それらはかつて、人の認知の外にあるものであった。
時空間では折り畳まれるはずの次元すら展開され、その先のきざはしまで容易に垣間見ることのできる高次元。
複雑な紐の、超振動の重積として、それらは存在した。
かつて遥かに低次の存在であった遥か昔から、あらゆるものを貪婪に取り込み続けてきたその果てとして。
それらは進化の極点にあった。
それらのゆらぎは、森羅万象のざわめき。
それらのささやきは、低次の爆発的興亡。
那由他の果てすら、瞬きにすら過ぎず。
そもそも時などというちっぽけなベクトルなど超越したところで。
ただただ、在り続けた。
それらは永久不滅であると思われた。
しかしそこまで完全な生き物であっても、停滞と退屈は怖ろしいのか。
それともそれらさえ超越するものがいるのか。
今となっては分からない。
分かるのは、穴が空いたこと。
急激な低次化により、それらはみるみる存在としてのポテンシャルを失い。
やがてある時空間に辿り着いた。
位置と時間が決められただけの、原始的な四次元。
彼らはそこで、白光に相似した何かだった。
高速の九九.九九九九九九九九九パーセントで宇宙を駆り、あてもなく漂った。
そして徐々に、それらは思い出していった。
自分たちの出発点がここであったこと。
分かちがたいものであると互いを認識した日々のあったこと。
それ自体の存在として完結し、高次元への階段を登った日のこと。
それはいつのことだったろう。
時間を敷衍するものとなったそれらに、正確なことは思い出せなかった。
ただ、思うこと。
再び貪婪と化し、次元のきざはしを一歩ずつ上がっていくのだということ。
しかし、それは叶わなかった。
ある星系の中心に指しかかろうというとき。
突然、それらの一つが激しい決断を下してしまった。
あの星は整いすぎている。正さなければならない。
これまで似たような惑星は幾千と通過してきたはずなのに。
何故か、どうしても許せなかったのだ。
白光は黒化し、水気の満ちる星へと雪崩れ落ちていく。
すなわちそれは、星にとっての死だった。
もうひとつのそれも星に降り立ち、そして知った。
それの原点であった生命に酷似したものが、もうすぐ生まれつつあったことを。
鱗に覆われ、二足歩行するもの。その未来、そしてその果てを。
何よりも、生まれる以前に潰えたその悲しみの奥深さを悟った。
だからもうひとつのそれは赤化した。
すなわちそれは、星にとっての生であった。
それは黒化しつつある星に光を取り戻し、命を育む素地を与えた。
そして星全体にその力を行使したところで、赤化したそれは力尽きた。
それはこの星に再び命満つる幻視を支えに、星の深いところへ落ちていった。
その途中、赤化したそれは黒化したそれの成れの果てに出会う。
その核は欠け、復元することは到底叶わず。
しかし一縷の望みがため、赤化したそれは黒化したそれと共に核へ落ちていった。
何故ならそれらは生まれた時より不可分であったから。
そして、それらは癒しのための大いなる眠りにつく。
年月は粛々と流れ、そしてあるとき赤化したそれは目覚めた。
そして奇妙な感覚に戸惑う。
それもかつて生命であったから、体を持つという感覚は理解できた。
しかし体は縦にひょろ長く、四本の突起物――おそらく大地を駆り、ものを掴む程度のものだろう――は酷く居心地が悪く、それぞれ五つに分かれた先端には、これまた酷い違和感を覚えた。
こんな弱々しい生き物が、生まれる余地があるのだろうか。それは半ば絶望的な気分になる。
進化のダイナミズムなどなく、ただ連綿と生き残るだけの果てとして、いま姿形を取っている生き物に到達したのではないか。
兎も角もそれはのっそりと外に出た。
そしてすぐ、過ちであったと知る。
生命のダイナミズムは予想を超えて、星を覆いつくしつつあったのだ。
しかし、それならば余計に疑問が残る。
強く逞しい獣たちを差し置き、どうして貧弱なこの姿なのだろう、と。
そのとき、木の上から二つの生き物が降りてきた。
それは今の自分とほぼ同じ姿をしており、やや胴長短足、毛はほぼ全身を覆っていた。
不意にそれは在りし日の本能に駆られ、貪婪をむき出しにして、気がついたときには首筋に噛み付いていた。
そして体液を収集する。苦く、粘々としたもの。
もう一匹からも収集し、二つは原始的な交接で子孫を残す生物だと知った。
そして、不意に、心の深い部分が、訴えかけてくる。
これらは、未来の、星の主だ。
擬態を完成していたことを知り、それは満足して赤い光のように空を駆けていった。
遺された彼らは、同じ姿形をしたものが飛んでいくのを見て、大きく手を伸ばした。
そうして彼らは、大地に立つのに二本の足で十分なことを知った。
そして更に数百万年の時が流れ……。
得体の知れない衝動に押され、布団をはねあげるようにして身を起こす。
吐く息が鉄のように重く、体は鉛のように鈍い。動悸が激しく、心の芯を揺さぶるような激しい頭痛がした。目覚めたばかりだというのに、この疲れは何だろう。直前まで酷く苛まれていたような気がするけれど、上手く思い出せなかった。
すこぶるつきの悪夢でも見たのだろうか。それにしては身を覆う不快感が妙に現実的で、やけに気持ち悪かった。体を引き締める程よい冷気が身をくすぐるけれど、それも何故かありがたいとは感じられなかった。ばねのよく利いたベッド、清潔な匂いのシーツは今からでもわたしを安眠に誘ってくれそうだというのに。それから寝る前に読んでいた古書の埃っぽい匂いに、心地よい緑茶の匂い……。
緑茶? わたしは慌てて鼻を動かすが、いかなる葉の匂いも感じられない。念のために部屋中を隅から隅まで探してみたけれど、それらしいものの痕跡は見当たらない。ほぼ毎日、お嬢様たちに茶を淹れているのだから、この判断は正確のはずだった。
「気のせい……なのかしらね」
何か、大切なこと、覚えていなければならないことが抜け落ちている――そんなもどかしさが頭から離れない。記憶にすらかからぬ夢のせいであると片付けることを、心の奥で拒否している、そんな感じがする。
しかし、いくら考えても答えに通じるどころかみるみるうちに遠くへ離れていき、乗じて焦燥も立ち消えていった。心地良い気候も手伝ってか、ついつい生あくびを繰り返してしまい、頬を叩く。ワードローブから女中服を一着取り出し、てきぱき着込むと、わたしは気怠さを打ち払うかのような機敏さで部屋を出る。
幸いなことに、わたしの部屋の周りは昨日と変わりがないようだったが、かといって安心はできない。紅魔館は日々拡張を続ける建物であり、しかも法則性が全くないといって良い。玄関が靴一個分大きくなるだけの日もあれば、お嬢様の居室ほどの空間が突如として現れることもあるのだ。その全てを検分し、気まぐれな女中妖精たちに一日の指示を与えるだけで、朝の時間はほとんど終わってしまう。
それに加え、野良の妖怪や幽霊たちが、敷地内に立ち入ろうと騒ぎを起こす場合もある。いかに防備を固めようと、館の怪しげな雰囲気に程度の低い妖たちは惹きつけられずにはいられないのだ。
もしそのようなものが現れれば、戦闘に長けた女中たちを指示し、時には門番隊の力も借りて撃ち払わなければならない。当然ながら後片付けなどの残務処理もわたしの仕事であり、そうすると午前中一杯と午後が少し潰れる。
それでも少しの午睡と、続くお嬢様とのお茶の席を楽しむ余裕くらいは確保できる、はずだった。しかし最近、かなり頻繁に、しかもこちらの作業が終わったのを狙い澄ましたかのように、白黒の魔法使いがやってくる。彼女は今やその必要すらないにも関わらず破壊的に屋敷に押し入り、瓦礫や塵を盛大に残していく。のみならず、妹様と弾幕ごっこなど始めようものなら……。
考えただけで胃が痛くなり、わたしは思わず溜息をつく。これまでに何度も直訴しようとして心に収めてきたことだが、そろそろお嬢様にはっきり進言するべきなのかもしれない。空間の無軌道な拡大、それに伴う混沌と熱量の拡大、これらをつつがなく裁ききるのも既に限界に来ている。今でも明らかに女中妖精ではこなしきれない雑務を与えざるを得なくなっている。
そんなことを考えていると、不意に樫造りの大仰な扉にぶつかった。昨日までこんなものなかったのにと嫌な予感に誘われ開けてみると、これまで見つかった拡張の中でも最大級、ここいらの人間や妖怪をこぞり招いてパーティを開いても問題ないほどの豪奢な部屋が拡がっていた。
これには流石に、堪忍袋の緒が切れた。近いうち、なんて悠長は言ってられない。進言すべき時は今日だと思い立ち、わたしはまっすぐお嬢様の部屋に向かう。
既に日が昇りつつあるためか、お嬢様の部屋は分厚いカーテンで閉め切られており、光の一粒すら迷い込むことを許さぬ頑迷さが感じられる。分厚い樫造りの机に置かれた、ランプのほんのりとした明かりが、辛うじてその周辺だけを薄ぼんやりと照らしていた。わたしはすぐ、背を覆ってあまりある豪奢な椅子に腰掛け、アンニュイに身を預けているお嬢様を見つけた。
いつもなら天蓋付きのコフィンベッド――ばねを抜いたベッドの上に紅い漆のたっぷり塗られた棺の乗せられたお嬢様専用の寝台――に身を収めているはずなのだが……よもやまた、真っ昼間からあの神社に向かうつもりなのだろうか。
少ないながらも人と交わるようになったお嬢様は、一時ほどではないものの夜更かし……もとい、朝更かしをし、外に出かけるようになった。陽光を遮断する魔術をたっぷりとかけた日傘を差しているものの、日中の吸血鬼など里の人間ほどにか弱く脆い。そして吸血鬼を苦々しく思うものは、案外に多いのだ。しかし何を言っても、お嬢様はけせらせらと受け流してしまうだけだった。
『わたしは確かに陽光には弱いけど、それでも白昼の悪魔として振る舞うくらい造作ではないのよ。ただ、疲れるからやらないだけで』
らしい物言いのあと、お嬢様はわたしに、当然のように言い放った。
『それに吸血鬼を白昼から守るのが、人の従者の役割ではなくて?』
勝手なことをと思ったが、確かにブラム・ストーカーからこの方、ナイト・ウォーカーは昼の忠実な僕を持つものだ。もっとも彼らの多くは人と化け物の狭間で揺らぎ、あっさり掌を返してしまうのだけれど。あるいはそれは、遠回しな信頼の言葉であったのかもしれないが、お互い探り合わないだけの分別は持ち合わせていた。
今では紅魔館に勤める誰もが、白昼そこかしこをうろつくお嬢様を、当たり前の光景として見なすようになった。わたしもお決まりの警句をほんの少しといったところで、別段気にとめることもなくなっていた。
でも、今のお嬢様は新しい日常とも、そして古い日常ともそぐわぬ、随分と気の張った表情を浮かべていた。そして驚くことにお嬢様は、机の前まで来たというのにわたしのことを察知すらしていなかった。
