雪景色が美しいのは、それがいずれは儚く融けて消えるからなのだ。
白砂の雪は融けはしない。やがて風で飛ばされ、
あるいは雨で汚れ土や埃と混じり目立たなくなったとしても、
砂は砂としていつまでも心に残る。
心の傷も同じだ。
雪のようにしんしんと降り積もっても、それは決して融けて消えたりはしない。
汚れ、紛れ、色形を失っても、必ず"そこ"に残っている……。

(Murder on the wisp island/AMAGI Seimaru

I.自狂式歯車

〜MADDY WHEEL〜

−1−

 にいさんが死んだのは、

 三年前のクリスマス・イヴだった――。

 

 あの日のことは、今でも鮮明に思い出せる。

 昼間より幻灯瞬く街、聖夜を称える唄はいつにもまして街に響いていた。時より、近くの教会より鐘楼(しょうろう)の音が響き渡るが、人々の喧騒の中では梢の揺らぎも同然だった。日本人に、慎ましやかに聖者の生誕を慈しむ気持ちなどない。祭好きの彼らは、西洋のうってつけなイベントに託けて、恋に友情に家族の団欒(だんらん)に、そして時にはひがみややっかみに走るのだ。

 商店街には、サンタクロースが溢れていた。暑苦しい髭を付け、中身はきっとプレゼントではなく綿と発砲スチロールであろう袋を担いだ羽根のない天使。しかし、彼らが商店街の大人たちの変装であることなど、今時六歳児でも知っている。それでなくとも泡は弾け、不況に流して幾時も過ぎていた。子供に精々、恩を売るためにサンタの功績の多くは親の功績と成り果てている筈だった。

 ターキィを買い物袋に溢れるくらい買い込んで、帰路につく親子連れ。きっと、今日の夕食は母親が腕によりをかけたパーティ料理が振る舞われることだろう。ケーキの売れ行きも芳しく、プラカードを抱え宣伝をして回るサンタクロースの顔にも、自然と綻びが現れていた。

 商店街の中央では、歳末の福引がひっきりなしに音を立て、悲喜交々(こもごも)の光景を映し出している。まだ特等の賞品は出ていないが、恐らくは今日まで抑えておいたのだろう。客の方もそれは心得ているらしく、三泊四日の旅行券を手中にしようと、老若男女が列を成して順番を待っている。酒屋ではシャンペンやワインが飛ぶように売れていた。配達に出向く店員もてんてこまいで、汗を振り撒いていた。

 そんな騒ぎを横目に通り過ぎながら、わたしは目的の場所へと向かう。駅前のブティック、そこでにいさんに新しい洋服を買って貰う予定だった。

 普段は服になど興味を持たないわたしだが、可愛い顔とスタイルが台無しだと事あるごとに言われ、洋服の一つでも見立ててやろうとせがむので、仕方なく呼ばれてやった訳だ。生憎、わたしはまだ中学生なので、終業式をサボる訳にはいかない。校長先生のスロウ・テンポで堂々巡りな話を苛々しながら聞き、わたしはこんなにも短気だったのかと再認識した。

 終業式が終わり、今度は担任教師がくどくどと注意事項を述べる。曰く、夜更かしするな。曰く、事故には気を付けろ。曰く、中学生としての自覚を持った行動をしろ。わたしと同じよう、クラスメートの耳にひどいたこが出来てしまう頃にようやく、プリントや宿題が渡されて解散となる。にいさんは、わたしのことを待ち続けているかもしれない。わたしははやる気持ちを抑えるのに、最大限の自制を保たねばならなかった。

 鞄を両手で抱えたまま、いつもより少しだけ重い荷物を支えながら商店街を抜け、町中を歩き、公園の脇を越え、駅前の店舗を次々とやり過ごしていく。街一番、立派に彩色された杉の木のすぐ側に、ブティック『フォルティシモ』はある。道路を挟んで向かい側から辺りを見回すが、にいさんの姿はない。わたしは先に到着してにいさんを驚かせてやろうと、いても立ってもいられず、道路を確認せずに横断歩道を駆けて行った。ただ、少しでも早く、そんな願いを胸に秘めて――。

 それが、全ての、過ちの、始まりだった。

 フォルティシモより遥かに激しい摩擦音。眼前に迫る巨質量物体が大型トラックと分かった時には、わたしの身体は物理法則に反して跳躍していた。増大する疑問符、アスファルトに転げ落ちるわたしの目に刹那、映ったものは――。

