誰がそう言ったのか、根拠のない決まり文句。いや、やっぱりそれは単なる幻想に過ぎないのかもしれない。

でも、この時だけは確信をもってこう言える。女は強いものだと。

―一―

厚手のまっさらな手拭用タオルを手に持ち、御子柴弘文は余裕の調子を保っていた。彼はそれを俺に手渡すと、不敵な笑みを浮かべながら言った。

「せいぜい、強く縛って下さいよ」

言われるまでもなく、俺はそうするつもりだった。一縷の光も覗き得ないほど視神経を圧迫し、光の種類すら断ち切る。

薄暗い廊下の端に立つと、皆が様子を見守る中で後ろ手にきつくタオルを巻き付けた。手を放すと、途端に厳しい表情へと顔色を変化させていく。それはそうだろう、誰も支えるもののない暗闇の中に一人取り残されたのだから。

それでも泣き言を言えばつけこまれると思ったのだろう。赤ん坊がようやく直立歩行できるようになったほどの覚束なさで一歩を踏み出した。そのまま二歩、三歩と進んだが、そこで足を止めてしまう。

それから、少し考えた後、壁に手を伝って再び進み始めた。まあ、姑息な感情を持つ彼のことだから、こういう行動にでることは予測できていた。暗闇の手触りに安心したのか、先程よりも軽い足取りだった。

その安心しきった様子を見て、俺は思った。やるなら今しかない。誰が咎めるよりも早く駆け出すと、俺はのろのろと歩くその足元を鋭い一撃で払ってやった。

途端に、柔道の一本背負いのようにバランスを崩して転倒する。柔道と違うのは床がフローリングであるということ、そして受身など取れずに無様に体を打ち付けてしまったということだ。蛙のような呻き声と、そして乾いた打撲音とが同時に俺の耳を打つ。由起子さんと御子柴夫妻は目を点にしてその一部始終を見ていた。何も出来ずにただ呆然と。

「な、なにするんだよ」

御子柴弘文の甘え戸惑った声が、弱弱しく廊下に響く。俺は眼前に横たわる哀れな男を見下ろしながら、吐き捨てるように言い返した。

「何だって、足払いをかけた。俺は最初から、何も邪魔をしないとは言ってない。さあ、立って歩け! まだ半分も進んでないぞ」

荒げる声に、沈黙を以って答えが返される。体を震わせながら痛む箇所を擦り、恨めしげな表情をこちらに向けてくる。最も、目領域が覆われているせいか表情の真摯さは半減していたが。

僅かに残る気力を振り絞り何とか立ち上がると用心深く歩き出すが、俺は三歩も歩かない内に再び足払いを食らわせてやった。用心していたと言っても、所詮は張子の虎。再び平衡を失い、顔面から床に軟着陸した。

「どうしたんだ、さあ歩け。簡単そうだと考えて承知したのはお前だろ。歩け、さあゴールまで歩くんだ」

俺は冷淡にそう言い放った。が、次に放たれた言葉は情けなく、そして俺の怒りを強く煽るのに十分なものだった。

「そんなの無理に決まってるじゃないか。目隠しして、しかも前触れなしに妨害されたんじゃ、先に進めるわけない。無理だよ……」

それはそうだろう。きっと、俺だってそんなことできっこしない。けど……。

「ふざけるなよ。そんなこと分かりきってることだろ。だったら……」

今のこの状況なら、誰かが助けているだろう。例えば、今は呆然としているがこれ以上の危害は、彼の母親が黙ってはいないはずだ。それに、やろうと思えばすぐにでも目を覆った戒めを外すことができる。電気を付ければ辺りを見回すことができるのと同じように。

「なんでみさきにあんなことをした。精一杯、お前の言う不可能なことに挑みながら笑顔を浮かべて世界は光り輝いていると信じていたみさきにお前は何をやった。詰まらない偏見と差別で正当化して襲いかかり、恐怖で心を引き裂いたじゃないか。今、ここで弱音を吐くんなら……怯えているんなら何であんな残酷なことをした!」

目隠しをしたままの相手に向かってどんなに憤怒の表情を浮かべてみても、それは意味のないことだ。けど、簡単に諦めて不貞腐れて見せたことがどうしても許せなかった。その痛みや恐怖を何十分の一かでも感じる想像力があったならば、きっとあんな寒気もするような嫌らしい事件は起きなかったに違いないのだ。

