―1―

 楽しそうに行き交う学生たちの声。

 聞こえる足音。

 遠くからの掛け声。

 きっとクラブ活動をしているのだろう。

 通り過ぎる人の波。

 打ち寄せては消える。

 ここまで来たのはいいけれど、中の様子は全然分からない。

 困っていたんだ。

 その時、一人の女の子が声をかけてくれた。

「ねえ、貴方、ここの学校の生徒じゃないようだけど、何してるの?」

「うん……ちょっと人を探してるんだ?」

「人?」

 女の子の声が俄かにトーン・アップする。

「そう……サッカー部って何所で活動してるのかな?」

「そりゃ、運動場に決まってるじゃない」

「あ、そうか……」

 自分の質問が可笑しくて、私はくすくすと笑った。それにつられて、女の子も笑い声をあげた。

「貴方、可笑しな娘ね」

「うん、よく言われるよ」

 私は自分のこと、そこまで変だとは思ってないのだけど。皆が言うには、人より半テンポずれたような所があるらしい。

「運動場ってどっちなの?」

「えっと、あっち」

 あっち……私にはあっちがどの方角なのか分からなかった。女の子はきっと、指で運動場の方角を指しているのだろう。

「ごめん、分からないよ」

「分からないって、ここからでも見える……」

 そういった女の子の口が、ぴたりと止まる。

「その目、もしかして貴方……」

「うん、見えないんだ、貴方が指差している方向も、あなたの顔も……」

「そう……じゃあここまではどうやって来たの?」

「勿論、歩いてだよ」

「歩いて?」

 私の言葉が余程不思議だったのだろうか?

 女の子は素っ頓狂な声をあげた。

「歩いてって……目も見えないのに、目印も無しに?」

「うん」

「うんって、そんな事なげに……だって、ずっと目を瞑って歩いてるようなものじゃない」

「確かに……そうかもしれないね」

 目を開いて進む道が安全か、正しいかなんて確認することはできないけど。

「車だって走ってるし、障害物だってあるし……」

「うーん、そんなこと気にならなかったよ」

「なんで?」

「必死だったから」

 そう、ただ一つの思いを抱いてやって来た。

 だから、恐くない。

 声がぴたりと止まる。

 まるでそこに誰もいないみたいで、私は急に不安になった。

 そこに。

 手が。

 柔らかい、暖かい手がふわりと重ねられる。

「運動場だったわよね」

「うん」

「私、案内してあげる」

「えっ、本当? でも、いいの?」

「勿論」

女の子はそう言うと、私の手をゆっくりと引いてくれた。

まるでお姫様をエスコートする王子様みたいに。

 その想像が可笑しくて、私はクスリと笑った。

 そして、私と女の子は歓声のする方に向けて歩き出した。

―二―

 みさきの家から俺の通うことになる大学までは、歩いて二十分くらいの所にある。だからこそ、俺の家から通うことができる。

 かつて走り回った草むらや田んぼや空き地は、一戸建ての家々や一人暮しの学生用マンション群に変わり、今はもうない。

 高台の上にはちっぽけな秘密基地を作るよりも遥かに簡単に、近代的で機能的な建物が建ち並ぶ。

 初めてその姿を見た時、子供だった頃の自分の尊大さとちっぽけさ、そして可愛らしさと懐かしさの入り混じった不思議な感覚を抱いた。

 なんて、柄でもないか……。

 みさきの手を引きながら歩く道程はいつも短くて、坂を登れば、もうすぐ大学の入口だ。

 大学は少し高台にあるので、少々きつい坂を登らないといけない。まだ入学式まで一時間以上あるせいか、よくテレビで見るようなサークルの勧誘者の姿も見えない。いるのは警備員らしき二人の男性のみ。

 まあ、いきなりビラを持ってどっと押し寄せられるのも面倒だが。

「ほら、ここが入口だぞ」

 そういってみさきの手を、真鍮製の看板へと導く。みさきは冷たくひんやりとしたそれを何度か撫でると無邪気な様子で感想を述べる。

「余り高校のと変わらないね」

「まあ、電飾とかが付いてて派手派手しいなんてことはないだろ、普通は」

 そんな学校の看板は嫌だ。

「あの、何をしてるんですか?」

 俺とみさきの行動を不審に思ったのか、警備員の一人が声を掛けて来る。年齢は三十歳くらいだろうか、とにかく真面目そうな男性だった。

「あっ、ちょっと看板の手触りを確かめていたんです」

「はあ……そうなんですか」

 気の抜けたソーダのような返事をする警備員。

「二人とも、新入生ですか? それともここの生徒?」

「あ、俺は新入生で、彼女は付き添いです」

「ふーん……もしかして恋人同士とか」

「ええ、そんなもんです」

 本当は疑問の余地を挟むことなくそうなのだが、はっきりと口に出すのはやはり恥ずかしいものだ。

「恋人の付き添いですか……羨ましいですね。でも、まだ入学式までは時間がありますよ」

「ええ。だから大学を案内して時間を潰すつもりです」

「そうですか……迷わないように気を付けて下さいね」

 ほっとけと言いたくなるような言葉だった。

 俺はみさきの手を引くと、門をくぐり大学の中へと入った。といっても、高校と比べて校舎が一つ増えただけだ。ここは単科大学なので、総合大学みたいに幾つも建物が並んでいる訳ではない。よって、さっきの警備員の台詞は、冷やかしに近いのだろう。

 中へ入ってすぐ右手はグラウンド。左手には鉄筋六階建ての建物が、H字型に並んでいる。二つの校舎を行き来する廊下があるので、ちょうどH型に見えるのだ。

 手前にはこじんまりとした噴水があり、それを囲むようにしてベンチが配置されている。きっと昼食時には席の争奪戦が始まるのだろう。

 途中、数人かのサークル勧誘者が近くを通っていったが、声をかけるものは誰もいなかった。どうやら早すぎる来訪者である俺たちは、ここの生徒であろうと認識されているようだ。

