一
何かをした時ほど、何もしていないと言い張るものだ。
特に複雑な機械を壊した時などは。
「これまでずっと、こうすると直ったのよ」豆腐屋のおばちゃんは口角を飛ばしながら力強く主張する。 「斜め後ろ四十五度から、こつんと手刀を食らわすわけ。三年前に亡くなった母もテレビの映りが悪くなるといつもこうやっていたの。もちろん、ちゃんと映ったら手を合わせて神様仏様と感謝の気持ちを表したわよ」
どちらにしても罰当たりな話ではある。母親の代から現役のテレビということはかなり長く稼働しているはずなのだが、よくへそを曲げられなかったものだ。
「アニメやドラマが見られなくて子供の機嫌は悪いし、わたしだって今日のニュースすらろくに分からないから、客商売の身としては不便でたまらない。夫は新聞を読めと言うけれど、やっぱりテレビのほうが分かりやすいじゃない?」
霊夢は活字を読むのが好きなほうだし、新聞に目を通すのも苦にはならない。だから豆腐屋のおばちゃんの気持ちがあまり分からなかった。テレビが便利な道具であることは重々承知しているけれど、なくて困ったことはあまりなかったりする。現代っ娘なのに珍しいと言われるのが嫌だから口にすることはなかったのだけど。
「明日にでも修理の人を呼ぼうかなと考えていたところだったの。ちょうど良いところに来てくれたわ。日頃の善行って返ってくるものなのね」
自分でそれを言うかと思ったけれど、少なくとも霊夢にはいつものようにサービスしてくれるし、一人暮らしで大変だろうと時々、鍋たっぷりの煮物をお裾分けしてくれたりもする。テレビに手刀は食らわすけれど、決して悪人ではない。
だがしかし、それはそれ、これはこれだ。善悪なる代物など、おそらく神仏は大して重視していない。篤く敬い、奉っているかどうかで全てを決める。だから霊夢にできるのは、供物を捧げてご機嫌をうかがうことだけだ。
近所でお饅頭を買ってきてから神棚に備えると、豆腐屋のおばちゃんを後ろに座らせてからひらにひらにと頭を二度下げ、二拍してからもう一度、深々と。
「博麗神社の巫女、霊夢が直々にお祈り申し上げます。このたびは写し身なる機械への度重なる狼藉、真に申し訳ございません。どうかこの辺りでご勘弁いただけないでしょうか。後ろのものも心より反省しておりますゆえ」
「そ、そうそう。もう調子が悪くなったからといって斜め後ろ四十五度から叩いたりしないからさ。ここいらで勘弁してもらえないかねえ」
ざっくばらんであまり反省の色が見られないのだけど、元々がそういう性格なのだから致し方ない。あとは拝み倒しがどれだけ功を奏するかだ。守矢製の機械はこの手のご機嫌取りが特によく効くとは知られているけれど、ここまで無礼が積もり積もった事例にまで目零ししてくれるかどうかは霊夢にもはっきりとは分からなかった。
無言の時がじりじりと過ぎ、やはり駄目かなと諦めかけたとき、不意にテレビがぶぅんとうなり声をあげた。面を上げ、テレビを見るとざらざらした灰色のノイズに重ねるよう、奇妙な出で立ちをした少女が姿を現した。
機械を動かなくしたのだからさぞかし怒っていると思ったのだが、少女は愉快そうな笑みを浮かべていた。少なくとも腹を立てているのではなさそうだが、それゆえに却って真意が読み辛く、不気味だと感じた。
「仰々しくもの申すから何事かと思って現れてみれば、巫女直々とはたまげたものだ。最近はテレビ一つ動かなくなった程度でも出張るんだね。博麗神社もいよいよ近代化に飲まれ、経営の手を広げ始めたのかな?」
「そんなわけない……もとい、ございません。わたしは博麗の当代として粛々と責務をこなすのみです」
可能な限り畏まったはずなのに、少女はげろげろと蛙のような笑い声をあげ、霊夢の動向をからかってみせる。豆腐屋のおばちゃんは二人のやり取りを見て、半ば目を白黒させていた。
これだから神の相手をするのは嫌なのだと、霊夢は心の中で独りごちる。襲名の始めからずっとこうだ。なまじ偉人の名を継いでしまったから、ことあるごとにからかわれてしまう。画面の奥にいる少女姿の神は特に面倒臭い輩の一人だった。
「敬っては欲しいけど、他人行儀というのは少し寂しいねえ。早苗ほどではないけれど、わたしも今の霊夢のこと気に入ってるんだけどね。こうして顔を合わせるのは守矢の例大祭以来だっけ? 最近めっきりご無沙汰だって早苗も寂しがっていたよ。なにしろその顔立ち、態度、どちらもが往年の……」
「洩矢、諏訪子様」霊夢は神の真名を口にすることで話を遮る。無礼なのは分かっていたが、このままではおばちゃんの前で恥ずかしいことを延々と語りかねない。それだけは勘弁して欲しかった。 「今回の沙汰、いかほどに扱われるおつもりでしょうか?」
「それならばどうもこうもないよ。怒りなど最初から抱いてはいないからね。確かに手刀は乱暴だけど、少しでも長く大事にものを使おうという気持ちが込められていることは機械自身も承知していたはずさ」
「それならば、どうしてテレビは止まったんですか?」
「人間風に言うならば寿命が来たんだろうね」そのテレビに映っていながら、諏訪子はいけしゃあしゃあとそんなことを口にする。「人の命に限りがあるように、ものの命もいつか尽きる。儚いものだね」
半永久的な存在がそんなことを語れば嫌味にしか聞こえないのだが、彼女はそんなことを気にする様子もない。だからこそ長らく神を勤めて来られたのだろう。自分には真似できそうにないなと思った。
「いつもなら持ち直していたテレビも今回ばかりはとどめの一撃となったのだろうね。まあ、かといって気に病む必要はない。むしろ天寿を全うさせたことを誇るべきだ。この頃はちゃんとした寿命を迎える機械のほうが珍しいからね。みんなどんどん新しいもの好きになっている。早苗はそれも悪いことではないと言うけれど……」
再び制止するべきか迷っていたところで、背景のノイズが突然強くなり、諏訪子の姿をかき消していく。
「いよいよ本当に寿命らしい。それではこの辺でお暇するとしよう。このテレビは霊夢の手で厚く供養してやって欲しい。新しいテレビは明日にでも、河童を遣わせて備え付けさせよう。もちろん無料でというわけにはいかないが、そこは気持ちの分だけ払ってくれれば良いよ。わたしの名に誓って文句は言わせない」
途中まではおちゃらけていたが、最後は威厳をもって真面目に締めてくれた。豆腐屋のおばちゃんは諏訪子の態度に感銘を受けたようで深々と頭を下げ、霊夢は音を立てないよう小さく息をつく。やがて最後のノイズも消え、静寂が戻って来た。
「霊夢ちゃん、ありがとね。お陰で上手く収まったみたいだよ」
豆腐屋のおばちゃんは少し涙ぐんでさえいるようだった。ペットが死んだ時の飼い主の反応に少し似ているのかもしれない。
「今日はまだ用事があるから、終わったらテレビを取りに来るわ。それまでに別れを済ませてもらえると助かるかな」
「供養してもらうんだから、神社まで持って行くよ。それが礼儀ってもんだろ?」
店を空けさせるのが申し訳ないから提案してみたのだが、そこまで言うならば無理に食い下がる必要もないだろう。それに里の中では空を飛んではいけないから、外に出るまでテレビを担がなければならない。鍛えているといってもそれは流石に辛い。霊夢は申し訳なさそうに手を合わせる。
「次に来てくれた時はうんとサービスするからね」
おばちゃんの気の良い笑顔に、霊夢も相好を崩す。面倒なことは基本的に苦手だが、褒められるのが面倒だと思うほどすれてはいないからだ。
買い物を終え、頭の中で晩ご飯の算段を練りながら往来を歩いていると、視界の端に遠子が映った気がした。頭巾を目深に被っていたから確証はなかったし、稗田家の深窓がお供一人つけずに外出などあり得ないから、おそらくは人違いなのだろう。しかし不思議と他人の気がしなかった。霊夢は遠子がお忍びで出かける理由がないか頭を巡らせ、すぐに先日交わした会話のことを思い出す。
『三日後に新型パソコンの展示会があるらしいわ』遠子は例によって訪問してきた霊夢に目もくれず画面と睨めっこしていたのだが、唐突にそんなことを呟いた。 『昨日まではどこにも掲載されてなかったわ。でも珍しいわね、こんなにも急に、しかも東の里でだなんて。こういう展示会は北の里でやるのが常なのに。それでいつも悔しい思いをしてきたの、霊夢だって知ってるでしょう?』
御阿礼の子だなんて立場でなければ、当の昔に北へ引っ越しているわよと毎月のように聞かされていれば、嫌でも沁みつくに決まっていた。しかしそれは叶わぬ夢であると霊夢も遠子もよく知っている。
幻想郷に住む人間には名目の上では職業選択の自由が与えられているけれど、いくつかの例外がある。霊夢が《幻想郷で最も霊力の高い人間》であるから博麗の巫女として選ばれたように、遠子は《御阿礼の子として生まれてしまったから》稗田家当主として幻想郷縁起を紡がなければならない。
『それならば、わたしが代わりに見てこようか?』
せめて現場の活気を伝えれば気も晴れるかと思ったが、遠子は余計に機嫌を悪くしたようで、首をぶんぶんと振り、口元を窄める。まるで駄々をこねる子供のようだなと思った。他の者の前では我侭一つ言わないのに、自分の前でだけは言葉を崩し、同輩として接しようとするのだ。
『霊夢を最先端の機械が展示されている会場に派遣して何が得られるって言うのよ。猫に小判を与えるようなものだわ』
ではどうすれば良いのかと思ったが、霊夢は特に何も反論しなかった。遠子が愚痴を言うのは意見を求めているからではない。心の錘を一時的にでも投げ捨て、軽くするためだ。霊夢は職業柄、話を聞いて欲しいだけの人が沢山いることをよく知っている。
『価値が分からなくても小判を拾ってくることはできるわ。確かに機械音痴だけどパソコンを使えないわけではないのよ』
東の里には未だにリモコンを恐れる年寄りもいる。彼らは離れた場所からボタン一つで画面を切り替えられるのは面妖だと、頑なに古い型を使い続けている。それに比べれば十分使いこなしているはずだ。