戸惑い、何も言えないその体躯を思いきり蹴り飛ばしてやりたい衝動を辛うじて抑えながら唇を強く噛んで言葉を続けた。

「しかも自分の仕出かしたことの意味を理解せずにへらへら笑って……。お前が そうやって笑ってる間にみさきはずっと怯えてたんだぞ。また襲われるんじゃないかって、誰かに触られただけで怖くて叫びだすんだ。あの声を思い出す度に、俺は胸が痛くなるんだ」

俺は乱暴に目隠しを剥ぎ取ると、襟首を強引に掴んで横たわっていた体を強引に起こした。苦悶の表情を浮かべたが、俺は構わずに引っ張り上げた。

「恐いだって? これからもずっと暗闇の中で生きていく彼女はお前の何十倍の恐怖を味わったんだぞ。それでも、あいつは危害を受けたことを恨んでないって」

その言葉に、弘文は得も言われぬ戸惑いの声をあげた。

「……本当なんですか、それは」

俺はこくりと頷いた。

「けど、心の傷は今も深く残ってる。みさきはこれから一生、光の中を堂々と歩けない。ずっと影の中で怯えて生きていかなければならないかもしれないんだ。お前のせいで、心ない悪意のせいでみさきは一生苦しむかも……しれないんだ」

泣きたかった。その苦しみの余りの巨大さに、俺は目頭から涙が浮かぶのを抑え切れなかった。それは途轍もない苦しみだ。見えない未来を信じられず、ただ怯えて多くの年月を過ごす孤独と悲しみ。積み上げてきた強さと笑顔が崩壊し、二度と見られないかもしれないという絶望的な想像。

「お前は今、恐いって思っただろ。けど、そんなものは目隠しを取ってしまったら簡単に払拭できるんだ。けど、みさきにはそれができない。ハンカチを被せてワン・ツウ・スリーみたいなマジックじゃないんだ、現実は」

相手の顔が衝撃で歪む。今更ながらに、自分の犯した罪の重さというものを少しでも感じ取ったのだろうか。でも、俺は滑り出す言葉を止めることはしない。

「お前が一人の女性の一生を台無しにしたんだぞ。二度と立ち直れない傷を与えてしまったかもしれない」

「そんなこと……」俺の声と被せるよう、苦渋に満ちた声が廊下に染み渡る。

しかし、その次の言葉が彼から発せられることはなかった。

明らかに戦意を喪失したその精神に、俺は冷厳と言い放った。

「とにかくお前は、勝負に負けたんだからな。みさきの前で、這いつくばって土下座して謝ってもらう。それでも、お前がみさきにやったことと比べると足りなさ過ぎるくらいだ。本当なら……殺してやりたかった」

でも、きっとみさきはそれを喜ばない。罪を犯した俺でなく、きっと自分をぼろぼろにした死者にさえ哀れみと悲しみの涙を流すだろうから。今では、それを分かり過ぎるほどに分かっている。

辛うじて一度、首を縦に振る御子柴弘文の姿を見て、俺はようやく襟首を掴んでいた手を放した。手から、迸る怒りと不安が逃げていくのが分かる。どの程度か分からないが、ただ振り上げられた暴力に怯えているだけかもしれないが、ようやくみさきの味わった痛みの何十分の一かは味あわせることができたし、その痛みの重大さも叩き込めたと信じたい。

しかし、これが解決の糸口になるかと言えばやはり不安だった。みさきの前で謝らせたところで世界を恐がるみさきの心は全く変わらないかもしれないのだから。

御子柴弘文は、ただうずくまって震えるだけだ。その心が何を思っているのか、俺には分からなかった。

―2―

今日は、本当に安らかに目を覚ますことができた。昨日までなら覚醒した時の闇に怯えてしばらく震えていたのだが、今日はそれがない。それは、きっと夢の中でみた光景のお陰だと思う。左手には、優しい何者かの手が握られる感触があった。それは全く恐くなかった。そして右手にはハーネスが握られていた。足元から微かに、ユーキの息遣いが聞こえた。

私は見えない道を、しっかりと両の足を踏みしめて歩いていた。怯えず震えず、それが当然のことであるように充足した気持ちで。

それは、とても幸せな夢だった。

目が覚めて、その夢が失われてしまったことは少し寂しい。けど、あれはきっと私の努力次第で取り戻せるものなのだと思った。見えない未来の、ほんの一ページ。しかしそれは、私を勇気付けるに足るものだった。

