静止する風の少女 - 文章サンプル

 その日、神が消失した。これまでずっと側にいたものが、どんなときでも在り続けていた存在が、ぴたりと止んでしまった。

 そのことに気付いたわたしは急いで家に戻り、祖母を探した。これが何を示すのか確かめたかったし、胸の中に満ち始めていた不安を消して欲しかったからだ。

「まるで死んでしまったかのように凪いでいる。まさか……」

 不吉であり、またあり得ないことである。だからわたしは口にした言葉をすんでのところで飲み込み、おばあちゃんと叫びながらばたばたと走った。

「こっちだよ。どうしたね、そんなに慌てて」

 庭のほうから声が聞こえ、わたしは廊下に飛び出して祖母の姿を探した。すると雑草の疎らに生えた庭先から、麦わら帽子と軍手とジャージで武装した祖母がのそりと姿を現した。

「神がどこにもいないの。凪いでしまっている……」

 祖母は薄く真っ白な髪を撫でるぬるりとした風に首を傾げかけ、乾いた瞼をくっきりと広げる。次いで、小さく息をついた。

「まさか、お隠れになられたのか?」

 わたしは分からないと言いたげに首を横に振る。この身の側に感じられていた存在が、まるで泡のように弾けて消えたことだけが、強烈な実感を伴っていたのだ。しかし、それが即ち神の消失を意味するものだろうか。口伝すらも半ば途切れ、あちら側の知識にまるで乏しい早苗には判断できなかった。祖母もその口振りでは、多くを知ってはいないようだった。

「分からないの。でも、何かが変わったのは間違いないと思う」

「何か、か」祖母は含蓄深げにそう呟くと縁側に腰掛ける。「おそらくそれは違う気がするね。この世は何も変わっていない。それ故に、いなくならざるを得なかったのだろう」

「でも、神が消えたのよ。そんなあっさりと」

「ここでは神さえも、あっさりと隠れざるを得ないのだろうね」

「そんな……」首を横に振りかけ、しかし認めざるを得なかった。この地に奇跡など何もなく、また必要ともされていないことを。それどころか疎まれ、排斥されうるものであることを。「それならば、わたしはどうすれば良いの?」

 わたしは家の隣に建つ古ぼけた神社を見る。女手二つで辛うじて保持されてきたけれど、ささくれが目立ち、塗装がぽろぽろとはげ落ちている。草がぼうぼうに生え、訪れるものの景色すら感じられない。とにかく誰かを祭ろうとする意志がまるで感じられないのだ。それでもわたしは祭祀者の末裔として、力の及ぶ限りにおいてこの社を、奉られし神を盛り立てようと思っていたのだ。しかしいま、その神がいなくなった。

「神がいなくなれば、我らの役目は終了するのだろう」祖母は探るように言い、それからわたしをじっと見据えてきた。「心配することはないよ。早苗は器量良しだし頭も良い。真面目で、何事にもきちんと励むことができる。だから、神がなくても十分に生きていけるだろう」

 祖母は小さく息をつき、頬を微かに緩める。

「これで良かったのかもしれない。わたしはね、早苗がこの神社を守って生きると言ってくれたとき、安心したと同時に不安も覚えたのさ。このような朽ちゆく定めのものに巻き込んで本当に良いのかとね」

 祖母の言葉を否定したかった。でも、喉に出かけた言葉はどれも不誠実であり、わたしは何も言うことができなかった。祭祀者の家として生まれなければ、神をこの身に感じることがなければ。人並みの生き方と、平凡な暮らしを行うことができたはずだ。そしていま、その機会がわたしの目の前にぶら下がっている。そんな状況でなお、祭祀者でありたいと抗弁することはできなかった。そんなわたしだから、卑怯にも問い返すことしかできなかった。

「おばあちゃんはそれで良いの?」

「良いとは言えないだろう。わたしは祭祀者の末裔なのだから。脈々と流れてきたものが、いまここで途切れるのには抵抗を覚える。でもね、それ以上にわたしは孫である早苗に、思うままに生きていて欲しいと考えている。神が感じられなくなったのも、もしかすると同じ考えであるからかもしれない」

