レディ・コールドブラッド(1)

 泥のような気だるさと共に目を覚ます。分厚いカーテンの隙間からは朝を示す薄い日光が差している。意識を失う直前、太陽が沈みかけていたことを同じ理由で覚えていた。半日ほど眠ってしまったのだろう。

 上半身を起こす。それだけで体中に鈍い痛みがはしるけれど、昨日と違ってまるで動けないわけではない。ベッドから這い出すと体中に巻かれた包帯を外す。拘束されているようで気持ち悪かったからだ。剥きだしになった全身には紫色の痣や塞がりかけた切り傷やすり傷がいくつも残っている。着替えや下着がないか探してみたけどどこにも用意されていなかった。

 冷たい怒りが肌を覆っていく。わたしはサイドボードの上に置いてあるベルを鳴らし、それを呼びつける。十秒もしないうちに駆けつけたそれは、萌葱色の髪の毛を丁寧に整え、青を基調とした服とスカートを身につけている。わたしを見て何故か露骨に目を逸らしたので、顔に平手を叩き込む。

地に伏してうずくまるそれの体を何度も蹴り、背中を羽根ごと踏みつけた。わたしがこんなにも痛い思いをしているのに、平然とした態度でいることが許せなかったからだ。

 それはわたしと同じ赤い血を流す。反吐を垂らす。皮膚が裂けるし骨が折れる。致命傷さえ負うだろう。それでもそれは死なない。消滅するけどいずれ元の形のまま復活する。いくらでも痛めつけて良いし、わたしは愚かな妖精どもがこの世界からいなくなって欲しいと心の底から願っている。それを手元に置いているのは、奴隷が必要だからに過ぎない。だから仕事に支障を来すほどには痛めつけなかった。

 暴力をやめるとそれはふらふらと立ち上がる。傷を負った顔にそれでも笑みを浮かべようとしているのは、己の身にふりかかる災難を認識できないほど馬鹿だからに違いない。標準的な妖精に比べてサイズが大きいためか、家事はそれなりにこなすけれどたかは知れている。いつか気紛れにここを退ち、二度と現れなくなるに違いない。どこかで予備を見つける必要がある。

 あと数日ほど休んでから探しに行こう。森を探れば一匹や二匹、簡単に捕まえられるに違いない。

 わたしはあの『氷の怪物』に襲われているに違いない。辺り一面を容赦なく凍らせる激しさを浮かべ、青色を基調とした涼しい色のワンピースを身にまとい、酷薄な怒りを隠すことなく曝している。相手にはわたしとサニー、ルナの姿を見ることはできないし、音を聞きつけることすら叶わないはずだ。それなのにまるで安心することができない。怪物は怒りのままに氷つぶてを至るところに撃ちまくり、大地や木々を手当たり次第に凍らせているからだ。

「どうしてわたしたちが襲われるの? わたしたち、あんなのには一度も手を出したことがないのに」

 ルナの能力により音が漏れないから、普通に喋っても良いはずなのだが、サニーはすっかりと声を潜めていた。余程恐ろしいに違いないけれど、今日ばかりは意気地なしをからかう気になれない。何故ならば、わたしは怖くて声すらまともに出せないからだ。

「あれは多分、氷の怪物よ」わたしはどこかの同類から聞きつけた知識を、歯を震わせながら語る。「妖精を氷漬けにして遊ぶ性格の悪い妖怪がいて、そう呼ばれているらしいわ」

「傍迷惑なやつ!」ルナは伏せたままに怒りをぶちまける。「それに人間じゃなく妖精を狙うなんて。弱い奴しか襲わないなんて卑劣にも程があるわ」

 しかし悲しいかな、わたしたちでは荒ぶる妖怪と戦うことは難しい。厄介な災害であると認識し、できるだけ被害を与えないうちにどこかへ立ち去ることを祈るのみだ。

 わたしたちは身を寄せ合い、氷の怪物が過ぎるのをじっと耐える。彼女はわたしたちのいる所まで地面を凍らせ、またつぶての流れ弾が気紛れにこちらを打った。痛みと寒さが徐々に募り、そろそろ限界だと感じ始めたとき、少し離れたところで不意に大きな破裂音がした。それから妖精のはしゃぐようなけたたましい声。氷の怪物はそのような音に惹かれたのか、辺りから徐々に寒気が収まっていった。

 サニーは安全を確認しないうちから不注意に能力を解いた。否、力の使い過ぎで体力の限界に来ていた。意識を失い、呼吸も心許ない。ルナは意識こそあるものの、サニーと同じような状態に陥っていた。

 ここを離れ、助けを呼ばないといけない。しかしわたしの体は氷で縫い止められており、指一本離すだけで焼けるように痛い。皮膚の一部が氷にくっついており、指からはうっすらと血が滲んでいる。

 体を氷から引き剥がすなら並大抵の痛みではすまないだろう。しかしこのままでは寒さに体力を奪われきってしまう。わたしは覚悟を決めると息を吸い、肺に留め、一気に引き剥がそうとした。

「それはやめといたほうが良いね」頭上から落ち着いた調子の声がかかる。「いま溶かしてやるから」

 言葉と同時、わたしの近くに強い熱が生み出される。氷はみる間に溶け始め、数分もしないうちに労せず動けるようになった。わたしは声の主を確かめようと慌てて立ち上がる。

 黒のドレスに白いエプロン、よく目立つ三角帽子。全体的にほっそりとしていて、胸もお尻もあまり膨らんでないけれど、それでも大人の人間だということはすぐに分かった。年を取った人間は皆、同じような特徴を示すからだ。

「あの、ありがとうございます」

「礼なら後にして頂戴。まずはこの娘たちを住処に運ばないといけないわ」

 その口振りからして、彼女はわたしたちのことを知っているらしい。そう言えば彼女の出で立ちにはどこか見覚えがあるような気がする。見知らぬ相手に従うのは少しだけ怖かったけど、彼女の笑顔は何だかとても懐かしく、わたしは二人を苦もなく背負うくっきりとした色の人間をえっちらおっちらと追いかけた。

 

 わたしとサニー、ルナの住処は東の果てに位置する大木の中にある。妖精は大抵、樹齢のある居心地の良い木に住んでいるのだが、わたしたちが住処としている樹木は人間を案内する程度なら造作もないほどの良好な物件である。

