ポイズン・オブ・ライフ(1)

 

 丘一面に、鈴蘭の花が溢れんばかりに咲き誇っている。噎せ返らんばかりの匂いと、一呼吸で全身が痺れるような強烈な毒気の中、きみは眠っている。しかしうなされているのは毒のせいではない。きみは夢を見ている。皮膚を散々に引き裂かれる夢、心をばらばらに打ち砕かれる夢だ。毒の濃度が鮮明なほど、悪夢もまた強くきみを苛む。とうとう耐え切れなくなって、きみは目覚める。幸いなことにその時には夢のほぼ全てを忘れてしまっている。せいぜい、多少の寝心地の悪さを感じるだけだろう。

 もし、きみが本当に眠っていたのならば。

 目覚めるとすぐに、きみは鈴蘭の原を駆ける。毒気はますます大気に舞い散り、しかしきみは嬉々として、それらを体内に取り入れる。この丘の空気はきみに力と知能を与えてくれるからだ。きみはそれを以前から不思議に思っているが、その意味を深く考えたことはない。何故ならばきみはきみだからだ。

 一時間も走り続けるときみはすっかり飽きてしまい、次に花を摘んで輪にしたり、どこまでも転がっていたりしてみたけれど、毎日行っていることの繰り返しだからすぐ退屈な気持ちになる。するときみは詩を歌いだす。どこで覚えたかまるで分からないけれど、記憶の片隅に残っている歌だ。

  ばらの花輪を つくろうよ

  ポケットに はなびらいっぱい

  はくしょん はくしょん

  みんないっしょに たおれよう

 きみはふさり、と鈴蘭たちの上に倒れこむ。太陽は真上よりもやや西よりに、薄紫のフィルタ越しに見ているから、輪郭は随分とぼんやりしている。きみはそっと、手を伸ばす。どれだけ頑張っても、しかしきみが太陽を掴むことはない。何故ならばきみと太陽は離れ過ぎているからだ。

 今となってはこの場所に無礼にも入り込んできた乱入者たちですら、退屈を紛らわすためなら出てきても良いとさえ思う。

 まず思い出すのは、怖ろしい目をした兎耳の少女だ。名前を名乗らなかったので、きみは心の中で彼女のことを三月兎と名付けている。彼女は大事な鈴蘭を沢山摘んで、持ち去ろうとしていた。だからきみは背後から忍び寄り、散々毒を浴びせてやった。すると彼女は鈴蘭を放り出し、ほうほうの体で逃げ出してしまった。

 次にやってきたのは黒と白のエプロンドレスを身に纏い、箒に跨ったやけに陽気な少女だった。やはり名乗らなかったので、きみは彼女のことを帽子屋と名付けた。こいつも鈴蘭畑を荒らしに来たと思ったきみは問答無用で攻撃を仕掛けたが、彼女は全く手応えのない三月兎と違い、激しい勢いで反撃してきた。

 疾風怒濤なプリズムの群れに、粘ったけれどもきみはやがて撃ち落されてしまった。もっとも毒を散々に浴びせかけてやったから、最後にはふらふらに弱っていたけれど。全ての力を失い、無様に倒れ伏し、君は最初、悔しくてたまらなかった。けれども紫の靄の向こうに、力ない蚊蜻蛉のように飛んでいく帽子屋を見て、きみは少しだけ溜飲を下げた。

 あれはその後、どうなったのだろうか。もう一度やって来たら、きみは今度こそ上手く撃ち落してやるつもりだった。しかしいくら空を眺めても、箒に乗った帽子屋は現れない。

 鮮やかな青は徐々に赤みを帯びていき、やがて鈴蘭の毒よりも濃い藍で埋め尽くされる。

 目を瞑ると、徐々に意識が遠くなっていく。

 そしてきみは今夜も悪夢を見るのだ。

 

 翌日。不意に何ものかの気配を感じ、きみは素早く目を覚ます。

 ふわりとした服の感覚に、きみは気違い帽子屋のことを思い出す。しかしそれにしてはカラフル過ぎるし、物腰にも刺々しさが感じられない。くすんだ空色を基調としたドレスでゆったりと身を包んでおり、忍び寄る足先、眼差しにまで優雅さを感じさせる。瞳はきらきらと輝いており、隠し切れない笑みが顔全体に広がっている。

「お、目が覚めた」見知らぬ少女はそっと手を伸ばし、きみの頬に触れる。「ふぅん……」

 触れられることに対して妙な嫌悪感を覚え、きみは一歩あとじさる。

「別に怖がらなくても良いのに」

「怖がってなんかない」お前が、嫌なだけだ。臆病者なんかじゃない、誤解するな。そう言いたげに、きみは少女を睨みつける。「警戒してるだけよ」

「警戒? するとここには、貴女を脅かすものが来るの?」

 脅かすもの。先日、この鈴蘭畑に訪れた不躾な乱入者。きみはあれらを怖れているのか考え、小さく首を横に振った。

「三月兎も、帽子屋も、怖くなんてない」

 きみの言葉に少女は思わず目を丸くする。

「マーチ・ヘア、マッド・ハッタ。ここには不思議の国から亡霊が現れるのかしら?」

「不思議の国?」

 きみはその単語を知っているが、しかしどこで聞いたのか思い出せない。

「そう。不思議の国のアリス。三月兎も帽子屋もその物語の登場人物よ」

「じゃあ、その物語を知っていなければならないの?」

「と、わたしは思うわ」

 少女は曖昧な物言いと裏腹に、自信ありげな面持ちで、改めてきみを見据えてくる。どうにも居心地が悪く、きみはつい、とそっぽを向く。少女はくすり、と笑みをもらす。

「可愛いわね」

 からかわれているのが分かり、きみはますます表情を鋭くする。

「貴女、お名前は?」

 名前。きみはその単語の意味を考える。

 誰とも分かち合えぬ固有のそれをかつて、持っていただろうか。

「メディスン」不意に浮かんだ単語をきみは呟く。それからもう一語。「メランコリー」

「メディスン・メランコリー? それともメランコリー・メディスン?」

「よく分からないわ」

 どちらがファーストネームで、どちらがファミリーネームだっただろう。

「語呂が良いのは最初のほうね。でもまあ、フルネームで人を呼ぶ人なんて稀だから、どちらでも良いんじゃない?」

 適当だなと思ったけれど、確かに一理あったので、素直に頷いておくことにする。

「じゃあ、メディスン……で良いかしら。それとも何か、可愛らしい愛称のほうが良い? 例えばメディスンだから、メディとか」

 メディという呼び方に名状し難い恐怖を感じ、きみは激しく反対する。

「嫌よ。メディなんて呼び方、絶対に嫌!」

 どうして体の底から拒否感が込み上げてくるのか分からない。記憶の泉は茫洋と澱み、中にある真実は汚く濁っている。根拠はないけれど、きみは記憶のイメージをそう定める。

「じゃあ、メではなくミならどうかしら。ミディ」

「それも駄目!」

 ミディはもっと駄目だ。メディも駄目だけれど、ミディはもっと良くない。

「そう? じゃあ、普通にメディスンで良いのかしら」

 その呼び方も胸をさざめかせるが、先ほどではない。きみは布巾をきつく絞るように頷き、鈴蘭畑に腰をおろす。立っていることすら億劫だった。

「どうやら煩わせちゃったみたいね、ごめんなさい」

 少女は先程までのからかうような物腰が嘘のように、素直に頭を下げる。

「もし良かったら、また会いに来て良い? 貴女が元気になったらで良いから」

 きみは少女をひたと見据える。三月兎のようなこそこそとした様子はなく、帽子屋のように好戦的ではない。信用してはいけないけれど、たとえ相手がこちらを騙そうとしていても、話すだけで退屈は紛れる。きみはそう言い訳し、別にいつでも構わないと素っ気なく告げる。

「ではまた明日、ここに来るわね」

 少女は春風のようにふわりと浮き上がる。三月兎や帽子屋と同じく、彼女は強い力を持っているとようやく理解する。同時にきみは、彼女に名前を付けなければいけないと思う。

 どのような名前が、彼女にはぴったりと合っているだろう。

 三月の兎のように狂った危険な目をした奴だから三月兎。

 帽子を被った破壊魔だから帽子屋。

 では、敵意もなく陽気に話しかけてきた彼女にはどんな名前が相応しいだろう。

 きみの頭の中に、一つの新たな名前が浮かび上がる。

「あなたはアリスだわ」

 少女は驚いたように目を見開いていたが、愉悦の笑みとともに肯定する。

「そう。わたしはアリスよ」

 そして次の瞬間には、少女は空を駆けている。

 きみは空を見上げ、その姿が完全に見えなくなるまで後を追う。太陽の軌道に直交し、遥か北へ。見知らぬ場所へ。きみの心にほんの少しだけ、ここではない場所への憧憬が芽生える。

 アリスの後を追って、あんなにも遠くまで、飛んでいけるだろうか。

 でも、今日の君は疲れているから、眠らなければならない。

 昼だというのに眠るのも変だという気はしたけれど、かといってこれ以上目覚めていることにも耐えられそうにない。きみは鈴蘭の香りと毒に包まれ、この時だけは安らかに眠る。

 悪夢は濃い夜の産物だから、きみの寝顔は、幸福で満ち溢れている。

 もし、人形が眠るならばの話だけど。

 

 辺りが濃藍に包まれた頃、きみはまるで夜の住人のように目覚める。

 どこか遠くから、金属を鋭い爪で擦るような罵倒のような、耳障り極まりない声が聞こえてくる。

「世界が、こんなに暗い……」

 君は無数の鈴蘭を背に、夜空を見上げる。煌々と輝く星々、朧気に紅く滲む半月。冷たくも広遠で魅惑的な世界。きみは恋焦がれ、手を伸ばす。それだけでは足りず、空に舞い上がる。

 眼下に広がる鈴蘭と充填された毒の体が世界への憧憬を煽る。

 もっと高く。月へ、闇へ。

「こんばんは」

 どこからともなく聞こえてくる声に、きみは飛翔を止める。上下左右を見渡し、何もいないことを確認する。錯覚だろうか。

「徘徊するにはうってつけの夜だわ。そう、思わないかしら」

 山吹色のさらさらとした長髪をケープで覆い、紫を基調とする中華風の装い。きみは思わず目を瞬かせる。どのような感覚にも引っ掛からなかったというのに、厳然とした存在がいま、目の前にいるからだ。

「月と夜とにああも惹かれるなんて。聞いてはいたけれど、本当に成り立てなのね」

「……言ってることが分からないわ」

「分からなければ、それで良いの。分かるということは妖としてある程度成熟し、尚且つ不幸にもなったということだから。でもあなた、こんな所にいてそれでも無垢でいられるのかしら。まあ、しばらくは見守らせてもらうとするわ。幻想郷はあらゆるものを受け入れるのだから。たとえあなたのような許し難い邪悪な異端の存在であっても」

 彼女は端正な面持ちを一瞬だけ嫌らしく歪ませると、次にはどこにもいなくなってしまう。ほんの僅かな時間だけ空間がにやにや笑いのように揺らめき、後には何も残らない。

 チェシャ猫だ、ときみは思う。

 どこからともなく現れ、どこからともなく消えていく。

 そういうものを、チェシャ猫と呼ぶ。きみはそのことを知っている。

 だが、どこでどのようにして知ったのか、きみは思い出せない。

 辺りが静寂に包まれると同時、またあの耳障りな歌が聞こえてくる。

 きみはチェシャ猫に苛々させられたこともあって、毒々しい気持ちになっている。

 誰かに毒を浴びせかけないうちはすっきりできないのだと確信している。

 この歌の主こそ、それに相応しい。

 きみはいつしか鈴蘭畑を抜け、ひたすらに歌の方へと向かう。

 

 音の主はすぐに見つかった。

 鈴蘭畑の北に広がる森の中に開けた場所があり、背に大きな雀の羽を生やした少女が屋台の上に乗って、楽しそうに歌声を振り撒いていたのだ。あれはきっとグリフォンに違いないときみは確信する。

 

  だれが駒鳥ころしたの?

