ぱっとしない山彦についての小咄

 

 性格に難はあるけれど、文が良き配偶者であることは間違いないのだと思う。どんな家事もわたしより立派にこなすし、細かいこともよく気がつく。天地ほどの差があるわたしとの訓練にもいらいらすることなくつき合ってくれる。利害が一致していることを差し引いても、わたしには過ぎた相手なのだろう。

 だから性格の悪さには目を瞑るべきだし、ことあるごとに天狗であることを誇り、人間を馬鹿にするのも我慢しなければならないのだろう。

「分かってはいるんですけど」

 天狗と人間は、姿形こそ似ていても精神構造がかなり根本から異なっている。肉体においても表層こそ瑞々しさを保っているものの、炭素を主成分としている人間ではあり得ないほどの力を発揮する。人間が不完全に思えてしょうがないのだろう。

 理屈では分かるけれど、わたしはあまり良い性格ではないし、辛抱強い訳でもない。へこたれやすいほうでもあると思う。だから、つまり。

「腹が立つ!」わたしは空を飛びながら、大気の中に怒りを思い切りぶつける。すると吐き出したくてたまらなくなった。「こういうとき、何でしたっけ? ハーメルンの耳は犬の耳?」

 確かそのような題名のおとぎ話があったはずだ。

 主人公は王様御用達の床屋で、彼はその仕事ゆえ、王様の耳が人間のものでないという秘密を抱えていた。そのことを誰かに話したくて我慢ができなくなった床屋は地面に穴を掘り、大声で秘密を叫んで鬱憤を晴らしたという。

 床屋はハーメルンという、人の言うことを聞かせられる笛を持った人間によって秘密を暴露され……いや、連れ去られたんだっけ? でも連れ去られたのは子供だったような気もする。子供の床屋だったのだろうか。小さい頃に聞いた話なので細部が定まらない。

「そんなことはどうでも良いんです」

 わたしは地面に足をつけ、腹の底から叫んで鬱憤を晴らしたかった。床屋と違い、一人でも多くの人間や妖怪に伝われば良いと心の底から思った。だから音の響きそうな場所に降り立ち、秋付いていく木々の中で腹の底から叫んだ。

「あやさんのーばーかー!!」

 思ったよりも大きな声が出た。毎日筋力トレーニングをしている成果なのかもしれない。音楽の授業で練習した通りに、お腹で呼吸することを意識すると、声はまるで塊のように飛び出していき、残響がかなり長いこと山間をかけ巡った。気持ち良くて、わたしは先程よりも大きく息を吸い、矢継ぎ早に吐き出していく。

「とうへんぼくー! えばりんぼー! じゅげむじゅげむのぱいぽぱいぽのしゅーりんがん!!」

 最後は何だか勢いだったけれど、いまのわたしはすっきりすれば何でも良かった。舌の周りが何だか良くて、わたしは子供の頃に練習した早口言葉を立て続けに山の向こう側へ放っていく。

「とうきょうとっきょきょかきょくー! あかまきがみあおまきがみきまきがみー! ぼうずがびょうぶにじょうずにぼうずのえをかいたー!」

 今度もまた、わたしの声は何度も響きながら、消えていくはずだった。しかして妙なことに、残響は辿々しく頼りなく、しかも一度だけでぴたりと途絶えてしまったのだ。

 面妖なことだと思ったけれど、ここは幻想郷だ。数多の不思議が集うところだ。物理法則を妨げるような怪異はお手のものであると考え、わたしはすっきりとした気持ちを優先してその場を立ち去った。

 

 夕刻になると、文は背中に大きな籠を背負い、戻ってきた。中には秋の味覚に木炭、魚の干物に酒の入った瓢箪がいくつかが入っており、どれも究めて質の良さそうなものばかりだ。買い出しを頼んだ訳ではないのだが、台所事情の心許ない我が家に取ってありがたいことに変わりはない。礼を言おうとすると、文はあからさまに咎めるような視線をわたしに向けた。

