Chapter3
傷つけないように歩いてゆけたら良いのに……

 人の心を知るのはとても恐いことだ。

 でも、知らないでいることはもっと恐いことだと思う。

―一―

「で、君のフィアンセの様子はどうかな?」

「だから、フィアンセじゃないって……何度言えば分かるんですか?」

 昼飯時となり、俺は恒例になった中庭での昼食を取っていた。

 というより、目の前にいる白衣の女性に引き摺られて無理矢理連れて来られたのだが。

 で、開口一番の言葉がこれだ。余りにもフィアンセという言葉を連発するので、俺も最近では訂正する気力を失いかけていた。というより、既成事実にされているような気がするのは気のせいだろうか……いや、それは思い過ごしではないだろう。

 流石にそう言われるのが恥ずかしくて、俺はなるべく避けようとしているのだが、橘さんは俺の時間割を完全に把握しているらしく、先回りして拿捕にかかるのだ。その速さ、電光石火の如し。

 少し早く抜け出しても、何故か食堂の辺りで捕獲されてしまう。彼女曰く、

「お前のやっていることは全てお見通しだ!」

ということらしい。どこかで聞いたことのある台詞だということは、恐くて突っ込めなかった。

 しかし、そこまで単純な行動パターンは取っていない筈だが、繰り出した奇策は全て掌の釈迦に踊らされるかの如くかわされてしまう。恐るべき慧眼だ。

 そんなもんだから、あの二人はできてるんじゃないかという無責任な噂が流れ、それを即座に橘さんが大声で否定して回るのだ……迷惑なことに。

『残念だが、彼には立派な婚約者がいるからな』

 それが、彼女の言葉だった。俺は即座に否定するのだが、センセーショナルなネタを好む大衆は容赦なくその歪曲された事実を広めていく。

 最近では、すれ違いざまに「奥さん、もうすぐ子供が生まれるんだって」などという、洒落にならないことまで言われる始末だ。即座に否定はするのだが、一部では既に学生結婚で子持ちパパという恐るべき烙印が押されていた。

 そのお蔭で、妙に気を遣われるは友人はできないわで散々な目にあっているのだ。

 しかし、その噂の本人は微塵も気にする様子はない。

 今では、悪いちんぴらにでも絡まれたと思って諦めている。いや、まあ色々と相談事には応じてくれるし、良い人ではあるのだ。

 しかし、噂の流布を差し引くとマイナスになっている気がひしひしとするのだった。

「まあ、似たようなものじゃないか」

 今回も案の定、橘さんは俺の言い分をあっさりと受け流してしまう。

「……と、冗談はこれくらいにして、だ」

「頼むから、こういう心臓に悪い冗談はやめてくれ……まじで寿命が縮むから」

 そう懇願するのだが、願いが叶えられたことは一度もない。大体、本論と前置きの区別が非常に付き難い喋り方をするから、こちらとしてもついていくのがやっとこさという感がある。

「善処はする。ところで、みさきさんの訓練は上手くいってるのかな? 一時、凄く悩んでたことがあったって言っていたが」

「えっと、それはもう大丈夫そうだった。今は徐々に行動範囲を広げて、色々なコースとか毎日歩いて回ってるみたいで。訓練自体はとても順調だって訓練員の方も話してましたし……まあ、元々校舎の中とかダッシュで移動するようなことやってたから、適性は強いんでしょうけど」

 俺が簡単に近況を説明すると、橘さんは感心げに何度か頷いて見せた。そして、僅かにこちらに身を乗り出すようにして尋ねてくる。

「ふむ……となると、至って順調だということだな。それで、訓練所のことについてはみさきさんは他に何か話してなかったかな?」

 俺は少し考えてから、小さく首を横に振った。

「いえ、他には何も。訓練員の……確か西崎って名前だったかな? その人も丁寧に指導してくれるって言ってますし、ユーキの方とも仲良くなってきたって、はしゃぎながら話してくれてましたから」

「そうか、それなら良いんだが……」

 物事はうまく進んでいる筈なのに、橘さんの返した言葉には何か歯にものが挟まったような感情が含まれていた。少なくとも、俺にはそう感じられた。

「何か問題でもあるんですか?」

 少し不安に思って尋ねると、橘さんは即座に首を振った。

「いや、そういう訳じゃないんだ。ただ……まあ、プライヴェートだよ。ところで、早く食べないと昼食が冷えてしまうぞ」

「え、ああ……そうですね」

 強引にはぐらかされた感は否めなかったが、敢えて追求はしなかった。普段は軽い調子の癖に、こういうことにはやけに頑固なのだ。だから、何か聞いたとしても答えてはくれないだろう。