「わたしに自由に生きろと?」そのために、神は自ら消えて見せたのだろうか。「わたしは神に愛されていたのかな?」

「だからこその力なのだろう。早苗ほどの風祝はわたしの知る限り、その始祖にまで遡らなければならない。そんな早苗が神ゆえに苦しんでいたとしたら、自ずから身を離すことも考えたかもしれない」

「わたしは、神を苦としたことは……」また詭弁が口につきかけ、それとともにわたしは怖ろしいことに気付いた。だから涙がぽろぽろと零れ落ち、止められなくなった。「わたしさえも神を疎み、否定したからこそ神は消えたのね?」

「いいや、愛していたからこそ消えたのだろう」祖母は泣きじゃくるわたしの頭をそっと撫でてくれた。「自分を責めなさんな。これも流れなのだろう」

 わたしは祖母のような達観に、どうしても辿り着くことができなかった。若さゆえの無知か、それともわたし自身が神の消失した原因であるからなのか、それとも他の原因があるのか。

 どちらにしろ、わたしにあるのは強い喪失感であった。そして僅かながらの安堵感であった。その浅ましさゆえ、わたしは辛うじて涙を止め、祖母の乾いた手から抜け出すことができた。

 やるべきことは沢山ある。夕飯の準備をしなければいけないし、風呂を沸かす必要もある。祖母を手伝って神社の周りに生える雑草を抜かないといけないし、自由研究の内容もまとめなければいけない。

 それなのに、わたしは足に力を入れることすらできなかった。体は動くはずなのに、心がそれを許してくれなかった。

「今日は何もせず、ゆっくりと休みなさい。わたしの体調なら心配しなさんな、最近はとても調子が良いし、瓦斯や電気の力もあるのだから」

 確かに祖母の血色は良く、もしかすると今のわたしよりも元気なのかもしれなかった。だから今日だけと理由をつけて、小さく頷いた。わたしは冷蔵庫に入っているものを祖母に教え、覚束ない足取りで自分の部屋まで戻る。服をハンガーにかけ、布団を敷くと下着のままで倒れ込んだ。お腹にタオルケットだけかけると、わたしは額に片手を当て、重い息をついた。

 それからわたしは目の前に手をかざし、風の流れを意識する。すると上空を涼しい風がひゅうひゅうと舞い始め、部屋の温度をたちまちのうちに下げていった。

「わたしの力は消えてない。それなのに神は消えてしまった」

 風祝の力は神に仕えるものが身につけるものだと、これまでずっと考えてきた。少なくとも過去の祭祀者は、祖母も含めてそう考えていたはずだ。わたしもそう教えられてきた。

「でも違う。この力はきっと、神から独立している」

 それならば何故、神は我らと共にあったのだろう。神とは何だったのか。その存在を側に感じられていたときはまるで疑問に思わなかったことが、失われてから懇々とわたしの胸中に沸いてきた。

「神の力、そして、わたしの力」わたしはそう呟き、祖母から教わった神の成り立ちを心の中で復誦する。「それは二柱の邂逅から始まった」

 我らが奉る洩矢神は、この地方を長らく席巻する王国を築くほどに強力なものであった。そして、わたしの祖先はかつて中央から派遣され、神に戦いを挑んだ軍神であるとされている。洩矢神は中央からの派遣者である軍神を死闘のもとに打ち倒したが、同時にその美しさに心打たれたという。そうして夫婦の契りを結び、二つの王国が和合する象徴となったらしい。

 その後、神々は一線から退き、その子孫たちが王国を収めることになった。しかし中央のいや増す力は抑えきれず、やがてはその中に取り込まれてしまう。また人間と交わることで神の血は薄れ、強い信仰は保たれていたものの、それは徐々に人間本位のものへと移ろっていく。そのことを象徴するかのように、祭祀者も特別な力を失い行き、幾多もの争いで口伝も朧気になっていった。だからいま、わたしが知っている歴史は本当に正しいのかどうか、正直いって分からない。

