境界上の絆(下)・サンプル

14 闇の左手

 節分祭を翌日に控え、微妙に病み上がりの早苗は、本当なら鋭気を養うために静養しているべきだったのだろう。しかし先日の鳩首より、不意の悲しみに突き動かされてさえ頭の片隅より消えることのなかったあることが、無性に気になり始めたのだ。だから早苗は朝の務めを早めに切り上げ、人間の里に向かった。そこに住むある人物なら、早苗の疑問に答えてくれると考えたからだ。

 村の外れに降り立つと、農閑期であるためか人の通りは疎らで、いくつか開いている店も開店休業という塩梅だった。物寂しく、しかしこれが人間にとって本来あるべき冬の過ごし方なのかもしれないとも思う。

 そのような村中を尻目に、早苗はゆるりと目的の場所に向かう。幸いなことに早苗が訪問する人物はちょうど、村の子供たちを送り返しているところだった。

「冬はどこかしこも食べ物が乏しいから、妖が村まで驚くくらいに近づいてくることがある。寄り道せず、まっすぐ家路につくように。年長の子たちは年少の子たちをきちんと送り届けてあげるんだぞ」

 元気の良い返事が辺りに飛び交い、それから「けいねせんせい、さよーならー」とめいめい挨拶をしながら、帰途に着いていく。相変わらず、子供たちに慕われているのだなと目を細めるのもしばし、早苗は優しい表情で遠くを窺う人物の元に近づいていく。すぐに相手も早苗に気付いたらしく、物珍しげな表情を浮かべた。

「こんにちは、お久しぶりです。覚えてますでしょうか?」

「えっと、東風谷早苗さんだっけ?」ゆっくり頷くと、慧音はそれなりに友好的な口調で言葉を続ける。「秋口に訪ねて来たとき以来だな。こちらでの生活にも少しは慣れたかい?」

「はい、おかげさまで何とか」

 内心に抱えた混乱や爆弾を自分なりに押し隠したつもりだったのだが、妖異の身で長く人と接してきたものであるためか、単に察しやすいのか。だから慧音は少し困ったように言った。

「申し訳ないが、うちでは人生相談の類は受け付けてないんだ。わたし自身、そういうのが苦手だから」

 今日の訪問とは関係ない図星を当てられ、だから早苗は辛うじて冷静を保つことができた。

「いえ、そういうわけではないんです。実はここのことで少しばかり教えて頂きたいことがありまして」

「教えて欲しいこと?」早苗の言葉に、慧音の目がきらりと光る。「わたしとて幻想郷の理全てを修めているわけではないが、わたしなりに力を貸そうではないか。さあ、話してみなさい」

 慧音は有無を言わさず早苗を家に入れると、茶を淹れてくるからと台所に向かう。一人残された早苗は、訊ね方を少し間違えてしまったのではないかと少しだけ不安になった。

 上白沢慧音は妖側に立っているにも関わらず、人里での評判を勝ち得ているという、幻想郷においてなかなかに稀有な存在だ。それは彼女が白澤――権力者に知識を授ける妖怪――であることに拠っているのかもしれないし、彼女の中に半ば混ぜる人の血がなせることかもしれない。

 それは結構なことなのだが、白澤ゆえか人を教えることに強い執着心を抱いているらしい。そもそも早苗が彼女の庵を訊ねたのは、高校に変わる学問の場所を求めたからなのだが、彼女の探求心につき合わされ、学術――特に歴史の大切さを懇々と説かれ、ほぼ一日近く拘束されてしまったのだ。

 半ばげっそりとした早苗の様子を見て慧音はようやく我に返ったのか、庵を出る際には申し訳なさそうな様子だった。

『いやはや面目ない。今日は白澤としての本分が特に強く出てしまったらしい』

 とは彼女の言で、後から考えてみれば慧音は自分のことを権力の中枢であると捉えていたことになる。妖怪の山の頂上に居座るのだから当然のことかもしれないけれど、何となく面映ゆいものを感じたのも事実だ。

 早苗は丁寧に辞去し、しかし今日まで慧音の庵を訪れることはなかった。早苗の知識は義務教育に毛が生えた程度のものであったにも関わらず、慧音の教えられる程度を遙かに超えていたからだ。特に理数系の分野は全くのお手上げらしく、関数や方程式を説明しても『外の人間は妙なことを学んでいるのだな』との一言で片付けられた。そこで早苗もようやく気付いたのだ。初等を超える学問はこちら側において、一部の特権者のみが手をつけるだけで、それ以外の人や妖怪にとっては必要のないものだと。

 それに今から思えばきっと、彼女の素性に落ちつかなさを覚えてもいたのだろう。人と妖獣の合いの子だという彼女の成り立ちは、神と人の両面に立ち続けたがゆえ、世界に追い詰められた自分の在り方を否が応でも思い出させたからだ。

