客人を連れて屋敷に戻ると、出迎えた使用人が目を白黒させながら「その娘は先に話題となった面の妖怪では御座いませぬか」と間の抜けた声で訊ねて来た。わたしは「その通りです」とだけ言い、追い払う意味も込めて手早く指示を飛ばす。
「茶と菓子を二人分、用意してください」そこまで言ったところでふと気になったことがあり、わたしは面の妖怪=秦こころに訊ねる。「もしかして物理的な食事は必要ありませんか?」
わたしが訊ねると、こころの頭にいつの間にか楽しそうに笑う男の面があった。
「菓子ならば神社で舞を披露しているとき、おひねりとして何度かもらったことがある。おかきに飴ちゃん、饅頭に甘納豆におやき。どれも美味しかったが、できれば甘いものが良いな」
言葉の抑揚は薄く、表情は実に平坦だが、舌はよく回り雄弁である。顔という無言のうちに特徴や心情を伝えるものが機能していないから、それを補うために言葉が多くなるのかもしれない。
「では羊羹にしましょう。丁度昨日、買ってきたばかりですから。舌がとろけますよ」
「ほう、それは楽しみだな」
相変わらずの無表情だが、喜の面がかたかたと揺れたところを見ると本当に嬉しいのだろう。難儀な娘だが単純でもあるらしい。軽く誘導してやれば色々と話してくれそうだなと、わたしはその背後でこっそりとほくそ笑むのだった。
「つまるところ、あなたにとって感情というのは単一のそれを素早く切り替えることで成し得るということなのですか?」
「その通りだと言って差し支えないだろう」
「いくつものの感情を組み合わせることは?」
わたしがそう指摘するとこころは理解できないという風に首を傾げ、頭のお面が猿になる。
「複数の感情が合成されて別の感情を表すなんてことはあり得ない。何故ならばわたしにはそんなことができないからだ」
「それはいまできないだけで、いずれできるようになるのでは?」
「戦いの中では反射的な速度で感情を表す必要に迫られたが、笑うと同時に泣いたり、怒ると同時に寂しがったりなんてことにはならなかった。そんな感情はわたしからすればあまりにも不合理だ」
「人間は感情が二つ、ときには三つ以上が両立することもありますよ」
「それは単に複数の感情が素早く行ったり来たりしているに過ぎない」
顔のお面が狐になる。戦いの帳でその面を被ることが多かったから、つまるところ受けてたとうということなのだろう。
「あなたがそういう感情の仕組みを持った妖怪であることは否定しません。ですが人間はあなたのように考えたり、感情を表したりはしません」
「そうなのだろうか?」こころは猿の面、ひょっとこのお面と続けて被り、狐の面に帰ってくる。「感情というのはやはり各々が独立しているのだ。そうでなければ人の心から希望だけがごっそり抜け落ちるなんてことはないだろう……いや、そうでもないのか?」
こころは猿の面を被り、顔を赤くする。必死で何かを考えているようだ。
「いや、あるいはそういうこともあるのかもしれない。わたしはまだ感情の何たるかをきちんと学び切れてはいないということか……」
あまり考えるのに慣れていないのか、こころは猿の面を被ったまま硬直する。まるで機械が熱暴走で停止してしまったかのようだ。念のためにしばらく見守り続けたが、ふらふらと頭を揺らし始めたのでよろしくない状態であると判断し、こころの目の前で手を打つ。焦点の定まらない瞳に色が戻り、顔の色が元に戻っていく。どうやらあまり深刻な悩みを与えない方が良いらしい。
まあ、彼女は人里の近くに住んでいるのだし、人間にもなかなか覚えが良い。今日でなくても話を聞く機会はすぐに訪れるだろう。丁度タイミング良く追加の菓子と茶がやってきたので、あとはその味を楽しんでもらうことにした。
予定したほどではないにしろ有用な話を聞き出すことができ、わたしはこころを送り出したのち満足の息をつく。ここしばらくの天変地異や、続く異変によってろくに筆を取ることができなかったけれど、この気持ちをもってすれば書けそうであった。
早速硯箱と白紙の巻物を取り出し、今日こころが話してくれたことを記そうとする。だがいつもなら湯水の如く湧き出してくる文章がまるで浮かんでこないのだった。会話の内容ならば一字一句思い出せるけれど、それでは単なる思考の垂れ流しと同じである。ものを書くということは取り留めのない思考を最適化して出力することであり、しかしわたしには造作のないことであった。そのための方法を極めて精確に理解しているからだ。
理解していることはそのままに、しかし筆を動かすことができない。これは並々ならぬことだった。もしかするとこころとの会話により、意識はしていないが疲れてしまったのかもしれない。彼女はその所作こそ幼子のようであったけれど感情が一切、顔に出てこなかった。その代わりにころころと頭を飾るお面が入れ替わるのだが、そのめまぐるしさに翻弄されていた可能性はある。わたしは象よりも忘れないが、この力のせいか、疲弊しやすい傾向にある。知恵熱の一種であろうか、激しい頭痛を伴う発熱もよくある。
わたしは念のために御殿医を呼ぶ。御阿礼の子は体を壊しやすいから、里とは別で抱えの医師を常駐させている。それだけでは勿体ないので屋敷の一部を解放し、里人にも広く開かれているのであるが、いざという時には御阿礼の子の体調が一切よりも優先されるのである。
御典医に事の次第を話すとまず熱を計り、続いて触診を行う。辛抱強く探ったのち、御典医は首を傾げた。
「特に病気の徴候はありませんでした。疲れが溜まっているというわけでもなし、すると心理的に大きな変化が……例えば里の誰かに懸想するなどということはありませんでしたか?」
「ありません」わたしははっきりと否定する。少しでも仄めかそうものなら稗田家総動員でその相手を探しかねない。御阿礼の子はその特別な役割から結婚や出産、子育てなどは免除されるしとやかく言われることはないのだが、月のものが始まった直後からそうしたことが示唆されるようになった。短い生の中にも幸せを得て欲しいという好意であることは間違いないのだが、わたしはそのどれも受け入れるつもりはない。縁起の編纂こそ御阿礼の子の最重要課題だからだ。「原因がないから困っているのです。何か他に心当たりはありませんか?」
御典医は腕を組み、しばらく唸っていた様子だったが、思い当たる節に辿り着いたらしい。しかし怪訝そうな顔をしているから難儀な可能性であるらしかった。
「先の異変で、里人の感情が一時的に失われるという現象があったと思います。阿求様のほうがよくご存知であるとは思いますが」
「その元凶となった妖怪についさっき話を聞いたばかりですが……彼女がそのときわたしになにかをしたと?」
「いえ、そうではありません。実は里の人間に感情が一部取り戻せないままのものが何人かいたのです」
それは初耳というか、そんなことがあったならば話してくれれば良かったのにと思う。
「何人かいた、ということは既に回復しているのね?」
「ええ、欠如した感情に対応する舞を見ることで回復したとのことでした。もっともこの件はあまり広めないようにと言われていまして。対応策がないならば兎も角、すぐに治ったのだから目くじらを立てまいということになったのです。あれだけの舞を失うのは惜しいということなのでしょう」
わたしは博麗神社で披露されたこころの奉納神楽を一度も見ていない。夏はただでさえ強くない体がにわかに衰える時期であり、里の外に出る気にならなかったためだが、あるいはそれが良くなかったのかもしれない。調べてはいないけれど感情が欠落したままだったのは皆、彼女の舞を見ていない人間だという気がする。見たものの感情は希望を始めとして十全に取り戻されたが、見ていないものは徐々に症状が悪化したのかもしれない。
