第五話 遅い春の訪れ、或いは水面下の悪夢(前編)

 

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四月二十日 火曜日

とある中流家庭の一軒屋の庭先、しかしこの日だけは、平穏の象徴であるその庭先に、悲しみと、恐怖と、そして悪意が入り混じったような、そんな複雑な感情が満ちていた。

鎖に繋がれたまま、体を横たわらせているそれは、頭部を叩き割られ無惨な姿を曝していた。家の者は、家族を不意に一人失った悲しみに、または衝撃に、体を震わせ、或いは涙している。

その周辺では、事件を駆けつけてやって来た刑事や警官たちが、周辺を動き回り、或いは迫り来る野次馬の群れを押し留めようとしていた。

「やっぱり、これも同一犯の仕業ですかね、世田谷警部」

グレイのコートを着た、三十代後半の男性が隣にいる老練な男に話しかける。こちらの方は五十台前半と言った感じで、茶色のコートを身に着けていた。如何にも刑事ですといった面構えをしていて、期待を周りに裏切らせない、言ってみれば警察の見本のような男である。

世田谷と呼ばれた男は、息を大きく一つ吐くと、一つ頷いた。

「ああ、多分な。頭部殴打による撲殺、今までの四件の手口と同じだ」

それから世田谷は、同年代の白衣を着た男性に声をかける。年齢は世田谷と同じく五十台、髪もだらしなく伸びた髭も真っ白という特徴もあって、実際の年齢より十は鯖を読んでも不審には思われないだろうというのが、S市警での総意だ。

「で、詳しい死因の方はわかりましたか? 神田さん」

世田谷が丁重に聞くと、神田と呼ばれた白衣の男は首を鬱陶しげに振った。

「馬鹿を言うな、ワシの専門は人間の死体じゃ。動物までは面倒みきれんわい、全く……」

そう言うと、神田は鎖に繋がれた死体を忌々しげに見た。そして、重たげな溜息を付く。

「まぁ、死因は頭部殴打による内出血が原因と見て間違いないじゃろうな。詳しくは、解剖してみんことにはわからんが……全く、やれやれ……」

神田はしかめっ面を維持しながら、首を小刻みに振った。これは、彼の癖である。

「しかし……不審人物が侵入したって言うのに、家の者は誰も気付かなかったのか?」

世田谷の問いに、先程のグレイのコートの男が手帳を素早い手付きでぱらぱらとめくる。ちなみに彼は、如月と言う名前である。

「はい、家の者の話では、そうだったみたいですね。特に不審な物音も聞かなかったって言いますし。まあ、犯行時刻が夜中だったとしたら、当然なんでしょうけど」

如月の答えにも、世田谷は腑に落ちない様子だった。

「だとしても、変な奴が近付いてきたら、吠え立てたりくらいはするんじゃないのか、普通は」

「最近の犬は、そうでもないのも多いみたいですよ。この犬はまだ小さいし、人に慣れていたとしたら、人が近づいたとしても吠え立てたりはしなかったかもしれません。現に、娘が飼ってる犬も、初対面の人に吠えかけることすらしませんし……」

如月の言葉を聞いて世田谷は、

(最近の犬は軟弱になったもんだな)

そう心の中で呟いた。しかし、目の前の哀れな犠牲者を冒涜すると思い、それを口にすることはなかった。

「あと、例の奴、結果は出ましたか?」

世田谷は、犬の遺体を運び出そうとしている神田の方を見ると、そう言った。

「ああ、あれなら今日にでも結果が出ると思うから、そうなり次第こちらから連絡しとく。じゃあ、もう行くぞ……それと、これ以上専門外の仕事をワシにさせんようにな」

神田はそう毒づきながら、警官と野次馬の群れを巧みにすり抜けて行った。その姿を見送ると、

「あ、それからな、野次馬のチェックは怠るなよ」 そう命を発した。

こういう無差別大量殺人、いや殺犬か? まあどちらでも良いが、そうした愉快犯というのは得てして、現場に戻る、或いは野次馬の中に紛れてその騒ぎの程を楽しむ習性がある。

野次馬の中に犯人が潜んでいるというのは、案外として多いものなのだ。

(しかし……)

目撃証言も無い、野次馬に不審な動きもない……そちらの地道な活動については三週間近くの捜査にも関わらず、今の所皆無だった。となると、望みは例の検査結果だな……彼はそう考えていた。

 

