雨の記憶

Rain Falls in her Mind

「しもたなあ……」

神尾晴子は既に日の光も落ちた濃藍色の空を見上げながら呟いた。

寝坊して、天気予報など見ていく暇がなかったのが不幸の始まりだった。

一日の最初にアヤがあると、大体どこかに皺寄せがやってくるものだ。

そして、それは秋も深まったこの時期とて例外では無い。

晴子はもう一度空を見上げる。しかし、見上げるごとに天気を変えるなどという、

今日、子供たちに読んでやった本のようにはいかなかった。

夜の帳は、人に憂鬱な思いを抱かせる黒雲をも覆い尽くしている。

多分、夜は良いものよりも悪いものをたくさん隠しているのだろう。

悲しいことも、苦しいことも、憎らしいことも、如何わしいことも。

かつて、夜の住人だった晴子にはそれがよく分かるのだ。

人が酒を飲んで、天に唾するように不平ばかりを口にするのは、

何もスピリットのせいだけではない。夜がそれらを拡散し、見えなくする。

いや、そう錯覚しているだけだ。

「どないしよう……走ってかえろかなあ、でもびしょぬれやな……」

地上に流れ落ちる雫が、もしも雪だったなら走って帰れるだろう。

白い息を虚空へと吐き出し、鼻先をくすぐる雪の感触を楽しみながら。

勿論、それが雪を知らない温国の住人の戯言であることはよく分かっている。

実際、東北や北海道の豪雪を見る度に大変だと思うのだ。

しかし、それでも雪への奇妙な憧憬は消えない。

それは、もしかしたら自分がまだ子供なのだからかもしれない。

大人と言うものは……勿論、自分も日本国の区分でいけば大人なのだろうが、

雪というものを好ましく思ったりはしない。彼らにとって、それは雨と変わらない。

まあ、お天道様の匙加減だから仕方ないと、泰然と構えているのが大人だ。

そして、雪に魅了され、或いは逆に憎たらしく思ったり……。

どちらにせよ、雪に思いを馳せる感情を持っているのが子供なのだろう。

いつだって、外を駆けずり回るのは子供と猫だと相場が決まっている。

そう言えば……雪という言葉で一つ思い出したことがある。

観鈴も、雪が降る度に外を駆けずり回っていた。

そして、いきなり大空に大きな口を開けて構えだしたのだ。

『なにしとんの、観鈴』

『えっとね、雪を食べるの。きっとアイスと同じくらい美味しい』

『あほ、雪には味ついてへんて。

それに、今は工場とかからばっちい煙が飛んどるからおいしないって、やめときや』

ニュースなんてろくすっぽみていなかったけど、そんなことだけは覚えていた。

それが心配だったのだが、観鈴は何故といわんばかりに首を傾げる。

『そんなことないよ、こんなに白くて綺麗なのに……』

そう言って、観鈴はひらひら舞い落ちる花びらのような雪を舌を伸ばしてキャッチしていた。

『ほら、お母さんもやろうよ……美味しいから』

『あほ』晴子はもう一度言った。

『あたしは大人やねんから、そんな意地汚いことはせえへん』

でも……本当は、やってみたかった。

少なくとも、観鈴の前で子供である自分を見せたくないという思いはあった。

或いはそんな観鈴と比べることで、大人であると強がっていたかったのかもしれない。

あたしは子供だ。観鈴がいなくなって初めて、気付いた。

拗ねて、膝を抱えている子供だと……。

だったら、あの時一緒に雪を追って駆けずり回れば良かった。

少なくとも、選択肢の中にそれも含まれていた筈なのだ。

何故、雨を見て雪のことを後悔しなければならないのだろう。

晴子はそんな自分をせせら笑う。そして後悔を振り払った。

後悔するまいと心に決めてから、幾つ後悔してきただろうか。

溜息の数だけが加速度的に増え、その度に自らの愚かさを知る。

今日も晴子は溜息を付いた。

憂鬱な雨。

憂鬱な空。

憂鬱な音。

憂鬱な自分。