 

「申し訳ない、どうやら丁度茶菓子が切れていたようだ」

 お盆を手に持つ慧音にそう声をかけられ、早苗はゆるりと回想から立ち戻る。

「いえ、構いません。長居する用件でもありませんし」

 そう言うと、慧音は少しがっかりとしたようだった。

「こちらとしては、いくらでもいてくれて構わないんだがなあ。貴女は外の理を知っている、わたしさえ知らぬような歴史を多く保持しているだろうし」そこまで口にして、慧音は思わず手で口を塞ぐ。「おっと、先のときはそれで失礼なことをしたのだったな。あのときは月が悪くて、どうにも性分を抑えきれなくて」

「月が悪い、ですか?」早苗はここの月があちらと異なり、実に神秘的な様相を帯びていることを思い出し、それから慧音の素性に考えを巡らせる。「もしかして、満月の晩になると妖怪の本性が現れて、姿もそのようになるということでしょうか?」

 どうやら早苗の指摘は的を射ていたらしく、慧音はよく知っているなあと言わんばかりの表情を浮かべた。

「やはり外の人間というのは、実に多くのことを知っているのだな」

「そういうわけではありません。あちらでは満月の晩に本性を表す妖怪の物語が流行っていて、わたしも何冊か読んだことがあるんです」

「ふむん、きちんとした妖怪ではなく半端物を主人公にするなど、酔狂なことだな」

 慧音は突き放したように言うと、口元をむっつりとさせてしまう。然るに彼女はその素性に少しばかり思うことがあるらしかった。だから早苗はそれらが一様に人を襲い、血肉を啜るのだとは口にしないでおいた。話があらぬ方向に逸れそうだし、あんなにも子供に好かれる彼女が同じようなことをしているとは考えられなかったからだ。

「まあ、それはさておき。わたしに聞きたいことがあると言っていたが」

 慧音が場を仕切り直すように言葉と視線を向けてくる。早苗は訪問の理由を思い出し、少し迷ってからまずは探るように訊ねてみた。

「もしかしたら、慧音さんにとっても腹立たしいことかもしれませんが」

「構わないさ。貴女は悪意のものではないし、それなりの思慮もある。ゆえに毒の言葉は吐かないだろう」

 毒の言葉とはまた強烈な表現だと思ったけれど、ただの一言で神奈子様を動揺させたことを思い出し、粛々と否定した。

「だから、貴女のどんな問いも冷静に受け止めるつもりだ。といってもわたしに答えられるかどうかは分からないが」

 答えが素直に返ってくるなど端から期待はしていなかった。それをおしても早苗にはどうしても把握しておきたいことがあって。だから早苗は躊躇わず、慧音に問いを投げかけた。

「妖怪は、変化するものでしょうか?」

 慧音はその質問の意味が一拍では飲み込めなかったらしく、真摯な声と表情で訊ね返してくる。

「貴女が言いたいのは、化けることのできる妖怪がどれだけいるのかということ? それとも、自らの感情で存在意義を変える妖怪がいるのか、ということ?」

「わたしがお訊ねしたいのは後者のほうです」

 早苗が言うと、それは慧音にとってより深刻な問題だったらしく、深く眉を潜めてしまった。それからしばしの沈黙があり、慧音は小さく首を振った。

「どうなのだろうね……」そうぽつりと呟き、慧音は自分の胸に手を添える。「ご覧の通り、わたしには人と獣の血が半分ずつ流れている」

 早苗が見る限り、慧音はほんのりと漏れる妖力を除けば人間とそう変わりがない。もっともこちらの世界では、細部を除けば誰もが人の形を取っているから、外見はあてにならないのだけど。もっとも今はそのようなことを蒸し返している場合ではなく、早苗は黙って慧音の言葉に耳を傾ける。

「白澤である部分のわたしは知識の収集と、それらを世の為政者に吹聴する願望を常に抱き続けている。しかし人間としてのわたしはそれを心良しとしない。その折衷としてわたしはここに在り、日々暮らす人たちに知識を授けている。わたしは白澤としては外れているけれど、それは自分が半ば人であるという言い訳が立つからだ」

 ここまでは分かるなと言いたげに、慧音は一度言葉を切る。深くは理解できなかったけれど、自分もまた別の種類の合いの子であるがゆえ、気持ちが分からぬではなく、だから小さく頷いた。

「しかし混じりけなしの妖異となればその言い訳が立たない。ゆえに自らの手で存在意義を覆すのは不可能なはずだ。無理にそんなことをしようとすればおそらく存在できなくなるだろうし、そうでなくても力が失われたり、全く別の存在に変わってしまうことだろう。例えばいま人間である貴女が、突如として蛙にでも変わるようなものだ」