それにしても如何なる感情が抜け落ちたのか、わたしにはさっぱり分からない。少なくとも喜怒哀楽は問題なく表現できるし、闘志ややる気というものも失われていないから書けないはずはないのだが、どうやっても相応しい文章が浮かんでこない。
「しかしどうやら違うようですね、心当たりがなさそうですから」
「いえ、合っていると思うわ。でもどの感情が失われたのか分からないのよ」
「ふむん……するとしばしば浮上してくるような感情ではなく、普段は出てこないような感情であるのかもしれませんね。だから欠落していてもすぐには気付けない。しかしそうすると厄介ですね……少なくともわたしの手に収まる限界を越えています。人の心理に寄った医師に相談するべきですが、するとかの迷いの竹林に住まうと言われる御方を訪ねるのが一番良いのでしょうかね」
わたしは何も答えず曖昧に頷いた。何故ならばより良いアイデアを、ここで打ち明けようものなら確実に止められるであろうことを思いついたからだ。時間はもうすぐ夕刻である。今から向かえば機嫌の良い彼女と出会えるだろうと考え、わたしは急いで出かける仕度を整えたのだった。
弾幕プロレスが流行ったことを始めとして、里人が刹那的な行動を取り続けたつけは当然ながら払われなければならなかった。天変地異によって倒壊した建物はその多くが手つかずのままであったし、田畑の管理も疎かになっていたため雑草は伸びに伸びていた。人心が取り戻されたいま、どちらも急ピッチで作業が進んでいるものの、やはり人手が足りない状況である。かといってその原因であるこころに仕事を負わせる訳にもいかなかった。結果からみれば彼女に責任はなく、むしろ事態を収拾した立役者であるからだ。しかしこころに不満を抱くものたちの気持ちももっともである。
そんな折、必要ならば手を貸そうと名乗りをあげたものがいた。地底に住まう鬼の一人で、名を星熊勇儀という。星熊といえばかつて山の四天王と目されたネームバリューの極めて高い鬼である。
彼女は額から真っ赤な角を堂々と生やし、その背丈は里の男と比べてなお高いほどであり、何よりも柔らかそうな肉体のすぐ下に潜む恐るべき膂力と来たら、力自慢が十人がかりで思い切り押してもびくともしない程である。最初こそ戦力になるのかと疑っていたものもすぐに掌を返し、勇儀もまたそれに応えて正しく百人力を示してみせたのである。
しかも彼女と来たら日毎に得られる稼ぎを里の酒場で気前よく振る舞ってしまうのである。いわゆるおだいじんという奴だが、そのため彼女の周りには酒好きが老若男女問わず集うようになっていた。わたしはいきつけの酒屋を張って、酒を飲み始める前に捕まえてから話を通すつもりだった。騒々しい酒場は言葉が方々から迫って来るため、何も忘れることのできないわたしにとって負荷が高過ぎるし、酔った鬼が実に面倒臭い生き物であるのは以前、神社の宴会に参加したときに散々思い知らされている。その前に何とかして話をつけたいのだが……。
「おや、あんたは確か稗田のご当主様だよな。こんな所で隠れて何をしてるんだい?」
わたしは素早く振り返り、一本角の鬼=星熊勇儀が目の前にいることを確認する。丁度良いタイミングだった。
「わたしのことをご存じだとは光栄ですね」
「そりゃまあ有名人だからな。それに実を言うとあんたの書いた作品を読んだことがある。なかなか面白いアプローチで妖怪を扱っているなと思ったよ。地底の妖怪については全般的に偏見が混じっていたようでもあるが」
「わたしは地底に行けるほど強くないから、地底に行ったことのあるものからまた聞きするしかないのです」
「するとここで待ち伏せしていたというのは、わたしに取材を挑もうというのかい?」
「いいえ、今回はそうではないのです。させてくれるというのであれば歓迎しますけど」わたしは勇儀の顔を見上げ、瞳をはたと見据える。「ご相談があるのです。長い時間は取らせません」
「……その顔だと酒は飲めそうにないね。近くに美味しい団子と茶を出してくれる店があるからそこで座って話をしようか」
酒が強いから味の強いものばかり好むと思っていたのだが、どうやらそうではないらしい。同じ鬼でも伊吹萃香とはまた趣味嗜好が異なるのかもしれなかった。勇儀は話が決まると踵を返し、茶店へと足早に進んでいく。いや、彼女にとってはそれが普通であり、わたしの体力ではついていけないだけだ。
幸いにして勇儀はすぐそのことに気付き、何も言わず鈍い歩みに合わせてくれた。これもまた鬼らしからぬ配慮である。もしかすると歩幅の小さい相手に合わせて歩く機会があるのかもしれないが、それは天狗が追うような類のことである。もっともこの手のネタを提供するのと引き替えに、こちらに必要な情報を聞いてきてくれるので心には留めておくことにする。
茶店に入り、緑茶を二人前と団子を一人前注文する。といってもわたしは一口二口だけ頂くつもりだった。もうすぐ夕方だし、菓子が別腹なのは食後に限るからである。勇儀はもそもそと控えめに食べるわたしを見て何かを察したらしく、専らお茶を啜るだけで甘いものに手をつけようとしない。
「夕食があるので控えているのです。わたしは少しで良いですから残りは食べてください」わたしは勇儀に探るような目を向ける。「女性の扱いに慣れてますね」
勇儀は誤魔化し笑いを浮かべるだけで何も答えない。嘘をつくことが嫌いといって、正直に喋るということではないらしい。
「では遠慮なく頂くとしよう」勇儀はむしゃむしゃと豪快に団子を平らげる。鬼というのは酒を飲むときだけでなく食べるときも豪快であるらしい。いや、萃香はつまみをちびちびやるタイプだから鬼の中でも性格の差があるのだろう。「ときに用事とはなんだい? わたしへの依頼だから腕っ節を求めてのことだと思うのだが」
「ええ……実はわたしをある場所まで護衛してもらいたいのです」
「護衛……稗田の乙女が危ない場所に行くということは危険な妖怪を取材するつもりなのかい?」
「まあ、そのようなものです。わたしは地底の最深部に向かいたいのです」
「最深部といえば灼熱地獄跡かい? 確かにあの鴉は危ないけど、守矢神社にちょくちょく顔を出すから取材は至って簡単だと思うけどね。あそこでドンパチはしないだろうし」
「いえ、最深部というのは地底の管理者が住むという建物のことです」
わたしが訂正すると勇儀は俄に眉を顰める。よりにもよってそいつかと言わんばかりである。
「悪いことは言わないが、覚り妖怪はやめておけ。あれは大概の人の手に余る代物だ。基礎的な力はそこまででもないけれど、心に暴かれたくないことがあればあるほど、あいつは強力になる。それに人間の心を食うのが大好きなんだ。勇敢な人間は嫌いじゃないけど、それでも近付かないほうが良いよ」
鬼がそこまで言うならば確かに危険なのだろう。だがわたしは書くという行為を取り戻さなければならない。書くことのできない御阿礼の子に存在価値などないからだ。子供の頃から可愛らしい娘だとは言われてきたけど、そんなものは腹の足しにもなりはしないのだ。
「それをおしてでも会う必要があるんです」わたしは例の異変の影響で書けなくなった可能性が高いであろうことを、順を追って勇儀に説明する。最初は疑わしそうであったが、話すにつれて納得の度合いを深めてくれたようだった。「ただでとは申しません。先代は類稀なる酒好きでして、和洋問わず古くて美味しい酒をしこたま秘蔵していました。その隠し場所をお教えしましょう」