 わたしが知るのは祖母から聞かされた素性の分からない昔話と、先程までわたしの感じていた一柱、そして風の力だけだ。

「おばあちゃんは、わたしの力が特別なものだと言った」

 始祖にまで遡らなければならないほどの強い力。風を起こし、空を舞い、天候を操るそれらは現代人にとって奇跡に近く、同時に殆ど何の役にも立たない。人間はその全てをもっと上手く操る術を心得ているからだ。空気調節器、飛行機、天候操作技術。

「つまり、わたしの力に意味なんてない」それならば何故に今更、わたしにこれほどの力を授けるのだろう。「この力をもって、消えた神に代わり、この地に君臨しろと?」

 わたしは自嘲的な笑みと共に呟き、それから小さく首を横に振った。

「良くて詐欺師と呼ばれるだけのこと」奇跡は、この現代では既に奇跡ではないのだ。「では、何故に?」

 わたしの力では、この地にあって神のように振る舞うには不足過ぎる。かといって急激に蘇った風祝の力が無意味であるとは思えない。

「祖母はわたしが神に愛されていると言った。でも、わたしには確信できない」わたしは肌寒くなっていることに気付くと力の放出をやめ、ぽつりと呟いた。「この力に意味がないなんて思いたくない」

 それでもわたしは、この力に空調以上の何かを見出すことがどうしてもできなかった。おそらくこの世界にある限り、わたしの力は何も役に立たないと思い、するとたちまち可笑しくなった。

「では、別の世界にでも旅立てと? そこでは不思議な力が満ちていて、わたしの力も特別でなくなるのですか?」

 あまりにも空想的で馬鹿げた考えであった。それにわたしがこれまでそのようなことを一度でも思い巡らせなかったわけがない。それは棚に収まった本の種類を見れば明らかだった。ミステリや歴史もの、ノンフィクションも少しは含まれていたけれど、本棚の大半を占めるのはファンタジィやサイエンスフィクションの類であった。不思議な力、不思議な法則で構成された世界を、わたしはどれだけ追い求めてきたことか。しかしクロゼットがナルニアに繋がることはなく、またこの家のどの扉も夏に通じてなどいないのだ。

「わたしはここに在り、成り、果てるだけの存在でしかない」

 特別な力を持っていてもその事実は変わらない。この世界で特別はここにしかない。だからこそわたしはここに居り、守り、骨を埋めようと思ったのだ。

「それすらも奪われた。神はわたしに残酷なことをしたの?」

 そんなことを考えているうちに、暖かい外気が室内の空気と混じり始め、丁度良い按配になってきた。わたしは下着を布団の側に投げ捨て、タオルケットを被った。服を着ていると深く眠れないからだ。

「わたしには、分からない」

 とろとろとした疲れが、徐々にわたしの身を覆ってくる。確かに疲れているのかもしれない。

「神とは何だろう?」あまりにも身近でいつも側にいたから深く考えたことはなかった。「わたしは神について何を知っていたの?」

 わたしは頭を振り絞って、神の姿を頭に思い描こうとした。しかし朧気な人型を僅かに示すだけで、明確な形にすることができない。

「何も知らなかったの?」祖母から聞かされた口伝の数々ですら、いまやわたしの中から零れ落ちようとしていた。「いいえ、そんなことはない。きっと少し混乱しているだけ」

 そういうことだと割り切り、わたしは眠りに全てを任せた。体の調子が良くなれば、きちんと思い出せるはずだと考えたからだ。

 

 こつこつと乾いた音が聞こえ、わたしは体を起こすと大きく背を伸ばした。手足は微妙に冷えており、生ぬるい気怠さが首筋の辺りをじんわりと覆っている。明らかに低血圧の症状であり、わたしはわざとらしく大きな欠伸をしてから頬を叩いた。その音を聞きつけたのか、祖母が扉を開けて中を覗き込んできた。

「夕食の準備ができたよ。まだ辛いならお盆に乗せて持っていくけど」

「大丈夫、起きられるよ」わたしは気怠さを押し殺し、ゆっくりと立ち上がると、部屋の電気をつける。辛抱強いはずの夏の太陽が、既に地の底へと下っていたからだ。「数分したら行くから」

