−3−

 気付いた時には、広瀬真希は手に包丁を手にしていた。折原浩平は戦慄し、同時にもっと周囲へ気を配らなかった自分を悔いた。そして、真希は最短距離で包丁を自傷行為に用いようと力を込めている。最早、一刻の猶予もなかった。浩平は制止の言葉を叫びながら、振り下ろされる包丁と彼女の間に割って入った。

 途端、肩を灼けるような痛みが走った。肩甲骨の辺りに鋭い痛みが走り、骨に直撃した為か形容し難い痛みが全身を駆け巡る。倒れた拍子に包丁が抜け、そこから大事なものが一気に抜けていくような錯覚を覚えた。思わず傷口に触れ、ねっとりとした液体に思わず手を引っ込める。大量の血が出ているのは明らかだった。

 まるで頭を万力で締められているかのように、ずきずきと痛む。しかし、それでも浩平が気にかけていたのは真希のことだった。彼は霞む視界で彼女を見やる。可愛そうなくらいおろおろしていて、心配することはないと手を伸ばそうとしたが、痛みでだらしなく床に垂れた。

 態度で示すのが不可能のようなので、浩平は辛うじて動く口を心の窓口にする。それすらも苦しいが、背に腹は変えられなかった。

「心配するな、だいじょう、ぶだ」

「な――」しかし、その言葉が真希の感情を煽ったらしい。誰もが怯むような剣幕で叫びだした。「なにが大丈夫よっ! ほ、包丁が刺さって――わたしが刺した、刺したのにいっ! 平気なわけないでしょ、早く救急車を」

 真希は両手についた血に狼狽し、何も考えず電話しようとしている。浩平は慌てて、それを留めた。

「駄目だ。その――血塗れの手で何を連絡するんだ? 問い質されて、下手すりゃ警察沙汰だ。そうなると、親のことも聞かれる。ここまで逃げてきたのが――無駄になるんだぞ」

「でも、でもっ! わ、わたしなんかどうでも良いよぉ。折原を何とかしないと、血が出て傷も酷くて。わたしのせいで折原が死ぬくらいだったら――」

 しかし、彼女はそこで口を噤んでしまった。浩平がそう思ったのも束の間、今度は両の目から涙をぽろぽろと零し始めた。

「わたしが死ねば、わたしさえいなくなれば――」

「違う」浩平は、弱々しく首を横に振る。死ねばだって? それこそ、彼の最も否定しなくてはならないことだった。「こうなったのは、俺が間抜けだったからだ。真希が――それを悔やむことはない。それに、これくらいの傷なんて絆創膏をつけとけば治るさ。小学校の時も額をブロックで打ってだな、血が洒落にならないほど出たんだが、それで何とか止まった。問題は――無い筈だ」

「でも、ブロックと包丁じゃ全然違う。ああもうっ、こんなこと言ってる場合じゃないのに。折原、わたしは、あんたが一番心配なの」

「殺したいほど――憎んでるんじゃなかったのか?」

 それは図星だったようで言葉を止めるが、しかし一瞬でしかない。

「分かんない。憎んでるかもしれないけど、それ以上に心配なの。好きなの、死なせたくないのよっ! 分かってるの、折原――ねえ、分かってるのっ! あんたが、わたしを、どれだけ好き勝手に掻き乱してくれたか、思い知りなさい」

 そして、再び――今度はどのような制止も聞かず電話口まで駆けていく真希。立ち上がろうとするが、やはり痛くて動けずにいた浩平に、しかし抑止力は最高のタイミングで現れてくれた。玄関の扉が開く音がしたのだ。この時間、ノックも確認もせずに入ってくるのは叔母の由起子だと知っていたので、浩平はその存在にかけた。

 案の定、由起子は見ず知らずの女性が受話器を取っているのを見て驚きの表情を浮かべた。しかし、それが浩平と年の近いことを見て取ると、今度はにんまりとした笑みに変わる。

「やあ、ようこそ――」

 しかし、動転しきっている真希には由起子の存在すら些細なことだった。電話の受話器を取り、しかし指先が震えて上手く番号がプッシュできない。その仕草を、流石に由起子も不思議に思ったようだった。