一色他にして塗り潰してくれれば良いのに……。

「雨ですか?」

後ろから穏やかな声が聞こえる。晴子の背にした建物、どこにでもあるちっぽけな、

子供たちが皆、幸せな家に帰るまで明かりの絶えない保育所という施設。

声をかけたのは、その保育所の園長をしている人だ。

「あらまあ、降りがひどいわねえ……」

まるで、天からの配剤を楽しむかのような口調だった。

この人には、辛いと思うことなんてないのではと思える、

穏やかで人を安心させる不思議なメロディのような言葉。

どんなにくずった子供だって、彼女が頭を撫でて一言。

『もう、大丈夫よ』

そう言ってしまえば、自然に泣き止んでしまう。

そのすぐ次には、笑顔で走り回っているのだ。

子供たちも、彼女の前では喧嘩はしないし言うことも良く聞く。

自分なんて、ようやく関西弁を子供に馬鹿にされなくなったが、

まるでスピーカでも内蔵されてるかのように騒ぎ回るし、

見ている間に平気で喧嘩や大泣きを始める。

これが人徳と人間性の差かなあと、晴子は羨ましく思うのだ。

今まで、年を取ることには嫌な思いしかなかった自分が、

この人のように年を取れたら良いなと思わせてくれたのが彼女だった。

年を取るということは何も苦しいことばかりではない。

年輪を刻んで僅かずつ大きくなる木のように、得られるものもある。

大人だって、このことを知っているのはごく僅かだと晴子は思う。

或いは、賢い大人は皆知っていて知らないふりをしているのかもしれない。

もしかしたら、一部の滑稽な人間だけが知らないだかかもしれない。

まあ……そんなことは多分、どうでも良いことだ。

「ええ、参りましたわ……じゃなくて、困りました」

晴子は慌てて標準弁で言い直す。

その様子を見て、彼女は上品な仕草で笑った。

「別に良いのよ、無理しなくても。それに晴子さんの関西弁、

子供たちの間じゃ人気じゃありませんか。それに元気もありますし」

わっ、変な喋り方と言われ、関西人だと事あるごとに言われ、

髪の毛や服を引っ張りまくられるのが人気だとは、晴子にはどうしても思えない。

彼女にしてみれば、それは子供が懐いているように思えるのだろう。

「そんなもんなんですか?」

「ええ。私がこの仕事を始めたばかりの時は、ここまで子供は懐いてくれませんでした」

初めて聞く話だった。

「それ、ほんまですか?」

それが余りに意外だったので、晴子は思わず問い返していた。

素の関西弁で。

「ええ。年配の保母さんと比べると、明らかに私のことを信頼してくれてないって。

子供というのは真っ直ぐな分、そういうこともすぐに分かるんですよ。

だから、必死で子供たちのことを知ろうとしました。忙しい時間の中で一人でも多く、

より沢山のことをね。それでも、子供たちが懐いてくれるまでは時間が掛かりましたよ」

彼女は暗く淀む天を仰ぎ、そこに過去を投影していた。

僅かに含む笑みからは、それが最早懐かしき思い出の彼方なのだと分かる。

自分にも……ふと、晴子は思った。

空に過去を映して、観鈴のことを安らかに思い出すことができるだろうか。

今はまだ無理だ。涙が下に零れないようにするので精一杯だ。

もしかしたら一生無理かもしれない……でも、それはそれで良いと思えた。

いつまでも鮮明な思い出はとても稀有だということを、晴子は知っている。

とても楽しいことを、多く忘却の彼方へと追いやっているから。

だが、次の瞬間にはそんな思いも次への質問に転化される。

「意外やなあ、園長先生はいつも子供に好かれとるし、そんなの想像もつかへん……。

こういうことには凄く才能を持ってる思たけど……」

「私に才能なんてありませんよ」彼女は静かに首を振った。

「才能があるとしたら、初対面でも子供を惹きつける魅力がある晴子さんのような人です」

余りに真面目な顔で言われてしまったので、晴子は面食らってしまった。

