自分が強いというのは大抵が幻影で……。

 けど、そう思えるから人はまた少しだけ強くなれる。

 いつか、本当に強くなれる。

―1―

 私は緊張していた。

 多分、今までで三番目くらいに緊張しているんじゃないだろうか。

 色々な紆余曲折があって、私が盲導犬訓練施設に通うようになって三週間が経つ。

 まず、実地訓練を受ける前に適性検査や身体検査などがあった。

 性格的にどの程度、盲導犬の扱いに慣れているか、そして障害の程度がどの位か。

 私は好奇心も強い方で、暗闇の中を歩くこともそんなに恐くないと思っている。

 見知らぬ場所へ行くには抵抗があるけれど、浩平と一緒なら恐くない。

 知らないことの中に、欠片のように点在する素敵なことがあることも少しずつ分かって来た。

 だから、調査員との会話もスムーズに進んだと思うし、向こうの声も好意的だったと思う。

 けど、一つだけどきっとした場所があった。

『あなたの夢は何ですか?』

 私は夢ということについて、余り考えたことがない。

 夢なんて持つ余裕がなかったし、持つ必要もないと思っていたから。

 何が夢かということさえ、忘れていたのかもしれない。

 けど、最近それを思い出した。

 私が求めてやまなかったもの。

 私に再び生きる希望を与えてくれたもの。

 その力が、私の持っていた夢だってこと……。

『私は、人に感動と勇気を与える力を持った人間になりたいんです』

 私は毅然とした態度でそう答えた。

 まだ、その方法は分からないけど……。

 いつかはそんな人間になりたい。

 私に強さを与えてくれた人たちのように強い人間に。

 それは多分、凄く難しいことだと思う。

 例えば、今までに成したことのないことをやり遂げて……。

 少し強くなれたような気がして……。

それは大抵独り善がりの感情だったり勘違いだったりするけど……。

 けど、そう思えるから、私はまた少しだけ強くなることができたと信じたい。

 でも結局、強いってどういうことだろう?

『そんなことが分かったら、人間なんて誰も悩んだりしないよ』

 私の問いに、浩平はぶっきらぼうにそう答えたことがある。

『俺だって、いつかは強い人間になれるのかどうか、悩む時がたまにあるからな。俺はみさきのように強くないし』

 そんなことはない。

 私はいつだって、何をするのも不安で。

 いつも誰かの助けがないと、何もできないんだよ。

 私は訓練所の玄関に立っていた。

 室内や室外での準備も一通り終わって、今日は初めて街中で訓練を行うのだ。

 私が緊張しているのはそのせいだ。

 見知らぬ場所へ、近くに訓練員の人がいるからと言っても、自分の意思だけで歩き出さなくてはいけないから。

 ユーキ、盲導犬の名前だけど、この子がどんなに賢くて可愛いと分かっていても、やっぱり訓練所内の施設と広い街中では全然違う。

 それに私は浩平と街を歩いてみて、外の世界が決して私のような人間に優しくないことも、よく分かっていた。車やバイクの音がする度に緊張するし、悪戯をするような人だっている。

 私はハーネスを握る手に強く力を込めた。

「川名さん、大丈夫ですか?」

 そんな私の緊張を見抜くかのように、訓練員の人が声をかけてくる。

「大丈夫です……今までの訓練通りにやれば良いんですよね?」

 今までの訓練。そう言われて、私は今まで習って来たことを少しずつ思い出してみた。

 まず、この町の地図……何度も確認したから、歩く範囲はちゃんと記憶に残っている。

 そして、ユーキへの合図の出し方。

 訓練所で練習した時のこと……ゴーで発進、ウエイトで待て。シットが座れ、ストップが止まれ、それから……大丈夫、きちんと覚えている。

 彼らは非常に賢く、主人からの命令を解する一方で主人に危険が迫っていると判断すると、自らの意思で主人の命令に反して主人の安全を最優先する行動……不服従の態度を取ることがある。そういう時には慌てず冷静に現場を判断して、新たな指示を送るか近くにいる人に助けを求めるということ。

 それから習ったことが色々……全部頭に入っている。

 だから大丈夫。

「はい、大丈夫です……落ち着きました」

 私は一度、大きな深呼吸をしてから言った。

「じゃあ、行きましょうか」

 訓練員の声を合図に私はもう一度深呼吸をし、それから命令を出す。

「ユーキ、ゴー」

 その言葉に反応し、ユーキはまっすぐに歩き始める。

 足に触れるアスファルトの感じが変わり、歩道に出たことが分かった。

「ユーキ、ゴー、レフト」

 私はハーネスを少し左に捻りながら、ユーキにそう指示を出す。

 大丈夫、上手く言っている。

 ユーキは私の言葉をきちんと受け取っているし、大丈夫……。

 私が進む道は、訓練所のアスファルトと違ってでこぼこしていた。

 思わず躓きそうになるが、ユーキはそんなことお構いなしに歩を緩めない。

 何故だろうか……いつもと同じ筈なのに歩が速い気がする。

 ちりんちりん。

 その時、けたたましい自転車のベル音が私の耳に飛び込む。ほぼ同時に、風を切る音が私の右半身すれすれに通過した。

 瞬間、私の心に恐怖が強く押し寄せてくる。

 このまま、まっすぐに進んで大丈夫だろうか?

 突然、飛び出して来た乗り物にぶつかったりしないだろうか? 

