SIXTH PART

----LIME LIGHT----

 

―11―

夏休みにも何度か打ち合わせのため部室に赴いたが、本格的に十月の講演に向けて活動を始めたのは二学期になってからだった。

部員一人一人に手渡された台本――そこには台詞は勿論、有象無象の小道具や演出のタイミング等が細かに書き込まれていた。が、私の目を最初に引いたのはそのタイトルだった。

聖歌――聖なる歌という意味であることは横に小さくHoly Songsと綴られていたので分かる。しかし、私が目を奪われたのはその部分ではない。歌――正にその一言だ。

何故、深山先輩は歌という一言をタイトルに入れたのだろう。私は全く歌うことができないのに――不安に思いながら、最初の一ページをめくる。照明――セットの貴族風邸宅が映し出される。そして、すぐに照明は落とされる――ただスポットライトだけが中央を照らし――それもすぐに消える。暗転、暗闇と静寂の中、数人の喋り声が聞こえ(演劇部員の中から何人か参加と、補足書きがあった)物語は始まる。

最初は恐る恐る読み進めていたが、しばらくすると不安は完全に払拭されていた。途中からは、私が深山先輩の創り出した世界の虜になっていたほどだ――そして身体に震えが起きる。こんな、素晴らしい劇の主人公を演じることができる興奮に対する、それは反応だった。

「どう、上月さん――それに皆。一応、それが決定稿ってことなんだけど――」

『とっても良いお話なの』

私は全くの掛け値なしに、その思いを書き連ねた。深山先輩は私の反応に頬を緩めたが、すぐに部員たちの質問攻めにあって部長らしい威厳のある顔立ちに戻っていった。

「部長、これ凄く良い話ですよ。でも、ここのタイミングをもうちょっと――」

「ねえ、この建物なんだけど、こういうアイデアはどうですか?」

等と、部員たちの意見が一斉に、深山先輩へと注がれた。良いものに引っ張られて、それを更に良いものにしようという力が働いている。

私はその様子をとても魅力的だと思った。雰囲気に酔うというのはこういうことを言うのだろうか――そして、その中心の一つに自分がいる。その事実に、涙すら出そうな感動を覚えた。心が湧きあがる。

それからの一ヶ月は、正にてんてこまいの毎日だった。大道具、小道具、照明、舞台演出などの準備は夜遅くまで忙しなく行われ、私も深山先輩に厳しい指導を受けた。舞台を演技で統べるというのは案外難しいということを体で知り、夜になって嫌悪することもあった。上手く演じられない、笑えないことに対する不安は大なり小なり、いつも私の中にあった。しかし演じる時に体が軽やかに動くことに驚きもした。それは、深山先輩の言葉を忘れず、毎日の走り込みを怠らなかった成果の現れだと思う。

光の矢の如く時は過ぎ、ようやく拙いながらも全てを自分の中で飲み込めた――その時には既に、講演の前日だった。今日は予行演習として、初めて演劇部以外の人間に舞台を見せる日だ。と言っても、教師が十人程度集まる程度の小さな集まりではあったが。

でも、私は恐かった。僅かであっても、何も自分のことを知らない人間に、見られるというのは思った以上に恐怖を感じる。特に私のような小心な人間にとっては。部員達も、深山先輩も、鴻薙さんも優しく励ましてくれたが――正直いって足の震えが止まらない。

まだ練習だから、まだ練習だから――でも、心はまとまらない。心は逃げたいと、ここからすぐにでも立ち去ってしまいたいと、そんなことばかり考えていた。今まであんなに頑張ったのに、全てを反古にしてしまいたい誘惑が襲ってくる不思議。きっと、私は――どんなに頑張っても絶対的な弱さを埋められないのだ。

だからだろう。予行演習の私の演技には精彩がなかった。ふりつけを間違い、何度も舞台で忙しなく慌て、この小さな舞台の中で価値がないのは自分ではないかと思えるくらいの激しい自己嫌悪に満ちたまま――予行演習は終わった。