 早苗は蛙が苦手なわけではなし、水田の端で頬袋を膨らませているのを見ると愛しさが沸いてくるくらいだ。それでも自分がつるつるの緑色になってしまうことを想像すると、無意識のうちに悪寒が走る。

「それは、怖ろしいことですね」

「怖れを感じるほどの知性が残っていれば良いけどな。最悪の場合、妖怪は逆しまとなり、それまで自分だった種族に徒なすものとなる。わたしが歴史を厭えば、もしかすると人の営みを歴史以外のものに書き換える忌まわしき妖となるかもしれない。それは想起するだけでも吐き気のするようなことだ」

 そう口にする慧音の顔は僅かに青ざめており、彼女の言葉が真実であることを雄弁に伝えていた。

「妖怪は種族であることを何よりも優先する。道を外すことでそのことが損なわれるのは彼女たちにとって最たる恐怖の一つだ。全くあり得ないことではないにしても、梅雨どきに一度も雨が降らないくらいの稀有であると考えるべきだろうな」

 要するに、余程の極端な条件が重ならない限り、あり得ないわけだ。そして早苗はあの日、守谷神社を訪れた鬼子のことを思い出す。彼女は何か重大なものを負っているようには見えなかったし、神奈子様も同様の思いだったからこそ、早苗に取り越し苦労だと説いてみせたのだ。

 案ずることなど何もなく、つまるところ不安な自分の心が生んだ虚像であったのだ。暗闇を見て怪物がいる! と叫ぶ程度の滑稽さだったわけだ。

 胸中は重いままであったが、しかし十分に納得できる答えでもあった。だから早苗は丁寧に礼を言い、慧音の庵を立とうとした。そのとき、彼女の口から「ただし」と、論旨を変える胸の言葉がもれた。早苗は浮かしかけた腰を再び下ろし、次がれるであろう話に備える。

「妖怪単体では無理かもしれない。しかし側に人間を侍らしているならば、可能性がないでもない」

 人間という単語に、早苗は人知れず背筋をぴんと伸ばす。自分のことを人として捉えているがゆえのものであると察するところがあったからだ。

「これは仮説のようなもので、確たる証拠があるとも限らない。誰のことかはあえて語らないが、既にこちらのことをある程度以上は把握しているだろうから、思い当たる節もあるだろう」

 あるいは慧音自身のことなのかもしれないと、早苗は心の中で付け加える。

「人間は妖怪と違い、自らの力で立ち方や在り方を変えることができる。五つの時に臆病だった子が気高さにも似た勇気を備えることがあり、また十のとき正直だった子が眉を潜めるくらいの卑劣になったりもする。自由自在とまではいかないけれど、それでも妖怪にしてみれば奇妙極まりない存在だ。人間にしてみれば全くの反対に違いないが」

 慧音は一人納得するように肯くとお茶を一口啜り、喉を潤した。然るにかなりの長話になるのだろう。

「妖怪たちは人間に徒なすと同時、何とか理解しようとする。低位の妖怪ならばその理解とは、人間を食糧にしたり玩具にしたりすることに直結するのだが」

 早苗の知る限り、最も人間らしい妖怪の一人である慧音であったが、人間を弄ぶ表現に何ら躊躇いを覚える様子がなかった。

「高位のそれになると人間を戯れに仕えさせたり、人より懐っこくちょっかいを出してくる場合がある。それとて稀なケースではあるのだが、人間に対して胃袋に収める以外の感情を抱くことは確かだ。わたしは半人半獣であり、それほど齢を重ねているわけでもないから、そいつらの気持ちが完全には理解できない。しかしおそらく、人間をある種の鏡代わりにしているのだろう」

「鏡、ですか?」

「そうだ、そいつらは人間に自分を解釈させるのさ。そうして自分がどう解釈されているかを聞き出す。そこに人間であるがゆえの曲解が混じれば、そいつらはその分だけ逸脱できる――種族としての自分を保ったままでね。だからこそ幻想郷に住む妖怪は弱々しい少女の姿として現れる。そのほうが、人間が曲解しやすいからだ」

 滔々と流れていく慧音の仮説に、早苗は思わず生唾を飲み込む。今までそんなものだろうで済ませてきたこちら側の現実が、生々しいまでの合理性と共に迫ってきたからだ。

 しかし慧音は自分で言っておきながら、納得できない様子だ。一度は信じかけた説を、強く首を振ることで否定しようとしているようだった。

「とは、わたしの知り合いから又聞きした説なのだが、しかしわたしにはどうも納得行かないのだよ。わたしは人間の曲解をそれこそ日常的に見ているけれど、逸脱を誘われたりはしない。寧ろ人間はわたしに、種族としての自分を強く感じさせるのだ」

 自分が白澤だからかもしれないと前置いてから、慧音は言葉を続ける。

「人の営みとはこれすなわち歴史だ。親が子を成し、その子が親となることで連綿と続いていく。新たな生命が生まれるたび、生き尽くした生命が潰えるたび、わたしはそこに喜びと糧を感じるんだ」

