−7−

 次の日の朝。折原浩平は誰の手も借りず自然と目を覚ました。それだけで彼にとっては珍しいことだが、体はだるくて大きく二つ伸びをした。時計を見ると、六時五十分。まだ目覚ましすら鳴らない時間だが、浩平は身を起こす。流石に一月の陽気は肌寒く、いつものように暖房をつけてから制服に着替え始めた。

 自分でも不思議なほど、体が動いた。昨日は詰問と興奮とで殆ど眠れなかったというのに、目はとても冴えている。何故だろうかと、首を傾げてみるとその斜めな視線に男の部屋に不似合いな一着のジャケットがかけられていた。ピンクの、女ものの可愛いそれは。それを貸してくれた少女の優しさと暖かさをとてもよく表していた。

 そう、と呟いて浩平は思い出す。これを返す為に、今日はいつもより三十分早い時間に待ち合わせをしていた。但し、それは慌てず臆せず自宅を飛び出すことのできる時間から更に三十分という意味だ。彼の尺度からすれば、四十五分早くというのが正確だ。しかし、浩平はそんなことをすっかり忘れていた。一つは彼がとんでもなく忘れ易い人間だということもあるし、待ち合わせている相手の所為でもあったかもしれない。

 着替えを終えると、浩平は階下のダイニングに向かった。そこは昨日、叔母の小坂由起子に詰問された場所だ。帰ってくると、無責任にも彼女はソファで眠っていたのだ。あれだけ人を煽っておいて、酒の勢い一辺倒で吐き出された言葉だったのかと思うと、僅かに怒りがわいてきた。しかし、由起子の言葉がなければ前に進めなかったのも確かだった。その感謝の意も込めて、浩平は彼女を寝室まで運んでいった。久しぶりに担いだ叔母は、威勢の良さと反比例するように痩せていて。驚くほど簡単に担げたものだ。妙なもので、それが浩平の微かな怒りも打ち消していった。

 見ると、テーブルの上はすっかり片付いており、代わりに一枚の紙切れがおいてあった。そこには流暢な文字で、こう書かれていた。

『浩平へ、首尾が上々なのは報告がないこととお前の部屋にかけてある女もののジャケットから聞くまでもないことだろう。しかし、詳しい顛末くらいは暇な時に聞かせるように。それと、寝室まで運んでくれたことについては感謝する。お前も何時の間にか、力が付いたな。これからはその力を、好きな奴にも使ってやること。以上』

 そして、右下に小坂由起子という署名。浩平は叔母にこれほど素直に礼を受けたことがないので、気恥ずかしくなって頭を思わず掻いた。手紙を丁寧に二枚折りにすると、テーブルの隅に移し、用意されていた朝食をほおばっていく。

 それから歯を磨き、用を足すと丁度七時半だった。余裕を持って三十分前と言える時間だ。浩平は鞄を手に持ち、ジャケットをデパート用の紙袋へ丁寧に折り畳んで入れた。そして表に出ると、浩平は大きく伸びをする。登校前にここまで余裕が持てるなんて幾日ぶりだろうか。数えようとしてみたが、冬休みを挟んでいるので正確な日付は浩平の頭より既に失われていた。

 吐き出される息は昨夜と同じで細かい水の粒に満ちているというのに、温かみが感じられるのは何故だろうか。微かに辺りを覆う靄の中、ようやく北東の空から姿を現した太陽が世界を明るく染めていく。どうやらそれは、輝きが弱くとも白く輝く太陽のお陰のようであった。

 暫く歩くと当然の如く、待ち合わせ場所に辿り着く。かつて何度も二人を隔て、そして昨夜、結びつけた場所。運命の分岐路と言っても良い場所。浩平は足を止めて、辺りを見回す。どうやら彼女、広瀬真希はまだ来ていないようだった。朝練の生徒が通るには遅すぎ、通常登校の生徒が通るにはしかし、早すぎる。よって、同じ高校の生徒は殆ど見当たらない。浩平は見知らぬ家の塀にもたれかかり、彼女を待った。少し待てば来るだろうと思っていた。

 しかし、浩平の予測と裏腹に待ち合わせから十分しても真希の姿は見えなかった。流石に浩平は不安になった。もしかして、途中で事故にでもあったのだろうか。そうなるといても立ってもいられず、浩平は真希の住むマンションに向かう道を走り出した。

 昨夜、初めて一緒に通った裏道や道路を抜け、やがて小さな公園まで走った所で浩平は急に不安となり足を止めた。本当に事故なのだろうか――そんな疑問を抱いてしまったからだ。もしかして、避けられてるのではないか。

 いや、と浩平は首を振る。彼は、昨夜の真希の温かさを覚えていた。昨日、想いを確かめ合った後で。浩平は真希を家まで送っていった。いつもは気を遣って断る彼女もその時だけは別で。腕を絡ませてその温度が少しでも伝わるようにと、寄り添ってくれたのだ。あの暖かさと、ゆっくり預けられた頭の感触は、確かに真希の気持ちだった。