今日も朝からお母さんに、車椅子で病院の中を回ってもらった。夢のお陰か、前より暗闇の恐怖が薄まったような気がする。それでも、大きな物音や怒声、足音は恐いと思っちゃうんだけど。十分ほどかけて色々な場所を回った後、私は病室に戻った。

そんな私の元に、浩平がやって来たのは昼の少し前だった。足音からすると、浩平は誰かと一緒らしいがその人物の検討はつかなかった。

「あら浩平くん、いらっしゃい。で、その子は誰なの?」

口調から、お母さんも浩平の連れている人物のことは知らないらしい。もしかしたら浩平の職場の友人でも連れてきたのかな? と考えてもみたけど違うような気がする。

その答えは、浩平の言葉で明らかになった。

「みさき、ようやく一人だけど説得してきた。こいつが、お前にやったことを謝りたいって言ったから連れてきた」

それで全てが分かった。浩平の傍にいるのは、私を襲った人たちの中の一人だということが。体の芯に強い緊張が走る。部屋の中の空気が雷を帯びたかのように際立ち険悪な様相を醸し出しているように思えた。それは私の恐怖が生み出した妄想かもしれないけれど。

一つの足音が少しだけこちらに向けて近づいてくる。一歩一歩、確実にこちらへ。そして、その動きが完全に静止してから一分くらい経っただろうか?

忘れもしない、あの声が再び病室に響いた。

「あの、その……」

しかし、今日は同じ声でも弱々しく強い戸惑いが見えた。その口調から、悪意や人を嘲るような様子は見られない。浩平のことだから、もしかしたら無茶なことをやって無理矢理連れてきたのかなと思ったけど、そうじゃないみたい。

「あ……すいません、でした」

ようやく聞き取れるか否かの大きさで、しかしそれは確かに謝りの言葉だった。

「僕、彼から暗闇の恐さを思い知らされてそれから一晩中考えたんです」

暗闇の恐さを思い知らされたとは、どんなことなんだろう。きっと浩平が何かやったに違いないけど、あまりひどいことはやってないか後で聞かないといけないなと思った。

「僕ならきっと、あなたのように笑ってなんていられないと思ったんです。きっと、恐くて塞ぎ込んで……だから、その……」

まだどこかに躊躇いの様子があった。何か大事なことを隠しているような……けど、私にはそんなことどうでも良かった。暗闇の中からでも光は生まれる、ひどいことをしようとした人間でも、今は私のことを理解してここまで来てくれている。嫌なことだと思っても、頑張ればそれは変えられるって信じさせてくれたから。

だから、私はこう言葉を紡いでいた。

「えっと、あなたのお名前は何かな?」

「あ、僕は……御子柴弘文って言います」

じゃあ、弘文くんか。そんなことを考えながら、私は彼に向けて声をかけた。

「ベッドの横まで来て、片手を差し伸べてくれないかな」

私の言葉に驚いたのかもしれない。少し静寂の間があったけど、彼はこちらに歩を寄せた。

「はい、それでどうすれば良いんですか?」

今、私の傍には一人の人間の手が差し伸べられていた。以前に私を襲った人間の手。やっぱり少し恐かったけど、私は勇気をもって彼の手をゆっくりと握った。

柔らかく熱をもったその手は決して悪魔のようにごつごつと無骨な訳ではなく、普通の人間のものだった。しばらくは震えがくるのを精一杯抑えなければいけなかったけど、段々と心も落ち着いていった。今の私には、差し出された手の持ち主が私に危害を加えないと知っていたから。それだけじゃない、それが他の見知らぬ誰かの手でも今の私なら迷わず笑顔で握り締めることができるだろう。

私はその通り、精一杯の笑みを浮かべた。

「弘文君だったよね。ありがとう、勇気をもってここに来てくれて。本当はずっと黙っていようって思ってたのかもしれないけど。それと、もしかしたら浩平がひどいことをやったかもしれないけど、ごめんね」

そして、手を更に強く握り締める。その手が小さく小刻みに震え出した。

「どうして……どうしてそんなことが言えるんですか? 僕、あなたをひどい目に合わせたんですよ。そして、もっとひどいことをしようとした。何で嘲ることも罵ることもしないでそんな優しい言葉がかけられるんですか?」