 黒白の人間は溶けた氷のぬかるみで汚れたサニーとルナの服を着替えさせ、髪や肌についた泥を落としてからベッドに寝かしつける。わたしはその間に傷ついた指を包帯で巻き、客人を迎える最低限の身だしなみを何とか整えることができた。

「すいません、助けて頂いてありがとうございます」

「良いってことよ、昔のよしみだしね」彼女は帽子を脱ぎ、ふわふわの金髪を腰まで垂らす。所々銀糸のような髪が混ざっていて、高価な織物のようだった。「その態度、やはり覚えてないのね」

「見覚えがあるとは思うのですが」わたしは同じようないでたちの人間を一人だけ知っている。「彼女は大人ではありません」

「相違ない」彼女は愉快そうに笑うと、わたしに手を伸ばしてきた。「わたしは霧雨魔理沙、かつて魔法使いと呼ばれたものよ。今もそうであることに変わりはないけどね」

「霧雨、ですか?」わたしは同じ苗字の人間を一人だけ知っている。「もしかして親族か何かでしょうか?」

「髪を三つ編みにして、まん丸眼鏡をかけた陰気臭そうな魔法使いのことを言っているのならば、わたしの娘ね」

 やはり彼女は霧雨の、しかも実母であるらしい。雰囲気はまるで正反対だけど、髪や肌や目の色に共通するものがあった。道理で見覚えがあるはずだ。なるほどと思い、しかし次の瞬間には冷や汗を垂らしていた。わたしたちは魔法の森を訪ねることがままあるのだけれど、適度に未熟でかちこちの性格をした彼女を、ことあるごとにからかっているからだ。

 わたしがひやひやしているのに気付いたのか、彼女はまるで悪戯をする妖精のような笑みを浮かべる。

「娘への悪戯なら気にする必要はない。わたしはむしろ喜ばしいことと考えているの。真面目で勉強熱心なのは良いことだけど、そのためにどうしても精神面の追い込みに弱くてね。けど、お前たちが悪戯を仕掛けるようになってから、娘はアドリブで適当に融通することをそれなりに身につけ始めた。ここで生きるならばある意味、努力よりも大事なことを教えてくれているのよ」

 わたしには彼女の言うことが理解できなかったけれど、とりあえず叱られることはないということをその口振りから察することができた。

「それはさておき。すぐにでも休みたいでしょうが、ちょいと聞きたいことがあってね。チルノがいま、どこに住んでいるか知らないかしら?」

 わたしは目を瞬かせる。チルノという名前にまるで心当たりがなかったからだ。否、遠い昔にどこかで聞いたことがあるような気もするけど、よく思い出せなかった。

「元の住処を訪ねれば既にもぬけの空でね。最近はろくすっぽ姿を現さないからどこにいるのか分からない。かつて面識のあったお前たちなら知っていると思い、ここを訪れようとしたのだが、その矢先に探し人と尋ね人を同時に見つけてしまったというわけだ。目的を達しても良かったんだが、それもしのびない。急ぎの用事ではあるけれど、誰かが傷つき倒れるのを見逃して良いわけではないからね」

 彼女は期待の視線を向けてくるけれど、わたしは黙って首を横に振ることしかできなかった。

「ふむり、どうやら今でも親交があるのだと思ったのは勘違いのようね。確かにあれは遊びというより一方的な虐めだったけど……」

 魔理沙は唇を尖らせ、深刻そうに腕を組む。それにしても彼女の言い方と来たら、わたしがそのチルノなる存在を知っていなければおかしいとでも言いたげだ。

「あんな『氷の怪物』なんて、わたしが知っているわけない。サニーもルナも馬鹿だけど、あんなのに手を出すほど無鉄砲とは思えません」

「そうかね」魔理沙は何故か寂しそうにぽつりと呟き、頭を気をつけながら立ち上がる。「邪魔したね。あいつはわたしが重々に躾ておくから、もう心配しなくても良いよ」

 彼女がドアを開けると、容赦のない寒風が中に吹き込んでくる。氷の怪物に比べたらそよ風のようなものだけど、十分に厳しい。

「もうすぐ冬なのね」

 わたしが何の気なしに言うと、魔理沙はこちらを振り向かずに重い呟きをもらした。

「そうだな。冬が、やってくる……」

 まるで遠い過去から迎えるような、そんな口振りだった。

 あの三匹を捕らえようとするために力を使い過ぎたのか、わたしはあれから一匹の妖精とも出会うことができなかった。妖精は臆病だから、場の変化を察してすぐ遠くへ逃げてしまうのだ。やり場のない憤りをどうぶつけてやろうかと思案しながら低い所を飛んでいると、湖の向こう側からかなりの速さで飛んでくる何者かが見えた。

 相手から躱すだろうとたかを括っていたのだが、軌道を変える素振りすら見せない。腹が立っていたわたしはつい、相手に立ちはだかるよう手を広げる。それでようやくわたしの存在に気付いたようで、飛ぶ足を止めた。

 西日が差しているせいか、身につけているローブは赤ワインみたいな色に見える。ほっそりとした顔には少しだけそばかすが浮いており、まん丸い眼鏡が妙にバランス悪く目元を覆っている。金の髪は丁寧な三つ編みで結ばれており、生き物のように揺れている。どこかで見たことがあるような、ないような。

「あの、すいません。そこを通して頂きたいのですが」

 彼女は箒に跨りながら、大きくお辞儀をする。箒には風呂敷包みの四角い物体がぶら下がっており、頻りに視線を向けていた。わたしに直前まで気付かなかったのもそれが原因だと分かったけれど、だからといって気持ちが晴れるわけではない。彼女のおどおどとした態度がそれと似ていることもあり、無性に意地悪をしたくなった。

「あなたはもう少しでわたしにぶつかろうとしたのよ。だから目立つようにして教えてあげたの」

「ええ、それは申し訳ないと思っていますが……」彼女はわたしが難癖つけてきたことに気付いたようだ。「頭を下げろと言うならそうししますし、他に望むことがあれば善処すること吝かではありません」