 そして、この公園の前で。彼女はそっと話してくれた。その秘められた記憶の一端を。

 

「わたしね、苦しい時は時々、ここに来ていたの」

 苦しい時? と尋ねると、真希はふっと目を逸らしたが、やがて浩平の体に縋り付いてきた。まるで漂流者の掴む一切れの板のように。沈んでしまわないよう、真希は浩平を抱きしめてきた。浩平は迷うことなく背中を支え、頭を撫でた。そしてクリスマス・イヴにカラオケボックスで抱きしめた時も、彼女に対する同じ愛しさが募っていったことを思い出していた。その頃からもう、自分の気持ちは恋に傾いていたのだと、浩平はその時、はっきりと自覚した。

「かあさんが死んだ時、にいさんが死んだ時、ねえさんがわたしに酷いことをした時、いつもこの公園でブランコを漕いでた。とてもゆっくり、ゆっくりとだけど。苦しくて堪らない時でも、ブランコに乗ってる時だけはそれを忘れられるような気がしたから。揺れる心を打ち消してしまえると思ったから。けど――だけど――」

 それは以前、クリスマス・イヴの時に語った真希の家族の話と繋がっているのだろう。少しの間、沈黙だけが流れる冬の公園を望み、浩平は彼女が何かを話してくれるのを待った。そして真希は口を開く。浩平に大きな決断を迫る、重い言葉を伴って。

「わたし、幸せになって良いの? 大好きな家族を苦しめたり、死に追いやったりして。そんなわたしに、本当に幸せになる権利なんてあるの? 折原の愛を受け取る権利なんかあるのかな。わたしさ、折原のこと大好きだって今はこんなに強く想ってる。そして折原はわたしのことを好きと言ってくれた。それは凄く嬉しいけどさ、嬉しいんだけどさ――」

「それじゃ――駄目なのか」

 真希は僅かに躊躇ったが、ほぼ即断する形で肯いた。浩平の胸に顔を埋める真希の苦しげな震えは不憫で、愛しくて。浩平は何があっても真希のことを愛したいと願う。

 けど、真希の言いたいこともよく分かる。彼女の言葉の幾つかは、その罪を誇張していった大げさなものであったり、彼女自身が悔やむ必要のないものだった。しかし、ただ一つ。真希を庇って死んでいったという存在。彼女が兄と呼んでいる存在――彼の存在だけは、浩平も無視することができなかった。そして、それこそが真希の心を閉じこめている檻――囚われの檻なのだ。

 浩平は思う。自分はその檻から彼女を解き放つ、鍵であることができるのか。幸せでありたい、それは一見すると簡単そうに見える。愛し合いたい、それはお互いが愛していればできるように思える。でも、現実はこれだ。幾つもの壁と、情けない自分の心と弱さ。それすら超えて結ばれるものを、浩平は目の前の愛しい女性とともに築けるのか自問する。

 考えてみたけど、浩平には正しい答えなんて導き出せなかった。無神経な言葉が幾つか浮かんできただけだ。それでも、浩平は口に出さなければならなかった。

「分からない。俺は広瀬のことを全て知っている訳じゃないから、知ったように口を聞くなんてできない。でも、確かなことがある。お前は俺が幸せにしたいと願う、たった一人の大切なやつなんだ。俺は、広瀬の苦しむところを見たくない。お前が例え過去にどんなものを背負っていようと、これから何をしでかそうが俺だけはお前の味方で。ずっとずっと愛したい。例え世界全員を敵に回したとしても、俺は広瀬の側にいる。前にも言ったけど、辛いことがあったら抱きしめてやるから――」

 浩平はそう一気に言ってから。真希の頭を優しく撫でた。彼女の苦しみが少しでも触れ合う部分から伝染すれば良いのに。苦しみを引き受けてやれれば良いのにと思いながらも、それができない自分を不甲斐なく思う。

 その言葉がどう真希に伝わったか、浩平自身には分からない。しかし、彼女は彼の胸の中でいつしか涙を流していた。流暢な言葉を塞ぐかのような感情の波は、しかし真希の声を押し留めなかった。訥々と、それは彼女の口から出力されていく。

「わたし、なんて幸せなんだろ――」

 それは肯定の意味を強く含んでいた。

「けど――なんて酷い人間なんだろ――」

 そして次の言葉は否定を含んでいて――。

「折原」

 涙に滲んでいく言葉。

 何度もしゃくりあげ、そして突然。真希の心の中で何かが爆発したようだった。

「――大好きだよぉ。折原、折原ぁ――大好きだからね。わたしも折原に負けないくらい、折原のこと好きだから。世界中で誰も貴方のことを味方だと思えなくても。わたしだけは折原の味方だから。だから、見捨てないでね。わたしのこと絶対、見捨てないでね」