 祖母は小さく頷きかけ、わたしの体を見て、小さく息をついた。

「その癖は早く直した方が良いと思うけどね。夏はまだ良いけど、冬だと風邪を引くだろう」

「何も着ないで寝た方が健康に良いって聞いたことあるもん。それに冬はちゃんと腹巻を着けてるから大丈夫だよ」

 それにわたしは小さい頃から、風邪らしい風邪を引いたことがない。流行性感冒はおろか、はしかやおたふく風邪にすらかかったことがない。でもそれは言わずに置いた。神の力を保証にすることは、祖母にあまり良い顔をさせないからだ。

「まあ、早苗が良いというなら構わないけどね。それにしたって、もう少しくらい色気を装っても罰は当たらないと思うよ」

「善処します」わたしは当たり障りのない答弁を返し、祖母を押し出すようにして部屋から追い立てた。「もう、おばあちゃんったら最近はこういうことにうるさいんだから」

 わたしは下着を手に取り、思うところがあって部屋の隅にある姿見にわたしを映した。湿気があると癖になるけど概ね素直な髪質はなかなかのものだ。でも痩せっぽちの小さな顔形はあまり好きじゃない。友人には羨ましいと言われたけれど、顎が大きければ歯列矯正で痛い思いをする必要もなかった。最後の仕上げで第五永久歯四本を抜いたときの、七転八倒するような痛みといったら筆舌に尽くし難い。

 顎の皮を恨みがましく抓るとわたしは首筋に手を添え、胸の膨らみに至るまで体の流れをそっとなぞっていく。日に焼け難い肌は好きじゃないし、不必要に大きく膨らんだ胸はもっと嫌いだった。脂肪の塊なのだから汗をかき続ければ痩せると考え、一時期は十キロ近い走り込みをしたけれど、まるで効果がないどころか、風船みたいに膨らんできた。重たいし、嫌な目で見られるし、良いところなんて一つもないのに。

「やせっぽちで胸ばっかり、嫌なからだ」わたしはお仕置きのために胸をぺちんと叩き、へこんだお腹に、それからそうっと薄毛の生えた箇所に手を添える。「ここも嫌い。わたしを変えてしまうから」

 ここの仕組みは小学校のとき、体育の授業で教わった。教師はあくまでも客観的に、男性器と女性器を結合させることで、子供の元が生まれることを説明していったけれど、子供を作る以外にも盛んに行われるものであることを知らないものは誰もいなかった。またそうでなければ、教師が避妊について詳しく説明することもなかっただろう。これはいわゆる暗黙の了解という奴だった。

 その数日後、わたしは既にしたことがあるのだという噂が立った。胸が少しだけ膨らんでいて、昼休憩になると毎日図書室に向かうのがその原因であった。そのときの司書は若い男性だったのだ。当時のわたしは物語の英雄に夢中であり、またその男性に恋人がいることは教師たちの中にも深く知れ渡っており、噂は二週間ほどで消えたのだけれど。

 わたしは思い出しかけたことを、首を強く横に振って追い出した。それからそそくさと下着を身にまとい、かけておいたシャツと短パンに袖を通す。これもまた色気がないと言われそうだけど、祖母と二人暮らししている家庭にお洒落なんて考える暇はあまりないし、そういう時間は読書やゲームやに使いたいのだった。

「こういうの、根暗って言うのかな。それともオタクだっけ?」

 クラスにもそういったものが好きな女子はいるけれど、わたしの趣味とはあまり合わなかった。彼女たちが好きなのは強くて格好良い男の子同士の絡みなのだ。そういうのが嫌いではないけれど、わたしが求めているのはヒロインに一途で、その全てを受け止めてくれるような英雄であった。わたしはかつてそれを、運動ができて活発な男の子に求めようとしたこともあったけれど。

 再び嫌な方面に思考が行きかけ、わたしは本棚に視線を寄せる。紅茶好きの策士に、金髪碧眼の天才将軍を思い出し、わたしは頬を叩く。わたしの求めるものは本の遙か向こう側にしかいない。だからわたしはいずれ妥協して、収まるべきところに収まるのだろうと思った。

「わたし、嫌な女だなあ」お洒落はしないし、空想に理想を求めるし、特別な力を持っているという自覚がある。「本当に、嫌な女」

 わたしは姿見の隣にある化粧台の上に、ぽつねんと置かれた化粧道具に気付いた。あんなことがあったのに、未練がましく残してあるのが急に耐えられなくなって、わたしは翌週の燃えないゴミに出すことを決意する。