「その風呂敷包みを置いていけ」

 わたしが指差すと彼女は露骨に嫌そうな顔をした。

「これは駄目です。他の物ならば何でも良いですが」

「それを気にしていたから前方不注意だった。危ない飛び方をしたんだ。安全のためにそれは取り上げられるべきじゃないの?」

 彼女は小さく唸り声をあげる。深く俯き、わたしの要求に応えるべきか必死で考えている。胸のすく思いだった。もっと味わいたい。

「やっぱり駄目です。これは師匠が貸してくださった大事な教本、渡すわけにはいきません」

 箒を回頭させ、逃れようとする彼女にわたしは氷の鎖を引っかける。そのまま地面に落とそうかと思ったけれど、相手が体制を立て直す方が早かった。彼女は箒を空中に浮かせたまま下りると、補助なしで空を飛んでみせた。

「わたしの三人目の師匠が言ってました。人間と妖怪を差別してはいけない。悪戯する相手にも同様だって」彼女は右手を、親指を握り込まないで柔く握りしめる。「前方不注意のことなら謝ります。それでも駄目ならば、わたしは貴女のこと、理不尽だと判断して排除します」

 わたしは両手を打ち合わせ、氷の散弾を彼女に向けて放つ。靴底を一発掠めていったものの、彼女は素早く上昇し、広がりゆく散弾を一気にかわした。

 早く動けるならば数に任せて動きを封じるまでだ。わたしは次々と氷の散弾を生み出し、彼女に放っていく。速さでも無理だと観念したのか、彼女はやけになったかのように、散弾の中へと突っ込んでいく。彼女は全身をぼろぼろにして、わたしに許しを請うことになるだろう。

 口元を歪めかけ、忌まわしい気配が前方に満ちていくのを察知する。次の瞬間、赤白く燃える炎が散弾にも負けぬ勢いで降り注いできた。

 わたしは『完璧なる凍結(パーフェクトフリーズ)』を宣言し、眼前に迫る火炎弾を氷の塊へと変えていく。全ての炎を舐め尽くし、やがては術者本人にまで迫り、全身を凍らせるはずだ。

「加速『韋駄天八号』を宣言」

 彼女の声とともに凍結が行く手を失い、動きを止める。無意識に瞬きを一つするとともに、不格好な人形が何個もわたしの周りを取り囲んでいた。嫌な予感がして急いで全てを凍結させようとしたが一つだけ間に合わなかった。

 爆風に舞い散らされながら『雹の嵐』(ヘイルストーム)を地面に向けて打ち出し、勢いを相殺する。彼女の姿を見つけ、今度は同じスペルを攻撃に使う。しかし彼女の姿が再びかき消え、同じように人形が設置されていく。今度はし損じることなく全ての人形を爆発前に凍らせてから、雹の嵐で遠方から爆破する。次の攻撃を注意して待ったが、人形はわたしの前に現れなかった。

「炎や自爆人形すら一瞬で凍らせるなんて」彼女は鋭い目つきを改めてわたしに向けてくる。「ここまでの氷使い……冬に注意しろと母様が言ってたけど、もしかしてこいつのことなの?」

 よく分からないことをぶつぶつと呟いてから、彼女は両手を打ち合わせる。するとその周囲に七色の球が展開されていく。赤、橙、黄、黄緑、緑、青、紫……空にかかる虹を濃縮したかのような色合いだった。

「もう一度問います。貴女はなおも理不尽を振り撒きますか?」

 わたしは氷のレーザーを球に向けて撃ち出す。よく分からないけれど、あの球は数を減らさなければまずいと感じたのだ。黄と紫、二つの球を破壊することに成功したけれど、相手は動揺する様子もない。

「分かりました、話し合いの余地なしですね」彼女の怒りを代弁するかのように、球が全て燃えるような赤に染まる。「弱点を責めるのは卑怯かもしれませんが、こんな茶番に長い間付き合っていられませんから。それでは行きます、火符『火神の熱き怒り(アグニシャイン)』を宣言」

 宣言するやいなや、先とは比べものにならないほどの大振りな炎が撃ち出される。凍結で叩き落とすけれど、本人に迫る暇を与えないほどの炎が、次々と降り注いでくる。

「弾幕は力だなんて、嫌な格言ですけど!」

 球には予備があったのか、瞬く間に復元され、すると炎弾は質量を更に増していく。彼女が扱う球は増幅器のようなものらしい。この炎嵐を収めるには全て叩き割らなければならないようだ。

 わたしは『氷の大嵐』(ダイアモンドブリザード)を宣言して迫りくる炎弾に片っ端からぶつける。水蒸気がたちまち辺りを漂い、湖畔の早朝にも似た濃い靄で包んでいく。

 その中に突撃しながら凍結を発動して進路に立ちはだかる炎を次々に凍らせていく。以前に複数で攻めてくる卑怯な奴らを相手にしたとき、一気にまとめて倒すために編み出した戦法だ。その卑怯な奴らが誰なのかを思い出せないけれど、今はどうでも良いことだ。敵は目の前にいるのだから。

 ダメージを少しだけ覚悟していたけれど、幸いにして炎は側を掠めることすらなく、わたしは靄を抜けて彼女のごく近くに躍り出る。まずいという顔をしたけれどもう遅い。氷のレーザーを乱射し、次々と増幅器を打ち落としていく。機転が利かないのか、彼女は対応できるスペルを繰り出すことなく、半ば棒立ちの状態だった。追いつめてみれば何ともちょろい相手だ。

 一際甲高い叫び声が聞こえ、彼女は砕けた増幅器の欠片と一緒にひらひらと落下していく。どうやらこれで終わりらしい。地面に激突するのを余裕を持って眺めていると、しかし彼女はその直前でぴたりと動きを止める。ぎりぎりで意識を取り戻したらしい。

 その瞬間、鋭い刃物のような殺気がひたとわたしに据えられた。彼女の顔からは眼鏡が外れており、そのために隠されていた目つきの悪さが剥き出しになっていた。

 彼女は辺り一帯に響くほどの大きな柏手を打った。それが合図であったかのように、彼女の前方に白球が四つ、黒球が四つ、姿を表す。先ほどまでとは異なる、まるで遊びの感じられない色合い。腹の底が震えるほどに集約された魔力。嫌な予感が急速に膨らんだけど、彼女は判断する間をわたしに与えなかった。