 何故、見捨てられるという恐怖を抱いているのかは分からない。だが事実、真希の心には自分が何時か見捨てられるのではという強迫観念のようなものが満ちていた。それが何かは分からない。しかし、これだけは分かった。彼女の心は愛情という要因を通じて苦しいほど自分に流れ込んでいる。全てを求める目、なくならないものを縋る瞳。かつて浩平が真希の中に認め、怖いと思ったものだ。

 しかし、今は受け止めなければならないと思う。その想いさえも受け入れて、浩平は真希のことを好きになろうと願ったのだから。

「ああ、俺が想える限り、俺は広瀬のことを想っている。見捨てない――見捨てないさ」

 浩平の言葉に、真希は涙を抑えきれなくなったようだった。その証拠に、セータを通じて涙らしい液体が微かに滲むのが感触として分かったからだ。

 過剰によりかかる真希の様子に、浩平は直感的な理解を感じた。勿論、真希は自分のことを愛してくれているとは信じている。しかし、それとは関係ない場所において、無意識のレヴェルで発露している意識がある。

 それは依存だ。拠り所の極めて拙い彼女にとって、浩平は最早、頼れるべき殆ど唯一の人物となりつつあった。真希は苦しいことに耐えてきた人間だった。それどころか積極的に人の先頭へ立ち――別の言い方をすれば皆を包んできたのかもしれない。けど、浩平は違った。彼は真希を包み込んだ。だからこそ思う存分、甘えられているのだ。

 少し複雑な気分だった。勿論、好きな女性に甘えられること自体については悪い気などしない。それだけ深く想われているということなのだから。しかし、何処か間違っている気がした。何かが歪んでいる気がした。少し一方的過ぎる気がする。少なくとも、浩平は彼女にできたことなど微々たるものだと思っていた。

 だから――正直言って不安になる。浩平はそれを覆い隠すように、真希をぎゅうっと抱きしめた。恐怖に負けないように。愛を恐怖だと覚えてしまった自分を隠す為に。

「――ごめん、また支えて貰ったよね」

 絞り出されるように生まれる真希の声は酷く苦しげで、しかしそれでも浩平への渇望を抑えきれない、そんな瞳だった。彼女はより強く浩平と腕を絡め、歩き出す。浩平も彼女を肯定するように、ゆっくりと進む。気が違いそうなほど暗く、二人の吐く息だけが白く辺りを照らしているかのようだった。

 そして十分ほど歩いただろうか。あるマンションの前で、真希は立ち止まった。

「ここに――わたしの家があるの。だから、今日はこれでさよならよ」

 真希のさよならは、まるで今生の別れかのように切ない響きを帯びていた。だから、浩平はわざと明るく言い返す。

「そうだな。今日はさよなら、そしてまた明日だ――そんな悲しい顔するなよ。いつも約束しただろ、また明日って。俺が約束を破ったか?」

「ううん」首を横に振りながら、真希が直ぐに否定する。「いつも来てくれた。学校が休みの時でさえ、わたしの元にちゃんと来てくれたわ」

「だろ。だから、また明日絶対会える。俺も広瀬と離れるのは寂しいよ。本当ならもう少し話してたいけど、一遍に全部話したら楽しくなくなるだろ。俺は明日も明後日も、広瀬が望む限り、お前の側にいるんだからさ。こんな寒い雪の中でなくても、今度はもっと暖かい場所で会って、話すれば良い。それでも――嫌か?」

 少し卑怯な尋ね方かもしれない。しかし浩平は、他に彼女を落ち着かせる方法を知らなかった。そして今回は、それに成功したようだった。真希はゆっくり肯いた後、両手を浩平の首に回した。

「ううん、折原がそう言ってくれるなら、わたしはそれだけで良い。明日を約束してくれるだけで、ただそれだけで満足なのよ。また明日って。分かってる、わたしも。幾ら好きな人でも、それ以上に贅沢なものを相手に望んじゃ駄目なのよね。折原が余りに優しいから、つい弱いこと言って甘えて――」

 そうして浮かべた真希の笑顔は。まだ少し寂しげで、でもいつものように少し挑発めいていて。何より地に着いた、健康的な明るさがあった。

「でも、わたしも甘えない。弱音は吐くかもしれないけど、卑怯なことも一杯言うかもしれないけど。折原をよりかかる対象じゃなくて、ただ――折原を、好きな女の子でいたいから。それって――変かな」

「いや、全然変じゃない。俺は――嬉しいぞ」

 彼女が素直だったから。浩平もこの時だけは捻くれずに嬉しいと口にすることができた。そして、真希の手を引寄せくちづけを交わす。彼女の温かみを感じ、しかし不意の旋風に全身が震えてしまった。顔を離し、見かねた真希はジャケットを脱ぎ、浩平に手渡した。

「折原、これ着ていって。わたしはもう、家に戻るから大丈夫だけどさ。折原は寒いでしょ。だから貸してあげる。でね、明日はそれを受け取る為に待ち合わせるの。こういうのってさ、一石二鳥だと思わない?」