劇を観覧した教師たちは苦笑いを浮かべながら、緊張しないで明日はしっかりやるようにとおざなりの言葉を残して体育館を後にした。そして、おざなりの言葉の後に――最後まで残ってくれていた担任の教師が早足で近づいてきた。彼女は――とても怒っているようだった。

「上月、どういうこと――さっきの演技は」

厳しい箴言――叱りの言葉だった。私は何も言い訳することができず、ただ大きく頭を下げた。ごめんなさいという意味を込めて。だって、そうする以外、私には何もできなかった。けど、彼女はそれが気に入らないようだった。

「――まあ、初めての舞台だから緊張するのは分かる。でもね、緊張したにしたって今日の演技は酷すぎだよ。まるで、自分のことなんて誰も分かってくれない――ってな感じで、拗ねたように演技をしてた。上月が伝えたいことはあんなことなのか? 自分には、結局何も伝えられないんだって――そんなことが言いたかったの!」

ちがうのっ、そんなことはないのっ!!

澪は、この場ですぐにでも叫んでしまいたかった。しかし、唇の隙間から漏れるのは虚しい息の音だけ。悔しくて、顔を伏せようとした私に、先生は更なる言葉で畳みかけてくる。

「ほら、今も何をしたって無駄だって、拗ねて、逃げてっ! 私は、例えどんな境遇の人間であろうと、そんな腐った性根が一番嫌いなんだ。上月、お前はそういう人間なのか?」

私は、俯けた顔を怯えるようにあげ――先生の顔をそっと覗き見た。彼女はどんな形相をしているのか――でも、怒鳴っている筈の先生の顔は何故か、少し悲しく見えた。だからこそ、すぐに理解できた。先生は、決して悪意で私を詰っているのではない。私を奮い立たせようと、歯を食いしばって私に厳しい言葉を投げかけている。上月澪は、自分が弱いことしか表現できない、そんな人間なのか――否かを。

衝撃が、胸を――全身を駆け巡った。私は、そんな弱さが――何もできなくて悔しくて泣くしかできないような弱さを、一番嫌っていたのではないのか? 私は、何かを拙くても精一杯、やり遂げられるような人間に、周りがどのような目で見ても毅然と自分を貫きとおせる強い人間になりたいのではなかったのか――。

私は、そのことを、もう少しで忘れるところだった――。

先生は、私のことを厳しい表情で見つめている。私にできることは、先生に負けない厳しさで見つめ返し――そして、毅然と頭を下げることだった。今度はごめんなさいではなく、目の前の先人に敬意と好意、そして決意を込めて。

すると――私の思いがどう伝わったのかは分からないけど、先生は表情を緩めた。それから、まるで肉親のように肩を抱き、背中をぽんぽんと叩いてくれた。

「そうだ――上月には、そういう強さが似合ってるよ。毅然として、けど誰もが優しい気分になれるような、そんな強さが。上月は、それを貫けば良いんだ。どれだけ失敗しても良い、一生懸命やれば良い。それで上月のことを笑うような人間がいたら――この私がぶん殴ってやるから」

何だか、とても物騒な言葉が一部混ざっていたけど、私はとても嬉しかった。その豪放さと、筋の一貫した強さを少しだけでも分けて貰えたみたいで。先生は私に発破をかけ終えたと思ったのだろう。最後に――。

「明日の本番、頑張れな」

私はその言葉に、満面の笑みを込めて強く肯いた。そして、この体を満たす思いに促され、私は心配そうに見守っていた演劇部員の人たちに今の思いを伝えた。『もう一度だけ、私に付き合って欲しいの』と。

「――ええ、勿論よ。あんな演技で本番なんて、立たせるわけ行かないじゃない。それに、一度通しでやってみて課題もいくつか出てきたし。だから、私からも上月さんに頼むわ、それに皆にも。私に、もう一度だけ付き合って欲しいって。どう――?」