 にいさんが、トラックから正面激突し、

 無残に引きずられていく、残酷なシーンだった。

 額に、瞳に、唇に――。

 制服に、スカートに、靴下に――。

 真っ赤なシャワァが降り注ぐ。

 赤く、粘く、温く、怖気の走る――。

 真っ赤な真っ赤な血液の雨。

 にいさんは、まるで西部劇に出てくるダンピールのように、

 何メートルも転がり、ようやく止まった。それはもう、

 まるで意志を持たない無機物のようであった。

 悲鳴や喧騒が聞こえる。

 わたしは無意識のうちに、怒号と罵声の中心へと近付く。

 にいさん――と、わたしは声をかける。

 ごめんね、にいさん――と、何度も声をかける。

 にいさん――と、最後に呼びかけ身体に縋り、

 血のせいで生暖かいその肢体をかき抱いた。

 ……じょうぶか――と、にいさんは唇を動かす。

 だいじょうぶ、か――と言い、にいさんはわたしのことを心配している。

 わたしは大丈夫、だからお願い――。

 死なないで――。

 儚く虚しい願いが胸を突く。

 その想いに答えてか、にいさんの口が何言かを紡ぐ。

 虚無に捧げるような、笑みを含んで――言葉は永久に凍る。

 にいさんの口から言葉がこれ以上、漏れることはなく、

 にいさんの口から、これ以上、空気が漏れることもなかった。

 

「うわあああっ、賢(まさる)、まさるうっ!!」

 顔も、骨も、組織も、内臓も――。

 粉々に砕けてしまったにいさんの遺体に顔を伏せ、昭子(しょうこ)さんは先程から大声で泣き喚いていた。とうさんは、そんな彼女の手を握りしめ、必死に慰めている。ねえさんは、この中で一番、複雑な表情を浮かべ、おとうとの死に姿を凝視していた。わたしは、それらの光景を虚ろな瞳で、客観的に見つめていた。

 この両の瞳は、にいさんの血を浴びて錆び付いたかの如く、ただ訥々と巡りゆく映像を映し、脳に送るだけの装置に成り下がっていた。視界の端々に浮かぶ赤い斑点――わたしの服や皮膚に付着する、にいさんの血。今となってはそれだけが、直接にいさんのぬくもりを感じることのできる唯一の術だった。にいさんの肌からは、既に温もりが失われて等しい。しばらくすると、霊安室の温度と等価され、平均化していくのだろう。あの、暖かな腕の感触もきっと、今はもうない。

「真希(まき)、血塗れの格好じゃ気持ち悪いだろう。病院の方で風呂と着替えの方の用意はして頂いたそうだから、浸かってきなさい」

 とうさんは血に塗れたわたしを、にいさんの死に直面したわたしを、憐れむような視線で望んでいる。でも、何を憐れむ必要があるの? どうして、にいさんの血を洗い流す必要があるの? この微かな温もりが、今のわたしを正気と繋いでいてくれる唯一の絆なのに――にいさんの証なのに。

 洗い流すなんて、とんでもないことだ。

 嫌――と、撥ねつけてわたしはにいさんの側による。ねえ、今、にいさんはわたしの元にだけあるの。ああ、にいさんが死んだというのに、にいさんを独占できて嬉しがっているわたしは、きっと狂っているのだろう。悲しみもせず、愉悦の笑みが自然と浮かんでくるわたしは、骨の隋まで気が違えているのだろう。

 でも、この場所で正気で居ることと狂気でいることにどれだけの違いがあるのか。

 昭子さんは、未だに、気が狂ったように泣いている。

 わたしも、ただ気が触れたように泣いてしまえれば、きっと少しは楽だった――。

「我侭を言うな、いつまでもそんな格好でいる訳にもいかないだろう」

 とうさんは徐々に歩を進め、間を詰めてくる。一歩、一歩、まるで凶暴な山猫を諌めるように。凶暴な山猫、そう、わたしは御し難い妄想に歪んだ猛獣なのだ。暗示にかかったように、脳が徐々に白熱を始める。正気を犯す狂気が抑えつけられるより激しく、狂気を封じ込めようとする正気は狂い続ける必然。摂理に従い、わたしは暴する。

 片腕を掴んだとうさんの頬をもう片方の腕の指の爪で引っ掻き、出口に走る。ここさえ逃げ出せば、誰もわたしの邪魔をする人はいない。蓄えられた思い出も、血の色をした絆も洗い流されることなく――。

 えいえんに、いられる――。

 けど、現実はそこまで妄想に優しくない。とうさんは遮二無二、わたしを抑え付け、様子を伺っていた医師や看護婦も加勢に入った。わたしはとうさんの腕を更に引っ掻き、医師の腕に噛み付き、看護婦の被るナースキャップを分捕り、歯で引き裂き、引き裂いた布でとうさんの首を絞めてやろうとした瞬間――一つの行為に没頭した所為だろう。左腕が強烈に固定され、そして激しい痛みが皮膚と血管を貫いた。

