−8−

 目覚めると、最大級のけだるさが折原浩平を襲った。頭の中に鐘でもしこまれているのかと思うくらい、頭ががんがんとする。特に腰から下が妙に重い。何故だろうと思いふと隣を見て、先程までの行為を思い出す。時計を見ると午後の四時を少し回っている。どうやら三十分ほど眠っていただけのようだった。

 広瀬真希はまだシーツにくるまれて、穏やかな眠りを受け続けている。浩平は何度か頭を振ると立ち上がり、脱ぎ捨てた衣服を身に着けた。そして、指折りで回数を確認する。

「えっと、一、二、三――流石に、ちょっとやり過ぎたか、体だるい――」

 寝ぼけ眼を頻りに擦り、しかしみるみる間に頬が紅潮するのがよく分かった。でも、互いに最も高いところで果てるという凄まじく充足に満ちた体験をすれば――それを繰り返したいと願うのは、当たり前の筈だ、と浩平は自らの心に弁解する。しかし、説得力はなかった。

 取り合えず、何か飲み物でも用意しようかと階下に向かおうとした時だった。ドアをノックする音が、僅かに響いた。何度も何度もドアを叩き、しかし声をかけることもチャイムを押すこともしない。浩平は不信感を覚えた。まるで――。

 そう思った瞬間、今度はチャイムが鳴った。三度繰り返し鳴らされ、それからまるきり反応がなくなる。浩平は唾を飲み込んだ。今のは家に人がいるか確認する為に泥棒の取る常套手段だからだ。幸いなことに、真希は目を覚まさなかった。浩平はその相手を確認する為、ゆっくりと下に向かった。そしてキッチンに向かい、凶器のナイフを一本手に取る。もし、相手があいつなら――真希の父親であるなら――その可能性はある。彼女は今朝、何処かに買出しに行っていた。この辺りに買出しにいける場所となると、場所が限られている。頭の良い相手なら、そういう場所を随時、見張っているだろう。

 社会人の癖に? 有り得ない話ではなかった。真希の話によれば、父親の彼女への執着度は並々ならぬものがある気がしてならない。既に今の社会的地位だって、捨てている可能性もある。或いは探偵や興信所の職員を利用するという手もある。何より、胸をざわめかせる強烈な不安感が、相手を単なる泥棒ではなくもっと危険な何かだと断定させていた。

 浩平は自問する。これを使うべきか否か――ナイフは微かに鈍い輝きを称えている。彼は既に、自分が消え行く流れの中にある人間であることを半ば、悟っていた。そして、その時が急速に近付いていることも。自分にできることは、これだけではないか――いや、もしかしたら自分の生まれてきた目的はこれだったのかもしれない――。

 消えゆく定めの自分を利用して、一人の人間を完膚なきまで抹殺すること――その為に全ては忘れられ、そして忘れられゆくのではないか。浩平は自嘲的な笑みを浮かべた。だとしたら、希望とか幸福とか考えていたこと全部、まるで馬鹿みたいだったということになる。浩平は思わず笑いたくなった。運命、ああ運命――何と魅力的で憚りにくい言葉だろうか。それでいてなんとおぞましい言葉だった。もし、これが運命であると言うのなら、真希のことを好きになったのも、深い仲になりどんどんのめりこんでいったことも、逃れようのない一つの糸になってしまう。

 人間は自由意志の生き物である筈だ。しかし、もしかしたら人間はある一点の基に収束すべき思考があって、知らぬ間にそれを実現に移しているだけかもしれない。運命が巡り、結実する。全ては流れのままに――冗談じゃない。浩平の心に憤りがわく。これまで体験してきた喜怒哀楽、そのどれもがただ一つのことの為に成されてきたというのか、いやそんなことは認めない。浩平はそのことを強く否定すべく、首を何度も振った。そして彼女を愛したことも必然ではない。例え、幾つもの有り得ない偶然が重なったとしても、鳴動する粒子の瞬きの中でそれは零ではない。信念があれば、壁をすり抜けることだってできる。そのような揺らぎこそを浩平は信じた。

 消えゆく定めなんて存在しない。なら、何故、今になって記憶が損なわれているのだろう。浩平は考える。お菓子の国は自分の中にこそある。それなら、その国に行くことを恐れた時に何故、それは初めて発動したのだろう。浩平は自問するが、答えは出ない。窓をガンと叩き付ける音が、リビングから響く。そして次には控えめな破砕音。そして割れた硝子を無遠慮に踏む音。間違いなく、彼は――真希の父親は直ぐそこまで来ていた。最早、一刻の猶予も許されない。

 どうする? 殺すのか?