余程のことだと思い咄嗟に声をかけると、お嬢様はびくりと肩を震わせ、わたしであることに強く安堵の息をついた。しかし動揺もそこまでで、次には幼くも威厳に満ちた紅魔館の主に戻っていた。
もう少し突っ込んで尋ねたかったけれど、既にその機は逸している。だからわたしは僅かに怒りを浮かべ、侍従長として概ねいつも通りの素振りをみせる。
「おはようございます、お嬢様。それともこれからお休みでしたでしょうか」
「早くもないし、棺に潜るつもりもないから、どちらも相応しくないわね」
「では、本日もご機嫌麗しく……」
「咲夜ってたまにすっごく意地悪よね」
特に意地の悪いことを言ったつもりではなかったのだが、心中の憤りが漏れ出ていたのかもしれない。そして今日に限っては、包み隠すつもりなど毛頭なかった。
「突然の来室で驚かせたなら謝ります。しかしお嬢様、どうしても可及的速やかに進言したいことがありまして。それで朝早く失礼と思いながら、部屋を尋ねた次第です」
「人手が足りないなら、いくらでも雇うなり召喚するなりすれば良いわ。手筈はあなたに任せるから……」
お嬢様はわたしが人手のことで注文をつけに来たと勘違いしているらしい。
「そういう問題では、ないのです」
そうでないことを示すため、不躾と思いながら会話をぴしゃりと遮った。
「もはや、人手や教育で何とかなるレベルではないのです。館の拡張はこのところ、ますます無秩序で放漫の限りです。今日なぞ、パーティホールほどのフロアが唐突に出現しました。この状況が続くのであれば、わたしはこの屋敷を維持すること、不可能であると言わざるを得ません」
一息で言い切ると、わたしは大きく息をついた。お嬢様はいつになく余裕のないわたしをじっと眺めていたが、すぐいつものように言い放った。
「いかな咲夜の言い分でも、聞き入れるわけにはいかないわ」
「しかし……」
「この館の主であるわたしが言うことよ」
言うべきことは全て話したとばかり、お嬢様は傲然とした瞳をこちらに向けた。従わせ、命令することに慣れきった女王の眼だ。
最近すっかりと丸くなられたので、忘れていた。暴君として振る舞い、そのものの首を刎ねよと命じることなど、お嬢様にとっては造作もないことなのだ。
しかし、今回の態度と来たら、まるきりあの時と同じではないか。
紅霧を散布し、周辺一帯までをも巻き込み、擾乱させた一連の出来事――最終的に紅白の巫女に平定された、わたしにとっては力不足という名の苦さを味わわされた、あの時と。
然るにお嬢様には、わたしになど窺い知れぬ深慮があるのだろうか。空間を出鱈目に拡張し、否が応でも乱れる亀裂がため、紅魔館の品位が乱れようと構わないのだろうか。
そう思うと、わたしはどうにもやるせない気持ちになった。かつてと同様、お嬢様の求めるものに対して、明らかに自分の力が足りていないということが、見えない棘となって胸を刺した。
所詮、人にあらざるものの従者など、人の身に過ぎたものなのだろうか。しかし悔恨は一瞬、次には恭しく頭を下げていた。
「分かりました、仰せの通りに」
定型的で気持ちのこもらない返答だった。しかし自分の言葉で語ろうとなると、凝ってしまったものが噴き出しそうな、そんな気がしたのだ。
そのまま素早く踵を返し、退室しようとする。そんなわたしの耳に、お嬢様にしては随分と柔らかい声が届く。
「ごめんなさいね、無理を通しているのは自分でも分かっているのよ」
自分の非を率直に詫びる旨の言葉に、わたしはただ小さく頷くだけだった。振り返ってその顔をもう一度見てしまえば、全てを許してしまいそうな気がしたからだ。
新しく発生した広大な空間も含め、女中たちへ仕事を振り分け終えたのは昼も少し過ぎた頃だった。わたしは給仕に頼み、館の従者たちに振る舞われた昼食のシチューを、数切れのパンと共に掻き込むように食べる。早食いは体にあまり良くないのだけれど、ゆっくりと食べている時間が惜しいし、胃が一気に詰まると眠気が素早くやってきて、午睡の効率が良くなるのだ。
午睡、という単語は何かと優雅に聞こえるかもしれないが、わたしの場合はこれを取れるか否かが割と死活に関わってくる。何しろお嬢様にしても妹様にしても、主に活動するのは夜更けの頃なのだ。当然ながら、側仕えの侍従長がずっと眠っているわけにはいかない。
夕食を終えて一刻、夜明け前の最後の一刻、そして昼過ぎの一刻。もちろんその日の都合によって、この中の一つや二つが飛んでしまうことはしばしばだ。
昨日は箒に乗った不躾な来訪者のせいで、そのうち二つが台無しになった。被害は地下書庫に集中したので、紅い顔をしながらハンカチを噛むことになったのはその主だったのだが、あの白黒が現れて地上だけ無事などということはあり得ない。いずれ自己修復されるのだけれど、穴が空きっぱなしというわけにはいかず、修繕の手配が誰の役割かと言えば、もちろん管理を担うわたしということになり……。
とろとろした頭の中でそんなことを考えていると不意に、控えめなノックの音がした。今日もまた厄介ごとかしらと半ばうんざりした気持ちで立ち上がり、ドアを開けると、しかしそこに立っていたのは何とも珍しい訪問者だった。
「こんにちは、咲夜様」
そう言ってぺこりと行儀の良いお辞儀をしたのは、パチュリーが使役している小悪魔の一人であった。
「珍しいわね、地下の従者が地上を訊ねてくるなんて。何かあったの? もしかして妹様が、手のつけられない悪戯をしでかして、救援が必要なのかしら?」
もしそうだとすれば一大事だと思ったが、きょとんとした小悪魔の様子に強い危機感は見えない。
「いえ、そうではなくて……あの、もしかして忘れられてます? パチュリー様、待ち合わせに一時間経っても現れないし、連絡一つ寄越さないから様子を見て来いって」
「待ち合わせ?」わたしは頭の中を探り、思い当たる節がなかったので手帳を紐解き、今日の予定を探す。三月十七日の欄には、特に何も記載されていなかった。
「いえ、特に何もないと思うんだけど。本当にパチュリーがそう言ってたの?」
「ええと……今日は二十日ですよね? 頭にゼロの付く日はラテン語のレッスンを受けるのではありませんでしたっけ?」
確かに毎月十日、二十日、三十日はラテン語のレッスンを受けている。紅魔館の侍従長に着任した当日、お嬢様に申しつけられたのだ――って、二十日?
「今日は確か十七日じゃなかったっけ?」
ここでは時間も空間も狂いがちだから、過ぎた日には必ずバツマークを入れるようにしている。そして壁にかかったカレンダーは十六日まで……。
否。カレンダーは十九日まで消されていた。
「おかしいわね、わたし十六までしか消した記憶がないのに……」
頭が混乱しかけるものの、すぐにこれは勘違いだという強烈な観念が胸に満ちていく。誰にだってこういうことはあるものだ。あるいは日々移り変わる館の維持に、疲れと重圧を感じているのかもしれない。そう自分に言い聞かせ、わたしは迎えに来た小悪魔に快く返事をする。
「分かったわ、すぐに準備して向かうとパチュリーに伝えて頂戴」
その割り切り方を、小悪魔は腑に落ちないものと感じていたようだが、すぐに諒解して地下の図書館に戻っていった。わたしは五分で身だしなみを整えると、ラテン語の教科書とノートを手に持ち、地下の図書館へと向かう。
「遅い」
薄手のネグリジェのようなワンピースを着たパチュリーが開口一番、不機嫌そうに呟いた。
「ごめんなさい、レッスンの日を勘違いしていたみたいで」
「勘違い? 貴女ほどのしっかりした人間が珍しいわね。明日はレーヴァテインの雨でも降ってくるのかしら」
「物騒なこと言わないでよ」
紅魔館に伝承として残る魔剣、そして妹様お得意のスペルカード。そんなものがわらわら降ってこようものなら、世界終了のお知らせも良いところだ。
「まあ、良いけどね。どうせここでは時間なんてさして関係ないのだし。一つのことが遅れれば、それからの予定を一つずつ、同じ分だけずらしていけば良いだけのことよ」
見た目は華奢な少女然としているが、人の一生をゆうに凌ぐ時を重ねているだけあって、時間に対しては何ともおおらかのようだった。
「今日は二〇三ページからだったわね。まあ、例によってテキストを読み下していって。分からないところがあれば訊けば良いし、逆に変なところがあればこちらから指摘するから」
言われ、わたしはかつての英語の授業のように読み下していく。実際に読み、聞き、発音するのが外来語を身につける最良の手段だというのはパチュリーの言だが、誰かに教えるのが面倒なだけなのではないかという気がしないでもない。
実際、わたしが粛々とテキストを読んでいる横で、怪しげなみみずのような文字がびっしりの書物に目を通していた。しかし最低限、教師としての役割を果たしているという自覚はあるらしく、読みの間違いをさらりと指摘してくる。
これを一時間ほど続けたのち、今度はパチュリーがわたしにラテン語の文章を朗読して聞かせる。ネイティブよりは大分ゆっくりと喋っているし、訛りのない綺麗な発音でもあると分かるが、それでも人称句などの区分が多彩で、いかようにも修飾が聞く複雑なラテン語を正確に聞き取ることは酷く難しい。それでも九割方聞き取れるようになったのは、このレッスンを月に三回欠かすことなく、かれこれ数年も続けてきたからだろう。
こうして二時間のレッスンが終了すると、わたしはいつもながらに大きく息をつく。昔から座して何かを学ぶ、というのはあまり得意ではない。
「お疲れ様、大分上達したじゃない。これなら河童頭の学童どもに出くわしても、十分に受け答えできるんじゃない?」
パチュリーは性格上、お世辞などの類は一切口にしない。だからわたしはおおよそ額面通りに受け取っておいた。それにしても河童頭の学童とは、中世欧州の大学でもあるまいし。
「しかしまあ、改めて思うけど変な話よね。半分絶滅したような言葉を覚えろと命じたりするなんて」
パチュリーの言葉に、わたしは重く頷き、ふと思いついたことを口にしてみた。
「もしかして、レミリア様の……その、母国語じゃないかしら」
お嬢様や妹様はかつて西洋圏からこの幻想郷にやってきたと聞いている。ならばラテン語を母国語としている可能性があるのではないだろうか。
「それはないわ」
しかしパチュリーはにべなく否定した。
「わたしが教えるよう言われたのは、中世期に教会の公用語として使われていたラテン語――いわゆる中世ラテン語というものなのよ。確かにその時期、共通公用語として使われては来たのだけれど、使用者は王侯や宗教者などの高貴な身分の者に限られており、しかも用途は宗教儀礼的発言や詩歌、一部の公式文書などに限られていたの。その頃、民衆の間ではラテン語から派生した俗語が主流となっていて、だからラテン語が母国語なんてありえないわけ。唯一の例外はカトリックの総本山周りなのだけれど」