 俺はトレイに乗せられた昼食に手を付けながら、もう一つの話題を頭から取り出した。

「ところでこっちは関係ないことなんですけど、最近みさきがパソコンをやりだしたんですよ」

「ほう……パソコンか。最近は音声認識や朗読ソフトなんかもかなり高性能化してきたからな。マシンのパワー自体も上がってきたし、ようやく実用に耐えられるレベルになってきた……」

 橘さんは咀嚼していたサーモンフライを飲み込むと、話を続ける。俺も日替わり定食のおかずを摘みながら、彼女の言葉に耳を傾けた。

「もっとも、完全とは言えないが。で、みさきさんは何のためにパソコンを使い出したんだ?」

「インターネットとかに興味を持ったからって言ってましたけど」

「ふむ、まあ何にしろ色々なことに興味を持つのは良い傾向だよ。じゃあ、私は昼一番で講義があるから準備をしなくてはならない。という訳で続きは明日聞くことにしよう……それじゃあ」

 橘さんはそこで一方的に会話を切ると、颯爽と去っていった。帰る時も唐突な人だなと改めて思いながら、俺も昼食の残りを胃に押し込めて立ち上がる。

 食堂に向かって歩いていると、名前も知らない女子生徒に声をかけられる。

「あの、頑張って下さいね」

 そう言うと、女子生徒は足早に去ってしまう。何を頑張れというのか、想像がついてしまうところが悲しい。

 これさえなければ、大学生活ももっと楽しいんだが……俄かに憂鬱な気持ちを抑えながら、それでもはあと溜息をつくのだった。

―2―

 一日の訓練も終わり、私は玄関ロビーでお母さんの迎えを待っていた。

 今日は施設から少し離れた商店街の方まで足を運んだ。通り自体は余り大きくなかったけど、活気に溢れたところだってことは分かった。

 人の往来も今までより多いところだったけれど、一度もぶつかることなく通過することができた。その時はまだ必死でよく分からなかったけれど、訓練所に戻ってきて落ち着くと、ちゃんと分かって道案内してるんだなあと感心してしまう。もしかしたら、私よりも賢いんじゃないかって思ってしまうくらい。

 ユーキと話せたら良いなって思って話しかけてみたけれど、答えてはくれなかった。犬が喋ったら、それは凄く一大事なんだろうけど少し残念だった。

 でも、喋ることはできないけど何となく意志を伝えることはできるようになったと思う。こちらに動きたいなと思ったら、ユーキの方がそれを察したように動いてくれる。訓練員の西崎さんの話によると、慣れてきた証拠らしい。

 元々、校舎の中を走り回っていたから動きが早くて戸惑うということもなかった。そのことを聞いて、最初はここの所員の人たち、みんな驚いていたけど。今では、私が廊下を走り回っていたと聞いても驚いたりはしないし、所員の人とも大分仲良くなってきたと思う。

 もうすぐ……私は指を折りながらここに通った期間を数えていく。

 一ヶ月は過ぎているから、訓練の期間はあと二週間くらいの筈だ。あと少しでここも卒業かなと思うと、嬉しい気もするし悲しい気もする。

 私がソファに座りながらそんなことを考えていると、こちらに近付いてくる気配を感じた。

「川名さん、少し良いですか?」

 そっと声をかけて来るのは、私に付き添っている訓練員の西崎さんだった。訓練中の注意は少し厳しいけど、全体的には温和で優しい人だと私は思っている。

「ええ、いいですよ。それで、今日は何の用ですか? 今後の訓練のこと? それとも今日のことでしょうか」

「あ、いや……違うんです。今日は……少しプライヴェートなことで。こういうことを聞くのは心苦しいというか恥ずかしいのですが……」

 西崎さんの口調は、いつもより落ち着きがなかった。何か尋ねたいことがあるのだろうか……そう思い、私は話に耳を傾けた。

「川名さんがここに来るようになったのは、折原さんの紹介を受けてですよね」

「うん、そうですけど……正確には浩平の通ってる大学の講師の人から紹介を受けたって。確か、橘さんって人だったかな?」

 浩平が電話口でよく口に出す名前だ。浩平曰く、無駄に明るくて策略家で、人を殺す時でも笑顔でやりそうだという女性だそうだ。ちょっとどんな人か想像がつかないけど、もう一度会って話してみたい人だなとは思っている。浩平の言うような楽しい人なら、きっと会話も弾むと思うから。

