かつての日本には北から南にまであらゆる場所に人間が住んでいた。最盛期には一億を越える人口を有していたと言うから、それだけの余裕があったのだろう。周りの景色から明らかに浮いたぴかぴかの道路を走る車の窓から見えるのは、正にその名残といって良い光景だった。
風雨に曝され朽ちた住宅、商業ビル、工場。もはやその痕跡を探すことすら難しい、草ぼうぼうの耕作地。どこまで北に向かってもあるのはかつての生活の名残のみだ。いい加減飽き飽きしてしまい、散々調べた目的地の情報をもう一度確認しようと、サインを描いてディスプレイを呼び出す。そしてすぐに後悔した。
胃がむかむかして気分が悪くなってきたのだ。明らかな乗り物酔いだった。そのことを告げると車は道路の端に停まり、乗り物酔いに効く呼吸の仕方、緊張をほぐすための軽い運動などを、辿々しい機械音で次々と教えてくれた。途中で打ち切って外に出るとわたしは草むらに体を投げ出し、顔を埋める。東京では決して味わうことのできない、濃い植物の香り。
かつて人類が有し、未だに取り戻せないでいる豊かな自然に包まれていた。震えるほどの開放感が突如として体を満たし、わたしは思わず大声で叫ぶ。胸の内からこみ上げてくる強い感情をいなしたかった。
自分であげた声なのに耳が少し痛くなり、慌てて仰向けになり、空を見上げる。夏の日差しが驚くほどに目映く、痛みを覚えるほどだった。東京にも同じ太陽が出ていたはずなのに、いまわたしを照らす陽の光は生のまま、剥き出しの裸だという気がした。
「馬鹿みたい……」思考と裏腹に思わずそう呟いていた。そして実際に馬鹿な思いつきだった。太陽が目映いのは莫大な核融合反応によって熱と光を発し続けているからだ。それ以上の意味はない。「東京で見る太陽と何も変わらないのよ」
宣言すると太陽の光はちっとも気にならなくなった。気分の悪さも収まってきたので車内に戻り、目的地に向かうよう指示を出す。
少し進んだところで車内ナビが「車窓から外を眺めるのは乗り物酔いに効果があります」と勧めて来る。渋々従ってはみたものの、わたしの目に入って来るのは相変わらず寂れた町並みや田畑のみであった。退屈でつい欠伸が出てしまい、眠たくなってきた。シートを下げますかと訊かれたのでぼんやりとした意識の中でうんと答え、少しだけ丸くなって目を閉じた。
がたがたと揺れる音で目が覚め、シートを戻してけだるい体をうんと伸ばし、それから窓の外を見る。車はぼうぼうとした草だらけのでこぼこな道をがたごと言わせながら走っていた。現在地を確認するとあと五分ほどで目的地となる旧遠野駅に辿り着くらしい。前世紀には一時間から二時間に一度ほど細々と電車が走っていたらしく、遠目には微かに線路の跡らしきものが見える。そちらも草が生い茂っており、線路そのものは見えなかったけれど、時折目に映る遮断機のお陰でそうだと分かった。
いよいよ目的地に到着すると思うだけで少し緊張してきた。しかもわたしがこれから暮らすのはあの宇佐見菫子の家なのだ。挨拶をして、それから自己紹介をして、ここに来た目的を話す。愚かな子供だと見られることだけは絶対に避けなければならない。何事も最初が肝心なのだから。上手くいけば自然とわたしの眼について話す機会も出てくるだろう。
もう少し走ると徐々に揺れが収まり、前方に大きな建物が見えて来た。廃墟の類でないことは、清潔な外装や周りに瓦礫やごみが散らばっていないことからはっきりと分かる。車が速度を落とし始めた頃にはどういう建物なのかはっきりと分かっていた。
東京ではすっかり見かけなくなった瓦葺きの屋根、横にぐんと広い二階建ての建物で、入口となる両開きの扉の上部には遠野駅と描かれた看板が掲げられていた。
元からの建物を改築したのか、それとも廃線に伴い新しく建て直したのか、どちらにしても非常に風変わりで独特な発想であり、持ち主の性格を誰が語ることもなく示しているように思えた。
車から降り、荷物を下ろすと、両腕にずしんと力がかかる。肩にひっかけてよろよろ歩きながら、ママが鞄を軽々持ち上げていたことを思い出す。体育の成績も上から数えたほうが早いはずなのだが、この小さい体は頭ほどには働いてくれないらしい。じりじりとした太陽と相俟って、立っているだけでも酷く辛かった。
何とかドアの前まで立つと荷物を置き、サインを描いて仮想コンソールを呼び出す。警備システムの情報と接続、宇佐見蓮子には家人の安否と在宅を伝える権限が与えられており、宇佐見菫子の在宅を伝えてきた。呼び出しますかのダイアログにしばし逡巡したのち、イエスをタッチする。
その直後にドアが開き、中から人が出てきた。余所の家を訪ねたとき、いつも数十秒はかかるものだから待ち構えていたかのように姿を現したことに不覚ながらも面食らってしまった。
ネットに掲載されていた画像と変わらぬ容姿、服装だった。一つだけ異なる点があるとすれば、奇妙なデザインのマントは身に着けていなかった。あんな暑苦しいものを、いかに空調が効いた室内といえど、夏場に着て歩いたりはしないのだろう。
それにしても、この容姿で百歳を過ぎているというのは予め知っていたとしてもやはり面食らってしまう。抗年齢化処理の発達によって六十、七十でもママと変わらないくらいに若く見える年輩の方もいるし、医療の発展で末期癌までもが治療の対象となった昨今、百過ぎまで生きる老人もそこまで珍しくはない。それでも加齢は徐々に忍び寄り、不可逆的な影響を与えるはずだ。それなのに彼女はとても若々しく、年をまるで感じさせない。老眼でもないのに眼鏡をかけているのだけが変てこだなと思った。
「挨拶よりもまず観察なのね」
「あっ、その、すいません」不躾であることを指摘されたと思い、慌てて頭を下げる。「わたし、宇佐見蓮子と言います。今日からお世話に……」
「知ってるわ」遠慮なく会話を遮ると、宇佐見菫子はわたしの写真データとパーソナルデータが表示された画面を呼び出した。「わたしの血縁なんですってね。連絡をくれた人が、この子はいずれ貴方のような天才になる人だから大事にしてやって欲しいと、随分熱っぽく伝えてきたのよ。でも案外普通なのね」
わたしを容赦なく見下ろし、馬鹿にしているのが一目で分かる笑顔だった。なんて大人気ないことをするやつなんだと、柄にもなく怒りが湧いてきた。
「いま大人気ない真似をするなって思ったでしょう?」
図星をつかれ、思わず息を飲む。こうもあっさりと思考を誘導されて恥ずかしいことこの上なかった。
「恥じらいの態度」そしてそれすらもあっさりと読まれてしまった。「貴方はプライドが高いのね。しかもへし折られたことが一度もないから天狗のように鼻が伸びきってしまっている。それでいて内罰的で己を省みるところもある。しかも、なんとかわたしに一矢報いてやろうと考えているみたい」
思ってもみないことを指摘され、思わず目尻の辺りを手で触る。険しくなっていたり、力を込めていたりはしていない。彼女は何を見て、攻撃的だと判断したのだろうか。
「呼吸の間隔、全身の細かな緊張と震え、何よりも鼻息が随分と荒くなっている」
慌てて鼻をつまみ、するとどんどん息苦しくなって慌てて離す。彼女はそんなわたしを見てぷっと吹き出し、それから担ぐだけで精一杯だった荷物をひょいと持ちあげた。
「今日から寝泊まりする部屋を案内してあげる、付いてきなさい。荷ほどきが終わったら家の中を色々と見せてあげるから……あっ、そうだ」彼女は顔だけこちらを振り返り、器用に片目を瞑って見せた。「貴方のことは蓮子と呼ぶわ。わたしのことも菫子と呼んで頂戴」
「分かりました。菫子、さん」
菫子さんはくすりと笑ってから、荷物を肩に先々と歩いていく。わたしは慌てて後を追い、遠野駅と表されたその家に上がるのだった。
駅舎を模したといっても内装は普通の住居と同じで、玄関では靴を脱ぐようになっており、床は木材の板張りで、わたしの家とほとんど変わらなかった。変わっていたのは部屋と部屋を分ける壁が全くなく、敷居や調度品、ソファやテーブルなどを上手く置いて生活空間を演出しているという点だった。部屋の隅では円形のロボットクリーナーがのろのろと動いており、まるで亀のようだった。
「随分と旧い型でしょう?」
掃除機を目で追っているのを見て、菫子さんはひょいと肩を竦める。表情だけでなくジェスチャーも豊富らしい。
