―一―

 みさきはああ言っていたものの……。やっぱり、俺としては気になるところがあった。

 橘さんの苛烈な性格というものをみさき以上に知っていたからである。

 そこで、休みだというのにアルバイトを休んでまでこうして早朝から学校に乗り込んだのだ。

 また同僚に文句を言われるとか、そろそろクビかなと悲観的なことを思いながら、好奇心の勝った俺は正門の影に隠れて西崎さんの現れるのを待っている。

 今日が休みであることは、みさきから既に情報入手済みだった。もっとも、さりげなく探りを入れたにも関わらず「もしかしたら、覗きに行くつもりなんじゃないの?」と指摘されたのには少し驚いたが。俺は慌てて否定したが、みさきは信じていないようだった。

「まあ、良いけどね。でも、二人の邪魔をしちゃ駄目だよ。あ、あとどうなったか教えて欲しいな」

 最後の科白で、俺の魂胆が完全に読まれていると共に後には退けない状況へと追いこまれた。

 僅かに霧の残る初夏の空気を、目一杯肺腑に吸収する。服を覆う湿り気が鬱陶しいうえに、微かな寒気すら感じる。これなら、もう一枚着れば良かったなと少し後悔した。時計を見ると、午前九時十一分。いくら研究熱心な人でもこんなに朝早くからは来ないだろうとたかをくくっていたのだが、既に数台の車が正門を抜けて行った。

 そして、俺が来る以前にも、十台程度の車が並んでいた。もしかしたら、徹夜とか研究室で睡眠というヘヴィなことをやってるのかなと俺は驚嘆の思いで校舎を見つめた。まばらに電気の漏れる窓から、確かに人が存在することが確認できる。

 雲は不穏な動きを見せているが、天気予報では二十パーセントと言っていたから傘は持たなかった。もっとも、俺は六十パーセント以上でなければ傘を持たない主義なのだが。

 それから待つこと約一時間。橘さんと彼女の乗る赤いミニカが正門を通り過ぎて行くのが見えた。俺は姿を悟られないように、更なる茂みの奥へと身を隠す。もっとも、正門からは完全に死角だが。

「あとはもう一人の到着を待つだけか……」

 そう呟くと、更なる監視の目を正門へと向けた。

 しかし、それから一時間半が過ぎても西崎さんはやって来なかった。もしかして、裏門から入ったのかと訝しんだが、裏門はここの生徒でも一部の人間しか使わない。素人には完全に分からない場所にあるのでそちらはノーマークで良いと判断したのだ。だが……迷った挙句にそちらから入るということも充分に考えられた。

 雲は西の空に飛び去り、真昼の太陽が容赦なく俺を照らしていた。まだ本格的な夏ではないといえ、六月中旬の大気も焼けるような熱を含んでいるらしい。もう、梅雨には入った筈だがこちらではまだ一度も雨が降っていない。今年も水不足でなどと騒いだりするのかなと、少し未来のことを考える。

 心底げんなりとした気分になり、もしかしたら今日は尋ねて来ないのかなという思いが頭を過ぎる。第一、お腹が空いて視線の先が朦朧と像を崩して見える。これ以上、ここにいたら倒れてしまうかもしれない。取りあえず、ここの食堂で昼食でも取ろう。確か土曜日は短縮営業だが、昼時なら開いているだろう。ポケットに入った財布を握り締めると、俺は颯爽と立ち上がり……咄嗟に身を伏せた。

 しきりに辺りを振り返り、或いは立ち止まりながらゆっくりとこちらに向かってくる西崎さんの姿がこちらから見えたからだ。その様子には多分に逡巡の気勢が見て取れた。

 結局、俺の見えない所まで歩いて行くのに五分近くの時を有した。その間、警備員が胡散臭そうな表情でじっと睨んでいたが、人の良さそうな愛想笑いのせいかやがて相手にしなくなった。

 あれだから、来るのが遅くなったのかな……そんなことを考えながら、俺は焦れた頭を冷やすように早足で彼の後を追った。そのまま中庭に入り、再び西崎さんは辺りを見渡す。

 それから、軽く溜息を吐く。

 深呼吸、そしてもう一度溜息。

 傍から見ていればこれ程いらいらする状況というのはないのだが、黙って見守るしかない。ようやく意を決したのか、拳を握り締めると……西崎さんは真っ先に食堂へと向かっていった。

 転びそうになるのをすんでで押さえながら、どうも優柔不断というのは間違いないと俺は自らの書評に彼の特徴を一つ書き加えた。

 俺は案の定、悟られないようにして後を尾けた。食堂の入口に立ち、そっと中を伺う。こうなったら、乗りこんでいってはっぱでもかけてやろうか……いい加減そう考え始めた時だった。

 運命の女神は存在するのだ……と思わせる瞬間に俺はぶつかったらしい。何を食べようかと悩んでいる西崎さんと、トレイを持って外に出ようとしていた橘さんがバッタリ出会ってしまった。面白くなってきたと不謹慎なことを思いながら、二人の様子を見やる。