 ここで一人の人間を殺し、誰からも永遠に忘れ去られるか――それが良い、理屈では分かっていた。ただ一人の、しかも愛し合った女性の中にだけ思われ続けるのは少々辛い。苦しみを生むだけだということは、浩平が一番よく知っていた。それに、あいつは死ぬべきだ。例え最愛の女性の敵でなくても、家族を蔑ろにし欲望を満たす道具としか思っていない人間なんて、生きている価値はない。これからも不幸な人間を生み出すだけだ。しかも暫くは、法律や憲法が彼を守る。そんなことが許されて良い筈がない。正義の為だ――。

 そこまで考えて、また浩平は可笑しくなった。正義の為だと言うのなら、殺人を犯す自分が最も日本国憲法に反している。今の日本ではどんな非道な奴でも、それを殺した人間の方が長い罪に問われる。それは勿論、正しいことだ。悪い人間だからといって殺すことに軽い罪しか与えられないのなら、仇討ちや復讐が横行してしまう。そのことは江戸時代――いや、もっと以前から盛んに言われていた。大局的に見れば、それは間違っている。

 しかし、それでも仇討ちや復讐、自衛の為の殺人は消えない。それは、より小さな視点を持って生きているのが人間だからだろう。お腹一杯食べたい、仲の良い友達と騒ぎたい、何かが欲しい、何かが足りない、人間はそれだけの理由でも平気で人を殺すことがある。自分もそうなのだろうか――浩平は一歩一歩、着実に近付く足音を真正面から見据えて考える。

 自分は何が欲しい? 何を一番望んでいる?

 愛する人を永久的に救うこと?

 否だ。

 浩平は、愛する人を救いたいという思いが今の存在理念、行動観念になっていないことに気付く。では、何だろう。何を求めているのだろう。そう――浩平には最初から分かっていた。浩平の望みは自分が消え行く存在になりつつあった頃から、たった一つだった。ただ、それが真希にとってあまりに残酷であるから、記憶の底に閉じ込めていただけだ。

 その――。

 望みはただ一つ。

 浩平が真希の父親と対峙した時、だから浩平の決意は固まっていた。

 だから――。

−9−

 酷い、暴風雨の船の中にいるようだった。がしゃんがしゃんとシャンデリアが砕け、船体の軋む鈍い音がし、そして横倒しになったところに新たな波と暴風が容赦なく船を苛む。最早、船は沈没寸前だった。その船を辛うじて支えているものは二本のマストと操舵手の勇気、そして嵐の気紛れのみ。広瀬真希はとうとう船から転げ落ち、大量に水を飲みもがき苦しみながら――。

 目を、覚ました。

 腰から下が特に寒い。ほうとする思考の中でようやく肌寒さの原因を悟り、思わず布団を被る。隣を見ると折原浩平の姿が見えない。先に下りてシャワーでも浴びているのか、それとも飲み物を用意しているのか――兎に角、汗をかき過ぎたうえに疲れる夢を見たこともあって、喉が大量の水を欲していた。階下に向かい、しかしそこでぞっとする程の静けさと聞こえる筈のない音に直面した。まるで人の息遣いがしない反面、風の息遣いや布の強くはためく音が無性に耳に響く。そしてその中に、更なる恐怖を誘う声が混ざっている。真希は思わず、リビングに繋がる扉を開けた。

 ばたばたばたと、カーテンのはためく音が急に強くなる。ヒータの熱もなく外気を入れっぱなしにするだけの窓は、粉々に砕けて原形すらない。鍵はこじ開けられている。明らかに、誰かが無断侵入したのだ。しかし、そんなこと大して重要じゃなかった。真希の目を釘付けにしたのは、その中心でぼろ雑巾のように痛めつけられ倒れている、浩平の姿だった。