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四月二十一日 水曜日

規則的に鳴り響く電子音の音(注1)を打ち消すように目を開くと、相沢祐一は目覚し時計のベルを止める。時刻は六時三十分、水瀬家にいた時よりも三十分早い起床である。

その理由は二つある。第一は、今の場所が学校より遠くなってしまったということ。このマンションからだと、歩いて三十分くらいは掛かる。そして第二には、毎週水曜日は炊事の当番だということ。

あまり料理の手際が良くないので、結果としては早く起きなくてはいけない。まあ、ここで暮らし始めてからは夜更かしをすることが無くなったので、それくらいは祐一にとって楽勝だった。

食事は最初、佐祐理が毎日すると申し出て来たのだが、それでは流石に悪いだろうし、何より三人の共同生活なんだから、辛苦も平等に分配されなければいけない……そう祐一は考えていた。

もっとも祐一は、料理に余り慣れていないことや受験を控えた身であること(そして多分には、自分が男であること)が考慮されて、毎週水曜日に炊事当番を宛がわれたのだ。

ちなみに休日は、水瀬家で暮らすことになっているために、掃除や炊事の心配はしなくて良い。もっとも、佐祐理や舞は率先して秋子の手伝いをしているのだが……祐一にそこまでの甲斐性はなかった。

手早く着替えを済ませて台所に向かうと、祐一は冷蔵庫の中身を物色した。とは言っても、朝食はパンとコーヒー、サラダ、卵料理、あとは何か一品、その辺りに相場は決まっているから、夕食のように献立に悩むような必要はない。

昨日スーパーの特売で買った卵とレタス、更にプチトマト、食パン、ベーコンといったものをどさどさ取り出すと、早速調理に取りかかる。

レタスは適当に葉を剥いでから冷水に曝し、それからフライパンを温め始める。十分に熱くなった所で、最初にベーコンを投下、そこから染み出た油で目玉焼きを作る。シンプルだが、豚の油と卵の相性が良いことも手伝って、朝の定番メニューともなっている食品だ。

フライパンから溢れる匂いは、微かに残っていた眠気を吹き飛ばすに足るものだった。

「おはようございます〜、祐一さん」

祐一がコーヒーの準備に取りかかろうとした時に、丁度佐祐理が台所までやって来た。

「何か手伝いましょうか?」

「いや、もう大体出来あがってるから大丈夫」

後はコーヒーを淹れて、盛り付けをするだけだ。

「でしたら、お皿の準備をしておきますね」

優雅にも見える微笑を浮かべると、佐祐理は祐一が言うまでもなく次の行動に移っている。人の先を呼んで、率先して働くというのは、彼女が気の効く、そして働き者であるということを示していた。その姿を見て、結婚したらいい奥さんになるんだろうな……そんなことを思う祐一だった。

五分後には、ダイニングのテーブルにそれなりの量と質が整った朝食が三人分並んでいた。

「じゃあ佐祐理は、舞を起こして来ますね」

三分後、パジャマ姿の舞が目を擦りながらやって来た。佐祐理が既にきちんと着替えているのとは、かなり対照的だ。ただ、祐一は弱った舞も少し可愛いかな……などと、不遜なことを考えてもいるのだが……。

舞にそれを言ったら、チョップの一撃を食らった。そして佐祐理が、それを端から笑顔で眺めているといった構図だ。もっともそれは、その時に限ったことではない。

今日も、祐一はバターだけ付いたパンをかじりながら、目を細めている舞を何度か突付いたりして、チョップでお返しされていたりしていた。ちなみに舞と佐祐理は、ママレードのジャムを付けて食べるというオーソドックスなものだ。

実はそのママレードジャムは水瀬秋子のお手製である。また、お裾分けとして例の成分量不明のジャムも頂いたのだが、そのジャムは今の所封印中だ。

ちなみにそれを食べた時の二人の反応だが、

「なかなかユニークな味ですね〜」

「……祐一、嫌い」

顕著なまでの拒否反応ぶりを示されてしまった上に、舞とは半日ほど口を聞いてもらえなかった。そして改めて成分に疑問を持ったのだが、反面では解明されない方が良いのではという思いもある。

だから、ここでは例のジャムの話は禁句となっている。

と、途端にけたたましい音量が部屋の中に響き始めた。それにしても、何故電話のコール音がエリーゼのためになのだろうと、祐一は思っている。誰が、デフォルトでこの音楽を使うことを決定したのか……。

