、真希には冷静を装う暇もなかった。

「え、何で――折原が電話してくんの? その、何か話し忘れたことでもあったっけ?」

 こちらとしては、話し忘れたことの方が多かっただけに、浩平にもそれがあるのかと思い、少しだけ期待する。しかし、彼の言葉は真希の期待値の遥か上をいくものだった。

――ああ、幾つか。それで、電話じゃなんだから直接――会えないか。その――かなり大事な話なんじゃないかなと俺的には思ってたりしてその、だな。夜遅くで迷惑だと言うのなら、別に構わないが。あー、構わないぞ。

 会いたいのか、会いたくないのか。

 どうにも分かり難い彼の言葉だったが、要は直接話がしたいから。外に出てきてくれないかと言ってるのは理解できた。それはつまり、とても覚悟のいることを言おうとしている訳だ。真希の胸が不意に高鳴った。そこまでして伝えたいこと――彼女には一つしか思い浮かばなかった。つまり――と考えて、首を横に振る。断定してしまうと、そうでなかった時に辛いと思ったから。でも、浩平の申し出は余りに魅力的だった。それこそ、涙が出るくらいに。

――えっと、黙ってるってことは、やっぱ駄目か?

 浩平の声に、真希は慌てて我に返った。そう決め付けられて、電話を切られるのは一番困る。真希は思わず即答していた。

「ま、まあ別に暇だから――付き合ってあげるわよ」咄嗟のせいで思わず出てしまう憎まれ口を後悔しながらも、会話が途切れないように真希は必死に言葉を続けた。「で、場所は何処? あ――でも、共通の待ち合わせ場所ってないのよね。あるとしたら、いつもさよならするあの場所、そこで良いなら」

 さよならというのは少し不吉な響きがしたけど、他にどう表現すれば分からなかった。しかし、そんな思いは直ぐに吹き飛んだ。浩平の声が受話器の向こうから聞こえてきたからだ。

――分かった。じゃあ、そこだな。多分、寒いから厚着してきた方が良いぞ。

 自分で呼び出しておいて気遣いされても困るのだが、それで浩平の決心を鈍らせてしまうことが怖く。真希は何も反論せずただ「うん、そうする」とだけ、なるべくしおらしく聞こえるように、返した。そして電話が切れる。真希は暫しの放心状態の後、静寂を意識し、反比例するように沸き起こる心音を押さえつけるようにして歩き出した。

 自分の部屋に入り、奥のクロゼットにかかっていたお気に入りのピンクのジャケットを羽織ると、鍵に手袋を掴んで部屋を出た。今直ぐにでも待ち合わせ場所に向かいたかったが、希春が起きた時、一人であることが知れると心配をかけてしまう。そこで電話帳のメモに書置きを残し、部屋のドアにテープで貼り付けておいた。『友人がどうしても来て欲しいというので一時間ほど会ってきます、心配しないで下さい』と、これで問題はないと真希は思った。事実、友達から突然呼び出されることはありがたいことに、珍しくはなかったのだ。

 予想以上の寒さに、真希は直ぐ手袋をはめジャケットをぎゅっと掴んだ。白い息がまるでドラゴンの息のように散り、そして消えていく。エレベータに入っても、息は相変わらず白い。どうも洒落にならないみたいだった。体を温めようと思い、真希は少し走ることにする。しかし、向かう風は肌を切り裂くかのように冷たく、そして容赦がない。

 ただ、空気が冷え酸素も濃縮されているのか、疲れは感じなかった。或いは寒さが他の苦しみを埋めているのか、それとも目的地をひたすら望む自分自身故か。真希は後者だと思うことにした。その方がいざという時、強くなれそうな気がする。いざという時? 真希は自問して首を振った。もう、知らん振りするのはやめにしよう。

 浩平が――想いを打ち明けてくれる時だ。それ以外に、何が心を震わせるだろうか。火照る体は心に鞭を打っているようだった。全てが暖かく心を満たす、充足へと向かっているようで、足は更に速く動く。中途にある公園も、あっさりと通り過ぎた。あと半分、四分の一、目印を見つけては残りの量を修正する。そして目的地に着いた時――。

 ぽん、と。肩にいきなり手を置かれて、真希は思わず飛び上がってしまった。しかし、そんなことをする人間は一人しかいない。真希は振り向こうとした。でも、振り向けなかった。肩に置かれた手の力が、思ったより強かったからだ。真希は一瞬、自分を掴んでいる人物が別人なのではないかと恐怖に駆られ、無意識の内に痛みを訴えていた。

「っ――痛っ!」

「あ、ごめん――」と聞こえてきた声は。しかし、真希の取り越し苦労で。確かに彼女の一番好きな男の人のものだった。振り返り、彼を見る。本当に急いで出てきたのだろうか、寒さに気をつけろと言った癖に、浩平は薄手のセータとジーンズという厳寒の中では明らかに耐えがたいであろう姿だった。思わず真希は眉を寄せる。