 そのとき台所から祖母の大声が響き、わたしは慌てて部屋を出た。

 居間の食卓に並んだのは、素麺に紫蘇を巻いた豚バラの素揚げと野菜のかき揚げ、それから里芋の煮物だった。夏の気候で疲れがちになる体を励ましてくれる献立ばかりだ。

 わたしはつるつると素麺を啜り、かき揚げをぱりぱりと頂く。出汁の良く効いたつゆが微かな甘みを含んで口の中に広がり、わたしは大きく息をついた。わたしも台所に立つようになって大分経つけれど、祖母の作る料理には届かないなと思う。年の功であることを差し引いても、わたしが祖母ほどの年齢になったとき、同じ味を出す自信はない。できるだけ受け継ぎたいとは思うのだけれど。

 祖母の食欲を時折窺いながらも、わたしはあっという間に夕食を腹の中に収めていた。すると現金なもので、沈みかけていた心がみるみるうちに浮かんできた。

 ごちそうさまの挨拶をしてから、わたしは空いた食器を片付けていった。祖母の調子が良いというのは本当らしく、わたしほどではないにしても油を使った料理も含めてぺろりと平らげていた。祖母の食器も片付けると、わたしは祖母と一緒に風呂に入る。数年前に軽い脳卒中で倒れてから、後ろに手を回すのが困難になったからだ。前に伸ばすなら簡単にできるし、リハビリで筋肉は取り戻せたはずなのだが、それでも上手くできないらしい。脳を損傷するというのは怖ろしいことなのだ。

 祖母の背中は汗疹のせいか、赤いぶつぶつができて痛々しい。わたしは柔らかいスポンジで丁寧に体を洗い、爪を立てないように背中を掻いてあげる。祖母は石鹸でがしがしと泡を立て、床屋で短く切り揃えた白髪を無造作に洗ってから、全身についた泡を一気に桶の湯で流してしまう。シャワーを使った方が楽だし、背中に湯をかけるとき悪戦苦闘しなくてすむと思うのだが、わたしは祖母の意志を尊重して手出しをしない。泡を落とすと祖母は三十数えて鴉のように風呂から上がる。堅苦しい言葉は一切なし。わたしたちは家族なのだし、毎日気を使われては叶わないからだ。

 わたしは一人になるとシャワーで汗を流し、コンディショナー入りのシャンプーで髪を洗う。

「髪の毛も大分伸びてきたなあ。明日、切りに行こうっと」

 冬まで理容店に行かなくて済むように、ばっさりと切ってもらうつもりだった。本当は祖母と同じ床屋で済ませたいのだけれど、それは駄目だと祖母に厳命されているから、清潔で良い匂いのする近所の理容店を利用している。よく勿体ない切り方をすると言われるけれど、でもシャンプーを沢山消費する方が勿体ないとわたしは思うのだ。

「女って面倒臭いなあ」身だしなみをきちんとしなければ怒られるし、一人でいるのもいちいち気を使う。楚々としていても賑々しくしていても疎まれるし、漫画やライトノベルのコーナーにいるだけで怪訝な視線を向けられる。「あと、月のものも面倒だったし」

 男はむらっと来たら出せば良いだけなのに、女は否応なしに血と痛みを強いられる。いちいち理不尽だ。男はよく、女は強いと言うけれど、これだけ面倒臭いことと始終対面していれば、男に比べて性根が座らざるを得ないのだ。女を舐めるなと言いたい。

「でも、そんなこと言うのは格好悪いよねえ」物語の中には女であることを粛々と受け止めながら、超然として強いキャラがいくらでも存在する。「もう少しだけ、ほんの少しだけで良いから強くなりたいなあ」