『ごめん、ちょっと言い過ぎだった。この話はもうやめにしよう、ね』
遠子は素直に頭を下げ、それで話は終わりとなったのだが霊夢はそのことが少しだけ引っかかっていたのだ。いつもならしょうがないわねと言わんばかりに機嫌を戻し、代わりに見てきて欲しいと手を合わせながら頼んでくるはずなのに、その日だけやけにしおらしかった。
逡巡ののち、頭巾を被った人物の後を追った。仕事柄、気配を消して後を尾けるのには慣れているが、いつもより警戒しなければならなかった。瞬間記憶能力者である遠子なら一瞬でも視界に入ったら気付かれるかもしれないからだ。
ちらちらと観察するうち、遠子に違いないという思いが強まってきた。顔を隠していても歩き方や無意識に現れる癖で分かる。そして彼女は東の里で展示会がよく行われる会場へと向かっているようだった。外出許可は取っていないのだろう。ただでさえ人が沢山集まるかもしれない上、機械の展示会ならあいつらが現れる可能性も高い。弾幕決闘がトレンドとなっている現状で、そんな場所に行って良いと許可が出るはずもない。
不意に背筋がちりちりとむず痒くなる。霊感か、別の力かは知らないけど、昔から厄介事が降りかかりそうになると身体に影響がないレベルで妙な予兆が走ることがあるのだ。何か良くないことが起こるに違いなかった。
展示場の近くまでやって来ると、河城の物々しい雰囲気のバンが何台も近付いてくるのが見えた。これから展示用のパソコンを搬入するのだろう。告知のタイミングといいなんとも忙しないことだが、襲撃の危険があるならこうしたやり方もやむを得ないのかもしれない。
まだ開始まで時間があるのか、新しもの好きが列をなしている様子もない。遠子もぐるぐると遠巻きに様子をうかがいながら、機を見て中に入るつもりなのだろう。そう考えて辺りを見回せば、同じような行動を取っている人間が何人か見える。
そのうちの一人がいきなり、道の真ん中に飛び出していった。先頭の車両が慌ててブレーキをかけ、甲高い音が響く。運転手はバンから下りると、飛び出して来た何者かを介抱しようとして近付き……奇妙な声をあげながらその場に倒れた。
道の真ん中に飛び出した人物は音も立てず空中に浮くと、聞き覚えのある音をべんべんと鳴り響かせる。その姿はいつの間にか少女の姿となっており、トレードマークである光る糸をかけた琵琶を、してやったりという表情で構えていた。
厄介な奴が現れたなと思った。彼女は九十九弁々、幻想機械解放同盟の中でも最古参にあたるメンバーの一人だ。琵琶から発せられる音を攻防自在に操り、襲撃から騒音被害まで幅広い嫌がらせを得意とする。それだけでも面倒だが、弁々ほか雷鼓に直接指導を受けた付喪神は共通してある特徴を持っている。里中に堂々と現れたのだから強く警戒して当たるべきだった。
河童たちは事前に打ち合わせをしていたのか一斉にバンから降り、水鉄砲を構える。子供が遊びで使うようなものではなく、当たれば少なからぬ衝撃を覚える代物だ。弾幕ごっこの体裁は辛うじて整えているものの、律儀に決闘をするつもりはないらしい。取り留めのない会話も開始の合図もなく、撃ての号令のもと、豪雨のような水量が弁々に向けて放たれる。
弁々は琵琶をかき鳴らし、あっという間に音の壁を作り出す。水鉄砲の攻撃が激しくなるごと、弁々の音も勢いを増し、琵琶とは思えない強烈なビートが響き渡る。
激しくもやかましい攻防ののち、ぴたりと河童の弾幕がやんだ。どうやらタンクの水が切れたらしい。だが河童たちは三段まで構えていて、二段目の河童たちは一段目と即座に交代し、すぐさま弁々に狙いを定める。相手が疲弊するまでひたすら撃ち続ける戦法らしい。
その目論見は一瞬のうちに打ち砕かれた。
つんざくような音とともに雷鳴が走り、水撃が一斉に弾き散らされたのだ。弁々の右手は弦に添えられておらず、子供をあやす時に使うでんでん太鼓が握られていた。登場までその正体すら認識できなかったのでもしやと思っていたが、やはり譲渡された能力を他にも隠し持っていたのだ。
妖怪は意味によって存在するため、種族由来の力を行使するのが普通だが、意味を取り替えた経験を持つ付喪神にその制約はない。だから本人の能力だけでなく、解放派に所属している面々の力を平然と行使してくる。
河童たちは大半が雷に撃たれ、身動きさえ取れない様子だった。相手が雷鼓でなくても付喪神が出てきたならば、雷撃の使用を警戒しなければならないのにその準備をしていなかったようだった。攻撃だけでも押し切れると侮ったのだろうか。
舌打ちを辛うじて押し殺すと、霊夢は荷物を地面に置き、懐からこっそりと針を取り出す。不意打ちは気が引けるけれど、里の中で妖怪同士に堂々と暴れられるのは示しがつかない。幸いにして弁々ははかりごとが上手く運んだことで気を大きくしており、辺りに気を配っていない。それでも慎重に、少しずつ針に霊力を込め、気持ちを押し殺して無造作に投擲した。針は弁々の右手に上手く刺さり、年頃の少女らしい悲鳴とともに太鼓を取り落とした。弁々は慌てて追い縋ろうとしたが、太鼓は続けて霊夢が放った針の一群に射抜かれ妖力を消失する。弁々は間に合わないと判断してすぐに回収を諦め、霊夢に相対してから琵琶を構え直す。
不意打ちはこれにて終了と判断し、霊夢は弁々と同じ高さまで上昇すると、札を扇状に構える。投げるもよし、結界に転じて防ぐも良し。準備万端であることを示して奇襲の優位が失われたことを示したのだが、弁々はいつもの引き際の良さが嘘のように留まっており、あまつさえ雪辱を果たそうという気概さえ感じられた。
「あの太鼓で河童たちを制圧し、積み荷を奪う予定だったんでしょう?」
計画が崩れたのだから早く撤退しろと臭わせたのだが、やはり戦意を崩す様子はない。妹分の八橋ならまだしも、弁々は気を見るに聡いタイプのはずだ。これだけ言えば十分に理解して適切な行動を取るはずだった。
弁々は無言で琵琶を爪弾き、巨大な五線譜を頭上に浮かべる。どうやらここで仕掛けてくるらしい。いよいよ今日の彼女はおかしいと思ったが、戸惑いを浮かべれば勢いづくのが妖怪という存在だ。霊夢はあくまでも強気に弁々の説得を続ける。
「ここで暴れるのはあんたらの教条に反していないかしら?」
里には解放派が救わなければならないと考えている機械で溢れている。それらに被害を与えないために、里やその周辺では極力暴れないようにしているはずだ。しかも地上に停まっているバンには最新のパソコンが何台も載せられている。ここで弾幕決闘なんてできるはずがない。そう指摘したかったのだが、弁々は不敵に笑うだけだ。
もしかすると彼女は陽動を行っているのではと、不意に思いつく。別働隊が近くに控えていて、自分をここへ釘付けにしたいのだとしたら。それならば五線譜も見せかけだけで、実際に弾を撃ってきたりはしないのかもしれない。
霊夢の予想をあざ笑うように琵琶が爪弾かれ、音符が雪崩のように押し寄せてきた。流れを見切ろうにも一つずつの速度や動きが微妙に異なり、かわすだけでは対処できそうにない。それに霊夢は元からちまちまかわす気などなかった。相手に遠慮がない以上、時間をかけるほど里に被害が出る可能性が高くなるからだ。
弁々を狙って速攻で符を止める。心の中でそう呟くと、霊夢は迫り来る弾幕に対して正面突破を試みる。前方に向けて針を掃射、音符弾を次々と相殺していき、避けきれないと判断した音符は札を円状に展開した結界の盾で打ち返す。物量に対して一点集中、錘のように穴を穿ち、霊夢は徐々に音の流れを突破していく。すると弁々の演奏も激しくなり、音符の勢いが増すとともに琵琶らしからぬ多重音が響き始めた。がんがんと耳を打ち、集中を保つのが難しくなる。しかも通り過ぎたはずの音が跳ね返り、霊夢の側を何度も掠めていく。
「馬鹿! こんな所で山彦の能力なんて使うんじゃない!」
音符を乱反射させたせいで、その一部が地上に向かっていた。この程度の諍いで符を切りたくはなかったが、里の人間に被害が出ることは絶対に避けなければならない。
「夢符「封魔陣」を宣言!」
所持していた符を破り、中に込めた力を解放させる。周囲の妖力を潔斎する白き光芒が霊夢を中心として周囲に広がり、大量の音符を一気にかき消して更には弁々をも押し流そうとする。人ならざるものには効果覿面のはずだが、弁々は微かに怯んだ様子を見せただけで、空に浮かぶ五線譜も未だ健在だ。戦意を崩した様子もない。
「力の使い方を考えなさいよ。それができない頭じゃないでしょう?」
同じ解放派でも下っ端の妖怪や妖精なら、命じられたことしか実行できないだろう。それすらもままならず、命令を忘れて遊び出すこともしばしばだ。しかし弁々は十把一絡げの相手ではない。それなのに勢いづいた妖精のように里で暴れるだなんて、少なくともこれまでならばあり得なかった。むしろ暴走を諫める側に回ったはずだし、実際に威厳をもって叱っているところを何度か見たことがある。
頭の出来を指摘されたのが悔しいのか、それとも他に思うところがあるのか、弁々は口元に苦々しさを浮かべ、弦から手を離す。戦意はまだ残っていたが、継戦の意志はないらしかった。
「確かに柄でもないことをしでかしたわね。攻め時だけでなく引き際も誤るなんて」引き際? と訪ねる前に答えが一斉に姿を現す。河童たちが弁々を取り囲み、険しい顔で水鉄砲を構えていたのだ。おそらくは姿を隠して機をうかがっていたのだろう。 「わたしはどこまで行っても琵琶の付喪神なのね。愉快なことがあれば騒がずにはいられない。傍迷惑なんて言葉も忘れ、盛り上がってしまう」
完全に囲まれているというのに、弁々の口調は余裕に満ちている。こんな状況から逃げ出すなどお茶の子さいさいとでも言いたげだ。そして実際にあっさりと逃げ切ってしまうのだろう。霊夢としてはこれ以上、里に危害を加えないならばそれで良かった。だが手玉に取られた河童たちは当然ながら気が収まらない様子だった。