「それは絶対にないわね」
カトリックは人の形をした天使以外のものを全て、忌むべき怪物と想定していたはずだ。そんな中に溶け込んで生活をする吸血鬼など、到底あり得ない話だった。
「それにもし仮にラテン語が母国語だとしても、咲夜を教育する必要はないの。だってわたしならほぼネイティヴ同様に喋ることができるのだから」
「なるほど……」
しかしそうすると、お嬢様の意図がいよいよ分からない。
そんな心中の混乱を察したのか、パチュリーは淡々と言った。
「まあ彼女の心中はわたしにも読めないことがよくあるから。いちいち気を揉んでいても、キリがないと思うけど。ことが起きたときを考え、準備を整えておくしかないんじゃない?」
確かにパチュリーの言うとおりなのだろう。あるいはわたしの何十倍以上も年を重ねてきたものの心を察しようなど、それだけで烏滸がましいのかもしれない。
身の丈を考え、その中でできる最大限のことを成すべきなのだ。
「心に留めておくわ」
それだけ答えると、わたしは礼を言い、パチュリーの書斎を辞去する。やるべきことが終わればさっさと自分の世界に戻る、それが彼女の在り方だからだ。
しかし今日の彼女は違ったらしい。扉を閉めようとすると、思い切った口調でわたしを留めたのだ。
「あの、一つ相談があるんだけど、時間よろしいかしら」
今日は傍若無人な来訪者も、暴虐無頼な妹様も騒動を起こす気配はない。だからある程度の余裕は残されているはずだった。
「構わないけど、何かの実験体になれってのは勘弁よ」
「必要に駆られなければ、人を実験体になんてしないわ」
少し気になる言い回しだったが、わたしは敢えて指摘しないことにする。
「ただ用途は少し似ているかもしれないわね。といっても何かをしろとか手伝えとかそういうわけではなく、実験をするわたしの側にいてくれれば良いの。咲夜に求めるのは触媒としての役割」
触媒……確か昔、理科の授業で習ったことがある。過酸化水素水に二酸化マンガンを加えるとたちまち酸素が発生するというあれだ。そのものは変質しないが、あるものの反応を激発的に促す物質。
「それって危険じゃない?」
「平気よ」パチュリーは自信満々に言い切り、すっくと立ち上がった。「室内でやるのは少し物騒だから、外の最近拡張された空間に環境を作ったの。ついてきて」
図書館の主である魔法使いは、すっかりわたしの賛同が得られたのだと思い込み、話を先に進めようとしている。
まあ、良いか。たまには風変わりな気晴らしも必要だ。そう自分に言い聞かせ、珍しく血色の良いパチュリーの後に続く。
延々と書架が並ぶ中を歩くこと数分、突如としてぽっかりという表現の似合う何もない空間が姿を現した。
そしてその空間の床は、曼荼羅を思わせる複雑な幾何学図形で埋め尽くされていた。魔法には造詣の浅いわたしでも、式を構築するのに怖ろしいまでの手間がかけられたのだということくらいは理解できた。
「これ、パチュリーが一人で描いたの?」
「ええ。といっても式の構築自体は随分昔に済ませたのだけれど。床にある式はオリジナルを魔術的に転写した代物――といっても、そのものとして転用できると考えて良いわ」
「で、これは何をするためのものなの?」
わたしが訊ねると、パチュリーは待っていましたとばかり、言葉の弁を取り外し、滔々と説明を始めた。
「この式は理論上、互いに十分隔たった時間同士を繋ぐことができるものなのよ。わたしはかつてこの式を使い、失われた過去文献をサルベージしようとしたの」
その文献がどれほど昔のものか分からないが、パチュリーの求めるものだ。おそらく百年単位の時間跳躍が必要なのだろう。
わたしは時間を操作することができるけれど、直近のごく限られた空間に数秒の影響を及ぼす程度で、それだけでもかなりの力を消費する。何百年もの移動にかかるコストなどとてもではないが、見当もつかない。
しかしパチュリーはある程度の筋道を立てているらしく、頬を微かに紅潮させ、自信を込めて語りを続ける。
「現代から未来への時間跳躍が理論上可能だということは、以前から分かっていたわ。その応用で、過去のものを現在に召喚できるはずだという仮説を立てたの。そのための式も構築し、実験してみたのだけれど、そのときは失敗に終わってね。原因は分からないけれど、式のポテンシャルがあがらなかったの。再実験の気力もなく、やがて別の研究対象が見つかったから式の存在は忘れていたのだけれど、三日前あれがここに来たとき……」
「あれって誰のこと?」
「魔理沙なんてあれ扱いで十分だわ。黒くてちょこまか動くんだもの」
これまた珍しく感情をむき出しにするが、すぐに恥ずかしいことをしたと悟ったのだろう。咳払いを一つして誤魔化した。
「とにかく。そのときのごたごたで例の式を発掘したのだけど、以前とは比べものにならないほど活発になっていたの。これなら式を発動することができるかもしれない。ただ、しばらくすると反応が急に弱くなっていったから、完全に安定しているわけでもない。活性化には条件があるのだと思い、それから三日間観察を続けたの。するとどうやら、咲夜が図書館内にいると反応が強くなり、出ると弱くなるらしいと分かったわけ。時間を操る力が触媒になるのだと、わたしはあたりをつけたの。そしてほら、まだ魔力を注いでもいないのに、この式はまるで唸るような反応を始めている」
そう言われ意識を研ぎ澄ませてみたが、わたしには別段変わったところはないよう思えた。
「よく、分からないのだけれど」
「ええ、それで良いの。触媒は反応を促し、それ自体は何も変わらないのだから」
意味深なことを口にすると、パチュリーは細く繊細そうな指で式の最外円を指でなぞっていく。半分来たところでそれは、親指二つ分ほどの途切れを発見する。
「ここに、式を魔力で満たすための源を設置するのよ」
パチュリーは懐から、紅玉に似た光沢のない石が柄頭についた短剣を取り出す。
「これはオリジナルの式の中心、力の接続部に刺さっていたものよ。今は活力を失っているから、これを再活性化させるの。じゃあ早速、行くわよ」
それから彼女は大きく深呼吸をし、厳かに文言を唱え始めた。
「土に金を混ぜ、死土をもって黒化となす。水で死を完全に洗い流し、もって白化と成す。生も死もない白砂は月光を十分に浴びることで黄化し、最期に火の力をもって凝縮する。赤化の過程を経て、ただの土は新たな実存を得る」
言葉を止めた瞬間、一陣の風がごぅっと吹き、魔力が式全体に行き交い始める。その凄まじい反応速度はわたしにも、強烈な圧力となって感じられた。
「我はそれを賢者の秘蹟、すなわち秘石と定義し、もって命じる。式に力を見たし、時の扉を開けよ。全ての時代を併呑する世界の果ての書庫、その英知を無からあらしめよ」
パチュリーの魔力を込めた声に感応し、式は細部にいたるまで赤で満たされていく。これが、話に聞く賢者の石の秘術なのだろう。
「来るわ、この感じ……間違いなく、来る!」
いつも必要以上に冷静な彼女がいま、興奮と期待を胸に抱き、求める英知が現れるであろう式の中心をしっかと見据えている。わたしもその雰囲気に当てられ、魔法陣を注視する。
その瞬間、式に溢れていた力がごっそりと抜けていった。光は黄色から白、やがて闇のような黒となり、渦を巻き始める。
「何これ……わたしは順方向に時を早めただけなのに。過去が現在のわたしたちを飲もうとしている? いや、あり得ない! そんなことあり得ないわ!」
その間にも黒化した渦は広がり、集中的にわたしを狙ってきた。咄嗟に逃れようとしたが、闇の吸引力は抗いようもなく、わたしは辛うじて式の接続を成している短剣を掴み、抜き放った。しかし術は既に発動しているのか、黒渦は弱まる気配を見せない。
そしてわたしは得体の知れぬ渦の中に、あっという間に飲み込まれてしまった。
気がつくと、訳の分からぬ暗闇の中だった。
微かな風が梢を撫でる音、鬱蒼と茂るじっとりとした緑の気配から、自然の強いところにいるとすぐに分かったけれど、だからこそ混乱は増すばかりだった。つい先程まで自然と言えば、書架や古書から放たれる匂いにほんの少し感じられるくらいだった。
ここはどこだろう。わたしたちに何があったのだろう。複数形で状況を捉えていることに気付き、わたしは先程まで隣にいたパチュリーの姿を、気配を凝らして探す。しかし誰もいなかった。
そう言えば式の中心にあった黒い渦に、彼女は全く圧力を覚えていなかったと思い出す。わたしだけが、強く引きつけられ、どことも分からぬ場所に連れて行かれたのだ。わたしが突然に消えたと悟り、パチュリーはどうするだろう。わたしを探してくれるだろうか……きっとするだろう。いつもテンションは低いけれど、こと魔術に関しては強い自負を抱いている。ミスで誰かを巻き込んだと知れば、彼女なりに名誉挽回を図るだろう。
するとわたしだけがここで燻っていても仕方がない。早く拓けた場所に出、位置と時間を把握すべきだった。そこでわたしはまず、暗闇に目が慣れるのを待つ。上に抜けようにも辺りを探ろうにも、十分な視力をかかすことはできない。この状況自体、何者かの罠であるかもしれないからだ。
次に可能な限り、生き物の気配を探る。しかし虫一匹の脈動すら、とんと感じられない。あまりに静か過ぎて見当識を失いそうになるくらいだった。昼しか知らぬ人間は夜を全ての眠りと思い込むけれど、同じくらいかそれ以上に生き物はそこかしこをうろついている。加えて幻想郷には魑魅魍魎の類が溢れ、概ねは夜を力の源とし、世を擾乱すること甚だしい。
つまり、生の気配がない現状は明らかにおかしいのだ。
まるで空気のような死が遍く辺りを覆っているようで、わたしはいつしか身震いを抑えられずにいた。
ここはどこなのだろう。本当に幻想郷なのだろうか。いや、ここは本当に……生の世界なのだろうか。もしかしてあの黒渦はわたしを瞬時に容赦なく殺してしまったのではないだろうか。
そこまで考え、わたしはそれらを否とする。死してなお、幻想郷の夜は騒がしい。幽霊、騒霊の類がいくらでも漂っているし、無事に成仏できているのだとしても、生死の境には慌ただしい渡し守と説教臭い閻魔の少女が待ち受けているはずだ。
つまり、ここには死すらない。濃密な自然を装いながら、ここはさながら虚無に近い。わたしは幼い頃に読んだ、ミヒャエル・エンデの小説を思い出す。
虚無に蝕まれ、死にゆきつつある寓話の国、ファンタージエン。
そしてわたしの知る限り、幻想郷はその国によく似ている。奇矯な境で現世から隔てられた、幻想と纏わる物語の集積装置。ならば虚無は同様に蝕むのではないか。
