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 幸せだと時が過ぎるのも早いもので、と心に浮かべ浩平は我ながら陳腐だなと、思わず苦笑したくなる衝動を抑えながら、ソファに寝転がっていた。特にあてはないが、何か面白いテレビがないかくらいの期待度でブラウン管を眺めている――いや、正確にはもう少し複雑なのだが、それを覆い隠す為に怠惰をテレビの所為にしていた。

 けど、どんなに言い訳しても覆せない事象が一つある。

 折原浩平が広瀬真希と恋人同士なんて言われる関係になってから、二週間が過ぎた――ということだ。二人の関係は当初、浩平が危惧したようにはならなかった。冷やかしややっかみさえも障害にならず、好きな時にはしゃぎ好きな時に抱き合い、好きな時にキスできるような自然体で恋愛ができることに浩平は驚いている。

 今まで、自慢じゃないが、自分の行動が型通りになるなんて思いもしなかった。何事にも奇抜を求め、全てを台無しにしたことも稀ではなかったからだ。それが、何の変哲もないことだけで満足できる。もしかしたら、奇抜でなくても満足できるから奇抜にしないだけかもしれない。どちらにしたって、真希と一緒にいる時、そのような行動を取ろうとは思わなかった。

 しかも笑えるのは偶然、真希の父親と出会った時のことだった。何と初対面の相手に真面目に挨拶して握手までして、相手の印象を良くしようとさえ試みたのだ。娘が見知らぬ男と歩いているのに全く頓着せず、寧ろ祝福するような態度に、浩平は思わず溜息を吐く。親に認められていなければ恋愛ができないというのはもう化石のような世迷いごとに等しいが、真希の父親に認められて心が落ち着く自分も感じていた。

 それらが結局は、広瀬真希という女性を失いたくないからという帰結に収斂する。浩平にもそれが分かる。でも、それだけなのだろうかという疑問も常に付きまとっていた。本当に、純粋に恋人同士になりたくて彼女を抱きしめキスをしたのか。それを確かめたくて、相手の言葉を求めたり。愛してるという言葉を毎日欲しがったり、全く今までには考えられないほどの生活と心理の変化だ。しかし、その変化が嫌だとは思わなかった。寧ろ、何かが変わるということは浩平を喜ばせた。それは、奇抜さを疎う理由の二つ目になりそうだった。

 恋心と変化を求める冒険心と。二つの言葉こそ、浩平を占める遠因だった。もしかしたら、恋と変という字が似ているからかもしれないと思ったが、直ぐに否定できて打ち払った。英語ではラヴとストレインジ――全然違う。独逸語は、分からないのでやめておいた。

 考えるのは性に合わないと、毎日心の中で呟く警句も今ではもう慣れっこになっていた。時間が来たのでテレビを消し、適当な服を見繕って玄関で靴を履く。とんとんと爪先を叩くが踵は僅かに潰れたままだ。余り上辺を飾らないところは今も昔も変わらないが、しかし心の中身は全然違う。今日は日曜日、しかも太陽は健康的に輝き、眠りを誘うほどの春めいた気候の中で恋人持ちのする行為ってのは殆ど同じだし、浩平もその例外ではなかった。

 いつもの通学路途中ではなく、商店街の入り口で堂々と待ち合わせての逢瀬。毎日学校で会っているくらいでは足りなくなって、どちらからともなく言い出した約束だった。とは言っても、今日どこを回って何をするかなんてことは考えていない。商店街は遊んだり騒いだりするには色々なものがあったし、いちいちスケジュールを決めてせせこましく動き回るのも癪だった。

 待ち合わせ時間の五分前に目的の場所へ着いた浩平だが、真希の姿はもうそこにあった。白いセータの上にラベンダ色のカーディガンを羽織り、下はジーンズというラフな格好だ。暖かいせいか、ジャケットは着ていない。彼女の笑顔も相俟ってか、冬という感じが全然しなかった。頬には寒さの為の赤みがさし、色調も相俟ってとても心地良さそうだ。

「早いな、もしかして待ったか?」

 真希は急いで首を横に振るが、隠し切れないとみてぺろと舌を出す。とても悪戯者っぽい仕草で、浩平は何故かその仕草に心揺さぶられるものを感じた。しかし、何故かは分からなかった。ほんの十時間後に微かな嫌悪を伴って理解できたことだが、この時にはまだ何も知りようがなかった。ただ――必要以上に彼女にくっついていたいという願望がいつもより強いことだけは分かる。浩平はその願望に逆らわなかった。

 その肌を感じたくて何度も頬ずりをし、さっと真希を胸の中に引き込む。まるで、手際の良い泥棒のような所作だった。

「やめなって折原、もう――出会って直ぐでこれじゃわたしの心臓がもたない」

 ぐいと浩平の抱擁を引き剥がすと、真希は額に軽いでこぴんをお見舞いする。

「そりゃ、嬉しいけどさ。こんな人が一杯いるところでやってたら――馬鹿みたいじゃない。絶対、馬鹿だって思われてる」

 馬鹿、馬鹿と何度も連呼する真希だが、浩平には一つのダメージも与えられない。何故か、嬉しかった。しかし、ここで口論を始めてもしようがない。浩平は譲歩することにした。

「まあ、そうだな。実は俺もちょっと恥ずかしい」

「そう思うんなら最初からしないっ! もう――そりゃ折原が変わってるってのは分かってるけどさ。時と、時間と、場合くらいわきまえなさい」

 まるで、ちょっとした教師っぽい口調で、浩平を詰る言葉も、しかし彼女の口から出るそれはとても優しい響きがした。要するに、怒ってはいないのだ。浩平にも最近、そのことが分かってきた。馬鹿と連呼するのは照れ隠しの為で、怒っていてもその実は甘い。