 医師の手には、注射器が握られていた。針の先には、僅かに血が滲んでいる。何故か安堵の表情を浮かべるそいつの顔を壊してしまいたくて、わたしは注射器を奪い取った。油断していたのか、それは簡単にわたしの手に渡る。それをそのまま、わたしにしたのと同じよう、腕に突き刺してやった。医師は突然の痛みに喚き、転がる。

 看護婦は怯み、とうさんがわたしを戒める力も弱い。逃げるなら今だと駆け出すわたしに、強烈な脱力感が押し迫ってきた。どうして――このドアをくぐれば、わたしは何者からも自由になれるのに。にいさんと一緒にいられるのに――。

 どうして――。

 この身体は一歩も、動かないのだろう。

 脱力する肉体、崩落する精神。

 誰か、わたしを――。

 にいさんと同じ場所に、連れて行ってください――。

 

−2−

 意識は認識の範囲より野暮ったく、苛々するほどの緩慢さを以って回復していく。その気だるさ、神経の復調、活脈する血液の流れ、筋肉の緊張を無意識の内に確かめながら、わたしはそっと目を開いていった。

 覚醒と同時に増す光量に比例し、偏頭痛が緩く前頭部を覆い始める。意識して日の光を避けると、今の状況を認識しようと視線を動かした。何しろ現在、どのような状況に置かれているのか、まだ理解できていないからだ。光を避けると、頭痛は幾らか和らいだようだった。

 少し黄ばんではいるが、清潔そうな部屋だった。白で統一された天井や壁の色、完全に茶ばんだカーテンから覗く薔薇模様は、ドライフラワのように味気なく、寂しい。少なくとも、わたしの部屋ではないようだ。わたしの部屋のカーテンは、薄いラベンダと同名の花があしらわれた新品だから。では、ここは何処だろう。わたし以外誰もいない、寂しい部屋。少し体温の低い身体を包み込むのは、清潔そうな白いシーツでカヴァされた質素な綿布団のみ。微かな漂白剤の香りがするが不快ではない――寧ろ、心を落ち着けてくれる。

 安らぎに混じり、何かの違和感が侵入する。嗅覚から盛んに喚起される違和感の原因を探ろうとするが、鈍い頭では上手く正解に至らない。機敏な思考はわたしの得意領域だったが、今は錆び付いているらしい。わたしは隣のデスクに目をやった。

 真珠色の花瓶には、花一刺しすら飾られていない。後は、少し埃を被った十四型のテレビが一つだけ。他には何もない――勉強机も、漫画と小説が七対三で埋まっている本棚も、お気に入りのカーテンも、猫の絵がプリントされた対のクッションも。勿論、今年の誕生日ににいさんからプレゼントされた、熊の縫いぐるみも存在しない。ここはつくづく、わたしの部屋でないことに気付かされ、反比例するようにこの部屋のことが不思議に思えてくる。

 ここは何処だろう――判断しようにも思考が働かない。肝心な回路がショートしたみたいに。人間の心も時として、断絶し壊れてしまうらしい。では、わたしは何故壊れているのだろう、何処まで正常で、何処まで異常なのだろう。

 まず、名前を思い出してみよう。わたしは誰――わたしは広瀬真希。N中学二年三組、出席番号は二十九番。住所も容易に思い出せる、家族構成は――。とうさん、かあさん、ねえさん、にいさん、そしてわたし。他にもクラスメートのこと、先生のこと、昨晩の夕食の献立、全て簡単に想起できた。どうも、異常な部分は見受けられない。

 なのに、酷い欠落感をおぼえるのは何故だろう。とても大事なものを失った気がするのに――何も思い浮かばない。まるで、アクセス拒否されてるよう。或いは、そこがわたしの壊れている部分なのだろうか?

 一人思案に耽っていると、足音が二つ、こちらに近付いてきた。規則正しいそれは、わたしの居る部屋の前でぴたりと止んだ。それから、扉を横にスライドさせ自然と侵入してくる。横開きのドアなんだなと、その時、わたしは妙なことで感心していた。

 やがて、見えた二人の人物。一人は知らない人だったが、薄いピンク色の着衣から看護婦ということはすぐに判じられた。もう一人はわたしの小さい頃――いや、生まれた頃より見知った存在。わたしの姉、広瀬美晴(みはる)だった。何故、ねえさんが看護婦と一緒にいるのだろう。