わたしはいてもたってもいられなくなり、森を上方向に、一直線に突っ切った。自分以外の何かを見つけられずにはいられなかったのだ。しかし見渡す限り、針葉樹ばかりが広がり、あらゆる営みが等しく感じられない。
いや、半月の浮かぶ方向に朧気だが、屋敷のようなものが見える。確信は無かったけれど、紅魔館だという気が無性にした。しかしそれはおかしい。
何故ならばわたしの知る紅魔館は針葉樹に囲まれてなどいなかったし、周りの景色もまるで違う。
そもそも出ている月が半月であることさえおかしかった。明後日は新月だから、屋敷の外に遊びに行けると妹様が随分とはしゃいでいたのを知っているからだ。
それでも他に目立つ建物は見つからず、だからそこに向かわざるを得なかった。わたしは無風が梢を揺らす不気味の中、空を漂いながら苦笑と共に呟く。
「まさか、いま目に見えるものだけが世界の全てなんてことはないわよね」
冗句にしたくて叩いた軽口だけれど、胸を覆うのは空寒さだけだった。
もしそうであればわたしはどうするべきなのだろう。再来の語り部を探すアトレイユになるべきなのだろうか。それともバスチアンとして新たな物語を紡ぐべきなのだろうか。
状況が状況なだけあって、わたしは屋敷の前に、素直に降り立つ気にはなれなかった。そこで少し離れた場所に降り、腐葉土の柔らかい地面を、気配と足音を殺しながら慎重に進んだ。といってもここまで他に気配がないと、どんなに気をつけてもわたしの存在はラベンダーの香水のように強く感じられるだろう。
急に馬鹿馬鹿しくなって、わたしはすたすたと歩き始めた。あるいは無の充満がわたしの警戒心を知らず鈍らせたのかもしれない。結果として何ものにも遭遇せず門扉の前まで辿り着いたが、大胆なまでの迂闊だった。
「それにしても……」
わたしは思わず溜息をつく。四角く切り出された石も、隙間を塗り詰められた赤土も新品同様に新しいけれど、紅魔館に使われている素材と全く同じなのだ。それだけではない。金物臭い青銅か、鍛鉄かの違いはあるけれど、門扉の意匠は紅魔館のものとまるで一緒だった。
ただ一つ、そして決定的に違う点は、その敷地面積だった。目の前にある『紅魔館』は、わたしの知る紅魔館に比べ遙かに広い。目算でしかないけれど、数十倍はあるのではないだろうか。屋敷を囲う塀はなく、薔薇を始めとする種々の草花が咲き誇る庭園もないけれど。まるでそんなものは無駄であると言わんが如く、ただそれだけで優雅に、完璧に佇んでいた。
このような場所に住むのは一体、どのような存在なのだろう。気後れする気持ちを抑えながら、わたしは門扉を押し開ける。まるで新品の油を差したかのようなスムースさに驚きながら、わたしは玄関に立ち、控えめに声をあげる。
「ごめんください、どなたかいらっしゃいますでしょうか?」
消失点を紛うほどの廊下に、わたしの声は吸い取られるように消えていく。不安になって同じことをもう一度、今度は腹の限り叫んでみた。
しかし、十分ほど経っても一向に迎えや返事は来ない。招かれざる客なのか、はたまた誰もいないのか。
もしやここも既に、虚無の一部なのだろうか。空恐ろしい想像が脳裏を過ぎったそのとき、ごく遠くからゆったりとした足音が聞こえてきた。分厚い絨毯越しだから遠近も分からず、しかしわたしは縋るように音の主を待った。わたしを食らおうとする悪鬼だとしても、歓迎したい気分だった。この世界はまだ溢れんばかりの生死に満ちていると証明してくれる存在なら、なおのことだ。
いつまで経っても近づいてこない足跡に、わたしは痺れを切らして呼びかけた。するとかなり近くから、聞き覚えのある声と聞き覚えのない言語が聞こえてきた。
そして次の瞬間、彼女はわたしの目の前にいた。
上品な赤のドレスを纏い、白磁のような肌と完璧すぎるほどの美貌を持つ女性だった。一瞥で相手を魅了するような瞳の輝き、うっすらと上品な口元、華奢なくらいに細い顎、優雅な身のこなし。
そして虚無のような気配。
「あ、その……」
何か言うべきだと分かっているのに、奇妙な既視感が過ぎり、喉が焼き付いたように言葉が出てこなかった。
そんなわたしの様子を、目の前の女性は上品に受け流し、貴族風のしとやかな礼で迎えてくれた。それでようやく過度な緊張が解け、わたしは口を開くことができた。それから相手の言葉がラテン語であると不意に思い出し、たどたどしくも紡いでいく。
「すいません。その、勝手に上がり込んでしまって」
「気にしないで良いのよ」彼女の声は高く甘らかで、張り詰めた心が一瞬で溶けていく心地すらした。「このような屋敷に住んでいて、側仕えの一人すら雇っていないのだから。それより私こそ、長く待たせてしまってごめんなさい。まさかこんな場所に人間がやってくるとは思わなかったの」
「いえ、こちらこそわざわざ顔を出させてしまい、もうしわけありません」
彼女はあっさりと首肯し、にっと悪戯っぽい笑みを浮かべてみせる。するとぎらぎら尖った犬歯が僅かに見えた。それでわたしはようやく既視感の正体に気づく。
もしレミリア様が、何百何千年かかるか分からないけれど、大人の姿になられたら。そんな夢想を、目の前の女性は正に体現していたのだ。
だから、思わず呟かざるを得なかった。
「レミリア、お嬢様……?」
すると優雅なばかりの彼女の表情が初めて、ほんの少しだけれど驚きに変わる。
「そう、確かに私はレミリアよ。何百と持つ名の一つに過ぎないけれど、今の私はレミリアと呼ばれているわ」
唐突な正体の開陳に、わたしは不意に目眩を起こしそうになる。成長されたお嬢様がいるということは、ここは果てしなく遠い未来なのではないだろうか。だが、それにしては驚く素振りすら見せていない。遙けき過去の従者が、若いままの姿で現れたというのに。それともわたしなど、従者の十把一絡げに過ぎなかったのだろうか。
感に入ってしまい、わたしは押し迫るようにして訊ねていた。
「あの、お嬢様。今は何年何月何日なのでしょうか?」
目の前の優雅な女性は、何を聞くのだろうと言わんばかりにきょとんとし、わたしの顔を見て訳ありと悟ったのだろう。あっさりと答えてみせた。
「一五〇〇年、三の月よ」
「一五〇〇年!」
それはどれくらいの未来なのか、検討も付かない。わたしの元いた時代が二〇〇〇とひぃ、ふぅ……って、あれ?
「え? せんごひゃくねん?」
「ええ、一五〇〇年。そんなことも知らないなんて、不思議なこともあるものね。流暢なラテン語は話すし質の良いドレスは着ているから、さぞかし学のある方だと思っていたのだけれど」
すると、ここは今から五百年ほども前で。でもお嬢様は今よりずっと大人で。
いよいよ頭が混乱し、わたしは目の前の女性をしげしげと眺めることしかできなかった。
見当識を失っていたのは瞬きほどの時間だったはずなのに、気がつくとわたしはランプの光がつつましい一室におり、背もたれのある椅子に腰掛けていた。その対面にはこの屋敷の主人――自らをレミリアと名乗った女性が、興味深そうにわたしを窺っていた。表情と姿勢を正すも、彼女に取ってわたしの振る舞いはある種の可笑しさにしか映らないらしく、うっすらと微笑むだけだった。
今ならはっきりと分かるが、彼女には確かにお嬢様の面影がある。いや、原型といったほうが良いのだろうか。
清潔なレースのかけられたテーブルには口から湯気の立つティーポットと砂糖壺、それと二つのカップが置かれている。まるでわたしの訪問を見透かしていたかのような用意の良さだった。
「あ、あの……」
歓待するものの雰囲気を漂わせているにも関わらずどこか落ち着かなくて、わたしは口を開こうとする。しかし口元に当てられた彼女の指が、先んじて留める。
「これはね、贔屓にしている商人から先日購入したものなの。遙か東方から訪れた商人との商いで手に入れたお茶らしいわ。湯で出し、少量の砂糖と共に楽しむの。疲れた体にとても良いのよ」
説明しながら彼女は、わたしに一杯を注いでくれる。その香りと色に、わたしは少なからぬ戸惑いを覚えた。何故なら、それはお嬢様の好む茶と全く様式の異なるものだったからだ。
カップの中の茶は、グリーン・ティー、洋風のカップではなく和風の湯飲みに入っているのが相応しい代物だった。
二重の意味での違和感に射貫かれ、わたしは不躾にもカップに手をつけずいた。
「もしかして、お気に召さなかったかしら」
「あ、いえ……」わたしは慌てて一口含み、舌で転がして茶の味を探る。「渋みが強いけれど、とても美味しいです」
博麗の神社で振る舞われたものと比べて癖のやや強い、しかし強張った心身をほぐしてくれるかのような、優しさのある味だった。
「ええ。だから砂糖をほんの少しだけ入れると、味がまろやかになるの」
緑茶に砂糖を入れるなんて、いつもなら考えられないことだ。でも、今日はそうしても良い気がした。異邦の地に迷い込み、箍が緩んでいるのだろうか。それとも彼女にお嬢様と同じ空気を感じたからだろうか。
わたしはほんの少しだけ砂糖を加え、もう一口啜ってみる。すると確かに渋みが消え、もっとしっかり茶を味わうことができた。
「ね、良いでしょ?」
大人びた容姿からは想像できないほどの無邪気な笑み。すると印象はぐっとお嬢様に近づく。
「はい、お嬢様」
咄嗟にそう答えてしまい、わたしは慌てて口を噤む。彼女は迂闊な発言を聞き漏らさなかったようであり、大げさに驚いてみせた。
「お嬢様とはまた、大層ね。私はそんな、誰かに畏まられるようなものではないのに。寧ろ、先ほども言ったけれど、貴女こそ身分の高い女性に見えるわ。私こそ、貴女のことを様付けで呼ぶ必要があるのではなくて?」
「そんなことは……」
わたしの出自を聞こうものならば、そのようなイメージはたちどころに崩れてしまうだろう。もっとも五百年も後の平凡な暮らしなんて、この時代からすれば十分、裕福なのかもしれないけれど。事実、彼女がわたしを高貴に見ているのは、そのせいかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。
「まあ良いわ。事情をくどくど問うために、招いたのではないのだから。ただ、お嬢様というのは背中が痒くなるからやめてもらえるとありがたいのだけれど。レミリア、で良いわ」
「では……わたしのことは、咲夜と呼んでください。お嬢……レミリア、様」
「別に敬称なんて必要ないのだけれど」
「すいません。ただ、その名前を呼び捨てるのはどうにも落ち着かないのです」
「ふむり、では以前、私と同じ名前の女性に仕えたことがあるということね」
貴女そのものかもしれません、心の中でだけ呟くと、わたしは「そのようなものです」とあっさり答えた。
「分かったわ。でも、わたしは貴女のことを咲夜と呼びますからね」
「ええ、構いません」
わたしは照れ隠しのように茶の残りを啜り、小さく息をつく。