「――な、折原っ!」

 うつ伏せ気味に倒れ、後頭部からも血の流れているのがはっきりと見えた。服越しでは分からないが、全身が青痣に満ちているのは服を脱がさなくても何となく分かる。顔も幾許か腫れ上がり、目元は明らかに切れているようだった。

「どうしたの、折原、何が、何があったの?」しかし、何かがあったのは明白だ。本当に聞かなければならないことは――。「誰が、何の為に、こんなことをしたの? まさか――」

 真希はあることを想像し、途端に震えが全身を走った。あいつだ、とうさんが――希春がここまで来たんだ。見られてた? そう、見られていたのだ。でも会社があるのに、いやそんなこともう彼には関係ないのかもしれない。兎に角、見られていた。軽率――余りにも迂闊な行動をしていたこと、そしてその帰結が浩平への暴力という形で現れた、その事実だけで真希を動転させるには十分過ぎた。

「ねえ、折原、返事してよ――」

 服を掴み、しかし決して揺さぶることはしない。怪我が余計酷くなりそうで怖かったから。するとうめき声に混じって、血に汚れた手が真希に伸ばされた。少しだけこちらを向いた浩平は苦しそうだけど、僅かな笑みも浮かべている。

「なんだ――真希か。もうちょっと、上で寝てても良かったんだぞ」

「馬鹿あっ!」浩平の散々たる有様にも関わらず、真希は思わず罵声を飛ばす。余りにも愚直すぎるその態度に、怒らずにはいられなかった。「何で折原が殴られないといけないの。そこまで義理立てすることないじゃん。第一、折原の方が強いのに何で反撃しなかったの? もしかして、わたしのとうさんだから? 遠慮してできなかったの?」

 もしそうだとしたら、二重の意味で罪深いことになる。真希は意地でも浩平を問い質し、本当のことを聞きだしたいと思った。しかし、浩平は微笑を浮かべながら否定する。その笑みが余りに穏やかだったから、真希は何も言えなくなってしまった。

「違う、これは俺の、我侭だ」

「我侭?」彼の言い方が随分、場違いなものに思えて、真希は首を傾げた。「我侭って、どういうこと?」

 すると、浩平は先ず口を噤む。あまり真希には喋りたくない事柄のようで、しかしだからこそ余計に聞きたくなった。どうしても、情報を仕入れずにはいられない。彼は苦しそうに肺を何度か動かした後、物憂げに語り始める。

「俺、最初は殺そうと考えてた。だって、真希のことを苦しめてるから――あいつさえいなければ、お前のことを救い出せると思った。後は俺のことを忘れてくれれば、何も問題ない。それで平穏な生活が取り戻せて、俺は誰からも思い出されなくなる。それで良いと思った、本気でそう思っていたんだ――」

「そんな――わたしは、そんなこと望んでない」

 真希は思わず口を挟んでいた。幾らなんでも、好きな人に殺しの罪を着せようとするほど厚顔無恥ではない。でも、人知れず追い込んでいたのなら同罪なのかもしれない。浩平のことを信じず、彼がいてさえ不安を口にしたことも何度かある。浩平はその度に深く、その考えに傾倒していったのだろう。災厄の根源を断つことで終止符を打つということを。

 それに、本当に望んでなどいなかったのか? 口先だけではなく、本当に? ほんの少しでも浩平に期待してなかったか? 真希は自問し、否定した。そんなことの為に、自分は浩平を好きになったわけではない。ただ、胸が張り裂けそうな想いに従って、彼を好きになった。それは間違いない、絶対に。

 どんな苦しみも、浩平を失うことに比べたらものの数ではない。彼を失うことこそが、本当の苦しみなのだから。

「わたしは折原のことが好きなだけ。そしてね、わたしのことを好きでいてくれれば良いの。それだけで満足なの。折原のいない救いなんて考えられない、だって折原の存在がわたしを救ってくれてるんだもの。だから、折原――」