 少し打算的に聞こえる言葉だが、よく考えればそれが浩平のことを気遣ったり気にしたりしている為だと直ぐに気付くだろう。勿論、浩平もそれに気付いたからこそジャケットを受け取り、素早くそれを羽織った。そして、真希の頭をあやすようにゆっくりと撫でる。

「そうだな。よしよし偉いぞ」

 少しからかってやろうと思って浩平は頭を撫でたのだが、真希は気持ちよさそうに目を細めている。明らかに浩平のことを信頼しきった表情だった。浩平は、自分こそが打算的ではないかと思い、途端に恥ずかしさがわいてくる。しかし、真希が陶酔状況であることも幸いし、辛うじて隠し切ることができた。

 その代わり頬をそっと撫で、浩平は素早く真希の頬にキスをした。

「じゃあ、このジャケット借りてくな。それと――今日は俺の我侭に付き合ってくれて、ありがとな。俺、馬鹿なことをしたからな」

「そうね、馬鹿なことしてるわよ折原って」真希は口元に手をあて、僅かにくすりと笑ってみせた。「でもね、覚えておいて。わたしはそういう馬鹿な折原が大好きなの。いつでもわたしの為に馬鹿みたいに真剣になってくれる折原のことを愛してるの。それを、忘れないで」

 真希の言葉は、どうも先程までのどんな言葉よりも熱烈で。浩平はそっと肯くことしかできなかった。しかし、それでは自分らしくないと思い直し。帰り際に精一杯手を振り、そして今までずっと交わしてきたお決まりの言葉を叫んだ。

「じゃあ、また明日なーっ!」

「うん、分かった。折原、ばいばーいっ!」

 浩平の声に真希も大声で答えてくれて。それでようやく、浩平は全て満ち足りた気持ちで帰路に着くことができた。

 家に戻り、ジャケットを丁寧にハンガにかけてから。浩平は早速一風呂浴びて、さっさと布団に潜り込んだ。しかし、真希と両想いになれたことによる興奮で煩悶とし、上手く寝付けないでいたことは、言うまでもなかった。

 

 また明日。昨夜、浩平は約束したのだ。そして真希は、そのことを心から信じている。なのに、当の彼女がやって来ない。浩平が慌てるのも当然と言えた。そして公園の前で立ち止まり、ふと中を覗く。昨日の真希の話を思い出したからだ。申し訳程度の空き地に追いやられるようにして並ぶブランコや滑り台やベンチ。しかし、そのどこにも真希の姿はなかった。どうやら悲しくて泣いている訳ではないらしい。

 思わず安堵の息を吐くが、しかし事態は何も好転していないのだ。引き続き、浩平は真希の住むマンションへと駆け出す。幸いにも浩平は、切羽詰った時に実力を精一杯出すことができた。朝寝坊の習慣がこんなところで役立つとはなどと不埒なことを考えつつ、もうすぐで目的地に辿り着こうという時だった。

 不揃いな髪を揺らし、鞄片手に駆け出してくる真希の姿をはっきりと目撃することができた。胸のリボンはまだ結んでいない。どうやら走りながら結ぶつもりだったようだ。真希は油断しきっていた。待ち合わせ場所まではまだあるから、そこまでで身だしなみを整えれば十分だと思っていたのだろう。しかし、浩平がそこまで落ち着いた性格ではないということを、彼女は慌てていて失念していた。

 だからこそ、マンションの入り口で顔を合わせた時のバツの悪そうな表情は、浩平にとって余りに唐突だった。そして、彼女が遅れて出てきた理由を知った。何のことはない、ただの朝寝坊だった――何というシンプルな答えだろうか。浩平はそう思い――突然、可笑しくなった。自分の深刻ぶりと、真希の慌てようが起き立ちの頭脳へ二重に刷り込まれれば、浩平に勝ち目はなかった。思わず、腹を抱えて笑い出していた。

「な、なによっ――笑うことはないでしょ。そりゃ、時間に遅れてきたのは悪かったわよ。そのことなら何度でも謝るけど、だからって――」

 浩平は自分のことを笑っていたのだが、真希はそうと受け取らなかったようだ。その慌て顔が一変、涙を流さんばかりに歪んでいる。浩平は慌てて口を抑えた。

「だあっ、違うって。俺は別に広瀬のことを笑いものにしてる訳じゃ――」

「じゃあ、どうして笑うのよっ!」

 何とか取り繕ってしまいたかったが、今の真希にはまるで逆効果だ。となると恥ずかしいながら、取るべき方法は一つしかない。

「えっとだな。実はもっと深刻な想像をしてた。本当は昨夜のやり取りで俺のこと、嫌になったんじゃないかとか、事故にあって苦しんでるんじゃないかとか、不意に悲しくなって一人で泣いてるんじゃないかとか、そんなことばかり考えながら走ってると、広瀬は凄く元気そうで。しかもただ寝坊しただけじゃないか。安心して、そうしたら笑いが止まらなくて。元気で良かったなって、思ったんだよ」