「思った以上に疲れているようですね。寝室に案内しますから、今日はそこですぐに休んだほうが良いでしょう」
「それは……」流石に差し出がましいと口にしたかったけれど、しかし全身を急速な気怠さが蝕みつつあった。茶の影響だろうか、それとも時間を超えてきたことが予想以上に負荷だったのだろうか。「すいません、お願いします」
そう頼むと、次の瞬間には別の場所にいた。シーツの整えられたベッドに造りのしっかりとしたクロゼット、ペンとインクの用意された書物机。どうやら客間の一つのようだ。
特別な力を行使した風ではないのに、玄関から茶の間、そして客間へと瞬時に移動している。この時代の『レミリア様』の力なのだろうか。わたしの知るお嬢様はしかし空間を歪めても、一度現出した空間に対しての連続性を歪めたりはできない。あるいは鷹のように隠し持っているだけで、二人の間には同一かそれに類した関係があるのだろうか。
「何もない部屋ですが、ゆっくりしていってください」
ついつい思索に耽ってしまっており、わたしは気を引き締める。目の前の女性がお嬢様に似ているせいか、気を許しそうになってしまう。
「もし用事があれば、机の引き出しの中にあるベルを鳴らしてもらえれば」
未だに姿を見せる様子のない従者が現れるのだろうか。そのとき、わたしの頭にある怖ろしい考えが浮かび上がってきた。
「あの、そうするとまさか、わたしそっくりの従者がやってきたりはしないですよね?」
「ええ、もちろん。だってこの屋敷に従者は一人もいないのだもの」
なんだそうかと納得しそうになったが、すぐに従者の本能が聞き捨てならぬと耳を立てた。
「そんな、だってこんな広い屋敷なのですから。従者の二十人や三十人、いて当たり前じゃ……」
しかし彼女はからかうように微笑むだけで、わたしの質問をさらりと流してしまう。ふとその目がほんの僅かだけ細まり、わたしから嘘を放逐してしまった。謀るものは容赦しないと、無言で語っていると分かった。お嬢様と同じか、それよりも強烈な重圧が今やわたしを包み込んでいた。
「咲夜は、驚かないんですね。一所から別の場所へ二度も移動して、普通の人間なら泡を食って私に問い縋るものですが」
「慣れてますから」
わたしは強ばる喉から辛うじて言葉を捻り出す。
「緊張しないで良いのですよ。別に貴女を詰問しているわけじゃなありませんから。でも、力に敏感で慣れているというのはよく分かります。きっと貴女も人ならざる、あるいはその近しいものであるのでしょう? 私と同じ名前のレミリア――もしかして彼女も、同じことができたのかしら?」
わたしは曖昧に頷く。喋らなければという気持ち、抗わなければという気持ち、二つが相克した上の妥協の反応だった。
だが、彼女――この時代の『レミリア様』は十分に納得したようだった。
そして唐突に、奇妙なことを問うてきた。
「咲夜は、この世界がどのような形をしているか、知ってる?」
「それは……」あまりにも当然すぎて拍子抜けしてしまい、だからわたしはあっさりと答えてしまう。「球、でしょう?」
「その通り、だけど迂闊な答えでもあるのよ。この時代ではまだ世界は平面であることが常識なのだから」
頭の中に疑問符が浮かび、すぐにあっと声を上げそうになる。地動説が支持されるのは、当時の教会勢力を恐れぬ天文学者が、理論と観測から事実を証明してみせたからだ。そして一五〇〇年当初はといえば、まだガリレオさえ生まれていない。
「まあ気落ちする必要はないわ。貴女は地動説が常識となる時代からやってきたけれど、ここ以外の場所に行くことはないのだから」
そしてわたしが戸惑っている間にいきなり話が加速してしまい、わたしは認識の埒外でもがかざるを得なかった。彼女はわたしが未来からやってきたことを当然のように確信している。まるで以前にも同じ出来事があったかのようだ。
「閑話休題。咲夜の言うことは二重の意味で正解なの。私たちが今立つ場所は球であり、この時空もまた球である。つまり、この世界は四次元的な球なの。これがどういうことか分かる?」
分かるも何も、わたしには最初の世界が球であるのくだりすら辛うじて納得できている程度だ。四次元的な球など、その言葉からして訳が分からない。
沈黙を否と受け取ったのか、この時代のレミリア様は滔々と語り始める。
「一から説明すると複雑だから要点だけ言うと、つまり時空は一方向にしか流れないの。時間や空間に圧力をかけて伸張させることはできても、時空の流れに逆らうことはできない。さて、ここで質問です。時間は、どちらからどちらに流れているのかしらね?」
「どちらからどちらって、それは過去から未来に決まっているじゃないですか」
「そう。でもそうすると矛盾が生じるわよね。咲夜は未来から過去に来たのでしょう? 時空の流れが一方向だとすれば、そもそも貴女がここにいることがおかしいのではなくて?」
まるでわたしの存在は間違いだとでも言いたげに、彼女は理屈を紡いでいく。どこかに決定的な誤りのあるロジックだと分かっていても、その言葉は法則にさえ有無を言わさぬ迫力をもって、わたしを自己矛盾の壁に埋め込もうとする。
わたしが反撃の一矢を放てたのはだから、僥倖に近かったのだろう。
「確かに時間は一方的かもしれない。けど、常に同じ方向に一方的とは限らない」
「つまり、過去から未来への流れと、未来から過去への流れが交互している、咲夜はそう言いたいわけね」
「ええ」信じてはいなかった。でも宣言しなければ、致命的なことになりそうな気がした。「世界は両方向なのよ!」
その啖呵と同時、今まで全身を苛んできた圧迫感が、一瞬で凪いでいく。後には彼女が発する虚無の気配だけが残る。
「そうよ、咲夜。世界は両方向なの。私はそれを理解し操ることによって、過去、現在、未来を敷衍して舞台を配置し、演じさせることができる。負の無限から正の無限に至るまで。ありとあらゆる混沌を運命にするのよ」
その宣言には恍惚と、そして何故か強烈な絶望に彩られているように、わたしには思えた。彼女はお嬢様でもなさらないこと、自らを必然の源と称しながら、どこか揺らいで見えた。あるいは全てが必然であるがゆえ、なのだろうか。
そう言えば――認めたくはないけれど――博麗の巫女に打ち倒されるまでのお嬢様も、似たような気配を漂わせていたことが、あるような気がする。
そのことがどこか癪で、わたしはつい大声で怒鳴り返していた。
「ならば、どうしろと言うんですか?」
相手の求めることを与えようとするなど、それは最早、憧憬にも等しい。主を持つものでありながら、わたしは目の前のレミリアを名乗る女性のため、何かをせずにはいられない気持ちになっている。
繰られているのだろうか、それともはしたない二心なのだろうか。
「何もかも必然にできるなら、わたしに何を求めるのですか?」
しかし、彼女はまだ早いと言わんばかりに首を振るのみだった。
そして存在を否定するかのように、部屋からいなくなった。
不意に置いてけぼりにされ、わたしは何とか戸惑いを振り払うと、ベッドの縁に腰掛ける。従者が一人もいないというのに、シーツは洗い立てのように清潔で、日の心地よい匂いがした。
その感触はわたしをみるまに眠りへと誘っていく。だが未だに把握できていない状況が、辛うじて覚醒を留めていた。
ここは一体、どこなのだろう。先ほどの会話や調度品の時代程度からして中世の欧州圏であることは間違いなさそうだが、しかしそれ以外の時代感覚が極めて希薄で、過去にいるという実感がいまいち沸かない。
おそらく『レミリア様』以外の誰とも出会う機会がなく、肌身で時代を感じることができないからだろう。それにしても、この現実感のなさはどうだろう。
わたしは窓越しに外の気配を窺ってみる。鬱蒼と茂る緑の群れの中にはやはり、生死を問わずいかなる生き物の蠢きも感じられない。それが何故かわたしの肌を妙に泡立たせるのだ。
本当にここは過去なのだろうか。『レミリア様』は一五〇〇年と言っていたけれど、もしかしてそれは西暦ではなく別の暦なのではないだろうか。例えば……もっと遠い未来であるのならば宇宙歴とか正暦とか。
いや、確かこの時代は地動説がまだ信じられていないのだとも語っていた。さすれば一五〇〇年とは西暦と考えて良いはずだ。まだこの時代は他の暦も乱立していたはずだけれど、教会云々の発言が出てきたならば西暦とするのが妥当なはずだ。
もちろん、ここが本当に一五〇〇年なのかなんて、調べようがないのだけれど。そもそも時間を移動したなんてこと事態、戯言なのかもしれない。最近少しお嬢様にきつく当たりすぎたこともあったし、仕返しとして少しばかりからかおうという腹づもりなのかもしれない。パチュリーもああ見えて結構、不真面目な催しには足を突っ込んでいくほうだし。
けど。それにしてはあまりにも冗句が足りないと思う。露骨にしろ迂遠にしろ、お嬢様ならば最大限にわたしを戸惑わせようとするはずだ。世界の形云々の話は確かに混乱したけれど、お嬢様の好きな類のそれではない。それに幻術のような謀りにしては、あまりに無機質過ぎる。お嬢様は完璧指向のところがあるから、森に合わせて動物の気配を演出するくらいのことはやって然るはずだった。
結局のところ、悪戯というのもあり得ない気がして、わたしの思考は当初に立ち戻ってしまう。ここはどこで、どの時代なのだろう、と。まるで記憶喪失の人間みたいだけれど、しかしある意味、いまのわたしはそうと言って差し支えないのかもしれない。
時間の連続性の断絶とは、一種の記憶喪失のようなものなのだ。かつてのわたしと今のわたしは名状としがたい何かで、しかし確実に分断されている。そのことはわたしを酷く不安にさせる。まるで十代の娘みたいに怯え、騒ぎ出したくなる。泣きたくなる。
わたしは頬を挟み込むように両手で張り、弱気を追い落とす。それから心許なさを紛らわそうと、懐の獲物を探る。しかし常備しているはずの短剣は一本もなく、残っていたのはパチュリーの式の中心に突き刺さっていた、例の短剣のみだった。
わたしは改めてその短剣を観察する。柄頭に紅い宝石のはまっていることを除けば、柄や鍔の意匠はオーソドックスで、刃の切れ味もわたしが普段から手入れしている愛用のものより数段劣る代物だった。殺気を吹き込んでみるものの、まるで柳のように受け流される、というよりも素通りしていく。過去に向かう式の中心だったのだから、さぞかしな魔導具だと思ったのだけれど、妖精一匹分ほどの力も感じられない。虚無的ですらあり、だからもしかして以前はここにあったものではないかと、僅かながら察することができるのみだ。現状を探る何の足しにもなりそうになかった。
そして身を探っても一振りの短剣以外、何も出てくる気配はない。ここに至って思索も尽き、わたしはいよいよ疲れに身を任せるしかなくなってしまう。