しかし今は、そんなことを考えている時間は無い。唯一、食事を終えていた祐一は、素早く受話器を手に取った。

「あ、もしもし」

「あら、その声は祐一さんですね」

電話の主は水瀬秋子だった。それにしても、こんな時間に彼女が電話して来るというのは、結構珍しいことだ……というより、ここに電話を掛けて来るのも初めてなのだ。

何かあったのだろうか……祐一は咄嗟にそんなことを考える。

「もしかして、忙しかったですか?」

しかし電話線の向こうの声は、緊迫感とはまるでかけ離れていた。どうやら緊急事態ではないらしい。

「そんなことはありませんけど。それで何の用ですか、秋子さん」

「いえ、もうすぐ桜が見頃になる季節でしょう。ですから、今週末にお花見でもしませんか、ということになったんです」

お花見……そう言えば、ようやくこの辺りでも桜がちらほらと花を付け始めてきたな、と祐一は思った。

何しろ祐一のイメージでは、桜は入学式とセットだという概念が強かったのだ。北国だから桜の咲く時期は遅いのだろうとは思っていたが、一時は花が咲かないのでは? と考えたこともあった。

「でも、お花見って言っても、いい場所はあるんですか?」

何しろ桜が咲く場所では、何処でもどんちゃん騒ぎを行うというのが日本人の性格だ。それは北国といえども例外ではないだろう。

「ええ、取っておきの穴場がありますから」

「えっ、何処ですか?」 秋子のことだから、とんでもない穴場を知っているのかもと思ったが、彼女の言葉は拍子抜けするほど簡単な一言だった。

「家の庭です」

 

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「へえ、秋子さんの家のお庭でお花見大会ですか〜」

佐祐理は思わず手を合わせて言った。お花見なんて、何年ぶりだろうかということを辿って行くと、自分が小さい頃、まだ幼稚園くらいの頃まで遡る。言ってみれば、その頃から父の仕事が忙しくなって来たということ。

「……面白そう」

舞が残り僅かのパンを咀嚼し終わると、一言呟いた。

「とは言っても、夕食を食べる場所が、家の中から庭先に変わるってだけだけどな」

「それでも楽しいですよ」

佐祐理の言葉に、続いて舞が頷く。

「まっ、そんなもんかもしれないな」

あんなことを言ったが、祐一も同じ意見であることにかわりはないようだった。

「でも、バイトはどうなるんだ? 舞は金曜日が休みだからいいとして……」

佐祐理は今週の金曜日にも仕事が入っていた。佐祐理は、大学の近くにある喫茶店でウエイトレスのアルバイトを週四回ほどしている。月曜日、水曜日、金曜日、土曜日、たまに仕事が忙しいと別の日に入ることもあるそうだが、今の所そうなったことは一度もない。

ちなみに舞は牛丼屋でお皿洗いのアルバイト、祐一はスーパーのレジ打ちの仕事をしている。

「俺も佐祐理さんも、午後の八時過ぎくらいまでバイトだったよな」

祐一の言葉に、佐祐理は頷く。

「そうですね、余り遅くになってはいけないでしょうから……」

ここではバイトで遅くなるため、遅めの夕食を食べることも慣れているが、向こうはそうでないだろうとと佐祐理は考えていた。

「取りあえずは、なるべく早引き出来るように頼んで見て……駄目だとしても、夜の八時にたけなわになるようなことはないと……」

祐一はそこまで言うと、ふと言葉を止める。

「名雪がいるな……」 そして、口篭もるように一言。

「まあ、また秋子さんとも相談すればいいか……」

こうしてお花見についての話は一旦打ちきられた。食事が終わると、祐一は食器を手早く洗い、そして学校の準備のためにリビングの方へと歩いて行った。

佐祐理や舞よりも急ぐのだから、お皿の後片付けは自分がやると申し出たのだが、彼は丁重に断った。相沢祐一という人物は、その辺りのけじめはきちんと付ける性格なのだと、佐祐理は最近わかって来た。付き合いが長いということは、それだけ相手の色んな部分が見えて来ると言うことだ。

しかしそれでも、舞や祐一と付き合うことに苦痛を感じたことは無い。それは自分が鈍感なせいもあるかもしれないが、一番の理由は二人がとても優しく、大切な人との絆を大切にしているところにあるのだと佐祐理は思う。