「それは気にならないですけど、円形だと端のほうにごみが残りませんか?」
「それが良いのよ」
わたしには何が良いか分からなかった。菫子さんの中にはわたしに追いきれない心の動きや頭の働きがあるらしい。だが菫子さんはそれを説明することなく玄関正面、二階へと通じる階段をのぼっていく。一階と異なり、奥まで続く廊下には明るさを抑えた赤色のカーペットが敷いてあり、左右は白い壁で仕切られていて、十を超えるドアが等間隔に備え付けられていた。
「まるでホテルのようですね」
どのドアにも三桁の番号が振ってあり、だからついそんなことを口にしてしまったのだが、菫子さんはよろしいとばかりに頷くのだった。
「遠野駅の駅舎はかつて、二階がホテルになっていたらしいの。面白い趣向だったから再現させたってところね。まあ泊まり客なんて滅多に来ないのだけど」
菫子さんは右手の手前から二番目、二一五号室の鍵を開けた。
「一番手前じゃないんですね」何気なく言ったことだったが、菫子さんは何故か一瞬だけ驚いて見せた。「もしかして、他に誰か泊まっていたりします?」
「いや、ここにいるのはわたしと蓮子だけね。でも良い線は行ってる。こんな場所にも訪問客はいるのよ」
こんなところを訪ねてくるのだとしたらどんな人間なのだろう。わたしと同じで何のしがらみもない土地が必要なのだろうか。それとも古くからの知り合いだったりするのだろうか。百歳を越えているのだからわたしの与り知らぬ交友関係はいくらでもありそうだった。
室内にはベッド、クロゼット、大きな鏡のついた書き物机が所狭しと置かれてあり、個人のスペースとなる余裕はあまりなかった。わたしの自室に比べると半分くらいの広さしかない。
「わたしは下に戻るから、荷ほどきが終わったら声をかけて頂戴。もうすぐ夕刻だし、少し早いけど食事にしましょう。それとも両親がいないから鬼の居ぬ間にと、車内で美味しいお菓子をたらふく食べたりしたのかしら?」
「乗り物酔いで食欲が湧かなくて、半分以上は寝てました」
「あらあら、結構繊細なのね。それならお腹は空いてない? 夕食はもう少しあとにしたほうが良いかしら?」
「いえ、大分すっきりしてきましたし、今は少しお腹も空いてます」
「了解。では腕によりをかけましょう」
「腕によりをってことは……自炊なんですか?」
「いつもは違うけどね。月に一度、生活必需品が届けられるから不自由はないのだけど、それだと生活に張りがないでしょう? 折角身につけた料理の腕を錆びつかせるのもなんだし、たまにはね」
腕を曲げて力を込めると少しだけこぶができた。全体的に細身だけど、最低限は鍛えているらしい。
「疲れているなら少し休んでも良いわよ。その場合は起こしに行くから」
「いえ、大丈夫です!」
今日会ったばかりの人であり、しかもあの宇佐見菫子なのだ。そんな相手に家族のように起こしてもらうだなんていくらなんでも不躾に過ぎる。力を込めて言うと菫子さんは砕けた笑みを浮かべ「分かった、じゃあ待ってるわね」と残し、部屋を出て行った。
わたしは早速荷物をほどき、鞄にぎっしり詰め込まれていた洋服をクロゼットにかけ、下着やタオルを下段のタンスにしまった。こんなに重たい荷物、一体何が入っているのかと思ったら九割近くが衣類だった。あとは歯ブラシ、歯磨き粉、コップに櫛、ドライヤーにヘアバンド、そして綺麗に包装された四角い箱。
お土産を渡すのを忘れていた。緊張していたとはいえ頼まれごとがすっかり頭から抜けていたなんて迂闊にもほどがある。
居た堪れなくなってついベッドに飛び込み、顔を埋める。なんだか奇妙な感触だった。体に微妙にフィットしないというか、ちぐはぐというか。体を動かして揺らしてみるとその特徴は明らかだった。もしかすると他の内装や調度品と同じくらい古いベッドなのかもしれない。確か昔のベッドは単純なスプリングを内蔵しているだけで、体重移動に合わせて自動的に硬軟を調節するなんてことはできなかったはずだ。
「こんなベッドでゆっくりと休めるのかな?」
あっちにごろごろこっちにごろごろ、やはり微妙に落ち着かない。大の字で仰向けになり、天井に視線を向けて思わずぎょっとした。奇妙な色合いの虫が天井の隅っこ辺りに浮いていたからだ。すぐに虫ではなく蜘蛛だと気付いたけど、それでも驚きは隠せなかった。東京でも見かけることはあったけれど、室内まで上がり込んだのを目撃するなんて初めてだった。東京ではほとんどの家が虫除けの仕組みを備えているから、そのようなことは起こらないのだ。菫子さんはこんな所に一人で住めるような特別なのだが、虫を気にしないのだろうか。そう言えば昔は家に虫が上がり込むのもごく普通のことだったと聞いたことがある。ならばおそらくは平気なのだろう。
室内に巣を張った蜘蛛に興味が湧いて、動きを観察してみようとしたがほとんど動こうとしない。粘着性の高い白い糸で巣を張り、獲物を待ち構える生き物だからじっとするのに慣れているのかもしれない。
あまりに退屈でつい欠伸が出る。体をきちんと支えてくれないベッドにも慣れてきて……。
激しい揺れが体を襲い、慌てて目を開く。地震なのだとしたら避難しなければならないと思ったのだが、揺れの原因はわたしの視界一杯に広がっていた。
「やっと起きたかい、ねぼすけちゃん」菫子さんはわたしが目を覚ましたと知り、肩を揺するのをやめて距離を取る。ゆっくりと体を起こしてから頭を振ると少しだけはっきりと考えられるようになった。途端に顔が赤くなる。準備ができたらすぐ下りると言ったのに、すっかり眠りこけてしまったのだと気付いたからだ。部屋にはいつの間にか明かりが点いており、外は完全に真っ暗だった。「結構疲れていたのね。起こすにはしのびなかったけど、食事の準備もできたし、あまり昼寝し過ぎると夜眠れなくなってしまうから」
時間を確認するともう少しで八時になるところだった。七時五十……分くらい。窓越しなのと頭がぼんやりしているせいで星を見ても上手く時間が視られない。ここに着いたのが夕方の四時過ぎだったから四時間近くも眠ってしまったことになる。車内でも結構寝たはずなのに、今日は眠ってばかりだ。
「そんなにしょげなくても良いって。それに睡眠がままならないのは脳への負荷を軽くするために調整機能の大半がカットされているからでしょう?」
説明されれば納得もできるのだが、システムの補助なしでは日常すらままならないのはどうにも心地が悪い。
「ここには学校も、試験も何にもないの。だから好きな時に眠くなっても良いし、夜中に起き出して墓場で踊っても良いのよ」
半分くらい訳が分からなかったけれど、要するに好きにすれば良いと言うことなのだろう。わたしを管理しようという気がまるでない。鷹揚なのか横着者なのか、それとも口ではあれこれ言っていてもやはりわたしのことを面倒臭いと思っているのだろうか。
「そう不貞腐れないの。面倒だと思ってるわけじゃないわ」またしても考えていることを読み取られた。「不思議な顔をしないの。子供なのだから分かりやすくて当然じゃない」
これまで何を考えているのか分からないと言われたことなら何度かあるけれど、分かりやすいと言われたのは初めてだった。そっと鏡を覗き込んでみたけれど、表情のないわたしの顔が映し出されただけだ。他人が同じ顔をしていたら、きっと何を考えているのか分からないだろう。先程は無意識に現れたものを頼りにしたと言ったけれど、本当なのだろうか。
「疑わしいと思ってるわね? もしかするとあの力を使っているのかもしれない、とも考えているのかしら?」
「使っているのだとしたら、悪趣味だなと思います」
挑むように菫子さんの顔をじっと見たけれど、つかみどころのない笑顔を浮かべるだけだった。表情があるけれど、それでいて何を考えているのかさっぱり分からない。パパも似たようなところはあるけれど菫子さんは更に読めない人だった。
「もしも心が読めるのだとしたら、蓮子はわたしのことどう思う?」
いきなりそんなことを訊かれ、思わず胸に手を当てる。ものを考えるのは脳なのに。そもそも心を読めるならば手で一ヶ所を押さえただけで防げるはずもない。
「そんなことをしても無駄だよお」
からかうような口調で、急に腹立たしくなって。わたしは心の中に悪口を浮かべた。
菫子さんの馬鹿! 意地悪! 変てこ眼鏡!