深山先輩の声は体育館全体に響き渡り――誰も、それに反対するものはいなかった。沈みかけていた空気に潤いが戻り、活気が溢れる。

今度は私も、堂々とした気持ちで舞台を踏んだ。これが――きっと本番であろうとも、私は今度は強く演じ切ることができるだろう。やはり恐くて――本番の間際まで私はきっと、仔鼠のように震えてしまうだろうけど――。

そして、全ての準備が終わった時には既に七時が近かった。私が少し疲れて、舞台の端に腰掛けていると、深山先輩がオレンジジュースを差し入れてくれた。甘いものが好きな私は喜んでそれを貰い、半ば咽るようにして飲み干す。

それから、深山先輩は、しばらく黙って私の側にいた。何も語らずただ寄り添い、姉のように。ただ、見守るように。

そして、ふと、言葉を投げかけてくる。

「上月さん、調子はどう?」

『大丈夫そうなの』

「そう――上月さん、頑張ってるものね。それに――今は吹っ切れてたみたいだったし。良い先生ね、あの人。当り障りもない言葉を放ることは誰にもできるけど、親身になって厳しい言葉を投げかけてくれる人は、そうはいないもの」

深山先輩の言葉に、私は肯いた。そして、それは逆説的に悲しいことだ。『おもい』を、大切なことを伝える筈の言葉が、何も語らなくなっていく。言葉は簡単だから――いや、そう思い込んでる人たちのなんて多いことだろう。特に『言う』のは一番簡単だ。簡単だからこそ、その価値を改めて考える人なんて少ないんじゃないかって――思うことがある。

「ねえ、上月さんは――どうして演劇をやりたいと思ったの? よく考えれば私、まだ理由を聞いてないような気がするわ」

突然、深山先輩はそんなことを尋ねてきた。普段なら、私はそういうことを聞かれても答えないのだけど――今日は、深山先輩にだけなら知って貰っても良いような気がした。先輩は、決して興味本位でそういうことを聞く人ではないと、知っているから。

私は『スケッチブック一つでは足りないかもしれないの』と前置きして、その理由を深山先輩に伝えた。

幼い頃、事故で両親を失い、私が後遺症で声を失ったこと。

塞ぎこんでくれた私に、おもいを伝える手段を教えてくれた男の子がいたこと。

今の『父と母』が連れて行ってくれた演劇の舞台に感動したこと。

何かを頑張ることで、強くなりたいと思ったこと。

明日の演劇を通して、皆に伝えたいことがあるということ。

私にとって、語るに甘いことも苦いこと。全てが終わった時、深山先輩はただ、表情をふっと緩め、ただこうとだけ言った。

「私は、上月さんの思いに答えられてるかしら」

勿論、私は迷うことなく肯いた。すると深山先輩は女の私がどきっとするくらいの明るい笑顔を浮かべ、右手の拳をぐっと握った。

「じゃあ、明日はお互い、頑張りましょうね」

深山先輩の励ましに、私は再び強く肯いた。こちらこそ、深山先輩の気持ちに答えたいから――その気持ちを多分に込めて。

そして次の日――私は舞台の本番を迎えた。

―12―

聖歌 〜Holy Songs〜

今は昔、そしてここではない世界。ディスト王国の辺境に、精霊の歌を紡ぐ一族がいました。彼らはその麗しき喉を持ち、一族に伝えられた歌の力でその御名は国内のみならず山海を二つも越えたその先まで響き渡っていました。

彼らはその声で、凶悪な魔物や邪悪な霊の力を弱めることができました。そして、人間たちには希望と活力を与えてくれました。人々を導くその声は『聖歌』と呼ばれ、芸術品とまで言われている程です。