 そして、予告もせずに彼女の体をぎゅーっと抱きしめる。要は絡め手を使わず直球勝負ということだ。そして浩平の今までの経験からして、直接的に攻めた方が勝てるという予測も立った。案の定、抱きしめられたままで暫く抵抗していた真希だったが、直ぐに落ち着いて浩平に身を委ねてくる。

「そう、だったんだ。わたし――心配されてたんだ」

「ああ、かなり心配してたんだぞ」

 別にあてこすろうという気持ちはなかった。しかし、無意識の内に棘が入り込んでいたのかもしれない。彼女の口から最初にでてきたのは、つたない謝罪の言葉だった。

「ごめん、ちゃんと早く起きれば良かったよね。昨日、折原に告白されて――嬉しくて、布団を被っても全然眠れなくて。馬鹿みたい、子供みたい。それで心配かけてるんだから、本当に子供よね。もう、どうしようもないくらい――」

 胸の中に顔を埋めているから、真希がどういう表情をしているか分からない。しかし、浩平の服の襟を、彼女はしっかり掴んでいる。教師に怒られるのを怖がっている、生徒のようだった。しかし、浩平には叱る気などなかった。要は、真希の無事さえ確認できれば良かったのだから。

「良いって良いって、俺みたいな遅刻魔に謝ってもしょうがないぞ。それより、このジャケットはどうする? それに、顔も洗ってきてくれると助かるんだけどな。このままじゃ、俺が一方的に泣かせたみたいで――その、ちょっとだけ困る」

 言って、浩平は真希の頭を何度も撫でる。まるで、従順な犬を躾けているようでばつの悪い思いがわいてきたが、敢えて黙殺し――彼は唐突に思われない程度に、距離を離した。不安な光をたたえて浩平を見守る真希の瞳は涙で少し赤く腫れ、顔には幾筋もの跡ができていた。これで学校になど行けば、真希の友人達にタコ殴りにされかねない。特に、あの恭崎とかいう男勝りの女性に出くわしたならば。毒を盛られてもおかしくない。それだけは勘弁して欲しかった。

「そ、そうね――流石にこれじゃ、まずいかあ。分かった、それじゃ一走りして洗ってくるね。それとジャケット届けてくれてありがと。それから――ああもうっ、兎に角、色々ありがと。折原には凄く、感謝してるんだからね、本当の――本当なんだから」

 それはまるで、浩平が真希の言葉を信じていないかのような口ぶりだった。少し癪に感じたが、素早くマンション内に引き返していく彼女の姿を見て、直ぐに嫌悪は晴れた。変わりに少しばかりの苦笑と、それに数倍する虚脱感とがわいてくる。どうやら、思ったよりも動転していたらしい。取りあえずはそのことを彼女に悟らせない方が良いと、捻くれたことを考えながら、何度も深呼吸する。

 上を見上げると丁度、真希がマンションの一室へと駆け込んでいくのが見えた。その姿を見て浩平は――懸念が取り越し苦労であったことに心底ほっとし、同時に苦笑も虚脱感も隠さないことに決めた。真希の慌てる姿や怒りや喜びや。自分に向けられる全ての感情を、少しでも身に受けたいと願ったからだ。

 何よりも広瀬真希という女性の全てを感じ取りたい。

 今やそれこそが、浩平の最たる願いだった。

 勿論、照れ屋の彼がそんなことを表面化させることはないのだが。

−8−

 エレヴェータの浮上速度すらじれったく思った。階段を走ってのぼれば、もっと時間がかかると分かっていながらだ。一層のこと、背中に羽根でも生えていればそれを使って一気に飛んでいけたのに。そして彼と共に風を切り、空を舞う。勿論、学校には余裕で到着――。

 そんなことを考えていたから、もう少しでエレヴェータのドアに挟まれるところだった。誰も見ていないことを幸いに気づかぬ振りをして、広瀬真希は鍵を開けて自宅に戻ってから、鞄をなるべく丁寧においた。それからじゃけっとを広げ、クロゼットにしまうと、洗面所に行き必死で顔を洗う。これが朝で本当に良かったと真希は思った。洗顔していても、誰も不自然に思わないからだ。

 顔をいつもより乱暴に拭うと、帰ってきた時と同じように飛び出した。鍵をかけるのを忘れ慌てて施錠すると、運良く残っていたエレヴェータに飛び乗った。何処の階に止まることもなく、素直に一階に降りられたのは更に幸運だった。今の時間、登校や通勤の男女で一つしかないエレヴェータは非常にごった返すからだ。

 幸運を噛み締めながら、真希は黙って待ってくれている折原浩平の隣で足を止めた。彼は優しげな瞳と、しょうがないなと言わんばかりの苦笑を浮かべていてどちらを受け止めて良いか迷ってしまう。しかし、生来の強気は後者に対する攻撃を自然と出力していた。