  わたしよ、と雀がいった

  この弓と矢でもって

  わたしが駒鳥ころしたの

  

 思わず耳を塞ぐも、声はそれを無視するようにきりきりと響いてくる。頭の中で多重に反響し、ぐわんぐわんと思考を揺さぶる。

「こんなところにいたら、気違いになってしまうわ」

 早く毒を浴びせかけて、こいつを黙らせよう。きみは胸の中から湧いてくる毒々しさを力に変え、ありったけ解き放つ。

 歌うのに夢中になっていたからか、全ての弾が直撃する。グリフォンは思わずよろめき、拍子に足を滑らせて屋台から転がり落ちる。壮絶な音と共に歌声がやみ、きみはとても満足する。

「うぅー、痺れるよぉ」

 言いながら、それでもふらふらと立ち上がるのはさすが、物の怪といったところだ。しかしどこから見ても満身創痍だった。

「なにするのよぉ、わたしなにも悪いことしてないじゃない!」

「だって、あなたの歌を聞いてると、むかむかしてしょうがないんだもの」

 きみのはっきりとした物言いに、グリフォンは痺れながらもはっきりとショックの表情を浮かべる。

「うぅ、わたしの並々ならぬ歌唱能力にみな、嫉妬せずにはいられないのね……」

 しなを作ろうとするも体が痺れているので、まるで盆踊りの出来損ないのようにしか見えない。

 その仕草がまた気に入らなかったので、きみは更に毒を放つ。

 きゅぅ、と弱々しげな声をあげ、雀はぱたりこ、と倒れてしまう。

 これで煩い声は聞こえない。さて帰ろうとするきみの耳に、新たな不審音が聞こえてくる。一定感のない足音、足元のグリフォンほどではないけれど心地悪い歌声だ。きみは屋台の影に隠れて足音を待ち構える。

「開店の合図が聞こえたんだけどよろしいかしら」

 あの歌はどうやら客を集めるものであったと気付く。きみはどうするか迷ったのち、グリフォンを隠してから応答することにした。

 覚悟して反対側から顔を出すと、そこにはまるで白薔薇のような肌をした、大人びた少女の姿がある。胸元に時計の形をした銀糸の刺繍が入った黒のノースリーブと、白のパンツを履いており、まるで男性のような装いだ。僅かに膨らんだ胸と全体的にほんのりと丸みを帯びた体が辛うじて彼女を女性に見せていた。

「あれ、いつもの女将と違うわね。あなたアルバイトか何か?」

「え、ええ、そうよ。女将はその、急に倒れてしまって」

「そう、じゃ出直そうかしら……いや、準備は出来ているのね。火の通し方は……その顔じゃ分からないみたいね。じゃあ自分でやるわ、お酒は前回の残りがあるからそれを出して。瓶に十六夜咲夜と書いてあるから」

 きみは言われるままに瓶を探し当てると、咲夜と名乗ったものに渡す。すると次の瞬間には甘辛い匂いのする料理が皿の上に山積みとなっており、黙々と食べ始めた。しばらくその様子を淡々と見ていたが、ふと咲夜の顔が白から赤に変わっていくことに気付いた。まるで薔薇のようだときみは思う。

「さっきからじろじろ見てるようだけど」きみの視線に気付いていたらしい咲夜が口元を歪めて話しかけてくる。「随分小さいのね。カウンタから隠れてしまうくらい。それなのに整った顔立ちと容姿をしてる。まるで人形みたい」

「みたいじゃなくて、本当に人形なのよ」

 きみの言葉に咲夜はほうと熱い息をもらす。不思議なことにその息からは微かに毒の気配と香りがする。それできみもようやく咲夜に興味を示した。彼女は人間のようだが毒を使うという意味で同類かもしれないからだ。

「へえ、てことは魔法の森に住む人形遣いと関係あるんだ?」

 魔法の森と言われてもきみにはよく分からない。だが人形遣いはよく知っていた。奴らは人形を虐め、壊してしまうものだ。決して許してはならない。

「人形遣いは敵よ。人間は嫌だけど、その中でも一番嫌い!」

「そう、じゃあ違うのかしら……まあ良いわ」咲夜はきみに聞こえぬ声でぼそぼそ呟いたのち、うっすらと微笑みかけてきた。「わたしも人間は好きじゃないのよ」

 咲夜は瓶入りの飲み物を湯飲みに注いで一気に呷る。顔がますます赤くなり、毒の吐息も強くなる。

「人間なんて取るに足らないものよ。体は弱いし、心もままならない。何よりも老いて朽ちてしまうのが気に入らない。わたしあなたのような人形に生まれたかったわ。いつまでも壊れずに働けるもの」

 そこまで口にして更に飲み物を注ごうとしたけれど、ほとんど入っていなかったらしい。足をじたばたさせながら「もう一本出してー」と大声で呼びかけてきた。きみは飲み物を探し当てた場所から言われるままに取り出して渡す。

「話を聞いているとあなたはまるで人間のように思えるのだけど」

「その通りよ」咲夜はあははと笑いながら手を叩く。「わたしはあなたが嫌いな人間様というやつなのでした」

「それなのに人間が嫌いなの?」

「ええ、あんなにも取るに足らない種族は他にいない。どいつもこいつも本当にどうしようもないわ!」咲夜は拳をテーブルに叩きつける。大きな音が響き、空になったほうの瓶が倒れてしまった。「だからわたしたち、気が合うかもしれないわね」

「わたし、人間は嫌いよ。誰にも近寄ってほしくは……」きみの中に一瞬だけ、昼間にやってきたアリスのことが浮かぶ。だがすぐに怒りのほうが勝ってしまった。「ない。あなたもできれば遠ざけてしまいたいの。でも、その……」

「代理を頼まれたから離れられない。律儀なのねえ、人間と付き合うのが嫌ならば断ってしまえば良いのに。それとも苦手意識は克服するべきだと考えている?」

 人間が嫌いなことは分かっているのに、その理由が説明できない。少しは考えてみたけれどすぐに億劫になってしまい、だからここにいなければならない訳を打ち明けてみることにした。上手く行けばここから離れることができるかもしれないからだ。

「実は店の主人を倒してしまったの」

「あらまあ」咲夜は特に感情を表すこともなくそれだけを口にする。「そんなのここだとよくあることよ、気にしなくて良いのに。そんなことでくよくよするってことはあなた、相当の新参ね。いい? ここでは戦いなんて日常茶飯事で勝っても負けても文句の言いっこはなしで良いの。それにしてもここの主人、頭と要領が悪いなりに、結構厄介な力の持ち主なんだけどな、よく勝てたわね」

 そう言いながら、咲夜は湯飲みをカウンタ越しに差し出してくる。口から毒を吐くための飲み物であり、先程から興味を持っていたきみは少しだけ浮き上がると両手で受け取り、半分ほど飲んでみる。咲夜はひったくるように湯飲みを取り戻すと残り半分を飲み干して、すぐにひっくり返ってしまった。

「あー、体が痺れるようだわ。頭もがんがん痛むし。おっかしいなあ、気兼ねなく酒を飲むために調整してきたんだけど」咲夜は地面に倒れながらぶつぶつと言っていたが、やがてげらげらと大きな声で笑い出した。君はその様子が少しだけ恐ろしかった。少しするとそれも止み、後には苦しそうな息遣いだけが聞こえてくる。反対側に回り込み、肩を揺すってみたけれど起きる気配がない。途方に暮れていると、頭上からすいませんと声がかかった。振り向くとそこには咲夜より一回り大きな人間が立っていた。少しだけ焼けた白い肌に大きな胸とお尻、服ごしでも伝わる筋肉質が特徴的だ。

 きみはそれが清国の衣装であることを知っている。赤と緑の目がちかちかするような色合いは初めてだけど、そうであることは間違いない。

 彼女は咲夜の姿を見て大きな溜息をつく。

「やはりここにいたんですね。こういうことしたいなら付き合うって前にも言ったのになあ」

 清の服装を身に着けた少女は頬をぺしぺしと叩いたりして咲夜の目覚めを促すが、ふにゃりとした声をあげるだけで反応はない。再び溜息の音が聞こえる。

「マスター、これお勘定です。お釣りはいらないですから取っておいてください」少女は皮袋をカウンタの上に置く。じゃらじゃらと金属の音がした。「なんだかいつもと違う娘のような気もしますけど……まあ、そういうこともありますよね」

 少女は顔を真っ赤にしてのびている咲夜を軽々と担ぎ上げ、空を飛んで去っていく。トランプの兵隊、ペンキで紅く色を塗った白い薔薇。二人はそんな間柄なのだろうときみは思う。

 そういえば、どうして薔薇はペンキで赤色に塗られるのだろう。

 きみは疑問に思ったけれど、当然のことのように思えてすぐに考えるのをやめた。

 辺りからはすっかりと気配が消え、他に何者かの現れる様子もない。

 きみはこの場所に、既に飽きている。だからきみは咲夜の飲み物と湯飲みを一つずつ失敬してこの場を立ち去る。毒を吐くための液体を試したくて仕方がなかったからだ。

 鈴蘭畑に戻ってくると、きみは瓶についたラベルをしげしげと見つめる。それは幻想郷で作られている日本酒の一種だ。きみはラベルに印字された日本の文字を懐かしいと思う。以前、そこにいたような気がする。楽しかった気がする。辛かった気もする。

 きみは日本について何かを思い出そうとするが、しかし知識の一欠けらさえも汲み上げることができない。きみは日本のことを忘れ、中の液体に興味を戻す。

 コップがなかったので、瓶に口をつけて一気にあおる。三分の一ほど平らげ、暫く待ってみる。しかし、いつまで経っても毒は形成されない。きみの中に眠るもっと強力な毒が、酒精をほぼ一瞬で分解してしまったからだ。もちろん、きみはそのことに気づかない。量が足りないと考え、残りを一気に飲み干す。当然、毒はいつまで経っても湧いてこない。