 奇跡の力とは別の強さが。心の強さが欲しい。そうすれば神もわたしの側からいなくなることはなかったかもしれない。

「強くなければ生きていけない。これって、誰の台詞だったかな?」

 ハードボイルドらしい言い回しだ。わたしは本格なら少しだけ読むけど、固ゆで卵には苦手意識があって、手をつけていないのだった。

「それに、その先に続く言葉もあったような気がするけど。もっと大事なこと」

 わたしはどうしても格言元を思い出すことができず、瞼に押し寄せてくる泡に負けて、洗髪に専念した。

 風呂から上がると、わたしは時代劇を視聴している祖母の肩を揉んであげた。かつて教職にあったせいか、仕事から離れてもその肩はいつもごりごりと固いのだ。

「早苗もこの肩は継いでると思うから、気をつけないと駄目だよ」

 これは祖母の口癖であるが、半ば諦めている節もある。数年前までは読書やゲームを程々に控えるよう口を酸っぱくして言われたものだが、最近ではこの言葉以外に何も言われなくなったからだ。

 十分ほどかけて念入りにマッサージすると、祖母は財布から百円を取り出してわたしにくれた。中学に上がった頃から、祖母は肩揉みや家事手伝いの一部にお駄賃をくれるようになったのだ。最初こそ断ろうとしたけれど、祖母はけじめをつけるべきだとして譲らなかった。また、対価を得られる意味を知るべきだとも言った。わたしがその意味を身につけているのか自信はないけれど、本は学生にとって割合に高価であり、正直言うととても助かっている。大抵の本は図書館で借りるか古本屋で買うかするけれど、新刊を追いたい作家がいないわけではないのだ。

 わたしはありがたく硬貨を受け取り、祖母と並んで時代劇を最後まで見届けた。完全に予定調和の物語がわたしには少し退屈に感じられるのだけれど、祖母は提供まできっちりと確認してから堪能したという風に頬を綻ばせるのだった。

「では、わたしはそろそろ眠るとするよ」

「うん、お休み……」

 わたしは祖母と、神がいなくなったことについてもう少しだけ話をしたかったけれど、すんでのところで踏みとどまった。呼び止めようとしたわたしの声を、微かな震えと共に受け取ったからだ。わたしはそのとき初めて、祖母が神の不在に戸惑っているのだと気付いた。

 祖母もかつては風祝だったのだ。もしかするとわたし以上に、神と親しい付き合いをしてきたのかもしれない。いや、間違いなくそうだろう。何しろわたしは神の御姿さえ満足に覚えてないのだから。

「お休みなさい、おばあちゃん」

 明るく言い直すと、祖母はいつものようにからりと微笑み、寝室に向かった。その姿を見送ってから、家中の明かりと戸締まりを確認し、部屋に戻るとドライヤで髪を乾かす。しっとりした部分がなくなると、わたしは本棚から一冊の本を取り出し、裸になって布団に潜り込んだ。そうしてピンクの背を、続けて幻惑的な一室の描かれた表紙に視線を寄せる。ドロシー・L・セイヤーズの十作目、題名は学寮祭の夜。

「今夜はこれを読み切って、あと感想文をどれで書くか決めないと」

 といっても学校に提出する読書感想文なんて、当たり障りのないことしか書けないし、ジャンルも限られる。ミステリはネタバレするから駄目だし、続き物も当然ながら駄目だ。ライトノベルは漫画みたいなものだと怒られるし、サイエンスフィクションでは首を傾げられるのが関の山だ。結局のところ学校推薦図書の系列に絞られてしまう。

「なんか、まとまらないなあ」こういうのは割り切ってしまえば良いのに、なかなか踏ん切りがつかない。だから読書感想文は毎年、駆け込みで書き上げる羽目になるのだ。「週末には決めたいけど」

 夏休みはあと少しなのだし、今年は自由研究の進みが遅い。済ませられるところから済ませるのが良いのだけど、本は好きだから妥協できなかった。

「それに返却期限、明日までだしなあ」わたしは図書館のものであることを示すシールを指でなぞり、気鬱の原因を頭から追い出した。「今日は読もう。まだ、大丈夫だよね」

 わたしは両肘をつき、俯せの姿勢で活字を追い始める。英国の大学模様と主人公の困難、伴う内的葛藤が丹念に描かれているため、前半は少し読む足が遅かったけれど、少しすると走るようにページを進めることができた。事件が俄に活発化してきたからだ。