間もなく、佐祐理と舞もリビングの方へ向かった。そこでは祐一が、朝のニュース番組を見ていた。天気予報はもうすぐ先で、今はニュースをやっている。ブラウン管の中では、女性アナウンサがニュースを読み上げていた。

「S市近郊で今月の始めから相次ぐペット殺害事件ですが、警察では特にこれといった手掛かりを掴んでおらず、付近の住民も不安感を強めているようです……」

テレビで流れているのは、少し前からこの町の近辺で起こっているペット連続殺害事件についてだった。

「まだ、捕まってなかったんだな……」

学校の準備をしながらテレビを横目で見ていた祐一が言う。

「そのようですね……」

佐祐理は返事をしながら、この事件についての情報を頭から引っ張り出していた。確か初めて犯行があったのは四月二日、昨日の事件が五件目ということだから、犯人は四日に一度程のペースで犯行を重ねていることになる。

それにしても……ひどいことをするものだと佐祐理は思う。家族同然である筈のペットを無慈悲に殴り殺すなんて、佐祐理には理解できない悪意だった。

「……犬さん、かわいそう」 舞は寂しげな表情で、じっとブラウン管の向こうを見つめていた。

「次も犬に関するニュースです。昨日の夕方頃、…町の駅前付近で興奮した野犬が付近を歩いていた通行人に噛み付き、怪我を負わせるという事件が起きました。

野犬は間もなく駆け付けた警官によって取り押さえられましたが、その通行人は重傷を負い、止めに入った警官五人が軽い怪我を負ったということです。その野犬は近くの保健所に送られ……」

テレビには、数年前に建て増しされた駅のシンボルとも言えるビルが映し出されていた。手前にある木製のベンチは、休日になると待ち合わせの人で賑わいを見せる。実際、佐祐理も舞との待ち合わせに何度か使ったことがあった。

「……なんか最近この辺りで、犬に関する事件が多いよな」

祐一がなんの気もなしに呟いた。

 

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川澄舞は、大学の図書館で本を読んでいた。というのも、二限目は授業が入っていないからだ。この辺りに、高校と大学の違いがあるのだということに気付いたのは、舞がここに入学してからである。

佐祐理は別学部で、しかも二限目には講義が入っているため、舞は一人で時間を潰さなければならなかった。大学に入ってから話す人は何人かいるが、まだ一緒に行動したりするような仲ではなかった。それに舞は、本を読んでいることが好きだ。

どちらかと言えば、御伽噺や童話といったものが好きだったが、大学の図書館でそのような本を見付けることは容易ではない。仕方がないので、時代劇や古典といったものも読み始めたのだが、これらは意外と自分の肌に合っていたようだった。

祐一には年寄りくさいと言われたけど……。

舞は愛用の腕時計を見る。十一時四十五分、そろそろ授業が終わる頃だ。お腹が少しコロコロとなるのを我慢して、開き掛けの本に目をやる。少し黄ばんだ紙の色に、すっと黒い影が入った。

「お待たせ、舞」

その声に振り向くと、いつも通りに笑顔の佐祐理。少し呼吸が粗いのは、ここまで走って来たからだろうと、舞は思った。

「……佐祐理、早かった」

「授業が早く終わったんですよ〜」

高校までは、授業が遅くなることはあっても、早くなることはなかった。しかし大学の講義になると、平気で十分程遅刻して、十分程早く帰って行く講師もたまにいる。そこも、大学と今までの違う所だ。

「じゃあ、食堂に行きましょうか」

佐祐理の言葉に、舞はこくんと頷いた。ちなみに食堂というのは、図書館の隣にある四階建ての建物で、一階はノートや教材に重きを置いたコンビニエンス・ストア、二階がブック・ストア、三階と四階がセルフサービスの食堂となっている。

但し、S大学(注2)、約五千人の生徒の胃袋を満たすには少し小さ過ぎる。故に、二限目が終わった後、つまり昼休憩時間は、かなりの人数で賑わう。

しかし、作り置きの弁当を屋外で食べるため、舞や佐祐理にとってはそんな心配をする必要はない……毎週水曜日を除いては。

流石に今まで料理の経験のなかった祐一に、弁当まで作れというのは酷なことだた。いや、祐一はそうしようとしたのだが、結果は見事に遅刻。それから、毎週水曜日だけは学食で昼食を取ることにしている。