 心に生まれた疑心は、即座にそんな思いと直結する。

 外は果てしなく広い……闇は強く世界を拒んでいた。

 信頼できる人が誰もいない、回りには誰もいないのだ。

 今まで頭の中に浮かんでいた地図も、いまや頭に思い浮かべることができない。

「ストップ、ユーキ、ストップ!」

 私は叫ぶようにして、ユーキに指示を出す。

 ユーキは私の体を数メートル引っ張って、ようやく歩を止めた。

「川名さん、大丈夫ですか?」

 私は黙って首を振った。

「大丈夫、自転車は来てませんから」

 私の恐怖が何に起因するかを感じたのだろう、訓練員の人が諭すように言う。

 けど、広がった恐怖が消えることはなかった。

 私はその場にしゃがみ込み、もう一度強く首を振った。

 恐い、嫌だ。

 もう、一歩も動きたくない……外になんて出たくない……。

 今までの勇気が全て吹き飛んでしまったかのように、私はただそれだけを思い続けていた。

 それが悔しくて、私は無意識に涙を流していた。

―二―

「そうか、今日も駄目だったのか……」

 みさきの落ち込み気味の声に、俺は思わずそう呟いた。

「うん。練習では上手くいってたから大丈夫だって分かってるんだけど……、外に出ると途端に恐くなって……どうしてなのか私にも分からないんだ」

 その声に、数日前まで溢れていた快活感は微塵も感じられない。

 みさきが盲導犬訓練所に通い出してから、四週間が経つ。基礎訓練や基礎知識についての勉強も済み、実地訓練に進む所までは順調だったのだが、そこから一歩も進むことができない……そんな状況が既に四日続いていた。

 日本は交通事情が悪く、綱紀も複雑なためか他の国に比べて訓練期間が長い。訓練所の宿舎に泊まりこみだと四週間、通いだと六週間ほどの訓練を受けることになる。

 みさきの場合は自宅から比較的近いので、平日はみさきの母親が、休日は俺が付き添っていた。バイトがあるからずっとはいられないが、休日はみさきの訓練風景を見学したり、教室にある盲導犬についての本やビデオを見て勉強したりもしていた。

 盲導犬と言っても、やはり側に付き添う人間がいらなくなるという訳ではないらしい。一人では対処できないトラブルも、やはり日本では数多く存在するのだ。先進国では、障害者に対して最も後進的で不人情的な国なのだ、日本というのは。

「私ね、浩平に外の世界っていうものを教えてもらったんだよね」

 みさきは言葉を続ける。

「最初は恐かったけど、だんだん外の世界にも色々なものがあると知って……。だから、大丈夫だと思ってたんだ。でも、駄目だった。何だか、自分が凄く弱くて情けなくて……悲しいんだよ」

 みさきの言葉がぐっと詰まる。

 微かにうめく声と、そして言葉の消える雰囲気が電話機越しにこちらにも伝わって来た。

 それは、痛々しいくらいの悲しみだった。

 そして、こんなにもみさきを悩ませる原因を作ったのは俺なのだ。

 俺がみさきに盲導犬を進めたりしなければ……こんなにみさきが悩むことはなかった。

 俺はみさきのことを、分かっていたつもりでしかなかったことが痛感される。

 盲導犬が高い成果をあげているからといって、誰にだって良いものではない。

 みさきは潜在的に、外の世界に対する強い恐怖を持っている。でも、俺と一緒に徐々に外に出ることで、その恐怖も消えたと思っていた。

 けど……思うことと事実とは全然違うのだ。或いは、現実と自惚れとは。

「ごめん、みさき」俺は思わず口に出していた。「みさきがそんな辛い思いをするなんて俺、想像もしてなかった……」

 自分の甘い配慮が、許せなかった。

「だから、やめても良いんだ。俺はずっとみさきの側にいてやれる……だから、無理する必要なんてないから」

 勝手な言い分だと思う。俺から薦めといて、俺からやめろというなんて。

 でも、俺がかけられる言葉はこれしかないと思ったから。

 しばらく、電話越しの沈黙が走る。

 俺はみさきが次の言葉を紡ぐまで、黙って待っていた。その言葉にどんな意味が含まれていようとも、俺は何も言えない。

「…………うぶ」

 みさきの声は掠れていて、最後の方しか聞き取れなかった。

「大丈夫、私、頑張ってみるよ。じゃないと、浩平が折角私に外の世界を教えようとしてくれたことが、全部無駄になっちゃうから。それに、やっぱり途中で物事を投げ出したくはないしね。だから、気遣ってくれた浩平には悪いと思うけど……」

 俺は思わず溜息を付いた。

 自分の浅はかさと、みさきの意思の強さに。

「そうか……」

 色々な意味を込めて、俺はそう言った。

 そして、頑張れくらいしか言えない自分が妙にもどかしかった。カレンダを見る、明日は休日だ。

「明日はバイトがないから……」

嘘だった。

「ずっと、みさきのことを見守ってる」

 俺にできるのは、せいぜいそのくらいのことだ。

 それに、実際みさきには直接会って話したいことがあった。

「本当?」

みさきは声を輝かせて問いかけてくる。

「ああ、本当だぞ」

「そっか……だったら、もっと頑張らないとね。じゃあ、私は明日に備えて寝るから……」

 みさきはそこで一旦言葉を切ると、

「浩平の言葉、嬉しかったよ」

 そう言って電話を切った。

 俺にはどの言葉かよく分からなかったけど……。

 でも、みさきが少しでも元気を取り戻してくれたなら、俺にとっては嬉しいことだ。

 電話をフックに戻すと、すぐに耳に当てる。

 そして、バイト先の電話番号をプッシュした。

 きっと、嫌味の二つや三つ言われるだろう。

 だが、そんなことは些細なことだ。

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