「あの人間は嘘つきだったのかしら?」

 きみは独り呟き、そして刺々しく付け加える。

「今度手に入ったら別の人間に飲ませて確かめよう」

 きみはその考えに胸をときめかせ、眠気に身を任せてゆっくりと目を瞑る。

 そして逃れられたはずの悪夢が今夜も君を苛むのだ。

 

 翌日。きみはいつの間にか眠っていて、辺りには濃い日差しがさしている。

 体が無性に重く、苛立たしい。朝はいつもそうで、きみは夜に眠るのが良くないのではと感じ始めている。

 きみは空を見上げる。昨日の訪問者は、また明日と言っていた。別に待ち遠しいわけじゃない。暇だからと自らに言い聞かせながら、きみは空から目を離せないでいる。

 煙のような薄い雲が、眩いほどの青をゆるりと漂っている。こんな空は何故か、きみを安心させる。ずっと昔、こんな景色を飽きるまで眺めていたような気がする。それでいて、きみは自分がこの世に生まれてからまだ数ヶ月しか経っていないことも、何となく自覚している。きみにとって世界とはこの鈴蘭畑だけであり、昨夜ようやく少しだけ広がったばかりだ。

 それなのにもっと長い時間、もっと昔に、存在していたような気がする。

 ぼんやり考え事をしているきみの目に、鮮やかな人影が映る。彼女はまるで舞い散る葉のようにひらひらと目の前に着地する。

「こんにちは」

 きみは不審者を見る目つきでアリスを睨みつける。

「今日もまた怖い顔ね。歓迎されてないのかしら」

 きみは昨日と同じようにそっぽを向く。アリスも昨日と同じように、きみのそんな姿を見て笑いを噛み殺す。

「折角、可愛く作って貰ったというのに、そんな表情してちゃ台無しよ」

 可愛い、と言われてきみは何故か、馬鹿にされたような気持ちになる。自分がきちんと評価されていないような気がする。

 きみが表情を堅くすると、アリスは少し真面目に尋ねてくる。

「もしかして、可愛いって言われるの、嫌いなの?」

 きみは大きく頷く。

「わたしも可愛いと言われるのは嫌いよ」

「じゃあ、どうして可愛いなんて言うの?」

「普通、女の子は可愛いと言われると嬉しがるものだからよ」

「だったら、普通じゃないの?」

「かもしれないわね。でも、わたしは普通じゃない子のほうが好きよ」

 アリスが自然な仕草できみの頭をそっと撫でる。嫌悪感が思わず先走り、濃い毒の蒸気が無意識のうちに吐き出される。

 きみは慌てて、毒を体の内側に抑えこむ。大きな風が、毒を根こそぎ巻き上げてゆき、辺りはごく微量の鈴蘭毒がやんわりと漂う、いつもの鈴蘭畑に戻る。

 退避していたアリスが、空から戻ってくる。これまで毒を扱って申し訳ないと感じたことなど一度もなかったのに、今の出来事は何故かきみの心をちくりと刺した。

 でも、きみは謝らない。触ってくるのが悪いのだと、それでも頑なに思い込んでいるから。

「わたしに触られるのが、そんなに嫌?」

 きみが何も答えられずにいると、アリスはとりなすような笑みを浮かべる。

「冗談よ。でも、凄まじい毒の質量ね。もう少し、逃げるのが遅かったらまずかったかも」

 アリスはきみの体に観察の視線を巡らせる。

「鈴蘭ってことは、コンバラトキシンがベースになってるのかしら。でも、吸い込んだだけで体がびりびりと痺れ出したって魔理沙は言ってたから、それだけじゃないのかも。妖力が毒自体の能力を強化させて、成分以上の特質を発揮しているのかな」

 きみにはアリスの言っていることがよく分からない。

「まあ、良いわ。触られたくないのなら、無理強いはしないから」

 そう言いながら、アリスの瞳は別のものに注がれている。

「これは何かしら」

 アリスは昨夜、グリフォンの屋台から失敬した日本酒の瓶を拾い上げる。

「昨日はこんなもの、なかったような気がするけど。しかももう空だし。もしかして一晩で飲み干したの?」

 きみが頷くと、アリスは顔をしかめる。

「頭が痛かったり、吐き気がしたりしない?」

「全然。これを飲んだ人が毒を吐くようになったから試してみたけど何も変わらなかったわ」

「……そう言えば酒精の途中分解物質であるアセトアルデヒドも毒だったわね。毒を主属性に持つメディスンに通用するわけないか」

 そもそもどうやって分解してるのよ、と呟きを加えるアリスに、きみは質問する。

「どういうこと?」

「この瓶に入っていた飲み物は、確かに毒よ。ただし、あくまでも普通の人間や妖怪にとって。きっとこの世界にあるお酒を全て飲み干しても、貴女はけろりとしているでしょうね」

 きみはとうとうと説明を行うアリスの表情に注目する。こちらをたばかっているようには見えないが、しかし解せないことも沢山ある。そのうちの最たるものが、きみの口から零れ出る。

「だったらあの紅い薔薇はやはり同属じゃなかったのね。でも、だとしたらどうして毒をわざわざ飲んだりしていたのかな?」

「紅い薔薇? アリスの話に紅い薔薇なんて出ていたかしら」

 アリスは少し考え込み、それから合点を得たときの表情を浮かべる。

「そういやハートの女王が白い薔薇は嫌いだといって、ペンキで紅く塗らせているってくだりがあったわね。そんな細部まで知ってるのに、どうして肝心の物語を知らないのかしら……と、これは脱線ね。どうして毒だと分かっているものを飲んだりするかってことが知りたいのよね」

 きみが頷くと、アリスは物知り顔をして語りだす。

「お酒の中に入っている酒精はある程度までなら、人の心をふわふわと幸せな気分にするの。人型の妖怪にも同じ作用を起こすようだけど、人間と違って研究者がいないから、同じように代謝しているのか、わたしには分からないわ。強い弱いはあるけれど基本的に妖怪は人間より酒に強いみたいね」

 閑話休題と言い添え、アリスは話を続ける。

「ただ、酒精は体内で代謝されてアセトアルデヒドという毒に変化するの。更には酢酸――つまりお酢のことだけど――に変化して無毒になるんだけど、それが留まっている間は頭が痛くなったり、吐き気がしたりするわけ。それがおそらくは、貴女の感じた毒の正体。もっとも貴女は妖怪といっても規格が違うから、同じように代謝されるとは限らないけど」

 分解すれば分かるのかなあ、とアリスは少しだけ危険な目をきみに向ける。

「それは……遠慮しとく」

 きみは分解という言葉に良い意味を感じられない。だからきっぱりと断る。

「そうね。貴女ほど精緻な人形を分解して、完全に復元できる自信がないもの。表情の細やかさ、関節のスムースな動き、自然毛のように柔らかくしなやかな髪繊維。少しでも間違えるとバランスが崩れてしまうでしょうね」

 あの子なのかしら……と囁きをもらし、アリスは小さく首を横に振る。

「まあ戯言はさておき。お酒と毒物の関係についての講義はこれでおしまい。納得した?」

「そういう仕組みがあるってことは納得したわ。紅い薔薇は毒のせいで嘘をついたのね」

「そんなところでしょうね。ところで、紅い薔薇って誰のことかしら。そもそも貴女はどうやって、お酒を手に入れることができたの?」

 きみは面倒臭いと表情を作るが、内心では誰かに話したくてたまらない。初めて鈴蘭畑の外に出たこと、騒音を撒き散らすグリフォンを退治したこと、紅い薔薇との会話に後から現れたトランプの兵隊の溌剌とした身のこなし。語ることに慣れていないきみは最初こそたどたどしかったものの、少しずつ上手く出来事を伝えられるようになる。

 アリスは時折、笑いをこらえながら、楽しそうに耳を傾けてくれて、きみはそれが嬉しい。

「やっぱり、貴女って面白い娘ね」

 どこかからかうような口調と表情に、きみは反感を覚える。でも昨日に比べれば、棘も毒々しさも随分と薄れていることにはまだ、気づいていない。

 アリスは暫く笑っていたが、深い瞬きを一つ、次の瞬間には真面目な顔になっている。

「でも、貴女のやったことはあまり感心できないわね」

「どうして? だってあの雀、耳障りで煩かったのよ」

 きみが不愉快な騒音を思い出し、苛々するのを見てアリスは少しだけ声を厳しくする。

「この地には数多の人間、妖怪が住まっているわ。ありとあらゆる属性がひしめき合ってるし、中には鬱陶しいやつも確かにいる。不愉快に感じることもあるかもしれない。でも、だからといって最初から一方的に、力で片付けようとしてはいけないの。例えば、こう考えてみて。貴女より圧倒的に強い力を持った存在が現れ、鈴蘭が鬱陶しいから全て焼き払う、と言い出したら、どう?」

 あくまでもたとえ話に過ぎないが、それでもきみの怒りを駆り立てるには十分過ぎる。

「そんなことは絶対に許せないわ!」

 血煙のように濃密な毒気が、きみを中心として漂い始める。アリスは宥めるように、しかし余裕のある様子できみに道理を言い聞かせる。

「そうね。でも、そいつは貴女よりも力が強いから、簡単に事を成し遂げてしまう。さて、メディスン。いま、貴女は毒煙を出すほど憤っているようだけれど、それは昨夜、夜雀に対して貴女がしたことと全く同じなのよ」

 あ、ときみは合点の呟きをもらす。それを見て、アリスは満足そうに微笑む。

「わたしが何を言いたいか、分かったのね」

「うん……」

「良かった。生まれたての妖怪ってこの手の初等的な論理も理解できないのが普通なんだけど、貴女は割と特別みたいね。ある程度の込み入った話も理解できるようだし」

「でも、言いたいことは分かるけれど」きみの体は煙のような毒を出すのをやめたけれど、まだ完全に収まってはいない。「あの煩い歌声を思い出すだけで、やっぱりむかむかして、毒を浴びせたくなってくるわ。長く続けば我慢できず、同じことを繰り返しそうな気がする」

「毒の属性をもった妖怪の本能か。それだけは如何ともし難いけれど――まあ、妖怪は属性に見合った悪さをやらかす存在だから、そこのところは仕方ないのよね。我慢するか、あるいは妥協点を見つけて相互不可侵の約束を取り付けるしかないんじゃない?」

 妥協という言葉は、きみの心にダイレクトに圧し掛かってくる。何故ならきみはこれまで、短い時間だけれど好き勝手に生きてきた。欠片ほどの煩わしさとはいえ、好き勝手を侵害されることに抵抗感があるのだ。

「そんなこと、できるのかな?」

「できなければ、その時は縄張り争いね。貴女か夜雀か、戦ってどちらかが勝つ。勝ったほうが負けたほうに条件を押し付けられる。追い出すこともできるでしょうね」

「でもアリスはさっき、そんなことしちゃいけないって……」

「わたしはたとえ話をしただけ」

 きみの不満をアリスはぴしゃりと封じる。

「最初から一方的に力を押し付けるのは良くないわ。でも、力でしか解決できない物事というのもあるの。全てを一意に平和的に処理できるのが理想的だけれど、現実にはそう上手くはいかない。そもそも存在的に決して分かり合えない場合もある。特に光と闇、静と動、正気と狂気、といった相克するもの同士の間では、必然的に争いが生まれる。そういった場合でも他方の殲滅ではなく、妥協で収める場合もある。もちろん、殲滅も起きる。要はケース・バイ・ケースってことね」