「もう、折原っ。何、笑ってるのよ」

「いや、悪い悪い。でも、必死だなあと思って。まだここから歩いていっても十分に間に合うんだがな」

 え? と間の抜けた声をあげ、真希は腕時計を見た。八時丁度――予鈴が鳴るまであと三十分ある。真希の家から学校までだと、十分にお釣りの来る時間だ。先ず計算してみて、そして急ぐ必要のない時に急いでいた自分に気付き、それがいかに恥ずかしいことか理解するのには少し時間がかかった。しかし、その時間こそがエッセンスと言わんばかりに顔は嫌になるほど火照り、冷静さなど失ってしまっていた。

「そ、それを早く言ってよっ!」

「言う暇もなく駆け出していったんだろうが。それに、実を言えば焦って走っていく広瀬の姿はかなり面白かったからな。もっとぶっちゃけて言えば――可愛かった」

 可愛い――可愛いだなんて。他にも色々なことを言われたような気がする。面白いだなんて、確かにちょっと酷いけどああ――帳消しにしたい。彼を自分の元に引っ張り込んでしまいたい。そんな欲求が、彼女の中に浮かんでくる。

だから、真希は浩平の手をそっと握る。彼は驚いた顔をし、それから少し顔を赤くしたが、抗うことなく付き合ってくれた。勿論「例の通学路に出るところまでだからな」と、付け加えることも忘れなかったのだが。

 途端に言葉を失い、しかし二人は手を繋いだまま歩き出す。ただお互いの一部から交換される暖かさと想いを思いながら歩く。寄りかかることなく、ただ一方的に気持ちを押し付ける訳でもなく。真希の心の一部が、浩平の心と重なるのを感じる。同じくらい、浩平の心の一部が真希の心と重なるのもまた、同じ機構で感じ取っていた。判別不能な、愛する心という機構で。

 明らかに脈拍が高まり、頭にある筈の心を差し置いて胸が無遠慮に高まってみたりする。とても不思議だ。頭で考えるのに、痛むのは胸だなんて。或いはいや増す血流と直結する問題なのかもしれない。しかし、そうだとしても。それは愛情の為に生まれる痛みだと思いたかった。身体現象ではなく、想いから生まれる痛み。それこそが尊いのだから。

 真希は更に強く、浩平の手を握る。少し汗ばんだ手に指をもっと絡めて、その先端からでさえ、僅かな鼓動の蠢きを感じる。心が波打っていることの喜びに耐え切れず、真希は浩平のことを抱きしめた。少し無骨で、しかし真希のことを包んでくれる浩平の体は、彼女の体をそっと支えた。そして、昨夜や今朝と同じように頭を撫でる。真希は浩平の大きな手が、自分の頭をそっと撫でてくれるこの感触が好きだった。子供をあやすような仕草で最初は気に入らなかったが、今ではキスと同じくらい、浩平を感じられた。

 そっと離れ、また手を繋いで歩き、耐え切れずに抱きしめあって。時には愛撫だったり、時には淡い口づけだったり。とても不器用な二人が、まるで暗闇の中で怯える子供のようなおっかなびっくりさで、お互いの想いを確かめ合う。しかし、二人は何時の間にか決定的な間違いを冒していた。通学中だということを忘れていたのだ。

 浩平と真希の家の丁度、中間分岐点に差し掛かり、約束どおりしかし名残惜しげに手を解いた二人の目の前に、生徒は殆どいなかった。真希が腕時計を見ると、顔が紅から蒼へまるでリトマス試験紙のように変わっていった。

「ちょ、ちょっとこの時間はまずくない? っていうか折原っ! なんであんたはそんなに落ち着いてるのよっ!」

「いや、この時間帯なら走れば間に合うだろうし」真希と違って場慣れしている浩平は彼女の手を取ると、唐突に駆け始めた。「何やってるんだ、早くしないと間に合わないぞ」

「わ、分かってる。急ぐからさ、そんなに引っ張らないでよ。もう、何でこんなに遅れるのよ。余裕を持って家を出た筈なのに」

 既に少し息を切らしている真希に向かい、浩平は事実という名のからかいの言葉を投げる。

「そりゃ、広瀬が何度も何度も甘えてきたからじゃないか」

「でも、折原だって満更じゃなかったじゃない――」

 浩平にも責任があるのだと言おうとしたが、どうにも喉が詰まって喋れないようだった。彼としてはもう一段階くらいからかってもみたいところだったが、流石に慣れている浩平でも喋りながら赤面するほどに女性をからかうという高等技は使えなかった。

「とにかく、走らないと遅刻だぞ」

「う、うん――」

 浩平は焦りながらも、繋いだ手を離そうとはしなかった。苦しいけど、それは何より嬉しい事実であり、辛うじて気力を使い果たさず、遅刻もせずに高校の門をくぐることができた。予鈴二分前、これで平穏無事とたかを括っていた真希の前に忽然と、一人の女性が近づいてくる。