何故だろうか。別に私が優しいからって訳じゃないと思う。ただ、少しだけ鈍感で忘れっぽくて変な性格だからなのかな。

「でも、そうはならなかったよね。それはきっと、神様が罪を犯さないようにっていう思いが込められてるんだよ、きっと。あなたは本当は良い人だから、罪を犯さず真っ当に生きなさいって。だから、私はもうあなたのことを怒ってないんだ。他の二人の人もそう。私はあなたがここまで来て、そして世界はやっぱり光に溢れてるんだって教えてくれただけで十分なんだよ」

私は偽らざる気持ちをはっきりと述べた。すると握られた手が少しずつずれ落ち、やがて離れて乾いた高い音を立てた。それから低くうめくような声の連続。

何が起こったか分からず、慌ててしまった私の耳に届いたのは涙で途切れ途切れの言葉の断片だった。

「ごめんなさい……みさき、さん。僕は本当にひどいことを、あなたのように優しくていつも笑顔で強くて、そんな人をひどい偏見と差別で、ボロボロにしようと……本当に、本当にすいません。言葉でいくら言っても足りないって分かってます。けど……」

彼の言葉で私が聞き取れたのはそこまでだった。後は、大声で子供のようにわんわん泣き出してしまって全然聞き取れなかった。

―三―

鬼の霍乱とはこのことを言うのだろうか。ここに来る最中も押し黙って、拗ねたような表情を浮かべていた御子柴弘文がまるで子供のように泣きながら必死で許しを請うている。自分のやったことを心底悪いと感じ、それを恥じての涙をリノリウムの床に一滴、一滴積もらせていく。その姿は、俺にとっても衝撃的だった。

そして思う。結局、俺のやったことは殆どが無駄だったんじゃないかって。

暴力で叩き伏せて一応は納得させてみたけど、それはみさきの思いと言葉の前では児戯に等しいものだった。

何よりも、みさきの言葉を俺は素直に凄いと思った。俺なら、いきなり襲われて犯されそうになった、その原因を作った人間にあんな言葉は差し伸べられない。

散々口汚く罵って、それでも押し込めようのない怒りを胸に長い間留めて、繭に包まれた蛹のように暗い感情が薄まるのを待つしかないと思う。これは、優しいとかそんな言葉を遥かに超えていると俺は思うのだ。

みさきの言葉とそれに続く光景をみたせいだろう。本当なら掴みかかっていくくらいの反応を見せたかもしれないみさきの母親も、みさきを眩しそうに見つめるだけだった。

そこでようやく、みさきが接触を拒むという精神病を克服したと気づいた。それくらい目の前で展開された光景は衝撃の深いものだったのだ。

「みさき、誰か他の人に触られても大丈夫なのか?」

泣きじゃくる声の横を縫って、俺はみさきの傍に近寄った。そしておそるおそる尋ねる。

「なあ……みさきの手、握って良いか?」

「え? あ、うん……お願い」

みさきにも頼まれ、俺はその柔らかな右手を優しく包みこむように握った。一瞬、みさきがまた取り乱すのではと不安になったが、彼女はずっと俺に向けてきたのと同じ笑顔を見せた。

「大丈夫、みたい。浩平の手、凄くあったかい。恐くなんてないよ、凄く心地良い。私、こんな心地良い感触をずっと拒んできたんだね」

「みさき、もう大丈夫なの?」

みさきの母親が心配そうに声をかける。

「うん、もう大丈夫。だから……お母さんも私の手を触って欲しいな」

みさきにそう言われ、戸惑いながらもベッドに近寄る。俺はこの手に握っているみさきの手をそっとみさきの母親に手渡した。笑顔を絶やさないみさきの姿を見て、嬉しさ半分、苦しさ半分の表情を浮かべてベッドに横たわるみさきの体を強く抱きしめた。

「良かった、本当に良かったわ。私、みさきがずっとこのままだったらどうしようかと思ってたの。良かった……」

感極まったのか、ハンカチを懐から取り出し涙を拭い出すみさきの母親。その様子を、御子柴弘文が不思議そうに眺めているのを見て俺はその事情を説明してやった。すると、再びきつく顔を歪ませた。

「僕のせいでそんなひどいことになってたんですか?」

「気にしないで。もう直ったんだから大丈夫だよ」

みさきの明るい口調に、再び涙をぼろぼろと流しだす。案外、これはどんな攻撃にも勝る精神攻撃なのかもしれない。勿論、みさきはそんなこと微塵も考えていないと思うが。何はともあれ、それを宥めるのに相当の時間がかかったことは確かだ。