 解決までには程遠く、わたしはじりじりしながらページをめくっていく。探偵となるピーター卿が現れたのは後半を過ぎてからのことで、しかしそうなれば事件には光明が当てられ、最後には卿によって丹念に紐解かれていく。

 最後まで読み切ると、わたしは大きな溜息をついた。探偵であるピーター卿と主人公のハリエット嬢が迎えた大きな転機と劇的さに心を打たれたからだ。

「良いなあ。こういうの……」英国的な控えめで、しかしその強い心情が窺えるプロポーズの言葉。そしてそれをきちんと理解する女性の聡明さ。「この時代の英国だから、男女平等とは行かないと思うけど」

 でもこの時だけ、二人は同じ目線に立っていた。知性とも恋とも愛とも言えぬ、複雑で強い想いが二人を包んでいた。またこのような場面を書ける作者のことを、素直に凄いと思えた。

「最初はいけ好かない探偵だと思っていたけれど、読み続けて良かった。これもだし、前のも面白かった」

 有栖川有栖の著作で幻の名作と呼ばれていたセイヤーズの作品は、これまでのどちらかと言えば軽薄なピーター卿のイメージを良い形で壊してくれた。あるいはこの事件での経験があったからこそ、学寮祭の夜のラストがあるのかもしれない。

「シリーズものってこういうのがあるから良いのよね」

 学生の財布には痛いけれど、きちんとエンドマークがつけられたシリーズからは得も言えぬ感動が浮かぶのもまた確かだ。わたしはもう一度溜息をつき、本を棚に戻す。それから電気を消して、タオルケットを被る。

「わたしも、こういう風に想い合えたら素敵なんだろうな」ピーター卿は探偵というミステリ世界での英雄だけど、少しばかり機知に富んだ言葉を贈ってくれる人がいれば、他に取り柄がなくてもそれだけで素敵なことなのかもしれない。「そのためには言葉を受け取れるほどにならなくちゃ」

 もっと本を読んで、沢山学んで、引っ込み思案を少しだけ直す。強く独立した一個の存在になり、愛しき一個を正面から受け止められるほどの聡明な人間になりたいと思った。

「それが神をなくしたわたしにできる唯一のことなのかもしれない」

 喪失の悲しみは胸にあったけれど、それでもわたしは穏やかに目を瞑ることができた。明日からやるべきことがわたしを勇気づけてくれたからだ。

 その日の夜、古びた家と社が一つ、忽然と姿を消すことになる。わたしのこの願いは結局のところ失われ、後に半分だけ叶うことになる。

 わたしは突如として息苦しさを覚え、布団から飛び起きた。どれだけ深く息を吸っても満たされることがなく、陸にいるというのに溺れてしまいそうだった。おまけに急激な肌寒さが身に迫りつつあった。わたしは慌てて下着と服を身につけ、それだけで目眩がして畳に膝をついた。

「駄目、溺れそう。空気が、欲しい」

 わたしは虚空に手を伸ばし、すると窓が強く軋み始めた。このままではすぐにでも割れてしまいそうで、わたしは急いで窓を開ける。氷のように冷たい風がわたしに集い、すると徐々にに呼吸が楽になってきた。

「何が起きたか分からないけど、助かったのかな?」

 貪るように空気を吸うと、少しずつ気持ちが落ち着いてくる。そこでようやく祖母の存在に思い至った。部屋を飛び出し、廊下をかけ、祖母が眠る六畳間の襖を開ける。祖母は苦しそうにうずくまっていた。わたしはまとった風で祖母を包み、するとわたしのように空気を必死で吸い込み、噎せながらも体の中に取り込もうとする。わたしは祖母の背中をさすり、落ち着いたところを見計らって、そっと訊ねてみた。

「これって一体、どうなってるの? 呼吸が苦しくなるし、外気が冬みたいに冷たい。まるで……」わたしは二つの現象に共通する事象を考え、おそるおそる言った。「この家が空を飛んでしまったみたい」

「なるほど、薄くなった空気に気温の低下、高山特有の現象だね」祖母は顎に手を当て、それからわたしに心当たりを求めてきた。「早苗の仕業と考えてるわけじゃないよ。ただ、神が喪われた日の夜に起きた出来事だからね」