 長く話し過ぎたのか、アリスは小さく息をつく。

 きみは彼女の話したことを何とか咀嚼しようとするけれど、上手く行かない。

「アリスの話すことは、難し過ぎるわ」

「でしょうね。それにこれはあくまでわたしの持論だから、貴女にも当てはまるとは限らないわ。わたしは基本的にものぐさで、些事には関わりたくないの。研究ができて、その成果を試せればそれで満足。そのために喧嘩を吹っかけたりもするけれど、相手を殲滅しようなんてことは考えない。だから適当に妥協できるし、必要とあらば他者と共に行動することも出来る。でも、貴女はわたしと由来が違う。由来の違うものは、例え同じような姿形をしていても、全く別種の生き物なの」

「それも、よく分からない」

「だと思うわ。でも、考えるべきなのよ。これからもこの人外魔境で暮らすのならばね。その結果、もし貴女が好戦と殲滅に傾いてしまうならば、わたしはそれも仕方ないと思う。但しいずれ、ハートの女王が現れ『そのものの首を刎ねよ!』と宣言しにやってくるわ。この世界の女王は不思議の国のものと違い、裁判なんか開かないのよ」

 きみはハートの女王が何を表すか分からないし、具体的にアリスがどの人物を差して述べているかも分からない。でも何故か、きみにはアリスの言いたいことがよく分かる。

 きみの仕草や表情からそのことを読み取ったのだろう。アリスは懲りた様子もなく、きみの頭を優しく撫でる。毒が噴き出し、しかしアリスは既に空へと舞い上がっている。

「今日は話し過ぎて疲れたから帰るわね。また明日」

 紫煙の晴れたとき、既にアリスは空のどこにも見えない。きみは微かに寂しさを感じ、否定するために強く首を横に振る。彼女はどうしていちいち自分に声をかけたり、説教したりするのだろう。優しく接してくれるのだろう。そんなことを考えていると無性に眠たくなり、きみは今日も真昼から鈴蘭畑に身を横たえる。

 眠りに落ちる前、ごく遠目に昆虫の羽根のようなものを生やした人影が、風にあおられた毒煙に巻かれて墜落していくのを見たような気がしたけれど、きみは気にせず目を瞑る。

 

 夜の目覚めは、朝の目覚めと違って清々しい。星の瞬きは昨日に比べて微かに弱くなっているが、しかしより満月に近づいた月は、それらを補って余りあるほどに美しい。きみは暫く夜空に見惚れていたが、少しすると歌声が大気に混じり始め、きみはそっと耳をそばだてる。

 今夜の歌には騒音めいたものが感じられず、むしろ麗として耳に心地良く聴こえる。きみはその歌に魅入られ、今日も鈴蘭畑を抜け出す。歌はか細く、切なく、しかしとても力強い。夜雀以外にも、ここには歌を好むものがいるのだろうか。どうして昨夜は歌わなかったのだろうか。きみはぐるぐると思考を巡らせながら、夜空を駆ける。

 歌は昨日と全く同じ場所から聴こえてきた。そしてきみはすぐに驚かされることになる。何故なら歌い手まで、昨日と全く同じだったからだ。屋台の上に腰掛け、目を細め、夜雀は笑うように歌を紡いでいる。

 きみは昨夜、さんざん毒を浴びせかけたことも忘れ、真正面から近づいていく。当然、夜雀は歌を止める。

「あ、えと……」

 ふと、きみは自分から相手に挨拶したことがないのに気づく。警戒の視線をそそぐ夜雀に相対すると、きみは両手でスカートの裾をつまみ、深くお辞儀をする。

「こんばんは。えっと、本日はご機嫌麗しく……」

 それから上目遣いに夜雀を窺うと、彼女は目を丸くしていた。

「えっと、挨拶の仕方、間違ってるかな」

「いや、間違ってないとは思うんですけどぉ……」

 夜雀は剥き出しにしていた敵意を収め、きみをしみじみと観察する。

「その、今日は何をしにここへ……はっ、まさか?」

 夜雀は何かに気づいたように表情を尖らせると、屋台の上にしっかと立つ。

「油断させてまた毒霧を、そしてお酒を奪っていく気なんですね。そうは桶屋が卸さない」

 ばっさばっさと羽ばたく夜雀は、今にも襲い掛かって来そうな気配を漂わせている。

「正直に言いなさい。その後で夜雀を怒らせると鳥目になるってことを思い知らせてやるから」

 きみは正直に言う。

「耳障りで下手糞な歌を歌うのはできれば少し控えて欲しいと言いに来たんだけど……」

 夜雀は泣きそうな顔になるが、きみは構わずに先を続ける。

「でも、やめた。あんな良い歌が歌えるのに、やめろって言えない」

 きみがそう言うと、夜雀は複雑そうな表情を浮かべる。

「それ、何の曲なの?」

 聞いたことがないけれど、でもどこか懐かしい空気を感じさせる旋律だった。夜雀はどうしようかと随分、迷っていたようだったが、きみに敵意がないことを感じたのだろう。生来の話好きと最近になって加わった商売っ気もあり、警戒しながらもぽつぽつと口を開き始める。

「マ・メール・ロワ、紡車の踊りと情景、眠りの森の美女のパヴァーヌ」

「眠りの森の美女……聞いたことがないけど」

「知らないの? 曲自体も有名だし、眠りの森の美女って誰でも知ってる童話だと思うけど」

「それでも、知らないわ」

 きみが気分を害したようにいうと、夜雀は歌うように物語りを始める。

「昔々、ある国に一人の女の子が生まれました。彼女の誕生に際し招かれた十二人の魔女はその子に祝福を与えますが、最後の一人となったとき、招かれなかった十三番目の魔女が現れ、女の子に永遠の眠りの呪いをかけます。祝福を与えるはずの最後の魔女は慌てて、永遠の呪いを百年の呪いに変えました」

「それだったら、さっきの呪いをなかったことにすれば良かったのに」

「知らないわよ。そんなのは物語を作った人に聞いて。それで、女の子は十五歳のとき、魔女の呪いで眠りについてしまうの。その城はやがて荒廃し、茨で覆われるけれど、百年後に現れた王子さまが茨をかいくぐり、女の子にキスをして目覚めさせるの」

「キスで目が覚めるくらい簡単な呪いなのに、誰も解こうと試さなかったの?」

「だから、知らないって。で、二人は幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし」

 めでたしめでたし。物語の締めの言葉に、きみはふと懐かしさを覚える。遠い昔、これと似たような話をしてもらったような気がする。そのときの題名は確か……。

「いばらひめ」

 そう、きみはその物語を眠りの森の美女ではなく、茨姫という題名で知っている。

「それは眠りの森の美女の別題よね。なんだ、知ってたの……」

「小さい頃に聞いたような気がする」

「ふぅん。あなた、世話して物語を聞かせてくれる母親がいたんだ。羨ましいなぁ」

 母親、という単語はきみに強い違和感を与える。

「母親?」きみは生まれたばかりだということを知っている。世話してくれた存在など、これまで一度もいたことなどなかった。いなかった? 本当にそうだろうか。「ママ……」

 だとしたら、わたしはどうして一人なの?

 きみの中に大きく消し難い一つの疑問が競りあがってくる。

 一人? 一人だった?

 わたしはわたしだった? わたしたち?

 いや、わたしはわたしだ。

 

 

「わたしは、一人だったわ」

 個としての一つ、一人。わたしは何故か、そのことを確信する。

「そうなの? 育ちの良さそうな挨拶もするし、良家のお嬢さん妖怪? って感じするけど」

「お嬢さん妖怪って、そんなのいるの?」

「紅魔館の吸血鬼姉妹とか、そうじゃないの?」

「コウマカン?」

「うん。あそこにはうちのお得意さん、多いのよ。妖精メイドたちが半ダースも連れ立って来ることもあるし、あと咲夜って名前のメイド長もよく来るわね」

 咲夜という名前に、わたしは耳をひかれる。

「でもあの人、金払いは良いけど愚痴が酷いし、喚くような笑い声をあげたと思ったら次にはしくしくと泣き出すし。本当は出入り禁止にしたいんだけど、接客業だからどんな客も無碍にはできないし」

 悪い幽霊から助けてくれたこともあるし、悪い人じゃないから余計に痛々しいのよねと苦々しく呟き、夜雀はふと首を傾げる。

「ところであなたはここに、何しに来たんだっけ。お客さん?」

「いや、あの騒音みたいな歌はやめて欲しいって」

 夜雀は再び傷つけられたような顔をし、それから切々と訴えかけてきた。

「あれ、お気に入りなんだけどなあ。デスメタル調マザーグース。この弓と矢でもって、わたしが駒鳥ころしたの。気に入らないやつみなごろし、わたしの弓矢でみなごろし。殺害せよ、殺害せよ――って感じで。どう、良くない?」

「良くない」

 きっぱり断言すると、夜雀はしゅんと黙り込んだ。

「うぅ、わたしの音楽センスは一般人からするとあまりに先鋭すぎて受け入れられないのね。五十年、いえ、百年遅く生まれていれば……」

 百年経っても受け入れられない類の音楽だと思ったが、夜雀をこれ以上傷つけるのは本位でないので譲歩することにする。

「まあ、たまになら歌っても良いけど」

「たまにって、一週間に一度くらい?」

「百年に一度」

「うぅ……一ヶ月に一度くらいで」

 まあ、それで許すことにした。

 成程、アリスの言ってた妥協と譲歩というのはこういうことなのか。

 七面倒臭いけれど、争うよりかは若干、楽なような気もする。

 やるべきことは終わったし、人間が複数やってきたので、わたしは息苦しくなって、夜雀の元を立ち去る。かといってまだ鈴蘭畑に戻る気にはなれず、だから茫洋と夜空を漂う。あそこを離れるなんて以前は想像も付かなかったけれど、今はもっと遠くまで行きたいと思う。

 遠くには何があるか分からない。

 アリスに聞けば、教えてくれるだろうか。

 また明日と言っていた。

 そう言えば、今日と明日の境目ってどこにあるのだろう。

 取りとめもなく思考が巡り、わたしは少しずつ降下していく。

 鈴蘭畑、わたしの家。どうやらいつの間にか辿り着いていたらしい。

 吸い寄せられるようにして鈴蘭の絨毯に落ちたわたしは、瞬時に意識を失う。

 そして今夜もまた悪い夢を見る。

 

 目が覚めるとわたしは鈴蘭畑に腰を下ろし、空を見つめてぼんやり過ごす。アリスに昨日の話を聞いて欲しかったからだが、少ししてやってきたのは空によく似た色の服を身につけた刺々しいやつだった。まるでドーマウスのようだ。そいつは鈴蘭畑から少し浮いた状態で、辺りを見回し何かを探しているようだった。