 しどろもどろの西崎さんとは対称的に、橘さんは非常に堂々とした威風を保っていた。

 が、いきなり怒鳴り散らしているという様子もない。しばらくの沈黙の後、何か言葉を交わしたようだが、ここからは食堂の喧騒のせいで全く聞こえない。それから、西崎さんは再び昼食のラインナップを眺め始めた。夏限定のざるうどんセットを注文すると、二人は微妙な距離を保ちながら食堂の外に出てきた。俺は慌てて身を隠すと、静かにその後を追った。

 西崎さんも橘さんも、例の中庭の特等席に腰掛けるまで言葉一つ発することはなかった。だから、二人が何を考えているかもこちらからは分からない。

 数メートル離れた茂みに身を隠すと、俺は二人の会話に聴力神経を集中させた。

 しばらくの気まずい沈黙の後、橘さんは目も合わさず素っ気無く言った。

「で、話っていうのは何だ? まあ、直接尋ねてきたってことは評価できるが」

 辛辣な口調で、橘さんは元恋人に向かって言いはねる。西崎さんはその調子に少し怯んだ様子だったが、息を小さく飲み込むとゆっくり話し始めた。

「ああ、うん、その……僕が今日、ここに来たのは……あの日のことを謝りたくて」

「あの日のこと? それって、何のことだったかな?」

 意地悪な尋ね返し方をするなと思う。が、西崎さんはきっぱりと答えた。

「貴方という人がいながら、他の女性と付き合ってたこと……でも、一番謝りたいことは、貴方の辛い立場や気持ちを理解せずに最後は逃げ出すようにして突き放してしまったこと。僕がもう少し強かったら、どんなに離れていても貴方のことを支えられた筈だし、心を疑うようなこともなかった。そんな弱さで貴方を本当に傷付けてしまったことを……謝りたいんだ。本当に、ごめん……こんな言葉で許してもらえるとは思わないけど……すまなかったと思ってる」

 西崎さんは、最後の言葉と共に大きく頭を下げた。そんな姿を橘さんは見下ろすように眺めていた……が、いつもの態度でないことはすぐに分かった。強く戸惑い、そして必死で答えを出そうとしている素のままの彼女の顔がそこにはあった。

 俺は、彼女がどんな答えを出すのか固唾を飲んで見送った。実際、それは三十秒と経っていなかったのだろう。が、俺には数十分もの時間に感じられた。西崎さんにとっては、きっともっと長く感じられているに違いなかった。

 そして、複雑な思いを込めて最初の言葉が橘さんから紡がれる。

「頭を……上げて欲しい」

 彼女の肩は、僅かに震えていた。その如才なさげな目が徐々に頭を上げる西崎さんへと注がれていた。完全にそれが地から離れ、微妙に視線が交錯すると橘さんはふっと目を逸らした。

「西崎は悪くないよ。あの時の非は、確かに私の方にあった。いくらむしゃくしゃしてたからって、酷いことを言って傷つけてしまって……私のことが信じられなくなるのも当然だと思う。あの時は思いきり罵ったけど、後になって凄く後悔した。私がもう少し優しく接することができたら、西崎を不安にさせることがなかったらこんなことにはならなかったのに、って。

 本当はずっと謝りたいって思ってた。西崎に再開した時、私にはその感情が強く込み上げてきた。でも、女から謝るって癪じゃないか。それに……浮気をしていたのは事実だろ。だから、こっちからは絶対に謝ってやらないって頑なになってたよ。ははっ、本当に馬鹿だよな、私って……」

 自虐めいた笑いと共に、橘さんは顔を深く俯かせてしまう。その目には……僅かな涙の煌きが見えた。俺はその姿に不謹慎にも、鬼の目にも涙という格言を思い出してしまった。それほど、彼女の涙は衝撃的だった。また、若き日の悲しい別れを彼女も深く悔いていたということが分かった。

 西崎さんは両手を虚空にと漂わせていたが、意を決すると橘さんの肩へとそれを置いた。だが、口から出た言葉は実に情けなかった。

「あの、その……ごめん、泣かせて」

 その一言は、明らかに橘さんの自尊心を傷付けたようだった。彼女は顔を上げると、厳しい顔で相手の顔を睨み付ける。しかし、涙と憎み切れていない憎しみのせいでひどく弱弱しく見えた。

「馬鹿っ、私は、泣いてなんて……いない」

 俺より十歳近くも年をくっているのに、やけに青春めいた問答だった。だが、その様子を見て確信することができた。二人は失われた過去の絆が戻ることを、切実に求めている。その姿に、俺は微妙な既視感を覚えた。

 その正体は、すぐに頭の中を占める。俺も、かつては大切な絆を失おうとしたことがある。もっとも、あの二人のような現実的な問題ではなくえいえんの絆という御伽噺めいたものであったが。そのことが絆というキィワードと共に甦ってきたのだろう。

 だから、目の前の光景はとても眩しく……そして暖かみを以って眺めることができた。これ以上俺がこの場を見守る必要はないと判断した。それは野暮というものだろう。しかし、全く予期せぬことで俺はその野暮をやらかしてしまった。