「そのお酒、まさか月夜茸がしこたま入ってるんじゃないだろうね?」
どうやら彼女は先刻の酒飲み妖怪の件もどこからか耳に入れているらしい。
「信用できないなら毒味しますよ」
「冗談だよ。でも本当に良いのかい? 先代が好きだってことは生まれ変わりであるあんたも同じ嗜好のはずだ。それともそれぞれの個に連続性はないのかい?」
「それは秘密にしておきます」
御阿礼の子が先代からどれだけの記憶を引き継ぎ、あるいは後天的に獲得するのかというのは稗田家に伝わる最重要機密の一つである。というよりそのやりかたを自分自身さえ知らない。御阿礼の子が捕らえられたとき、秘密を漏らされないための措置であるらしい。記憶を取り戻させる秘儀を司る家系がどこに根付いているのかは分からないのだが、わたしが当代として活動できているのだからどこかにいるのだろう。初代ならばかつて知っていたかもしれないが、術によって当該の記憶を消したためか追跡不能である。
「心を読む妖怪でも決して把握できないでしょう」
「ふぅん、わたしにはよく分からんがややこしい仕組みがあるんだね。まああんたが飲まないと言うならば、わたしが有り難く頂くとするよ。お酒というものは飲まれてこそ幸せというものだからね。もちろんそのための熟成も大事だが、完成した古くて美味しいお酒に殊更に価値を与えるのは好きじゃないし、ましてや貯め込んだまま結局は飲まないというのはお天道様が許しても鬼が許しはしないのさ」
勇儀は目を輝かせながら熱く語る。本当に鬼というのは酒が大好きな種族なのだ。
「それに物書きが書くことを忘れるというのは妖怪が存在意義をなくすにも等しいことだ。人間は複数の存在意義を成立させる生き物だが、歴史を綴り妖を紡ぐことに特化した稗田の当主は別物と考えるべきだろうな」
勇儀はもしかしなくてもわたしのことを妖怪の一種だと勘定しているようだった。失礼なことだが、当を得ているとも言える。いわば書を記し、編纂することに執念を持つ妖怪であろうか。白澤と異なるのは人に善い影響を与えようなどと考えていない点だろう。幻想郷縁起という人間向けの書物を頒布してはいるけれど稗田の名は妖の歴史を編纂して後世に遺すことにあるのであり、副次的な産物に過ぎないのだ。
「そうだね、三日後、朝九時を告げる鐘の音が鳴ったら、ここを訪ねて来て欲しい」
「そんなまどろっこしいことしなくても時間通りに行きますよ。古めかしい家ですけど柱時計の一つくらい置いてますから」
「あ、いやそういうつもりで言ったわけではないんだよ。地底は日が差さないから定期的に鐘を鳴らして時計代わりにしているのでね。地上と違って時計の数も少ないし、その方が符牒が合うのさ」
なるほど、太陽がなければ時間の運営がそのようにもなるわけだ。とはいっても地上だって、お寺の鐘がその役目を果たして来た時代がある。知識としてはあっても肌で感じなければわたしのような人間でも違和感を覚えることはあるわけだ。
「無事送り届けると請け合うよ。ただし一つだけ、さとりが危険だとわたしが判断したらその段階で、問答無用で連れ去ることにする」
「ええ、それは構いません……ではあなたの言った通りに集まりましょう」郷にいっては郷に従えだ。「それで先代の酒の隠し場所ですが」
「先払いとは気前がいいんだな」
「鬼は約束を違えないと知ってますから」
「それでも疑うのが人間なんだがね。あんた、ひょろひょろとして弱っちそうだけど肝はすわってるんだな」
「よく言われます」
かくかくじかじかと説明すると、勇儀はふむふむと頷くだけだ。結構複雑な手順だったからメモなど取らなくても良いのかなと思い、軽く念を押してみる。
「辿り着けなかったからさっきの話はなしなんて言わないでくださいよ」
「大丈夫だってちゃんと覚えてるよ」
「これからしこたまお酒を飲むつもりのくせに」
「人と飲み明かして酔うほど柔じゃないよ。それに迷ってしまったらまた訊きにいけば良い。あと数日くらいならお酒だって逃げたりはしないだろう。ま、依頼された件はしっかり引き受けるから心配しなさんな」
豪快に笑いながら席を立つと、勇儀は律儀に勘定の半分を置き、振り向かずに手を振りながら去っていく。ここの勘定くらい持つつもりだったのだが、大雑把に見えて妙なところで色々と気を利かせる。
「さて、ことは成った。鴉が鳴く頃だし、そろそろ帰りましょうか」
口にすると同時、かあかあと鳴きながら鴉が山のほうに向かっていく。その中に烏天狗が混じっていたような気がするけれど、おそらく射命丸文だろう。先の異変では号外をあちこちにばらまき、またいかがわしい賭け事を仕切っていたりもした。普段の態度からしてどうしようもない奴ではあるけれど、山の妖怪のことを色々教えてくれるし、四季の味覚をお裾分けしてくれるので邪険にも扱えない。とはいえ彼女に嗅ぎつけられでもしたらあることないこと新聞に書かれてしまうのは間違いなく、当日までは慎重に行動するに越したことないと固く思うのだった。
幸いにして天狗の突発取材はなく、待ち合わせの当日がやって来た。わたしは小鈴に借りていた本を風呂敷に包んでから外に出る。今日は鈴奈庵に寄るから一日帰らないという不在証明を確保するためである。わたしと小鈴はいざというとき不在証明を手に入れるため、相互を利用しても良いという不可侵条約を結んでいるのだ。
もっとも言い出しっぺは小鈴のほうであり、不在証明を利用するのも専ら小鈴である。わたしとしてはいずれ利用できる機会がありそうだからというあっさりとした理由で承諾したのだが、上手く役に立ってくれたわけだ。
貸本屋に着くと、わたしは丸眼鏡をかけて本と睨めっこする小鈴に声をかける。彼女は文庫判の本を読んでいるようだが、偉く気難しい顔をしているのだった。
最近、あらゆる言葉を読み下す能力というものを手に入れて以来、彼女の書物に対する手当たりなさ、節操なさはとみに加速しており、いま読んでいる本もその一冊と言えそうだった。こんにちはと声をかけても返事がないので、わたしは近寄って再度声をかける。
「どうしたの、仏頂面して。あんたでも読めない言語がまだあったとか?」
小鈴は小動物のように肩を震わせたのち、はっと顔を上げ、特大の溜息をつく。なんだお前かと言わんばかりの態度である。
「日本語なんだけど、妙に難しいというか観念的なのよね。面白くはあるんだけど……」
「煮え切らないわね。まあそれで小鈴が楽しいなら別に構わないけど」
そう言いながらわたしは本の表紙をちらと見る。題名は言葉使い師、作者は神林長平……かみばやしちょうへいと読むのだろうか。仰々しい名前だからおそらくペンネームだなと思う。見たことも聞いたこともない本だし装丁が新しいからきっと外来書籍なのだろう。
「何にしてもあまりのめり込まないようにね。素姓の分からない本ならば尚更よ」
「この手の本なら外世界の量産品だから危険はないと思うけどな」
「言葉というのは読み手がどう受け取るかというのが問題なの。装丁や文字自体に力が込められていることもあるけれど、言葉となっていることが既に力なのよ。見知らぬ知識にはただでさえ惹かれるものだし、あなたの最近目覚めた能力はそれを助長させる恐れがあるわ。太く長く生きたいならもう少し、その猫でも殺せそうな好奇心を抑えることね」
小鈴は不満そうだったが、しかし何も言い返せないことは分かっていた。わたしの寿命のことを知っているからだ。こういうやり方で相手をやり込めるのは卑怯なのだろうが、どうでも良い相手にはこんなことは言ったりしない。
「まあ堅苦しいことはこれくらいにして。今日のことは本当に頼んだわよ」