「今回はこの上ないほど失敗したけれど。我々、幻想機械解放同盟は近い内に必ず、その本懐を果たすことでしょう。その日が来るのを楽しみにしていてね」
器用にウインクを飛ばすと弁々の体が揺らぎ、かき消えると同時に浄瑠璃の音が聞こえてくる。祇園精舎の鐘の音、諸行無常の響きあり。弁々の語りは徐々に遠ざかっていき、河童たちは水鉄砲をめったやたらに撃つものの、手応えはまるでなく。全てが収まるとともに静寂が辺りを一瞬だけ満たし、すぐに眼下の喧噪へと変わっていく。
決闘を観戦していたであろう人たちはしばしの間、そこかしこでひそひそと話し、あるいは賭けを張っていた胴元と金銭のやり取りをしていたが、すぐに日常へと戻っていった。河童たちはすぐに平静を取り戻し、展示品を会場へと運んでいく。
警察がぞろぞろと姿を現したのは全てが終わった後だった。
風紀紊乱を正し、解放派を始めとした妖怪や妖精の被害にも対抗できる装備を有しているとうたう組織ではあるが、どうにも緊急事態には後手後手に回ることが多い。その装備にしても警棒に申し訳程度の加護を付与したものであって、飛び道具の類は一切渡されていないから、弾幕決闘が流行中の郷では何もできないと言って良かった。どれほど文明が発達し、便利な機械が普及しても、人ならざるものへの脅威を払拭することはできなかったのだ。社会には霊夢のように強い霊力を持つ人間が必要であり、今後もしばらくは変わらないだろうというのが世の趨勢だ。
霊夢にしてみれば役に立たない警察は願ったり叶ったりである。中途半端に戦える力を有していたならば、決闘の間中ずっと周囲に気を配り続けなければならない。そこまで器用に戦えるとは思っていなかった。今日の弁々みたいな相手ならば尚更だ。警察もそのことを根っこでは理解しているのだろう。しかし、いかな博麗の巫女といえど、年端もいかない少女にばかり活躍されることには複雑な気持ちを抱いているようだった。
彼ら/彼女らの霊夢を見る目は様々だ。子供が荒事に顔を突っ込むのは感心できないと考える者もいれば、働く女性の象徴だと輝くような視線を向ける者もいる。もちろんその逆で、女なんて家の中に引っ込んでいれば良いとばかりに冷たい表情や言葉を向ける者もいる。
先頭に立つ隊長はそのどれでもなく、いつも頑張るなあと気さくな、見方によっては他人事めいた態度を向けてくる。彼は霊夢が信用して良いと考える数少ない大人の一人でもあった。
「今日は随分と派手にやらかしたみたいだな」
おおよその事情は既に把握済みなのだろう。だとしたらいちいち報告する必要もないのだが、隊長は霊夢の口から話を聞きたがった。それ自体はいつものことなのだが、今日の出来事は霊夢のほうでも誰かと共有しておきたかった。
展示会場に向かおうとする遠子を追っていたくだりは省略し、河童たちの仕事を邪魔しようと九十九弁々が現れた場面に偶々出くわしたこと。不意打ちで出鼻を挫いてみたが、いつもと違って撤退する様子がなく攻撃を仕掛けてきたこと。それだけでなく、里に被害の出るような力を考えなしに振るってきたこと。
それから最も大事な最後の宣言についてまでをかいつまんで説明した。
「幻想機械解放同盟は近い内に必ずその本懐を果たす。彼女……もといあの妖怪はそんなことを口にしたんだね?」
霊夢が首肯すると隊長は腕を組み、考え込む仕草を見せた。
「自信を持って断言できるだけの計画を練り上げたのだろうか?」
その可能性は十分にあり得た。今回に限らず、ここ最近になって解放派のやり口はより嫌らしさを増している。悪戯の延長にあることは変わらないのだが、それまでになかった意地悪さを感じるようになった。もしかすると嫌がらせをすることに長けた、あるいは慣れた何者かを仲間に引き入れたのかもしれない。
完璧な計画なんてこれまでも耳にたこができるほど聞かされてきたけれど、完遂された試しがなかった。いつも穴だらけで涙が出るほど間抜けだったからだ。里の人間が危機感すら覚えず、弾幕決闘を鑑賞していたのもそのためだ。誰が物騒な計画を立てているかは知らないが、きっと雷鼓や九十九の姉妹ではないのだろうと推測された。
「冬場くらい人間と同じようにひっそりとしていて欲しいものだが」
その意見には全くの同感だったが、解放派の妖精や妖怪は冬の寒さを気にする様子があまりない。まるで半ズボンで外を駆け回る子供たちのようなのだ。
「それだけでなく、自然もいつもと調子が違うらしくてね。西の里では最近、連日のように濃い霧が立ち込めているらしい」
それは確かに珍しいことだった。西の里は彼岸に近いためか、東側と比べて湿度が低く、夏場でも霧が立つことはあまりない。冬になると湖には分厚い氷が張るため、近隣住民がスケートを楽しみによく訪れる。水面下に人魚が泳いでいるのを目撃したカップルは幸せになれるというジンクスもあるらしい。
「荒れることがなければ良いんだけどな」
隊長が言いたいのは天気のことだけではないだろう。不安が重なればそれだけ治安を守る者の心は重くなる。霊夢はそんな気詰まりを払うよう、楽天的に振る舞ってみせた。
「きっと大丈夫よ。霧は直に収まるでしょうし、解放派にしたってこれまでいつも自滅したりへましたりばかりじゃない。今度だってきっとそうなるわ」
そう言って心配そうな隊長を励ましてはみたけれど、内心はあまり穏やかではなかった。遠子を追いかけていた時に感じた背筋のむず痒さが、先程にも増して身を苛んでいたからだ。いま話したことのどれか、あるいはその全てが原因となって、近いうちに災厄としてこの身に降りかかってくるのかもしれない。
「そうだね。注意はするが、気を張ることもないだろう……ところでさっきからお友達が待っているようだね」隊長の視線を追うと、遠子が少し離れた所をうろうろしているのが見えた。 「あとはこちらだけで何とかなるから、娘に付いていてもらえると少しは心が安まる。騒乱の種は撤退したけれど、安全が保証されたわけではないから」
「あの、怒らないであげてもらえないでしょうか?」
危険な場所になる可能性があるから近付くなと念を押していたはずなのに、遠子は約束を破った。二度とこんなことをさせないならばきつく叱る必要があるはずだ。しかし隊長は遠子から視線を外し、何も見つけなかった振りをした。
だから霊夢は無言で頭を下げ、偶然見つけた振りを装って遠子に近付く。
「あれ、遠子じゃない。そんなフードを被ってどうしたの?」
遠子はいきなり話しかけられて慌てた様子だったが、すぐに辿々しい弁解を始める。
「あ、えっと……その、寒いでしょ、耳とか!」
そう勢いよく答え、文句があると言わんばかりに睨みつけてきた。
「そうね、もうすぐ冬だし。わたしも厚手のフードでも買おうかしら」
「え、ええ。それが良いわ。霊夢ったらいつも見ているだけで寒くなるような格好をしているんだもの」更に言葉を続けようとしたが何も浮かばなかったらしい。今度は上目遣いで霊夢の様子を窺ってきた。 「もしかして例の展示会に行こうとしてたの、ばれちゃってたりする?」
「遠子のお父さんは見なかったことにするって」
「悪かった、反省してるわ。こんな事態になると、考えて然るべきだった。好奇心は猫を殺すし、過去にそれで死んだ乙女もいるって知っていたはずなのに」
「だから見なかったことにしてくれたんだと思う」千数百年の記憶を繋ぎ、今もなお顕現し続けている乙女の賢明さを遠子の父は信じたのだろう。もしかすると娘であっても当代の乙女を叱ることはできないだけかもしれないが。 「送っていくわ。危機はもう去ったはずだけど」
霊夢はそっと手を差し出し、遠子は渋々その手を握る。彼女は知識の塊といって良いほど賢いけれど、猫のような好奇心に駆られやすいところがある。逃げ出したりしないと分かっていても、どこかが繋がってないとまた変な場所に迷い込んでしまわないか少しだけ不安だった。
幸いなことに解放派もそれ以外の災難もやってくることはなく、無事に遠子を屋敷まで送り届けることができた。遠子はじっと俯いていたが、ぼそぼそとした声でありがとうとだけ告げると、早足で屋敷の中に駆け込んでいった。
きっと自分のしでかしたことが恥ずかしかったのだろう。霊夢は未だに収まらない背中の痒さを気にしながら神社への帰途に着く。何か忘れている気もするが、思い出せないならば大したことではないだろうと思い、振り返ろうとはしなかった。
荷物を置きっ放しにしていたと思い出したのは神社に戻ってからしばらくのことだ。夕食の準備を始めようとして調味料を切らしていたことに気付き、そこからなし崩しに忘れ物を思い出したのだ。幸いにして親切な人が警察に届けてくれたらしく、いつもより夕食が一時間遅れるだけで済んだ。
夕食を終えた頃には背中の痒さもすっかり消えており、起きてないことを今から悔やんでもどうにもならないと、ひとまずは開き直って日常を過ごすことにした。
二
この季節は布団から抜け出すのに、弛まぬ決意を注がなければならない。その暖かな誘惑には抗い難く、朝のお勤めなど一日くらいさぼっても良いだろうとしきりに魔を差してくる。
そんな気持ちを覆したのはどさりと重く落ちる雪の音だった。どうやら昨夜から今朝にかけて随分と降ったらしい。博麗神社は非常に旧い建物だから、雪の重みにあまり耐えられるようにはできていない。一夜の雪で潰れるほど柔ではないが、こまめな雪かきはどうしても必要になってくる。
えいやっと布団をめくって寝床から脱出すると、寝間着から巫女服に素早く着替える。夏用と冬用に一応分かれているけれど、異なるのは布の材質だけで腋の部分が派手に空いており、寒気に耐えられる造りとはとても思えない。防寒用のインナーに厚手のタイツ、首筋にマフラーを巻いてようやく寒さを凌げるといった按配だ。こんな伝統を残した当時の巫女を恨むべきか、破廉恥まがいの巫女服を仕立てた誰かを呪うべきか、霊夢の中では未だに決着がついていない。