「ふふ、見たぞ見たぞ。仲良く手を繋いで、いつの間にそういうなかになった?」

 浩平と真希が声の主を探り振り向くと、二者二様の顔のしかめ方をした。浩平は、変な奴に目撃されたなあという認識の為に、真希は一番厄介な奴に見つかったなあという認識の為に、それぞれが走るのをやめ驚きを表していた。

 その女性、恭崎鈴華は身内のスキャンダルだけは決して見逃さない女性だった。高校生にして一七〇を超える身長と不敵な笑みで、数々の敵を葬ってきたとの噂もする。どういう葬り方をしたか、真希は知りたくもなかった。兎に角、彼女に知れ渡ったからにはそのコミュニティには確実に伝播する。それだけは、確実だった。だからこそ、厄介な奴なのだ。

「別に誰が誰の手を繋いでいようが問題ないだろ」

 浩平が強く突っぱねたのを聞いて、真希は思わず顔をしかめた。そういう挑発的な態度が、鈴華には一番まずいということを知っていたからだ。案の定、彼女は意地悪そうに微笑み、浩平に詰め寄った。その迫力に、彼は思わず後ずさる。その本性を知らずとも、邪なるその一端は知りえたはずだ。

「良いのかな、私は善意の目撃者だぞ。不遜な口を聞いたりなんかしてると、翌日には学校全体の噂になってるかもしれない」

 そこまで言われてようやく、浩平も鈴華の狡猾さに気付いたらしい。しかも最悪の形でそれが発露している。真希は思わず天を仰いだ。こうなれば浩平は必要以上に、何もかも聞き出されてしまうだろう。しかし、それが鈴華でまだ良かったかもしれない。これが三森節子辺りであれば、口止めしても一週間で言いふらされること間違い無しだ。しかし、鈴華の場合は彼女自身の口を塞げれば他人へ伝わることを考える必要はなかった。ある意味では、最悪の事態でないが、かといって良好とも言えない状況だ。

 浩平はまだ、鈴華の言葉に反論するものを思いつかないらしい。口だけ動いていたが、喉を震わせることができなかった。

「で、口止め料は何?」

「ふふ、流石は真希だ。僕のことをよく分かってる。簡単なことだよ、ただ二人がどのような形で想いを成就したか、今直ぐ聞かせてくれれば良いのだから」

 簡単なことというには恥ずかしいものだったが、しかし他に道はない。でも、一つだけきにかかることがあった。

「でも、今直ぐって――あと数分で予鈴じゃない。どうすんの?」

「勿論、さぼるのさ。下らない社会の授業より、真希の話の方が重要だからね。それに教室だと他の者に聞かれるだろう――誰にも邪魔をされない場所を一つ知っている。そこに陣取ろうじゃないか」

 やはりだ。真希は鈴華の破天荒さに溜息を吐くが、しかしさぼるという言葉に浩平が強く反応している。何というか悪戯好きの男性がよからぬことを思いついた典型のようだった。その目で真希を強く見つめるものだから、彼女には二重の意味で逃げ場がなくなったことになる。あまりに間隔の短い溜息を何とか閉じこめると、真希は半ばやけくそ気味に言った。

「分かったわよ、言えば良いんでしょ。どうせ、昼休みまで待てと言っても聞かないだろうし。ただ、他の人にばらしちゃ駄目――と言っても、グループ内には直ぐに知れ渡りそうだから、例外にしとく。それ以外の人にばらして、冷やかしの種になんかしないでよね。それと脅しの種にするのも厳禁だからね」

 ここまで言質を取っておかなければ真希には安心できなかったが、しかし鈴華は首を横に振った。ナンセンスと言わんばかりの大袈裟な仕草だった。

「了解。では、早速迷える子羊の懺悔室に向かおうとしようか」

 鈴華はそれだけ言うと、すたすた歩き出す。浩平と真希は慌てて後を追った。学校の外周をぐるりと進むと、明らかに使われていない体育用具倉庫があり、その入り口付近に四人がけのベンチがある。どうも、そこに腰を降ろすらしい。鈴華は埃を手で払い、浩平と真希を案内した。意外と紳士的だなと思いつつ真希は腰掛ける。浩平はその隣にぴったりと座った。

「成程、既に恋人の距離というわけか。全く――」

 恋人の距離と言われて、浩平は一瞬、戸惑って腰を浮かせた。しかし真希の瞳を見てから、直ぐ同じ位置で座り直した。彼の行動は真希を恥ずかしがらせたが、同時に安心もさせてくれた。少しばかりの冷やかしで隣に座ることから逃げられたとしたら、とても悲しい気分になると思ったからだ。恥ずかしいけど、とても嬉しかった。