同時に気恥ずかしさが湧いてきて、思わず反論してしまう。

「そんなことないですよ。あたしが子供に変な風にもてるんは……、関西弁のせいです」

関西弁を喋ってる人間は、子供にとっては芸人と似たようなものなのだろう。

少なくとも、同言語を話している人以外の認識では可能性が高い。

しかし、彼女は真摯な表情を崩さぬままに否定した。

「晴子さんは関西弁を話さなくても十分に魅力的ですよ。一目で見てパワーがあるし……、

子供ってそういう見えない力が分かるんです。だから、どんな言葉を喋っていても、

子供たちの方から寄ってきたと思います。それにまだ若いから、色々なことに挑戦できる。

そういうところ、実は羨ましく思ったりもするのよ」

「若さなんて、そんな良えもんじゃないですよ。今思い出したら、

恥ずかしいことばっかりやってきたよな気ぃしますもん。

それに三十路前言うたら女の墓場やし……若いことはないです」

「そんなことはないわよ。晴子さんは魅力的だし、男性の方が放っとかないわ」

それから、少し陽気な笑顔を浮かべながら付け加えた。

「でも、駄目ねえ。晴子さんに結婚されてここを辞められちゃ困るもの」

その言葉に晴子は一瞬硬直して……それから大声で笑った。

「そんなら大丈夫ですよ……あたし、結婚する気ぃはとっくの昔にどこか行ってしもうたから」

しょっちゅう付き纏うとる変な男なら一人おるけどな。

晴子は密かに心の中で付け加える。それからもう一度笑った。

雨も、闇も、空も、音も関係なかった。

ただ、何となく笑いたかったのだ。

「はるこせんせい、なにかおもしろいことがあったのー」

笑い声を聞き付けた子供の一人が、興味を装ってこちらに近付いてくる。

だが、何もない空を見て無邪気に、つまらなそうに呟いた。

「なんだ、あめかー」

そうだ。

雨も、闇も、空も何も面白いことはない。

「はるこせんせいは、あめがおもしろかったの?」

「うんや、ちゃう」

「じゃあ、何がおもしろいの?」

「ジョークや」

「ジョーク?」

「ああ、せや」

「それっておもしろいの?」

「そやな……もうちっと大人になったら分かる。それより本読んどったんか?」

子供の手には折り曲げられ、或いは涎を垂らされて無残な姿となった絵本が握られている。

絵本としては本望だろう。もしかしたら、こんなに汚しやがってと悪態をついてるかもしれない が。

「それより、今日はおかやんいつ来るんや?」

「んっとね……よるの11じだって」

子供は少し考えたのち、無邪気に答えた。

だが、それ故に身につまされるものを晴子は感じた。

「そか……じゃあ、はるこおねえさんが特別に相手をしてしんぜようぞ」

「あーっ、かんさいべんのくせにえらそうだぞ」

「黙れ小童」

晴子は軽く小突くふりをしながら、目線を子供まで落とす。

「じゃあ、ちょっと向こういっといてな。すぐ行くから」

「うん、分かった」

普段もこれくらい素直だったら良いなと晴子は思う。

「良いんですか? 先日からずっと夜も昼も出ずっぱりなのに」

「ええですよ……ああいう子を見るとほっとけませんから」

「残業手当は出せませんけど……」

「……構いません」

晴子はちょっと躊躇したのちに答える。

園長先生は口に手を当てて笑みを隠しながら言った。

「晴子さん、貴方はやっぱりこの仕事に向いてると思うわよ」

「……やっぱり、あたしにはよう分からないです」

「こらー、はやくこい」

「あ、じゃあよんどるんでいきますわ」

晴子は軽く一礼をすると、子供の方へと早足で向かっていった。

雨の記憶は雪の記憶へ。

それから子供の無邪気な笑顔へ。

それも悪くないと晴子は思った。

Fin

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