「八卦『マスタースパーク』!」

 鈍く低い声で放たれた宣言は太陽のように眩い一筋の白い光芒を生み、わたしの前方をみるみる満たしていく。半ば恐慌に駆られ、わたしは力の全てを光芒の凍結に集中する。その試みは数秒ほど成功したけれど、圧倒的な質量の前には焼け石に水だった。それが痛みか衝撃かも分からぬまま、わたしは全身を貫かれ、気付いたときには地面にはいつくばっていた。墜落したにしては酷くないから、どこかで減速したとは思うのだけど、全身がほぼ満遍なく痛くて、しばらくは動けそうになかった。

 そんなわたしを舐るように、ゆっくりと足跡が近づいてくる。かくなる上は何とか言いくるめてここから逃れなくてはいけない。気が弱そうだったから、合いの手を入れられる前に言葉を重ねれば。

「おい、このクソ妖怪!」

 鋭い蹴りが腹に突き刺さり、わたしはなす術もなく地面を転がっていく。喉を振り絞るように咳込み、腹を蹴られても大丈夫なよう体を縮込める。すると彼女はわたしの髪を掴み、強い力で強引に立たせた。まるで力のある妖怪のような振る舞いだった。

 間近で見ると、彼女の顔は憎悪に近いもので大きく歪んでいた。容赦のない暴力に慣れた顔、強者の顔だ。戯れで相手を消しても構わないと考えられる顔だ。わたしは目の前の魔法使いが心の底から恐ろしくなった。一刻も早くここから逃れたくて、涙が自然と頬を伝う。

「ごめんなさい、許して、ください……」

 わたしの頬を何度も平手が往復する。髪を引く手が更に強くなる。わたしはどうやら彼女を更に逆撫でしてしまったらしい。

「あっさり弱気になるくらいなら最初から仕掛けてくんな、このバカが!」

 鼻梁に拳を叩き込まれ、わたしは馬鹿と言われたための怒りを一瞬で削ぎとられる。もはや喜怒哀楽の一つ一つが彼女の掌にあった。

「あの眼鏡はな、大切な友人から貰ったんだ。それがお前みたいなクソみたいにクソな奴が! この氷の粒みたいなクソが!」

 彼女は髪の毛から手を離すとわたしを蹴り飛ばし、踏みつけてくる。なおも数メートルほど転がされ、わたしは本気で生命の危険を感じ始めていた。このままではわたしは羽虫のように、無造作に踏み潰されてしまう。力がないから。あの時と同じように、あっさりと退けられてしまう。だから、力が欲しかった筈なのに。得たものはこんなにも中途半端で、それすらもいま潰えようとしている。

「嫌だ、やめて、死にたくない……」

 わたしは彼女の足に縋り、必死で希った。わたしはここで死ぬわけにはいかない。思い出せないけど、それはいけないことだ。わたしは何かをしなけれればいけなかったはずだ。

 その願いを誰かが聞き届けてくれたのか、突如として暴力が収まる。彼女はわたしを石ころのように蹴飛ばすと、少し離れたところで何かを拾いあげた。顔に装着したところからすると、落としたはずの彼女の眼鏡のようだ。地面に落ちたはずなのにレンズが割れていないのは、彼女の魔法によるものなのかもしれない。

 彼女はきょろきょろと辺りを見回し、慌ててわたしのもとに駆け寄ってきた。暴力が再開されるかと思い身構えると、しかし彼女は今にも泣きそうな表情を浮かべていた。先程までの凶暴さは見事なまでになりを潜め、ひたすらにわたしを心配していた。

「ああ、わたし……またやってしまった……」

 何やらぶつぶつと呟いているけれど、あまりにも小さくてよく聞き取れなかった。否、意識を失っていくために気付けないのだと、最後の一瞬でようやく理解することができた。

 また、やってしまった。

 ずっと気をつけていたのに。最近は我慢できていたのに。また同じことを。過ちを繰り返すのは魔法使いにあらずと、前に紅魔館で同じことをしでかしたとき、師匠に散々説教されたというのに。

「血のせいなんて言い訳にならないのに」

 それならば父も上白沢先生もずっと凶暴で、里の人間たちを悩ませているはずだ。実際には、父は温厚な良き商人として評判が高い。上白沢先生はその賢性を鈍らせたことなど、わたしの知る限り一度もない。混血の村人は他にもいるけれど、彼らにしても同様だ。わたしだけが妖怪の血を悲しいほどに制御できない。理性のタガが外れるととことんまでやってしまう。

 わたしはベッドに横たわる氷の妖怪に目を向ける。顔には殴打の痕があり、体にも打ち傷が一杯あって包帯と湿布を巻くだけでも一苦労だった。古い傷もあったけど、わたしのつけた傷のほうが圧倒的に多いはずだ。内省よりも彼女を優先するべきだと判断し、改めてその顔を覗き込む。外見はわたしより少し年下風味なのに、胸はわたしより一回り大きい。なるほど、遺伝はここでも実に残酷だ。

「そんなことはどうでも良くて」わたしは目を細め、彼女の力を視据える。打ちのめされながらもその身には強い氷の力を保っている。「わたしの眼鏡を弾き飛ばすのだから、強い力を持っているのは間違いない」

 これまでにいくつもの異変や、それよりも罪のない事件に首を突っ込んできたけれど、そんなことができたものは数えるほどしかいない。わたしが知らないだけで規格外の強者はいくらでも潜んでいるかもしれないけれど、彼女には他にも気になるところがあった。

「冬がやってくる」両親を始めとして、里の年経たものたちが口々に同じことを呟くから嫌でも覚えてしまった一言だ。「呼応するように現れた氷の妖怪。仮初めの冬ではない、真実の冬がやってくるのは分かるけど、それだけではないのかな?」

 自問自答してみたけれど、ぴんと来るものはない。わたしは博麗の巫女みたく神懸かり的な勘を持ち合わせていないから、因果を咀嚼する必要がある。わたしはただの人間。普通の魔法使いなのだ。

「誰かに知らせるべきなのかしら」

 最初に思いついたのは母だったけど、少し前に口論をふっかけた手前、歩み寄るのも癪に障る。

「師匠やアリスさんに話したら叱られそうだし。やはり白蓮さんかな」

 命蓮寺の主である聖白蓮は、わたしの三番目の師匠である。彼女も確か冬を憂いていたはずだから氷の妖怪のことを話せば親身になってくれるに違いない。狡い決め方だけど、おそらく最善でもある。