 いなくなって欲しくなんかない。真希は殆ど熱烈な調子で浩平を求めた。しかし、彼は寂しそうな表情で逆に問いかけてくる。

「真希は今、俺がどうなろうとしているか、知ってるだろう?」

「知りたくないっ!」真希は思わず叫んでいた。「そんなの知りたくないっ! 折原はずっとわたしの側にいるの、側にいるのよっ! ここがばれたならもっと遠くに逃げても良いよ。二人ならどこでだって幸せに暮らせるよ、二人なら――」

 北海道の北の果てだって、沖縄の南の果てだって、浩平がいれば楽園になる。真希は本気でそう思った。でも、浩平はとても困った顔で傷ついた手を伸ばし、そっと真希の頬に触れるのだ。まるで駄々をこねる赤ん坊をあやすかのように。

「ごめんな」浩平は後悔を顔に滲ませ、何度も頬を撫でながら言葉を滑らせていく。「俺には、真希のことを救うことができない。ただ相手に殴られるに任せ、相手を疲弊させ、追い払うのが関の山だった。望みを叶えることもできない。なのに、俺は自分勝手なエゴで願ったんだ、俺は消えてゆく。誰にも知られず、誰にも悟られることなく。最初はそれで良いと思った。でも――」

 耐えられなかったんだと、浩平は苦しげに呟く。それだけで真希には全てが理解できた。その次の言葉は必要なかった。確かに我侭だ、途方もない我侭だ。誰からも忘れ去られた存在を、しかし自分にだけは覚えておいて欲しいと願うのだから。彼のことを話すたび、人は自分の言葉を世迷いごとや妄想と思うだろう。愛する人がそのような存在になってすら、記憶にだけ浩平の姿を求める――まるでゲームの主人公に恋するようなものだ。

 触れることも、抱きしめることも叶わず――記憶の中にだけ、想いの中にだけしか存在しなくなること。そのことを強要する、究極の自分勝手だった。

 しかし、真希は浩平を恨む気も責める気もない。寧ろ、これが最後のチャンスだとすら思う。かつて、真希は浩平のことを『受け入れる』といった。彼の全てを受け入れたいと願った。彼の苦しみ、切なさ、焦燥、そして記憶の全てをも包み受け入れることを真希は選んだ。頬を撫でる浩平の手を取り、そっと口づける。消えゆく存在だからこそ今この瞬間、感じられる浩平の感触が愛しくて仕方がない。

「良いよ。もし、折原が世界から見捨てられてもわたしは折原の味方だからね。世界から忘れ去られたとしても、わたしが全部覚えててあげる。大好きよ、折原――どんなことがあってもわたし、折原のことが好き」

 本当なら、とても悲しいことなのに真希は何故か笑うことができた。浩平もつられて笑う。どことなく寂しさの漂うものだったが、それでも彼は笑顔だった。

「俺は――もしかしたら凄く幸せ者なのかもしれないな」

「そうよ。だって、わたしのように健気で可愛い子に一心に愛されてるんだからね。これで幸せじゃないなんて言われたら、頬をぶん殴ってるところよ」

「――自分で言うか、それを」浩平は思わず苦笑を浮かべる。「でもまあ、それも真希らしい。柄じゃないなんて言ってるけどさ、やっぱ真希はそうやって空威張りしてさ。明るく笑ってるのが一番似合うよ。ははっ、その明るさを俺は奪おうとしてるってのにな」

「そんなこと言わないの」真希は浩平の手をぎゅっと握る。「今更、人のことを考えないで。折原は自分のことだけを考えれば良いの。もっと我侭で良いんだから。わたしと二人の時だけは我侭でいて」

 浩平の優しさに、真希は何度も救われてきた。今度は自分の番だと思った。今、存在すらも否定され消えつつある浩平を救ってあげたい。その為なら真希は何でもするつもりだった。