「ん、了解」浩平は改まって答えると、真希の手をそっと握った。「じゃあ、行こうか。先ずは昼飯を食って、後はゲームでも買い物でも――」

「勿論、歌も忘れないでよね」

 カラオケ好きの真希が、咄嗟に付け加える。当然、そのことも浩平は忘れていない。軽く肯き、それから並んで歩き出す。どうやら手を繋ぐという行為を恥ずかしいとは感じていないようだった。矛盾しているような気もするが、浩平は意に介さなかった。

 洋食屋に行き、二人ともハヤシライスのセットを頼んだ。真希は何にしようか迷っていたが、結局浩平と同じものに決めた。

「別に、もっと選べば良かったのに」

 急かしたようで悪いなと思っている浩平がそう言うと。

「折原と同じものが――食べたかったのよ」

 まるで、待ち合わせ場所で不意打ちした時の逆襲とばかりに照れ臭いことを言う真希。浩平は何と答えて良いか分からず、俯きながら食事した。彼女の顔を正直、まともに見ることができなかったからだ。きっと、真希に苦笑されているのだろうなと思いながら、しかしからかわれるという余り好きではないそれにすら喜びを覚えている自分がいた。

 好きな人から与えられたものだと、嫌いなものですら好きになったような気がするというのは、酷く不思議に思える。浩平はただ、己を笑った。ここまで馬鹿な人間だとは、思っていなかったのだ。咀嚼される昼食の味もしかし、店を出る時には殆ど覚えていなかった。地方番組のお薦めにも紹介されていた料理なのだが――味も結局は脳で感じることを思い出す。見るもの、聞くもの、感じるものは全て脳の所産であり、故にそれを重要でないと判断したなら、脳はそれを認識しない。そう、認識しないのだ。

 しかし、難しいことを考えるのは浩平の得意分野ではない。勿体無いとは思ったが、この店にはまた何時でも来ることができる。そう断じて、諦めた。

 店を出ると、特にやることもないので浩平と真希はカラオケボックスに入った。二人だけで歌い合ったのは、クリスマス・イヴの時以来だ。言わば、ある種の思い出の場所だ。今まで再び近付かなかったのも、或いはそういう理由があったからかもしれない。しかし、歌に対する飢えが殊更、真希を引寄せたのだった。

「あの時は――」真希はその場面を懐かしむように、思い浮かべる。「一曲だけしか歌わなかったから、今日は目一杯歌おうね」

 物凄く上機嫌な笑みだったから、浩平には本当に真希の歌好きというものを垣間見ることができた。もしかして、自分とカラオケを選ばせたらカラオケを選ぶのではないかと思うくらいの、恐ろしく満ち足りた笑み。無機物にも関わらず、浩平の心に少しだけ嫉妬の思いが浮かぶ。だが、阿呆らしく思えて直ぐ止めた。無機物に嫉妬するなんて――。

 カラオケでのレパートリィは、浩平と真希で全く違っていた。真希は邦楽で流行りものの音楽ばかりを選んで何曲も一度に入れていて、その仕草が手馴れている。明らかにもう、何度も来てますと主張せんばかりだった。My Little Loverはその中でも十八番らしく、彼女の歌うNow And Thenは、本家も真っ青というくらいによく似ていた。

 対して浩平は対抗して、洋楽のメタル系音楽ばかりまるで嫌がらせに歌った。Megadethの曲ばかり幾つも連続して歌っていたら、流石に真希も呆れていた。

「ねえ折原、あんたいつもこういう曲ばかり聴いてるの?」

「――いや、いつもは歌わない。今日は特別サービスだ。あと、これくらいで参ってたらもっと際どいヘヴィー・メタルは聴けないぞ。俺は聴く気はないけどな」

「――っ!」割と得意げに語っていた浩平だったが、真希のとさかに来たらしい。拳なんかもさりげなく握り締めている。「折角、わたしはムード出る曲選んでたのに台無しじゃないのっ! これじゃ、良い雰囲気が出ないじゃない。ううっ――」

 怒っているのか、しょんぼりしているのか分からない真希の姿は、流石に少しだけ浩平の罪悪感を刺激した。やはりあれはやりすぎだったと思い、真希の肩に手をおいて割と真面目に謝った。そして替わる手で番号を入力する。嘉門達夫のハンバーガー・ショップという文字がでかでかと表示される。真希はリモコンを奪って、曲を止めた。

「全然反省してないじゃないのよっ!」

「いや、これは変則的だが一応、デュエットとしても歌える」

「こんなの歌わないわよ、馬鹿――この馬鹿っ!」

 浩平はかなり本気だったのだが、真希にはかなり嫌なものだったらしい。仕方なく、もう少し抑えための曲を歌い始めると、彼女も満足したようだった。余り言葉の重くない恋愛の歌を、真希はうっとりとしながら聴いていた。歌う時は勿論、有り余るほどの元気の良さだった。その為か、少し上気した頬はうっすらと赤みがかり、はあと息をつく姿は可愛いと言うより、綺麗だった。浩平も歌っていて思考が白熱していたのかもしれない。何時の間にか、彼女の仕草が気になっていた。

 それぞれが十曲以上歌い、しかしまだ半分以上時間が残っている。浩平は流石に喉が痛くて、ソファにどっかりと腰を降ろしていた。真希は隣で次に歌う曲を選んでいる。その手の動きと嬉々とした表情、浩平の心に再び妙な嫉妬の思いが浮かぶ。節操なしと言われそうだが、どうも自分の嫉妬は無機物にすら及ぶらしいと諦めの気持ちで眺めていた。

 浩平は無意識に真希の手を取り、そのページをめくる手を留めていた。

「ん、どうしたの。折原が先に歌う?」

 しかし、返事の代わりに浩平は真希をぐいと抱き寄せる。自然と真希は浩平の膝の上に座ることになった。バランスを崩し、浩平の体につよくしなだれかかる。髪の毛が僅かに浩平の顔を打つ。真希の顔は直ぐ、目の前にあった。