「折原、あんた人には注意しといて――馬鹿」

 本当は、馬鹿じゃないことなんて見抜いていた。自分の為に、本気で急いでくれたことも知っている。でも、その為に無茶をするなんて二度として欲しくなかったから。真希は敢えて厳しい口調で言い詰めた。でも、直ぐに無理だと分かった。叱るより馬鹿にするより、浩平を暖めてあげたいと思った。ただ――自分の力だけで。

 真希は、彼にそっと近寄る。もう、迷わなかった。迷う必要なんてなかった。目の前にいる折原浩平という男性を、そっと抱くだけで良かったのだから。真希は心の赴くままにした。両手を首に伸ばし、強く抱きしめる。それだけで、体も心も宙に浮いてしまいそうだった。

「――暖かい?」

 唐突な自分の行動を誤魔化したくて、真希は浩平の耳元でそっと囁いた。彼は一度、大きく体を震わせてから、その手を真希の肩に置いたりジャケットを掴んだりして忙しなく動かしていた。しかし、間もなくその腕は真希の体を包み、強い力で彼女を抱きしめた。触れ合う部分はますます大きく、そして心から生まれ出る正体の分からぬ熱と感情だけが、今や真希を支配していた。そして浩平もそれに支配されていると思った。

 気持ちが通じていると、初めて確信できた。少し痛みを感じるほどの容赦ない抱擁が、浩平の想いの強さを証明しているようだった。ふと、こういう展開を狙って薄着をしてきたのではという穿った考えも浮かんだが、即座に打ち消した。そんな打算があるのなら、自分を抱きしめる時に一瞬でも迷ったりはしなかった筈だ。つまりそれは突発で。計算なんてなくて、ただ純粋に愛しいと思って抱きしめてくれたと理解できた。

 でも、理解なんて多分、この場には必要なくて。真希は、浩平の顔が無性に見たくなった。抱きしめてられているという事実も重要だったが、それが本当に彼だと。ほんの僅かな疑いすらも、晴らしてしまいたかったから。だって――真希は心の中で呟く。

 まるで、夢を見ているみたい――。

 好きな人に、同じ気持ちを持って抱きしめられる。幸せ過ぎて――涙が出そうなくらいそれは幸せで、ドラマのようにでき過ぎているような気がして。これが夢でないことを、どうしても知りたかった。

 そんな真希の気持ちに気付いたのかは分からない。でも、浩平は真希に応えるかのようなタイミングで腕の力を緩め、距離を僅かに置くと、真っ直ぐ見つめてきた。胸が救いようのないほど痛んで。相手を想うその痛みが故に、これが夢でないことを確信できた。現実に、目の前の男性に愛されていることを信じることができた。

 痛いということは苦痛と言われるけれど。時としてそれは、幸せのとんでもない起爆剤になるのかもしれない。ますます当てにならなくなる頭の中で辛うじて浮かんだ思索も、ゆっくりと近づいてくる彼の顔に情けなくかき消され――。

 一瞬だけ触れて、そっと離れていった感触。二度瞬きをし、照れる浩平の顔を見ても真希には何をされたのか分からなかった。口元が微かに温かく、しかし圧倒的な寒気の前に直ぐかき消されてしまう。目をぱちくりさせ、口元を恥ずかしげに押さえる浩平を見て、初めて真希にも成された行為が理解できた。目の前が真っ暗になり、反比例するかのように頬が赤くなる。そしてようやく、感触が戻ってきた。

 何という間の悪さだろう。まさか、こんな大切なシーンを一切、記憶できなかったなんて。真希はそう悟ると、ショックで倒れそうになった。そしてようやくのことで、浩平に支えられる。当の彼は、突然のことで明らかにあたふたしている。

「おい、どうしたんだ一体。体の調子か何か悪いのか? もしかして、無理させたか?」

 浩平の気遣いは嬉しかったが、全くの的外れだった。溜息すら出る。彼がさっきのことをまるで重要視していないことを強く指し示しているようで、悔しい。そして、その感情が皮肉にも真希の気力を取り戻させてくれた。でも体と心は相変わらず離れていて。なりふりかまわず、彼女は叫んだ。涙が出ることすら、厭わなかった。ただ怒りが滲み、全身が震えた。

「な、何てことするのよ、いきなり――いきなり過ぎて、分かんなかったじゃない。とても大事なことなのに。一瞬過ぎて、理解できなかったじゃない」

 本当なら、浩平の想いを強く感じられた筈なのに。幸せで更に胸を満たせた筈なのに。今、真希の中にあるのは子供っぽい後悔だけで。

「こんなに寒いから、もう折原の感触も分からない――もう、冷たくなっちゃった。触っても、唇はもう乾いちゃってる」

 真希は、そっと唇を指でなぞった。もう、大気の温度と差はなく浩平の温かみを教えてくれるものなどないようにすら感じる。

「初めてだったのに。好きな人と、その――できたのに」

 言ってみて、愚かなほど恥ずかしい言葉だと分かり。真希は再び顔を赤らめた。ここから走って逃げたいと思うくらいに酷く心が乱れ、駆け出してしまおうという決心が即座に心の大半を占めていく。でも、全てを占める前に浩平が――もう一度、真希の体を抱きしめた。