物置に置いてあるスコップを持って外に出ると、うっすら霧がかかっていた。日が昇れば薄らぐだろうが、肌にまとわりつく冷たい湿気はなんとも厭わしい。それでも雪かきに出たのは朝から決意を振り絞ったのに何もしないのはもったいない気がしたからだ。
屋根の雪を落とし、本殿から鳥居までの石畳、地上に続く石段まで、スコップで雪を掻き分けて道を作る。参道の雪もなんとかしたかったが、里までの道に積もった雪を全て除けるのは数日がかりの大仕事になるし、その前に体が限界に達するだろう。それに悲しきかな、正月が過ぎれば節分まで神社を訪ねる人間は全くと言って良いほど現れない。だから空を飛んで神社にやって来る酔狂ものに対して体裁が整っていれば良いのである。
スコップをしまうと、続けて部屋の掃除に取り掛かる。いつもは朝食を摂ってからの作業なのだが、既に汗をたっぷりと掻いてしまったから、体を動かす作業はまとめて先に済ませておこうと考えたのだ。
軽くはたきをかけてから押し入れの中にしまってある掃除機を出し、電源にコードを繋ぐ。それから略式の拝礼を行い、最後に一礼をしてからスイッチを入れる。掃除機はいつものようにけたたましい音を立て、床の上を滑るその動きはぎくしゃくとしている。吸引力は健在だが車輪の取り付け部分にがたが来ており、いよいよ限界らしい。騙し騙し使っていたが、近い内に修理を呼ぶ必要があるなと心の隅に留めておく。
次いで廊下に雑巾をかけ、御神体が置いてある本殿の床も念入りに拭いて回る。最後に御神体を専用の布で慎重に磨き、小さく息を吐く。大掃除でもなし、これ以上念入りにする必要はないだろう。
お次は籠に溜まった洗濯物の処理だが、これは作業のうちに入らない。掃除機と同様に拝礼すると、いくつかのダイアルを操作してコースを決め、動作させるだけだからだ。洗濯が終わったら脱水槽に入れ直して再度、動作させれば良い。正しく朝飯前だった。
お腹がぐうと鳴り、食事を寄越せとせがんだので台所に向かい、雑に朝食を作ることにした。冷蔵庫に手を合わせてから材料を取り出すと、まずレンジに凍らせておいたご飯を入れ、解凍モードに合わせて動作させる。それからタッパーに入れておいた大根の葉の和え物を小皿に、鶏肉と大根の煮物を鍋から小鉢に移し、粉末の味噌汁をお椀に入れる。
解凍が終わったご飯と入れ替えで煮物をレンジに入れ、ポットから湯を注いで味噌汁を完成させるとタイマーのじじじじという音を背に、献立をお盆に乗せていく。煮物の温めが終わると、ほぼ昨晩と同じ朝食が完成した。一人暮らしだととてもではないが、三食きちんと料理する気にはならない。
居間に食事を運び、手を合わせてからいただきますを唱え、深々と頭を下げる。機械と同様、毎回の食事にも感謝の意を込めるのが、郷のならいである。一人暮らしならば躾や礼儀を咎められるわけでもなし、畏まった挨拶は必要ないのだが、一応は神に仕える身だし、それに幼い頃からよく聞かされたあの話をどうしても思い出してしまうのだ。
『食べ物に感謝しないと腐り神様がやって来て、お腹の中のものを全部腐らせちゃうよ。そうすると何日も痛い痛いしか言えなくなるほど苦しんでしまうよ』
今でこそ彼女が残酷な神でないことを知っているし、秋ごとに実りを分けてくれるありがたい神であることも知っている。いつか里に蔓延る畏れを取り除いてあげたいとは思うのだが、今のところ一つの妙案も浮かばず。切なくなりかけた心を腹の虫が再びくすぐり、詮無いことだと気持ちを収め、食事に手をつけるのだった。
朝食を終え、食器を片付けてから洗濯機の様子を見ると、洗濯は既に終わっていた。霊夢は洗濯物を脱水槽に入れ替えてから、寝室に置いてあるパソコンを立ち上げ、ブラウザを開く。博麗神社のサイトには質問を受け付けるページがあり、脱水が終わるまでの時間を利用して答えようと思ったのだ。
新しい投稿は三件あった。一件目は匿名希望で、先日発生した解放派の襲撃における警察発表への懐疑的な論調から始まり、彼らは巫女の活躍を不当に横取りしているのではないかという疑問で締めくくられていた。
これに関してはよくある質問と回答のページにも書かれていることがそのまま返答となった。博麗の巫女は警察とセクションこそ異なるものの単なる公務員であり、本来の役目は神社の運営を行うことである。それともう一つ、異変と呼ばれる警戒レベル最大の事象を解決するために存在する。そのための能力をより規模の小さいいざこざに対して使用することもあるが、あくまで捜査協力の域を出ない。今回もその一環であり、別段変わったことはない。
二件目もまた匿名希望だが、西の里に住む農家の女性だとはっきり書いてあり、筆調からも女性にありがちな細やかさが見て取れる。性別を偽っている可能性もあるが、今回のような相談で性別を誤魔化す必要はないので考慮には入れないことにした。
最近、西の里に立ち込めるようになった霧はいつ止むのでしょうか。子供が最近、体調を崩しがちになり、ひっきりなしに咳をするようになりました。巫女様は既にその正体を探り出し、解決に向かっているのでしょうか?
霊夢にとってその話は初見だった。真昼になってもなお晴れることのない霧が立ち込めること、視界の悪さに乗じて様々な噂が駆け巡っていることは知っていたが、健康被害まで出ていたとは。近日中にも警戒レベルが更に引き上げられるかもしれないという通達は受けていたが、もしかしたらそれが原因なのかもしれない。
答えは無難に、調査中ですがまだ解決には至っていないとだけ返しておいた。実際は全く手付かずなのが現状である。警察は里に対する解放派の再襲撃を最も警戒しており、できる限り自宅に待機して備えろと命じられているのだ。俄かに湧き立つ苛立ちを抑えながら、霊夢は三つ目の質問を開く。
切り裂きジャックは本当にいるのでしょうか?
知るか、と反射的に打ってから回答する直前で思い留まる。そして机の端を指でコツコツと叩き、苛立ちをいなしてから打ち込んだ文字を消し、大きく深呼吸する。
切り裂きジャックとは霧から生まれた噂の中で最も話題となっている怪人の名前である。霧まとう里をうろつき、年頃の女を狙う恐るべき殺人鬼であり、犠牲者の数は二人とも五人とも、十数人とも語られている。警察ではジャック某なんてものは存在しないし、殺人が起きたという報告もないと繰り返しているのだが、あまり信用されていないようだ。怪異の対応に芳しい結果を出せていないことも理由の一つだし、見通しがきかなくなるほどの霧が常に発生しているから、警察としても「おそらく」 「かもしれない」といった確定を避ける言葉を使わざるを得ない。更には霧による外出制限もあり、それらが噂の拡大に拍車をかけていた。考察サイトも一つならず立ち上がっており、無根拠な情報に対する議論で日々盛り上がっている。そして時折、ネットスラングで凸と呼ばれる公式への突撃行動を取る輩が現れる。霊夢が同様の質問を受けたのはこれが初めてではなかった。
そのたびにそんなものはいないと断言したい気持ちに駆られた。切り裂きジャックという名前は心のどこかをちりちりと刺激し、霊夢を何故か苛立たしい気持ちにさせるのだ。ネットで噂になるまで名前すら聞いたことがなかったのに。そもそも切り裂きジャックがどういう存在であるのか、ネットで調べてもほとんど分からなかった。辛うじて検索できたのは霧の都なる、実存したかさえ分からない街を跋扈していた架空の殺人鬼であるということだ。
切り裂きジャックはかつて郷に現れ、初めて霊夢を名乗った巫女に退治されたのかもしれない。妙に勘が騒いで仕方ないのはその脅威を無意識のうちに知っているからではないか。架空の存在が顕現するのは、幻想の名を冠するこの郷では決してあり得ないことではない。
実を言うとこの手の勘が働いたのは初めてのことではなかった。霊夢の名前を継いでからこちら、どう考えても知り得ないことを当然のように理解していたり、今回のように未知の存在が引っかかって仕方がないという気持ちになることがあった。たまに神社に姿を表す自称出張カウンセラーの古明地こいしによると『それは共時性の一種だと思うよぉ』とのことだった。
『霊夢はね、霊夢に似てるの。うーん、なんかややこしいなぁ……』自分で言っておきながら機嫌を悪くされても困るのだが、混ぜっ返すといよいよ不貞腐れそうなので、霊夢としては悩ましそうに唸るのを黙って見ているしかなかった。 『めんどくさい! どっちも霊夢で通じるよね? というわけで話の続きなんだけど、似ているものは同じことを共有しやすい性質があるの。例を挙げるとね、夫婦仲が悪くて妻が夫をぐさーっと刺した家があるとします。しばらくしてまた夫婦が引っ越して来て、ぐさーっ。その後も引っ越して来た夫婦が毎回、ぐさーっを起こすので誰も寄り付かなくなってしまったのだけど。子供連れの夫婦が越して来たときは何も起こらなかったんだよね。その家は似たようなものが同じようなことを起こす、いわば共時性のトラップみたいな存在になってたってわけ。怖いよねえ』
満面の笑みを浮かべながら怖いと言われても全く説得力がなかったし、霊夢の渋い顔や感情をこいしは楽しんでいる節があった。これだから覚は嫌だと思ったが、全く意に介する様子はなかった。むしろより機嫌が良くなった節さえあった。
『霊夢は霊夢だし、霊夢は霊夢に似てるから。同じ場所に住んでいるし、この郷は箱庭のようなものだから共時性が強く発現する条件を満たしているってこと。まあ問題はないと思うよ。博麗神社でおぞましい事件が起きたって話は聞いたことがないもの。宴会はしょっちゅう開かれてたけどね。呼びもしないのに人外が集まるから妖怪神社とも言われてたっけ』
子供はお酒を飲んではいけないという決まりがあるから、今の博麗神社では大っぴらに宴会を開くことはなかなかできない。もう一つの、呼びもしないのに妖怪が集まる特徴は徐々に強まりつつあった。一時の安寧を求めたり、仕事をさぼりたくなったり、特に用事もないのにひょっこりと顔を出してきたり。解放派の面々でさえ時折お菓子やお茶をたかりにやって来るのだからたまに呆れてものも言えなくなる。