その『聖歌』の一族に、ある日、一人の赤子が生まれました。一族の一員の名に羞じぬ、見目麗しい女子でしたが、その赤子は不思議なことに、全く泣きませんでした。産婆たちは不思議に思いましたが、その可愛げな仕草は家族の誰をも潤し、明るく満たしました。父は赤子にエルネの名前を与えました。エルネは『聖歌』の一族の創始者で、最も優れた歌の歌い手として語り継がれていた存在でした。

しかし、三歳になっても言葉の一言すら喋らないのに家族の者も周囲の者も次第に不信感を募らせていきました。そして、彼らはある事実を知りました。エルネは、一言も喋ることができなかったのです。

「おお、なんということだ。我が一族からそんなものが出るとは――」

「恐ろしい――不吉なことだ――」

確かに、歌の一族に声の出ない者が生まれるというのは一大事でした。一族の中には彼女を呪われた忌むべき子と声を張り上げて主張する者もいました。そして――大半のものはそれに追随しました。

エルネの名は奪われ、少女は新たにロフィの名を得ました。ロフィとは、ディスト王国の言葉で『忌み子』という意味です。少女を産んだ母は一族の屋敷から追放され、ロフィは年端も行かぬというので辛うじて屋敷に留め置かれました。

ロフィは一族の恥でした。それ故、ロフィは日の光すらもまともに届かない狭い部屋で、まるで囚人のようにして暮らしました。ロフィと接するのは、ただ彼女の乳母だけでした。屋敷だけはロフィの乳母だけが味方で、ロフィの姉妹は彼女をことあるごとに虐めました。

そして、ロフィがこの世に生を受けてから――十三年の月日が立ちました。

 

私は、着々と進む舞台を袖の裏からじっと見守っていた。ナレーションがぴたりと止まり、薄汚れた部屋を模したセットと微かに茶ばんだスポットライトの光が、ロフィ役の上月さんを明るく照らしている。昨日の彼女は視線がおろおろと舞台やその下を忙しなく動いていたけど、今日は毅然とした姿を堂々と皆に晒していた。安いレースのカーテンで作ったドレスが、まるで高価なシルクのサテンのように――とまではいかないけど、煌びやかには見えた。私は、ふうと息を吐く。

そして、物語の進む様子に再びじっと注目する。何かトラブルがあった時、それを良い方向に回避するのも私の仕事だからだ。だが、今のところはその心配もなさそうだった。

上月さんは、胸に両手をあて、口から声を発しようともがいていた。ロフィは、幼い頃から毎日、自分にもいつか声がでると信じ、毎日練習をするのが日課だった。正直――上月さんには少し酷な役かもしれないと思ったけど、上月さん自身は良い話と言ってくれた。私の自己満足にも似た世界を――上月さんは精一杯に演じてくれている。

 

どれだけ頑張っても声は出ず、はうと落胆をつくロフィに――数人の人物が近付いてきます。影しか見えないけど、彼らの尊大そうな雰囲気からすぐに、ロフィの姉妹だと気が付いただろう。彼らは無駄な努力をしていると言い、ロフィをなじりました。彼女らは、ロフィの頑張りをまるで漫才師のお笑いのような気分で――意地汚い視線で眺めていました。

「ロフィ――貴女、また練習してたの?」

ロフィは、姉の言葉にさっと身を強張らせました。小さい頃からずっと、姉妹が声をかけてくる時はロフィを虐める時だけだったからです。

「全く、あんた声が出ない上に頭が悪いなんて最悪ね」

しかし、ロフィは黙ってそれを受け流すだけでした。もう、そんな罵り言葉には慣れっこだったからです。その後も、ロフィは散々意地の悪い姉妹に詰られました。彼女達はそれですっきりしたのか、そそくさと帰っていきました。

一人になると、ロフィは窓から外を眺めました。ロフィは、人前に出すことを恥とされたため監禁状態で――外に全く出られませんでした。入り口の鍵は開いているのですが、そこから少しでも抜け出すと家族や召使の者がよってたかって厄介者扱いするので、何時の間にか心の中に鍵をかけていたのです。