「悪い――本気で、悪かった」耳元で囁かれる浩平の声は、真希にとって何よりも甘く感じられた。とても優しい声だ。「その、広瀬の顔を見てたら頭がぼうっとして。胸の中が真っ白になって、気づいたら――その、我慢できなくて。その――」

 そこまで話してから、浩平は言葉を切った。何か重大な決意でもするかのように、真希の体を少しだけ強く抱きしめてから、確信に満ちた声で彼は言った。真希にとって、そして浩平自身にとっても一番大事なことを。

「お前のことが好きなんだ。今なら分かる、凄く分かるんだ。もう手放したくないくらい、閉じ込めてしまいたいくらい、好きで――」

 それからまた、真希のことを強く抱きしめてくる。それでも、体を巡る得も言えぬ感情は増していくばかりだった。体がぞくぞくした。寒気じゃなく、嬉しさが体の中を満たして震えていく。真希は思わず囁き返していた。

「わたしも折原のことが好き――好きなの。貴方と一緒にいられるならどんなことだってする。閉じこめられたって構わない。折原と一緒にいたいの、愛してるの」

 愛してる――その言葉が心を決定的に支配するのに時間はかからなかった。今まで考えていたこと、悩んでいたこと全てがこの一言に含まれているかのような錯覚すら覚える。そして、それはきっと嘘ではないのだろう。

「俺も――お前のことを、愛してる。ずっと考えて考えて、でもそこにしか辿り着かなかったんだ。広瀬が俺のこと、受け入れてくれないんじゃないかって、それだけで涙が出る程、怖かった。臆病だって言われるかもしれないけど、怖かったんだ。こんなに怖いと思ったのは、初めてだった」

 また、別の感情が真希の中に溢れていく。それは安堵と喜びが入り混じっていて――真希には浩平が自分と同じくらい思い悩んでくれていたことが何よりも嬉しかった。自分が思っているほど、浩平は自分のことを思ってくれていないのだと考えていたからだ。でも、それは取り除かれた。途端、自分でも驚くほどの勇気がわいてくる。

 真希は埋めていた顔を上げ、浩平を望む。強く抱きしめられているせいか、距離が赤面しそうなほど近かった。でも、もう躊躇わない。真希は浩平の首に両手を絡めそっと抱き寄せる。お互いの距離はもう、殆どない。自分の大胆さに少し驚きながら、彼女は言葉を紡いだ。

「折原、一つお願いがあるんだけど、良い?」

浩平の視線に思考が混乱することを何とか留めながら。真希は彼の仕草を待った。

「ああ」と浩平は戸惑いながら答えた。彼を戸惑わせていることも、真希の勇気を強く保ってくれた。

「さっきの――なかったことにして。で、今度はもっとゆっくり、もっと強く――こんな寒い中でも折原の感触、しっかり感じられるように。ねえ、駄目?」

 そして、真希は浩平の――少し赤くなった顔を見た。彼に理解させた上で、真希はゆっくりと。一センチずつお互いの距離を埋めるように顔を近づけていく。目を徐々に細める。狭まる視界の中で浩平もまた、目を細めながら距離を狭めてくるのが分かる。じれったい、そう思うほどスロウ・ペースで。しかし、故にお互いの想いが強く感じられるようで。

 上唇同士が微かに触れ合った時、その柔らかさに動転して僅かに離れてはみたけれど。心の中では互いの心を求め合っていて。そのことを象徴するように、そっと唇を重ねた。最初は触れるだけで、徐々に深く強く。

 今度は、離れても何も失われなかった。

 それどころか、心にも体にも暖かいものが一杯、満ちていくようだった。浩平はもう少し直接的にその想いを表したかったのか、頬や額に何度もキスをして。それから、強引に真希の体を抱き寄せる。ただ静かに、謀ったように人通りすらなくて。微かに瞬く蛍光灯の真下で、夜の中を不可視の粒子が飛び去っていくような錯覚すらおぼえる。

 全てを拒むような、厳寒の中。

 全てを覆い隠すような、夜の中。

 そこには確かに愛と幸せとがあった。

 そう。

 確かにそれは存在していた。

 でも――。

 たった一つ、たった一つだけ。

 二人はとても大切なことを忘れている。

 扉は開き――確かにそれは心地良いものだった。

 お互いを愛しく思え――。

 でも、解き放たれた心は――。

 二人が本当に望むものに向けてただひたすら迷走を始めることになる。

 誰が言っていただろうか?

 この世で最も怖いものは何ですかと?

 浩平と真希はまもなく、それを知ることになる。

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