「わたしのことを悪く思ってるような顔だね。意地悪だとでも思ったかしら?」
「はい、それに変てこ眼鏡だとも」
はっきり言ってやると菫子さんの表情が固まり、目を何度もぱちぱちさせた。それから火が付いたようにけらけらと笑い始めた。あまりに激しくて呆気に取られそうになったけれど、すんでのところであることに気付いた。変てこ眼鏡がそんなに可笑しいことで、菫子さんが心を読めるならば、思い浮かべた直後に笑い始めたはずだ。それなのに菫子さんはわたしから直接そのことを聞くまでちっとも反応しなかった。つまり心なんて読んでないのだ。
菫子さんは一頻り爆笑したのち、わたしの顔を見て大きく息をついた。もう迷っていないことに気付いたのだろう。
「完全にばれてしまってるなあ。一度の反応をきちんと見逃さない。聡いし、目が良いね」
目が良いというのは、ちゃんと見ているという意味のはずだ。それなのに少しだけどきりとしてしまった。
菫子さんは不自然な反応を特に指摘することもなく、机の上に置いていたお土産物の箱にひょいと手を取った。
「ありがたく頂戴するわ。さあ、夕食にしましょう。きっと驚くに違いないから」
菫子さんは箱を胸に抱えたまま部屋を出る。わたしはルームキーを手に取り、部屋のドアを閉じるとしっかり鍵をかけた。かちり、という音が少しだけ心地良かった。
一階に下りるとすぐ、鼻をくすぐる強い臭いが漂ってきた。
広い部屋の中央付近にはガラス張りの円形テーブルが置いてあり、そこに二人分の料理が並んでいた。レトルトの容器ではなくて色とりどりの皿に盛り付けてあるということは手料理なのだろう。それにしてもこの臭いは一体何なんだろう。
側に寄って見てその理由がよく分かった。長方形の皿に乗せられているのは図鑑でだけ見られる形をした魚だった。合成品ではなくて天然の魚を焼いたのだ。おそらく近くの川で泳いでいるのをどうにかして釣って来たに違いない。だから臭いがきついのだ。
不揃いな切り口の野菜がごろごろとした煮物も材料はおそらく畑で採れたものなのだろう。菫子さんは透明な板で仕切られた台所に入り、ごはんと味噌汁を二人分、お盆に乗せて戻って来る。それらにもはっきりした臭いがあった。
「ん、どうしたの? 天然物は珍しいだろうなと思って取り揃えたのに。自然の魚ってもしかして初めて?」
菫子さんは動揺の意味を大きく取り違えていた。本物の魚を見た驚きも確かにあったのだけど……やはり彼女に読心能力はないらしい。
「朝早くから日焼け止めを塗って、釣り具一式を背負ってさ。日が昇りきるまで釣果がなかったからボウズもやむなしかと覚悟したけれど、結果はご覧の通りでね」
得意げに語る菫子さんの厚意を無碍にするのもはばかられ、臭いを堪えて箸で身をほぐし、そっと口にする。味が薄く、塩だけが妙にきつく、舌を抉るような不快感もある。表情には出さないようにしたが自分でも顔をしかめているのが分かるくらいだから菫子さんもすぐに察したのだろう。楽しそうな顔がみるみる曇っていった。
「うーん、お気に召さなかった? 確かに料理はあまり得意ではないのだけど」
「いえ、そういうことじゃないんです。わたし側の問題かと」
本来の魚はこういう味なのだ。旨味だけではなく色々な味が絡み合って複雑な刺激を形成する。だが旨味以外に慣れていないわたしの舌では塩の強さも微かな苦味も過剰に受け取ってしまう。理屈では分かっていても、きついことに変わりはなかった。
「ああ、最近の子はこれでも駄目なのか。どうする? 配給食のストックも一杯あるから、今から温めてあげようか?」
「いえ、駄目なわけではないんです。自然の食べ物にも興味はあります」びっくりはしたが、まずいとは感じなかった。それに興味があるのは本当だ。「美味しいという顔をできないのはごめんなさい」
菫子さんは大変失礼な言い方にもにへらと相好を崩すだけだった。
「こっちこそ気が利かないというか、知識が古くて申し訳ないわ。こんな所に一人暮らしだと子供に接する機会がないのよね。生活に潤いが足りないと言うべきか」菫子さんは頬に手を当て、小さく息をつく。「そういう意味でも蓮子がここに来てくれたのはわたしにとってありがたいのよ」
そういう意味でもと言うことは、何か別の意図も持っているのだろうか。単なる言葉の綾なのかそれともと気にはなったけれど、今は問い質すよりも暖かいうちに食事をいただくのが良いだろう。再び箸をつかみ、今度は煮物のほうに手を伸ばす。いつも口にする野菜にはない独特の甘みに、魚とはまた異なる苦味があったけれど、濃い味付けのお陰で多少和らいでおり、食べられないでもなかった。舌休めを求めて白いご飯を一口、こちらはいつも食べるものと変わらないようだ。そして最後に味噌汁だが、旨味と塩味が暴力的と言えるほど濃く絡まっていて、一口でむせそうになってしまった。
なんという刺激の強い食事なのだろうか。昔の人は皆、こんなにも忙しない味の食事を摂っていたのか。果たして体に悪影響はなかったのだろうか。
「これ、菫子さんの体に合わせた味付けじゃないですよね?」
「至って健康的な献立のはずなんだけどね。いや、蓮子の言いたいことは分かるけど。こんな体だからわざと傷つけるようなことをやっているのかと疑ったのでしょう? 流石に先の長い若者にそんな料理を振る舞ったりはしないから」
完全には信じられなかったけれど、体調管理ソフトは警告どころか注意すら出していない。ということはおそらく菫子さんの言い分が正しいのだ。
「最近の子供はそこまで刺激物から遠ざけられているのね。これじゃお茶やコーヒーなんて口にしたら目を白黒させるんじゃない?」
「実際にそうなりました……」パパのコーヒーを一度間違って飲んだことがあるのだけど、あまりの苦さに舌がぴりぴりしてしまった。それだけでなく少しの間、気持ち悪さにも似た妙な感覚にとらわれたのだ。「カフェインは体に悪影響を与える恐れがありますという警告がそれはもううるさくて」
「そんなもの切ってしまえば……いや、まだ子供だから無理なのか。大人になってアラートを切れるようになれば嗜好品も楽しめるのにね。蓮子の場合はあと一年半だっけ?」
大人とは正確には初等教育を修了した者を指す。昔は法律によって二十歳だったり十八歳だったりまちまちだけど今はそう統一されている。卒業すれば嗜好品と呼ばれる、体に害があるとされる食品を口にしてもうるさく言われないし、ある種の秘匿性、個人性も認められる。逆に言えば大人になるまでの人間は、少なくとも今の法律では個人扱いされない。両親が育てるけれど、一種の共有財産に近い。国の未来を作る貴重品というわけだ。
「保護者の許可があれば大丈夫だから、今のわたしなら何度か目零ししてあげられるけど」
「今は良いです。もしかしたら欲しくなるかもしれないですけど」
「お茶の淹れ方には少しだけ自信があるし、定期的に届けさせているから欲しければいつでも言って頂戴。良いコーヒーはもう大分前に切らしてしまって臭いもない、苦味も控えめ、ノンカフェインのものしかないけど。昔はお茶と一緒で届けさせてたんだけど、うちに荷物を届けに来るやつが頭かちかちの反コーヒー主義者でね。毎回毎回、コーヒーは体に悪いからやめろとか、その害悪についてねちねちと語るのよ。わたしの体をなんだと思ってるのかしら」
そこまで話して愚痴が過ぎたと思ったのだろう。わざとらしく咳払いしてから、菫子さんは箸が止まっていることに気付き食事を促してくる。本当に今日の夕食は未知の味との格闘であり、しかし実際には過去が凝縮されたものなのだ。
気合を入れて箸を握り直し、交互に少しずつ口にする。最初はきついなと思っていた苦さや塩気も、不思議なもので少しずつ味わえるようになってきた。それでもひっきりなしに水を飲んで口の中を薄めないといけなかったけど。