「我侭、か――」ふと呟き、浩平は遠い目を真希に向ける。「その、今から行きたいところがあるんだけど、支えてくれるか? 俺のことを」

「うん、それは良いけど――その体で何処に行くの?」全身きっと痣だらけで、満身創痍の筈なのに。「そもそも、立てるの?」

「ああ、それは大丈夫。骨とかはちゃんと守ったし、寧ろ――真希とし過ぎたせいで腰ががくがくだ。それで力尽きてしまう可能性の方が高いな」

「う、ば、馬鹿あっ!」

 そんなことを口にするとは、何て意地悪なのだろう。真希は顔を真っ赤にしながら、浩平を睨みつけた。それを尻目に、浩平はあっさりと立ち上がる。少しふらふらしてるけど、確かに骨に異常はないようだ。だが、真希は敢えて浩平の肩を支える。少しでも彼の体温を間近に感じていたかった。

「それで、何処に行きたいの?」

 浩平はその問いにただ『思い出の場所』とだけ答えた。けど、それで真希には十分だった。自分と浩平との思い出の場所といえば、あそこしかない。思えばあの時、殆どこわれかけていた自分を浩平が救ってくれたところから、この物語は始まっていたのかもしれない。人の生き方を物語に例えるなんて不謹慎かもしれないけど、それでも真希は思わざるを得ない。自分はただ、物語の終わりに向けてただ、進んでいるだけではないか。結末は既に決まっているのではないか、いや――真希は首を振る。

 そんな運命じみたものなど信じない。もしあったとしても、とことんまで抗ってみせる。真希の決意は固かった。そしてそれを強固にする為、残された時間を全て惜しむことなく彼の為に使いたいと願う。ただひたすらに、それだけを――。

 既に暮れかけた外に世界に身を晒すと、まるで自分と浩平以外の誰もこの世界からいなくなってしまったかのような錯覚に陥りそうになる。しかし、過ぎ行く人の声や自転車の音が確かにこの世界を現実だと断じた。現実でないのは、歪んでいるのは浩平と真希のごくごく狭い周辺だけであることを、日常は無自覚にも真希に、そして恐らく浩平にも突きつける。

 それでも、二人は歩いていく。その先に何が待ち受けていようとも、関係なかった。滲む空が俄かに眩しい。雲はまるで人間のちっぽけな時など構わないと言わんばかりに流れていく。青く白い空、日常にも非日常にもそれらは等しく、それ故に真希は少しばかり恨めしい気分にもなる。不可逆的に世界が進む、その証明だと思った。

「ねえ、折原」真希はさりげなく、疑問に思っている一つのことを浩平に話す。「わたし、やっぱり納得できないことが一つだけあるんだけど」

「ん、なんだ? 今なら出欠大サービスで何でも答えるぞ。お尻の黒子の数は真希の方が良く知ってるだろうけどな――」しかし、彼の戯言はそこでぷつりと止まる。「もしかして、どうして俺が消えるのか――ってことか?」

「ううん、違う。本当はそれも聞きたいけど、わたしはきっと納得できないと思う。難癖つけて折原を詰るかもしれない。そうなるくらいなら、聞かない方が良いのよ。どんなに理由を付けても納得できないなら、最初から知らない方が余程ましじゃない。わたしの聞きたいのはもっと簡単なことなの。折原はどうして父さんに殴られたの? 抵抗せず、ぼろぼろになるまで殴られたの? 殺すのは嫌だから殴られた――じゃどう考えても納得できない。何か理由があるなら、はっきりと答えて、折原」

 真希はその歩む足を止め、じっと浩平を見据える。殺人に手を染めなかった、そのことは理解できる。だからといって何故、殴られないといけなかったのだろう。

「困ったなあ――」浩平はわざとらしく頭を掻いた。「その、どうしても答えなくちゃ、駄目か? 真希に馬鹿って言われるの、目に見えてるからなあ」

「馬鹿、なんて言わない、約束する。だから話して」

 どのようなことであれ、体をあれだけ傷つけるという選択をしたのだから、馬鹿な理由であるわけがない。真希はそう思っていた。

 しかし、やはり折原浩平という男性は骨の髄まで馬鹿だった。

「その、だな。真希が襲われた時、どんなに苦しかったか、辛かったか、口だけじゃなく体で理解したいと思ったんだ。お陰でよく理解できた――俺が真希を初めて抱いた後に取った行動がどれだけ卑怯だったか、そして誰も助けがこないことがどんなに恨めしく苦しいか。それこそ、俺のことを殺そうとしても当然なんだなってことも、よく分かった」