 

それから、上月さんは窓からそっと外を眺めこむ仕草をした。鳥の囁き声に僅かばかり微笑み、風の音に髪をかきあげる仕草をする。それだけでも、ロフィがどれだけ外の世界を恋焦がれているのか充分に伝わっていると思う。私は上月さんの演技で説明不足の時だけナレーションを入れるように言ったけど、その必要は全くなかった。

そして、一日の終わりを示すように舞台は暗転する。そして次の日を示すよう、舞台に照明が付いた時、薄幕に遮られて影上になっている登場人物がひそひそと声を重ねあっていた。登場人物を影絵風にしているのは上月さんをより強調するのと、何より演劇部の人員不足を誤魔化すためのものだったが、悪い演出でもないようだ。

 

影たちは囁く――この屋敷にドラゴンが近付いてくる。なんのためだ――。以前、国王の魔物討伐で打ち倒したドラゴンの子供が、そいつの子供だったらしい――敵討ちのつもりだ。だが、我らの『聖歌』の能力が負ける筈がない――近くの騎士団にも応援を頼もう。なに、我ら一族にとっては如何に最強の生物ドラゴンと言えどおそるに足らずだ。我が一族の総勢をもって臨むぞ、出陣の用意だ。

そして慌しい声と慌しい足音が遠ざかった後、ロフィは辺りを見回しました。今なら部屋を抜け出して屋敷を出ても、誰にも見咎められない――ロフィは恐る恐る部屋を出――そして誰にも見つからず、屋敷を抜け出しました。ロフィは、窓の遠くから望める満面のお花畑で一度、思う存分駆け回ってみたいと思いました。その思いが、叶う時が来たのです。

 

そして舞台が暗転し、部員達が忙しなくセットを変える。そして次に現れたのは、一面のお花畑と草冠を頭に載せた上月さんの姿だった。彼女は花を摘み香りを嗅ぐ仕草をし、それから両手を広げてぐるぐると回転し、全周囲から漂う花や草木、そして太陽の心地良さを一心に受ける――その動きがあまりに天真爛漫で、ありもしない太陽が見えるようだった。袖から観客である生徒たちを見ると、皆がその演技に心を奪われているように惚けていた。

まるで春の妖精のように駆け、軽やかに舞う――平和な一時を、しかし突如、舞台を強烈な紅い光が襲った。竜と『聖歌』の一族の戦いが始まる――クライマックスも近付いてきていた。そして舞台は再び暗転、影と赤とが支配する空間に舞台は転化する。

 

煌く竜の火焔(かえん)は、一族の所有する林の数割を一気になぎ払うほど凄まじいものでした。精霊の歌も、その竜にとっては何の意味も為しませんでした。

「愚かな人どもめ。真の竜の一族にそのような児戯が通用するものか」

炎は駆け巡り、一族の者を焼き払い、或いは怪我を負わせていきます。確かに『聖歌』は強い力を持っていましたが、強い竜の一族には殆ど効果がないのです。一族の者は皆、己の思い上がりを知りました。残った者は遁走し、屋敷を捨て国王の所に逃げ込むつもりでした。しかし、彼らは怒り狂う竜から上手く逃げ切れる自身がありません。その時です、傷ついた一族の者がロフィを見つけたのを。

「おおロフィ、丁度良いところだった」

ロフィは、心配そうな顔で皆の方に近寄りました。彼らは炎に焼かれ、爪に切り裂かれ、およそ無傷の者は誰もいなかったからです。

ロフィがおろおろしていると、一族の者の一人が言いました。

「ロフィ、ここを襲った竜の力は恐ろしく強い。我々は皆、傷を負ってしまった。だからロフィ――この中で唯一戦えるお前が、竜を食い止めるのだ。死んでも良いから、食い止めるんだぞ」