それから、ようやく立ち直った様子で力強く言ったのだ。

「あの、良かったら……また来ても良いですか?」

「うん。でも、二・三日後には退院すると思うけど」

「分かりました。じゃあ、また明日来ます」

そういうと、御子柴弘文は涙で真っ赤に腫れ上がった顔を省みることもしないで、毅然とした足取りで病室を去っていった。その顔には、何か強い決意のようなものが感じ取れたが、その時の俺にはそれが何を意味するものかは分からなかった。

病室の中が三人だけになると、みさきの母親がもう一度みさきの体を抱きしめた。そして、背中をいとおしそうに擦っていた。その勢いがあまりに強かったのか、みさきは目を細めながらやんわりと抗議する。

「お母さん、痛いよ〜」

「あ、ごめんねみさき」

家族の潤いを目の辺りにして、ようやく俺は一息つくことができた。まだやらなければいけないことはあるけど、事態は間違いなく好転していくという強い確信が生まれた。そして、今は目の前の優しい光景をずっと眺めていたかったのだ。

夕方になると、みさきの父親が通勤鞄とスーツの姿で息を切らして現れた。どうやら、仕事が終わってすぐに駆け付けたらしい。看護婦に何の支障もなく包帯変えを受けている姿を見て、まるで悪霊でも見たかのように驚いていた。が、俺とみさきの母親で事情を説明すると涙を流さんばかりに顔を皺くちゃにして母親と同じ行動を取った。強く抱きしめ過ぎたところまで一緒の……。

「お父さん、痛いよ〜。それにちゃんと髭剃ってないでしょ」

確かに、無精髭はだらしなく伸ばされており微かにみさきの髪の毛へ当たっていた。

「おお、すまん。でも本当に心配だったんだからな。髭を剃ってる余裕なんてなかった……というより、そんなこと思いもつかなかった」

みさきの病状に余程動揺していたのだろう。やはり男親というのは、娘に対して凄く贔屓倒しなのだと俺は改めて実感した。

「本当に良かった。じゃあ、もうすぐ退院できるんだな?」

「うん。担当の人に聞いたら明日にでも退院して良いって」

「そうか……。それで事件のことなんだが、本当にみさきはあれで良いのか? ひどい目に合わされたんだろう?」

みさきの父親は心配げにそう尋ねたが、みさきは強く首を横に振った。

「私は大丈夫だよ。それに、あんなに一生懸命謝りに来てくれたんだから、それで満足」

みさきの言葉に、父親は再びみさきを強く抱きしめたのだった。そして、抗議の言葉もさっきと同じだった。親ばかという言葉が即座に浮かんだが、俺はすぐにそれを打ち消した。こういうときは、親だって馬鹿になって良いのだ。

あの時には、馬鹿になってくれる親はいなかった。そう、俺一人しかいなかったのだ。だから、少々心配し過ぎることは実はどうってことないことなのだ。よく、心配されて鬱陶しがるという描写があるが、それは幸せであることに気がつけない不遜な人間の取る行動なのかもしれない。