『わたしが霊夢だから、かつて霊夢だった人にシンクロしているってこと?』だとしたら少し気持ち悪いなと思った。幽霊に取り憑かれているようなものだからだ。 『わたしはわたしなの。過去の亡霊とはできるだけ距離を置いておきたいわ』
『亡霊じゃなくて共時性。でも似ているのかもしれないね。あるいは同じ現象の異なる捉え方なのかもしれない。そしてこの郷は両方の在り方を同時に認める。ということは共時性もお化けを退治するのと同じ方法で祓うことができるのかもしれないねえ』
こいしはあははと笑い、それからふわあと特大の欠伸を浮かべた。
『ねむーい。というわけで今日の営業はおしまい』
両の瞳を瞑ると同時、第三の眼もぴたりと閉じられる。先程まで確かに在ったものが今はどれだけ目を凝らしても見つけられない。こいしはかつて覚としての特性を完全に捨てていたそうだが、今は一日に三十分くらいなら覚になれるらしい。だが覚でいるのはこいし曰く、とても眠くなることらしい。だからすぐに目を閉じ、いなくなってしまう。霊夢はまだ辛うじて認識できるうちにと布団を敷き、あやふやな存在を持ち上げて心地良い場所に寝かせてあげた。
過去も辿りながら適切な言葉を探ってみたが、切り裂きジャックなる怪人は存在しないと答えることしかできなかった。亡霊ならこんな時くらいもっと的確な助言をして欲しいと思うのだが、微妙な不愉快さの他には何も感じることができなかった。
回答を終えてから再度、洗濯機の様子を見に行くとあと少しで脱水が終わりそうだった。掃除機同様この洗濯機もよくよく使い込まれており、霊夢が博麗の巫女として暮らし始めた頃よりも明らかに動きが弱々しくなっていた。もしかすると自分の代で買い替えになってしまうかもしれない。最新型ならば一つの槽で脱水まで自動で行ってくれるし、少し奮発すれば乾燥機付きを買うこともできるだろう。雨の日も凍てつくような寒い日も関係なくなる。
流石にそこまでは必要ないし、信心が損なわれなければまだもう少しは保ってくれるだろう。霊夢の気持ちに応えるよう最後は少しだけ勢いを取り戻し、脱水が完了する。服や下着を籠に入れて外に出ると霧はすっかり晴れており、空には雲ひとつない。日が照り始めても身を切るような寒さは変わらないが、干しておけば遅くとも夕方には乾くだろう。
洗濯物を干し終わると、ようやく朝の用事も全て完了である。これで気兼ねなく朝風呂に浸かれるというものだ。これが夕刻以降であれば燗の一本でも用意するのだが、一日はまだ始まったばかりである。巫女は成人相当だが、それでも酔いどれ巫女のいる神社に参拝して良い気分にはならないだろう。それに昨夜の晩酌でちょうど酒を切らしてしまっていた。
お楽しみはまた後日と心の中でつぶやき、霊夢は湯治の準備を整えると博麗神社の近くにある温泉へと向かうのだった。
かつて存在したという外の世界では地下に管を伸ばして可燃性のガスを供給し、自在に火を扱えたらしいが、幻想郷にガス田は存在しない。電熱器具は普及しているが、必要最低限の火力を出すだけで精一杯の代物である。博麗神社には竃も残っているのだが、慶事などでどうしても必要になったとき以外は使わない。木材の勝手な伐採は禁じられており、林業に従事するには免許が必要であるからだ。木材はそのほとんどが建材として使用されるため、薪はとても高額であり、庶民ではなかなか手が届かない。
昔はそんな規制もなかったそうだが、機械の普及、医療の発展によって人口が増加したため、無思慮な伐採が深刻な自然破壊を招いてしまったらしい。その有様にいつもならば恵みをもたらしてくれるはずの神が流石に怒り、こう宣言した。実りの季節までにこれを改めなければ、人の手で育てて収穫した穀物、野菜、果物、その悉くが腐るであろう。
人間たちは当初こそ慌てたものの、真剣には受け止めなかった。実りの神は長らく人間に恵みを当ててくれたし、伐採で裸になった山も最後にはどうにかしてくれるとたかを括ったのだ。機械が電気と神仏への祈りによって動くと言えども、便利さに慣れればその畏敬も僅かずつながら薄まっていったのだろう。
そして惨事は訪れた。収穫祭当日になって収穫物が見る間もなく腐り落ち、異臭が里を覆い尽くしたのだ。人々は慌て慄き、許しを請うたが収穫物は元に戻らなかった。神罰はそれだけで終わらず、冬に備えるため薪を求めて森に入った人間へのべつまくなし攻撃が加えられるようになった。食糧の大部分を失い、薪を手に入れることができなくなったため、その冬は飢えや寒さで死ぬ者が沢山出た。人々は薪を使うのをやめ、不便な電熱器具を使うようになった。木製品も神への篤い畏敬と深い感謝を込めて扱われるようになった。
もう何百年も前の話、既にお伽話となってしまったが、教訓は未だ根強く残っている。
博麗神社から十分ほど歩いた場所に小さな温泉がある。何百年も前に突如として湧き出し、今日まで枯れることなく歴代の巫女や東の里に住む人間たち、更には温泉の近くに生息する獣や妖怪たちに憩いの場を提供してきた。かくいう霊夢も巫女になってからこちら、毎日のようにその恩恵を受けている。風呂を焚かずに住むし、少し離れた場所にある間欠泉を利用すれば温泉卵も簡単に作ることができる。朝食を作る気力がない時など温泉卵に醤油をかけ、白米のお供にすればそれだけで半日は活動できる。
昔はどこも野ざらしで、木陰に隠れて脱衣しなければならなかったが、薪の不足によって里の人間が足繁く通うようになってから立派な脱衣所が建てられた。基本は混浴だが、博麗の巫女には専用の岩風呂が用意されているので他人の目を気にする必要はない。獣や妖怪が時々先客として湯船に浸かっているが、温泉では危害を加えられることもないため、追い払ったりはしない。
神社だと霧は既に晴れていたが、温泉に近いためかうっすらと靄が立ち込め、視界を制限している。もっともそれはいつものことなので、霊夢はさして気にすることなく、専用の脱衣所で服を脱いでから湯船に浸かる。一人用といっても泳いで遊べるほどに広く、肩まで浸かって爪先まで伸ばすと思わず変な声が漏れた。
ばしゃりと入浴の音がし、霊夢は慌てて口を塞ぐ。湯気でよく見えないが、人型だからおそらく猿が入ってきたのだろう。人間に対する警戒心もないのか、人影はゆっくりとこちらに近付いて来て……霊夢に話しかけてきた。
「お久しぶりですね、霊夢さん」
聞き覚えのある声が耳朶を打つ。目の前にいるのは猿ではなく、そして人間でもない。天狗と呼称される妖怪の一人で、名を射命丸文と言う。天狗は河童と異なり、自発的に里まで下りて来ることはあまりないのだが、文は数少ない例外の一人だった。
「朝風呂とはまた良い身分ですねえ」
「日の昇らないうちから働き通しだったのよ。汗くらい流しても罰は当たらないと思うけど」
「天狗は罰を与えません。与えるのは閻魔様ですね」
本気なのかからかっているのか分かりにくいから、霊夢はいつも困らされてしまう。文は人里に一番近い天狗を自称しながら、しばしば感情の機微をちぐはぐに受け止める。話の主導権を握るための手法なのか、それとも天狗だから人間の心が分からないのか。多分前者なのだとは思うのだけど、時折本気で分かっていないから面倒臭い。
「冗談ですよ、冗談。そんな、天狗には人の心が分からない、みたいな顔をしないでください。親しい人間にそういう顔をされるとわたし、悲しくなっちゃいます」
よよよ、と声に出す文から悲しみは一切感じられない。どうやら本当に冗談と見て間違いなさそうだった。
「山でもこの冬一番の豪雪でしたからね。天狗の膂力でも守矢の威光でもあの雪を退けるには時間がかかるし、骨も折れる。やっと一段落ついたのでのんびりお風呂でもと思いまして」
「天狗の里でも河童の集落でも、温泉なんていくらでも湧いているはずでしょう?」
妖怪の山は死火山であり、その名残りで随所に温泉が湧いている。そのことを指摘したのだが、すると文は恥じらうような表情とともにそそと近付いてくる。
「ここに来れば霊夢さんに会えると思いまして」
「変なことしたら早苗様に言いつけてやるから」
「それは勘弁願いたいですねえ」文は苦笑いとも照れ笑いとも取れる表情を浮かべ、霊夢から距離を取った。 「まあ、からかうのはこれくらいにしておきましょう。本当のことを言うとここで張っていたのですよ。訊きたいことがありまして」
「それはもしかして、里で付喪神が暴れたこと?」弁々のいつもらしからぬ行動を天狗のほうでも憂慮したのかと考えたのだが、文の表情をうかがうにどうも違うようだった。 「それ以外でわたしから聞けることは今のところないと思うけれど」
「ふむ……西の里を覆う霧の調査はしていないのですね?」
「あれは自然現象でしょう?」半月近くも昼夜を問わずに漂い、収まる気配のない霧を自然現象とするには流石に無理がありそうだが、他に理由が思い浮かばない以上、霊夢としてはそう言い張るしかなかった。 「もしかして霧の出所に心当たりがあるの?」
「あれば霊夢さんに聞いたりはしません。なくともいつもなら取材に出かけているのですが、今回に限っては上からストップがかかっていまして」
「ふむ、天狗の報道は割となんでもありだと思ってたけど」
「いえいえ、あれで結構制約も多いんですよ。それにしても頭ごなしに駄目だと言われるのは随分と久しぶりですね。こんな時はいつも奇妙な事情が裏で走っていると相場が決まっていますが、今回の件では河童の面々がどうやら秘密裏に動いているみたいでして」
それは確かに奇妙なことだ。河童の専門は水と胡瓜と機械であり、霧も水に関係のある自然現象ではあるけれど、河童とはあまり縁がないように思える。
「わたしはその立場上、表だって動けません。だから霊夢さんを頼って来たんです。あの霧はもうじき異変に格上げされるのでしょう?」