「そうよロフィ、貴女は役立たずなんだからそれくらいしか役に立てないでしょ」

ロフィの父と姉がそう言います。ロフィはこくりと肯きました。彼女にとって、例え捨石でも『聖歌』の一族として戦えるというのは、とても嬉しいことだったからです。そして、最後まで一族の者はロフィに侮蔑の視線を残して去っていきました。ロフィは、やがて現れる竜を、一人で待っていました。ただ、一人だけで――。

 

私は、紅く燃える舞台を見ながら息を飲んだ。ここからがクライマックス、以後はずっとロフィと竜の問答が続く。ロフィと影としての――彼女に仇名す者としての竜の。

上月さんは、まるで強大な竜が間近にいるかのように、彼方上空を見つめ息を飲んだ。それから、ちっぽけな両手を広げ通せんぼする。竜は笑う。

 

「お前は――私の進むのを留めようとするのか? そのちっぽけな両手で。庭の木々にも劣る、その体躯で」

ロフィは、こくりと肯きました。彼女は竜の鋭い眼光に怯えながら、それでも必死で竜の前に立ち塞がっていた。竜はより険しい態度を向け始めます。

「私は『聖歌』の一族には容赦しない。私の鉄をも溶かす炎でお前を炙り、酷く苦痛を与えてから爪で姿形が分からなくなるまで切り裂いてやる。だが――お前は『聖歌』の力を以って我々を虐げることはない。だから――今、頭を地につけて謝るというならば、逃がしてやらんことはない。どうだ――」

しかし、ロフィは一歩も引きませんでした。迷いもしませんでした。その神々しさにも似た雰囲気に、竜は――思わずたじろぎ語調を荒げました。

「何故だ――何故、お前はあいつ等に捨石にされたのだろう。ロフィなどという名前をつけられたのだ、さぞ虐げられても来たのだろう? あいつ等に義理立てする気など何一つない筈だ。何故だ――」

竜には、ロフィの行為が不可思議に思えて仕様がありませんでした。それを伝えようと、ロフィは唇を動かしました。音の波にはなりませんでしたが、竜は唇の動きで何を言ったのかがはっきりと分かりました。

竜は――その言葉に呆れ、本当に殺すのが惜しいと思いました。ロフィは純粋で綺麗でした――汚れた他の一族の者と比べ物にならないくらい。それでいて、竜はロフィを殺すしかないのです。何故なら、他の者を殺したらきっとロフィは一生、竜のことを恨むでしょうから。しかし、かといって誰の命も奪わずに引き下がるのは竜の一族としての沽券に関わることでした。

そして、竜はこの爪で命を奪った女性のことを――最も気高く、強く、優しい女性と彼女のことを重ねました。

「私はエルネという名前を与えられてきたから――か。これは何かの呪いか? 私は再びエルネという女性を手にかけなければいけないのか?」

竜が愚痴ると、ロフィは慌てて頭を下げました。どんなに命の危険を囁かれても頭一つ下げなかったロフィが謝る仕草を見て、竜は溜息を吐きました。

ロフィは再び両手を広げました。しかしそれは竜を遮るのではなく、竜に命を奪われるために自ら、その身を許したのでした。

「すまぬ――」

竜は下賎と思っている人間に生まれて二度目の頭を下げると、その鋭い爪を振り下ろしました。ロフィは――最後まで無垢なまでの笑顔でした。

 

上月さんが崩れ落ちる姿。彼女は竜に腹を貫かれたかのように蹲り、そして本当に無垢な笑顔を浮かべて見せた。儚く、誰もが目を背けられないような、笑顔を。

そして、舞台は暗転し、上月さんの姿だけを照らし出す。強調された上月さんの姿、その笑顔は更に強調される。

皆が――上月さんの姿に見惚れていた。本当なら、幕とナレーションがとっくに降りても良いのに、誰もが自らの作業にすら思い至らなかった。そして、余りに開いた間に観客が戸惑い始めてようやく、部員達はその幕を降ろすため、スポットライトを消し、ブザーを鳴らし、天幕を下ろした。ゆっくりとフェードアウトしていく舞台の中、ナレーションの最後の言葉が響く。

