虹の根元にあったものの小咄

 

 わたしはかつて、虹の根元を目指したことがあります。

 もちろん、夢の中で。でも、本当は夢ではなかったのかもしれません。

 この世界を知った今ならば、そう思えるのです。

 

 あれは小学校に入って三年目のことです。

 わたしは虹について学びました。

 水滴による太陽光の屈折と反射。それは多くの同級生に取って、不可思議な現象を合理的に説明してくれる素晴らしいものでした。でも、わたしには容易に納得できませんでした。仕組みが分かっても、それでも神秘的な何かを含んでいるという考えを捨てきれませんでした。そうでなければ、どうしてわたしの力はあり、神は側にいるのか。

 わたしの中で説明できなかったからです。

 だから次に虹が出たとき、その果てまで追おうと決意したのです。

 その機会は一月と経たずにやって来ました。初夏の唐突な豪雨、夕焼けとともに現れるくっきりとした七色のアーチ、その根元をわたしは必死で追いかけます。最初は自転車で、そのうちまどろっこしくなって、空を飛んでいました。わたしは風に乗り、中空を自由自在に駆る技を身につけていました。人前では決して使うなと祖母に言い聞かされていたのですが、まるで何かに酔っていたかのように何も考えられなかったのです。虹の美麗さに惹かれていたのか、あるいはもっと他の意志に惹かれていたのかもしれません。今から思えばよく誰にも見つからなかったものです。

 どれくらい飛んでいたのかは分かりません。気がつくとわたしは綿菓子のようにふわふわとした大地へと降り立っていました。辺りはすっかりと暗くなっており、どこにいるのかまるで見当もつきません。力が尽きたのか空を飛ぶこともままならず、わたしはぺたんと座り込み、呆然としていることしかできませんでした。

 涙を堪えながら闇に目を凝らしていると、眼前に古ぼけた庵があるのを見つけることができました。明かりがもれている様子はないので、中に誰かがいることを期待するのは難しいように思えました。それでも他に頼るものはなく、わたしは何度も躓きそうになりながら庵の入口まで駆けると、外から声をかけました。横開きの戸を叩き、何度も呼びかけました。

 何度試しても人の出てくる気配はなく、わたしは行儀が悪いと分かっていながら無断で中に入りました。電話の一台でもあれば助けを呼べると考えたからです。

 中に入った途端、仄かな光源が暗がりに慣れたわたしの目を打ちました。靴を投げ出して中に入り、明かりのほうに近づくと、期待に反してそこには誰もいませんでした。

 直前まで読書をしていた痕跡がありました。筆と墨で書かれた和綴じの書物が固定されており、その前には紫色の座布団が置いてあります。蝋燭はもう少しで燃え尽きそうになっていましたが、蝋は綺麗に掃除したばかりであり、燃えさしは殆ど残っていませんでした。

 わたしは明かりを残したまま、家中を探し回りました。もはや家人に叱られるという思慮の余裕すらありませんでした。生者のいた痕跡を探すのに躍起だったのです。

 そんなことをする必要がないほど、ここには生活の気配がそこかしこに感じられました。各部屋とも埃は薄く、台所には食糧の備蓄が僅かにあり、火を熾した形跡すらあります。綺麗に割られた薪が脇に積んでおり、鉈には真新しい木くずがついています。

 ここに住んでいたものだけが忽然と、消えてしまったようでした。わたしはいよいよ怖ろしくなり、その怯えを感知したかのように蝋燭がふっとかき消えます。声にならない声をあげながら、わたしは庵の外に出ました。すると更に怖ろしい光景が、眼前に迫っていました。大地がぼろぼろと崩れ始めているのです。わたしは空を飛んで逃れようとしましたが、叶いませんでした。わたしは再び庵の中に入ろうとして、そこで盛大に転んでしまいました。頭を打ち、体を起こすことすらままなりません。

 恐怖と傷みで動転していると、ふいに重力が消えました。墜落するのだと思いました。大地に叩きつけられ、壊れてしまうのだとも。それは死ぬということです。実感はありませんでしたが、怖ろしいことであるとだけは分かります。そのせいで、わたしは何も考えることができなくなりました。

 

 次に気付いたとき、わたしは固い大地の上で傷一つなく倒れていました。辺りはいよいよ真っ暗でしたが、ここがどこであるかはすぐに分かりました。自宅です。わたしはふらふらと家の中に入り、今更ながらに叱られるのではないかと覚悟し、身を強張らせながらただいまと声をかけました。やって来た祖母はしかし「あらあら遅かったねえ」と、少しだけ厳しい顔つきで言っただけです。それもごめんなさいの一言で簡単に許してもらうことができました。時計を見ると、午後七時を少し回ったところです。わたしは虹の根元を求め、相当の距離を飛んだはずです。正体不明の庵を訪ねたとき、日は沈みきっていました。同じだけの時間をかけて戻ってきたならば、もっと遅い時間になっていたはずです。

 わたしの見たもの感じたものは一体何だったのか。夢であるとすれば全てが問題なく片付きます。ただそれでは納得のいかない出来事が二つだけありました。

 一つ目、あの日わたしの履いていた靴が無くなっており、いくら探しても見当たりませんでした。わたしがうっかりなくしてしまったのかもしれませんが、もしかするとあそこに置いてきたのかもしれません。

 そして二つ目、わたしの着ていた服のポケットに古びた紙が入っていたことです。そこには簡潔にこう書かれていました。

 

 ありがとう。

 

 わたしには感謝の意味がまるで分かりませんでした。だから紙のことも、夢のような出来事のことも全て忘れてしまいました。それからしばらくして辛いことが重なったから、塗りつぶされてしまったのでしょう。いまこうしてかつてのことを思い出せたのは、この地に来て妖異の存在が認識され、過去が払拭され、わたし自身が肯定されたことによるのだと思います。

 そして何よりも、感謝の意味が理解できたからなのでしょう。