「了解、頼まれちゃいました」そう言って小鈴は前のめりになり、興味津々といった含みのある笑みを向けてくる。先程の話は早くも左耳から流れてしまったらしい。「それにしても、阿求にもようやく春が来ましたか、めでたいですなあ」
「そうではないの。詳しくは言えないけど本業に関わることよ」
「ふむん、まあそういうことにしておいてあげるわ」信じていないけど取りあえずそういう前提で話を進めてあげますと言わんばかりだった。「本業というと縁起の編纂に関すること?」
「含みを持たせるわね。他に何があるのよ?」
「いやー、稗田の阿求さんには隠しモードと言いますか、突如覚醒してラスボスになるんじゃないかと常々睨んでまして」
「人を悪の権化みたく言わないの。そんな妄想なんて剃刀で削ぎ落とすべきだわ」
「えーでもわたしが子供の頃さ、いわゆる秘密結社を摘発/壊滅したんでしょ?」
小鈴が言いたいのは紅霧異変の前後にその正体が発覚した人間原理主義を掲げる団体のことだろう。ある内通者の密告によって摘発されたが、これを由々しき問題と考えた里の賢者は歪曲して教えられた歴史を正すため、寺小屋で自ら教鞭を取るようになったのである。
「隠された陰謀とか謎の血筋とか、そういうのがこの幻想郷だと起きるようになっているんだよ」
「因果を疑いたくなるのは分かるけど、力なんて大抵無為なものよ。予告もなく天から降り注ぎ、また地より湧き上がってくる。誰かが何かを企んでいる場合もあるでしょうけど、そういうことを解決するのは博麗の巫女の役目よ」
「……阿求はそう考えることで自分の能力に納得しているの?」
小鈴はどうやら自分の力に理由があるのだと考えているらしい。面倒な話だがそう思いたくなる気持ちも分かる。わたしも幼い頃は少しだけ夢見がちだったからだ。
「あなたの能力は使い所を間違えなければ人の役に立つものよ」翻訳という行為を通さずにあらゆる言語を判じるというのは、例えば外来の書籍が流れてきた時などに有用なはずだ。「わざわざ危ない橋を渡ることはない。本業と併せて精進していけば良いのよ」
じっくり言い聞かせると、小鈴は渋々ながら頷いた。どうやら上手く説得することができたらしい。
それにしてもこれだけ淀みなく話せるならば執筆の感覚が戻っているのかもしれないと、わたしはカウンタに置いてあったペンを手に取り、先日インタビューした妖怪のことをメモ帳に記そうとする。しかし上手く形にならない。妖怪や類するものを書くときだけ困難になるのか、それとも他に要因があるのかわたしにはよく分からなかった。
観念してペンを置いたところで丁度、午前九時を示す鐘の音が命蓮寺から聞こえてくる。人里の近くにできた妖怪寺ということで最初は心配していたのだが、すぐに馴染んでしまったのだ。まるで昔からそこにあったかのように。住職の白蓮が人格者であるからだろう。先の異変では少しばかり羽目を外してしまったようだが、それも人里の刹那的な気風を救おうとしたからだ。仙界にこもってばかりの仙人たちよりはよほど協調性があると言えるだろう。
「では出かけてきます。くれぐれも頼みましたよ」
「了解。それでは良い逢瀬を!」
「あなたとは違うのよ。年上に憧れる気持ちも分かるけど火遊びは程々にね」
それはどういう意味よと抗議する小鈴に耳を貸さず、わたしは貸本屋をあとにする。阿求にもようやく、という言い回しは自分がそうであると言外に告白しているようなものだ。本好きならもう少し言葉の使い方に気をつけるべきだとわたしは思う。
待ち合わせ場所で勇儀と合流すると、わたしは人目を気にして狭い道を通ろうとしたのだが、勇儀は広い通りを堂々と進んでいく。
「あの、わたしあまり見られたくないんですけど」
「分かってるよ。でもわたしたちを見ている人間なんているかい?」
辺りを見回すと人の姿が確かに見当たらない。いや、いないわけではないのだが、極端に疎らになっていて、いないも同然になっているのだ。
人払いの呪いがあることは知っているが、人通りの多い道であれば並の術ではこうも鮮やかにはいかないだろう。力任せだけの鬼と思っていたが、四天王と呼ばれるだけの実力を兼ね備えているらしい。
「萃香だったらこれを単純に能力としてやるんだがわたしではこれが限界だね。怪力乱神を語るのが精一杯というわけだ」
「かつてもこうしてこそこそと人を攫ったんですか?」
鬼がまだ京近くの山に住んでいた時のことを仄めかすと、勇儀はじろりとこちらを睨めつけてきた。
「人に恐怖を教えないといけない時代もあったのさ。わたしからすれば人も妖も、何もかもが混ざって安穏としていられる今の方が特別に思えるが……しかしあんた、さっきの物言いは良くないね。鬼は己の力を疑う類の挑発に弱いんだ。地底の鬼にはわたしより余程喧嘩早い奴もいる。そうした相手に絡まれた場合、わたしは助けの手を差し伸べるつもりはないからそのつもりでな」
「わたしは鬼に喧嘩を売るつもりはありません。いわば執筆勘を取り戻しに行くのです。それに鬼は嘘を嫌いますから、わたしを殺したり隠したりして、依頼を嘘にすることはしないと考えました」
「理屈をすっ飛ばしてぶん殴りたいってこともあるとは思わないのかね。全く、昨日も思ったけど度胸が据わっているのか単なる無鉄砲なのか判断に苦しむよ。まあ、わたしは嫌いじゃないけど」
勇儀はからからと笑い、辺りが微かにびりびりと震える。だというのに里の人間は気付きもしないで少し離れた所を過ぎていく。なるほど、古来より鬼隠しというのはこうして行われてきたのか。しかし、勇儀の動きがやや腑に落ちない。地底に向かうならば風穴を目指す必要があるはずなのに、全く別の方向に進んでいる。里を出て少し、魔法の森ほどではないけれど屋根のように木々の生える林に入り、獣道をすいすいと抜けていく。
更に進んでいくと、開けた広場が姿を現した。いかにも妖精の集いそうな場所なのに何故だか自然の感じがしないし、足元の感覚からしてまるで硬い石の床を歩いているようだ。
勇儀はこれまた不自然に配置されてある切り株を何やら弄っていたが、少しもしないうちにがこんと音がして、足場自体が急速に降下を始めた。
上に引っ張られるような感覚に最初こそ眩暈がするようだったけど徐々に落ち着き、辺りを見回す余裕ができてくる。どうやら岩盤の中を通過しているらしいというのが分かった。
「これは一体、どういうことですか?」自動昇降機は外の世界でこそありふれているが、人里では書物の中だけの代物である。河童の里や天狗の町では代替エネルギーを用いて実現しているという話だが実物に乗るのは初めてだった。「鬼にはこんなものを作る技術があったのですか?」
「例の人里での異変が起きる少し前から地上に出る機会が増してね。とはいってもいちいち風穴を通って外に出るのも面倒臭い。そこで知り合いの河童に依頼して旧都の外れと人里の外れを繋ぐ通路を造ってもらったのさ」
「博麗の巫女に断りもなしで穴を増やすのは後々まずいことになりそうですけど」
「なあにその時はその時さ。もう地上と地底の不可侵条約なんてあってないようなものだしな」
勇儀の不敵さに慣れたのか、溜息一つ出なかった。
「まあ、それは良いとしてお高くついたんでしょう?」山の河童は技術こそ確かだが支払いに厳しいはずだ。山の神様に色々と融通を利かせたのは核融合というエネルギーのためだったはずである。「密かに隠し持っていた鬼の財宝でも捻り出しましたか?」
「じっくりと頼み込んだらロハでやってくれたよ」