 今日は布団を持ち込んで、容態の変化に備えよう。そこまで決めて行動にかかろうとしたとき、不躾なノックと家主の許可を得ない侵入がほぼ同時に発生する。この家でそこまでの不作法をする相手は一人しかいない。わたしの実母である霧雨魔理沙だ。

 母に事の顛末を悟られるのは癪であり、わたしは氷の妖怪をベッドに残して部屋を出る。魔法店のカウンタに通じるドアを開けようとしたところで母と鉢合わせした。いかにかつての住処であるとはいえ余りにも不躾過ぎる。

「お、いたいた。返事がないから留守にしているのかと思ったよ」

「返事する暇もなく入って来たのは母様でしょう?」わたしはドアの向こうに母を押しやる。すると滑るようにカウンタの下を潜り、応接用のソファにどっかりと座り込んだ。「ほうじ茶で良いかしら」

「任せるわ」母はまるで友人に笑いかけるような表情を浮かべる。それも母の仕草で気に入らないものの一つだ。「あとは腹に溜まるものをもらえるかしら。朝からろくに食べず駆けずり回っていたものだから」

 博麗神社で分けてもらった煎餅がある。少し湿気ているけれど、そのほうが腹には溜まりやすいだろう。わたしは台所に立ち、火気増幅器でお湯を沸かし、茶を淹れる。新聞にくるんで保存しておいた煎餅を皿に乗せ、二人分の茶と合わせて盆に乗せる。店舗スペースに戻ると母は店の中をきょろきょろと見回していた。

「綺麗にしている。流石はわたしの娘だね」

 母は稀代の収集狂であり、無類の片付け下手であることを複数の人間や妖怪、特にアリスさんから散々に聞かされてきた。母にはたまに悪びれることなく、己の過去を改竄する癖があるのだ。もっとも幻想郷の住人は大抵が大なり小なり空気のように騙る。ある意味で臑に傷を持つものたちの集まりである幻想郷だからこそ成立したコミュニケーション感覚なのかもしれない。わたしはあまり好きではないのだけど、騙られた過去は基本的に追求しない。郷に入るもの郷に従え。

「アリスさんが聞いたなら呆れるに違いありません」ただし、母だけは除く。「わたしが今の居住空間を手に入れるのにどれだけ苦労したと思ってるんですか?」

「若いうちの苦労は買ってでもするものよ」努力家であったと、これも複数の人間や妖怪から聞いているけど、流石に話を逸らしていると思う。「わたしなりの整理もしたし」

 不満は尽きないのだが、今はねちねち指摘している場合でもない。母娘喧嘩の気まずさを圧してやってくるのだから、今日の母は相応の用事を抱えているはずなのだ。

 母はそんな素振りを見せることなく煎餅とお茶を交互にぱくついている。幼い頃はそれなりに行儀良く振る舞っていたのに、最近ではてんでだらしない。おそらくこちらが地で、わたしに見せても構わないと考えているのだ。信頼されているのだが、腑に落ちない。

 娘の考えをどれほど察しているのか。母はマイペースで胃腸を潤すと、いつもの口調で痛いところを突いてきた。

「奥にいる氷の娘に用事があるの。案内してもらえるかしら」

 どうして母がそのことを知っているのか。問いたげに睨みつけると、母は面倒くさげに説明を加えていく。

「マスタースパークの光を遠くに見かけてね。娘の技量がどれほどのものになったか確かめるために現場へ向かうと、辺りにはわたしの求めている痕跡が残っていた。だからここに来たのよ」

 必要以上に端折るから何を言いたいのか微妙に分からない。これも幻想郷におけるコミュニケーションの傾向である。言葉は自己完結するためのもの、他人に理解される必要はない。虚言傾向と相俟って、幻想郷の一部住人とは会話することさえ難しい。人里ではそんなことないのだけど、妖怪は特に年経るとその傾向が強くなるし、妖怪と長いこと接してきた人間にも自然と伝染するらしい。

「現場に氷が落ちているのを見たのね」つまりはそういうことだ。「でも、わたしが勝ったとは現場を見ただけでは分からないのに、母様は迷わずここに来たわ。どうして?」

 わたしが負けて浚われた可能性を母はまるで斟酌していない。納得できなかったけれど、母は実に単純な答えを返した。

「魔美が負けるはずはない。かつてのわたしより撃てるんだから」母は誇らしげにそう口にする。要するにわたしへの根拠ない信頼があっただけなのだ。溜息の出るような話である。「でも力押しするくらいだから相当の手合いなんだろうね」

 嫌味でないことは分かっているけれど、わたしがいざというときパワースタイルで戦うことを嬉しく感じているのが気に入らなかった。

「使いたくて使った訳じゃありません」魔力増幅器を全八門開放しての砲撃。威力は強いけど消耗が激しいからいつもは使わないようにしている。不意の事故があったとはいえ、使わされたからには彼女の力を認めないわけにはいかない。「ええ、彼女は強かった。火気に集中したわたしのスペルと拮抗しきったもの。もしかして『冬がやってくる』ことと関係があるの?」

 少し前から色々なところで囁かれるようになった言葉だ。おかしいのはそれだけではない。母を始めとして一線を退いたはずのものたちが憂慮して動いている。何か只ならぬことが起きているに違いない。それなのに誰もが確としたことを話してくれない。

「魔美には関わって欲しくないと言っても退いてはくれないわよね」

「わたしは今日関係者になったのよ。知る権利があるわ」確信はないけれど、ここで言い切らなければ母はのらりくらりとかわすだけだ。「冬とはかつて幻想郷に自然と訪れていた季節のことよね」

 今は力のある神や妖怪が人工的に作り出しているもの。それでもかつての冬に比べれば暖かいらしい。わたしが生まれる前にかつての冬はなくなってしまったから想像するしかないのだが。

「そうよ、今年は本当の冬が来る。でもそのこと自体は別に悪いことでもなんでもない。むしろ冬の来ないことのほうが問題なの。例えば桜は寒暖の差に反応して開花するし、寒きを眠りに過ごす生き物たちにとって冬が過度に暖かいのはよろしくない。だからこそ冬は全力を挙げて保たれなければならなかった」

