とある詩の一節に、こんな文句がある。

 どんなに辛いことでも、何時かは笑って話せる、と。

 嘘だ。あとで笑って話せるような出来事なんて、辛いとは言わない。

 辛いということで、自分の心を慰めているだけ。

―1―

「でも、ひどいよねえ」

 黙って虚空を見つめる私に、女の子は話しかけてきた。

「女の子にあんな言い方するなんて。ちょっと格好良いなって思ってたけど、あそこまで冷酷な奴だったとは思わなかったわ」

 憤慨した様子を見せる女の子。

「でも、しょうがないよ。やっぱり、私は迷惑な人間だから。目が見えないから、足手まといになるんだよ……普通の人間にとっては。だから、私なんて拒絶されて当然なんだ」

 いくら優しい人でも。

 例え私の両親であっても。

 結局、そう思ってるに違いないんだよ。

 だから、下手に慰めたりしないで。

 その時、廊下の方から足音が聞こえた。

 カツカツカツ。

 刻み付けるような音と共に、ドアが騒がしく開く。

「あら、どうしたの?」

「あっ、先生……実はですね」

 少女が先生……多分保険教師だろうけど、その人に詳しく説明していった。

 教師はしばらく相槌を打ったりしていたけど、やがて私の眠るベッドの方に近付いてきた。

「川名さん……でしたね」

「はい……」

 教師の少し威圧するような声に、私は力なく答えた。

「今からあなたの学校の教師に連絡を取りますから、ここでじっとしていて下さいね。それから、こういう危ない真似は絶対やめるように。皆に迷惑をかけますから」

 迷惑……。

 保険教師の口から飛び出した二文字。

 ちくりと胸を責めたてる。

「ごめんなさい……」

 そう。

 私に口答えする権利なんてないのだ。

 意見を通す権利なんてないのだ。

 思いを通す権利なんてないのだ。

 人を愛する権利なんてないのだ。

 迷惑をかけたことをただ、謝るだけ。

 機械仕掛けの人形のように……。

「あなたはもう、言って良いですよ。御苦労様でしたね」

 私を案内してくれた女の子に向けて、教師が労いの言葉を掛ける。

「ううん、そんなことないです。私も……楽しかったし」

 女の子は弾んだ声をあげると、最後に一言こう言った。

「また、会えるといいね」

 私は何も答えなかった。

 そう言えば、女の子の名前すら聞いてなかったね……。だから、多分もう二度と会えないだろう。

―二―

「盲導犬……ですか?」

 俺は突然の提案に、思わず声を張り上げた。

「ああ、まさか知らないわけじゃないだろう」

「そりゃまあ、そうですけど……」

 とはいっても、俺は基本的なことしか知らない。知っているのは目が不自由な人の替わりに、目となって彼らを導くように訓練された犬の総称だ……ということくらいだ。

「実はこの町から三駅ほど離れた所にな、新しい盲導犬訓練施設が作られることになった。いや、実際には五年くらい前からそういう活動はやっているんだがな。それで訓練の方は済んでいるんだが、実地の方がまだなんだ。そこで良ければ、君のフィアンセに協力してもらいたいと私は考えてる」

「フィアンセじゃないですよ。それに……」

 俺は冷静に言葉を切り返すと、橘講師の目を見据えて言った。

「今の言い方、まるでみさきを訓練台にしようみたいだったじゃないですか」

「すまん、言い方が悪かったな、反省する」

 彼女は頭を下げると、話を続けた。

「まあ実地と言っても、危険性はないと思っていいんだ。訓練所施設のスタッフが、散々訓練台になって確かめたからな。ただ、試みが少々目新しいものなんだ……君は盲導犬の選定過程というものを知っているか?」

「いえ、そういうことは全然知らないんです」

 俺は曖昧に言葉を返しながら、今の提案について考えてみた。盲導犬……良く考えてみれば、そういう選択肢もあった筈だ。

 しかし、盲導犬という選択肢をあえて除外して考えていたのは、あの日みさきと交わした約束のためだった。

 だから、新しくみさきの目となる存在を考える必要などなかったのだ。

「ふむ、となると一から話した方が良いかな。盲導犬というのは目の不自由な人間の、文字通り目の替わりにならなければならない。だから人間に従順で気性が穏やか、そして賢さがなければ勤まらないんだ。人の言うことを聞き、尚且つ飼い主が危険な時には行動を自粛させる、 そういう複雑な命令や動作もこなせなければいけない。

 だから盲導犬として使われる犬の種類としては、ラブラドール・リトリーバーやゴールデン・リトリーバー、ジャーマン・シェパード、またはその一代混血などが用いられるのがほとんどだ。彼らは判断能力もあるし、賢いからな。新しくできたその施設でも、それらの犬種を使うことには変わりないんだ」

 そこまで言うと、橘講師は黙り込んでしまった。

 仕方なく、俺が話を促した。

「変わりないんだけど……なんですか?」

 俺がそう言うと、彼女は満足げに笑って見せた。

「まあ、興味は持ってくれているということか」

 つまり、先程の沈黙は俺が話に興味を持つか否かを確かめるためだったらしい。

 それで俺が黙ったままだったら、どうするつもりだったのだろうか。つくづく変な人だと思う。

「彼が……私の知り合いなんだが、そいつは一度人間から見捨てられたペットを、盲導犬として育てようと考えているんだよ……無茶な話なんだけどね。普通、盲導犬というのは赤ん坊の頃に人と慣れ親しんで、人間が信頼に値するものだという認識を与えなければいけない。 人に裏切られた彼らには不適格じゃないかってね」