ごちそうさまと手を合わせてから菫子さんのお皿を見ると、魚は骨だけになっていて、他の皿やお椀も既に空っぽだった。わたしも結構頑張ったけど、食べ終えたはずの魚には身がところどころ付いていて、骨の周りにぽろぽろと零れていた。
「片付けが終わったら家の中を案内するとしましょう。といっても二階はどれも同じ部屋だから案内してもしょうがないし、あとは一階の部屋が三つだけね」
そう言って玄関と反対側、部屋の奥を指差す。菫子さんの言う通りドアが三つ付いていた。わざわざ敷居を設けるということはそうしなければいけない理由があるのだろう。
それとは別でキッチンの側に両開きの大きな扉が付いていたけれど、そのことには言及しないのだろうか。訝しく思うわたしの心を読んだように菫子さんが口を開いた。
「あそこは最後のお楽しみ」菫子さんは何かを企むような笑みを浮かべると、食器をまとめてキッチンに持って行った。食器洗浄機が微かな振動を立てながら動き始め、かたこと音が鳴るなんてやはり旧式なんだろうなと詮無いことを考える。この家にはわたしが知らないだけで様々な懐古主義が眠っているのかもしれない。「ん、どしたの。ぼんやりして?」
「いえ、その……この家は古いんだなと思ってしまって」
「そりゃ築三十年近い代物だからね。でも外壁は最近になって補修したばかりだし、綺麗に使っているつもりではあるよ」
「すいません、家事にずぼらだと言ったつもりではないんです。ただ掃除機といい、他の機械といい、食べ物といい……」
「ああ、そういう意味ね。まあ中身が古いからしょうがないと思って諦めて頂戴。ほら、年に一度両親の実家に行くとさ、手入れをしてる中にも色々なものがいちいち古くて、少し居心地が悪くなるってあると思うのだけど」
「いえ、うちは両親ともそういうものはないみたいで」
菫子さんが遠戚であることすらわたしには伝わっていなかったのだ。菫子さんもすぐに気付いたらしく、難しい顔を浮かべる。
「ああそっか、人が沢山消えたものね。こういう生活してると新時代の基本的なこともピンと来ないことがあるのよね……」
「でもわたしには菫子さんという親戚がいたわけで。パパはそのことも少し前まで秘密にしてたんです」
他の都市へ旅行する代わりにこの家を訪れる選択肢だってあったはずだ。それに転地療養なんてまどろっこしいことになる前にできることが他にあったかもしれない。
「それは父親の選択が正しかったと思うよ。わたしの血縁と知られるリスクは高いし、そのことが分かったからといってどうにかなるわけではない。わたしは一つの指輪でも銀の弾丸でもない。魔法使いは科学者と同じで、理屈なしに何かを生み出せるものではないの。信頼してくれるのは嬉しいけどね」
菫子さんの申し訳なさそうな微笑に、何も答えることができなかった。きっとわたしの考えが間違っていて、菫子さんのほうが正しいからだ。
「では残り少ない我が家の秘密をお見せしましょうか」おどけた調子で言うと、菫子さんはわたしを連れて最初に右側の部屋の前に立った。「この部屋はいわゆる倉庫ってやつね」
中に入ってまず目に飛び込んできたのは、一般家庭では決して使わないであろう大きな冷蔵庫だった。しかも三台。
「右二つには一月分の食糧がぎっしり詰まってるわ。見るだけでうんざりするようなレトルトの大群。一番左の冷蔵庫には畑で取れた野菜や保存の利く料理が置いてあるの。今夜出した料理より味がきついものもあるから蓮子は迂闊に手をつけないほうが良いかもね」
そう言われると少し興味が湧いてしまうけれど、食べたらきっと後悔するのだろう。川魚や甘辛く煮染めた野菜の苦みでさえきつかったのだから。
「日用品もまとめてここに置いてあるわ。必要なものがあれば言って頂戴。勝手に持って行っても良いけれど」
「いえ、菫子さんにお願いします」冷蔵庫の近くに段ボールが堆く積まれている。一人で目的のものを捜し当てるのは困難だろう。「ここは自分の家ではないですし」
「まあ、他人の家のものを勝手に漁るって気持ち的に落ち着かないわよね」
菫子さんは一人でふんふんと頷き、納得を示す。こんな山から探していられるかというわたしの気持ちは読み取られなかったらしい。
段ボール箱の山から視線を外し、改めて部屋の中を探して回ると、端のほうに古めかしい掃除用具、脚立、無骨なデザインの箱に入った用途の分からない工具、ダクトテープなどがごちゃごちゃと置いてある。工具なんて一体何に使うのだろうと思ったが、菫子さんは特に説明することなく、きょろきょろとしているわたしを手招きする。どうやらひとしきり案内し終えたと思ったらしい。
続く中央の部屋には洗面台、洗濯機、脱衣かごと並んでいて、一目で洗面室だと分かる。奥には横開きの扉があり、更に別の場所へ通じているようだった。
菫子さんが戸を開けるとむせかえるような湯気が溢れ、目が慣れてくると四、五人が並んで入ってもくつろげるくらい広い浴槽が見えた。
「公衆浴場に比べれば狭いけれど、二人で使うには十分過ぎるでしょう?」
「いえ、確かにそうですけど。これだけ広いお風呂、一人暮らしなのに二十四時間沸かしっぱなしなんですか?」
「いくらわたしでもそこまでの浪費家じゃないわ。二階の各部屋にはそれぞれバスタブが付いていて、いつもはそっちを使ってる。今日は客が来るって分かってるから沸かしておいたの。二人で使うならばそこまで浪費でもないでしょう?」
確かに一人で使うよりは経済的だが、それでも気後れするほどの無駄だった。資源は限りあるものだから大切にと幼い頃から繰り返し教育されてきたせいか、紙を一枚台無しにするだけでも少し申し訳ない気持ちになるというのに。
「あとで一緒に入りましょう。それとも一人でないと恥ずかしい?」
即答しかけ、慌てて首を横に振る。京都は他の都市さえも凌ぐほどの過密さであり、風呂付きの部屋を借りるならば余程の高給取りか、高い成果をあげる人間に限られているということを思い出したからだ。これからいくらでも見知らぬ他人と風呂に入る機会があるというのに、ここで気後れしていては相談をしたとき、あっさり切り捨てられそうで怖かった。
「怖い顔しなくても良いわよ。年輩だから背中を流せだなんて言わないから」
そんな習慣があるだなんて聞いたこともないから、きっと菫子さんが子供の頃の話なのだろう。あるいは単なる冗談で、わたしの動揺を見透かしているのだろうか。菫子さんの笑顔からはどちらとも読み取れそうだった。
「では最後の部屋ね。作業部屋だから面白いものは何もないと思うけれど」
左側の部屋はドアに鍵がかかっていた。とはいっても二階の各部屋に取り付けられているのと同じ、単純な形状の錠だった。この中にあるものは一応、個人のものとして尊重して欲しいとささやかに主張するためのものなのだろう。
個人的なものが沢山置いてあるのかと思ったが、実際にはわたしの部屋よりも少しだけものの多い、簡素な部屋だった。八畳程度の空間に作業机と背もたれの大きな椅子、本棚と並んでおり、ベッドはどこにもない。机の上にはインクを補充して使うタイプのペンが置いてあるけれど、書き物に使えるような紙は一枚もない。袖机の中にしまってあるのかもしれないが、初見でそこまでずかずかと覗くのははばかられた。
わたしの興味はすぐに本棚のほうに移る。中に入っているのは聞いたことのない題名の本や雑誌ばかりだった。
「紙の本が珍しいって顔してるわね?」
「ええ、こんなもの旧い図書館にしかないですし」書籍の形で文字情報に接したいという人もやはり年輩を中心に少なからずいるらしく、東京にも紙の図書館は何箇所か存在する。支持者がいなければ予算が下りることもないだろう。「少し目を通しても良いですか?」
「構わないけど愚にもつかない代物よ」