「昨日の煙はここから出てきたのかな」ドーマウスは辺りを見回しながらぶつぶつと呟いている。「この花が全部びりびりの素を出してるのかな、だとしたら全部やっつけないと」

 ドーマウスは長い氷柱を一本生み出すと地面に突き立てる。するとたちまち辺りが凍り、わたしは背筋に痛むような強い寒さを感じ、大声をあげてしまった。それはドーマウスにも聞こえたらしく、すぐこちらに近付いてきた。

「なんだお前、こんなところでなにやってるのさ」

「わたしはここに住んでるのよ、悪いかしら?」馬鹿にするように言うから、こちらとしてもつい口調がきつくなってしまう。「あなたこそ何しに来たの?」

「昨日か一昨日だけど、この辺を飛んでいたらいきなり紫の靄が飛んできたの。そいつに巻き込まれると急に体が痺れ出して、飛んでいられなくなったの。お陰で頭に大きい瘤ができたのよ!」そういってドーマウスは頭の後ろ側を指差す。確かにぷっくりと膨らんでいて、触らなくても痛そうだというのがすぐに分かった。「誰の仕業か突き止めようとしたけれど、花のせいだったのね」

 ドーマウスは鈴蘭を無造作に蹴飛ばし、踏みつけ、どうだ参ったかと笑い声をあげている。辺りに漂っていたスーさんが揺らめき、少しだけ痛みが伝わってくる。わたしも鈴蘭の上に座ったり転がったりするけれど、痛いと伝えてきたことはないからドーマウスが酷いことをしているということがよく分かった。

「このっ、ひどいことするなっ!」わたしはグリフォンにぶつけたのと同じ毒の弾をドーマウスに向けて撃つ。それはドーマウスの胸に直撃し、その勢いで鈴蘭畑に落っこちてごろごろ転がっていく。グリフォンは弾けた毒を吸ってその場に倒れたのだが、ドーマウスは派手に転がったせいかあまり吸っているように見えない。すぐに立ち上がり、げほごほと苦しそうに咳をする。「もっと苦しみたくなかったらすぐに出て行って!」

「いったいなあ何するんだよう」ドーマウスは後頭部を手でさすっている。瘤になった所をまたぶつけたらしい。「それにお前の弾から出てきた紫のやつ、この前受けたぴりぴりと同じだ。もしかしてあたいを撃ち落としたのはお前か!」

 ドーマウスは両手を前に構えると、針のような弾を展開する。見ているだけで何故か身が震えそうになりそうだった。

「ごめん、覚えてない」鈴蘭から湧き出すスーさんは強い風が吹くたびどこかへ飛んでいくし、アリスに触られて噴き出したものかもしれない。「わたしは何でも知っているわけじゃないし、物覚えもあまり良くないから」

 ドーマウスに酷いことをしたならば謝りたいのだけど、自分で何をしたのか分からないのでは頭の下げようがない。そのことを上手く伝えたかったのだが、ドーマウスは眉をへの字にして考え込む仕草を見せる。あまり機嫌が良くないようだった。グリフォンより短気なのかもしれない。

「物覚えが良くないって、それはつまり馬鹿ってこと?」

 いきなり馬鹿と言われたのは流石にむっとしたけれど、撃ち落とした相手のことも覚えていないのでは馬鹿と言われても仕方がないし、アリスに比べてあまりに何も知らないことは確かだ。だからわたしは渋々頷き、するとドーマウスは冷たい棘を引っ込めて笑い出した。

「そっか、それじゃ仕方ないなあ。でもそいつは危ないから、あまり人に向けちゃ駄目だよ。あたいは最強だから頭に瘤を作るだけで済んだけど、そうじゃない奴だったら残忍で血みどろなことになっていたはずだから」

「え、ええ、注意するわ」どうやらこのドーマウスは馬鹿にとても優しいらしい。それはやはり癪に障るのだけど、あまり戦いたくない相手だった。わたしは弾を一つしか出せないのに、ドーマウスは一度に沢山出してきたからだ。「でもわたしが全部操作してるわけじゃないから。この辺りを飛ぶ時は気をつけた方が良いわ」

「大丈夫だって。このチルノに同じ技は二度通じないのだー!」

 チルノと名乗ったドーマウスはふらふらしながらも丘から遠ざかっていく。少しすると鈴蘭が一斉にぶるりと震え、濃い靄が出てドーマウスを追いかけていく。避けて避けてと叫んではみたが遠くに行き過ぎたのか他のことに気を取られているのか振り向く素振りさえ見せず、やがて毒に追いつかれ蚊とんぼのように落ちていった。どこかで見たことがある光景だったから、以前も同じように巻かれてしまったのだろう。それを視界の端か何かで目撃したのだ。

 後を追って介抱しようか迷っていると、入れ違いのようにこちらへ向かってくる人影があった。いつもと同じ姿だったからアリスだとすぐに分かり、わたしは大きく腕を振る。アリスは優雅に下り立つと嬉しそうに近付いてきた。

「手を振ってくれるなんて、よほどわたしに会いたかったのかしら」

「そうじゃないの、その、アリスに助けて欲しいことがあって。いや、一人でもできるんだけど、二人のほうがより確実じゃないかと思っただけで」

 わたしは先程起きたことをアリスに説明する。最初こそ楽しそうに聞いていたが、最後のくだりを聞いて微かに口元を引き締めた。

「ふむん、妖精ならば放っておいても良いんだけど、どうしても気が引けるというならば助けに行きましょうか?」

 わたしは少し迷ってから小さく頷く。ドーマウスはわたしのことを馬鹿にしたけれどこの丘で起きたこと、特にスーさんがやったことはわたしのせいであるような気がするからだ。アリスは背を向け、こちらを振り返ると手を伸ばしてくる。白くてつるつるで綺麗な手に惹かれるように、わたしはそっと手を繋ぐ。思わず体から靄が出てしまったけれど、アリスはもろに浴びてもけろりとしている。どうしてだか知りたかったけれど、今はドーマウスを助けに行くのが先だと考え、黙ってついていった。

 ドーマウスは丘を越えて更に北、グリフォンの歌が聞こえてきた森へ墜落したようだった。木々が鬱蒼と茂っているせいか、少し先すらもよく見えないし、スーさん以外の毒が色々な所に散らばっていて、上手く探すことができない。早速の手詰まり感であった。不安げにアリスを見ると、何かあてがあるのか余裕そうな顔をしていた。

「大体の場所は分かっているのだからゆっくり探しましょう。でも少しだけ気をつけて。手負いの妖精って案外怖いのよ。考えなしの見境なしが怒りのままに無差別攻撃を仕掛けてくるから。前後左右、均等に気を配り、突然襲われても大丈夫なように注意しなければならないわ」

「……そんな一遍にわたし、できそうにない」最初の一つだけでも難しいのに、同じくらいのことがいくつも並ぶから頭が混乱してくる。「アリスにはできるの?」

「もちろんよ。だから不安だったらこの手を離さないように。でもこれだって勉強のうちなのだから頼り切っちゃ駄目。メディスンもできる限りのことをやるのよ」

「う……うん、分かったわ。でもここはスーさん以外にも色々な毒があって」

「気が散ってしまう?」アリスはわたしの手を少しだけ強く握ってくる。「そういうときは一つの感覚にある程度を傾けて、残りで漠然と観察するの。生物の気配を察する勉強にもなるから、メディスンは定期的にここを訪れて体と心を慣らしたほうが良いかもしれないわ」

 わたしは小さく頷くと、アリスに引かれて探索を開始する。手の感触を起点に周りへ広げるイメージを保ちながら歩いてみるけれど、やはりスーさん以外の毒が邪魔で上手くいかない。きょろきょろと辺りを探る振りはしていたけれど、何も見つからない。しばらく続けてみたけれど上達する様子はまるでなかった。

「ごめんなさい、やっぱり難しいみたいで」

「わたしだって最初はできなかったのよ」アリスは立ち止まると、わたしの頭をそっと撫でる。紫の靄が微かに立ち、森の奥のほうに吸い込まれるように消えていく。「ましてやメディスンは植物に含まれている毒に反応しちゃうんでしょ? わたしより上手くいかなくて当然なのよ」アリスは耳に手をやり、少し先を指さす。「あちらから川の流れが聞こえるわ。結構歩いたし少し休みましょう。メディスンは疲れてないかもしれないけど」

 歩くことは負担にならないけれど、気を張り続けるのが限界に来ていた。いらいらして頭からスーさんを噴き出しそうになったこともあったのだ。アリスはそのことを察してくれたのかもしれない。わたしは好意に甘え、アリスの後についていく。気を解くとわたしにもせせらぎの音が微かに聞こえてきた。更に進むと木々を縫うようにして流れる細い川が見えてきた。

「岩の形や砂の粒度だけみると上流なんだけど随分と緩やかね。水源が全くもって謎だわ。北の山を源にしている川は実に分かりやすいんだけど……まあ地形通りに繋がっていない場所だもの、探すだけ無駄なのかもね」アリスは川縁に形の良い石を見つけるとそこに腰掛け、ブーツを脱いでから流れに足をつける。「ああ、とても気持ちいいわ。もう夏も終わりとはいえまだ暑いものね……メディスンもやってみる?」

 わたしはアリスにならって靴と靴下を脱ぎ、足先を流れに浸す。確かにとても心地良い。熱の溜まった体があっという間に冷えていくようだった。

「冷たさを感じるのね」アリスが横から声をかけてくる。「それとも川の流れがくすぐったかったのかしら。どちらにしろメディスンには感覚があるのね」

「アリスも冷たいんでしょ? だったらわたしが同じように感じてもおかしくないはずだわ」

「なるほど、確かにそうね」アリスは足を動かして水音を立てながら一息つく。「この場所は覚えておいたほうが良さそうね。メディスンはちゃんと道順や場所を覚えているかしら?」

「ううん、多分少しでも離れると分からなくなると思う」

「鬱蒼としてるから外側からみても分からないものね。わたしは同じような森で暮らしているから何とかなるんだけど」

 そう言ってアリスは目印についての講義を始める。

「目印は原則として自分でつけること。できるなら他人には分からないようなものが良いわ。迷いやすいところで迷わず歩けるというのは利点であり交渉にも利用できるからよ。逆に自然の目印は信用しちゃ駄目。この幻想郷では自然が生あるものを積極的に欺いてくるから」

 アリスは例として光を操る妖精の悪戯について話してくれた。いつも三人組で行動する妖精の一匹で、一時期人里の北に広がる森を訪れた人間が無駄に迷う原因となっていたらしい。

「わたしは魔力によるマーキングをしてるけど、メディスンなら毒で代用できるのでしょうね。植物を枯らさず、かつ長く一所に固定する毒を扱うようにできればベストなんでしょうけど」

 相変わらずアリスは難しいことを言うなと思う。だが便利な能力であることは確かである。スーさんが融通を利かせてくれるかは分からないけれど。

「木に傷をつけるとかそういうのでも良いと思うわ。北の森には自走する樹木がいるからそれじゃ駄目なんだけどこっち側にはいないはずよ。魔力も胞子もないから……その代わり瘴気が少し濃いようだけど」