「お、折原――ど、どうしたの?」

 彼女の驚き、しかし微かに何かを期待する表情を見て――膝に感じられる真希の太股の柔らかさ、体の心地良さ、うっすらと紅みがかった綺麗な肌と口元をまじまじと眺めて、浩平は思わずある感情がわきあがるのを抑えることができなくなっていた。朝の時から少しずつ、募っていく強い想いの何たるかを、浩平は初めて理解していた。

 浩平は、真希に眼差しを向ける。ある期待の、眼差しだ。彼女にもその意味が分かっていたのだろう、しかし浩平から僅かに目を逸らした。その瞳はマイクと、曲目を指し示している。瞬間、頭に血が上った。真希の顔を無理矢理引寄せ、キスをしていた。勢いが強くて歯と歯がぶつかりあったが、物の数ではない。浩平は乱暴に唇を離すと、放心状態の真希に囁いた。

「マイクなんて見るな、俺を――見るんだ」

 間髪いれず、浩平はそっと唇を合わす。そして半開きになっている真希の咥内に舌を入れる。一瞬、真希の体が強く蠢いた。驚きとこれまでに感じたことのない感触に戸惑っているようだったが、浩平は無視する。そのまま彼女の舌を一方的に絡め、今までに感じたことのない快感を搾取していた。交じり合った唾液が粘っこい音を立てる。浩平はわざと真希に聞かすかのように、中をかき混ぜていった。歯や歯茎をなぞり、口の中を掃除するかのように執拗に舌を這わせていく。真希は喘いでいたが、呼吸する暇も与えたくなかった。

 お互いの鼻から暖かい息がひっきりなしにもれ、それでも空気は全然足りなかった。それでようやく浩平も、唇を離した。真希の口元は濡れていて、それは首筋の近くにまで達していた。そして、僅かに怯えていた。しかし、それ以上に息を整えるのと、それ以外の感情を抑えきれないでいるのを何とか我慢しているようだった。

「あ――――ぅっ――」

 思い切り吸い込んで、苦しそうに息を吐き出す仕草を何度も繰り返し、ようやく真希はまともに言葉を発することができるようになる。

「折原、いきなりあんなの――酷い――」

 しかし、その口調から浩平を責めるようなものは些かも響いて来ない。その様子から、真希も快楽に強く心を惹かれていることが分かり、喜びがわいてくる。浩平は少し調子に乗った。

「だったら、やり返せば良い」浩平は更に真希へと顔を近付け、呟く。「俺がやったのと同じ酷いことを、して欲しい」

「えっ? え、その――折原――」

「仕返ししたいんだろ? 何せ広瀬は苛めっ子だからな、やられっ放しじゃすまない女の子だからな。さあ、思う存分やり返して良いぞ」

 浩平が言うと、真希はただでさえ紅い顔をますます真っ赤にして何も口を聞かなくなった。浩平はそんな彼女に何度もキスをして、無言のうちに誘う。一方的にしても良かったが、やはり真希にも自分を求めて欲しかった。

 しかし、やはりふんぎりがつかないようで、仕方なく浩平は次の手に出た。背中に触れている手をそっと撫で、それからゆっくり下に向かわせていく。その仕草には、流石に真希も慌てだした。

「な、何する――っ!」

 しかし、言葉になる前に真希は声を詰まらせた。浩平の手がスカート越しに、真希のヒップラインをそっとなぞったからだ。

「お、折原ぁ――や、やだやだ、そ――やめ――っ!」

 同じ年の男に触られるというのは勿論、初めての体験だった。浩平もそのことを悟り、なおかつその感触が予想以上に柔らかかったのもあいまって、無意識に何度も撫でていた。そのまま太股まで手を滑らせると、真希は不意に辛そうな溜息をもらす。目が徐々に潤んできていた。

「わ、分かったから――する、するからその、やめて――」

 観念するように言う彼女の反応に、しかし浩平は満足できず、手の動きを止めない。背筋をそーっとなぞっただけでも、真希は切なそうに体を固くした。

「そんなに、俺とキスするのが嫌か?」浩平は緊張で動きもままならない真希にそっと口づける。「こっちはこんなにもしたいっていうのにな」

 少しからかい気味だの言葉だったが、しかし真希はことのほか真剣に受け止めたようだった。何度かくちごもり、しかし直ぐに浩平を望んできた。

「わたしもその――したいよ。折原――っ」

 柔らかいものが、浩平の口元を、そして中を満たしていく。同じようにして舌が触れ合い、背筋どころか全身が何度もぞくぞくと震える。暫くは真希のかき乱すままに任せ、それからはリズムよく深い口づけを交わしていった。まるでぬるま湯の中をゆらゆらと、漂っているようにただ心地良く、そしてとても気持ち良い。全身が更に、目の前の女性を求めるようだった。

 キスで口が塞がれているのを良いことに、浩平は再び手を形の良いラインにあてがい、それからスカートの中に手を入れた。それとは違う肌着の手触りと、より温かみのある手触りが浩平の劣情を誘う。その全容を味わってから、次には執拗にその双丘の間をなぞっていた。真希の体がその度に痙攣する。しかし頭を抑え、口を塞ぎ続けているから彼女には何もできない。そのうち、少しずつ体から力が抜けていった。

 少しからかってみたくて、浩平は唇を離してからもその部分を規則的になぞった。真希は何度もいやいやするが、しかし次第にぐったりと浩平の胸にもたれかかってきた。その感触が直接、浩平の体に触れる。浩平はスカートの中から手を抜き、真希との距離をそっとだけ離す。それから服越しに感じられる胸の膨らみに手を伸ばした。

 少し分かりにくいけど、乳房の柔らかさの断片ほどは感じられて浩平は規則的にその柔らかみを確かめる。真希はその度に鼻から抜けるような息をひっきりなしにもらしていた。

「ん――――ふぅ、折原、その、そんなに触んないで――ぅ、お願いだからぁ」

 浩平は聞かない振りをして、真希の胸を弄びながらその顔が恥辱に歪んでいくのを愛おしげに観察していた。そして、恨みがましい顔をし出すとその度に、キスをした。淡かったり深かったり、浩平の気分次第だったけど、その内に真希は浩平の感触に対する反応行動にしか没頭しなくなった。浩平との行為にだけ、深く没していった。