「どうした、何処かに電話をかけるのか? それにしては――何故、怯えている?」

 由起子の問いかけに、真希はぎくりとして動きを止めた。これが最後の機会と思った浩平は、できる限りの声を振り絞って二人に抑止をかける。

「頼む、電話をかけるのを――やめてくれ、やめさせてくれっ! 彼女が電話をかけるととんでもないことになるんだ、やめてくれっ!」

「で、でも早くしないと折原が死んじゃうじゃない」

 埒のあかない問答に、訳が分からず首を傾げているのが由起子だった。何があったのか浩平の方に駆け寄り、そこで初めて背中から血を流している彼を発見すると、流石にその表情がひきつった。

「お前、その怪我――酷いぞ。それに背中の傷――そうか、成程な」

 浩平は由起子に説明しようとしたが、しかしその前に彼女は傷口をつぶさに観察し始める。そして、そうしながら耳元でそっと囁いた。

「警察沙汰にしたくない何かがあるのだな?」

 由起子が全てを合点に入れていたことに驚きながら、しかし浩平はその飲み込みの早さに感謝していた。浩平は由起子の物分りが良いことに賭けるしかないことに気付き、苦痛に歪む表情を必死で何でもないように整えた。

「あいつ、広瀬真希って言うんだ。親に暴力を受けて逃げてきてる。居場所が見つかったらまずいんだ。できれば救急車を呼ばずに治療したい、できるか?」

 後から考えてみれば、きちんとした意味が伝えられる説明ではなかったのだが、その時の浩平には断片的な情報で分かって貰うよりほかに方法がなかった。そして由起子は少し考え込んだ後、電話を掴んだままおろおろしている真希に声をかけた。

「えーと、広瀬真希さんだね。その、こいつのことだが救急車は呼ぶに及ばない。これくらいの傷なら、私が縫ってやれるからな」

 突然の申し出に、真希は暫くその意味を噛みしめることしかできなかった。しかし、由起子に縋りたいと願っているのもまた確かで、ようやくおずおずと質問の言葉を出力し始めた。

「縫うって――その、できるんですか?」

「可能だ。清潔な絹糸と滅菌された針があれば、後は裁縫するのと同じだからな」

 その物言いには、流石の浩平もぎくりとした。自分の肌をパッチワークの布か何かと勘違いしているのではという不安が心に過ぎっていく。由起子はそんな浩平に近付き、今度は少し厳しく囁いた。

「馬鹿か、お前がそこで不安な顔してたら台無しだろうが。お前は若いし、体も必要以上に頑健だ。なら苦しい時にこそ笑って見せろ。心配するな、医療行為に携わったことはないが以前にガール・スカウトで応急処置をやったこともある――ついでに言えば傷も太い血管を傷つけちゃいない。傷さえ縫えば、直ぐ治る。悪くて少し熱が出るくらいだ」

 医療系の勉強ではなくガール・スカウトの実践知識という辺りに一抹の不安を覚えずにはいられないが、しかし背に腹は変えられない。今は目の前の叔母だけが頼りだった。

「分かった、頼む。ただ――余り痛くはするなよ」

「――それだけの軽い口を聞けるなら大丈夫だ」由起子は浩平の額を指で軽く弾き、それから立ち上がる。「すまないが、真希さん――大至急、湯を沸かしてくれ。私は桶と絹糸と針を探してくる」

 しかし、真希は未だ硬直状態にあり、何をするべきか――指示をされたのかさえ聞こえていないようだった。由起子は続けて矢継ぎ早に大声をあげる。

「大至急だっ! そんなところに突っ立ってないで作業を手伝うんだ。今の状況は君にも責任があるんだろう? そうやって何もしないのが責任の取り方なのか?」

 由起子の刺々しさすらある命令にあてられたのか、ようやく真希も俯きがちな顔をあげ、それから急いで台所にやってくる。料理を端に寄せ、やかんと綺麗な鍋に水を張って火にかけた。湯がわくまでには少しかかりそうだった。