「瘴気?」今までに訊いたことのない単語のはずなのだが、何故だか微かに引っかかるものがあった。「それってどういうものなの?」

 わたしの質問にアリスは深く俯く。どうやら簡単に説明できるものではないらしい。同じポーズで固まったまましばし、アリスはゆっくりと顔を上げる。先程よりも少しだけ真面目な表情になっていた。

「強い妖怪や力のある神様になると負の気持ちを抱いただけで、力として外部に漏出することがあるの。一種の毒みたいなものだと思うけど、毒と違うのは身体に働きかけるのではなく精神に働きかけてくること。力のない人間や妖精だと強い妖怪の瘴気にあてられただけで恐怖にとらわれ、体調を崩したり心を病んだり、下手すると発狂することさえあるのよ。妖怪が多いこの森では蓄積しやすいのかもしれないわね」

 アリスは足を出して水を切ると、靴下とブーツにゆっくりと足を通す。休憩時間はこれで終わりなのだと理解し、わたしも同じように靴下を、続けて靴をとんとんと履く。アリスはブーツを履き終わると、更に話を続ける。

「メディスンは毒を操ることができるから、瘴気を力にできると考えたかもしれないけど、そこまで操る力があるかどうかは分からないし、あなたのような体は瘴気に強くない可能性が高いの」アリスは右手を空にかざすように伸ばす。その仕草はこころなしかぎこちなく感じられた。「人の形には精神や魂が依りやすいのよ。最初から肉体と精神と魂の三つがセットで生まれてくる人間はそうでもないんだけど、形しかないものはその点が不安定なの。だから……」

 そこまで口にしたところで、アリスは右手を頬に伸ばしてくる。突然の仕草でわたしは先程よりも多く靄を噴き出してしまうが、アリスは意に介すことなくべたべたと撫で回してくる。

「退霊用の加工はしてないみたいね。すると材質の何かが霊を寄せ付けないのか、それとも別の要素が絡んでいるのか」

「あの、アリス?」最初は照れ臭かったのだが、あまりにもしつこく熱心に触ってくるから不安になってきた。「その、ちょっとくすぐったいんだけど」

「ああ、ごめんなさい」アリスは慌ててわたしの頬から手を離す。だが瞳は煌めいており、わたしの全身をちらちらと見回している。あまり好きになれない視線だ。「その、メディスンのこともっと色々知りたいと思ったから」

「わたしはアリスのことを知りたいな」それから少し迷い、わたしは意を決してその言葉を使った。「初めてできたその、仲間、みたいなものなんだし」

 アリスは仲間という言葉にしかし大きく体を震わせ、わたしから一歩後ずさった。言ってはいけないことを言ってしまったのではないかという恐れで何故だか胸が痛かったけれど、すぐにもっと別のふわっとした気持ちに変わった。アリスが体を持ち上げ、強く抱きしめてくれたからだ。

「メディスンが仲間だと思ってくれて嬉しいわ」わたしの固い体と違ってアリスの体は柔らかく、包まれているだけで全身がちりちりと熱くなる。「わたしはメディスンと友達になりたいと思っていたから」

「仲間で、そして友達?」だとしたら良いなという希望を込めて、わたしはアリスに訊ねる。「友達ってよく分からないけど」

「そうね、わたしたちは……」アリスはそこまで口にするといきなりわたしを突き飛ばした。「メディスン、木の陰に隠れて!」

 その叫びと被さるように鋭い音が、一瞬後に鋭い棘のようなものが間近を通り過ぎていく。わたしは慌てて幹の太い木の陰に身を隠した。それでも何が起きたのか気になってそっと前方を窺えば、真っ青に凍り付いた木々がいくつも見えた。

「凍り付いた木に触っちゃ駄目よ、固まってしまうから」アリスは少し離れた木陰でわたしよりも大胆に前方を睨みつけている。「さっき毒を出したとき、相手に見られたのね。この攻撃具合からしてわたしが思っていた以上にとさかにきてるみたい。説得するのは難しいかもね」

 アリスはそう言いながら前に出ると、何やらびっしりと紋様の書かれた紙切れを取り出し、唇を寄せる。すると左右両翼にそれぞれ三体の小さな人型が現れ、飛んでくる氷の棘を的確に撃ち落としていく。あれらもまたわたしの仲間なのだとすぐに分かった。辺りには綺麗な形をした薄片が舞い、わたしのいるところまで飛んできて、周りの温度を少しだけ下げる。直撃すればあっという間に凍り付きそうだ。

「まだ夏なのによくやること」氷の棘よりもアリスの仲間が撃つ弾のほうが圧倒的に多いため、少しすると今度はアリスが見えない相手を狙う番となった。しかしこちらからも相手の姿は見えないので、当たったかどうかは分からない。ただ遠くから時折、妙な声が聞こえてくるからアリスの攻撃が届いてはいるのだろう。「でももう終わり。人形はこれだけじゃないのよ」

 アリスの宣言とともにぎょわーと甲高い叫び声が聞こえてくる。それ以降、向こうから氷の棘が飛んでくることはなくなった。

「さて、行きましょうか。もう怖いことは何もないわ」

「わ、わたし怖くなんてなかったもん!」アリスにそう思われるのが腹立たしく、わたしは大声でそう主張しながらアリスについていく。少し先に行ったところで先程鈴蘭畑であったドーマウスの姿が見えてきた。人形六体で取り囲まれており、仰向けに倒れて体を震わせていた。「……少しやり過ぎのような気がする」

「わたしも流石にそう思ったわ」そう言った割にアリスはドーマウスの頬をぺちぺちと乱暴に叩いて起こす。そのために彼女の頬は照れているようになってしまった。「さて、どう話をつけましょうかね」

 わたしにもどうしたら良いのか分からず、黙って目覚める様子を見ていたのだが、ドーマウスは予想よりも思い切りよく立ち上がり、辺りをきょろきょろと見回し、最初に目についたアリスを豪快に指さす。うすうす分かってはいたけれどあまり行儀が良くないのかもしれない。

「あっ、お前は……えっと誰だっけ?」

「アリスよ。そして人を指差すのはマナー違反と前にも言ったはずなんだけど、まあ良いか」

 アリスが手を叩くとドーマウスを囲んでいる人形たちが両手を構える。どうやら動けば撃つということらしい。ドーマウスはその様子を見て助けがいないのかときょろきょろ見回し、その後ろに立っていたわたしを指さす。

「お前はさっきの馬鹿な奴……ってことはお前らぐるなのか!」ドーマウスの目つきが一気に鋭くなる。「自分だけじゃ何もできないから仲間を呼んだなこの卑怯者め」

「黙りなさい、さもないと人形たちに攻撃させるわよ」アリスがきつく言うとドーマウスはすぐに口を噤んでしまう。荒っぽい性格だが、少なくとも追い込まれていることだけは分かるらしい。「この子に頼まれたの、畑の毒に巻き込まれて落ちたあなたを助けたいと」

 わたしはアリスの言葉を補うように大きく何度も頷く。ドーマウスは戸惑った様子でしばらくわたしとアリスの顔を交互に見回していたが、やがてわたしに視線を合わせ、再び指を突きつけてきた。

「畑の毒とお前の毒は一緒のものだった。だからお前が攻撃してきたことになるぞ!」ドーマウスは口にしてから自分の言葉が正しいと確信したのか、顔を赤くして大声をあげる。「二度も不意打ちしてきて、やっぱりお前は卑怯者だ。アリスだっけ、お前もそう思うだろ?」

 アリスはドーマウスの言葉に頷くと、横目でメディスンを見る。わたしとドーマウスの言葉を比べる気なのかもしれない。だとしたら今のわたしはアリスに信じられていない。

「どうしたらドーマウスも……」

「ドーマウスじゃない、チルノだ!」

「ド……チルノも」わたしはアリスをじっと見つめる。「アリスもわたしのこと信じてくれる?」

 アリスは一瞬だけ驚いたようだったが、すぐ涼しい顔に戻り、わたしとドーマウスを交互に見る。

「チルノは不意打ちで負けたのが気に入らない。正面切って戦えば負けない、そう言いたいのよね?」

「あたいは最初からそう言ってる。お前も頭悪いなあ」

 アリスは一瞬だけドーマウスを厳しく睨む。だがけらけら笑っているせいか気付かなかったようだ。

「こほん。だとしたら簡単よ、二人で弾幕ごっこをやれば良いわ。ちゃんとルール通りに正面から、それでも負けたならばメディスンのほうが正しいことになる。より強いのだから不意打ちをする必要なんてないもの」

 ドーマウスはアリスの言葉に腕を組み、歯をきりきりさせる。その理屈が正しいかどうかを考えているようだ。わたしにはどうにもおかしいと感じられるのだけど、具体的にどこかを指摘することができなかった。だからドーマウスが強く頷いたとき、わたしも納得するしかなかったのだ。

「よし、じゃあ勝負だな。今度も卑怯な真似をしたらみんなに言いふらしてやるからな!」

「では空に上がりましょうか。遮蔽物のないほうが公正な勝負になるでしょう?」

 よっしゃあ! のかけ声とともにドーマウスが空に上がっていく。アリスもついて行こうとしたが、わたしの様子を見てにこやかに微笑みかけてきた。

「心配しなくて良いのよ。あなたの力なら苦戦することはあっても負けることはないと思うわ」

 わたしは大きく首を振る。アリスはわたしが十分に戦えると考えているようだが、ドーマウスのように何十発も一度に弾を発射することができない。あんなに早く飛んでくる弾をかわしながらだと尚更だ。

「でもあなたは鈴仙……あの耳が大きな兎を撃ち落としたって聞いてるわ。魔理沙……白と黒の魔法使いだって、負けたけど無傷じゃいられなかったそうじゃない」

 わたしは首を横に振る。言われてみればそんな記憶もあるのだけど、どうやったら分からないのだ。断片的に思い出される記憶と一緒で靄がかかったようになる。

「わたしにはアリスやドーマウスのように戦えないわ!」

 アリスは眉間に皺を寄せる。本当に怒らせたのかと思ったのだが、少しの無言ののち突然訊いてきた。

「できないのは攻撃すること? それともかわすこと? 両方とも無理だと思う?」わたしには何を言いたいのか分からなかった。「両方だったら素直に降参ね。卑怯な真似をしたと頭を下げるしかない」

「わたしは卑怯なことなんてしてないわ。どちらも事故だったのよ」

「でも相手はそう考えていない。だからこそわたしは新しい道筋、最終的に正しいことへと通じる理屈を付けたの。メディスンにはわたしが用意した以外のそれを用意することができる?」わたしは大きく首を横に振る。「正しさはそれを主張したときだけ手に入るものじゃないのよ。大きく回り道をした結果として手に入ることもある。これはまだ小さな迂回だけど」

 アリスの言うことは相変わらず難しいけれど、わたしに道が二つしかないだけは分かる。

 一つは正しくないことと分かっていながら卑怯なことをしたと嘘をつくこと。もう一つは正しいことを主張するために正しくない道筋を採用すること。グリフォンの時より複雑で、どちらを取っても全く正しいとはいえない。