 浩平はそんな真希をもっと深く愛したいと思った。その為に何をするべきかも知っていた。もう、理性の楔が弾け飛ぶ限界ぎりぎりまで来ている。ここで押し倒して、それをすることもできた。でも、それは少し可愛そうな気もする。最後の理性を振り絞って、浩平は尋ねた。

「その――場所、移るか?」

 それは、性行為のできる場所に行かないかという誘いだ。これを踏み越えてしまえば、もうその先はなくなる。真希は間髪入れずに肯いた。その瞳は既に、ある種のスイッチが入ってしまったことを示している。浩平は真希を立たせたが、直ぐには立ち上がれなかった。

「か、体に力が入んないよ――」

 真希はがくがくする膝を奮い立たせ、何とか立ち上がる。浩平は彼女の腰に手を添え、支えようと思ったが、当の彼女は甘い吐息をもらして逆に力を崩した。

「駄目、折原触んないで、その――折原に触られると――」

「――もしかして、感じる?」

 真希は暫く黙っていたが、やがてやけくそになって声を荒げた。

「そうよ、感じるのよ。折原に触られると気持ち良いのよ、もう――悪いっ?」

「悪くない」ある意味、それは男冥利に尽きる言葉だった。「じゃあ行くか。まだ時間、かなり余ってるけど――飽きたってことにしといて」

 まさか、歌の途中で始めだして止まらなくなったでは流石に洒落にならない。浩平はそういう行為に及んでいたことがばれないかどうか心配になったが、店員にそういう素振りを見せたものはいなかった。或いは――案外、多いのかもしれない。

 店の外に出ると、妙に太陽が眩しかった。まるでこれから、邪な行為に走ろうとしている浩平と真希を戒めるかのような明るさ。しかし、それすらも二人を浄化することはできない。

「それで、その――どこ行く? 俺の家――」しかし、そこで思い留まる。休日だから、叔母の由起子が家にいる可能性があった。「は、拙いんだが」

「じゃあ、わたしの家で良いよ。今日も父さん、帰って来ないって言ってたから。その、自分の部屋に引きずり込んではしたない――とか思うんなら別だけど」

 浩平は急いで否定する。真希の部屋を見てみたいという願望もあったからだ。

 その道中、二人は手も繋がず真希の住むマンションの一室まで歩いた。触れるだけで、最後の一線を越えてしまいそうだった。公園だろうと道路だろうと愛しさが募ると我慢できないような気がして、遠慮していた。それでは、せめて何か話そうとするのだけど、気の利いた言葉が口から出力されない。こんなに気まずくなるのなら、ボックスの一角でしておくんだったという気持ちもわいてくるが、表面には出さなかった。

 そして、ようやくのことでマンションまで来た。エレヴェータの密室を飛び越え、ようやく真希の住む部屋にまで辿り着く。真希は鍵を開けようとしたが、震えて上手くいかないようだった。やはり緊張しているのだろう。浩平も密かに震える膝頭を叩き、動揺を隠した。その時ドアの鍵が開き、浩平は真希に無言で招かれた。柄にもなく靴を揃え、そして彼女の部屋に入る。それはごくごくありふれた、浩平の想像していた通りの女性の部屋だった。以前、長森瑞佳の部屋を見た時も思ったが、上手く整頓されている。浩平の乱雑な部屋とは大違いだった。

「ん、あんまじろじろ見ないでよ。変わったものとかある訳じゃないし」

「でも、好きな娘の部屋は誰だって気になる」

 浩平は机の上に置かれたファンシィな小物や人形を見て、思わず苦笑を浮かべた。それからクロゼット、最後に少女のものとしては少し大きめなベッドが目に映る。事を成す場所だった。清潔なシーツが敷かれてあり、そこを乱すのは少しだけ憚られる。しかし、やはり真希とすることの方が余程、重要だった。

「その、ちょっと片付けたいからさ」唐突に真希が口を開く。「シャワー、浴びてきたら。その――する前に、そうするんでしょ?」

 そうでない場合も多いのだが、しかし真希がそれを望むのなら浩平も従おうと思った。シャワーの温度調節の方法とタオルのありかを教わってから、浩平は部屋を出て洗面室に入る。衣服を一枚脱ぎ、それから肌を重ね合わせるであろう女性を想像する。浩平のものは、心よりも強くその行為を切望するかのようにそそり立っていた。

 軽く全身を流し、髪と体を急いで洗う。鴉の行水と言われそうだが、興奮した体はそれ以上、一人を待てなかった。風呂場からあがり、タオルとドライヤで水分を払い落とすと、大きいタオルを体に巻いて部屋を出る。いちいちもう一度、服を着て脱ぐのが面倒臭かった。

 浩平が何も身に着けてないことを知ると、真希は即座に動転した。しかし、一見落ち着いた様子を見せたから彼女も安心したようだった。

「じゃあ、わたしも――浴びてくるね」

 生唾をゆっくり飲み込み、それから首肯する。ベッドの縁に座りながら、浩平の心臓は驚くほど高まっていた。このまま死んでしまうかと思ったほどだ。それは無念すぎると思い、何とか抑えようとするのだが、しかし上手くいかない。自分の体の癖に、ここまで制御できないものがあるとは今まで夢にも思わなかった。そして、こういうのを胸が痛いと言うのだなと妙に納得するものを感じる。それまで浩平は、その表現を誇張めいたものとしてしか知らなかった。

 それから時計とカーテンを順に睨めっこし、時折遠くの音へと耳を這わせる。微かなシャワーの音が聞こえ、一糸纏わぬ姿の真希を想うと、頭が痛くなるほどだった。とても想像できない。それでいて、紛れもない現実なのだ。何ということだろう、これは。後で変なしっぺ返しがこないだろうか。色々と、無為なことを考えて時間を潰す。