きっとかつての関係を持ち出して押し切ったのだろう。そう言えば例の異変のとき、ごうつくな河童が騒ぎに乗じて色々な事業に手を伸ばしていたけれど、この件と関係があったのかもしれない。今度うちを訪ねてきたら安い発明品を一つ買ってやろうかなどと考えていると今度は下にぐいと引っ張るような力がかかる。どうやら最下部についたようだった。昇降機を降りて振り返ると継ぎ目一つない岩盤しか見えない。河童の光学迷彩を応用しているのだろうが、これでは何も知らなければ行き止まりにしか見えないだろう。
「誰も彼も使えると流石に困るからね。ではここからは地獄の一丁目、色々と興味が湧くかもしれないが、猫を殺さない程度に抑えてくれ」
言われてみてわたしは辺りをぐるりと見渡す。太陽の当たらない土地であるが何も見えないわけではない。天井や壁は所々光っているし、それ以外にも得体の知れない光を発しているものがそこかしこに漂っている。そして遠目には大量の篝火を焚いているであろう明かりが見える。おそらくあそこが旧都というところなのだろう。地上の人間や妖怪に厭われた怪物たちが、しかし陽気に楽しく暮らしているらしい。
「不可侵条約はなくなったが地上への偏見を持っている奴らも多い。いくらわたしがついていると言っても、力のない人間は近付かないほうが良いだろうね」そう言うと勇儀はわたしをひょいと抱え上げる。「ここから先は道が悪い。空を飛べない人間にはきついんだ」
「なるほど、ではお言葉に甘えさせて頂きます」
旧都に背を向け荒涼の地を、勇儀に抱えられながら進む。足取りが早いのにほとんど揺れないのは体格もさることながら、人型を抱えて歩くことに慣れているのだろう。それにしても、ここは見ていてあまり気持ちの良いものではない。何故ならばかつて賽の河原であったに違いないからだ。高く積み上げられた石や、故意に崩された痕跡がその証左である。
旧都とはかつて夜摩天の裁きを待つ幽霊と、彼らを見込んで作られた小京都のことだ。遠目ではよく分からなかったし、あそこで夜摩天の一人に付き従って暮らしていたのは二代目までのことであるから、すっかりと面影が変わっているだろう。それでもかつての痕跡を僅かでも察することはできるのかもしれない。わたしの生きている間に地上と地底の緊張がもう少し収まるようなら、改めて訪れても良いのかもしれないと思う。
「あの建物が地霊殿だよ。あんたにも見えるかい?」
勇儀はわたしを地面に下ろすと、前方を指差す。
賽の河原を越えた先にあるのは生前の罪を厳格に計る夜摩天たちの勤める宮殿のはずなのだが、実際に見えてきたのは明治の初期から中期にかけて建築されていたのと同じ煉瓦造りの洋館であった。各国の領事館さながらの大きな建物であり、邸内で弾幕ごっこをしたという霊夢の発言がどうやら本当であることがはっきりと分かる。玄関前まで来るとその荘厳さはより明らかであり、主人の権力志向を殊更に感じさせるものであった。この館の主こそ今からわたしが治療を受ける相手なのだとしたら、事情を納得させるだけでも一苦労なのではなかろうか。
「これだけの屋敷に住む地底の統括者となると相当多忙なのでしょうね?」
「いや、毎日のように暇を飽かしてる。最近は本を書く楽しみを覚えたから少しはましになったけど、以前は退屈凌ぎにろくでもないことをやらかしていたものさ」
苦笑いするところを見ると勇儀もその犠牲者の一人なのだろう。ご愁傷様と思うよりほかなかった。
「不安だとは思うけど率直に事情を話すしかないね。何を考えているかすぐに分かってしまうんだから。無駄な愛想を見せるよりは機嫌良く対応してくれるだろう」
どうやら随分と気難しい性格らしいが、妖怪というのは大なり小なりそんなものであり、いちいち尻込みするようでは縁起の編纂など勤まらない。出たとこ勝負と心に呟き、わたしは勇儀のあとに続く。両開きの扉についているノッカーを無視してドアを開けると、玄関ホールはやけに閑散としており、鳥を形どったステンドグラスがぼんやりと不気味な光を邸内に投げかけている。この場にいるだけで不安になりそうな色合いの空間であった。絨毯の上では何匹かの犬や猫がくつろいでいたが、訪問者に気付くとセントバーナード種を思わせる大型犬がのそのそ近付いてくる。勇儀が垂れた耳に訪問を伝えるとわん、と一度だけ吼えて背を向ける。尻尾で床をぺたぺた叩き、まるで付いてこいと言っているようだ。
「案内しますだとさ。居場所だけ教えてくれれば大丈夫なんだがね」
おそらく初訪問の、しかも人間がいるからだろう。その気遣いはまるで教育の行き届いた人間の召使いさながらである。
「犬が案内してくれる屋敷なんて初めてです」
「ここに住んでいるのはいずれ化けるだろうと目されているものたちばかりだ。地上のそれよりもずっと賢いのさ。ただしある程度以上の知性を持っていると心を読まれるということが負担になる。無事に成ることができると大半はここを出て行くわけだ。中には適応するものもいるんだけどね」
さもありなん。わたしも四六時中心を読まれ続けるのには耐えられないだろう。
「でも勿体ないよね。ここにいればお姉ちゃんがずっと面倒見てくれるし、寒い季節でも地底の熱でぬくぬくと暮らせるのに」
「力を得る、賢くなるというのは難しいことなんだ……おっと、こいしか。いつ帰ってきてた?」
「昨日の晩からかな。夜ご飯を一緒に食べて、そのとき地上のことを話したんだけど、何だか寂しそうだったな。以前に話したことは嬉しそうに聞いてくれたんだけど。ほら、わたしが地上で大活躍したときのことだよ」
「……どうしたんですかいきなり、誰かと話しているような口ぶりで。それにいま、こいしって」こいしとはおそらく古明地さとりの妹であろう。存在感が極めて希薄で、普段はいるかどうかさえ分からないのだが、心綺楼異変の前後にはちょくちょくと現れていたらしい。特に小さな子供たちが彼女の活躍ぶりをよく目撃していたようだ。「いま、ここにいるんですか?」
「いるよー。あなたの側でいつもにこにこ、古明地こいしだよー」
「すぐ後ろにいて楽しそうに笑ってるよ。どうやら見慣れぬ客人を品定めしているらしい」
「後ろですか?」足を止めて振り向くものの誰かがいる様子はない。「せめて喋ってくれれば分かるのですが」
「この人間はお姉ちゃんの餌かな? それとも剥製にして玄関に飾っちゃう?」
「大事なお客様だから物騒はなしだ。あ、いやいやこちらの話だから気にしないでくれ」
「くれたまえー」
「もしかして彼女は先程から話してます? わたしだけが聞こえていないということですか?」
「聞こえていないというより認識できていないというのが正しいのかね。少なくともわたしには十分に聞こえる声で話してるし、あんたは耳が不自由ではなさそうだ」
そんなことがあり得るのかと思ったけれど、いるのに見えないのだから話しているのに聞こえないということがあっても何もおかしくはないのかもしれない。
「逆に訊ねますが、彼女を認識するこつのようなものはあるんですか?」
「うんにゃ、そんなものはない。居ると分かっているから居る、それだけのことだ。わたしとてその確信が僅かでも揺らぐようならば見られない時があるし、声を聞くこともできないだろう」
「変な話だよねー。わたしはいつもここにいるのに」
目の前にいてさえ存在を確信するのは難しい。わたしは記憶に対する完全性を有しているが、いるということが分かっていてもすぐには無理だろう。翻ってそれは、彼女を認識できる勇儀の精神力が高いことを示していた。
「お客さんならお姉ちゃんは遊んでくれないよね。わたし、お外に行ってくるー」