「ロフィは結局、その功績をその以降も誰も認めて貰えることはありませんでした。彼女の一族はそれを全て『聖歌』とその力の手柄にしてしまったのです。結局、彼女の真の姿を記憶したのはロフィを殺した竜だけでした。しかし、竜は生きている限り、ロフィが息絶える前の穏やかな笑顔を刻み付けていようと思いました。それが――ロフィに捧げる何よりの哀悼だと思ったからです」

ナレーションの言葉が終わる。しばし、静寂は体育館全体を支配し――すぐに大音量の拍手によって報いられた。眩暈のするような拍手が――いつまでもいつまでも続けられている。私は――その姿を見て、舞台の成功を確信した。そして、上月さんが誰よりも真摯な姿勢でロフィという登場人物を演じきったことを――彼女の役と心情を伝えきったことを。

そして――私は半年前にも感じた思いを再確認するのだ。いや、それ以上――私の目をつけた少女は、私が思う以上の女性だったと。

―13―

私は倒れ伏した姿のままで、その拍手の余りの大音量に驚いていた。そして、急に気恥ずかしさが込み上げてきて、私は素早く深山部長の元に駆け寄った。そこには部長を含む殆どの部員が集まっており、思わずほっと息を漏らす。

が、それも束の間――きゃいきゃいと騒ぐ鴻薙さんががっしりと私に抱きついてきた。

「うわあ、上月さん格好良かったですよー」

鴻薙さんはあまりにぎゅうぎゅうと抱きしめてくるので、私はちょっと息苦しいほどだった。けど、私もこの身を踊る興奮を収めるためにはそのくらいの力が必要でもあったから、しばらくはその苦しさに身を任せていた。

そして、その束縛が離れた時に深山先輩が本当に嬉しそうに部員たちの騒ぐ姿を眺めているのが見えた。何はともあれ、全てを企画し実行したのは深山先輩なのだから、一番嬉しいと思っているのも、先輩なのだろう。私は優しげな仕草の深山先輩を見て、ふと一つのことが聞きたくなった。聞きたくて――でも、ずっと恐くて聞かなかったこと。私は自分のスケッチブックを探し出すと、深山先輩の腕をくいと引っ張った。

「ん、なあに、上月さん」

深山先輩は、そっとこちらに体を向けてくる。私は急いでスケッチブックに、今一番尋ねたいことを書いて、深山先輩に見せた。

『私は、深山先輩の思いに答えられた?』

その言葉に、深山先輩は目を細くした後――それから大きく力強く肯いた。そして、昨日と同じように私の肩を包み込むようにだきしめてくれた。

その時、私は初めて自分の成し遂げたことが自身を誉めて良い程のものだと信じることができた。そして、大勢の人に自分の思いを伝えられたと信じることができた。

私は――自分でも気付かないうちに、笑っていた。

 

その日の夜、私は夢を見た。

古ぼけた木造の舞台に当たる、ライムライト。そこに立ち、演技を披露しているのはもう一人の『私』ではなく、本当の私だった。

そこに、台詞は一つもない。ただ身振りと手振り、そして表情だけが私の武器。その中を立ち回り、大勢の観客を沸かしている。

私のおもいを伝える舞台。私はその場所に立ち、私と舞台を共有するもう一人の男性の姿を見た。顔はぼやけていてよく分からなかったけど、近い将来に彼とはちゃんとした形で出会える――そんな気がするのだ。

ただ、夢の中でも理解できたのは、私がようやく力強い一歩を――自らの力を信じて踏み出せたということだった。

そして、物語は続いていく。

これからも――。

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