「それで良い。じゃあ私は、目的のものを探してくるからな」

 言うや否や、彼女はダイニングを飛び出し足早に部屋を飛び出していた。真希は一心不乱に、湯が早く沸かないかを見守っている。矢継ぎ早なその光景を浩平は数分の間、黙って見守っていたが、急激に視界が霞み出し、意識を保っていられなくなった。救急車が呼ばれないから安堵した為だろうかと分析してみたが、直ぐにそれすらも億劫になる。目を閉じて――そして意識が途絶するに任せた。

 直前、誰かが名前を呼んだ気もするが――。

 

――るよ。

 

 誰かの呼ぶ声を聞いたような気もするが――。

 

――あるよ。

 

 声が――。

 意識のない浩平の耳の奥から、確かに響いた。

 

 

えいえんは――あるよ。
ここに、あるよ。

 

 

 その声を聞きながら、浩平は意識を失った。

−4−

「折原、折原っ!」

 まるで、死にゆくもののように安らかな顔で目を細める折原浩平を見て、広瀬真希は思わず大声で彼の名前を呼んでいた。沸騰しかけた鍋の水のことも忘れ、床に流れた血で手が汚れることも厭わず、屈み込み彼がどうなったか一刻も早く確かめようと口元に耳をそばだてる。そして、安堵の溜息を吐いた。浩平は息こそ苦しそうだが、単に眠ってしまっただけのようだった。或いは気絶したのかもしれない。しかし、死んではいない。

「――どうした、そんなに慌てて」

 真希がそっと浩平の顔を見やっていると、小坂由起子が救急箱や桶や裁縫セットなどを抱え、ダイニングに戻ってきた。

「あ、いえ――眠っただけみたいです」

 先程の少し厳しい物言いを思い出し、自然と真希の口調も遠慮を強く含んだものとなる。その態度を見抜いたのだろう、由起子はさっきとはまるで違う優しい笑みを見せた。親子ではないが親類だけあってその笑みは浩平に似ており、何となく安心できた。

「そんなに怯えなくて良い。さっきは君も、精神的に危ういくらいに動転していた。気を紛らわせる為には、あれくらい強く言わなくては効かなかったんだ。それで、嫌な思いをしたっていうなら、幾らでも謝る」

 神妙な顔つきで由起子が頭を下げるので、真希は本当に恐縮した。今、浩平が苦しんでいるのは自分のせいだと分かっているから尚更だ。

「いえ、やめて下さい。貴女は何も悪くない――わたしが、わたしが折原を――」

「冷たい言い方をするようだが」真希は、ここで起きたことを全て由起子に告白し、その処遇を決めて貰うつもりだった。しかし、先に由起子が言葉を封じる。「先ずは、この馬鹿の治療が先だ。桶に湯を張ってくれ、たっぷりだ。それとこいつを熱湯消毒」

 そう言って由起子が取り出したのは、よく病院のドラマや漫画などで出る先が釣り針のように曲がった針だった。どうしてこんなものを持っているか真希には窺い知れないが、よく考えれば浩平の叔母なのだ。気にするのは野暮なのかもしれない。真希は黙ってその趨勢を見守った。

「――の遺したものがこんな所で――因果かな――」

「えっ、どうかしたんですか?」

「いや」と、呟きを聞かれた由起子がばつの悪そうな声で答える。「このセットはな、こいつの」と言いながら、浩平の顔を指差す。「母親がいつも持ち歩いていたセットなんだ。自分の行く先で誰かが怪我しても大丈夫なように――な」

「ということはつまり――お医者さんだったんですか?」

「まあな。まあ――」彼女はなおも、お茶を濁そうとする。「そんなことはどうでも良い。今は――何とかしよう」

 こうなると、真希にはもう見守ることしかできなかった。由起子の手捌きはかなりたどたどしかったが、しかしそれだけ的確に一針一針進んでいくのがよく分かった。そして五針ほど縫うた後、由起子ははあと大きく息を吐いた。間もなく出血も収まり、彼女は清潔な布で血や汚れを拭い、消毒措置を施し、それからきつく包帯を巻いた。この時だけは真希も手を添え、由起子の治療を手伝った。