「もし彼女が誰からも認識されなくなったらどうなるんでしょうね?」何者からも観測されないものは存在しないのと同じことだ。それでも在るものは在るわけだが、彼女は妖怪として生まれたから概念に近い。それともあらゆるものから存在を忘れられたとき、彼女は無意識の妖として完成するのだろうか。「わたしには想像の及ばない部分があります」
「わたしにもさっぱりだ。でもどんな奴が忘れたってさとりは必ず覚えている。だから結局のところ、こいしも必ずいるんだよ。あの二人はそういう関係なんだ」
勇儀は半ば諦めたようにそう結論づける。わたしには姉妹愛のように思えるのだがそこまで単純なわけではないらしい。完全に黙り込んでしまったし、この件はあまり蒸し返さない方が良いようだった。
さとりのいる書斎までにいくつもの部屋を通ったのだが、どの部屋にも動物がいて、地底の管理者の屋敷というよりは動物屋敷と呼んだほうが良さそうだった。
勇儀は相手の都合も確認せず、重たそうな扉を開ける。すると中からは獣の臭いではなく、古書が収められた空間に独特の埃やインク、紙の匂いが微かに漂ってきた。
「入る時はノックくらいしろと言ったでしょう」感情の薄い、しかし不機嫌だと分かる調子の声が中から聞こえてくる。「まあそれだけ大きな声で、入るぞと言われたら分かりますけど」
勇儀はこいしの時と違い一言も声を発していない。中にいるのが地霊殿の主ならば心を読んだのだろう。どうやら思考にも声と同様強弱があるらしい。
「人里から随分と可愛い娘を攫って来たらしいですね。昨夜はお楽しみでしたか?」
「……こういう厄介なからかい方をしてくる奴だ。まずいと思ったらわたしに合図を送れ、すぐさま退治してやるからな」
「怖いこと言いますね、わたしとあなたの仲なのに」
勇儀の顔がぐっと険しくなる。恋愛まわりをちくちくされるのはどうやら苦手らしい。
「それにしてもお隣の方、中に入って来てもらえないかしら。あなたの心は酷くぼやけていて認識するのが難しいのです」
そう言われて中に入ると、部屋を埋め尽くすほどの本棚と、申し訳程度のスペースに置かれた机の向かい側に、窮屈そうに座る少女が見える。何本かのコードが体にまとわりつくような形で伸びており、それらは胸元に浮かぶ柔らかそうな色合いと艶の球体に全てつながっている。その目は眠たそうな両瞳と異なり、常に見開かれていた。
「稗田阿求……阿弥? いや、やっぱり阿求ですね。あなたの心は実に読み難くて気持ち悪い」初対面でいきなりこんなことを言われる筋合いはないのだが「本当なのだからしょうがないでしょう?」目の前の相手は「はい、わたしがさとりです」それはこちらの台詞と言わんばかり「新手のさとり封じか何かを試したいのですか?」だ。「でもよく見れば分からないこともない。術を使っているならばそれは不完全ですね」
「あのですね、人の話は……」 「最後まで聞いてから発言しろ、行儀が悪い、ですね。了解しました、次からは気を付けます」 「そういうのが良くないんですよ!」
「わたしには相手の思考が逐一分かるわけですから先に答えてあげるのが相手のためになりますし、遅い伝達手段に合わせるなんて非効率ですから……ああはいはい、そういう理屈臭いのが嫌なんですね」
面倒臭い奴だと言わんばかりの溜息をついたあと、さとりは改めてこちらを睨みつけてくる。
「読心封じでないとしたらあなたの持つ特別な記憶法に問題があるのかもしれません。求聞持の法でしたっけ? それを解除することは……天与のものだから不可と。なるほど、これは少しばかり厄介ですね」
そう言いながらさとりは鼠をいたぶる猫のような笑みを浮かべる。
「表層に浮かぶ思考ならば捉えられるのですが、記憶を覗くと途端に読み難くなるんですよね。ここに来た目的=執筆ができなくなった原因を探りたいと、対応する質問を与えれば答えを浮かび上がらせることもできるのですが、意識できない原因を探り当てて解決手段を提示するまでとなれば、相応の難事となります。辛抱強い聞き取りが必要になるでしょう」
さとりはそう言って机の引き出しからペンとメモ用の紙を取り出す。建物だけでなく文房具もまた洋風であるらしい。
「ものを環境に合わせる謂われはないですし、筆や硯箱が洋式に合わないというのがそもそも偏見なのですが。昔の人間はもう少しその辺の融通も利いたのですが……すいません、話に脱線が多いのはわたしの癖でして。でもそれは不連続であちこちに思考が飛び交う生物全般の影響というか。知能を騙るものたちがおしなべて連続的に整理された思考を持っていればわたしもこのような妖にはなりませんでしたよ」
さとりはくくっと笑いをもらす。なるほど、厄介な奴という勇儀の評は的を得ているわけだ。
「貴重な誉め言葉と糧をありがとうございます」さとりは如何なるやり方かわたしを少しばかり食べたらしい。驚きや類する感情を掠め取る妖は地上にもいるが、相手の心を計算して食べるような輩には遭遇したことがない。命蓮寺に住む鵺や、廃村一つを狢の里にした化狸が似たようなことをしてくるけれど、彼女たちは本能に従ってそれを満たす理性を発揮してくるのに対し、さとりは理性から発して本能を満たそうとする。「そう、わたしはとてもはしたない妖なのですよ。あなたはわたしを実に正しく分析している。流石は幻想郷縁起の編纂者といったところでしょうか」
先程注意したのにさとりは会話と思考、そのどちらにも平然と入り込んでくる。人間の娘と同じ姿をしているし、思考の領域が重なりもするのに、それでいて異質なのだ。それともわたしが読心術を身につければ同じようなコミュニケーションを身につけるのだろうか。
「完全記憶者の貴女ならば、わたしよりも強力な覚になることでしょう。あらゆる生き物の思考パターンを完全に記憶するのですから最終的には心を読む力すら不要となる……負荷が著しく高そうですけどね。少なくとも人間の頭ではすぐにショートしてしまうでしょう。転生なんて効率の悪い方法を取るくらいならその身を不老長寿に近付ければ良いだけのことではありませんか? 転生を始めた頃は無理だったとしても同じ生を繰り返すことで発見できるかもしれないし、事実いまの幻想郷には特に努力しなくても不死に近付く方法がいくつもありますよね? 吸血鬼の眷属となる、蓬莱の薬を飲むないしは蓬莱人の肝を食らう、練丹を飲み下して仙となる、あなた以前の娘たちはそのことを考えませんでしたか?」
「必要なのは歴史を残すための人間です。妖怪ではないのですよ」
「思考が揺れない……答えを予め準備していました? それともそう考えるように厳しく教育されましたか? つまらない道徳に縛られるのは妖のように生きる人間には馬鹿らしいことだと思いませんか?」
さとりの問いにわたしは大きく首を横に振る。
「微塵もそう思わないとは、人間性も行き過ぎれば怪物と変わらないということですか。結構結構」
わたしを怪物と認定し、さとりは先程までの控えめな笑みではなく、歯を剥き出して笑う。常に理知的であることを心がけているのかと思っていたのだがそうではないらしい。
「面白いですね。脅しつけてさっさと追い払うつもりでしたが気が変わりましたよ。あなたの心を白日の下に暴きたくなってきました。もう少し本格的にやってあげましょう」
さとりは合図もなく柏手を打ち、背もたれつきの椅子に深くもたれかかる。
「貴女の思う通り、ものを書くというのは複雑な感情が絡まって成し遂げられるものです。わたしがそれをやるのも読心の一助となるからですし、自己を安定させるためでもある。書くというのは、わたしはわたしであると誰よりも何よりも己に示すことなのです。感情の一部が失われればこれまで通りには書くことができません。正確にはパーソナリティの変質ですね。例えば最初から喜の感情がない場合、そうして形成されたパーソナリティに沿って書くことができる。逆に喜の感情を得てしまい、感情として完成されてもそのパーソナリティに沿って書くことはできない。新たなパーソナリティに沿って書くにはそのための訓練をする必要があるわけです」