「浩平、どうしたの? さっきから黙ってるけど」

ずっと言葉を発しないのが余程意外だったのだろうか、みさきがそう呼びかけてくる。俺は先程まで考えていた柄にもない考えごとを押し隠して明るい声で応えた。

「あっ、いや何でもないって。ただ、家族の団欒を邪魔しちゃいけないって思ったから黙ってただけさ。じゃあ、邪魔者は退散するから」

俺はみさきの両親に小さくお辞儀をして病室を辞そうとした。が、その行動をみさきの切なげな言葉が止める。

「えっ、もう帰っちゃうの?」

「ああ。もうすぐ面会時間も終わりだから」

何故、今日に限ってみさきは俺を留めようとするのだろう? 理由は分からなかったが、女には理解できた問題らしくみさきの母親が不自然に明るい声で切り出した。

「どうやら、今日は私たちの方が邪魔者みたいね。それじゃ、私たちは退散しますから。後は二人で仲良くやって下さいな」

みさきの母親は、夫の手を引いて素早く病室を後にしてしまった。途中、父親が不満そうに「おい、一体どういうことだ!」と叫んでいたが黙殺されていた。

そして、最後にウインク一つ残して行ってしまった。俺は理解しがたい様子に呆然としていたが、やがてみさきが悲しそうな顔をしているのを見てそっとベッドに近寄る。

「浩平、もう一度手を握って欲しいな」

西日が微かに、カーテンから漏れ出ていた。淡い黄昏色の光は静寂の病室の中に、一種の不思議な雰囲気を醸し出している。どこまでも優しくなれそうな、そんな色だ。

みさきの手を握ると、その手はすぐに俺の体を伝って肩の方まで伸ばされた。そして、包み込むように抱きしめられる。

「やっと捕まえた」

左耳の方から、みさきの囁き声が聞こえる。突然の行動で手持ち無沙汰になった手と心は行き場もなくさ迷っていた。

「浩平にも、こうやって抱きしめて欲しかったんだよ」

恥ずかしいことを堂々と言ってのけるみさき。頬が紅潮するのを自分でも感じながら、上目遣いにこちらをじっとみつめるみさきの表情に俺も虚空に浮いていた手をみさきの背中に添えた。

「そうかそうか。みさきって結構、甘えん坊だったんだな」

ふざけてそう言うと、何か言い返してくるかと思ったがますます顔と体重をこちらに寄せてきた。

「そうだよ。浩平、もしかして知らなかったの?」

そこまでストレートに言われると、流石に俺も言葉の返しようがなかった。

「浩平、照れ屋だからいつも好きだとか愛してるだとか言ってくれなくても良いよ。けど今日くらいはこうやって抱きしめて欲しいな。そして、私のこと……愛してるって言って欲しい……」

最後の方は途切れ途切れの声。顔を覗き込むことは抱き合うというアングルからできないけど、今みさきの顔を見られたらきっと面白いに違いない。けど、そんなことは些細なことだった。今は、みさきを愛おしいという気持ちが狂おしいまでに胸を掻き乱してる。

「ああ……愛してる。本当に、本当に、胸が壊れそうなくらい」

愛の言葉が自然と口をつく。俺はみさきの頬に自分の頬をぴたりと寄せた。触れ合う肌からみさきの体温がゆっくりと浸透していく。お互いをより強く感じあう中で、みさきがそっと口を開いた。

「私ね、ずっと恐かったんだ。本当に好きなのに、こうやって抱きしめてもらうこともできなくなるのかなって。そして、どんどん愛が壊れていっちゃうんじゃないかって。本当に恐かった、本当に……」

みさきは頬を離すと、おでこがくっつくかどうかの近い距離まで顔を近づけた。緩やかな吐息は素早く近づき、自然な形で唇を合わせていた。

「こうやって、手で、全身で、頬で、唇で……相手のことを感じるってとても幸せなことなんだね。私、今すごく幸せだよ」

細めた目を緩く開く。眼前には、晴れやかな笑顔を浮かべたみさきがいた。すぐそこに、手を伸ばせば触れられるところに、近づけばすぐに唇が触れるような場所に……。

「みさき……」

我ながらストレートな言葉だとは思いながら、結局これ以外の言葉は思い浮かばなかった。

「あの、もう一回……キスして良いか?」

「……うん」

その次のキスは、二人のすれ違いの時間を埋めるような、長い長いキスだった。

次の日、御子柴弘文が仲間の二人を連れてやってきた。そこにどんなことが起こったのか俺には分からない。ただ、三人ともが青痣や擦り傷などの小さな傷で溢れていた。三人は真摯な表情で頭を下げていた。みさきが昨日と同じように、手を握りしめて笑いかけると三人ともみさきが慌てるくらいに謝っていた。あんな人間の屑のような会話を交わしていた人間がこんなになるのかという戸惑いはあったけれど、みさきの言うように光というの

は案外強く世界を満たしているのかもしれない。

昨日の決意に満ちた表情はこのためだったのかと合点のいくものを感じながら、疑問に思うことも一つだけあった。それを尋ねたくて、俺は去っていこうとする三人組を呼び止めた。