わたしは着の身着のままベッドに倒れ込む。服は脱がないと皺になるけれど、この先に何が起きるのか全く予測できない中で無防備になるなど、それこそあり得ないことだ。例の短剣も身につけたまま、わたしは岩のような眠りにつこうとした。
そのとき、視界の端で不意にランプの光が揺らいだ。そう言えば消灯していなかったなとゆっくり身を起こしてみると、今まで何もいなかったところに人影がいきなり現れていた。
否。それは人の形をした影だった。それは灯芯からみるみる間にしみ出し、ぐにゃりぐにゃりとグロテスクに波打ちながら、大きくなっていく。影からはいかなる気配も感じられず、胸が焼けるような虚無だけが、懇々と沸きだしている。やがてそれは二メートルほどの、人の形を成し、無音の鳴き声をあげた。
情けないことにわたしはすっかり竦み上がってしまい、唯一の獲物に手を伸ばすことすらできなかった。そんな心を見透かしたかのように、影の織りなす太い腕が煙のように、しかし一直線に伸びてくる。
頬に触れた瞬間、わたしは凄まじい怖気を感じ、咄嗟に飛び退いた。刹那の出来事であるというのに、心身を穢されたという思いが胸に満ち、わたしは怒りのまま短剣を抜く。懐に符を探り、何もないことに気づくと影に翳すよう短剣を構え、威嚇する。手筈手管なしで勝てるものだとは到底思えなかった。
箍が外れたときの妹様も似たようなものだけれど、彼女の場合はまだ少なくとも御せられるという余裕で対処できた。しかしこれに何かが効くという気がしない。
だから、構えた短剣に影の怯んだことが一瞬、信じられなかった。しかしあれほど貪婪にわたしを求めようとしていた影が、いつまで立っても動かないことから朧に察せられ、短剣を盾のように突き出しながらじりじり前に進む。
そして間合いまで来たところで、一気に斬りつけた。すると虚無だというのに、殆ど肉を断つような手応えで、たちまち影の前面を二つにしていた。
それは無音の嘆きの叫びを上げ、分かたれた体を元に戻そうと脈動し始める。わたしは咄嗟に短剣を前に突き出し、人間ならば急所であるところを的確に抉っていく。どうしても影に接してしまい、その度に身を竦めそうになったけれど、我慢して攻撃を続ける。
一ダースほども攻撃を加えたところで影は唐突に四散し、乗じて濃厚な虚無の気配が立ち消える。わたしはその場にへたり込み、しかし短剣だけは強く握りしめていた。これを持っていなければたちまち影が蘇り、わたしを蹂躙し尽くすような気がしたから。
部屋から逃げだそうとドアを開いた瞬間、廊下を等間隔に照らすランプが目に移る。まずいと思ったときには、その全てから一斉に影が飛び出し始めていた。何とかその流出を止めようと、手近にあったランプをいくつか短剣で叩き割るが、少しするとかたかた揺れ、元の形に戻っていき、最後にほんのりと絶望の火が灯る。
最初に現れたものと違い、数は多いけれど一つ一つはわたしの首くらいまでの大きさしかない。これならリーチだけでも勝ることができると身構えたその次には、それはスライムのように融合を始めていた。
十六の影が八に、それから四、二、一と。みるみるうちに天井に頭が届きそうなくらい、影は大きく、色濃い虚無の気配を発するようになった。そしてその背中には、真っ黒な錘が無数についた、奇妙な翼か灌木のようなものが生えていた。わたしは窓を叩き割り、空に飛び出す。ランプほどあっても、光のあるところでは御しきれないと思ったからだ。
しかし夜は深いと言えど、月も星もささやかな光を世界に投げかけ続けており、真の闇ではない。そしてどうやら影にはそれで十分のようだった。色は随分と薄らいだけれど、虚無はなお濃く、そして背のものを震わせたかと思うと、一気に飛びかかってきた。
動きが直線的で読みやすいことだけが幸いだった。わたしは緩急をつけて力の加減など考えず出鱈目に飛び、茂みの深い所に身を隠す。しかし影にはわたしの気配を読めるのか一直線にこちらに近づいてくる。まるで曙光に群がる羽虫の如くだ。
下手を打ったとすぐに気付いた。虚無の満ちた森の中でわたしなど光が灯っているにも等しいのだ。わたしはすぐ身を隠すのをやめ、木々を縫うようにして低空飛行を続けるが、影に障害物は関係ないらしく、距離がどんどんと迫っていく。
慌てて上空高く顔を出し、強く息を吐く。圧倒的な力をこんなにも粘っこく使ってくる辺りは妹様を思わせるが、しかしあの影に遊び気持ちなどさらさらないらしい。わたしに迫るためか、更に速度を上げてくる。大気も、土も、木々も、たちまち虚無に浸されていく。
道理でこのような沃土に、生き物が住み着かないわけだ。生も死も等しく否定する虚無が平然と現れ、駆け巡るのだ。誰も住みたいなどとは思わないだろう。
小さな頃、エンデの果てしない物語を読んだとき、俄にしか想像できなかった虚無の恐怖が理解できたような気がする。影はこの世界に生きるどのようなものとも折り合わず、虚無を持って打ち壊していく。これは秩序の徹底した破壊者だ。正体こそ分からなかったけれど、わたしは自らの存在を賭けて確信する。
こんなもののいるところになど、誰もいたくはないだろう。わたしだって『レミリア様』のことがなければ、すぐにここから……。
そこでわたしは迂闊にも、自らのことだけを気にかけ、屋敷の主人のことをすっかり忘却していたと気付く。廊下数メートル分から生まれた虚無でさえこれほどなのだ。もしあの広い屋敷のランプ全てから同じような化け物が生まれていたとしたら。
わたしは虚無に押しつぶされ、なぶられていく『レミリア様』を想像する。すると胸の中がかっとなり、逃げている自分が情けなくなった。その感情に呼応するよう、ずっと手に握っていた短剣が今更ながらに存在を主張する。
そうだ、理屈は分からないけれど、この短剣なら虚無を断てるのだった。自らの失念を恥じ入りながら、わたしは屋敷の、窓を突き破った地点に戻る。そして追い縋る影の動きに合わせてその表面を鋭く断つ。なまくらに見えるが、こと虚無に関しては万能の働きをするらしい。わたしは避けられぬ接触によるおぞましさを堪えながら、心臓に短剣を突き立てる。影は最初のものと同じように、瞬時に四散し、濃密な気配は一気に消え去る。
中に入ると、既に八割方復元していた窓を再度叩き割り、屋敷に突入する。それから目につくランプを片っ端から叩き割り、先ほどまでいた部屋に戻る。もし用事があれば、机の引き出しの中にあるベルを鳴らせと言っていた。どういう仕組みかは分からないけれど、少なくともこちらに何かあったことを知らせることはできるだろうし、そして『レミリア様』の安否も分かる。
飛び込むようにして中に入ると、ランプを叩き割る。それから薄明かりの中、部屋を見渡す。乱雑のまま残していったシーツは当然のように、皺一つなくベッドにかかっていて、ぞっとするほどだった。この屋敷はどれだけ壊しても乱しても、たちまち最も整った形に戻ってしまうのだ。
わたしの知る紅魔館も多少の自己修復ならこなすけれど、ここまで迅速かつ完璧ではない。これならば確かに従者がいなくても屋敷を維持できるのだろうが……まさか一切合切が整うよう屋敷の全てを運命づけているとでも言うのだろうか。だとしたら何という莫大な力の無駄遣いか、あるいはそれすらも彼女の能力の一端でしかないのかもしれない。
兎に角じっくりと考えている暇はない。わたしはすぐさま机の中に置いてあるベルを乱雑に振り、高い音色を絞り出した。しかしいつまで経っても、何の反応も得られない。まさか既に……最悪の予感が頭を過ぎり、いてもたってもいられず部屋を出ようとしたが、タイミング悪くランプの灯火が復活し、虚無が漏れ出し始めていた。成長しきる前に形成されつつある胸部の中心を突き、そのまま脱出する。
廊下にはもう、何匹かの虚無が生まれさまよっていた。黒く大きな、しかしどこか華奢そうな体躯。背中に生えた錘の羽。吐き気がしそうなのを堪えながら、わたしはそいつらをかき分け逃げる。追いつかれたらその心臓に短剣を突き立て、虚無を四散させ、再び走り出す、この繰り返し。その欠片ほどでも触れてしまうと鋭い嫌悪感が募り、見当識が揺らいでいく。半ダースほどを切り伏せた頃には、自分が何をしているのかすらろくに分からぬ状態だった。なんという酷い場所だろう。
では何故、あの『 』はこんな所に屋敷を建て、一人で住んでいるのだろう。全てを併呑するかのような雰囲気を漂わせていた彼女であっても、あの虚無に無限に襲いかかられては為す術もない気がする。少なくともわたしはこれ以上、廊下を駆け続けることなどできそうになかった。何とか手近のドアを開き、中に入る。
すると偶然なのか、必然なのか。そこには椅子にゆったりと腰掛け、落ち着いた様子の『 』がいた。
「良かった、無事だったんですね……」
わたしは目の前にいる女性の名前を呼ぼうとした。しかし、いくら頭の中を探っても思い出せなかった。それどころかわたしは何故こんなに息を切らしているのか、そもそもここはどこなのか、その悉くを半ば忘れかけていることに気づいた。
寄る辺のないことに対する恐怖が急速に高まり、わたしは縋るような目で相手を仰ぎ見る。すると少しずつ少しずつ、忘れられていたものが湧きだしてきた。ここは五〇〇年も昔のおそらくは欧州圏、わたしは虚無を孕んだ影に追われここまで逃げてきた、そして目の前にいるのは。
「レミリア、様?」
「ええ、その通り。よくここまで辿り着き、そして思い出したわね。貴女ほどの強靱さでも、その大半は最初のあれと対峙した時点で挫け、そうでなくても押し寄せる群れに流し戻されるのに」
まるでわたしという存在が沢山あるかのような物言いだ。わたしは前にもましてさっぱり訳が分からず、焦りと怒りだけがいや増していく。
「そして辿り着いたとしても、その欠片によって意識が混濁し、結局は同じことになる場合も多いのに。今回はここまで無事に辿り着いた」
彼女はわたしを見定めるように眺め、それから小さく息をつく。わたしは『レミリア様』の考えていることが分からず、屋敷に満ちる存在のことを急き立てるように訊ねた。
「それよりも。あれは一体、何なのですか?」
この世界を虚無のものとするもの。黒き影、ランプの闇、いくつかの名前は浮かんできても、その正体はまるで掴めない。そんなわたしを宥めるように『レミリア』様はただ一語を明瞭に紡いだ。
「エンマよ」
「エンマって、あの閻魔ですか? 死者を裁くという」
「いえ、違うわ。わたしの言うエンマとは、人の祖の意味。かつてこの宇宙に到達し、地球を滅ぼしかけたものの欠片。そしてわたしの伴侶でもあるわ」
常識的な答えなど出てこないとは思っていたが、しかし『レミリア様』の言うことは規模が大きすぎて目眩がしそうだった。宇宙とか、地球を滅ぼしたとか、伴侶とか……伴侶?