 その理屈はわたしにも容易に分かる。理解できないのはかつて、如何様にして冬が消えてしまったのかということだ。

「冬を封じ込めるほどの力がこの幻想郷にあるの?」わたしには地霊殿に住む八咫烏の管理に失敗するくらいしか思いつかない。「退けることはできなかったの? 強い力を持つ妖怪がここには沢山いるのに」

「そうね、少し説明が難しくなるかも」母の言葉が嘘でないことは、きつく組まれた腕から容易に察することができた。「かつてこの幻想郷から春を根こそぎ奪おうとした奴がいたことは知っているかしら?」

 母が言っているのは今から三十年近くも前に起きた春雪異変のことだろう。盗まれた春はある妖怪桜を開花させるために捧げられたという。

「あのときの春は幻想的に盗まれた。それと違い、ここ数十年の冬は物理的に盗まれている。紫は『太陽活動の活発化』と『温室効果ガスの増大』が複合した結果だと言っていたわ」

 前者は理解できるけれど、後者はいまいちぴんと来ない。温室なら人里や河童の里で見たことがあるけれど、母はまるで世界を温室化させるガスがあるとでも言いたげだ。そのことが正しいのは母の表情が僅かにひきつっていることから推測できた。

「外の世界はクソ……」柄の悪い言葉が口から出かけ、慌てて咳払いする。「とてもとても大きいのよね」

 直径一万キロ以上もの巨大な球体をガスで暖かくするだなんて、どれほど上手に気体を操る能力があったとしても不可能に思える。

「そうね、途方もない。けど七十億もの人間が住み、絶え間なく排出されていたとしたら」

 幻想郷では数千の人間がほぼ一所に集まって暮らしている。それでも多いと感じるのに、外世界は数十万倍の人がいる。正直いって訳が分からなかった。

「わたしも俄には承伏しかねるけど、嘘にしては余りにも荒唐無稽なの。紫ならもっとあり得そうな嘘をつく。だからこそ逆に概ね正しい情報なのだと判断しているのよ」

 わたしはやはり胡散臭いと考えているけれど、もしスキマ妖怪の発言が正しいならば。数十億の人間はおそらく、世界をあっという間に暑くするだろう。

「幻想郷は外世界と無関係ではいられない。冬の消失はここにも押し寄せ、為す術もなく流されるよりほかなかった。危うい状況がずっと続いてきたのよ。実を言えば、あと十年は持ち応えられなかったわね」

 状況はわたしが想像するよりもずっと厳しいものだったらしい。

「それが今年になっていきなり、冬が戻ってきた。そこに何か強い意図があるから、母様は調べているの?」

 失われた冬を呼び戻すものがいるとしたら。氷の力を使う妖怪はその筆頭に挙がるに違いない。そんなわたしの推測を否定するよう、母は小さく首を横に振る。

「いえ、冬が戻ってくることは予想されていたの。外世界で強く忘れられれば、幻想郷は自然と集める。あるいは太陽活動が正常に戻るかもしれない。どちらにしろ冬は戻ってくる、わたしたちはそれまで辛抱すれば良かった。ただ、一つだけ懸念すべきことがあるの。冬を縁としてきた存在が、これまでの抑圧を一気に噴出させるのではないかということ。四季を司る力は幻想郷だと色々特別だから、下手すると大惨事の起きる可能性がある。それを防ぐために先手を打ちたいの」

 母は奥の部屋に続くドアに視線を向ける。それゆえに氷の妖怪と接触する必要があるのだろう。だがそれだけではない。母は心の奥底に何らかの懸念を秘めている。空気のように嘘を吐くどうしようもない人ではあるけれど、折り目正しく嘘を吐くのはあまり得意ではない。焦燥のようなものが滲んでいるのをわたしは密かに見逃さなかった。

 その緊張を母は読みとったのだろう。更なる真実を打ち明けるべきか逡巡する母の顔をわたしはじっと見つめる。緊張が続き、喉がやけに乾くけれど、お茶に手を伸ばすことはできなかった。一息の間を与えれば、母は身をかわすに違いない。父のプロポーズをそれだけで数年も誤魔化し続けてきたのだから筋金入りだ。母にきちんと話をさせるには対峙を続けるしかない。隙を与えてはならない。

 母娘の関係にあらぬ緊張を破ったのは、奥の部屋から聞こえてきた物音だった。母は素早く立ち上がると、わたしに無言で案内を請う。舌打ちしたくなるのを堪えながら、わたしは母を氷の妖怪が眠る部屋へと連れていった。

 わたしは緊張を押し隠してからドアをノックする。返事がないので勝手に入ると、奥からいきなり氷塊が飛んできて顔面に命中した。

「やれ、手荒いね」わたしは無造作に氷の破片を顔から払う。「残念ながらわたしの面は鉄よりも固いことで有名なのよ」

 室内から妖力を感じたので前もって身体強化の術をかけておいたのだが、わざわざ口にするほど親切ではない。それにしてもいきなり攻撃とは、蓮っ葉なところはまるで変わっていないらしい。

 彼女はわたしを見てきょとんとした顔を浮かべていたが、次の瞬間にはわたしの予想しない行動を取っていた。彼女はわたしに深々と頭を下げたのだ。

「ごめんなさい」かつての彼女なら滅多に使わないはずの言葉が飛び出す。わたしは見事なほどに面食らった。「その、魔が差しただけで。わたし、もう逆らわないから……」

 おそるおそる頭を上げる彼女に、往年のお転婆さはどこにも見当たらない。体つきが女らしくなっただけではない。かつての彼女が持っていた明るさをどこかに置き忘れている。あんなことがあったのだから、しょうがないのかもしれないけれど、それでも衝撃を隠せなかった。わたしは彼女に酷いことをしたし、その咎は消えていない。

 そんなわたしの心を知ることなく、彼女はわたしをじっと見つめ続けている。まるでわたしが何者か分からないかのようだ。南無三と口にしかけ、わたしは小さく息をつく。

「あなた、だれ?」怯えの中に微かな好奇心が煌めき、かつての彼女を僅かながらに感じさせる。「あの恐ろしい女の関係者?」

 わたしはもう少しで噴き出しそうになる。部屋の外では娘が顔を赤くして身悶えているに違いない。さもありなん。七曜から八卦へと相を移した娘は本当に容赦しないのだから。かつての彼女であっても、娘のことは必死に恐れたかもしれなかった。