「訓練にはどれくらい時間がかかるか分かりますか?」
「いいえ。人によってはすぐ適応できるかもしれないし、一生かけても駄目かもしれない。年に何作と傑作を記す天才的な作家が突如として、二度と書けなくなるというのは往々としてあることですから。パーソナリティ適応障害というのは今回の例に限らず、そう珍しいことではない。もしかすると貴女が書けなくなったのも、感情の失われる異変とは無関係かもしれない。引き金ではあるかもしれませんが」
「そんなことはありません」
単純なスランプだとしたら解決できないはずはない。これまで九代に渡り書き続けてきたのがその証左である。
「原因は特定の感情が喪失したことにあるはずです」
「……厄介な人間ですね」さとりは目つきをより悪くする。地霊殿の管理者という地位のせいかもしれないが、睨まれているだけで何か悪いことをしているかのように感じてしまう。「おまけに焦点の合わせ難い思考の持ち主と来たものだ。思考そのものは割と単純なのに」
さとりはこめかみを指でぐりぐりと押さえる。わたしも頭が痛い時にはよくやる仕草だ。
「感情を失わせる異変の最中、あるいはその前後で何か変わったことはありましたか?」さとりはようやく本来の心理分析家らしい質問を投げかけてきた。然るに先程まではその能力を使い、何とかしてショートカットしようとしてきたのだろう。「それが通用しない相手のようですから。ふむん……この前ここに来た巫女や魔法使い、武闘派の僧侶に、仙人化した聖徳太子、輪入道使いに無邪気な風水師、性格のすこぶる悪い河童に……わたしの妹もいるのですね」
妹というのは「そうです、こいしのことですよ」こいしのことで間違いないらしい。「記憶しているが部分的にしか認識していないみたいですね。戦闘のような激しい行為だけは辛うじて認識できる、と。かつて山の神社でこいしを認識して対峙した魔法使いによって確認済みではあるけれど……」さとりはわたしの分析から脱線しようとして「ああすいません、あとはお節介な化狸に異変の原因となった付喪神ですね」心を読み、すぐ本題に復帰する。
「ざっと走査してみましたが、大したものは見当たりませんでしたね。執筆を投げ出して主に人里で、先に述べたものたちが人気取りの戦いを繰り広げているのを観戦しているだけでした。その前には主に貸本屋の娘が起こす騒動に頭を悩ませたり、時にはともに行動したり。異変後しばらくは屋敷の外からろくに出ていませんね」
「夏は苦手なんですよ。あっという間にばててしまうし、頭痛も酷くなる」
「熱暴走する機械の如しというわけですか。それにしても困りましたね、格別なトラウマといったものが貴女の記憶から探り出せません。というわけで阿求さん」
さとりは初めてわたしのことを名前で呼ぶ。だからろくでもない「催眠術をかけさせてください。話を滑らかにするため軽いものは既にかけていたんですが」申し出が来ると思っていたら、正しくの提案が口にされる。さとりは再度柏手を打ち、おそらくはそれがこれまでの催眠を取り消すためのものだと理解する。
「催眠術って目の前で五円玉を吊して揺らすとかそういう類ですか?」
「視覚に強烈な負荷をかけ、半強制的に深い催眠状態へ導入します。余程記憶が曖昧でない限りはあらいざらい喋りますし、貴女は完全記憶者ですからどんなことでも寸分違わず再現するでしょう」
「……非常に危険な手段のように思えますが」
「思うではなく実際にそうです。これをやるかは貴女の判断に任せます」さとりはわたしの背中越しに勇儀をちらと見る。彼女がいなければ説明なしで施していたのかもしれない。「インフォームドコンセントは近代医療の基本ですよ」
「軽い催眠術をかけていたことは黙っていた癖に」
「あとで説明するつもりでしたよ。それはさておきやりますか? やりませんか?」
「やめとけ。覚にそこまで心を許すとろくなことにならないし、さとり自身もただじゃすまないかもしれない」
「わたしは人間一人の記憶でおかしくなるほど柔じゃないですよ」
「でも完全記憶者の記憶をほじくり出したことは一度もないだろ?」
「うるさいなあ、ぐだぐだ言ってると昨夜の情事をあらいざらいぶちまけるぞこのクソ鬼……」そこまで口にしたところでさとりは盛大に咳払いをする。「さあ、決断をお願いします」
さっきの口の悪さは「貴女は何も聞かなかった」もしかすると彼女の地「何も聞かなかった、良いですね!」ではなく一時の気の迷いということにしておこう。
「やってください。書けなければわたしはわたしじゃないんですから」勇儀の背後からの視線を無視し、わたしは言葉を続ける。「できるだけ優しくしてくれると助かりますが」
「了解しました。では阿求さん、この眼をじっと見てください」わたしは示された第三の眼をじっと見つめる。本当の目のようで落ち着かないと思いながら凝視することしばし、目の中央がちかちかと不定期に光を放ち始めた。微妙に中央からずれ、あるいは震えるように動き、そして不意に激しく発光する。「その表情なら成功したようですね。念のために一つ二つテストしましょう」
わたしとしては特に変わった様子もないのだが、さとりは満足そうに頷いている。
「最後におねしょをしたのは何歳の時ですか?」
「八歳です」わたしは正直に答える。答えたくない質問だというのに口が勝手に動いたのだ。「十歳です」 「九歳です」 「七歳です」 「七歳です」 「六歳です」
ちょっと待て、どうしてわたしはありもしない経験を語っているのだ。
「最初の記憶以外、貴女のものではない。これは一体、どういうこと……」さとりは例によって目を細め、すぐにかっと見開く。「なるほど、道理で心が見えにくいわけです。貴女にはこれまでに経験して来た生が全て積み重なっている。九重になっているせいで所々ぼやけてしまい、見辛かったわけだ。是非曲直庁の規定によると転生時の完全記憶保持は不可だとされていますが、こうして逃げ道を作っているわけですか。人畜無害な歴史家と思っていましたが、いやはやなかなか小賢しいことを思いつくものです」
わたしはそんなこと知らなかった。いや、知っていたがアクセスできなかったと言うべきか。
「そうですね。でも悔やむことはありません。この仕組みを作ったものが巧妙だったのです。ですがこれは怪我の功名ですよ。あなたは初代からの記憶を完全に引き出せる状態なのですから、執筆ができない状態の治療は元より己が何者であるかを真に知ることができるのです」
さとりは口元を大きく歪める。妖としての本質が顔面にありありと現れていた。
「やめろさとり、何だか嫌な予感がする!」勇儀が抗議するもさとりはまるで意に介する様子がない。「良くないものを呼び出してしまった、そんな気がする」
「あなたの名前はなんですか?」
「稗田阿求です」今度もまた意に反してわたしの口が勝手に動く。「稗田阿弥です」 「稗田阿七です」 「稗田阿夢です」 「稗田阿悟です」 「稗田阿余です」 「稗田阿未です」 「稗田阿爾です」 「稗田阿一です」
『小賢しい』不意にわたしの口から出たものとはとても思えない低い声で喉が震える。『どんなに巧妙な術も我を操ること能わず』
「誰だお前……お前の心が読めない!」
さとりが狼狽を絞り出したような声をあげる。