 つまり……茂みから出る時に不必要なほど大きな音を立ててしまったのだ。

 二人の世界に突入していた筈の橘さんの視線が、鋭く茂みへと這う。

「誰だ!!」

 言葉の間隙と追求から、俺は何とか逃れようと策を巡らせた。しかし、混乱した頭からロクなアイデアは浮かんで来なかった。

「に、にゃーん」

「……折原君だな。全く、今まで私たちの様子を伺ってたのか」

 猫の鳴き真似は本名付きで看破され、俺はバツの悪さを隠すための笑顔を浮かべながら、ひっそりと参上するしかなかった。

「お、折原君……どうしてここに?」

「あ、いや、あはは……」

 笑うしかないというのは、こういう時のことを言うのだろう。西崎さんは驚きの表情を込めて、こちらを見やった。やがて、橘さんの冷たい視線と言葉が容赦なくとんできた。

「もしかして、西崎に頼まれて付いてきたのか?」

「い、いや……ちょっと休日に学校に来たい気分になって……というのは駄目か?」

「不可だな。それでは単位をあげることはできない」

 冴えない嘘は軽く見破られるが、それと反比例して彼女の顔には笑顔が増して行った。

「まあ、西崎自身も驚いてるからそれはないだろうな。大方、こいつが情けなく見えるんで不安になったか、川名さんに頼まれて密かに覗きに来たか……そんなところだろう?」

 正しくその通りだった。俺は橘さんの慧眼に言葉を吐く余裕すらも与えられなかったのだ。沈黙を以って是としたのか、彼女は満足そうに頷いた。

「そんなことだろうと思ったよ。全く……余計なお世話だ」

 そう毒づかれるが、俺は彼女がいきなり平手を食らわさないか心配でここまで来たのだ。先程の様子を見た限りでは杞憂ですんだようだが、平時の態度を見てきたこちらにとっては黙って看過できる問題ではなかったのだ。

 そんなことを話したら命の保証がなさそうなので言わなかったが。

 それから、俺は西崎さんの方に視線を移す。そして、素直に頭を下げた。

「あ、すいません。こんな出過ぎた真似をして……」

 西崎さんは俺の言葉に硬直がようやく解けたようだった。それから二、三度頭を振ると優しい口調で諭すように答えた。

「いや、気にしないでいいよ。確かに頼りなさそうな様子を見せてたしね。気になって当然だと思う。それに、僕のことを心配してくれてたんだろ……だから、気に病むことはないから」

 きつい言葉ではなかったが、それ故に胸へと突き刺さるものがあった。橘さんの言葉からは浮かんで来なかった罪悪感という感情が、俺を強く苛んだ。

「西崎は甘いな」橘さんが言う。

「麗が辛過ぎるんだよ」西崎さんが、即座にそう返す。

 余りに反応が早かったせいか、二人は顔を見合わせることになってしまう。

 そして、同時に空へも届くような哄笑が二人同時に漏れた。それは、二人のわだかまりが完全に溶けたことを示していた。そして、逃げるべき最大のチャンスが到来したことも……。

「じゃあ、あとは二人で宜しくやって下さい」

 俺は素早く踵を返すと、全速力で逃げ出した。

「……あっ、こら待て。まだ話は終わってないぞ」

 しばらくして、後ろから橘さんの声が聞こえた。

 しかし、追いかけて来ることは決してないと俺は確信している。

 事実その通りだったのだが、俺は全速力で一キロ近くも走り抜いたのだった。

―2―

「あはははっ、それは災難だったね」

「笑い事じゃねえよ……あの時は気まずくてしょうがなかったんだから」

 浩平からの報告を聞いて、私は思わず大笑いをあげていた。何というか、最後にオチがつくのが浩平らしく思える。

「けど、二人がうまくいって良かったね」

 実を言うと、そのことは今朝からずっと気になっていたのだ。失敗して気まずくなったら、けしかけた私にも大きな責任になっちゃうから。

「ああ、俺たちがけしかけたところもあるから失敗したらどうしようかって思ってたよ」

 どうやら、浩平も同じことを考えていたらしい。私はようやく落ち着いてきた笑いを押し込めると、大きく息を吐いた。

「幸せになるといいね、西崎さんと橘さん」

「ああ、うまくいってもらわないと困る。そうでないと、不平をぶちまけられかねない。下手すると、ストレス発散器にされるかもしれないしな」

 浩平が冗談めかして、そんなことを言う。

「まあ、色々なことがあったみたいだけど、今日はお勤め御苦労様、浩平」

「いや、まあこっちだって興味があったからな。気にしてないよ」

 最後に浩平がそう答えて、今日の電話は終わりになった。私は受話器を置くと、ベッドに寝転がってもう一度浩平の話してくれたことを反芻した。

(幸せになれるかな? あの二人)

 もう一度、心の中で同じ問い掛けを繰り返す。

(大丈夫だよね、二人とも優しい人だし)

 そう結論づけると、私は安心して睡魔に身を委ねることができた。明日からはまた訓練所での生活、それもあと一週間足らずで終わりだ。残された時間はどのようなものになるのかな? と思いを巡らせながら、私は眠りの淵へと落ちて行った。

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