「ふーん、そっかそっか。それに、きちんと優しく好きでいてくれる旦那ってことか。つくづく、真希は幸せものだ」

「う、その旦那ってのはやめてよ。その――」

 別に旦那になるって決まった訳じゃないんだから――そう言おうとしたが、それは浩平を寂しくさせる行為なのではと思い、敢えて否定しなかった。でも――。

「そりゃ、そうなってくれたら――嬉しいけどさ。わたしは今日、折原がいてくれたらそれで十分なんだから」

「ひ、広瀬っ!」

 それは浩平を余計、慌てさせた。真希も言ってみて、彼を寂しがらせるよりも爆弾的な発言をしたことに気付き、頭の中が混乱してしまう。そんな中、鈴華だけが腹を抱えて笑っていた。

「な、なにを笑ってるのよっ!」

 さっきから恥ずかしい想いをさせている元凶が鈴華にあると思った真希は、彼女を詰るように声を飛ばす。しかし、鈴華は風を受けてゆれる草のようにのらりくらりとそれを交わした。

「いやいや、微笑ましいカップルだと思っただけだ。うん、良いよ。詳しいことを聞こうと思ったけどさ、もうそれは野暮だと分かった。僕は君達が好きあっているという確証が欲しかったんだ。だから、詳しく説明を聞いてそれを解明しようとした。でも、必要ないみたいだね。見てるだけで君達が本気で好きあってるって分かるんだから。これ以上の質問は野暮ってやつだ」

 鈴華はまだ腹を抱えていたが、しかし数瞬後には見事に立ち直っていた。丁度、予鈴が聞こえてきたからだ。

「さて、では戻ろうか。幸い、担任はあと五分くらい教室にはやって来ない。少し急げば、何とか通常の流れに復帰できる。さあ、行こう」

 浩平は未だ憮然な、それでいて照れを隠せないといった表情をしていたが、促されれば走らないわけにいかない。真希もそうだったが、しかし僅かだけ冷静な彼女は再び頭を抱えたくなってしまった。勿論、彼女の問題発言の意味に気付いたからだ。

『あと五分くらいは教室にやって来ない』と鈴華は言った、いともあっさりと。つまりはそのような細工を予め施しておいたということになる。勿論、人の心がどうなるかは彼女だって読めなかっただろう。しかし、そうなったことを見越して五分間の余分な時間を保持していたことになる。フェイル・セイフか、それとも単なる児戯か。にしても簡単に弄ばれたことに間違いはない。

 だから真希は――つまり呆れていた。相変わらず、変な所で力を使う鈴華に対して。しかし、同時に感謝もしていた。自分と浩平の距離を正確に知らしめてくれた友人として。そして、天邪鬼だけど祝福してくれた親友として。

 そして下駄箱で素早く上履きに替え、教室に雪崩れ込む。鈴華の予告どおり、担任はまだ教壇にその陣を取っていない。彼女は冷静を装い自席に座り、ちらと七瀬留美へ視線をやる。彼女は返す瞳で、昨日語ったことの首尾を尋ねてくる。真希はわざとらしく親指を上げ、留美に示した。すると、留美は自分のことのように嬉しそうな顔で同じ仕草を返してくれた。

 それから浩平に、何か言葉を飛ばしている。かなり慌てているところからすると、自分をからかいの種にしているのか――それとも彼を注意してくれているのか。しかし、真希にはどうでも良いことのように思える。それよりもっともっと大切なことがあった。

 祝福されている――。

 今まで、誰を愛しても誰からも祝福されなかった。だけど今回は違う。浩平との未来を想うだけで、温かみや優しさが胸に満ちるのを感じる。教室の空気を吸い込み、その中に浩平の粒子が含まれているかと想うだけで涙が出そうだった。

 とんでもなく幸せで。だから、浩平にも問いかけたあの言葉が僅かだけ胸を過ぎる。幸せになっても良いのか? そうであっても良いのか? わたしなんかが?

 真希は不安になり、もう一度後ろを振り返る。今度は浩平の視線を身に受けたかった。不安を打ち消してほしかったのだ。

 そして勿論、浩平は真希の不安の全てを融かすような表情を浮かべる。ふざけているけど少しだけ真面目で、何より彼の心を沢山感じられる微かな微笑み。

 だから、真希は笑顔を返す。貴方を愛してるんだぞって、精一杯の笑顔を浮かべて彼を困らせてやるのだ。そうしながら、真希は心の中一杯に思いを満たす。

 わたしは、とても幸せなんだ――。

 彼女はこの重力戒める大地で一人、低く浮いているようだった。そして、浩平も同じ感覚を味わっているだろうと信じた。

 ああ、それにしても――と、真希は思う。自分と浩平が新しい関係になって初めての日だというのに、何と発見できることの多い日だろう。そして授業の間も昼休憩も放課後も、それと同じくらいかそれ以上の発見がきっとある筈だ。真希は色々と思索を巡らしながら、特大の溜息を吐いた。

 幸せの粒子が混じる、優しい溜息を。

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