「おーいどうした、怖じ気付いたか!」上空からドーマウスの嘲るような声が聞こえる。「それともまた卑怯なことしようと考えてるのか!」

「かわすだけならできると思う」わたしは手を上げ、そう答える。「それならばどうなるの?」

「スペルカードルールにはね、二通りの勝ち方があるわ」アリスはわたしの問いに答え、人差し指を立てる。「一つ目は攻撃によって相手のスペルが維持できなくなった場合、これをスペルブレイクと言うわ」それから次に中指。「二つ目はスペル展開時間一杯まで避けきったとき。普通は耐久型スペルという、一定時間相手の攻撃をかわし続けるよう強制するタイプのみで取るやり方なんだけどね。攻撃でブレイクできるならばそうしたほうが楽だし、アドバンテージを高めることができるから。でも今のメディスンに攻撃でのブレイクは難しいのよね?」

 わたしは頷いてから毒を固め、弾を一つだけ生み出す。だがこれを複数展開しようとするとたちまちぼやけてしまい、辺りが靄で隠れてしまう。

「これではそこいらにいる妖精以下ね。力はある、基礎も十分にあるからこつをつかめばすぐできるようになると思うんだけど。気体の毒を操る性質のためかしら、ままならないわね」わたしは散らばった毒を集め、体に戻す。何回か練習したけれどこつのようなものが降りてくることはなかった。「煙幕代わりに使えるけど、それはメディスンが乗じて攻撃する場合のみ有効だわ。しまったわね、森で戦うようにすれば良かった。そうすれば遮蔽物も相まってメディスンの有利になったのに」

 アリスはドーマウスに、わたしが卑怯でないことを証立てる場を用意しようとしている。だからどちらにしろ森で戦うことはできない。そしてわたしは自分が卑怯者であると認める気にはなれないのだった。

「わたしやってみる、それくらいできないと」

 アリスは少し迷ってから頷くと、空で待っているドーマウスのもとへ向かう。今度はわたしも迷わずついていった。

「おっ、ようやく来たな! で、スペルは何枚にする?」

「そのことなんだけど、彼女はスペルを持ってないの。まだ生まれたてだから」

「なるほど、だからわたしに勝つには卑怯なことをするしかなかったわけね」

「スペルは一枚のみ」アリスはドーマウスの話を聞かず、言葉を続ける。「撃ち落とせばチルノの勝ち、避けきることができればメディスンの勝ちよ。ただしメディスンには攻撃を認めない。一発でも撃てばその時点で負けを宣言し、更なる違反があった場合は容赦なく撃ち落とすわ」

「うーん、それはあたいにかなり有利な気がするけど」ドーマウスは毒を浴びせてきたと思っている相手に哀れみの目を向けてきた。「メディスンだっけ、お前それで本当に良いの?」

「それくらいしないと、わたしは卑怯者になってしまうわ」

 それでもドーマウスはそれで良いのか悩んでくれた。すぐに決めつけるし、わたしのことを馬鹿とも言うけれど少なくとも勝負という点では真摯なのだ。

「分かった。じゃあ始めるよ、準備は良いね!」わたしは拳を握り、ドーマウスをじっと見る。飛んでくる弾を一発たりとも見逃さないためだ。「これからとびきりの雹を降らしてやる、かわせるならかわしてみろ!」

 ドーマウスは両手を広げ、前に突き出す。結晶模様が手の中で青白く輝き、同時にとんでもない量の氷のつぶてが飛んできた。たちまちわたしの目前まで迫りついた弾はかわしたのではなく、運良く当たらなかっただけだ。その物量にわたしは圧倒されてしまっていた。アリスの叫び声が微かに聞こえ、わたしはやっと攻撃をかわさなければならないことを思い出す。こんなもの全ての弾を見てはいられない。こちらに迫ってくる弾だけをかわさなければならない。それはよく分かっていたのだが、視界一杯に動く氷つぶてがそれを許してくれなかった。おまけにドーマウスの攻撃はとても冷たい。当たらなくても側を通るだけで息が白くなり動きが鈍くなる。追える限りの攻撃は何とかかわしてきたけれど、その勢いも密度も徐々に濃くなっていく。ドーマウスに全ての弾をこちらに当てようとする気持ちがないのは助かるけど、それでも服に、剥き出しの頬に氷が掠っていく。わたしはまだまだ侮っていたのかもしれない。かわすだけがこんなにも辛いなんて思わなかったのだ。

 もっと見える目が欲しい。そう願うわたしをあざ笑うように、雹の一発が右足を抉るように掠め、激しい痛みとともにほとんど付け根まで凍っていく。冷たさは触れ続けると痛みになるのだとわたしは初めて知った。このままでは全身が凍らされ、今まで以上の痛みがやってくる。足一本でも痛いのに、全身だとどれだけ痛いのか想像したくもなかった。でもここで逃げるわけにはいかない。一番やってはならないのはここで逃げて卑怯者になることだからだ。

 わたしはもっと目に神経を集中する。痛くなるくらい見開き、気迫を前面に剥き出す。すると不思議なことが起きた。まるでわたしの気持ちに答えたように見えるようになったのだ。いけると思った。この遅さなら、どんなにゆっくり動いても大丈夫だと。だがそれ以上に体が動かず、わたしは左手に、続けて胸に被弾する。冷たさが一気に襲ってきたけれど先程と違って痛みはやってこなかった。ただ意識がぷつんと、張った糸を切るように、急速に緩んでしまったのだ。

 最後の記憶はわたしがゆっくり地上に落ちていく、浮遊とも落下ともつかない感覚だった。

 

 気がつくとわたしは柔らかい何かを下にして眠っていた。目を開くと、アリスとドーマウスの姿が一気に映ってしまい、少し目眩がしそうだった。何度か瞬きしてようやく、二人とも心配そうな顔をしているのだと分かるようになってきた。けど視界が靄というか、上手く見ていられない。そう、見ることが辛いのだ。もっと目が見えるようになるよう念じると、ようやくいつもの調子に戻ってきた。すると意識を失う直前までの記憶が一気に溢れ、わたしは小さく息をつこうとした。でもそんなことできなくて喉がつまるだけだった。

「わたし、負けちゃったのね」わたしはドーマウスのほうに焦点を定める。「つまりわたしは卑怯者だってことになるのかしら」

「いいや、そうは思わないね」ドーマウスはわたしを励ますようににこりと笑う。「卑怯な奴はこんなに見事に負けないよ。なんかこう嫌らしいことをしてくるんだ、白と黒の姿をした魔法使いみたいにね」

「そう、良かった」わたしは全身が動くことを確認してから立ち上がり、ドーマウスに頭を下げる。「でも、やっぱりわたしが悪いところもあるのよ。スーさんはわたしの言うことを訊いてくれるんだから。あなたを攻撃して欲しくないと本当に願っていたらやめてくれたはずなの」

「でも卑怯なことじゃない、なら良いよ」わたしにはいまいち納得できないところがあるけれど、ドーマウス的には気が晴れたらしい。やっぱりよく分からない相手だなと思う。妖精だからなのだろうか。「でもさ、コントロールできるならできるだけ早くして欲しいな、やっぱりあの靄はおっかないからさ。それに弾幕ごっこも早く覚えてよ。今度はもっとちゃんとした勝負がしたいから」

 わたしもできればそうしたかった。毒がちゃんと塊になってくれれば良いのだ。一つだけじゃなく、わたしの目の前を覆うよりも沢山……わたしは目を閉じ、そのイメージを何となく形にしようと試みる。直後、ドーマウスとアリスが同じような声をあげた。何事かと目を開け、すぐにその理由が分かった。思っていた通りの光景が目の前に広がっていたからだ。わたしは慌てて弾を引っ込め、必死で首を横に振る。どうしてこんなことができたのかわたしにすらよく分からないからだ。

「わたし、いま初めてできたのよ! でもどうしていきなり……」

「凍らせることで毒の動きが鈍くなったのかしら」アリスはメディスンの全身をじっくりと観察する。「そんなことはないわよね、念を入れて解凍したのだから。メディスン、あなたさっきの戦闘で何かあったの? 戦い方を思い出したとか、それ以外の記憶を取り戻したとか」

「ううん、そんなことはないと思う。ただ、足に弾を食らった直後から、ものがやけに遅く見えるようになったの。体はその通りに反応してくれなかったのだけど」

「ふむん、そういうことか」アリスは一人だけ分かったのか、自分の目をそっと指さす。「あなたほどの複雑な人形にどうして生き物らしい神経が通っているのか不思議だったんだけど、毒がその役目を果たしているのね。それを視力に一点集中したからものが急に見えるようになった。つまりある種のコントロールをしたわけ。おそらくそれは弾を生み出すより難しい技術なのね。だから弾幕をイメージ通りに展開することが無意識にできるようになったと考えられる」

「……もっと簡単に、三行で!」ドーマウスが頭を抱えて唸りながらわたしの言いたいことを完璧に代弁してくれた。「難しいことを難しいまま語るのは馬鹿だって誰かが言ってたぞ」

「次はちゃんとした勝負ができるということよ」アリスは一行でまとめてから、「でも今日は無理ね。凍らされたダメージが残っているはずだからまた次の機会に。この子はいつも鈴蘭畑にいるはずだから訪ねてあげて頂戴。この子には勝負勘をつける相手が必要なはずだから。最強のあなたならうってつけなのよ」

 ドーマウスは最強と口の中で呟き、胸を張って拳でどんと叩いた。

「いやー、そこまで言われるとなー。しょうがないなー、また勝負してやるかー!」

「うん、えっと……わたしからもお願いするわ」わたしは咄嗟に右手を差し出す。次に会う約束をした相手にはそうするものだという思いが不意に湧き上がってきたからだ。「また、会いましょう」

「おう!」ドーマウスは迷うことなくわたしの手を握り、ぶんぶんと振り回す。「じゃあ、気分が晴れたからあたいは帰るぞ。次もまた正々堂々と勝負だ!」

 わたしの手を離すと、ドーマウスはぱたぱたと森の上を抜けていく。ここからでは空が見えないから、彼女がどこに帰って行くのかは分からずじまいだった。わたしは不安になり、考えていたことをつい口にしてしまった。

「本当にまた来てくれるかな?」

「妖精は気紛れだから分からないわね。でもあの子、勝負事にだけは目聡いからきっとまた来てくれるわ」

 それを訊いてわたしは安心する。同時に体の力が抜け、アリスによりかかってしまった。

「なんかすっごい疲れてる。体が冷たくなったからかな」

「それもあるけど力を使い過ぎたのかもね」アリスは背を向けてしゃがみ込むと、負ぶさるようわたしに求めてくる。「肩につかまる力もないのかしら」

 わたしは何も言わずアリスの肩にしがみつく。ふわっとして、ちょっとだけごつごつで、何だか無性に懐かしかった。アリスのような相手にわたしは同じようなことをしてもらった……そんな気がするのだ。わたしはアリスの耳元にそっと囁く。