 上体を起こしているわたしの姿を見て、両人はそれぞれの反応をみせる。ねえさんは復調を喜んでいるのと反対に、看護婦の方はひどい警戒の視線を注いでいた。

 どう声をかけて良いか迷っていると、ねえさんがささやくように声をかけてくる。

「良かった、目が覚めたのね――気分はどう? 辛くない?」

 矢継ぎ早に質問を投げかけてくるねえさんの姿は真摯で、それだけに並々ならぬ事態が起こっていることがおぼろげに推察された。

「ちょっと頭が痛いけど、平気みたい。それよりわたし、なんでこんなところにいるの? 看護婦さんがいるから病院だってことは分かるけど前後の記憶がはっきりしないの」

わたしが返して問うと、ねえさんも看護婦も揃って驚嘆の表情をみせた。どうやら、わたしが記憶を有していないことがそれほど不思議であるらしい。二人はしばし顔を見合わせたが、やがてねえさんが苦痛に委ねたかのような表情でわたしと向き合った。

「真希、あなた――ううん、そうよね。あんなことがあったんだから、仕方のないことかもしれないけど――」

 いつもの明瞭とした言葉使いと違い、戸惑いと逡巡が多分に感じられる。でも、それが逆に焦燥を刺激し、わたしは思わず叫ぶように声を張りあげていた。

「どうしたの? 何があったの――あんなことって何?」

 尋ねてから、意味もないのに後悔の念が沸いてくる。だが、理由が分からない。奇妙な喪失感の補填は、後悔と対になっているのだろうか――もしかして、秘匿されていた方が良かったのでないだろうか。

 懸念と疑惑が渦を巻き、戸惑うわたしに、しかしねえさんは真実を伝えることを良しと思ったようだ。やがて、訥々とそれを語り始めた。再びの、赤い悪夢を――。

「真希、落ち着いて聞きなさい――あなたの、にいさんが死んだの」

 その言葉が、全ての起爆剤だった。途端、まるでビデオの巻き戻しのように映像として現実に舞い戻ってきた。暴れるわたし、注射器が皮膚に食い込む痛み。そっと覗くと、腕に僅かな傷痕が見えた。昭子さんがにいさんの亡骸に縋って泣いている、とうさんはその光景をそっと眺めている、ねえさんは感無量の思いでそれらを敷延していた。

 にいさんの死が認定された時のあの静寂、無情な待ち時間、キャリィの車輪のからころという無機質な音、駆け寄るわたし、救急車の中で泣き縋り救急隊員を困らせた――にいさんの腕には点滴の針がいくつも刺さっていた。血に塗れた衣服、ああこれはにいさんの血だ、全部にいさんの血なんだ。にいさんをかき抱くわたし、衝突する寸前、わたしの体を不意に押す力。そこに見えた光景は――。

 迫り来るトラックから、わたしを救い出してくれたにいさんの、切なげな笑顔だった――。

 わたしが、にいさんを、殺した――。

 喉がみるみる渇いていく。抗しきれない恐怖が、爆発的に身を包み、けたたましいほどの自己震動によって具現化していく。感情が捻じ曲げられ、様々な感情が跳ね回る。叫びそうになるのを必死に堪え、ごく短い期間の癇癪(かんしゃく)すらも通り越したその先にあるのは、圧倒的な罪悪感だった。偏頭痛が酷くなっていく。思わず両手で抑えても、耐え切れないくらいの痛みがわたしを積極的に侵している。

 その痛みの一つ一つが、容赦なくわたしに植え付ける。にいさんの死の意味を。にいさんを殺したのはわたしだっていうこと。喉が鳴り、自然と呻き声があがる。歯がかちかちとなり、制御できない。小刻みに噛み砕く舌からは、鉄臭い血の味がした。凄く近い過去に、体験した味。口内を満たす、狂気にも似た赤――。

 それはにいさんの温もりの欠片――だが、わたしの体にはもう残っていなかった。にいさんの全てはわたしから洗い流されていた。完全に消えてしまった、にいさんが――。

 恐い、恐い、恐い。今あるのは、完全に恐怖だけだ。にいさんが死んだことへの恐怖、もう二度と戻ってこないという絶望。そして、そこに落としたのがわたしであるという悔恨の念。そう、もう覆しようのない事実だ。わたしがにいさんを殺した――。

 大好きなにいさんを、殺してしまった――。

 嫌だ、そんなの嫌だ。

 体が精神から全て剥離(はくり)するか、分解されてなくなってしまいそうだ。このままでは死んでしまう、肉体が朽ちるか、精神が崩壊するかで死んでしまう。こうして目覚めていることさえ苦痛だ――何て、何てことをわたしはしてしまったのだろう。

 いつも冷静なねえさんが慌てふためいている。看護婦が何やら狂ったように叫び、動いている。でも、わたしにはそれらにかまけている余裕はなかった。自分のことで精一杯だった。世界を崩落から守ろうと、歯を食いしばっていた。

 わたしは再び医師の手によって強引な眠りに落とされた。いつ、どのような手段によってかは、全く覚えていない。

 そして、次に目覚めた時、わたしを襲ったのは――更なる絶望と罪の再確認の儀式だった。これらの残酷すら、まだ序曲にしか過ぎなかったのだ。

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