『ここにいるものは皆、単純な算数もできないのかね? 阿《求》という名前なのだから九代目であることすら推測できないほど頭が悪いのかね?』
その言い様で察しがついた。全ての記憶が解放されているならばその層は十重でなければならない。なのにさとりが見たのも、わたしが発した言葉も九つだけだった。
「そんなことはどうでも良いのです。どうしてお前の心が読めないのですか!」
『無意識者の能力を使っているからに決まっている』わたしの喉が笑いに震える。『古明地さとり、人知れず山に生まれた娘。人の心を読むがためにあらゆる恥知らずに及んだ穢れの極みであり……』
「やめろ! わたしの秘密をどうして口にできる!」
『覚ったからに決まっているだろう』
「それはわたしがお前に行うことだ!」
『この術を早く解きたまえ。わたしという存在が固着されては困るのだよ。そうすれば是非曲直庁を欺けなくなり、ひいては幻想郷全体の損害となるのだから』
「訳の分からないことを……それにわたしは彼女の治療を請け負っているのです。お前が病根だというのなら駆除するしかありません」
『短命であることの原因ならばわたしにあるが精神疾患の原因は別の所にある。知りたければ教えて……』
わたしは喉を押さえ、わたしの知らない記憶を使う何者かの言葉を留める。
「わたしはずっと知りたかったのよ。理不尽に若く死ななければいけない根本的な理由を。肉体的限界は納得できても、意味もなくそうなるのは真っ平御免だわ」
せめてわたしはわたしが何者であるかを完全に把握した上で堂々と生き、そして死にたいのだ。それが叶う千載一遇の機会を逃したくはなかった。
「さあ、その秘められた過去を吐きなさい。でないとわたしはここで自死する。お前の目論見を台無しにしてやるから!」
『はや……術を……とけ……』
「さとり! 術を解くんだ! このままでは彼女が死んでしまう!」
勇儀の声を受け、さとりの第三の眼がちかちかと光る。目を背けようとしたが既に遅く、わたしは……わたしは喉を強く押さえる手を慌てて離す。
「えっと、わたしは何をしようとしていたのですか?」いくら思いだそうとしても、該当する情報が頭の中から取り出せない。「どうやら思い出せないみたいなのだけど、催眠術のせいかしら」
「……その通りよ」さとりは額に汗を滲ませており、随分と疲弊した様子であった。まるで恐ろしいトラウマを見せられたかのようだ。「ごめんなさい。わたしが加減を間違ったせいで自傷行動を取らせてしまいました。催眠治療では稀によくあることなのですが」
先程まで高圧的だったさとりが妙にしおらしいのは気味が悪い。背後の勇儀を見ると同じような顔をしていたから余程のことが起きたとは推測できるのだけど、わたしにはそれが何か分からない。
「すると結局、書けなくなった原因は分からずじまいなんですね?」
「そうね、だからもう少し地道に情報を収集して……」そこまで口にしたところでさとりは大きく首を傾げる。「貴女は先程のやりとりを覚えていない。完全記憶者の、記憶の欠落。そのことが恐ろしくないのですか?」
「それは確かに気持ち悪いですけど」でも心を視る妖怪がかけた本気の催眠術だとしたら。「まあ、あり得ないことではないのかなと思うだけです」
わたしの言葉を聞き、さとりが盛大な溜息をつく。
「なるほど、これ以上の調査の必要はありませんね。あなたの心から抜け落ちている感情、それは……何かを恐怖するという感情です」
恐怖。その一語を当てはめ、わたしはここしばらくの行動を精査する。
「地上の里に住む人間の中で妖怪のことを誰より知っている貴女がこんな所までのこのこやってきたこと自体がそもそもおかしいと考えるべきでした。しかも鬼に警護を頼むなんて」
確かに言われてみればその通りだ。わたしは幻想郷に住まうあらゆる妖怪に興味を持っているが、危険な場所を訪ねることはほぼない。でも今回に限り、鬼に頼ってまで地底に降りてきた。命に関わるかもしれないのにあっさりと決断できた。執筆ができなくなったことを差し引いてもなお、おかしなことだと気付くべきだった。
「以前、酒飲みの妖怪を退治しようと息巻いてたり、他にも古本屋のお嬢ちゃんと組んで妖怪を探っていたからてっきりフィールドワーカーなのだと思ってたよ」
勇儀ははははと笑い、部屋の家具や本が微かにびりびりと揺れる。
「でも本当にそうなのでしょうか? 実を言うとあまり実感が湧かないのですが」
「簡単に証明してあげましょう」さとりは机の棚を再び探り、すると手には刃渡りの短いナイフが握られていた。さとりは無造作に手を伸ばし、わたしの鼻先にナイフを突きつける。「冷や汗一つかかない、瞬き一つしない。か弱い乙女にできる所作ではありませんよ」
わたしは納得の頷きを返す。これは本当に、恐怖が欠落しているらしい。
「普段から無鉄砲してるから、誰も気付かないのです。これからはもっとお淑やかに行動してください」
そう言ってさとりは嫌らしく笑う。それで原因を解明してくれたことに対する感謝の気持ちがあっさりと吹き飛んでしまったのだった。
それからの顛末はごく簡素である。
わたしは地上に戻ると秦こころに事情を話し、身の毛もよだつ恐怖をテーマにした舞を披露してもらった。それが終わると同時、わたしは足の力が抜け、全身が震えて立てなくなった。これまでやり過ごしてきた恐怖が一気に押し寄せてきたからだろう。少しばかり粗相したことは二人だけの秘密としてくれたから、彼女のことを書く時にはできるだけ良いところを強調しようと思った。
翌日、わたしは硯箱を取り出すと書き物机の前に座り、いつもよりもゆっくりと墨を刷る。愛用の筆にひたりと浸け、まっさらな巻物と相対する。必要な言葉が、文章が頭の中をするすると過ぎり、筆によって文字の形で定着していく。書くということを取り戻した喜びでわたしの筆は滑りに滑った。少しばかり誤字脱字が多いのはそのうちに落ち着いてくるだろう。今はともかく書けることの喜びを一字でも多く形にしたかった。
二時間ほどするとようやく疲労が追いついて集中が切れ、わたしは紙と墨の匂いで溢れる部屋の中、行儀悪くごろりと畳の上に転がる。
「考えてみれば当然のことだったのよね」妖怪は人間の恐怖が具現化したものである。それなのに肝心な恐怖が抜け落ちていて、真に迫るものが書けるはずもないのである。「感情の一部を失うなんて経験これまでにしたことがないから、仕方がないとは言えるけれど」
なんだかんだありながらそのことを突き止めてくれたさとりにも感謝の念が湧いてくる。
「彼女には勇儀さんに頼んでお礼を送らないとな。でも何にしよう」
「わたしもお姉ちゃんも里で売っている栗羊羹が大好物だよー」
「よし、羊羹にしよう」何故か無性にそうしなければならない気がした。「明日にでも買いに行きますか」
「わーい、やったー!」
もう少しだらしなくしていたかったが、廊下から足音が聞こえてきたのでちらかった紙を急いで端に重ね、着付けを整えて執筆で悩んでいる振りをする。
「精がお出になるようですが、そろそろ休憩なされたほうがよろしいと思いまして、茶をお持ちしました」
「ありがとう。机の上に置いてくれるかしら」
使用人は言う通りにすると礼儀正しく退出していく。わたしは少しだけ足を崩してから茶を一口啜る。熱さも渋みも控えめで、溜まった疲れが吹き飛んでいく。
己を取り戻した安堵もあって、わたしは深く息をつく。
願わくば、二度とこのようなことがないようにして欲しいものだ。
わたしにはこの幻想郷を言葉によって蒐集するという無二の役目があるのだから。
わたしには幻想郷の妖を記録するという代々に継がれていく役目があるのだから。