 その時、廊下から控えめな足音が聞こえてきた。そしてノック、それからゆっくりと進入してくるほっそりとした影。浩平と同じく、バスタオル一枚しか身に纏っていない真希が、浩平の手の届く場所に立っていた。しっとりとした肌に、湿り気を帯びた髪の毛、憂いを帯びた瞳が浩平の性感をぞくぞくと揺さぶる。

 真希は入り口で躊躇った後、浩平に近付き、遂には身を合わせる近さになる。その手は自然と、真希の身を覆うバスタオルを剥いでいた。彼女は嫌がらなかったが、外気に晒された胸を咄嗟に隠した。そのままで浩平はタオルを脱ぎ捨て、荒々しく抱きしめた。肌と肌が触れ、それから唇と唇が触れる。さっき覚えたばかりの、お互いの舌を噛むような甘い口づけを繰り返し、それからベッドに二人して倒れこんだ。真希はシーツで体を隠そうとしたが、浩平はそれを留めた。ヒータも効いていたし、そんな勿体無いことはしたくない。

 浩平は改めて、真希の細い体を眺め回す。発展途上の胸にほっそりとしたウェストラインに、浩平は行為へ移る手を思わず止める。こんな細い体の少女で大丈夫なのだろうか――しかし、ここまで来て引き返す気もさらさらない。浩平は真希のことを潰してしまわぬよう、ゆっくりと首筋を触った。それだけでも真希は、体を震わせた。

「気持ち、良いか?」

 真希は微かに肯くだけだった。そのまま、手は胸に触れる。直に感じられるそれはすべすべしていて、適度な弾力があった。何度もその表面を撫で、その先端を指で摘んだり転がしたりしてみると、真希は少しむずがった。

「折原、その――ちょっとくすぐったい」

「そうか――」浩平はもう少し力を加え、その形をもう少し大胆に変えた。胸をゆっくりと揉みしだき、その全体を包み込むように撫でていく。それをするのに、真希の胸の大きさは丁度良いものだった。最初は我慢しているような感じの真希だったが、直ぐに荒い息を混ぜるようになる。浩平はもう片方の乳房にも手を伸ばし、同じように弄んだ。

 軽い欠伸のような息を何度ももらし、真希は浩平の手触りに没頭しているようだった。それが嬉しく、浩平は真希にキスをする。彼女の感じるものが伝わってくるようで、浩平は更なる行為に及んだ。唇を首元に近付け、先端でくすぐるように舐めた。途端に、より苦しそうな息をもらし始める真希を尻目に、浩平は頬や耳元に唇を寄せた。そして胸にある手を下げ、ヒップラインを何度も撫で回す。

「ん、ぅ――――」

 苦しそうな吐息に、しかし浩平はもうある欲望に耐え切れなくなってきていた。下着越しになぞっていたそれを、今度は直に触れる。うっすらと感じるアンダ・ヘアと微かに湿り気のある部分に指を差し入れると抵抗感が強いものの、ゆっくり飲み込んでいった。真希の体が大きく震え、刹那の喘ぎを発する。浩平は指を二本使って、痛くしないようにゆっくりと中をかき混ぜた。湿り気が段々強くなり、ねっとりとした水音が響くようになってくると真希は思わず叫んでいた。

「やだ、んぅ――そんなところ触っちゃ、折原っ――駄目っ」

 浩平は彼女の要望を無視し、より激しく中を突付いた。それから湿った手を抜くと、そのまま小さな突起に手を触れる。真希はもう、声を抑えることができなくなっていた。頻りに喘ぎ、恥ずかしさと快感で顔を真っ赤にしていた。少しやりすぎたかと思い、浩平は手を引いて何度交わしたかも分からないキスを捧げる。それで、最後の抵抗の力も抜けたようだった。

 浩平は改めて真希を組み伏せ、そして無言で訴える。真希もまたそのことを悟ったのか、躊躇い勝ちながらもか細い声をあげる。

「折原――するの?」

「ああ、大丈夫か?」

 誤魔化す気はなかった。ただ事実として浩平は肯定する。一度歯止めをかけた為か、感情はとうに吹っ切れていた。ただ、彼女と一つになりたい。その願望だけが、今の浩平を突き動かしている。

「うん」と彼女が言うと同時に、浩平ははちきれそうなものをゆっくりと真希の入り口へとあてがった。そこの僅かに発する熱が、中の熱さを示しているようで、浩平は思わず動きを止める。そして、ゆっくりと――挿入していった。

 真希は指とは全く異なる挿入感に思わず呻いていた。その中の全てが、浩平の性器を拒みながらもゆっくりと絡めていく。まだ全く入っていないというのに、その熱は浩平の理性を加速度的に奪っていくようだった。浩平もまた特大の溜息を吐く。ここまでの快楽を感じるのは初めてだった。余りに締め付けが強過ぎて痛みすら感じるが、それすらも快楽の一部だった。

 浩平は夢中で中に入れていく。しかし、挿入を阻む何かが浩平の先端に当たり動きを止めた。初体験の徴を、しかし彼はさして気遣うことなく破っていった。真希が苦しみの為か、腕を強烈な勢いで掴んでくる。しかし、それすらも――気持ちよかった。

「んぅ、おりはら――――っ! っ!」

 真希が盛んに言い募るが、浩平は無視した。なるべく傷つけないように、ゆっくりと進入していったが、それでも痛いのはどうしようもない――浩平は心にそう言い訳して、奥まで押し込んだ。堅いものが先端に当たるが、浩平にはそれが何かよく分からなかった。自分のものが奥深くまで真希の中に挿っている――それだけが今の浩平には重要なことだった。今にも射精してしまいそうで、しかしきつすぎる締めつけがそれを許してくれない。