「不承の母親よ。貴女とはかつて、少なからぬ接点があったのだけど覚えてないかしら」わたしは帽子を取り、ひらりとお辞儀をする。「時には協力して難事と取り組んだこともあるのだけど」

 主に捨て駒、狂言回しの類として扱ったことは伏せておいたが、これだけ仄めかしてもまるで反応なしでは、本当に何も覚えていないと判断せざるを得ない。

 念のために少し待ってみると、彼女は徐々に表情を険しくしていった。ただしわたしの行いに憤っているわけではない。もっと冥い気持ちを持て余しているようだった。

「もしかして、貴女はわたしの過去を知っているの?」

「もちろんよ。とても騒がしい娘だったから。妖精でありながら未だ多くの人妖に覚えられているなんて……」

「やめて!」彼女は唐突に声を荒らげ、わたしの話を遮った。「あんな弱くて知恵遅れで恥知らずだったときのことなんて語らないで!」

 わたしはひゅうと息を吐く。全く予想だにしない反応がついて出たからだ。否、三妖精への憎悪に近い攻撃から推測して然るべきだったし、彼女があの結末を微かにでも留めておくことができたならば。

 そのことを確かめるため、わたしは更に彼女の気持ちを逆撫でする。

「チルノ、貴女くらいのものよ」

「その名前でわたしを呼ぶな!」

 室内であるにも関わらず、かつてチルノと呼ばれていた妖怪は寒気を撒き散らし始める。床も壁も天井も、調度品の数々も見る間に凍り付いていく。そうしてわたしの全身をも捉えようとしていた。

 足に絡みつこうとした氷をわたしは一気に踏みつける。一時は膝までかけあがっていたが、やがてわたしの流す魔力に耐えきれず、部屋中の氷だけが一気に破砕して塵となった。

 一連のやり取りに泡をくったのか、娘が慌てて室内に駆けつける。

「どうしたの、これ?」部屋に満ちる物質の正体が氷だと分かり、娘はチルノを睨みつける。先程ぼこぼこにされたのが余程堪えたのか、チルノは自分の体を氷のように硬直させてしまった。「大丈夫、母様?」

「どうってことはないわ。少しだけ焦ったけどね」氷の浸食が予想以上に早かった。成り立てだとたかを括っていたのだが、どうやら認識を改めなければいけないようだ。鈴蘭畑の人形みたく、彼女は妖怪として赤子も同然だというのにかなりの力と知見を身につけている。少なくとも異質で強い力に恐怖できるくらいには。「冬が近いというのもあるけど、それを抜いても強いと思う。あくまで妖怪の基準に則ればの話だけど」

 長生であるためか、在り方が固着されるためか、妖怪の成長速度は人間よりずっと遅い場合がほとんどだ。余程大量の力を取り込めばあり得ない話でもないけれど、蓄える器に限界がある。

「妖精は基本的に貯まらないの」だから力も弱い場合が多く記憶も悲しいくらいにぽろぽろと零れていく。「彼女はかつて妖精として、破格と言って良いほど強かった。馬鹿なりに覚えていたことも結構あったような気がするわ。器があったのね。妖に転変することで一気に嵩が増したのかもしれない」

 もちろんそれだけではないだろうが、娘に話すのはもう少し後にしたかった。普段から言い争いの耐えない仲ではあるけれど、本気で口を聞いてもらえない可能性があるからだ。

「わたし、強くない」そう言えば一人称もあたいからわたしに変わっている。大人しい印象が強く感じられたのはそのためでもあるのだろう。「強ければ、誰にも負けないんだ!」

 我が若さ故の過ちをこんな場所で食らうとは思わなかった。彼女は明らかに昔のわたしとそっくりそのまま同じことを考えている。

「強いから必ず勝てる訳ではないの。反則臭い奴でも、本物の反則でも、躱し続ければ勝てるのよ」

 幻想郷に住むものならば誰でも知っている、ないし本能的に理解していることだ。妖精でさえも。しかしチルノはわたしの言葉にも首を傾げるばかりだ。まるで分かってない。これは思いのほか重傷と言えた。

 わたしがかつて弾を交えたものたちには、本物の反則が両手で数え消えれないほど存在したが、その誰もが理解していた。長らくの封印に晒されたものでさえ、幻想郷にいると認識することで理解した。勝負はいつも最後まで弾を躱していたものの勝利に終わった。だからこそわたしは霊夢ほどではないけど勝つことができた。だが、今のチルノは幻想郷から外れている。下手をすると数多の異変よりも厄介なものを呼び込むかもしれない。

 境界の賢人がわたしを担ぎ上げようとするわけだ。確かにこれは『少女』には荷が重い。あの時と同じように、幻想郷の理だけでは収まりきらないことが起きるかもしれない。これは『大人』の仕事だ。楽園時代を終え、地に足をつけたものたちが背負うものだ。

 チルノの真摯で曲げようのない疑いこそ、そのことを如実に示している。彼女を幻想郷に繋げ直す必要があるし、そのための方法を探さなければいけない。

「わたしは弱い。わたしは弱いのが嫌いよ」

「チルノは今のままでも十分強いわ」

 気休めではなく割と本気で言ったのだが、チルノには侮辱としか聞こえなかったようだ。

「負けるのは弱い奴だけよ! それとわたしのことチルノだなんて妖精臭い名前で呼ばないで頂戴」

 どうやらチルノは体を表す名前を変えたらしい。

「ふむ、それでは新しい名前を教えてもらえるかしら」

「レディよ」濁りが判別しにくい発音であったため、わたしはもう少しで『それはお前の名前ではない』と言うところだった。「レディ・コールドブラッド」

 冷血の貴婦人。それこそチルノが己に与えた新しい名前であり、生き方であらしい。

「なるほど、貴女は」冷たく、取り澄ました、残酷で、どうしようもないものになったのか。そう問いかけて、わたしはすんでのところで言葉を濁した。「そんな名前をつけて、レティにあやかりたかったの?」