舞は読みかけの本を棚にしまうと(本当は借りて行きたかったのだが、もう貸し出し上限まで本を借りていた)食堂に向かった。カード式の検知機を潜り、右手に見える天井に半円状のオブジェクトを付けた円筒状の建物が、目指す学食のある場所だ。

その道の途中、舞や佐祐理と同じく弁当組の生徒数人が、カラフルな模様の敷物を敷いて、太陽を浴びながら楽しそうに食事を取っていた。その隣には、一匹の犬の姿が見える。

あの犬が、何時からこの大学に住みついているのかは舞も知らない。少なくとも、生徒でそのことを知る者は余りいない。舞が知っているのは、この大学を根城にしていること、彼(性別は雄らしい)は二世だということ、様々な生徒から色々な名前で呼ばれているが、ラインバッハと呼ばなければ反応しないということ。

毎朝、理工学部のとある教授が体を洗ってあげているということ、弁当を佐祐理と食べていると、決まっておかずをおねだりに来ること、それくらいだった。

一説には二十年以上生きているとか、ニホンオオカミの末裔なのだとか、そういう噂も立っているが、彼自身はそんなことを気にしないように飄々と歩いている。ただ間違い無いのは、彼がこの大学のマスコットであり、シンボルでもあるということだ。

学園祭で焼き鳥やたい焼きといったものを盗み取って行くのも恒例で、そして誰も咎める者はいない。そういう不思議な愛嬌のある犬だった。

「ラインバッハさん、今日はあそこで昼食のようですよ〜」

佐祐理が舞の服の袖を引っ張りながら、犬の方を指差す。その声に反応したのか、こちらの方を向くと、独特の鳴き声をこちらに向ける。それは、彼の挨拶なのだ。

「賢い犬ですね〜」

舞はこくんと頷く。舞はそれを目で追いながら、その場を後にした。

そのせいか、既に食堂には結構な列が出来ていた。

「うーん、困りましたね。席も込んでるようですし……」

佐祐理は出口の方から席を見て、少し困った顔をしていた。

「……私が買って来るから、佐祐理は……」

舞が最後まで言う間もなく、

「あっ、はい、じゃあ佐祐理は席を確保しておきますね」

両手を打ちながらそう答えた。

「……佐祐理は何を食べる?」

「えっとそうですねぇ、じゃあ佐祐理は日替わり定食」

「……わかった」

五分後、席を確保してくれている佐祐理を見付けると、舞はそこに日替わり定食と牛丼を置いた。既にお茶は佐祐理が用意してくれている。

「舞は牛丼が好きですね〜」

舞はこくんと頷いた。

ご飯を食べ終えた後は、休み時間が終わるまで話をする。とは言っても話すのは佐祐理で、舞は相槌を打ったり、時々返事をしたりするだけ。それでも舞は楽しかったが、最近は自分からも話題を振らなければいけないかなと思うようになった。上手くいった試しはないけれど……。

こうして昼休憩は、あっという間に過ぎて行く。

「じゃあ、今日はこれから講義がありますから」

佐祐理の在籍している経済学部(注3)は、一年生は非常に忙しいらしい。自転車置き場で佐祐理は舞にそう声を掛けると、自転車を漕いで次の講義のある教室へと向かって行った。

佐祐理が経済学部にいるのは、佐祐理の父親の影響らしい。佐祐理の父親は代議士という仕事だが、かつては会社の社長をしていたのだそうだ。それで何かの助けになればと思い、経済学部を志望したのだと、佐祐理が話してくれたことがあった。

その時は、具体的に目標も無く大学に進もうとしている自分に、疑問を感じたりもした。もっとも、今だって目標といえる目標はない。

舞にとっての目標は、少し前まではただ一点に集約されていた。それが不毛な行為なのだと気付いた時から、舞には目標といえる目標が無くなっていたのだ。今では考えていることもあるが……。

取りあえずは、図書館に戻って読みかけの本を読もうと思った。何故なら、三限は休みだと掲示板に貼り出して合ったから。当日になって授業を中止する所も、高校まではなかったことだった。


(注1)…例の声入り目覚ましは、慎んで名雪に返還された。

(注2)…具体的に述べておくと、S大学には文学部、経済学部、法学部、教育学部、理工学部の五つの学部がある。このことから見ても、元々は文系中心の大学だった。だったというのは、三十年ほど前に理工学部が建てられたこと、既に経済学は理系の学問に近づいていることなどによる。

(注3)…ちなみに言っておくと、舞の在籍しているのは文学部である。

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