「――そ、そんなことの為に? 死ぬほど痛い思いをしたって言うの?」真希の心に驚愕が走る。浩平が消える存在と悟ったときくらい、いやもしかしたらそれ以上の衝撃だったかもしれない。「何考えてるのよ、あいつは――折原を殺すかもしれなかったのに。痛みを知りたい、それで死んだら基も子もないじゃない。馬鹿よ、あんた本当の馬鹿よ。わたしの痛みを感じて欲しいなんて、そんなこと思ってないのに、この馬鹿っ!」

「ほら、だから言ったじゃ――」

「煩いっ!」彼がおちゃらけながら口を挟んでくるのを封殺し、真希は浩平の服を強く掴んだ。「そうすることに何の意味があるの? わたしの痛みなんて、ロクなものじゃないのに」

「そうかもしれない」と、浩平はあっさり肯定する。「でも、俺は真希に言ったよな。苦しいことも、悲しいことも、辛いことも、受け入れたいって。真希の痛みを知ることで、もっとお前と一つになれると思ったんだ。これも単なる、俺の我侭だな。それに、意味はあった。今の俺は真希のことを、もっとずっと近くに感じてる。だから、嬉しいんだ」

 そんな、ともれそうになる声を真希は辛うじて留めた。どうしてわたしと折原は、こんな脆い硝子のような恋愛しかできないのだろうと、歯噛みしたくなる。お互いの中にお互いを見出し、深くより深く互いだけを愛していくこと。真希の中にも同じ欲求があるから、浩平の言いたいことは理解できる。彼の痛みすらこの身に受けることが嬉しかった。ずっとずっと、彼のことを受け止めたい、感じていたい。

 でも、その先にあるのは――その終着点にあるのは、喪失でしかない。

 誰か答えて――どんな絆も優しさも想いも無意味だと言うの?

 傷ついてまで互いを求めたいというその気持ちすら、何も救ってくれないの?

 折原――。

「折原――嫌よ、嫌――こんなのってないよ」

 真希は浩平の体が打撲傷だらけだということも忘れて、彼に縋っていた。このまま彼と溶け合って同じ場所にいけるならそうしたいという強い欲求が真希の心から溢れて止まらない。

「わたしも連れてってよ。わたしと折原だけでいられる世界に行こうよ。わたしも連れてってよぉ、お願いだから連れてってよぉ。わたし、折原と一緒なら地獄にでも何処にでも着いてく。だから、連れてってよ、お願いだから――」

 みっともなく縋りつき、道路の真ん中だというのに真希は荒ぶる心を吐き出していく。浩平の優しさが、真希の心を逆に壊していた。自制も、理性も、分別も、全てを投げ出し――彼との繋がりをただひたすらに求めた。二人以外の世界などいらないとすら思ったのだ。

 しかし、浩平は首を振る。残酷なことに、真希のことをこの時だけはそっと拒んだ。

「ごめんな、それだけは無理だ。ごめん、本当にごめんな。これは俺が俺自身で解決しなければならないことなんだ。だから他者は介入できない。例え身も心も一つにしたいと願っている人間でさえも、俺はおきざりにして一人になる。一年? 十年? もしかしたら、永遠に――」

 永遠――その言葉が真希の言葉を強く揺さぶる。

 浩平は真希の瞳を見つめ返し、そして決断を迫る。最後の、そして究極の決断を。

「だから、やっぱり――忘れて良いんだぞ。俺はエゴイストだから真希に無理を言ったけど、真希が嫌なら拒んでも良いんだ。俺が俺の人生を生きているように、真希も真希の人生を自分で決めて良いんだ。俺のことが嫌になったらいつでも、忘れて良いから――」

「ふざけないでっ!」

 真希は公道であることも忘れて、浩平を怒鳴りつける。

「忘れろなんて、軽はずみに言わないでよっ! 折原、わたしに覚えていて欲しいんでしょ。だったらそのエゴを通しなさいよっ! 自分のことだけ考えなさいよ、わたしのことなんか考えないでよぉ」