それでも菫子さんが持っているのだから何らかの価値があるものだろうと思った。だから期待を込めて手近な雑誌を一冊、手に取ってぱらぱらとめくってみたのだが、書かれていたのは古代遺跡と宇宙人の関係だの、アメリカ政府と宇宙人の間に交わされた密約だの、海中に沈んだ幻の先史文明だの、目の眩むような出鱈目ばかりだった。
「だから愚にもつかないと言ったでしょう?」
「本当にそうでした……どうしてこんなものを持っているんですか?」
「こんなものでも幼い頃の思い出だからよ。馬鹿みたいに感じるかもしれないけど、こんな雑誌に救いやよすがを求めようとしていた頃もあったの」
「それはもしかして……菫子さんが持っている力のせいですか?」
いきなりの指摘に一瞬驚きを浮かべたが、すぐに苦い笑いへと移り、重い溜息となって消えていく。
「ええ、そうよ。今では科学も不思議な力とまでは認めてくれているけれど、わたしが子供の頃は超能力なんて都会で熊が出たぞと叫ぶのと同じくらいの、到底信じられない代物だったのよ。そんな出鱈目を認めてくれそうな数少ないものがオカルト系雑誌だった。でもこんなものだってカルト系の新興宗教に比べればずっとましなのよ。雑誌の代金以上のものを読者から搾り取ろうとは考えていなかったのだから。パワーストーンの広告とかは乗ってたけどね」
「パワー、ストーン? 力を持っている石のことですか?」わたしの頭では金銭的価値のある稀少鉱石以上の意味が思いつかなかった。「物語ではよく、石が力や意志を持ったりするけど、現実にもそういうことって起こり得るんですか?」
「いえ、神社で売られるお守りと同じようなものよ。信じるものは救われるかもしれない。一つだけ違うとすれば、お守りは持つものが不幸や魔から守られますようにという願いを真剣に込めながら作られたかもしれないということね」
「どちらにしろ全く意味がないってことですよね?」
「合理的な見方をすればね。でもそれだけで全てが丸く収まるほど人間というものは簡単ではないの。不幸が続けば確率は偏るものだと知っていても別の原因を求めたくなるし、重い病にかかれば藁にも縋りたくなる。人の一生は正しいことだけを行うにはあまりにも長すぎて、魔も多い」
軽い口調と裏腹、重くのしかかる言葉だった。今のわたしは正しく、その魔にとらわれている状態だからだ。
「そんな神妙な顔しないの。わたしが言いたいのは人間誰しも誤った経験を持ち、横道に逸れたり、想像もしない道に迷い込むのだということよ。失敗を指差して厳しく言う人があれば自分のことを棚に上げているだけ。もしも蓮子に後ろ指を差すような奴がいたら、個人でも社会でも、たとえ国の言うことであっても、そう思って腹の内で笑ってやれば良いの」
折角の教えだけど、わたしでは菫子さんのような考えにいきなり変わることはできそうにない。でも胸の内が少しだけ軽くなった気がした。同時にわたしの心は抗いようのない重さにとらわれているのだと改めて気付くことができた。
「さて、少し話が逸れたけれど、だからいつまで経っても捨てられないの。わたしの一部が失われてしまいそうな気がするから」
「ここに並んでいる本は全てそうなんですか?」
「ええ。この棚にはわたしの一部がいると言っても良いわ。データではなく紙としてあることで明確な形となっている。蓮子のようにデジタルが当たり前の世代には分からないかもしれないけれど。わたしと同じか一世代若いくらいで辛うじて通じるかもしれないわね」
だとすれば本当に昔の価値観なのだ。丁寧に説明されてもやはり実感を得ることはできず、曖昧に頷きながら雑誌を戻す。それから改めて本棚を見回すと、他の書籍と異なる雰囲気の本が目に入った。
《秘封倶楽部活動記録》
雑誌と同じ判型なのに本のように分厚く、綴じ方に粗さを感じさせるものだった。よほど古い本なのだろうか。
「ふむ、蓮子はやはり持っている子なのね。その本に注目するとは」
菫子さんは本棚から秘封倶楽部活動記録を取り出し、最初のページを開く。そこにはこう書かれていた。
《秘封倶楽部とは封じられた秘密を暴く禁断の倶楽部活動である。ここに記されるのは科学よりも深い場所に潜む秘密、即ち深秘である。瞠目せよ、汝はこの書に触れることで世界の秘密を知るだろう。秘封倶楽部初代会長、宇佐見菫子》
序文を読んでも何のことやらさっぱり分からなかった。正直言って先程のオカルト雑誌と同じレベルの代物なのではないかと思えてしょうがない。確か前世紀のどこかで素人小説の投稿が流行った時期があったと何かの記録で読んだことがある。作者本人、ないし作者の性格を強く反映させた主人公が現実にあり得ない力を振るい、大活躍する類の内容が主流となっていたはずだ。これもそうなのだろうか。他の本に比べて粗雑な造りなのが、ネットで公開した文章を自己製本したからだとしたら辻褄は合う。
「これは菫子さんの書いた小説なんですか?」
単刀直入に訊くと、菫子さんは照れ臭そうな表情を浮かべた。
「まあ、そんなものね。これも若気の至りってやつ、しかもオカルトへの傾倒より余程恥ずかしい代物よ。それでも読んでみたいと言うならば貸してあげるけれど」
この本棚に収められているのは菫子さんの一部である。それを一時でも借りていくというのはその心の一部を手にするということだ。恐れ多い気もするけれど、しかし心惹かれるのも事実だった。これまで小説なんて要約された知識でしか触れたことがなかったのに、この本は最初から最後までしっかりと読んでみたいと思った。
「なるべく早く読み終えるようにします」
「益体もない文章なんだから自分のペースで読んで良いわ。飽きたら返してくれて良いし、読み切れなかったら実家に持って帰って後で郵送してくれても良いし。ただ、わたしとしては蓮子に是非とも読んで欲しいかな。これだけ大失敗しても自信満々な顔で生きていられるんだっていう良い例だから」
菫子さんの話しぶりからして、秘封倶楽部活動記録はノンフィクションなのだろうか。それでますます中身が気になってしまった。
「さて、では中を案内し終えたところで予告通り、とっておきを見せてあげましょう」
菫子さんは悪戯を隠した子供のような笑顔を浮かべ、部屋の外に出て手招きする。わたしは本を持ったまま後を追った。
菫子さんは部屋の鍵をかけるとキッチンの横にある両開きの扉をゆっくりと押し開ける。
そして飛び込んできた光景に心を奪われた。
扉は駅のホームに繋がっていた。遠野駅の看板が建っており、古びた線路が左右に伸びているのがはっきりと分かる。
「自宅より徒歩ゼロ分。まあ、電車は来ないんだけどね」
菫子さんは自分の冗談が面白かったのかくすくすと笑う。
「子供の頃は朝に弱くてね。夜更かしするのが悪かったんだけど、家を出たらすぐに学校があれば良いな、駅が目の前で電車が待っていてくれたら良いなと子供ながらに思っていたの」
わたしは朝起きられなくて困ったことはない。でも眠ることがあまり得意ではないと感じていた。少しでも昼寝をすると夜なかなか眠れなくなるし、学校にいる時でもふと眠くなることがある。睡眠調整は働いているはずなのに上手く機能しないことがある。菫子さんが夜更かしするのも、もしかしたら同じ理由なのかもしれない。百年も前だと睡眠調整なんかなかっただろうし、余計に難儀しただろう。
「自業自得というやつだけど、だからこそこんなお遊びも思いついたのかもしれない。流石にこれは吃驚したでしょう?」
慌てて何度も頷くと、菫子さんはしてやったりという顔をする。数少ない客にこれを見せるのが彼女の楽しみの一つなのかもしれない。
靴棚にはスリッパが何足か置いてあり、一番サイズの小さいものを履いてホームに出る。壁には当時のものか、それとも再現したのか、古びたポスターやら紙の時刻表やら、見たことのない缶ジュースの売っている自動販売機やら、家の中にも増してレトロなものが並んでいた。線路を挟んで対岸も似たようなものであり、当時は高架橋を渡って向こうまで回っていたのだろう。