 針のむしろのような状況で、浩平は初めて真希を気遣う余裕ができた。繋がったまま、浩平は真希の顔を見た。そして――初めて後悔の念がわいてくる。彼女の顔は苦痛に塗れていた。それに比べて自分はきっと、快楽に溺れた表情をしているのだろう。

「だ、大丈夫か――」その痛がり方が余りに酷かったから、浩平は自分が間違った方法でしてしまったのかと思った。「悪い、俺――」

 彼女のことを何も考えずに、貫いてしまった。そして、奪ってしまった。自分は優しくできるのではという自負が、浩平の中でもろくも崩れていく。少女は苦しんだ、自分の行いによって。しかし、真希は苦痛に歪んだ顔でなおも否定する。苦しめたという浩平の言葉を否定する。

「気にしないで、女が痛いのは当たり前なんだから。だからね、わたしは折原を選んだの。女の人が皆、こう思ってるかどうか分かんないけどさ。少なくともわたしは――痛いから、それすらも愛しいって思える人を求めたの。痛みすらも愛情と思える人を、だから折原なの、折原なのよ。分かる? 分かって――くれる?」

 その言葉に、浩平は曖昧に肯いただけだった。確かに言いたいことは分かる。しかし、ここで分かると言ってしまって自分の行いを正当化したくはなかった。どんなに相手が、痛くても良いと言ってくれても、痛みを与えているという感情を失くしてはいけない。痛みを理解できない人間には、なりたくなかった。

「だから良いよ、動いても――良いんだよ」

 苦しそうな顔でそんなこと言われても、説得力など欠片もなかった。でも、今ばかりは気持ちよくなりたいという気持ちの方が強く、いつしか彼女の中で動いていた。初めはゆっくりと、しかし潤滑されて来るともう、本能に任せて運動を繰り返すのみだった。芯まで快楽に満ちて、しかし心の隅の隅で感じる棘のような感情が痛くて、結局何をしてるのか殆ど分からない。ただ分かるのは、真希の血の海で感じているということだけだった。

 激しく動いた為に掻いた汗が、真希の体の上に少なからず降り注ぎ、不快じゃないのか、本当は嫌じゃないのかという思いが増していく。それでも彼女のことを愛したいという想いは強くて、快楽がどんどんと増していって、もう彼女の中に出すしかなくなっていた。

 募った快感の結実として、浩平は真希の中に射精した。執拗に彼女の中に満ちていく自分の精が、無意識のうちに真希を震わせていた。その表情は快楽であろうと努力していた。でも、やはり辛そうだった。でも――それは独り善がりかもしれないけど、幸せそうでもある。自分としていることに、心から満足しているようだった。

 快楽の波が引いた後の浩平の心は、後悔と気まずさの残滓のみで構成されていた。血と体液と精液の混じったシーツの上で、浩平は息を荒げている真希の姿を俯瞰する。汗ばみ、そして上気した全身の皮膚が細かに揺れていた。浩平の下にいる真希は、微笑んでいた。浩平のことを全て許すように、ただ微笑を浮かべていた。それが浩平には逆に辛い。目を――背けた。浩平は立ち上がり、ティッシュで萎えた自分のものを拭うと、下着を身につける。

「ごめんね――」真希が背後から声をかけてくる。「嫌だったよね、痛がってばかりいて。でも、それでもわたしは嬉しかった。もし、折原が愛想をつかしたとしてもわたしは――嬉しかったの。初めての人が折原で――」

 だから、その優しさが痛いんだ、余計に惨めになるんだ――。

「謝る必要はない、俺が悪かったんだ。俺のやり方が悪かったんだ。俺の方は最高だった、もう――脳が痺れて堪らなくなるくらいに、良かったんだ。俺が――」

 でも、いくら責めたって真希の初めては戻って来ない。浩平は服を着て、ズボンも履いた。このまま帰ることもできる。浩平は、その通りにした。

「ごめん、俺――もう帰るから」

 浩平の言葉の後に、緩やかな沈黙が走る。もう、消えてしまいたかった。ここに自分がいない方が真希の為になると思ったのだ。

「折原――」

 浩平を呼び止める甘い囁き声が、浩平の足を止める。

「また、明日ね」

 正直、明日同じ顔で真希に会う自信がなかった。罪悪で顔を歪めてしまうかもしれない。それでも浩平は、彼女のことが好きだった。愛したかった。でも、こんなに下手な方法でしかしか愛せない自分が本当に、彼女のことを愛して良いのか疑ってしまう。

 浩平は「ああ」と空返事を響かせ、そして部屋を出る。マンションを出て、寒空を歩く。重ねあった体から得た熱は予想以上の速度で冷めていく。これで良かったんだ、と浩平は自分に言い聞かせる。真希だって、今は二人でいるより別々でいた方が良いに決まっている。自分がいたら、心に負担をかけることにしかならない――そう自分の心に上書きした。

 余りの寒さに浩平は走る。快楽に身を委ねた自分の狂熱を冷ます為に、体を温める為に、そして――意味のないものの為に。浩平はそれが最も正しいのだと思い込んだ。

 しかし、それは二つの意味で間違いだった。

−10−

 折原浩平の姿は容赦なく、広瀬真希の視界から消えていく。真希は待ってと、そう声をかけたかった。まだここにいて欲しいと訴えたかった。でも、声が出ない。自分の痛がってばかりの姿が浩平を裏切ったのではと、そんな罪悪感が胸を満たし、何もできなかった。

 少しの間、激しい脱力感に苛まれて寝転んでいたが、生暖かい液体を感じて思わず体を起こす。そこには浩平とした為にシーツや布団を濡らしている精液や汗が目立つ形で広がっていた。勿論、真希自身の破瓜の血も混じっている。その惨状が逆に、浩平との性交をまざまざと見せ付けているようだった。これは現実なのだと。

