洗濯物を干し終えると、わたしは両腕を大きく伸ばす。電気がないからアイロンを使うことができず、服を干すにも一枚一枚しっかりと皺を伸ばす必要があるから、腕や肩がどうしても疲れてしまう。電気のない暮らしにも慣れてきたけれど、だからといって日々の疲れがたまらないわけでは決してない。
縁側に腰掛けてから腕や首を回してストレッチしていると、屋根から文が降りてきた。わたしが家事に奮闘しているとき、この烏天狗はきっと日向ぼっこしていたに違いない。
「お仕事ご苦労様です」どうやら文は物見遊山を決め込んでいたらしい。意地の悪いこと尚更であった。「いつもながらに甲斐甲斐しい光景ですね」
「見ていたなら少しくらい手伝ってくれても良いでしょう?」
「凛として洗濯物を干す早苗さんは素敵ですもの」曖昧な微笑みを浮かべるから、本気なのかおべっかなのか分からないなと思っていたら、文は小憎たらしく言葉を付け加える。「それに辛い仕事を他人に任せて飯を旨くするのが天狗ですから」
わたしは無視を決め込み、肩や首を小刻みに動かす。そんな仕草を文は何故か興味深そうに見守っていた。
「どうしたのですか? 肩の凝りをほぐしているのがそんなに珍しいのですか?」
少しばかり棘を込めて言うと、文は意外にもはっきりと頷いた。
「ええ、天狗は肩凝りと無縁ですからね」
その言葉を俄に受け止めかね、わたしは文の後ろに素早く回り込み、肩をぎゅっと掴む。しなやかな筋肉の感触が筋張ることなく伝わってきて、文の正しさを言葉無く伝えてきた。
「うひゃひゃ……何するんですか!」奇妙な笑い声を立てることしばし、文は身を微妙に縮こまらせながら抗議する。「もしかして確かめたんですか? いつもながら、早苗さんは疑り深いですねえ」
わたしは拗ねるように口を閉じる。すると文は機嫌を取るように愛想の良い笑みを浮かべ、次いでわたしの背後に回り込み、肩の辺りを手でぺたぺたと触っていく。くすぐったいと思う一方、凝った肩に押しつけられる手の感触は少しだけ気持ち良かった。
「確かにところどころ固いですねえ」
文はわたしの肩をゆっくりと揉みほぐしていく。無造作ながらも強い圧を覚え、最初こそ息苦しさを感じたけれど、固い所を的確に押したり揉んだりしてくれるので、途中からは心地良さのためひっきりなしに息をついていた。少し甲高い声もあげたかもしれない。人間の肩凝りなんて珍しいと言っておきながら、手慣れたものだ。過去に誰かの肩を同じように揉んだことがあるのかもしれない。霊夢だろうか、それとも魔理沙か、他にそのようなことをするほど親しい相手がいるのか。
「もう大丈夫です」何だか無性に腹立たしくなって、わたしは少しきつい声で制止する。「十分にほぐれました。ありがとうございます」
「どういたしまして」文は再びわたしの前に立ち、それから不安そうにこちらの表情を窺って来た。「あの、お気に召さないことでもありましたか? わたしこういうの初めてなのですが、もしかして強すぎましたか?」
文はわたしの肩をおそるおそる撫でていく。まるで抱きしめるような格好になってしまい、わたしは別の意味で落ち着かなくなってしまう。
「いえ、別に。気持ち良くて、何だか手玉に取られてるのが少しだけ癪だったのです」
頬を膨らませ、わざとらしい調子で嘘をつく。文は肩から手を放し、距離を取ると安堵の息をつく。
「それは重畳。人間は脆くてすぐに傷つきますから」文はわたしを目ざとく見回し、両手に素早く手を伸ばす。「かさかさで、血行も悪いですね。こちらもマッサージして差し上げましょう」
文はわたしの手をくにくにと揉みほぐし、時折温かく湿った息を吹きかける。乾きがちだった肌に少しずつ血が通っていく。あるいは手がぽかぽかしているからそう感じただけかもしれない。
「駄目ですねえ、人間は。日々の家事や労働を繰り返すだけで、固くなってしまう。乾いてしまう。本当、人間にだけはなりたくないです」
わたしを含め、人間全体を侮辱する言葉だ。いつものわたしなら血気盛んとまではいかないまでも反論していただろう。けど、こうも労り深く大事なもののように扱われると、敢えて好意をはねつける気にもならず。
文はそんなわたしの気持ちを台無しにするようなことを、あっさりと口にする。
「早苗さんには五体満足でいてもらわないと。欠落は神の代弁者にはふさわしくありません。お互いの計画のためにも良くないですし」
「天狗のお嫁さんにもふさわしくない?」
文は一瞬だけ手を止め、耳元に囁きかける。
「早苗さんが辛いのは、わたしにとっても辛いことだからです」
欲得づくを貫いてくれれば良いのに。最後に少しだけ優しいのが、文らしい意地悪さだなと思った。