菫子さんはそんな感慨を吹き飛ばすようにひょいとホームを飛び降りて線路の上に立ち、大きく手を広げる。
「蓮子もこちらへ来てごらん。線路の真ん中に堂々と立つのって案外気持ち良いよ。歩行者天国で、道の真ん中を堂々と歩くのと同じでさ」
歩行者天国とは何とも物騒な言葉だ。気になって調べてみると、休日など人通りの多い時分、一時的に車の通行を止めて歩行者専用の道路とする処置らしい。それならば道の真ん中を歩くのも問題ないのだが、気持ち良くなる理由が分からなかった。実際に線路の上へ立ってみれば分かるのだろうか。ぺたぺた音を立てながらホームの端に立ち、そろりそろりと下りてから、思い切って線路の真ん中に立ってみる。
菫子さんの言う通りだった。無性に緊張して、胸がどきどきして、不思議な高揚感が湧いてくる。このまま駆け出してしまいたいくらいだった。
「ほら、言った通りでしょう?」菫子さんはわたしの隣に立つと、前方を指差す。「ホームを離れて、少し先に行ってみましょう」
レールに沿って敷かれた木の板をぴょんぴょんと渡りながら前に進み、駅の外に出ると、薄暗い中にも月と星の明かりに照らされ、自然に溢れる光景が目に飛び込んできた。その中央を貫くように線路が続き、どこまでも通じているように思えたけれど、少し進んだだけで自然によって覆い隠されてしまった。自然がかつて人の作ったものを隠す光景を、ここに来るまでいくらでも見てきたというのに、続く道がすぐに途切れてしまったことが残念に思えてしょうがなかった。
人間はかつてどこにでも住むことができた。現と夢の境目が厳然として存在し、明日にでも自分がいなくなってしまうことなど考えなくても良かったからだ。存在の確信があるから、ただ前だけを見て進むことができた。どこにでも道を拓き、線路を敷いてきた。だけどそれは突如として崩れてしまった。人間は曖昧で、すぐ消えてしまうものに変化したのだ。
曖昧な現実の中で確かに在るのだと信じるために人類が取った行動は、互いが互いの現実を確認し合うということだった。都市を再編し、人口を圧縮した。居るべき人間とそうでない人間を明確に選んだ。
夢が下りてきて、沢山の人たちがおそらくは泡のように消えた。そして存在し続けられた人たちも少しずついなくなっている。あらゆるものが曖昧になってしまった世界の中で存在を守らなければならなかった。先人の築いたものは正しく、わたしはそれを疑ったことなどなかった。それなのに往く道が見えないこと、これからも取り戻せないかもしれないことが悲しく、そしておぞましいことのように感じてならなかった。
目の前の光景から逃れるため、思わず天を仰いだ。視界に月と星が映る。
「二一一〇、七、二〇、二一五八三一」
しまったと思った時には、わたしの眼が自動的に計算を終えていた。人工の明かりが菫子さんの家だけであるこの地に置いて、わたしの眼は東京よりも遥かに強く働くらしい。普段なら分からない秒の単位、経度緯度のより細かい値まで読み取っていた。
「三九、三一五〇八九、一四一、四三三四四」
こんなこと口にしてはいけないと分かっていたのに、眼と同じくらいにこの口も自動的だった。全てが終わってから慌てて塞いだけれど、漏れ出たものをなかったことにするなんてできるはずもない。
おそるおそる菫子さんの顔を見た。その数字は一体なんだと問い質されると思った。本当のことを口にしたとき、パパとママが覗かせた怪物を見るような表情を思い出して、ぎゅっと目を瞑りたくなった。だが菫子さんは驚いてこそいるものの、わたしの顔を見るだけでそれ以上は何も訊いては来なかった。恐れることなく、ただじっと待ってくれた。
元々打ち明ける気ではあったのだ。菫子さんが超能力者ならば、わたしの力を理解してくれるのではないかと期待もした。だけど口を開いたときそんな気持ちは一切なかった。ただこの人に訊いて欲しかった。
「わたしの眼は、こうなんです。月と星を見ると、頭で考えるより先に、時間と場所が分かってしまう。そしてそれを口にせずにはいられない。体とも心とも繋がらない、不気味で自動的な部分がわたしにはあるんです」
菫子さんは恐れも怯えもしなかった。ただ含むように頷いただけだ。
「ふむん、つまり蓮子は自分のことをブギーポップだと言いたいわけだ」
「ブギー、なんですか?」
聞き覚えのない言葉だった。直訳するなら不気味な泡だろうか。
「ああ、うん……戯言だから忘れて頂戴」少し頬が赤くなったところからして、自分でも盛大に滑ったと思ったらしい。「わたしが子供の頃……正確には生まれる頃より流行ってた小説の口癖というか決め台詞というか、いやまあそんなことはどうでも良くてだね」
菫子さんはわざとらしく咳をすると、わたしの目をじっと覗き込む。
「洒落た表現をすれば魔眼ってやつね」息の詰まりそうな睨み合いもわずかなことで、菫子さんは視線をそっと外す。「人に影響を与えるのではなく、夜天に時を視るのみか。だとしたら可愛いものね。それとも詰まらない能力だから、わたしのような力が欲しいと思ったわけ?」
「いえ、その逆です。こんなもの、できれば失くしてしまいたい。今はまだ両親以外には気づかれてないですけど……」
「夜の付き合いが増える、つまり大人になれば嫌でも露見するようになる」
切実さを込めて頷くも、菫子さんの表情から希望を与えてくれることはないと分かった。
「それが出来ていればわたしはいま、こんな姿でここにはいないと思う」菫子さんはそう言って頬をそっと撫でる。「抗加齢処置を施してないにも拘らず、わたしの顔は忌々しいほどに変わらない。白髪一本すらなく、皺の一つも刻まれない。蓮子も既に知っているのでしょう? わたしの超能力を」
一瞬だけ躊躇ったが、ここで隠しても良いことは何もないと思った。そうでなければ包み隠さず秘密を語った意味がないというものだ。
「不老不死、ですよね?」
「ええ、そうね。正確にはテロメアの再生という現象が起こっているの。細胞分裂の回数を制限する、いわば時限装置と言うべき染色体の絶え間ない再生。それゆえにわたしは老いることがなく、そして……あらゆる死からも解放されている」
菫子さんは左手の甲をわたしに向けると、右手親指の爪をぐいと突き立てた。何をするのかと問う前に爪は皮を断ち、そのまま力を込めて横に引くことで傷口がどんどん広がっていく。血が滲み、見ているだけで目を背けたいほど痛々しい。だがこの自傷行為すら霞むほどの大きな驚きがすぐにやって来た。
傷口がむずむずと蠢き、まるで逆再生でも見ているかのように塞がったのだ。手の甲に残った血以外、傷の痕跡を示すものは一切なかった。
「これくらいの傷ならご覧のとおり、ものの十秒もしないうちに治ってしまうの。それだけでなく、腕が落ちても胸に穴が空いても、顔が吹き飛んでもいずれは元に戻る。もちろん軽い傷に比べれば時間はかかるけど、後遺症はなく、失われた血も回復される」
だからこそかつて世界中が、不老不死の実現という究極的な理想のために菫子さんを研究材料にした。きっと先程口にしたようなことを数限りなく試されたのだろう。
「痛く、ないんですか?」
「もちろん痛いわよ、尋常の細胞だから痛覚は普通にある。でもね、信じられないかもしれないけれど、どんな痛みにもいずれ慣れが来るの。普通の人間ならショックで死んでしまうような痛みも、やがて心が感じなくなる」
そういう理屈もあるのかもしれない。でもわたしにはちょっと想像できなかった。なにしろ転んで膝を擦りむいただけでも痛くて泣いてしまいそうになるくらいだ。それを超える痛みだなんて考えるだけでも嫌だった。