 股の間、お腹の中が妙にじんじんして痛い。処女喪失の為に生まれる痛み、愛情の痛み。真希はこの痛みを嫌だとは思わなかった。寧ろ、浩平とできたことを示す勲章のようにすら感じられる。痛いけど、嬉しいものだった。だからこそ、浩平の心を損ねたことが真希には悲しい。した後で、本当ならこれほど嬉しいこともないのに、悔しかった。無性に泣きたくなった。

 それで性交の興奮も一気に醒め、真希はタオルを巻き直すともう一度風呂場に向かった。汗をかいて、気持ち悪かったから。真希はそっと自分の肌の匂いを嗅ぐ。驚くほどに浩平の匂いがした。まるで彼の一部が移植されたかのようだった。

 汗を流し、髪も洗い直して――浩平の匂いが消えてしまうのは凄く悲しかったけど――取り合えず身だけはさっぱりした。心には未だに晴れない靄が広がっていたけど、何とか耐えた。性交の前に身につけていたものを着込み、部屋に戻るとそれまでに感じなかった臭気が部屋に強く満ちていることが分かった。汗と、浩平と、真希の匂いが混ざったそれが何によって発生したのかは容易に理解できた。

 真希は窓を開け、冬の空気と性交の香りを等価交換する。こんなにも濃密なものを無意識のうちに漂わせていたなんて、全く気付かなかった。それから、幾つもの染みができているベッドを見て嘆息する。世にあるドラマや小説は、してる時の描写だけは執拗なくせにした後のことなんて一言も書いてないのはどうしてかと思っていたが成程、これほど興ざめすることもない。面倒臭くて、しかも厄介だった。洗濯するにしてもどうやって染みを落としたら良いか分からないし、シーツを洗濯したことの言い訳も考えなければならない。

「はあ」と、真希は溜息を吐く。「わたしって、駄目だなあ――」

 目の前のシーツ一つ、処分できない自分が呪わしい。その内に面倒臭くなって、新しいものと交換することにした。言い訳は――ベッドでジュースを飲みながら寝転がって本を読んでいてジュースを零したから使い物にならなくなった――ということにする。これなら古いシーツを処分できる。そのことを実行に移そうと、真希はシーツに手を伸ばした。善は急げ。

 しかし、得てして最悪の状況は最悪のタイミングでやって来る。玄関の開く音、そしてとうさん――希春の明瞭な声が響く。今日は帰って来ないだろうと聞いていたので、真希は思い切り面食らってしまう。というよりも本当に間一髪だった。もし、最中に帰って来られたら本気で拙かっただろう。そんなことを考えながら真希は、この部屋の中だけは今、見せたらいけないと強く思った。先手を取って廊下に出る。そして、希春をいつものように出迎えた。

「ただいま、とうさん。その――今日は帰らないんじゃなかったの?」

「いや、まあ急に予定が空いてな――」

 と、そこで希春の視線が止まる。真希を見据えているのだ。今までの温和な表情が嘘であったかのように、蛇のような瞳が真希を貫いた。「お前、まさか――」

 そして、真希をぐいと押しやり、素早く彼女の部屋の中に入ってしまう。気付いた時にはもう遅く、後を追って部屋に入った時には例の惨状を目撃されていた。希春の拳は怒りの為か、わなわなと震えている。当然だろうと、真希は思った。理由と抱かれた相手がどうであれ、彼にしてみれば男性を家に連れ込んでセックスしたとしか思わないだろう。真希は厳しく叱られることを覚悟した。

 しかし、希春の態度は真希の常識すらも完全に逸脱していたのだ。

「――真希ぃっ!」希春は、真希の洋服を掴むと激しく壁に押し付けた。そしてそのまま頭を壁に一度、強くぶつけた。目の前が一瞬真っ黒になり、気付いた時には希春の姿が目前にあった。「畜生、俺がお前をどれだけの思いで育てたと思ってるんだっ! それなのにお前は――俺の与り知らぬところで、別の男に腰を振りやがって、このっ!」

 その激情と共に漏れる言葉に、真希は激しい疑問符がわいた。怒られることは覚悟していたが、こんなことを言われるとは思ってなかった。そこまで卑猥で直接的なことを――思考はそこで途切れた。もう一度、壁に頭を叩きつけられたからだ。

「畜生――」真希は再び、希春の顔を見る。そこに父親というものは全く存在しなかった。暗く淀んだ目で一人の女を値踏みする男、そんな感じだ。真希は唐突に戦慄を覚えた。「育ててやってたんだぞ、人殺しのお前を。育ててやってたんだ、分かるか? 何でだと思う? なあ、何でだと思う? 言ってみるんだ?」

 人殺し――にいさんのことを言ってるのだろうか?

 でも、それにしては――。

「分かんない、そんなの言われても分かんないよ」

 真希は首を振る。分からない、三年前の時は全て許してくれた筈なのに何故、今になってここまで豹変するのか。優しい筈のとうさんが――しかし、見覚えのない姿でもなかった。あの時、二番目の母親である昭子を蹴り、殴り倒したあの姿だ。狂気に満ちていて、直視することすら憚られる。一刻も早く逃げ出したいと思った。

 しかし、次の言葉が真希の動きをぴたりと遮る。

「裕子を殺したくせにっ! お前は別の男と――あいつは俺の中で血を流したっていうのに、お前はそうしてくれないんだな、畜生、畜生っ!」

 叫びながら、希春は電話機の置かれた台を力任せに引っ繰り返した。酷い激突音がして、真希は思わず目を瞑る。だが、それ以上に聞き捨てならないことがあった。わたしが実の母親を殺した――そんな馬鹿な? かあさんの死は自殺だった。真希の頭はいよいよもって混乱する。希春の正気が最早、信じられなかった。