「なあ、一つ聞いて良いか?」

 もう声をかけられることはないと思っていたのだろう。少し驚いた様子で、彼らは一斉にこちらを向いた。

「ええ、良いですけど。もしかして、一発ずつぶん殴らせろとかそういう相談ですか?」

 御子柴弘文が案外、物騒なことを言う。俺はその手の意志がないことを首を振って示すと言葉を発した。

「ただ、聞きたかっただけだよ。お前がどういう方法で、そんな青痣のつく方法だからロクなものじゃないと思うけど、他の二人を説得したのか」

「別に、特に難しいことはしてないです」

その問いに、相手はあっさりと答えた。

「ただ、あいつ等の気が済むまで俺のこと殴らせただけですから」

「殴らせた?」

 不穏当な言葉に、疑問は更に募ってしまう。その表情を察したのか、御子柴弘文は補足してみせた。

「元々、あのことをやろうって言ったのは僕なんです。他の二人は、僕の言うことに追随してやったに過ぎない。だから、僕が言えば簡単に連れて来られたんです。でも、それじゃ意味はないと思ったから。それにあんなことやれと言っておいて、謝りにいけと言ったんじゃ、納得できないに決まってます。

 まず、殴らせて……相手の反論ができなくしてから、折原さんが僕にやったのと同じことを強要しました。もっとも、それよりもう少し手荒い方法でしたけど」

 三人の体に痣やら傷やらができていたのはそういうことなのか……肝の座った御子柴の行動と疑問とが明らかになったわけだ。納得しているのも束の間、横にいた二人が一歩前に出て、改めて頭を下げた。

「すいません、俺……」背の高い方、あの時俺を一番最初に殴った奴が声を発する。「川名さんの前では言いませんでしたけど、本当はここに来るまで面倒臭いなとだけ思ってたんです。俺は御子柴にやれと言われて……実を言えば乗り気だったんですから、そんなの建前でしかないんでしょうけど……やっただけななんだから悪くないって思ってました。

 反省したふりして謝ってしまえば、罪にも問われないからラッキーかなと考えてたんです。寧ろ、酷いことをされた分だけ理不尽さすら感じてました。暗闇が恐いってことは分かってましたけど、自分にはどうせ関係ないってたかを括ってました。

 けど、川名さんはそんな俺が優しくて光に溢れてる人間みたいに言って……普通ならずっと恨み続けるようなことすら許してくれて、未来を正しく進めって行ってくれて。こんな優しい人を、目が見えないから訴えられないという浅はかな気持ちと、他の奴がやるんなら良いっていう思いだけで傷つけてしまって……。俺より卑劣な奴なんてそういないだろうなと思うと、悔しくて悲しくて自分が情けなくてしょうがなかった。

 皆がやってることなんて考え、大人の陳腐なやり方だなんて嘯いてたのにやってることは同じだってしらしめられて……」

 感極まったかのように俯くと、もう一人の方もぽつりぽつりと心情を語り始めた。

「僕も同じでした。恐かったけど、いざとなったら御子柴の家は金持ちだからってそんな気持ちさえ抱いてたんです。弱くて卑怯なことが、時には罪になるんだって初めて分かりました。僕のやったことが、どのように詰り殴り尽くされても償えないことだってことを、その時になってようやく気付いたんです……」

 二人の心情を聞いて、俺はああやっぱりなと思った。けど、今は詰る気にも殴る気にもなれなかった。勿論、怒りはまだ消えたわけじゃないが、三人とも反省してるしその重さは充分に理解してる。

「だから……」

 御子柴弘文が、三人を代表したかのように口を開いた。

「折原さんが許せないって言うのなら、僕らのこと気のすむまで殴って良いですから。文句は言わない……、いえ僕らにそんな資格はないですから」

 それを言うなら、俺にこそ目の前の三人を殴る権利などなかった。全てはみさきが決着をつけてるのだし、私怨でそんなことをしたらみさきの方こそ悲しむと思う。

 俺はできるだけ穏やかを装うと、代わりに格好つけたふりをして言ってみせた。

「いや、いいよ。病院で怪我人を増やしたら、医者や看護婦に恨まれるからな。みさきが殴らないなら、俺だって殴らない。だが、一つだけ言っとく。このことで得た気持ちを絶対に忘れるな。人を傷つけることを笑ってするような、そんなことは二度とするな。次にお前らが同じことをしたら、その時は俺が乗り込んでいってぶん殴るからな」

 一瞬だけ拳を強く握り、そして次には指の戒めを一斉に解き放つ。俺の言葉に三人は神妙に肯き、そしてもう一度頭を下げてこの場を立ち去っていった。

「……あれなら、もう大丈夫だな」

 誰にともなくそう言葉を発する。一つ大きな溜息をつくと、ようやく俺はこう思うことができた。

 今回の事件は、これでやっと終結を迎えたのだと。

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