「体だけでない、心も傷つけられ続ければ何も感じなくなる。若い頃は怪物だの被験体だの、人類の夢だのと言われて辛かった時期もあるけれど。今は何もかも言わせておけ書かせておけって感じ。わたしの名前の頭文字を取ってカテゴリー・エスの怪物なんて俗称が生まれても、苦笑しか浮かばなかった」
菫子さんは実際に苦い笑みを浮かべる。そこに嘘はなく、ただ寂しさのようなものだけが滲んでいた。
「でもね、それは枯れてしまうということ。無痛とは瑞々しい感性、閃き、情動を放擲することでもある。わたしは蓮子にそんな生き方はして欲しくないと思う。自らの力に自覚的でありながらなお、明るく前を向いていて欲しいの」
「そんなこと分かってます!」楽天的な意見につい苛立ちが噴き出した。怒りと惑いが渦を巻いて止められない。まるで分別を知らない幼子にでもなったようだった。「でもわたしは不可知で、両親すらも不気味がって、それなのに腹立たしいほど無意味で! 菫子さんのようにはっきりとした意味のある力ですらないんです!」
現在位置と時間なんて調べれば簡単に出てくる情報だ。そんなものが仕組みすらもよく分からない力によって求められるなんて訳が分からなかった。
そんなわたしを宥めるように、菫子さんの声音はあくまでも穏やかだった。
「わたしだって自分の力に意味を見出だせなかった。わたしを弄んだ奴らの中には、人類の夢を無限にすると賞賛したものもいたけどね。結局は暗く淀んだ道を突き進むしかなかった」
「それなのにわたしには力を受け入れ、前を向いて歩けと言うんですね?」
「ええ、言うわ。だってわたしにはできなかったことだもの。それを未来に託すのが大人の特権ってやつだわ」
あまりにあっけらかんとして、堂々と言い切られてしまった。そんなもの横暴だと訴えたかったけれど、菫子さんの話を聞いた後では嫌だなんて言えなかった。それにわたしの眼が自動的で決して修正できないならば、それ以外に道はないのだ。
「肝心なことは蓮子自身の手で切り拓いていかなければならないでしょうね。もちろんそのための手助けは厭わない。ここにいる間でも、離れてからでも好きなだけ相談して頂戴。弱みも愚痴もいくらだってぶつけて良いわ。蓮子にはおそらく、強い気持ちを思う存分にぶつける相手が必要だと思うから」
菫子さんの言葉が胸に痛かった。強い気持ちを表すなんて無駄で詰まらないことだと自分に言い聞かせ、周りにも散々に振りまいて来たというのに。
何も答えられないわたしを菫子さんは責めなかった。そんなことは当然と言わんばかりで、それが逆に辛い。彼女はわたしの悩みなど通り過ぎ、より大きな問題に直面して乗り越えてきたのだろう。わたし一人が馬鹿みたいだった。
「焦る必要はないわ。蓮子にはこれからいくらでも時間があるのだから」
そして菫子さんもわたしの悩みを全ては理解していない。だからそんなことが言える。パパやママ、学校の担任と同じだ。彼らよりは近くても十分に遠い。だけど他人の苦しみを理解できるとは思っていない。
「今日は帰りましょうか。もっと色々な所を案内してあげようと思ったけど」
わたしは小さく頷き、本を持っていないほうの手で菫子さんの手をそっと握る。誰かが側にいてくれないと、心がふわふわと離れ、戻って来られなくなると思ったのだ。
「まだ疲れているのね。今日はお風呂に入って早く寝ると良いわ」
菫子さんはわたしの手を優しく引いてくれた。目頭が無性につんとして、歯を食い縛って気持ちを堪えた。
早く寝たほうが良いと言われた手前、入浴して歯磨きを終えるとすぐ寝ようとしたのだが、いくら目を瞑っていても寝相を変えてもさっぱり眠れなかった。昼寝したというのもあるけれど、先程まで体験したことがきっと尾を引いているのだろう。頭の中では分かっていても体が付いてこなかった。導眠プログラムを起動しようかとも思ったが、その手のプログラムは極力使わないほうが良いと注意されていたし、よく考えれば明日早く起きなくても別に問題はないのだ。わたしは休暇に来ているのだし、世間一般から見ても明日から休みだ。
クラスメイトは終業式にやって来ないわたしをどう思っただろう。少しは気にかけたかもしれないが、おそらくはちっぽけな扱いなのだろう。そう考えると何となく気分が楽になる。担任はきっとわたしのことでくよくよしているのだろうし、両親も程度の差こそあれわたしのことを心配しているのだろう。
思わず重たい息が漏れる。こんなことを考えていたらいつまで経っても眠れそうにない。気持ちを切り替える何かが必要だった。わたしは電気を点け、菫子さんから借りた「秘封倶楽部活動記録」を手に取る。字を沢山読めば、もっと疲れて眠ることができるだろう。わたしは椅子に腰掛け、紙の本を少しばかりの緊張とともにぱらりとめくる。
一ページ目は先程も読んだ例の文句、二ページ目には目次代わりに日付と、××駅前高架下の飴玉婆さんの噂、○○高校の走る人体標本、△△町の□□公園に出没するカップルの亡霊、などいかにも胡散臭い副題が綴られていた。目次だというのにページは振られておらず、順番通りに話が展開されるのだということが推測される程度だった。
三ページ目から謝辞や引用もなく本文が始まり、書き出しもいきなり『今日、モコウとケイネを誘い、解体間近の廃ビルに忍び込んだ』であって、それまでの経緯が何も説明されない。モコウとは、ケイネとは誰なのか。どうして廃ビルに忍び込むことになったのか。三人はどういった経緯で出会い、どのようなきっかけがあって活動を始めたのか。冒頭となる部分がごっそり抜け落ちていた。辛うじて分かるのは主格の《わたし》が菫子さんだということだ。モコウにスミレコと呼ばれる箇所があったから。
スミレコはハンディカムなるものを構えているらしく、映像がどうの暗視モードがどうのと書いてあることから録画装置であることが察せられた。検索の結果とも概ね一致し、そういう認識で話を読み進めることにした。モコウはスミレコが通う高校の後輩と書かれており、肝試しやオカルトスポットの訪問が趣味、ケイネとの関係は特に書かれていなかったが、モコウの保護者とか優等生の先輩とかいちいちうるさいみたいな表記があるので、いざという時の静止役、ないしまとめ役なのだと察せられた。といっても廃ビルに忍び込む辺りでその役割もたかが知れてそうではあったが。
三人はおっかなびっくり一階ずつ上っていき、屋上まで辿り着く。今回の目的は飛び降り自殺した女性の霊を撮影することらしい。だがそんなものはどこにも見つからず、失意のうちに帰宅する。スミレコは帰宅後に夜更かしして動画の確認を行ったのだが、そこで謎の白い人影のようなものを見つけ、やはり怪奇現象はあったのだ! と感嘆符をつけてこの章を締めくくっている。そして次のページには人影かどうかも分からない白い靄の入った屋上の光景、それから意味もなく夜空の写真が貼ってある。どちらも解像度が低いのかあまりはっきりしない。画像検索をかけてもどの時代のどの場所なのかを示す結果は一件もヒットしなかった。
「二〇一三、〇五一四、 二二三〇一五」
それなのにわたしの眼はいつの時代に撮影されたものかを正確に測っていた。二〇一三年五月十四日、二十二時三十分十五秒。菫子さんの生年は記録によれば一九九九年だから、おそらく十四歳の時に撮られたものということになる。あの時代、高校に通うのは十五歳から十八歳までだから明らかにずれている。飛び級もなかったはずだから、スミレコを菫子さんとするならば高校二年生という記載と矛盾することになる。となるとこれはやはり創作なのだろうか。菫子さんはこの中に書かれているものを自らの失敗と表現していたはずなのだが。