「ありがとう。わたし……」アリスにはためになることを聞かせてくれるとか、戦い方を教えてくれるとか、そういうの抜きでも側にいて欲しいなと思う。だけど上手く言葉にできなかった。「とにかくありがとう」

「とにかくってぞんざいねえ、でもまあ一つ進歩したとしましょうか」

 小さく笑い声を立てながら、アリスはドーマウスと同じように上空へ抜ける。鈴蘭畑まではこれまでの冒険が嘘かというくらいあっという間だった。

 アリスに寝かされて鈴蘭の上に横たわると、すぐに辺りからスーさんが集まってきて、すると重たいばかりだった体があっという間に軽くなってくれた。何でもないように立ち上がると、アリスは今日何度目かの驚きを見せた。

「甘えるためにわざと弱々しい振りをしたってわけじゃないのね。毒があらゆる面でメディスンの力だってことなのかしら」

 よく分からないけれど、スーさんがわたしに力をくれるというのは確からしい。こんなにもはっきりと回復したのだから。そのことをアリスに見せるため、わたしは空に何もいないことを十分に確認してから、毒を弾に固めて一気に展開して放つ。上手くいったと思ったが、きちんと固めきれなかったのか途中で紫の靄に変わりながらぼんやりと消えていった。近距離で戦うならばともかく、遠くの相手を狙い撃つにはまだまだ腕が足りないらしい。

「凄いじゃない、昼間の弱々しい顔が嘘みたいだわ」しかしアリスはわたしの進歩を、目映い笑顔で誉めてくれた。「あとは慣れと練習ね。この調子ならばスペルカードを使える日もそう遠くはないわ」

「スペルカードというのは、ドーマウスが使ってきたものよね」確か六角形の青白く輝くマークだったはずだ。「アリスも使えるの?」

「わたしの場合はこれね」アリスは指を鳴らし、虚空から藍色の文字がびっしり書かれた紙切れを呼び出す。「スペルカードには大別して二種類あるの。チルノのようにその能力を司る物質とマークで綴る場合。これは属性を押すタイプの妖怪や、またリテラシーの低い妖精全般に多いパターンね。メディスンもそういうおそらくタイプでしょう。毒で構築されるスペルカードというわけ」

 わたしは毒を指先に集め、文字になるように動かしていく。Poison、Medicine、Melancholy、Ache、Flower、Gass、Garden……しかしアリスの人形やチルノの雹みたいな反応は生まれることなく、文字はすぐに崩れてしまった。

「単語だけでは駄目、きちんとした意味を作らないと。でも文字を綴ることができるというのは大きな利点だわ」アリスは手持ちのスペルカードをわたしに手渡してくる。「スペルカードは己の意味や属性を込めるもの。そうしたものを表現するのに最も長けたツールはやはり言葉なの。だから己の属性を強く自覚している妖怪でも、ある程度のステータスを保持しているものは紙に文字を認めたカードを使ってくるわ。もしメディスンが突然に勝負を挑まれたならば、紙と言葉でできたスペルカードを持っているかどうか十分に気をつけること。もし持っているならば、ほぼ例外なく強い相手か曲者よ」

「アリスはどっちなの? やっぱり強い方なのかな?」

 わたしでは歯が立たなかったドーマウスを軽くあしらうのだからそうだろうと思ったし、アリスは手に胸を当てて得意げな笑みを浮かべた。

「わたしは強いわ、でも曲者と言ってもらえるほうが好きね。わたしは人形遣いであり、曲芸師であると自負しているから」

 その透き通るような声はしかし、ただ一語だけを残してかき消えていく。

 人形遣い。

 わたしの頭をおぞましい記憶が駆けていく。仮面を被った医者にナイフを操る小人、双子の剣士に猿面の男、そしてその全てを糸で操る怪人。サーカスの化け物たちの頭領、それこそが人形遣いだ。そいつはわたしの大事なものを次々に叩き潰していった。まずは母を、そして次に母を、それからああ、その次は……。

「メディスン、どうしたの? 妙な顔をしてカードをじっと見て……ああ、そうか!」ああ、そして最大の、耐え難い痛みがやってくる。わたし、いやわたしたちは、心を裂かれ、供物として散り散りになり、すり潰されて……。「さっきのスペルをもう一度見たいのね」

 わたしの手から紙切れを取ると、アリスは呪を紡ぐ。人形遣いのように。すると彼女の周りを同じ顔の、十二体の人形が取り囲む。わたしが目を凝らすと、ああ! そこには人形たちを操る無慈悲な糸がかかっているではないか!

 わたしは両手を前に突き出す。スーさんを一気に絞り出し、毒の靄で文字を書く。Poison……毒。わたしは毒を吐くもの、それがつまりわたしのことだ。その意味をもってわたしは人形遣いを倒さなければならない。何故ならば人形遣いはわたしからあらゆるものを奪い、淑女としての誇りを傷つけたからだ。わたしはPoison Breathと宣言し、力を一気に前へ押し出す。わたしの口から大量に紫の靄が立ち、弾を半ば覆い隠しながら人形遣いに飛びかかる。ドーマウスの雹に負けない量だったし距離も近かったから絶対に倒したと思った。でも靄が晴れてみるとアリスは何事もなかったように無事だし、十一体の人形が側に……あれ、残りの一体はどうしたんだろう?

「メディスン、いきなりどうしたの?」アリスがなおもこちらに近づこうとするので、わたしはかざした手に再び力を集める。「スペルの練習をしたいならそう言ってくれれば……」

「煩い、この人形遣いめ!」わたしは怒りと軽蔑をアリスに叩きつける。「わたしはお前みたいな奴を絶対に許さないんだから!」

 人形遣いが憎かった。視界に移るのが、存在することさえ嫌だった。そのためにはもっとスーさんを集めないといけない。

「待って、わたしは確かに人形遣いよ。でも隠してたわけじゃないし、メディスンを酷い目に遭わせるつもりなんて……」

「近づくなあっ!」わたしは再び毒の吐息を吹き、塊と一緒に撃ち出す。だが最初ほどの威力はなく、アリスは最小限の動きだけで難なくかわしてしまう。今日身につけた力はしかし、まるで通じないのだ。それでもわたしはアリスを攻撃しなければならない。人形遣いは敵だ。人形の敵だから、何よりもわたしの敵だから。「アリスは仲間だって思ってた。それなのに人形遣いだったなんて! よくも、この!」

 汚い言葉をぶつけてやりたいのに出てこない。頭の悪さが呪わしいほどだった。

「やめて! わたし、わたしはメディスンと……」

「お願いだから喋らないで!」わたしは体を巡る力に命じる。毒よ、集まれ。全てをアリスにぶつけるために、苦しませてやるために。わたしはPoison for Melancholyと宣言し、全てをもって狙い撃つ。だがアリスに付き従う十一体の人形が渾身のスペルをあっという間に相殺し、壊していく。それでいてアリスはこちらに一発の攻撃も当ててこない。侮られているにも程があった。「なんでよ、なんで……」

 どうしていつも幸福な時に人形遣いが現れて不幸にしていくのか。不幸……不幸とは何だっただろう。さっき一度に思い出せたような気がするのに、今ではまたもやもやしている。力を一気に使ったせいなのかは分からない。だからいまわたしの中にあるのは名もなき怒りと、そして両手一杯の屈辱だった。

「どっか行って。きらい、きらい!」わたしは少しだけ迷ったけれど、これを言わなければ気が済まなかった。「アリスなんてだいきらい!」

 わたしの言葉に、何をしても涼しそうだったアリスの顔が酷く歪む。何か言おうと口を開き、しかし何事も表すことなく背を向け、あっさりと飛び去っていく。ようやく一矢報いたという気持ちはしかし、すぐに萎んでいく。憎いどころかアリスのしてくれたことの全てが次々と浮かんできて止まらない。わたしはもう少しで口にするところだった。さっきのはなしと、嫌いなんかじゃないと。でも見える範囲にアリスはいなくて、わたしはだから黙ったまま視線を下ろす。そして側に一体の人形が落ちていることに気付いた。

 そこでわたしは過ちに気付いた。アリスは身を守るために人形たちを盾に使うに決まっていたからだ。それなのに考えなしに攻撃してしまった。そのことを悔やみながらしかし、少しの反発も覚えていた。どうして人形なのに揃いも揃って人形遣いに従っているのか。わたしはすくうようにしてアリスの置き土産を手に取る。揺すっても撫でてもアリスから切り離された人形は動こうとしない。

「どうして動かないの?」人形ならばわたしと同じように動いて良いはずなのに。もしかして糸で操らなければならない体にされてしまったのだろうか。「ねえ、あなた人形遣いから離れることができたのよ? だからもう従う振りなんて良いの。起きて頂戴、ねえ!」

 わたしは人形を両手で持ち上げ、天に掲げる。動けと一心に念じながら。すると体を伝い、紫の靄が人形に流れ込んでいく。もしかするとわたしと同じようにスーさんが、動くための力を分けてくれるのかもしれない。その光景をぼんやり眺めながら、わたしはもう一度動けと念じる。最初はぴくりともしなかったが、やがて全身が微かに震え出し、辿々しく左右を見回す。それはわたしの手から飛び出し、鈴蘭畑に着地するとスカートの裾を摘み、行儀良くお辞儀する。ふわりと浮き、しばらく頭の上をうろうろしていたが、やがて右肩に止まり、足をじたばたさせた。

「良かった、動けるようになって!」わたしは左手を前に回し、人形の頭をぎこちなく撫でる。アリスがわたしにしてくれたように……その考えをわたしは慌てて捨てる。「わたしはメディスン・メランコリー。あなたは?」

 しかし人形は返事をしようとしない。喋ることができないようだ。口は動くようにできているのだけど、ぱくぱくするだけだ。まだ幼いのか、それともアリスに酷使されたせいで喋ることができないのかもしれない。だとしたら許し難いことだ。

 初めての仲間ができたのに、だからわたしはあまり喜べなかった。わたしたち……いや、わたし。わたしとこの人形で、わたしなのだ。わたしはアリスが最初の仲間であって欲しかった。人形遣いには激しい憎悪を感じるけれど、そのたびに優しい言葉や態度が鮮やかに蘇ってくる。そもそも、わたしはどうして人形遣いが嫌なのだろうか。先程まで自明だと思っていたのに、今はあまりにも思い出せない。ただ人形遣いについて考えると、すぐに怒りで胸が一杯になるからというだけだ。それだけでは十分ではないのだろうか?

 考えることが億劫になり、わたしは鈴蘭畑の上に腰掛ける。肩の人形が横になったので、わたしも同じようにして横になり、体をぎゅっと縮こまらせる。こうしていると何故か落ち着いたからだ。

 力を使いすぎたせいか、色々な感情に襲われたせいか、急激な眠気がやってくる。わたしは、わたしの縁となるようなことを思い浮かべようとした。何もしないでいるとふわふわのばらばらになりそうだったからだ。

 でも眠る直前にわたしが思い浮かべたのは、満面の笑みを浮かべるアリスの姿だった。