「はあ、何とか――なるもんだな」由起子は額から流れる汗を拭い、そして真希にウインクしながら軽口を叩く。「しかし、汗が酷い。どうして手術のシーンで、外科医の汗を拭う役目の奴がいるのか分かったような気がするよ。こりゃ、下手すると長距離走よりハードだ。ったく、手術代は来月の小遣いよりカットだな」

 両手をぷらぷらさせながら、しかしその目は温かく浩平に注がれている。その姿を見て真希は――血の繋がりがなくとも立派な家族というのは成り立ちうるものなのだなと、感慨深いことを思った。と同時に、血の繋がりがありながら果てしなく壊れてしまっている自分の家族を心から疎ましく感じた。真希の中に憂鬱な心が沸き立つのを感じ、そしてつい下を向く。

 気が付くと、由起子がこちらをじーっと眺めていた。探るような、それでいて強制はしない――本当の大人の視線だ。

「――それにしてもまあ、大変だったな」由起子は真希のことを労うように、何度か肩を叩いた。「取りあえずはこの馬鹿をリビングのソファにでも寝かせよう。手伝ってくれるな」

 こくりと肯き、真希は由起子の背に浩平をおんぶさせる手伝いをした。それから、予想以上に重かったのか身を支える彼女をずっと支えて短い距離を歩いた。傷口に触らないようゆっくりとソファにうつ伏せで寝かし、それから二人で浩平の部屋に向かう。布団を取って来なければならなかったからだ。

 どのような部屋なのだろうかと期待して入った真希の目に映ったのは、予想以上に散らかった感のある光景だった。僅かに男の子の匂いがする、乱雑とした部屋だ。床には本やゲーム機が並び、机には教科書やノート、パーソナル・コンピュータが所狭しと置かれている。音楽が好きなのか、割と本格的なコンポが備え付けられていた。

 布団には無造作に服やパンツが脱ぎ捨ててあり、真希は思わずあの時を思い出して赤面した。ぎこちなく肌を重ねあった後も、床に服やら下着やらが投げ捨ててあり、その為に少しだけ恥ずかしく思った。服を整える暇もないほど、節操のない自分がさらけ出されているように思えたから。そして、肌がゆっくりと熱を帯びていく。

 あの行為には、確かに激しい痛みが付いていた。思いやりも、お互いを慈しむ心も瞬時には失われていたかもしれない。それでも、真希は彼を受け入れたいと思った。浩平も、また彼女を受け入れたいと願ってくれた。嬉しかった――だからどんなに苦しい痛みでも、彼から与えられるものだから、心にとっては痛みでなかった。

 体は確かに痛かったけど、心は――確かに優しく包まれていた。その時は、どんなことがあっても彼のことを全て受け入れられると確信していた。愛しているという実感――しかし、その何と脆いのだろうか。実際は包み込むことすらなく、一度助けてくれなかったというだけで逆恨みし、殺そうとしていた。でも、浩平は違った。苦しみも、凶暴な刃の行き先すらもその身に包み込み、しかも決して恨み言なんて言わなかった。

 同じ人間――と、学校ではよく教えられた。人間は同じ――冗談じゃない。現状の何処をどう照らし合わせれば、全ての人間に同じなどというレッテルを張れるのか。単に霊長類ヒト目ヒト科という生物学上の共通点があるだけだ。

 浩平や、そして今側にいる小坂由起子という女性に比べて自分は何と小さく何もできないのだろうと、真希は自己嫌悪に苛まれた。更に自分には、娘を躊躇無く慰み者にしようとする卑小な父親しかいないのだ――そう考えると、やはり目の前にあるのは絶望だった。

 由起子は浩平の下着や服をぶん投げ捨てると、布団を持ち出し軽い方を真希に渡した。もう一度下に下り、少し寒そうにしている浩平に布団をかけた。真希もそれに倣う。それから由起子は、暖房を少しだけ強くした。