 でも、そのことを検証する余裕すら、もう真希には残されていなかった。希春は尚も暴走し、暗い感情をぶつけてくる。

「でも、まだしたばかりなんだよな。私の分の血はまだ残ってるんだよな――なあ裕子、私を愛してくれ、愛しておくれよ――俺にはお前しかいないんだよ。お前の血を一番強く継いでる真希なら、きっとお前のように気持ち良くて、痛がってくれるんだよな。なあ、私はその為だけにお前を育ててきたんだ。裕子を殺したんだ、お前がその代わりになるのは当然なんだ。分かるだろう、なあ分かるだろう?」

 真希は怯えながら首を横に振る。ここに至ってようやく、真希にも希春が自分に何をしようとしているか分かった。実の娘なのに、いや実の娘だからこそ――犯そうとしているのだ。真希は後ずさる、しかし二歩しか許してはくれなかった。

 強い力で、真希は廊下に叩き付けられる。そのままセータを強引に剥ぎ取り、カーディガンを無理矢理引きちぎろうとしていた。

「や、やだっ! とうさんお願いやめて、そんなことしないでやだよそんなの。だって――」

 それ以上の言葉を遮るかのように、希春の平手打ちが真希の頬を強く打った。

「見ず知らずの男とはできるのに、私とはできないのかっ! いい加減にしろよ、私はお前の父親なんだ。子供はっ、親にっ、黙って従うんだよっ!」

 もう一度、頬をぴしゃりと叩くと力の抜けた真希からお気に入りの服を一気に破りとりそこから体のラインや胸をなぞってきた。凄まじい悪寒が走る、まるでなめくじに全身を許しているかのような錯覚。好きでもない男性に弄ばれることがこれほどの嫌悪になるとは真希自身、予想だにしていなかった。

「お願い、お願いだからやめてよおっ! 娘を犯すなんて尋常じゃないよ、狂ってる、狂ってるよこんなのっ!」

「五月蝿いっ!」希春は激しい勢いで恫喝する。「どいつもこいつも親不孝ばかりで。人がどれだけ苦労して金稼いでやってると思ってるんだ、少しくらいは報いろよっ。胃を痛めて年末中働き通しで、お前は何をやってた。デートか? それとももっと破廉恥なことか――ふざけるな、ふざけるなよっ。やめろだと、そんなこという権利、お前にはないんだっ!」

 散々に真希を罵り、ずたずたのカーディガンを投げ捨てると、希春は腰のベルトに手をかけた。ズボンとトランクスを下ろし、躊躇いも恥じらいもなくそれを見せ付けてくる。何をしようとしているか、その行為によって何が生まれるか知っていて、それでも自分の欲望の為だけにそれをしようとしている。真希は恐怖を覚えた――と同時に昏い想いが真希の中に満ちてくる。彼も、浩平も――ただ、自分としたいだけではなかったのか。欲望を満たしたからこそ、そそくさと帰ったのではないか、折原――。

「やだ、やだよぉ、折原、折原、助けてよおっ!」

 何度も何度も浩平の名前を呼ぶが、迫ってくるのは真希の下着に手を伸ばそうとしてくる希春のごつい手だけだった。このままされるがままにされるのか――嫌だ、絶対嫌だ。

 浩平と行為を交わす前なら、真希は成すすべもなく身を奪われていただろう。しかし、今の真希には僅かながら免疫があった。男のグロテスクなものが、同時に急所であることを心の片隅で思えるくらいの働きは残っていて、それが真希の足を動かす。

 そそり立ったそれを蹴り倒すと、希春は今までの威勢をかなぐり捨てて悶絶し始めた。逃げるなら今しかないと思い、苦悶と呪詛の覗くマンションから真希は逃避していた。冬の風が生身に冷たく突き刺さる。洗ったばかりで濡れた髪の毛はみるみるうちに凍りつくような冷たさに満ちていった。全身が氷の塊になるかと思ったほどに、冷えていく。心も体も冷えていく。

 どうしてわたしがこんな目に会わなければいけないの?

 どうして――。

 もしかしたら、後ろから追ってきているかもしれない希春が怖くて、何よりそこに理由がないのが怖くて、真希は全力疾走の最中でありながら脳が焦げ付くほどに考えた。何も理由がないままというのは恐ろし過ぎた。この理不尽の理由を知りたかった。知らないことが嫌だった。知ればきっと、この悪夢から逃げられると思った。

 裕子を――真希の最初の母親を殺したと言った。それは本当だろうか――確かに裕子の側に駆け寄っているのは覚えている。だって血と羊水で溢れていたから、とても苦しそうだったから、でも本当にそうだったろうか。もっと大切なことを忘れていないだろうか、大切なこと。

 誰かが真希を断罪する『人殺し』違う、わたしは誰も殺していない。『あんたのせいだ、あんたのせいで――』違うよっ!『憎んでたくせに』違うっ!『お腹のおとうとにかまけていたから、憎いから、あんたが――』違う『その手を見なさい、手を――』

 手にこもる力、崩れ落ちている母親の姿。力? どんな力を込めたって言うの? 真希は突然、自分すらも怖くなった。そんな、いや――いやだ――。

『あんたが、その手で、押したのよっ!』

「いやああああああああああああああああっ!」

 真希は何時の間にか公園に辿り着いていた。と同時に地にまみれ、転がり、しかし絶叫は容赦なく口からあふれ出る。叫んでいないと気が狂いそうだった。フラッシュ・バックしてきた記憶に堪えられそうになかった。

「やだ、こんなのやだ、あんまりよお、あんまりよおっ!」

 細かい砂利が肌やを容赦なく傷つける。でも、真希にはもう痛みを感じることができない。頭を両手で抱え、暴れ回る。記憶で精神をずたずたにしながら、真希はその中に深く深く埋没していった。

 最後の、忌まわしい記憶が蘇る。

 三年前の、姉の、美晴との記憶。

 目を潰すように強烈な陽光煌く、一室で。

 美晴が泣いている記憶。

 その光景を冒頭として――。

 真希の『記憶』の中が、強引に、暴き立てられていく――。

 

FACTOR03, "SOURCE OF MALICES" IS OVERD.
CONTINUE TO PHASE04 AND FACTOR04.

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