「その可能性もあるという通達があっただけよ。わたしは一切手をつけてない」
「なるほど、あくまでも異変となったら調査するつもりなんですね。そういうずぼらなところまで似なくても良かったのに、ぶうぶう」
不満たらたらでそんなことを言われても困るだけだし、かつての霊夢と比べられるのは同じ名前を継いだ身としてどうしても落ち着かない気持ちになる。サイトへも同じことを返答したが、博麗の巫女は基本的に公務員であり、容易に逸脱できる立場ではないのだ。
「昔と違って、博麗の巫女はそこまで自由じゃないの」
「おっと、天狗の組織みたく、宮仕え扱いなのですよね」里にもしばしば下りてくるのだから知らないはずはないのだが、わざわざ口にするということは皮肉の一つでも言わずにはいられないのだろうか。余裕そうな顔をしているが、もしかすると切迫した事情を抱えているのかもしれない。 「お互いに辛い立場のようで」
「もしかして、禁止されていることを調査しろと命令されている?」
ふと思いついて訊ねてみたのだが、痛いところを突いたらしい。文は唇を尖らせ、霊夢を恨みがましく睨みつける。
「そういう勘が良いのやめてくださいよう」困った人だと言わんばかりだが、すぐに口元が綻んだところから本気で怒ってはいないようだった。 「妖怪の山はいつだって一枚岩ではありません。機械の隆盛によって河童の勢いが増してから力関係はより複雑になりましたし、それに今は弾幕決闘が流行っていますから妖の心も全体的に過激な方向へと傾きがちです。機械を解放しろなどと吹き上がっている輩どもも最近、随分と増長しているようですし」
霊夢は先日の弁々や、解放派の最近の動きを思い出す。奴らは最近、最新のパソコンを強奪しようと動いている節があり、霊夢の関わりがないところで奪われたこともあるらしい。電気店でなく輸送中の河童のみを狙うのは人里で極力暴れないという方針が生きているからなのか、それとも山の妖怪にも勝てるという力の誇示なのか。どちらにしろ面倒なことこの上ないと霊夢は考えていた。
「なるほど……それでは早苗様も頭が痛いでしょうね」
妖怪の山の中腹にある守矢神社には三本の柱が立っている。その一である東風谷早苗は機械の信仰を司っており、それを脅かす可能性がある解放派とは長らく敵対関係にあるのだ。
「仕事が増えたと言ってぼやいてますよ。でも結構いきいきしてますね。長らく担がれるだけでしたから、忙しくなって生活に張りが出てきたのかもしれません。弾幕決闘を懐かしがってもいましたし、そのうち麓まで下りてくるかもしれませんよ。全く、困った人ですね」
困ったという割には口元も頬もすっかりと緩んでいる。霊夢にじっと見られているのに気付いたのか、文はこほんとわざとらしく咳をし、表情を引き締める。
「それを防ぐために、原因を探り出して解決したいの?」
「それもあります。天狗のお偉方が主導権を強めたがっているのも確かです」
色々な思惑があり、板挟みになっているというわけだ。心中察するとばかりに頷くと、文は縋るような視線を霊夢に向ける。
「わたしとしては早く霧の件が異変になることを祈ってますよ」
「こちらは真っ平ごめんよ、郷が転覆するほどの異常事態だなんて」
「とてもではないが解決する自信はないと?」
「当然じゃない。わたしにできることなんて限られているわ」
かつての霊夢が生み出したとされている弾幕決闘の知識は今や大半が失われており、博麗の術も十全に継承されているとは言い難い。稗田の家に残されている知識から当時の技術を少しずつ復興させてはいるが、形になったのは半分にも満たない。そもそも心の準備が全くできていなかった。異変と認定されるような大事に遭遇するかもしれないと先代から仄めかされてはいたが、そんなことはないだろうと心の底では思っていたし、この霧もいずれはなくなってしまうのだとたかを括っていたのだ。
「ふむ、姿形は似ていても性格は異なるのですね。わたしの見立てでは今の霊夢さんも相当できる人間のはずですが」
「買い被らないで頂戴。わたしは普通の少女なのよ」
「博麗の巫女は異変の際にあらゆる権力、決まり事に優先して調査を行い、独自の権限で解決のための能力を行使して良い……ですよね。それで普通の少女というのは些か謙遜し過ぎ……ああいや、そうでもないですね。かつて普通の魔法使いを名乗った少女もいましたし」
普通の魔法使いというのは真っ当な異端であるという実にひねくれた表明だ。一緒にしないで欲しいと思ったが、文はそれですっかり納得してしまった。言い返すのも面倒だし、先代から妖怪相手に謙遜を示すのは百害あって一理なしと教わっている。だから口だけは達者に振る舞った。
「あんたの期待通り異変になったらやるだけやってみるわ。でも、あくまでもわたしの好きにやる。誰の思惑にも縛られるつもりはない」
「それでこそ博麗の巫女です」文は満足そうに頷くと、いま入ってきたばかりだというのに素早く湯から上がる。すらりとした裸身を垣間見せたのも一瞬のこと、その身を薄緑色の旋風が覆い、晴れた時にはいつもの装いを身に着けていた。 「次にお会いする時はさぞかし楽しい話を聞かせていただけるのでしょうね。期待していますよ」
文は上空へと駆け上がり、忙しなく去っていく。いつものことだが自分勝手な奴だなとは思うが、あれでも天狗としては接しやすいほうだ。傲慢を装っているが、人間への距離感を弁えている。
おそらく他の天狗ほど、人間に対して油断していないのだろう。もしかすると遠い昔、人間に手酷くやられたか追いやられた経験があるのかもしれない。霊夢は「しょうがないやつー」と大声で独りごち、だらりと力を抜いて湯に身を委ねる。そうして先程までの話を頭の中から追い出した。
三
妙な乱入者はあったものの湯浴みは実に心地良いものだった。今日はもう何もしたくないなあというぐうたらな気持ちで神社に戻り、すぐにその希望が打ち砕かれたことを知った。開封確認を求めるメールが一通届いていたのだ。メールは私信を気安く交わすために開発された仕組みであり、読むタイミングも返すタイミングもある程度の幅が認められて然るべきはずだが、仕事に使う輩どもは平気でその日のうちに返せだの今すぐ返せだの言ってくる。
萎えた気持ちをなんとか立て直し、届いたメールを開くと見たことのない差出人名が見えた。
十六夜咲夜。
この名前を見た途端、背筋がぞわりとした。鼓動が激しくなり、呼吸が荒くなる。見てはいけないものを見てしまったと全身が訴えていた。それなのに思い当たる節は何もない。わたしではない霊夢ならば知っているのだろうか。こいしの言う共時性が、過去から現在へと伝わっているのだろうか。初代の霊夢は無双の如き強さを誇っていたと聞くが、そんな彼女にとってさえ只者ではないのだろうか。
思考に止まっていた手を動かし、本文を確認する。十六夜咲夜が何者であれ、今の霊夢はほとんど何も知らない。だから少しでも情報が欲しかった。
題名「初めまして」
博麗霊夢様へ
初めまして、と言うのも何だか不思議な気がしますね。
でもあの頃の霊夢は既にいない。
それならばやはり、初めましてと挨拶するのが妥当なのでしょう。
本当ならば電信など用いず、直接お会いして伝えるのが筋なのかもしれません。
しかし、ゆえあってわたしは持ち場を離れることができません。
インク一滴の重みもない電信をもって重大事を訴える不躾をお許しください。
わたしは昼夜を問わず晴れることのない霧の元凶を知っています。
紅魔館の主、偉大なる吸血鬼を自称する幼子。
かつてわたしの主でもあった御方、名をレミリア・スカーレットと言います。
彼女はかつてその稚気ゆえ、霧を放って太陽を覆い尽くそうとしました。
吸血鬼は太陽に弱いからです。今回も全く同じ理由でことに及びました。
繰り返しなのです。歯車が延々と同じ場所で回り続けるように。
何故ならば幻想郷は全てを記憶しないからです。
かつてはわたしがいました。しかし今はいません。
お諌めすること叶わぬ身なればこそ、霊夢の名と潜在する力に縋るのです。
わたしの代わりに霧を止めていただけないでしょうか。
唐突な申し出となりますが、善処いただければ幸いです。
何度も読み返したが、霊夢にはこの短い文章に込められた全てを読み取ることができなかった。辛うじて読み解けたのは十六夜咲夜なる人物がかつての主を告発していること。何らかの事情があって主を諌めることができず、霊夢に代行を依頼しているのだということ。咲夜は霊夢にそれだけの力があると判断しているということだ。
一息置いてから霊夢は十六夜咲夜の名前を検索する。十六夜の意味を説明する辞書サイトがトップからいくつか続き、次いで西の里で活躍する咲夜という俳優のサイトが引っかかった。念のために確認してみたが、銀幕デビューを夢見る若者であることが分かっただけだ。怪異のかの字も知らないことがブログの文章から容易に想像できた。
次にレミリア・スカーレットを検索し、こちらは想定していた情報が引っかかった。といっても数はそんなに多くないし、フランドールの添え物として簡単な説明が記されている程度だ。レディ・スカーレットの名で親しまれるフランドールと違い、姉のレミリアは紅魔館に詳しい人間ですらその実情がはっきりとしない。過去に猛威を振るったとされるが、数百年前ものこととなれば人間の残した記録も少なく、妖怪の記憶でさえもかなり不鮮明になっているはずだ。
タイミングが悪いなと思った。射命丸文は天狗にしては珍しく過去の記憶を数多く有しているはずであり、レミリアのことも知っていたに違いないからだ。
もちろん他にも手はある。求聞持の法を持つ遠子ならば間違いなくレミリアのことを知っているだろう。もしかすると十六夜咲夜なる名前にも心当たりがあるかもしれない。その代わり何らかの対価を求められるのだが。
『知識はただではないの。特に情報が氾濫するこの時代ではね』