 半ば探るように、半ば希望を込めて訊ねると、チルノはうっとりとした調子で大きく頷いた。

「もちろんそうに決まってるじゃない。だってレティは冬の女王、わたしの源なのだから」

 妖精だった頃にはまるで見せなかった、妖艶とも言える情念がわたしの背筋を駆け抜ける。わたしは思わず寒気に襲われた。

 この少女がわたしの探していた氷の妖精に違いないはずだ。背はわたしよりも少し低い程度まで伸び、服の上からでもはっきりと分かる膨らみを帯びているものの、面影が多分に残っているし、かつて妖精であったことを忌避している兆しもある。賢しい卑屈さを身につけたけれど、激しやすく短絡的なところはまるで変わっていない。

 それでいて彼女の中で何かが決定的に変わっている。冬のチルノやレティに近づくことはあまりなかったけれど、二人が同相以上の関係を持っていなかったことはかつてのやり取りから明らかだった。彼女は同じものを持つレティに無邪気な好意を示していただけだ。

 うすら寒い予感に晒され、わたしは思わず呟いた。

「冬がやってくる」そうだ、今年はいつもよりも濃く厳しい冬になるだろう。「レティもまた、幻想郷に姿を表すに違いないわ」

「本当に?」彼女は目を輝かせ、わたしをじっと見つめる。「わたし、レティに会いたいわ。話をしなければいけないの。理由は分からないけど、そうしないといけないのよ」

 そりゃそうだろうよ。心の中に若い己が現れ、過去の所業が脳裏に瞬く。弾幕ごっこではなく、遊びなしの魔砲でわたしがやってしまったこと。限りなく頼りない冬の終わりのこと。

 謝りたくても、彼女はわたしのことを覚えていない。何をやったかも当然ながら抜け落ちているだろう。わたしは償うことすらできない。彼女が思い出さなければならない。

 それでわたしのやるべきことが決まった。

「怪我が治ったら案内したい場所がある」わたしはそう宣言し、彼女の目をじっと見つめる。「無くした記憶を取り戻す助けになるかもしれない」

「それならば、行くわ。わたし、レティのことを何も知らない。それから、貴女のことも」

 気紛れなのか、それともかつての行いを欠片でも留めているのか。彼女はわたしに興味を持っている。あるいはわたしの強さを知りたいだけなのかもしれない。それでもわたしは嬉しいと思う。彼女と再び会うことができて嬉しい。馬鹿だし、馬鹿にしてきたけど、それでも。できれば幻想郷と繋がって欲しい。また馬鹿なことをやりたいと思う。

 

 彼女を残して部屋から出ると、娘がわたしをじろりと睨む。配偶者のおっとりとした容貌を多分に受け継いでいるから迫力はないけれど、目に力がある。いずれは眼を使うほどの高位魔道師になるのだろう。

「母様と、あの妖怪は訳ありなのですね」

「何だか心躍る物言いね」冗談でお茶を濁そうとしたけれど、わたしの癖を大方熟知している娘に効くとは最初から考えていない。「わたしは彼女に負債があるの。今はそれだけで許してくれないかしら」

 納得していないことは娘の不満そうな表情から痛いほど分かる。それでも配偶者の躾が良いのか、過度の詮索はして来なかった。

「分かりました。その代わりに条件があります。わたしも彼女の巡礼に参加させてください」

 娘の提案をわたしは遠回しに渋ってみせた。紫はこの件に若者を巻き込みたくないようだし、早苗も少し前に同じようなことを言っていた。わたしも概ね同意だけど、この件を秘密裏に処理するのは逃げであるような気がする。それに手は多いほうが良い。

「母様がどのように生きてきたのか知りたいのです」

「子供の頃、散々聞かせたのにそんなこと言うの?」

「母様は自分に都合の良いことばかり語るじゃないですか! わたしが知らないとでも?」

「多少の脚色があったことは認めるに吝かでないわ。でも過去なんてそんなものではなくて?」

 娘は金魚のように口をぱくぱくさせてから、眼鏡のずれをわざとらしく直す。高ぶった気持ちを抑えるときの癖だ。

「そんな母様が隠すことなく非を認めようとしている。余程のことに違いありません」

「概ね清廉潔白に生きてきたけど、長ずれば傷の一つくらい負うものよ。愉快な記憶は形を変えるけど、血を流し続けるそれは決して変えられない。自力で塞がない限りはね」

「つまり余計なお世話と言いたいのですね」物分かりの良い娘だ。そして同じくらいに物分かりが悪い。「異変を追うのは生業ですから。それに冬の力には興味があります」

「今回の件は魔美がこれまで追ってきたものとは違うのよ。容赦なく命を奪おうとするものが相手になるかもしれない」

「命のやり取りならばこれまでに何度も交わしてきました」弾幕ごっこと本当の命のやり取りはまるで異なる。娘ほど賢明なものであってもその違いを理解することは難しいらしい。それも当然のことだ、わたしもあの時まで知らなかったのだから。「わたしなりの意地もあります」

 段々と論理性に欠けてきた。知識、頭脳、功徳を基にする魔法使いに師事していながら、娘は直情を捨て切れない。理性をかなぐり捨てたとき本当の力を発揮する。娘は嫌がると思うけど、やはりわたしの娘なのだ。手綱をつけることなどできないだろう。

「わたしの言いつけをできるだけ守ること」全てを守れなどといって杓子定規に行動されるのは危険だし、判断くらいは自分でしろと言外に込めた。「三十六計逃げるが勝ち、この二つを心得るならばついてきても良いわよ。魔美に口利きしてもらいたいこともあるし」

 今のわたしは霧雨の家で、配偶者を立てる良き伴侶で通っている。商家はことのほか忙しく、妖怪の発注も積極的に受けているから殊更だ。最低限の友好とネットワークは保持しているけれど、久々の訪問だからトラブルが発生しないとも限らない。否、トラブルは避けられないだろう。喧嘩が挨拶みたいな所なのだ。

 そんなことを考えているうち、一つ二つの案が朧気に浮かんでくる。上手く行くかは分からないけれど、それは昔も同じだった。

「詰まるところ、出たとこ勝負かな」

「母様はいつもそれだわ」

「違いない」わたしは娘の頭をくしゃくしゃにし、それからさりげなく訊ねる。「今日はここに泊まっても良い? 懐かしの我が家だし、料理の腕前がどれだけ上がったかも知りたいから」

 娘は少し躊躇ってから、それでも小さく頷いた。どうやら彼女の件で冷戦状態は一時棚上げとなったようだ。不安なことは多々あれど、今日はそれを喜ぶべきだと思った。