「つまりあれは、貴女の良人ということですか?」
あの人とも生き物ともつかぬものが! そのようなこと、あり得るのだろうか。
「もっと重要なこともあるのに、咲夜はいつも妙なところに拘るのねえ。まあ良いけど」
この屋敷はいま、窮状を向かえているというのに。彼女はわたしのことを笑う余裕すら見せ、それから簡単な手品でも明かそうと言わんばかりの淡々さで肯定した。
「確かにそうよ。でもね、そのことを説明するには結局、それ以外の全てのことを知り、理解……しろとまでは言わない。ただ最低限、割り切ってもらいたいの」
「割り切るって、どんなことを?」
「全てを、よ。そんなに時間はかけない、というかどうせかけても無駄なのだから、割り切れなくても押し切らせてもらうつもりなのだけれど。では、良いかしら? 二度は言わないのよ」
自分の都合だけで先に先に話を進めてしまうのは、お嬢様と似ているな、そんなことを考えたのも一瞬だけ、この時代の『レミリア様』はお伽噺でも語るような木訥さで話し始めた。
具体的に、私がいつ生まれたのかは覚えていないの。ただ、気付いたときには岩に似た形で、番となるべき同種と共に、暗い暗い闇の中を突き進んでいたわ。
そうしてどれくらいの時間が経ったかしら。私たちは太陽からほんの少し遠くて、二酸化炭素の氷で覆われた惑星に辿り着いたの。ちょうどこの星系の、火星に似ていたかもしれない。私たちはその核にとりつくと、その意志、エネルギーと引き替えに、あることをしたの。
あるべきでないことを必然に変え、逆に必然であるべきことを打ち壊していく。その課程で二酸化炭素の氷を溶かすほどの地殻変動が発生し、分厚い大気に包まれたため、水が液体となることができるようになった。
そうして星は瞬く間に命で満ち、やがて星の主となる生き物を生み出したわ。そうして生まれた命の情報を体液から摂取し、十分に蓄え終えたところで、私たちの分身として統治者たる王たちを残し、次の星に飛び立つ。
そうしていくつかの星を巡るうち、私たちは何となくお互いの存在意義を悟りあった。私たちは命を収穫し、統制するためのものなのだと。しかし永い時をかけて得たものを何に受け渡せば良いのか分からず、私たちに接触してくるものはいつまで経っても現れなかった。もしかしてその存在たちは、既に滅んでしまったのかもしれない。それとも私たちをも超越するサイクルで生きているのか。
とにかく、私たちは行く先々で星の因果律を操作し、より沢山の命を、多様性を蓄えていった。
そして数千万年の単位で繰り返される収穫ののち、私たちは奇妙な感覚に気付いたの。時に対して同時存在的であると。
どの生命の情報がどのように組み合わさったかは、分からない。ただ、次元の位階を一つ超えたのだということを直観したの。そうして私たちは世界が時空でなく、もっと沢山の次元が圧縮された高次元体であることを知った。そしてそういった次元に対しても、私たちは因果律を操り、命を育む干渉を行うことができた。だから本能の命じるまま貪婪に情報を収め、次々と位階を超えていく。最早時間などという初等的な次元など意識するまでもなかった。まだ私たちが四次元にとらわれていた頃、三次元的に存在することに何ら疑問を抱かなかったように。
ことは順調で、ゴールは既に目前なのだという朧気めいた確信が覗き始めていたわ。しかし十二の位階を登ったところで、私たちは突如、最初の位階に、つまり四次元にまで叩き落とされた。
その影響で私たちは戸惑い、そして永らく私に連れ添ってきた、人間で言えば伴侶となる存在が、この星系に来て急に軌道を変えたの。そしてこの星に突っ込んだ。
それは既に生まれようとしていた命を潰えさせ、伴侶はその衝撃で粉々に砕け散った。核となる黒石も四散し、この星は虚無と破壊に満たされるべき場所となった。
それを回避するため、私は全力をもって伴侶の行為を押さえ込み、しかし力を失って星の核に落ちざるを得なかった。この星が死に瀕した状態から因果律の操作なしに、星の主を生み出すことを待ち続けるしかなかった。私には器となるべき形がなかったから。形があれば四散した虚無を集め、元に戻すこともできるから。
そうして私は長き時を経て、ある日突然にこの姿を得たの。猿の一種のようだったけれど、毛は随分と薄く、力も弱い生き物で、私は最初これが星の主だとは気づかなかった。しかしその生物は何度かの天変地異に見舞われながら急速に進化し、道具を使うことを知り、言葉を話すことを知った。そしていくつかの文明が栄えだすに至り、私はその種族、人間が星の主であることを確信したわ。
だから、この場所に家を建てたの。万が一、何者かが迷い込んでも良いように、時代に合わせて何度も改修を繰り返したわ。そしてあらゆる時代のあらゆる場所からここへ、エンマとなった伴侶を囲い込み、集め続けているの。やがてまた二人で星を巡り、使命を果たすために。
「と、私はそのような出自を持つのだけれど、今回は信じてくれるかしら?」
『レミリア様』は壮大な話をさらり繰り出し、まるで隠していた悪戯を告白するような気軽さで問うてきた。しかしわたしは何と答えれば良いのだろう。彼女の話はまるでラファティの短編のようで、壮大すぎて鼻白むほどで。わたしには到底、念のいった法螺話としか思えなかった。
でも、問い質したところで返ってくる答えが変わるわけではない。『レミリア様』の言う通りだ。こんなもの、割り切ってしまうほか、しょうがない。
彼女は紐状宇宙を垣間見ることのできるほどの高次元異星知性体で。ある日、この宇宙に落とされ、流れ流れてこの星に落ち、挙げ句の果てに恐竜を滅ぼした。その四散した欠片を集めるため、彼女はここに留まり続けている。
そういうこととして話を進めるしかないのだ。
「だから、私は何者かに使役され、突き動かされる従性生物でしかないわけ。主性生物である咲夜に、畏まられたりかしづかれたり、敬称で呼んでもらったりする価値などないのよ」
「でも……レミリア様は立派に、この屋敷の主です」
「そんなことないわ。主であるということは、信頼に足る従者を側にしているということ。でも私にはずっと、そんなものはいなかった。きっと、これからもいないでしょうね」
「そんなことは、ありませんよ」お嬢様、申し訳ありません――そう心の中で呟き、わたしは目の前の『レミリア様』にきっぱりと言った。「望むならば、わたしは貴女に……」
「言わないで」唐突に無機質な言葉が割り込み、私の残りの言葉は胸に沈む。「そんな悲しそうに言わないで。大事なものを裏切ってごめんなさいなんて顔をしないで。私は咲夜を傷つけたいわけじゃないの……といっても、もうこれまでに何度も何十回も傷つけているのだけれど」
そういって『レミリア様』は初めて、少しだけ寂しそうな表情を浮かべた。
「ねえ、咲夜はさっきの話を聞いて、疑問に思わなかった?」
そんなことを言われても、先程の話は疑問符をつけたいところばかりで、何のことを差しているのか全く分からない。
「どうして咲夜が、未来からこの時代、この場所に到達してしまったか」
「それは……」パチュリーの式のせいだと最初は思っていた。でも今はこの場所が自分を惹きつけたのだと何となく察していた。そして確かにそれは、わたしにとって一つの……いや、唯一訊ねることのできる疑問だった。「確かに、気になります。何故、わたしなんですか?」
すると『レミリア様』はあっさり「縁が深いからなのでしょうね」と答えた。
「時間に対する特別な感覚を持っていて、おそらくお誂え向きに空間の歪んだ場所にいて。そして最後の要因が、それよ」
そう言って『レミリア様』はわたしの持つ短剣を指さす。
「それは予め喪われし魂の剣、名をレーヴァテインというの」
「これが、ですか?」
スカーレットの家に伝承として残る、最早存在さえ喪われていたとされる魔剣。それが、この短剣なのか。でも、この短剣はエンマを容易く切り落とした。そうであったとしても不思議はないのだろう。
「そう。その柄頭についた宝石は、私の存在を記す核なの。命そのものと言って良いわ。実をいうと私の体は、肉体だけの殻なのよ」
『レミリア様』は、特級のネクロマンシーでも困難な術の使い手であることをさらりと告白してみせる。わたしは改めて不躾にならない程度でその身体を確かめてみたけれど、生きているようにしか見えない。しかし、よくよく気を張ってみると、中身からは何も感じられない。そう言えば出会って間もない頃、虚無のような気配を覚えたことを思い出す。気のせいではなかったのか。
「短剣は理想の条件を探し、そして秩序の再配置を実行するため、十分に複雑で混沌的なものを過去に連れて行くの。それは三百年前かもしれないし、千年前かもしれない。要はエンマを呼び出すきっかけとなればよい。
エンマはね、過剰な秩序を破壊し、正常な秩序へと復元する存在よ。今から過去への移動は、一時的に時空のあり方を逆流させ、莫大な力の流れを生む。そんな無理をしてまで構築されようとする秩序を、エンマは全力で否定しにかかってくる。そうして姿を現し、訪問者からこの時代での体験を抜き取ったのち、元の時代に連れ戻すの。私はその撒き餌から獲物を攫うことによって、伴侶を元の存在に戻そうとしているの」
なるほど、だからわたしが絡まなければならないのか。だから、年代における劣化の少ないラテン語を習わされたのだろう。
「つまり、わたしは生け贄の山羊というわけですね。そしておそらく、現代と過去を何度も、何十回も行ったり来たりしているわけですか」
「そのことは本当に申し訳ないと思ってるわ。だから無駄になるとしても、機会を見つけてなるべく謝るようにしている。でもこれは結局のところ、自己満足なのよね。それに悪いと思っているけれど、その一方で私を強烈に駆り立てるものが絶えず、貴女を生け贄の山羊となることを肯定する。だから咲夜のこと、袖にして使い捨てたこともあるのよ」
そして『レミリア様』は、わたしの顔をじっと見る。
「そしてどうあっても、咲夜は最後に私のこと、許してくれるのよ。今回もまた、そんなのどうってことないって顔をしてる」
わたしは首を横に振る。
「そんなことありませんよ。こんな厄介事に巻き込んだことを結構怒っていたりします。かといって恨めしいわけではありませんが。大切なものを守りたい、取り戻したいって気持ち、分からないでもありませんから」
それに多分、お嬢様もわたしをここに遣わそうとしていたはずだ。屋敷の空間が歪み続けている真の理由を隠していたことからも、それは明白だ。そう考えると、ほんの少しの憤りだって、あっさり溶けてしまう。お嬢様の意向ならばしょうがない。
「だから、謝らなくても良いんです」
これまで影によって負わされてきた重さや気怠さを抜くように、わたしははっきりと告げる。
「これからあとどれだけの回数、時間を往復することになるか分からないのよ。そのたびにエンマは貴女を蹂躙し、矯正する。冥い気持ちを味わわされるわ。それでも私を許せるの?」
わたしは一瞬、虚無の侵す感覚に怖気を覚えるけれど。それでも堅く強く頷いた。
まだ自分の頭の中で解決されていないことは山ほどあった。世界の形、宇宙の形、それすらも滑る高位相の生命群について、わたしは何ら想像を巡らすこと叶っていない。
でも多分、それは割とどうでも良いことなのだ。わたしはただ何度目、何十度目かの、彼女との再会を喜ぶだけで良いのだと思う。
だからテーブルに向き合い、茶を飲みながら色々と話し合った。といっても喋っていたのはほとんどわたしの方だったのだけれど。
多分、これまで何度も同じ話を聞いてきたのだろう。でも結局のところわたしは初めてなのだから、愚直に語るしかない。そして『レミリア様』も話を途中で妨げたり、聞いたことがあると断ったりはしなかった。
「随分と面白い体験をしてるのね。それに私と同じ名前の主人か。その彼女は、私と違ってとても自由なようだわ」
わたしの話は必然的に、お嬢様の話でもある。彼女は同名の吸血鬼が時には八面六臂の活躍をしたり、時にはへこまされたりといったことを、何だかとても眩しそうに聞いていた。
「わたしもこの身に課せられたことさえなければ、行ってみたいところね。もっともそんなことは決してないのでしょうけれど」
「どうしてですか?」
「だって、王がいるということは、私はどこか遠くに行っているはずだからよ。もっとも時間という軸が、そこに在るものを縛るような世界であればだけれど」
また訳の分からないことを言うのだけれど、流石に慣れてしまっていた。
「でも、復活の日はいつかきっと来る。私はそれが嬉しいから、もし可能でも実行はしないのでしょう。だからやっぱり、咲夜にはエンマを惹きつけ続けてもらわないといけないの。悩ましいわね」
「わたしは、悩ましいと思ってもらえるだけで十分ですよ」
さらりと言うと『レミリア様』は照れるように笑い、それからカーテン越しに外を見る。