というのが遠子の持論だ。確かにネットを使って調べ物をするたび、霊夢はそのことを大なり小なり実感する。知識が氾濫すればそこから正しさを峻別するのには手間がかかる。もしかすると今の時代こそ識者と呼ばれるべき、知識をふるいにかける存在が一人でも多く必要なのかもしれない。
遠子の鼻を天狗のように伸ばす機会を与えてしまうのは少しだけ癪に触るけれど、直観はできる限り早く事実関係を整理せよとせっついている。
霊夢は早速メールを打とうとしてすんでのところで手を止め、パソコンを消して立ち上がる。レスポンス待ちの僅かな時間さえ耐えられるかどうか自信がなかったからだ。
稗田家は始祖の誕生より二千年近くも続き、これまで十五人の子を世に送り出した名門中の名門である。これだけ古い家を他に探そうとなれば、自然と人の外に限られてしまう。それほどの家系なのだが、郷の他の名士に比べ飛び抜けて権力を持つわけでも、裕福なわけでもない。むしろここ数百年では徐々に凋落の傾向を示している。
繁栄の中心が北の里や西の里に移り変わっていったのも一因だが、稗田の存在意義を機械の発達が徐々に奪っていったのが最たる原因だろう。書籍や新聞の大量生産が可能になり、特に直近二百年の歴史は図書館で容易に触れることができるし、今ならばネットのアーカイブを調べれば大抵のものは見つけることができる。幻想郷縁起は里に人外の在り方を語る特権的な書物から、歴史的価値が少しだけ高いありふれた読み物へと変わってしまった。
だが少なくとも今はまだ、他家に替えられない大きな価値がある。記録が充実していない頃の幻想郷を探るなら、今でも稗田の資料に頼らないわけにはいかないからだ。これまでも稗田家に眠る膨大な資料や記憶を電子化しようと打診されたことは何度かあったらしいが、とりつくしまもなかったらしい。長年に渡る蓄積の大半が倉に眠っているだけというのは霊夢からすれば勿体ないとも思えるのだが、折角の成果をただ同然で持っていくなんて真っ平御免だとはねつける気持ちも分からないではない。
郷の歴史を研究する者たちは稗田に頭が上がらない。霊夢はかつて遠子にぺこぺこと頭を下げる歴史家の姿を見たことがある。良い年をした大人が、霊夢と同い年の子供に臆面もなくおべっかを使い、そして遠子は当主として厳然と相対していた。霊夢と話をしている時に見せる年相応の表情や態度はすっかりと消し飛んでおり、大学で研究されている歴史がいかに浅いかを厭らしく語り、侮りを露わにしていた。
霊夢が仕事として遠子に相談したくなかったのは借りを作るのが嫌だったというのもあるけれど、あんな態度を取られたら耐えられないと思っているからだ。これまでには一度もなかったけれど、今日それが覆らない保証はない。
だからいつものように遠子の部屋まで通されても、普段通りに話しかけられなかった。それだけで何か察するところがあったのだろう。遠子はごついパソコンと巨大なモニタの置かれた机をこつこつと叩いた。苛々しているのが顔を見なくても分かった。
「何か困ったことがあって相談しに来たのよね? わたしの所まで来て遠慮がちにする奴らはみんなそうなの。でも霊夢まで同じ態度を取るとは思わなかった」
要するに遠慮するなということなのだろう。霊夢は勝手にそう解釈し、いつもの調子で遠子に話しかける。
「確認したいことがあるの。西の里に居座り続ける霧についての新情報が飛び込んで来たのよ。もしかしたら遠子なら思い当たる節があるかと思って」
遠子はふんと鼻を鳴らし、パソコンから目を離すと霊夢の顔をじっと見る。その言葉が嘘でないかをしっかり見定めようとしていた。
「霊夢の話が出鱈目と言いたいわけじゃないの。ただ、ここ数日の間に煽りや極論を吐き散らかす輩が一気に増えてね。霧が晴れなくて不安が噴出しかけているのだと思うけれど、誰もが感情的になっている。ネットに溢れる情報を眺めているだけで気が滅入りそうになるわ」
「それならば見なければ良いのに」
霊夢はネットが面倒になったらひょいと離れてしまうことが時々ある。そのたびに連絡が滞って困ると叱られて戻るのだが、距離を置くことで冷静になれることもあると常々考えている。対する遠子はいつもネットにかじり付きで、しばしば知恵熱を溜息の形で吐き出している。つまるところネットに対する考え方が根本的に違うし、霊夢は遠子の性質を簡単に矯正できるとは思っていない。それでも遠子の憔悴ぶりを見ていると口にせずにはいられなかった。
「そういうわけにもいかないのよ。幻想郷を記録するのは御阿礼の子の務めだから。たとえ九割九分九厘は屑同然の情報でもね。ああ、稗田の当主って本当に辛いわ。たまには友人の気軽な相談でも息抜きで受けないとやってられないってものよ」
肩を揉みほぐす仕草を見せる遠子の姿を見て、霊夢は安堵の息をつく。確かに機嫌を悪くしているが、怒らせているわけではないし、有象無象の書き込みよりは信じられていると分かったからだ。
「気軽な相談になるかは分からないけれど、それでも大丈夫?」
「気心の知れた相手との会話ならどんなことであっても気は抜けるものよ。遠慮するなんて霊夢らしくもない、ぽーんとあけすけに、軽率に口にしてご覧なさい」
「では遠慮なく。遠子は十六夜咲夜って人を知ってる?」
「いざよい……」明らかに引っかかる名前だったのだろう。遠子はこめかみに指を当て、ぐりぐりと刺激する。 「覚えはあるけれど不明瞭だわ。きっと相当前の代が関係している記憶に違いない。ちょっと待っててね、引き出すから」
遠子は指が埋まるのではないかというくらいにこめかみを強く押さえ、何事かを引きだそうとしていた。あらゆる事柄を記憶していられる法といっても、なんでも瞬時に取り出せるということではないらしい。パソコンで検索して答えが返ってくるのに時間がかかるのと同じで、遠子の頭もそういう仕組みになっているらしい。二千年近くも前の人間が既に、効率的な記憶の形をある程度理解ないし推測していたのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか。
「見つけた!」
遠子の声が霊夢のもの思いを遮る。よほど強烈な体験と結びついた記憶だったのか、遠子は激しく瞬きを繰り返し、溢れ出る情報をいなそうとしていた。
「わたしより六つも前、阿求と呼ばれてた頃の記憶に潜んでいたわ。この幻想郷で初めて弾幕決闘が流行し、最優の巫女が数多の異変と踊っていた、そんな時代を生きた人間の一人よ」
「ということは七百年近く前の……人間?」
「そう、人間よ。十六夜咲夜はその時代に紅魔館で働いていたメイドでね、人間なのに吸血鬼という偏屈の塊みたいな妖怪にえらく気に入られていたみたい。異変と呼ばれる事件にもたびたび関わり、ひっかき回していたようね。最初の霊夢ほどではないけれど歴戦の強者と言って差し支えないわ」
「だけど、人間なのよね?」凄い人物だったということは遠子の掻い摘んだ説明だけでもよく伝わってくる。だがいま大切なのは、十六夜咲夜が今も人間であるかどうかだ。 「吸血鬼に仕えていたと言ったけれど、最終的には眷属になったのかしら」
吸血鬼は血を啜ることで相手を支配し、その代わりに人ならざる寿命を与えることができると言われている。咲夜が眷属になったならば、実態をもってメールを送ることもできるはずだと考えたのだ。
しかし、遠子は即座に首を横に振った。
「いいえ、十六夜咲夜は眷属にはならなかった。それどころか当時の平均寿命に照らしてさえ半分も生きられなかった。彼女は密やかに弔われ、当主であるレミリア・スカーレットが隠遁する原因ともなった。どちらも悲しい出来事として記憶されているわ。咲夜の死は短命を運命づけられた当時の阿求を強く傷つけたみたい」
遠子は酷く辛そうな表情を浮かべていた。転生することで一定のリセットがかかるとはいえ同一人物なのだから、過去の乙女の記憶に触れれば追体験に苦しむのもやむなしなのだろう。このまま相談を続けてより苦しい記憶を思い出したらどうしようかと思ったが、遠子は両頬を挟むように叩いて気を張り直した。
「ごめんなさい、取り乱して。もう大丈夫よ」強がりとは分かっていたが、霊夢はそれ以上踏み込まなかった。遠子の記憶がどうしても必要だったからだ。 「繰り返すけれど、彼女はもう生きてはいない。不思議な力を持っていたから完全に死ぬことはないのかもしれないけれど、少なくとも肉体は完全に失われている。ところで霊夢は先程、咲夜が眷属になったのではないかと、かなり強い確信をもって訪ねてきたわね。そうでなければ話が合わないと言わんばかりだった。それはどうして?」
「わたしのパソコンにメールが届いたの。差出人の名前が十六夜咲夜だった」
霊夢はプリントアウトした本文を遠子に手渡す。彼女の記憶術ならばそんなことをする必要はないのに、一字一句くまなく目を通していた。そこまでして吟味する必要があると判断したのだろう。そして確認が終わるやいなやくしゃくしゃに丸めて壁に叩きつけた。よほど腹が据えかねたに違いなかった。
「なんて酷い文章かしら。霊夢、このメールを送って来た十六夜咲夜は決して本物ではない。彼女は死の直前まで主のレミリアに忠実だった。それをこんなにもあっさりと告発するなんて決してあり得ない」
遠子の顔は憤慨で紅潮していた。激しやすい性格ではあるけれど、ここまで感情を強く露わにする様子を見るのは霊夢も初めてだった。
「ふざけているわ……でも、全て出鱈目というわけでもない」遠子の顔から紅が徐々に取れていき、呼吸も伴って整っていく。 「レミリア・スカーレットが過去に霧を生み出し、幻想郷を覆い尽くそうとしたのは事実よ。一連の騒動を阿求は紅霧異変と呼称し、関係者からそれなりの言質を取って当時の縁起にまとめていたの。晴れない霧の漂う現状と共通点がなくもないけれど、異なる点も多いわ。霊夢が話を持ち込んで来るまでそのことを思い出しもしなかったのはきっとそのせいだと思う」