「血を流すと体温が下がるからな。兎に角暖めて、それから美味いものを食わせることだ。ただ、現状では一つだけ問題があるのだが」

「問題――何ですか、それは?」もし、それが浩平の命に関わるようなものだったら、そう思うと口調も自然と強くなった。「わたしは、協力できるんですかっ!」

 余りに強い剣幕だと言ってみてから分かり、真希は口を噤む。そんな自分に、由起子は優しく声をかけた。

「そうだな――寧ろ、君にしかできないことだ。私は遺憾なことだが、息子の危機にも関わらず会社を休めない。遺憾なことだ、とても遺憾なことだ」と言いつつ、由起子は全く残念がっていないようだった。「現状では、怪我をした浩平の看護をする人間がいない。献身的に愛情を以っていつも付き添ってくれ、美味しく滋養のある料理を作ってくれる優しい人間だ。ああ、どこかにいないものかなあ」

 由起子はいけしゃあしゃあとそう言ってのけ、ちらと真希の方を望んでくる。言いたいことはよく分かった。要するに、その人物になれと言っているのだ。しかし、自分にその資格があるのだろうか――真希は迷った。料理は確かにできる、しかし献身的という意味でも優しいという意味でも相応しくないという自覚があった。

「――わたし、そんなに優しい人間じゃない」

 だから思わず、そう叫んでいた。

「わたし、全然優しくない。それどころか折原に酷いことばっかり――困らせたり、苛々させたり、それに殺そうとした、憎いって、折原のことを憎いって一度だけ本気で思ったのよっ! 全てを受け入れたいって言ったくせに口先、口先だけだったの。それに――わたし、家出してきたの。とんでもなく、厄介者なのよ――」

「厄介者の扱いならこいつで慣れてるさ」真希の必死の言葉にも、由起子は柔らかい笑みで受け流したようだった。「しかし、こいつが死んででも守りたいなんていう女の子だ。追い出す訳にはいくまい? 勿論、私としても君を歓迎する。どのような事情があろうと、私は真希さんの味方だよ。いつでも好きなだけいてくれて良い。勿論、私のいないところで存分にいちゃいちゃしてくれても構わない。但し避妊だけはするように――どうした、何故そこで紅くなる?」

 由起子にそう指摘され、真希は思わず顔を押さえた。しかし、それこそが由起子の策略だと気付き、余計に発熱する顔面を感じられた。彼女は気付いただろうか? 上目遣いに見つめる真希に、しかし由起子は平静を装っている。

「どのようなことがあったかはこの際、聞かない。話してくれるというなら別だが、そこまで野暮にはならないさ。辛いことがあった、だからここに逃げてきた。私も浩平もそれを受け入れると言っている――何も問題はない筈じゃないか」

「でも、迷惑をかける――」

「それも含めて『受け入れる』って意味だ。都合が悪ければ投げ出すなんて、そんな浅ましいことを考えているのならそんな言葉は使わない」

 その言葉は殊更、真希の耳に優しく響いた。そのような受け入れ方を真希もまた、望んでいたから。由起子と視線を合わし、しかし直ぐ逸らしてしまい――でも、ちっぽけに思えそうな決意を胸に抱きしめて、再び視線を向けた。

「ありがとう、ございます――」

 真希は、深々と頭を下げる。この恩に少しでも、微かでも報いたかった。しかし、由起子はそれを留める。些細なことを気にするなとでも言わんばかりに。

「良いってことだ。人間ってのは困った時に助け合って初めて、生きることのできる人間だからな。日本人ってのは兎角、支えることにも支えられることにも遠慮し過ぎだ。もう少し、肩の力を抜いた方が良い。ここも、自分の家だと思ってくつろいでくれて良いし、このろくでなしなんて――」

 なんてことをさらりと言いながら、浩平に視線を向ける。

「死ぬほどこき使って構わないからな。その代わり――」と、そこまで話した瞬間、由起子の口調ががらりと一変した。本気の鋭い目つきで真希を捉えている。「死のうとか物騒なことは考えるな。成程、確かに苦しい目にはあったかもしれない。親に暴力を受けて、今までも色々な目にあってきたかもしれない。でも、まだここがある。お前のことを本気で思ってくれてる奴がいる。そういう奴が、場所がある限りは死ぬな。死ぬなら、あがいてあがいてあがきまくって、何もなくなって本気で絶望した時にだけ、死ぬんだ。それが――少なくとも、十は貴女より生きている人間のお節介な忠告だ。まあ、聞こうが聞くまいがそれは勝手だが――」