「あの、わたし……何か悪いことをしたのでしょうか?」

「悪いことをしたのはわたしですから。気にしないでください」

 文は荷物を新設した小屋のほうに運び入れ、次いで夕飯の準備を始める。ここまで突き放したような言葉につっけんどんな態度では、気にするなというのが無理な話だった。

「文さんは悪いことなどしてないと思いますが」

「わたしの悪口を、山中に叫んだ癖に」文はつんとそっぽを向く。何のことだろうと考え、少ししてから鬱憤晴らしに行ったことを思い出す。あまりにすっきりしたから、頭から半ば抜け落ちていたらしい。「その初耳みたいな表情は何ですか! 帰ってくるまでに十人近い天狗から、話を聞かれたり、夫婦生活がどうのこうのとやんわり説教されたり、大変だったんですから。あの荷物も、仲直りのためにと無理矢理押しつけられたものばかりで!」

 文は完全に背を向け、手元を見ないで器用に料理を続けていく。曲芸みたいな行為の危うさと、すっかり拗ねてしまった文のどことなく子供じみた態度に、わたしは必要もなくどきどきさせられてしまう。

「あの、ごめんなさい。その、わたし、上手く言えないんですが」

 文は料理の手を止め、ゆっくりとわたしに向き直る。背を向けていたときどんな表情を浮かべていたとしても、文は既に平静を取り戻しているようであった。

「何度も言ったでしょう。辛いときは無理をしないで、わたしに打ち明けてくれれば良いんです。早苗さんは人間なんですから」

 まるで、人間であること自体を過ちと言われているようで。わたしはついつい大声で怒鳴り返してしまう。

「そんな態度だから! 腹が立つんですよ」

「だって人間ですもの、早苗さんは」

「だから弱くて狡くて、どうしようもないと言いたいんですか?」

「そうじゃないんです。ただ、何というか。抱え込まなくて良いというか、そのですね。早苗さんにはわたしがいると言いたいわけでして」

 まるでもっと頼って欲しい、信頼して欲しいと言っているようで。気紛れに近いものだと分かっていながら、胃の奥にあるむかむかがあっという間に晴れていく。

「それに、人間に悪口を言われるなんて、天狗の沽券に関わります」

 もとい、まるで夏空にそびえる夕立雲のようにもくもくと甦る。

「だから、そういうのが嫌なんですよ。文さんのばーかばーか」

「わたし、馬鹿ではありません。誹謗中傷はやめてもらいたいです」

「文さんは馬鹿ですよ」口ではそう言いながら、文の博識や頭の回転の速さはきっと誰よりもよく知っていた。「わたしがどんな言葉を欲しいかくらい分かってる癖に」

「わたしは天狗ですから」文はそう言ってから、わたしの体をそっと抱きしめてくる。誤魔化しだと分かっているのに、その一方で柔らかな包容に不思議と満たされるものを感じてしまい。この人はいつも肝心なところで狡くなれるし、そうされるとわたしには為す術がないのだと改めて気付かされるのだった。「早苗さんが人間であるのと同じくらい」

 差異は妥協されるべきだ。頭の中では分かっているのに、何だかそれが無性に気に入らなかった。

「美味しいご飯を作ってくれたら許します」耳元で囁くと、文は現金なことにさっと包容を解き、料理の続きに手をつけていく。「星三つじゃないと駄目ですからね。二つ半でもアウトです」

 文はリズムよく包丁を操り、重たい鍋をまるでしゃもじのようにぶんぶんとふるう。鼻をくすぐる匂いに、わたしは文を許してしまうのだなと半ば確信するけれど、悔しいから黙ったままでいて精一杯、文を不安がらせてやった。

 それくらいの存在にはなれているのだと、一筋の希望を込めて。

 

 後に文から聞いた、余談であるのだが。

 それから半月ほど、妖怪の山に辿々しい早口言葉が響く時期があったという。もしかしなくてもわたしの絶叫が原因であり、不安になって訊ねると、文はしれっとした調子で答えてくれた。

「ああ、それは山彦の仕業ですから気にしなくて良いですよ。滑舌が悪いのに木霊の妖怪というのも難儀なことですが……」

 山彦とは外世界では、山間で発生する音の反響現象のことを指すのだが、ここでは山彦の妖怪が担っているらしい。

 どうやらわたしは気の毒なことをしてしまったらしかった。