「ねえ、大学の建物って入れるのかな?」

「多分、大丈夫だと思うぞ」

 こういう所は入口に門番や守衛がいるものの、一度中に入ってみれば管理なんて杜撰なものだ。

 住井がそう言っていたが、正にその通り。誰も俺たちの行動を咎める者はいなかった。

 校舎の中は中学も高校も大学も大して変わりが無い。リノリウムの床に無機質な白い壁。違う所と言えば、建物の高さだけだ。

「大学って言ったらさ、黒板をぐるっと囲むような、半円型の教室があるよね。私、そこに言ってみたいな」

 みさきがぽつりと呟く。

「そっか……俺も見てみたいな」

 確かにドラマや漫画で良く出て来るそれを、俺も見てみたいと思う。筆記試験は普通の教室だったので、その姿は不定だった。

「よし、じゃあ探してみるか」

「うん」

 笑顔一杯のみさきの手を引き、歩き始める。

 歩く。

 歩く、歩く。

 立ち止まって、また歩く。

 そして止まる。

 しかし、目的の教室はさっぱり見当たらない。

「おかしいな……何所にもないぞ」

「ふう、私ちょっと疲れたよ」

 一時間近くぶっ通しで歩き続けたのだ。

 俺だって疲れていた。

「……あなたたち、入学式の日にこんな所で何をやってるの?」

 一息付いていると、急に後ろから声を掛けられる。素早く振り返ると、そこには一人の女性が立っていた。と言っても、発せられた声で辛うじて女性だと分かったくらい、服装にも髪型にも無頓着な格好をしている。

 白衣を着ているから、ここで働いている研究者か教員か何かだろうか? その白衣にも、薬品が付いたらしき染みが幾つも残っていた。皺も目立ち、あまり洗濯されていないという印象が強い。

 白衣の人物は男っぽい笑みを浮かべると、興味深そうな目で俺とみさきとを交互に見ている。

「あ、いえ……その、俺は新入生で、校舎の中を探検して回ってたというか……」

「ふうん、探検かあ。今時の学生にしては面白いことやってるじゃない。それで、お目当てのものは見付かったかな。さっきから色々と探して歩いていたけど」

 そうあっさりと答えて見せる、白衣の女性。もっとも、女性というには少し抵抗があったが……。それよりも俺は、最後の言葉が気になった。

「色々と探し回ってたって……俺たちの姿、ずっと見てたんですか?」

「ええ、挙動不審だったから泥棒か産業スパイの類かと思って。不審な行動を見せたら、即座に警察に突き出すところだった」

 そういって忍び笑いを浮かべる目の前の人物。明らかに俺をからかっていることがみえみえの台詞だ。

「本当はすぐに声をかけようと思ったんだけど、余りにもお二人の仲が良さそうだったんで、声を掛けられなかったんだな」

 今度は明らかに声を立てて笑う。

 余程面白い冗談だと思っているのだろうか。

 とにかく俺には全然笑えなかった。

 みさきの方もそうだろうと思って顔を覗き込んでみると、しかし彼女の方は可笑しいものでもみたかのような表情をしていた。

 やがて一頻り笑い声が収まったのを見計らって、みさきが尋ねる。

「先程から聞いてたんですけど、貴方はここの大学に勤めている人なんですか?」

「ええ、まあ。でも普通、こんな白衣着て学内をウロウロしてたら……」

 と、そこで白衣の女性の口が止まる。

「そっか、見えないのか……」

 みさきの目の色を見て取ったのだろう。

 彼女はトーン・ダウンした口調で言った。

「察しの通り、私はここの大学で働いてる。最もまだ下っ端だから、給料はたかが知れてるけど。それで貴方たち、何を探してたの? 随分熱心な様子だったけど」

「えっと、良くドラマであるような半円形の教室を探していたんです」

「ああ、そういうのはね……ここには無いの。総合大学でも無いし、そんなに人数入る必要のある教室なんて入らないから」

「あっ、そうなんですか……」

 残念そうな表情を浮かべるみさき。

「まあ、普通の教室だったら案内できるけど……それよりいいの? もうすぐ入学式、始まっちゃうけど」

 白衣の女性は俺の目の前に、デジタル表示の腕時計を突き付けて見せる。

「ぐあっ……もう時間が無いぞ」

 時計は入学式五分前なんて言う、かなり凶悪な時間を指していた。

「すいません。じゃあ俺たち、行きますんで」

「あ、えっと、そういうことなので……」

 俺とみさきは各々に声を掛けると、全力疾走モードへと入る。すると背後から、女性とは思えない大声で一言。

「それじゃあ、講義が始まったらまた会いましょう……折原浩平君」

 ドップラー効果のように遠ざかる声を尻目に、俺はみさきの手を取って廊下を、階段を最短距離で進んでいった。

「あれ?」

 ふとみさきが素っ頓狂な声をあげる。

「ん、トイレか?」

「いや、なんであの女の人、浩平の名前知ってのかな」

「あ、言われてみれば確かに……いや、でもそんなことに構ってる暇なんて無いぞ」

 みさきの疑問はもっともだったが、今の俺には式に遅刻したらまずいという、もう少し重要度の高い事実で満ちていた。だからそのことを充分に頭の中で吟味することができなかったのだ。

 そのまま入学式の舞台である体育館へと駆け込む。みさきを来賓の席の一つに導いて、それから新入生用の席を、押し倒さんばかりに座った丁度その時、学長らしき人物の話が始まった。

 ギリギリセーフと言う奴だ。

 俺は思わず大きな息を付いた。

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