 その真摯さに、真希は思わず唾を飲み込んだ。その視線だけで射殺されるかと思った。しかし、由起子の見せた厳しさはそれだけで、ふっと頬を綻ばせる。彼女のいう厳しい忠告というのは、もう終わりのようだ。後は、最初から真希に見せている優しげな雰囲気だけがその全体を包み込んでいるようだった。

「疲れただろ、真希さんも寝たら良い。心配なら、ソファの横に布団を引いても良い。怖いのなら、まあ私が添い寝してというのもやぶさかじゃない――とだけ言っておこう」

 しかし、その言葉は由起子にとって恥ずかしいものだったのだろう。子供っぽく、ぷいと顔を背けた。真希は思わず微笑ましい気分になる。そういう、照れ臭いことをいって後で後悔して照れる癖は甥と叔母という関係ながらそっくりだった。真希は本気で二人の関係が羨ましかった。だからこそ無意識に、細かい網から抜け出すようにそれも口をついてでていた。

「良いなあ――」

「ん、何が良いんだ?」

 良いなあという真希の呟きに、由起子は無邪気な瞳をよせる。不思議を求める子供のような表情に、思わず真希はぽつり、ぽつりと言葉をもらしていた。もらしながら、自分の心をもゆっくりとゆっくりと語り始めていた。

「折原と、叔母さんの関係が良いなあって、羨ましいなって思ったんです。だって、血の繋がりもないのにこんなに温かい関係で――それなのにわたしも、わたしの家族も、どこまでもどこまでも冷たくて、救いようがなくて――わたしが一番、救いようがなくて――」

「そこまで言わなくても――」

「いいえ、そうなんです。そう――」

 真希はある決意を固めながら、おそるおそる言葉を紡いでいった。そう、浩平も由起子も自分を受け入れると言ってくれた。ならばその受け入れる自分は――。

 全てを曝け出さなくてはならない。そう、今まで話したこと、話さなかったこと、話したけど本当は嘘ばっかりだったこと。全部、全部――そう、全部。

「酷い人間なんです、わたしは。色々なものを壊して、大事なものを一杯一杯わたしの手で壊してしまって――折原も貴女も、聞かないでくれたけど、話し――話したいんです。わたしは、貴女に話さなければならない――」

 涙が出そうなほど、強い決意だった。自分でもどうしてこんな決意が出るのか分からないくらい、言葉も、心も強い。今なら――話せそうだった。今まで誰にも語らなかったことすらも。

 真希のそんな心を察したのかもしれない。由起子はしかし、わざと少しだけふざけてみせた。浩平が真剣な話を聞く時にする、それは仕草に近い。

「そうか、では私は迷える子羊の悩みを聞く牧師というわけだな――」

 由起子は居住まいを正し、真希に正対する。その仕草だけでも、言葉とは裏腹に真剣だということが見て取れた。真希は大きく瞬きをし、唾をゆっくり飲み込んでから。語るべきことを探し、そして最も大切な――そして後悔すべき思い出から、語ることにした。

 そして、真希は、口を開く。その存在の本質を、感慨を込めて。

「義兄さんが死んだのは、三年前のクリスマス・イヴだった――」

−5−

 夢の中だけど、それが夢の中でないことも分かっている。そう、何もかも分かっている。これは、自分の過去の中なのだということが。

 十六歳である折原浩平は、その姿を通して十年前の自分を見ていた。最初に見えた光景は、母が泣き崩れているところだった。母はお医者さんだった。だから妹のことを治せると、浩平は信じていた。浩平もまた、母に妹の退院をせがんだ。母はヒステリックに浩平の手を打ち払った。そして、そのまま母は泣き出した。浩平はどうして良いか分からずに、ただ一人で居間を抜け出した。そして部屋に戻り、布団を被った。母に怒鳴られるのが怖かったから。