「そう、なんですか?」

 俺が尋ねると、彼女はオーバに手を広げて見せた。

「私もそう思ってたんだけどね……。私が前に訪ねていった時にはびっくりしたよ。彼らは立派にその役目を果たしていたし、練度も高かった。あいつも必死にやってきたらしいな」

 あいつ……ということは、その施設の人間と彼女は知り合いなのだろうか。いや、そうじゃなければこんな話を持ちかけたりはしないよな。

「まあ……いや、これは言わないでおこう。そういう事情でな、盲導犬を使ってくれる人を探してるんだよ。勿論、引き受けるか否かの決定権は君たちにある。それは自由なんだだ」

 自由。

 しかし、自由という言葉は重たい。

 人の運命を左右するものなら尚更だ。

 選択が許されるからこそ、すぐに決定することはできなかった。

「考えさせて下さい」

 俺はしばらく考えた後、そういった。

「まあ、急を要することではない。返事は遅れても良いんだ。あ、それと興味があったらフィアンセと一緒にここを尋ねてみれば良い。例の訓練所、一度は見ておいても良いだろう?」

 懐から地図を取り出すと、橘講師はそれを手渡した。

 俺は地図を広げてみると、新しく与えられた可能性に、拙い頭を巡らせていた……。

 俺がフィアンセじゃないと突っ込むのを忘れていたと気付いたのは、彼女が去ってしばらくしてからのことだった……。

―3―

 今日の夕食は三人だった。

 私と、母さんと、浩平の三人。

 講義が終わって夕食前に尋ねて来た浩平を、母が無理矢理夕食に引っ張り込んだのだ。

 丁度良かった……とは母さん談。

 私には何が丁度良いのか、さっぱり分からなかった。

 そして夕食も終えて、浩平の口から出たのがその話だった。

「盲導犬?」

 私は思わず大声で尋ねていた。

「ああ、うちの大学の講師の人が話をしてくれて……」

 浩平はその時の様子を、詳しく、そして時々しどろもどろに話していた。

 フィアンセという言葉が出て来る度に、母さんが冷やかし、そして、私の顔は赤くなっていた。

 最初に口を開いたのは母さんだった。

「ふーん、でも盲導犬って絶対数が少ないんでしょう? 確か全国で千頭にすら満たないって聞いたことがあるけど」

「ええ、俺も調べてみたんですけど、そのくらいでしたよ。けど使ってる人の記録とか読んでみたら、好意的な意見が圧倒的多数でしたし。みさきは犬は嫌いだったっけ?」

 犬。

 ふさふさの毛と愛嬌のある顔。

 嫌いな筈がなかった。

 目が見えなくなってからは触ることも無くなったけど、基本的には好きな部類に入る。

「ううん。大好きだよ」

「そっか……それで今週末くらいに一度訓練施設を訪ねてみようと思ってるんだけど、みさきも来ないか?」

 浩平の言葉。

 盲導犬。

 私の目の替わりになってくれるもの。

 私も盲導犬のことは、話で聞いたことがあった。

 賢くて、献身的で、強い。

 目の見えない人に、世界を与えてくれる。

 世の中に出る、きっかけと勇気を与えてくれる。

 でも、思う。

 だとしたら、それは私には……。

 必要のないものかもしれない。

「いや、私はいいよ」

 私は首を小さく振ると、そう答えた。

「私には、浩平がいるから。だから私じゃなくて、もっと必要としている人に、その権利はあるべきだと思う」

「でも、浩平くんだっていつも一緒にいるわけじゃないでしょう? そんな時、目になってくれる存在がいることは励みになると私は思うけど」

 母さんは少し険を強めて言った。

「そう……かな?」

 浩平の替わりに目になってくれる存在。

 浩平がいない時に……。

「そうよ。だから見に行くだけでも言ってみたら?」

 熱心に勧める母に、私は曖昧に頷いた。

 その反対側で、私は考えていた。

 浩平の替わりに目になってくれる存在。

 浩平がいない時に……。

 じゃあ、じゃあ……。

 夕食が終わると、私と浩平は私の部屋に向かった。

 大切なものが消えてしまう空想。

 それが現実になってしまいそうで恐いのだ。

 私は思わず、浩平を強く抱きしめていた。

「み、さき?」

 浩平は少し戸惑った声を返す。

 そんな浩平に、私は問いかけた。

「浩平は、ずっと私の側にいてくれるよね」

「……どうして、そんなことを聞くんだ?」

 浩平は咎める様子もなく、ただ優しく尋ねてきた。

「夕食の時、お母さんが言ったでしょ? 浩平がいつも一緒にいてくれるわけじゃないって。もしかしたら浩平があんなことを言うのって、自分が消えても大丈夫なようにって、そんな思いがこもってるんじゃないかって。そう思ったら、途端に恐くなって、不安になって、どうしようもなくて……」

 ぽたり。

 私の目から、涙が落ちる。

 ぽたり。ぽたり。

 沢山落ちる。

 浩平はそんな私の頭をまるで子供をあやすように、優しく優しく撫でてくれた。

 そして、強く抱きしめてくる。

「俺はもう、みさきの前から消えたりしない、絶対に」

「本当?」

「本当だって」

「本当の本当?」

「本当の本当だよ」

 私が『本当の本当のほ』と言った所で、その唇が温かいもので遮られた。

 それは魔法だ。

 猜疑心も恐怖も溶かしてくれる、魔法。

「大丈夫だから」

 浩平は言った。

 その声は、例え全ての人間が否定しても、私には肯定出来る……そんな力を持った言葉だった。

 だから私は一言答えた。

「うん」

 私はしばらく浩平の胸に顔を埋めていた。

 浩平は私のことを、支えるように抱きしめてくれていた。それが心地良くて、私たちは長い間そのままでいた。

[PREV PAGE] [SS INDEX] [NEXT PAGE]