 慧音は瞳に寂しげな色を浮かべ、しかし心からの笑みを浮かべている。人の血が混じっているとはいえ、彼女はおそらくどのような人間よりも長生のはずだ。その生き死にを誰よりも多く見守ってきたのだろう。早苗には何故だかそれが少しだけ羨ましい。もちろん長く生きたいという願望はあるけれど、それよりも生きることによって積み重ねられる心のほどが大切だと思うのだ。

「歴史とは、人と人とが交わることで生まれる。孤独なところに……」慧音は何故かそこで躊躇うように口を閉ざし、笑みを嘘のものにすり替えた。「人の歴史はない」

 力強く言い切ろうとして、慧音は明らかに失敗していた。そこに何かの辛さと、切なさのようなものを交えていた。早苗はもしかしたら、慧音が孤独で在り続けた人間を知っていて、そのために苦しんだことがあるのかもしれないと思ったけれど、瞳の奥に揺らいだ複雑な色からは何も読み取ることができなかった。

 それに気付いたかどうかは分からないけれど、何かを察したのだとは分かっているのだろう。言い訳を試みるようなことはしなかった。

「わたしがいま述べたことは、白澤の本性だと考えて良い。しかしわたしはそのことを否定できる人間を知っている」

 慧音はそう言うと、どこか遠くを見るような眼差しを茫洋と浮かべた。

「孤独でいることを良しとする、不器用で愛想の悪い奴なんだ。でもわたしにとってはかけがえのないもので。しかし時折、わたしの存在意義に影差すそいつをずたずたに切り裂いてしまいたいと思うこともある」

 彼女の言葉には務めた抑制と危うげな情動が入り交じっていて、早苗をどこか落ち着かない気持ちにさせた。慧音はそんなことお構いなしに、沸々と募る想いを淡々と述べていく。

「人の血が混じるわたしでさえ、かくも定まらない。ましてや純粋な妖怪が人間に惹かれるとしたら、そこには複雑怪奇な二律背反が満ちている。好意と悪意、理性と情動、存在と現象、あらゆるものが常に天秤にかけられ続ける。単に友誼の形を取る場合もあれば、恋に似ることもあり、それが次の瞬間には殺意に化けたりもする。貴女も妖怪の山で祭司として生きるのならば、肝に銘じたほうが良い。さもなくば肝を食われるぞ」

 早苗は思わず脇腹に手を添え、すると慧音は端と我に返ったようで、気まずそうに頭をかいた。

「すまない、ここまでくどくどしく語るつもりはなかったんだ。悪い癖だとは思っているんだが」

「いえ、とても参考になりました。それに個人的な体験まで色々と聞かせて頂いたようで、申し訳ありません」

「いいんだ、喋ったのはわたしなんだから」そうあっさりと言い捨て、慧音は早苗のことをまじまじと見据えてくる。「参考になったとは言ったものの、合点がゆかぬといった顔をしているな」

 内心をあっさりと言い当てられ、早苗は慌てて手を振ろうとしたけれど、慧音が続けて話すほうが早かった。

「何を懸念しているかは知らないが、結局のところそいつはわたしと異なる種族のはずだ。ならばわたしの言葉や経験などそうあてにはなるまい。おそらく別の妖怪に聞いても、同じようなことを言うだろう」

 そこで慧音は思案げに顎をさすり、小さく息をつく。どうやら彼女に聞けることはここまでのようだった。

 

「かけがえなくて、でも……ずたずたにしてしまい」

 慧音の庵を出てしばらくすると、早苗はその印象的な言葉を思わず口にしてみた。彼女の物言いは妖怪の山にやってきた二式を送ったあと、文との間でかわされた、どこか睦言にも似たやり取りを想起せずにはいられなかったのだ。

「冗談だと言っていたけれど、文さんは本気でわたしをどうにかしてしまいたかったのでしょうか」

 人間に本気で憤るなど天狗としての矜恃が許さないはずで、だからその目は殆どないだろうと早苗は思う。しかし胸中を過ぎったことは間違いないのだろう。

「妖怪が人間を惑わすよう、人間が妖怪を惑わすこともある?」

 早苗がこちらに来てから、前者は山のように見て来たけれど、後者に該当する場面を見かけたことは一度もない。慧音は妖怪が人間を、自己拡張のために利用しているかもしれないと示唆した。その程度では、妖怪は揺らいだりしないのかもしれない。

「やはり、取り越し苦労なのか。でも……」

 それは表面に出てこないだけで、隠されているのかもしれない。早苗はその疑いをどうしても払拭することができない。妖怪とは異なるけれど、同程度に強固な存在がたかだが一個の人間にあたふたしていることを知っているからだ。