 でも、その時は浩平もまだ悲観的ではなかった。妹はちょっとした病気で入院して、直ぐに戻ってくると信じていた。だって、妹は、みさおは自分の妹なのだから。自分より遅く生まれてきた人間が、自分より早く死んでしまうなんて想像もできなかった。お医者さんも看護婦も浩平の頭を撫で、直ぐ治ると言ってくれた。そして、妹想いのお兄さんだねと誉めてくれた。浩平はそれが誇らしげに思えて、時には授業を抜け出して会いにいった。みさおは喜んだけど、同時に少し怒りもした。授業を抜け出すのは悪い子供のすることだと、まるで教師のようだった。だから、浩平も授業を抜け出してまで病室に顔を出すことはしなくなった。

 母は、しかし病室に一度もやって来なかった。妙なお札や壷を見せて、これでみさおの病気が治ると自信満々だった。爛々とした目を輝かせ、口元を歪める母の表情を浩平は少し不気味だと思った。しかし、みさおが治るということは嬉しかった。

 でも、みさおの調子は悪くなる一方だった。苦しみの汗をかくことが多くなり、体重もどんどん減っていった。まるで風船に入れた空気が少しずつもれて萎んでいくようだった。流石に浩平も、これがただの病気ではないということを段々と感じ始めていた。いや、幼いからこそ寧ろ大人よりも強い何かを感じ取っていたのかもしれない。

 ある日、母が失踪した。財産も土地も全てを何とかという教団に捧げて出家してしまったらしい。勿論、浩平には居場所がなくなった。浩平に残されていたのは、数ヶ月分の妹の入院代だけだった。これだけは、母が残していったのだ。或いは、これが母に残された健全な人間らしさというものだったのかもしれない。

 机には殴り書きに近い字の手紙が残されていた。

『みさおを救うにはもう、力のこもった物では叶わないのだそうです。私自身が力のこもった者にならなければならないのです。幸い、導師は全てを捧げることと引き換えにその力を与えてくれることを約束してくれました。奇跡を起こすことすら厭わない人智を超えた力! そう、もうこれ以外に方法はないのです。みさおを救うにはこの方法しか――私は行きます。かけがえのない宝を救いに行くのです――』

 浩平は、母がみさおを助ける為に頑張っているのだと思った。けど、叔父さんの話によるとそれは違うらしい。母は頭が狂ってしまったそうだ。意味は分からなかったが、母がいなくなって嫌いな叔父さんの元で暮らすようになって浩平の関心を占めるのはますますみさおだけになった。他に家族は誰もいなかった。

 けど、みさおは日に日に弱くなっていった。手術をして『あくせいしゅよう』に侵された部分は全て切除した。浩平にも、もうみさおが帰ってこないような気がしてならなかったが、みさおの前でだけはそれは出さなかった。

 男は泣いちゃいけない――らしいから。

 浩平は我慢した。妹がどんどん痛々しい姿になっていくのも耐えた。歯を食いしばって、目をぎゅっと瞑って耐えた。でも――どんなに耐えても終わりの時はやってきて――。

 最後にみさおは苦しいよと、辛いよと泣きながら――しかし、本当の弱音は決して見せずに動かなくなった。永遠に、永遠にだ。この時、浩平は初めて後から動き出したものが先に止まってしまうこともあることを悟った。悟りたくもないことだった。

 それからずっと、雨が降った。まるで浩平の代わりに涙を流してくれるかのように。しかし、浩平自身が泣くことを留めることはできなかった。もう涸れきってしまうのではないかと思えるくらいに泣いて、その間に浩平は嫌いな叔父さんの家から会ったこともない叔母さんの家へと引き取られていった。

 新しい家に入っても、浩平はめそめそとばかりしていた。毎日は全然楽しくなかった。叔母さんは何も言わなかった。ご飯だけは毎日きちんと用意してくれた。そんな日々が沢山続いたある日のことだ。

 

 

 

 えいえんが――。

 浩平の側で――。

 微笑を浮かべた――。

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