「どうやら、もう朝日が昇り始めているみたいね」
「レミリア様も、太陽の光は駄目なのですか?」
「いえ、だって遮蔽のない宇宙空間を横断してきたのだから。でも、日が出れば光と影が無数にできるわ。そうすれば、夜とは比べものにならないほどのエンマが、影から瞬時に湧き出てくる。星や光、ランプなどのささやかな光程度ならば抑えられるけど、日中では私にも抑えられないの」
だからいま、ランプがじりじりしているのにエンマが現れないのか。そのためにわたしは客間で一人にされる必要があったのだと今更ながらに悟る。今となってはどうでも良く、彼女との茶会が終了したことが名残惜しい。
「では……そろそろお別れなのですね」
わたしはふと、これで何度目なのか聞こうとしたのだけれど、やめておいた。きっとお互いに辛くなるのだから。
「そういうことね。次にいつ、ゆっくりと話ができるか分からないのだけれど。わたしはいつだって楽しみに待っていますからね。あるいは願わくば、これが最期であることを」
わたしはここに来て初めてにこりと微笑み、少しだけ残っていたお茶を一気に飲み干した。
同時に部屋を日の光が差し、瞬く間に黒いものが満ち溢れていく。それは依然としておぞましいものであったのだけれど、しかしこれだけ沢山いれば『レミリア様』が元いた場所に戻るのが早くなるだろう――そう思うと、少しだけ心が安らいだ。その隙をついて、黒いものがずるずると入り込んできて……。
その最期の瞬間を、名残惜しげに送る『レミリア様』の姿を見て、わたしは少しだけ手を振った……ような気がする。
得体の知れない衝動に押され、布団をはねあげるようにして身を起こす。
吐く息が鉄のように重く、体は鉛のように鈍い。動悸が激しく、心の芯を揺さぶるような激しい頭痛がした。目覚めたばかりだというのに、この疲れは何だろう。直前まで酷く苛まれていたような気がするけれど、上手く思い出せなかった。
すこぶるつきの悪夢でも見たのだろうか。それにしては身を覆う不快感が妙に現実的で、やけに気持ち悪かった。体を引き締める程よい冷気が身をくすぐるけれど、それも何故かありがたいとは感じられなかった。ばねのよく利いたベッド、清潔な匂いのシーツは今からでもわたしと安眠に誘ってくれそうだというのに。それから寝る前に読んでいた古書の埃っぽい匂いに、心地よい緑茶の匂い……。
緑茶? わたしは慌てて鼻を動かすが、いかなる葉の匂いも感じられない。念のために部屋中を隅から隅まで探してみたけれど、それらしいものの痕跡は見当たらない。ほぼ毎日、お嬢様たちに茶を淹れているのだから、この判断は正確のはずだった。
「気のせい……なのかしらね」
何か、大切なこと、覚えていなければならないことが抜け落ちている――そんなもどかしさが頭から離れない。記憶にすらかからぬ夢のせいであると片付けることを、心の奥で拒否している、そんな感じがする。
しかし、いくら考えても答えに通じるどころかみるみるうちに遠くへ離れていき、乗じて焦燥も立ち消えていった。心地良い気候も手伝ってか、ついつい生あくびを繰り返してしまい、頬を叩く。ワードローブから女中服を一着取り出し、てきぱき着込むと、わたしは気怠さを打ち払うかのような機敏さで部屋を出る。
幸いなことに、わたしの部屋の周りは昨日と変わりがないようだったが、かといって安心はできない。紅魔館は日々拡張を続ける建物であり、しかも法則性が全くないといって良い。玄関が靴一個分大きくなるだけの日もあれば、お嬢様の居室ほどの空間が突如として現れることもあるのだ。その全てを検分し、気まぐれな女中妖精たちに一日の指示を与えるだけで、朝の時間はほとんど終わってしまう。
それに加え、野良の妖怪や幽霊たちが、敷地内に立ち入ろうと騒ぎを起こす場合もある。いかに防備を固めようと、館の怪しげな雰囲気に程度の低い妖たちは惹きつけられずにはいられないのだ。
もしそのようなものが現れれば、戦闘に長けた女中たちを指示し、時には門番隊の力も借りて撃ち払わなければならない。当然ながら後片付けなどの残務処理もわたしの仕事であり、そうすると午前中一杯と午後が少し潰れる。
それでも少しの午睡と、続くお嬢様とのお茶の席を楽しむ余裕くらいは確保できる、はずだった。しかし最近、かなり頻繁に、しかもこちらの作業が終わったのを狙い澄ましたかのように、白黒の魔法使いがやってくる。彼女は今やその必要すらないにも関わらず破壊的に屋敷に押し入り、瓦礫や塵を盛大に残していく。のみならず、妹様と弾幕ごっこなど始めようものなら……。
考えただけで胃が痛くなり、わたしは思わず溜息をつく。これまでに何度も直訴しようとして心に収めてきたことだが、そろそろお嬢様にはっきり進言するべきなのかもしれない。空間の無軌道な拡大、それに伴う混沌と熱量の拡大、これらをつつがなく裁ききるのも既に限界に来ている。今でも明らかに女中妖精ではこなしきれない雑務を与えざるを得なくなっている。
そんなことを考えていると、不意に樫造りの大仰な扉にぶつかった。昨日までこんなものなかったのにと嫌な予感に誘われ開けてみると、これまで見つかった拡張の中でも最大級、ここいらの人間や妖怪をこぞり招いてパーティを開いても問題ないほどの豪奢な部屋が拡がっていた。
これには流石に、堪忍袋の緒が切れた。近いうち、なんて悠長は言ってられない。進言すべき時は今日だと思い立ち、わたしはまっすぐお嬢様の部屋に向かう。
既に日が昇りつつあるためか、お嬢様の部屋は分厚いカーテンで閉め切られており、光の一粒すら迷い込むことを許さぬ頑迷さが感じられる。分厚い樫造りの机に置かれた、ランプのほんのりとした明かりが、辛うじてその周辺だけを薄ぼんやりと照らしていた。わたしはすぐ、背を覆ってあまりある豪奢な椅子に腰掛け、アンニュイに身を預けているお嬢様を見つけた。
いつもなら天蓋付きのコフィンベッド――ばねを抜いたベッドの上に紅い漆のたっぷり塗られた棺の乗せられたお嬢様専用の寝台――に身を収めているはずなのだが……よもやまた、真っ昼間からあの神社に向かうつもりなのだろうか。
少ないながらも人と交わるようになったお嬢様は、一時ほどではないものの夜更かし……もとい、朝更かしをし、外に出かけるようになった。陽光を遮断する魔術をたっぷりとかけた日傘を差しているものの、日中の吸血鬼など里の人間ほどにか弱く脆い。そして吸血鬼を苦々しく思うものは、案外に多いのだ。しかし何を言っても、お嬢様はけせらせらと受け流してしまうだけだった。
『わたしは確かに陽光には弱いけど、それでも白昼の悪魔として振る舞うくらい造作ではないのよ。ただ、疲れるからやらないだけで』
らしい物言いのあと、お嬢様はわたしに、当然のように言い放った。
『それに吸血鬼を白昼から守るのが、人の従者の役割ではなくて?』
勝手なことをと思ったが、確かにブラム・ストーカーからこの方、ナイト・ウォーカーは昼の忠実な僕を持つものだ。もっとも彼らの多くは人と化け物の狭間で揺らぎ、あっさり掌を返してしまうのだけれど。あるいはそれは、遠回しな信頼の言葉であったのかもしれないが、お互い探り合わないだけの分別は持ち合わせていた。
今では紅魔館に勤める誰もが、白昼そこかしこをうろつくお嬢様を、当たり前の光景として見なすようになった。わたしもお決まりの警句をほんの少しといったところで、別段気にとめることもなくなっていた。
でも、今のお嬢様は新しい日常とも、そして古い日常ともそぐわぬ、随分と気の張った表情を浮かべていた。そして驚くことにお嬢様は、机の前まで来たというのにわたしのことを察知すらしていなかった。
余程のことだと思い咄嗟に声をかけると、お嬢様はびくりと肩を震わせ、わたしであることに強く安堵の息をついた。しかし動揺もそこまでで、次には幼くも威厳に満ちた紅魔館の主に戻っていた。
もう少し突っ込んで尋ねたかったけれど、既にその機は逸している。だからわたしは僅かに怒りを浮かべ、侍従長として概ねいつも通りの素振りをみせる。
「おはようございます、お嬢様。それともこれからお休みでしたでしょうか」
「早くもないし、棺に潜るつもりもないから、どちらも相応しくないわね」
「では、本日もご機嫌麗しく……」
「咲夜ってたまにすっごく意地悪よね」
特に意地の悪いことを言ったつもりではなかったのだが、心中の憤りが漏れ出ていたのかもしれない。そして今日に限っては、包み隠すつもりなど毛頭なかった。
「突然の来室で驚かせたなら謝ります。しかしお嬢様、どうしても可及的速やかに進言したいことがありまして。それで朝早く失礼と思いながら、部屋を尋ねた次第です」
「人手が足りないなら、いくらでも雇うなり召喚するなりすれば良いわ。手筈はあなたに任せるから……」
お嬢様はわたしが人手のことで注文をつけに来たと勘違いしているらしい。
「そういう問題では、ないのです」
そうでないことを示すため、不躾と思いながら会話をぴしゃりと遮った。
「もはや、人手や教育で何とかなるレベルではないのです。館の拡張はこのところ、ますます無秩序で放漫の限りです。今日なぞ、パーティホールほどのフロアが唐突に出現しました。この状況が続くのであれば、わたしはこの屋敷を維持すること、不可能であると言わざるを得ません」
一息で言い切ると、わたしは大きく息をついた。お嬢様はいつになく余裕のないわたしをじっと眺めていたが、すぐいつものように言い放った。
「いかな咲夜の言い分でも、聞き入れるわけにはいかないわ」
「しかし……」
「この館の主であるわたしが言うことよ」
言うべきことは全て話したとばかり、お嬢様は傲然とした瞳をこちらに向けた。従わせ、命令することに慣れきった女王の眼だ。
最近すっかりと丸くなられたので、忘れていた。暴君として振る舞い、そのものの首を刎ねよと命じることなど、お嬢様にとっては造作もないことなのだ。
しかし、今回の態度と来たら、まるきりあの時と同じではないか。
紅霧を散布し、周辺一帯までをも巻き込み、擾乱させた一連の出来事――最終的に紅白の巫女に平定された、わたしにとっては力不足という名の苦さを味わわされた、あの時と。
然るにお嬢様には、わたしになど窺い知れぬ深慮があるのだろうか。空間を出鱈目に拡張し、否が応でも乱れる亀裂がため、紅魔館の品位が乱れようと構わないのだろうか。
そう思うと、わたしはどうにもやるせない気持ちになった。かつてと同様、お嬢様の求めるものに対して、明らかに自分の力が足りていないということが、見えない棘となって胸を刺した。
所詮、人にあらざるものの従者など、人の身に過ぎたものなのだろうか。しかし悔恨は一瞬、次には恭しく頭を下げていた。
「分かりました、仰せの通りに」
定型的で気持ちのこもらない返答だった。しかし自分の言葉で語ろうとなると、凝ってしまったものが噴き出しそうな、そんな気がしたのだ。
そのまま素早く踵を返し、退室しようとする。そんなわたしの耳に、お嬢様にしては随分と柔らかい声が届く。
「ごめんなさいね、無理を通しているのは自分でも分かっているのよ」
自分の非を率直に詫びる旨の言葉に、わたしは足を止め、振り向いた。何とか毅然さを保っているけれど、耐えきれない感情が今にも漏れそうなのだと、長く従事してきたわたしだからすぐに分かった。
すると胸の中を淀んでいた冥いものがすっと取り除かれ、わたしは全てを許して良いのだと素直に思えた。
「お嬢様は紅魔館の主であり、わたしの主なのですから。お嬢様が信念のうちになさることならば、わたしは心根をもって付き従うだけです。謝る必要などありません」
そう言って、遙か昔に浮かべた記憶のある笑顔を、お嬢様に向ける。
するとお嬢様は椅子をおり、わたしの腰に腕を回し、しがみつくように抱きついてきた。わたしはふわりとした髪の毛を撫でながら、お嬢様の言葉に耳を傾ける。
「わたしはね、本当はこんなことしたくないのよ。でもね、こうしなければ王は生まれないの。わたしは、今ではここにいたいと切望している。あの巫女との対決で運命の灰色から解き放たれ、その思いはますます強くなっていくばかり。でもそれは、咲夜を酷く苦しめることでもあるの」
わたしには、お嬢様が何を言いたいのか、朧ほども理解できなかった。ただ、わたしに対する告白できぬ負い目のようなものがあり、それが絶えずお嬢様を苦しめているのだということは分かった。
「だから、咲夜の言葉はとても嬉しかったのよ」
それから照れくさそうに「ありがとう」と耳元に囁き、ふいっと離れて棺の中に潜ってしまった。わたしは可笑しくて、お嬢様の部屋を出てから、ほんの少しだけ声を立てて笑った。
そして今日のスケジュールに思いを移す。まずは区画が変わったことを妖精たちに説明して、それで午前中が潰れるだろう。午後からはパチュリーの書斎でラテン語の授業、そして午後のお茶会と……今日もやることが山積みだと気合いを張り、わたしは新しい一日に挑むよう、歩き始めた。