読み進めれば分かってくるのかとも思ったが、書かれているのは他愛もない肝試しばかりである。毎回、何らかの怪異に遭遇したと思しき仄めかしはあるのだがはっきりとしない。一つだけ分かるとしたらスミレコ、モコウ、ケイネの三人が仲の良い友人同士であるということだった。スミレコが校内の噂を聞きつける、モコウが学外の噂を持ち込む、のどちらかから話が始まり、ケイネは二人を窘めながらなんだかんだいって付き合い、警備員や警察官に声をかけられたとき、うまく機転をきかせるのは決まってケイネだった。
多少問題行動はあるものの、他愛のない記録とも思われたが、それだけでは片付けられない描写があった。スミレコとモコウに特別な力があると示唆される点だ。モコウがパイロキネシス、スミレコがサイコキネシス。ケイネにその手の描写はなかったが、当然のように受け止めていることから何らかの能力を持っているか、あるいは全てを知った上で受け入れられる心構えを持っているのだと察せられた。
このスミレコもまた不老不死なのだろうか。それとも異なるのか。興味は惹かれるが五話ほど読んだところで頭が疲れてきた。読みにくい文章ではないのだが、虚実が入り混じり、いちいち解釈に迫られるから読んでいるうちに自然と色々なことを考えてしまうのだ。
三十分ほどの読書でうつらうつらしてきて、大きな欠伸が漏れる。今なら眠れそうだと本を閉じ、ベッドに横になろうとした。そのとき、錠を鍵で開けるかたんという音が耳に入る。続いてドアのぎいぎいと軋む音。どこのドアが開いたかまでは分からないがかなり近い。わたしの部屋の向かい側、あるいは両隣か。
菫子さんかもしれない。だけどわたしは何故か、先約のある部屋のことを強く思い出していた。こういうのを虫の知らせ、というのかもしれない。すっかりと目が冴えてしまい、立ち上がって目をこすると裸足のまま自室のドアを開けようとした。
僅かに開けたところで隣からドアの閉まる音がした。今度ははっきり分かった。やはり菫子さんが先約ありと言っていた部屋だ。そこにいま何者かが入って行った。
居ても立ってもいられなかった。素早く飛び出すと、先程ドアがしまったはずの部屋の前に陣取り、ドアに耳を当て中から物音がしないかを確かめる。寝付きが悪いせいでありもしない音を聞いてしまったのかもしれないと、若干自分を疑っていたけれど、わたしの耳は中で蠢く何者かの音を聞きつけた。
間髪入れずにドアを開け、中に踏み込んだ。ばたばた駆け回る音が聞こえてきたけれど、部屋の奥まで踏み込むと足音がぴたりとやんでしまい、隅々まで見渡しても何も見付からない。だが息遣いというか気配のようなものが、室内から確かに感じられる。少し手前に戻ってまずは浴室を覗き、それからクロゼットの中、ベッドの下と丹念に調べていく。しかしどこにも人っ子一人見当たらない。窓は閉じていたが、もう調べていないのはそこだけだ。そろりと近づき、鍵がかかっていないか確認しようとした。
そのとき背後で騒がしい足音が聞こえた。慌てて振り向いたけれどやはり誰もいない。しかし、逃げられたのだということは何となく分かった。つい先程まで部屋の中にあった、じっとりした気配がなくなっていたからだ。それにしてもどうやって逃げ出したのだろう。隙を見て背後に回り込んだとしか考えられないのだが、そんなことはわたしの目が節穴でもない限りはあり得ない。
不意に奇妙な考えが頭に浮かぶ。ここにやって来たのは姿の透明な何者かなのではないか。
菫子さんの客ならばそれくらい常軌を逸しているとしても不思議ではないのかもしれない。誰かいると意識していたからこそ気配も感じられたけれど、もしかするともっと早い時間からこの家に潜んでいたのかもしれない。
このことを伝えようか迷っていると、再びドアを開閉する音が聞こえた。足音は一目散にこちらへと向かい、菫子さんがわたしの前に姿を現した。
「どうやってここに入ったの?」
低く咎めるような訊ね方だった。怯みそうになるのを抑え、物音がしたことから始まり不審者を取り逃がしてしまったことまでを掻い摘んで説明する。菫子さんの表情はその度にくるくると動き、最後には大きな溜息となった。
「そういうことだったのか……てっきり窓伝いか何か危ない方法で忍び込んだのかと思ったのよ。怖い顔をしてごめんなさいね」
「いえ、良いんです。それよりも……」菫子さんの客人なのだし、わたしには関係ないことかもしれないが、このまま何も知らないのでは気になって仕方がない。不気味な消え方をしたのだから尚更だ。「ここにいたのは何者なんですか?」
「知りたい?」すると菫子さんは脅かすような声を浮かべた。「知らない方が良いことだとわたしは思う。だから最初に訊かれたときも客人以上のことは説明しなかったの。知っているというだけで不都合なことが起きるかもしれないから」
誤魔化すとかそういうことではなく、おそらくは良かれと思ってのことなのだろう。まだ会ってそんなに時間は経っていないけれど、わたしのような子供相手にもできるだけ誤魔化しを使わないよう心掛けていることは何となく分かる。
「菫子さんが話したくないなら聞きません」だからわたしは恐怖と不信、好奇心を抑えることにした。「悪い人ではないんですね?」
「善悪を問えるような相手ではない。でもわたしがきつく言って聞かせれば、そしてわたしの子孫であることを伝えれば何もしないはずよ」
そう言って菫子さんは画像データをわたしに送ってきた。内容、送信経路ともに暗号化されて他への公開を許さない方法での伝送、いわゆる秘匿通信というやつだ。わたしはまだ子供だから使うことができない。個人間の通信はできるけれどログはどうしても残ってしまう。子供がひそひそ話をするならば直接顔を合わせられる相手に限れということなのだろう。
だから菫子さんから受け取ったのはわたしにとって初めての秘匿通信だった。緊張しながら画像を開くと、わたしより少し年上程度の少女が表示されていく。解像度が低いのかぼんやりしているけれど、背中に大きなリュックサックを背負い、ポケットの一杯ついた青系統のつなぎとスカートを身につけている。緑色のキャップから覗く髪の毛はくすんだ暗い青色をしており、東京の街を歩く外国人にすら見られないものだった。
「これ、染めてるわけじゃないですよね?」
「地毛だよ。とにかくね、こういう奴を見かけたら話しかけられても答えては駄目よ。どれだけ情報を絞っても直接関わってしまえば元の木阿弥だから」
彼女のことをどうしてそこまで秘密にするのか、写真を見た限りではよく分からなかった。髪の色こそ風変わりだけど、他に変わったところはない。おそらくは菫子さんと同様の特別な何かを持っているのだろう。体を透明にするとか、瞬間移動をするとか。少なくともわたしの眼よりは強い力を持ち、隠されて然るべき何らかの理由がある。
ここには菫子さん以外にも秘密がある。だからこそ菫子さんは縁もゆかりもないはずのこの地で一人、誰からも距離を置いて暮らしているのではないか。しかし、今のわたしには小さく頷くことしかできなかった。わたしはこの地に巡る秘密を暴くにはまだまだ小さ過ぎるのだろう。あるいは力が足りないのかもしれない。そのことが何故か無性に悔しいと思えた。
菫子さんに促されて部屋に戻り、わたしはそっと目を閉じる。あれだけの騒ぎがあったのだからしばらく眠れないと思っていたのだが、横になった途端大きな欠伸が出た。あれこれと騒いで、沢山の考えごとをして疲れが溜まったのかもしれない。
もしかしたら透明な某かが潜んでいるかもしれないとも考えたけど、じっとりとした気配はどこにもない。そのうち考えるのも億劫になり、わたしは眠気に身を委ねた。
東方Projectは上海アリス幻樂団様の制作物です。当作品は二次創作作品であり、上海アリス幻樂団様とは一切関係ありません。
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