確かにかつての出来事と本当にそっくりであったならば、遠子はもっと前に気付いていたに違いなかった。六代も前の記憶と繋がるのは難しいようだから、そのまま素通りしていたかもしれないが。
「かつての異変は身も心も茹だるような夏の日に突如として押し寄せてきたの。当時は空調なんてなかったから冷たい水に足を付けたり、涼しげな音を立てたり、井戸の中で冷やした果物や野菜を食べたりして涼を取っていたわ。対して今回の霧は真冬に現れている。犯人がレミリア・スカーレットならば、ここでまずおかしなことになる。彼女がかつて霧を生み出したのは夏のぎらつく太陽を隠してしまいたかったからなの」
遠子の話が本当ならば、早速前提の一つが崩れてしまうことになる。冬の太陽も吸血鬼には毒かもしれないが、かつて夏の太陽を隠そうとしたのに、力の弱い冬のそれで妥協するとは考えられなかった。
「もう一つ根本的に異なることがある。かつての異変は妖力を帯びた『紅い』霧による浸食だった。でも今回は普通の霧とさして変わらない色をしている。正体が露見しないようかつてとやり方を変えた? それはあり得ないとわたしは考えるわね」
霊夢も同意見とばかりに頷く。かつて堂々と『紅』をさらした吸血鬼が、普通の霧に見せかけるため今度は『白』を選ぶとは想像しにくかった。それはフランドールの身近な逸話から取ってみても明らかだった。吸血鬼は己の力に誇りを感じる種族なのだ。
「犯人が何者であれ、吸血鬼をろくに知らないことは間違いない。でも郷に住む者ならどんなに無知でも吸血鬼の気位の高さくらいは知っているはず。もしかしたらメールの差出人は外からやってきたのかもしれない」
だとしたら異変であるか否かの区別なく博麗の巫女が解決しなければならない問題であるかもしれない。結界の維持、侵犯者への対処は昔から博麗が一手に担ってきた。外部から郷へ入ってくる輩などとうに絶えて久しいと思っていたのだが、そうではないのかもしれない。
「でも、それにしては昔の事情をよく知っている。かつて郷にちょっかいを出したけど撤退を余儀なくされ、今になって再びやってきたのかもしれない。あるいはもっと別の手段を使って知り得たのかもしれない。でもどうして十六夜咲夜だなんて過去の亡霊をわざわざ引っ張り出してきたの?」
遠子の疑問に、少なくとも霊夢は何も答えることができなかった。ここに来て判明したことよりも新しく生まれてきた疑問のほうが多く、全てが過去か、あるいは霊夢の預かり知らぬところに起因しているため、とっかかりさえつかめなかった。
だとすれば今の自分にできることは何か。じいっと押し黙り、じっくりと考えてみたけれど、方針は一つしか浮かばなかった。
「被害が広がれば今回の件はそう遠くないうちに異変となる。その時にはまず紅魔館を訪ねてみるわ。そして住人たちに問いただすの。この霧はあんたらの仕業か、って」
「わたしの見立てでは、紅魔館に犯人はいないと思うけど」
「間違っていることが確定すれば、探索の目を異なる場所へと集中できる。それに可能性は低くても容疑者リストからは外れていないから調べる価値はある。もしかしたら真の犯人に迫るヒントが得られるかもしれない」
「吸血鬼は冤罪を押しつけられてなお許すような広い心は持っていない。興を削いだ報いは必ず支払わされる。弾幕決闘が何度目かの流行に乗っているいることは知っているはずだから、きっと勝負をふっかけてくるわ。わたしの記憶が確かならば紅魔館の住人は皆、決闘に慣れているはず。かなりの危険を伴うと考えられるわ」
「それはまあ、虎穴に入らずんば虎子を得ず、よ」
「もしかすると火中の栗を拾わされているのかもしれない」
「でも、誰かに利用されているとしても、他に取っかかりはないしなあ。つついてみるしかないんじゃない?」
霊夢の提案に遠子は苦過ぎる珈琲をうっかり口にしたような表情を浮かべる。そんな顔をされても困ると思ったが、自分でも無謀な試みであることは分かっていた。付喪神や妖精を追い払うのでさえてんてこまいの自分にはきっと荷が重い。しかし博麗の巫女が携わる業務の中に異変の調査が含まれているのだからしょうがない。公務員はその名の通り公務を放棄できないし、博麗の巫女を自分の意志で下りることはできない。それならばできることを探して手を付けるしかないのだ。
遠子もそれは理解しているのだろう。ひとしきりぶつくさ零したのち、吸血鬼がどういう生き物であるかを霊夢に語り始めた。
「吸血鬼は鬼並の膂力、天狗並の早さを持ち、個体としての強さだけを取ってみれば郷においても及ぶものはそういない。代償として数多くの弱点を併せ持つけれど、逆に言えば弱点を考えなくても良い場所、時間でならば比類なき強さを発揮すると考えて良いわ。日中の屋外に誘導することができればベストだけど、吸血鬼はそうそうねぐらから出て来ないから、無理筋だと考えて良い。しかも吸血鬼は個としての強さに加え蝙蝠や狼など数種類の動物に化けことができ、それだけでなくもっと細かい単位、例えば霧のような姿も取ることができる。一度追われたら逃げることはほぼ叶わないと見て良いわね」
話には聞いていたが、郷の生き字引きから改めてそのスペックを聞かされるとそれだけでげんなりしてくる。遠子も霊夢のそんな態度は察しているだろうが、語りの勢いを弱めることはなかった。
「その反面、先にも述べたように弱点が多い。とはいっても眉唾なものも多くてね。吸血鬼の弱点とされる代表的なものに十字架や大蒜、銀の武器、宗教的聖遺物などがあるのだけど、紅魔館の吸血鬼に効いたという記録や伝聞は一切ない。明確に効果があるとされているのは太陽の光、流水、それから……ふむ、煎った豆が効くらしいわ」
「吸血鬼だからって鬼の弱点が効くの?」
意外な弱点に霊夢は思わず目をぱちくりとさせる。遠子は驚きの知識を披露できたせいか、得意げに頷いてみせた。
「吸血鬼というのはあくまでも自称に過ぎないし、歴代の稗田はその正体を若干怪しんでいた節があるわね。何しろ眷属をただの一人も作ったことがないのだから。血肉を食らうとはされているけれど、それは何も吸血鬼の専売特許ってわけじゃない。単なる西洋かぶれの、特殊な体質を持った日本の鬼であるということも十分に考えられる」
なるほどと頷いてはみたものの、よく考えてみれば悪い知らせ以外の何者でもない。陽光や流水を嫌うのが吸血鬼の振りをするための芝居であるならば、ただでさえ強大な相手だというのにいよいよ手がつけられないということになる。
「まあ、正体が何であれ純度の高い妖であることに変わりはないから霊力を練って繰り出す博麗の術は覿面に効くのよね。かつての霊夢が吸血鬼に勝利できたのもおそらくは相性の良さゆえだと思う」
退魔の術が有効であるのは霊夢にとってようやくの朗報だった。お札や針を可能な限り持ち歩き、スペルカードも対妖に特化して揃えれば良い。そういえば大豆のストックはあっただろうかと思いを巡らせかけ、遠子の不安げな眼差しに気付いた霊夢は愛想の良い笑顔を見せた。
「そんな気楽そうな顔をしないでよ。紅魔館には吸血鬼だけでなく、凄腕の魔法使いとその従者が潜んでいるんだから。レディ・スカーレットの従者である美鈴という名の妖怪も格闘の手練れだし、誰に出会っても油断はできないのよ」
「別に楽観してるわけじゃないのよ。でもさ、避けられない面倒事ならば成し遂げられないかもしれないと暗い顔をして臨むより、成し遂げられると明るい顔をして挑むほうが幾分かはましじゃない?」
「ものは言いようだわ」ぴしゃりと言い切られたが、遠子の不機嫌は若干収まったようだった。「でもそうね、わたしも縁起を編纂するときは似たような気持ちかもしれない」
遠子はそう言って、額をとんとんと指で叩く。
「過去のわたしに今のわたしを上乗せして新しい価値を付与する。そんな仕事が本当にできるかどうか、今だって酷く悩ましい。そして稗田の当主である以上、死ぬまで付きまとう問題よ。そんなわたしを励ましてくれるのは先人たちが皆やり遂げたという事実だけなの。だからこそわたしもできなければならない」
稗田の重さを霊夢はそれなりに知っていたはずだったが、改めて聞かされるとやはり重苦しいなあと思う。
「霊夢もそういう星の元に生まれた人間としてきちんと心構えを持っているのね」
数年前まで普通の人間だった霊夢には遠子ほどの覚悟はない。博麗の巫女だって年間行事に沿って忙しい時はあるし、最近は世を騒がす一派の退治に駆り出されることも増えてはいる。だが己の存在意義を賭けて挑むものではない。遠子に話した理屈も博麗の巫女として少しでも楽に生きるための自己暗示みたいなものだ。決して上等なものではない。
「そう、その通り。わたしは博麗の巫女なのだから、できるのよ」
それでも霊夢ははっきりと言い切った。ここでお茶を濁してしまえば二度と遠子の覚悟に釣りあえなくなってしまう。それは恐ろしい妖怪と戦う未来よりも嫌なことだった。そんな霊夢の気持ちを察したかは分からないが、遠子はすっかりといつもの調子に戻っていた。
「吸血鬼、魔法使い、悪魔、正体がいまいち分からない華人。全ての資料を用意するわ。本当はじっくりと読んで欲しいけれど、そんな時間はないのでしょう? 一日漬けで徹底的に叩き込んであげる」
そして妙なやる気を出していた。今日明日で劇的に話が転がるわけでもなし、何日かに分けて少しずつでも良いと考えていたのだが、水を差しても仕方がない。だから今日は遠子にとことん付き合おうと思った。
結論から言えばこれは正しい選択だった。
稗田の家から帰宅した霊夢のもとに開封確認を求めるメールが届いていた。そこには西の里を覆う霧が第三種緊急事態として認定されたこと、霊夢に博麗の巫女としてあらゆる機関を飛び越える調査権限が与えられたことが書かれており、無期限だが危急の任務として事に当たるべしと締められていた。
第三種緊急事態とは異変のことである。つまり郷の一部を覆う霧が正式に、博麗の巫女が解決するべき案件となったのだ。