「あ、ええ……橘さんですよね……ええ」

 西崎さんはどもりながらも、彼女の名前とそれを確認する言葉とを交互に呟いた。どこか、知ってる人なのかな……と思わせる物言いだった。

「そうですか……ええ……」

 そして、先程よりも小さな声でそう言った後、西崎さんはすっかり口を閉ざしてしまった。

 私はしばらく、彼が言葉を発するのを待っていたが、続きが話される雰囲気はない。

 何が言いたかったのだろうか……そんな疑問が渦を巻き、私は思わず問いかけていた。

「あの、西崎さんはその橘さんって人と知り合いなんですか?」

 その質問に、西崎さんはすぐには答えなかった。気配があるので、隣にいることは分かるのだけど言葉やリアクションは返ってこない。もう一度、訊き直そうかと思い始めたところで、ようやく彼はゆっくりと喋り始めた。

「まあ、うん……昔からのちょっとした知り合いというか……。大学が一緒だったんだよ。だから、もう一度会いたいなって……」

 やっぱり、西崎さんは彼女のことを知っていたのだ。でも……。

「そうだったんですか。でも……」私は心の中で告いだことを現実にも口にした。「だったら、どうして会いに行かないんですか? ここから大学までは近いし、休みの日にでも充分に通える距離ですよね」

 ここから私の住んでいる町や浩平の通っている大学までは、三駅ほどしか隔たりはない。だから、行こうと思えばいつだっていけると思う。

 ふとわいた疑問に、西崎さんは僅かに声を曇らせながらも答えてくれた。

「そうしたいのはやまやまなんだけど……その、僕は……彼女にひどいことをしてしまって。彼女はもしかしたら今でも、僕のことを嫌ってるんじゃないかって……そう思うと、どうしても足が進まないんですよ。恥ずかしいことに」

 ひどくはにかんだ……そして弱々しい口調だった。

「だから、川名さんや折原さんを通して、彼女が今どう考えてるのか訊いて欲しいって。そう、頼もうとしてたんです。でも、そういうことって卑怯ですよね」

 西崎さんの言葉に、私は小さく首を振った。

「その気持ち、私にもよく分かります。目が見えない分、余計に他の人が何を考えてるか知りたいって思うことありますから。私、よく人に迷惑をかけるから、嫌われたりしてないかなって。そう訊いてみたいけど、なかなか恐くて訊けなかったりしますから」

 今は、気持ちを素直に示してくれる優しい人たちに囲まれている。けど、少し前まではそういう人ばかりじゃなかったのだ。

「そういうことだったら、浩平にも協力して貰うから。だから……えっと、こういう時はどういうのかな? そう、私に任せて下さい」

「……あ……本当に良いんですか?」

「ええ。だって、本当に会いたい人なんでしょ? 気持ちを知りたい人なんでしょ? だったら、遠慮することなんて一つもないですよ」

 そう言うと、西崎さんは私の手を強く握りしめた。

「すいません……ありがとうございます」

 その言葉は、何となく照れ臭いものに思えた。

―三―

「で、俺に橘さんの気持ちを訊いてこいってことか?」

「うん。まあ、二人の仲を取り持つということで。ねっ、お願い」

 みさきにここまで懇願されると、俺としては断ることもできない。そんな自分に甘いなあと突っ込みをいれながらも、相手がそういう心情を聞き出すには最も難攻不落そうであることに、今更ながら気付くのだった。

「やるだけやってみるけど……失敗しても文句は言うなよ」

「分かったよ。それじゃあ、明日結果を訊かせてね。それじゃあ、お休み」

「ああ、お休み」

 お休みの挨拶を交わすと、ゆっくり受話器を電話に戻す。その後は布団に寝転がりながら、どうやってあの人から話を聞き出そうかと頭を捻らせていた。

 が、結局のところ答えは全く出ず、ぶっつけ本番でいくしか道はないことが理解できたに過ぎなかったのである……。

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