 そして、言いながらも分かっていた。きっと今の言葉こそがエゴという中でも最大級のエゴなのだろう。だけど、真希はそのエゴでもって願わずにいられない。

「お願いだから――」

 今際で留めていた涙がぼろぼろと零れる。本当はどうしたいの? 側にいて欲しいの? 覚えていたいの? それとも全て忘れたいの? 真希の心は最早、何を願っているのかさえ分からなくなっていた。

 そんな真希を、浩平はそっと抱きしめる。言葉もなくただ静寂があるのみで、だからこそどのような言葉よりも想いに溢れ、そして悲しかった。そして、もう彼に殆ど残された時間がないことも直感的に理解していた。もうあと一分、一秒の間にも彼は消えてしまう。

 真希と浩平は再び歩き始める。もう、言葉はどこからも発せられなかった。どのような言葉さえももう、互いを傷つけあうことしかしないような気がする。そして、二人はその場所に辿り着く。既に血の跡もない、心の出会いの場所に。

「花束でも、持ってくれば良かったかな」

 しかし、真希は浩平から目を離さぬままに無言だった。彼は目を瞑り、手を合わせ、跳ね飛ばされた仔犬の冥福を祈っている。しかし、真希にはそんな余裕などなかった。強い欲求が襲い、真希は目を開けた浩平の体に飛び込む。そして上目遣いに彼を望んだ。彼を求めたい、そんな欲求が洪水のように溢れた。何故かは分からない、しかしどうしても今、ここでなくてはならない気がする。その衝動が真希を動かしていた。

「折原――」そして、想いをはっきりと言葉にする。「――キスして」

 彼は少し驚くような顔をしたが、しかし真希を抱きしめ顔を近づけてくる。多分、これが最後のキスになるのだろう。真希はそっと顔を寄せ、唇が触れようとした瞬間――。

 空気だけになった。

 そのまま支えを無くし、真希はアスファルトの道路に倒れ込む。自失し、その意味を考え、そして――心をかき乱していた焦燥の理由を初めて知った。

 今、その時が来たのだ。心は無意識のうちにそれを悟っていて、真希を急かしたのだ。でも、間に合わなかった。最後のキスだと真希が望んだものは、風の精霊への口づけにすりかわり、思いは風に乗って消えた。

 真希の心の中に怒涛のような後悔がわいてくる。交わしたい言葉があった筈なのに、交わしたい想いがあった筈なのに、交わしたいキスがあった筈なのに。

 その全てが失われ、今やこの地球の何処にも存在しないのだ。

 最も残酷な、そして卑怯なタイミングで――。

 折原浩平という存在は、この世界から損なわれていった。

 急激な喪失感が真希の胸にわいてくる。

 全てを忘れさせ、流してしまおうという強大な意志と流れが真希の心の中を強烈に洗い流そうと暴れ狂う。

 そして全てが過ぎ去った時、真希は跪いて泣いていた。

 別の世界に消えてしまった浩平のことを強く想い――。

 真希は忘れなかった。

 後からとめどなく流れる涙が、何よりの証左だった。

「おりはらあっ!」アスファルトに涙を溜めながら、真希はうめく。「馬鹿馬鹿馬鹿っ! 最後にキスくらい、させてくれたって良いじゃないのよおっ! なんでそう、最後まで意地悪なのよ、畜生っ!」

 アスファルトを拳で何度も叩く。拳が壊れようと関係ない、こうでもしていないと激情で心が壊れてしまいそうだった。

 でも、その片隅で――真希は今こそ本当に大切な何かが得られたと思った。大切なのは、自分に惑わされない確固たる信念を築くこと。記憶も、現実も、全ては信念から形作られているのだと。浩平との思い出を体で感じ、心で思い出せる自分を――。

 悲しいくせに。

 死にたいほど悲しいくせに。

 初めて、愛おしいと――。

 思えたのだ――。

FACTOR04, "UNPERFECT WORLD" IS OVERD.
THEN TO THE LAST PHASE, STORY OF "A PARADISE ENDS"

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