「関連性があると考えるべきだよね」

 祖母は小さく頷くと、カーテンを開けて外を見る。しかし辺りは濃い雲か霧に包まれているため、数メートル先さえ満足に見えない有様だった。びゅうびゅうと吹き込んでくる風はやはり冷たいけれど、空ではないようだ。靄の向こうに微かながら、針葉樹らしい樹木の輪郭が見えたからだ。わたしは不作法だと思いながら、開けられた窓から外に出る。地面はあっさりとわたしの足を重力でとらえてしまった。

「どうやら空じゃないみたい」

「するとどこか高い山の上なのかね」祖母は棚から温度計を取り出すと、外気にかざして数分待った。驚くことに温度計は摂氏にして一桁の値を叩き出していた。「ここが日本という保証も、同じ夏だという保証もないけれど。もしもそうだとして、昨夜のニュースで札幌の最低気温が二〇度だと言っていた。広域予報で表示される中では最も低かったが、それよりも更に二十度近く低いことになる。百メートルにつき摂氏九分下がるから……なんてことだ、わたしたちは地上より二千メートル以上も高い所にいる計算になるよ!」

 祖母の概算に、わたしはただただ呆気に取られるばかりだった。少なくとも一つの家と二人の人間をこのような場所まで運んでくるなど、およそ人間技ではないと思った。

「これは神の仕業なのでしょうか?」喪われたと思っていた神が、わたしたちをこのような場所に導いたのだろうか。「わたしには何がなんだか分からない」

「空想小説の類を読み慣れている早苗がそうならば、わたしには言うべきことなど何もないよ。不可思議の一語だ。ただ、まだ何者の仕業とも決まったわけではないだろう。神の御手だけを早計に疑うのはよしたほうが良いのかもしれないね」

 祖母の言葉には一理があり、わたしは小さく頷くと寒気に耐えかねて中に入り、窓を閉めた。それから思い出したように電灯の紐を引き、しかし何度繰り返しても光が点る気配はなかった。

「そっか、電線なんて繋がってるわけないよね」

 この分だと、瓦斯も水道も切断されたに違いない。冬に使った灯油の余りがどれだけあるか、わたしはよく思い出せなかった。そして部屋は外気に冷やされ、どんどんと寒くなってきた。

「冬用の服を引っ張り出さないといけないね」

「じゃあ、おばあちゃんから先に済ませて。わたしのこの風、二つに分けられるか自信がないから」

 少なくとも今はそれを試している暇はなかった。

 祖母は箪笥の奥から冬用の生地が厚い服を取り出し、寝間着の上から重ねて身につけた。そのことを確認してから、わたしは開いている戸や窓がないか確認しながら自分の部屋に戻った。箪笥の奥から羊毛のセーターと厚手のカーデガン、それに黒のタイツを取り出して順に身につける。それでも手足の先に寒さは残ったけれど、大分ましにはなった。

「ストーブも焚きたいけど、灯油は節約しないといけないだろうね」

「じゃあ、この部屋の空気を暖めるね」

 わたしはスープをかき混ざるようにぐるぐると腕を回し、すると暖房のようにじわじわと空気が暖まってきた。

「そんなに力を使って大丈夫なのかい?」

「これくらいならほとんど問題ないから」寝苦しい夜など、これと逆のことをして空気を冷やしているからすっかり慣れっこだった。それに何故か力が使いやすかったような気がする。高い所にいて風の力が強くなっているのだろうか。「それより、もう寒くない?」

「ああ、逆に汗をかきそうなくらいだよ」祖母は手をうちわのようにぱたぱたとさせた。「しかし本当に、難儀なことになったねえ」

「これは狐か狸に化かされているだけなのだと思いたいけれど」

 それならばからかい終われば全ては平穏に戻るはずだ。しかし、それにしては身に受ける感覚の一つ一つが現実的過ぎた。祖母にもそれは分かっているようで、唇を鋭く尖らせた。

「ひとまず、朝になるのを待とうかね。ここがどこだかは分からないけれど、この高さならば天候も崩れやすいし、足場も覚束ないに違いない。夜分に歩き回るのは危険すぎる」

「あとどれくらいで朝になるのかな」わたしは机の上に置いてあった携帯電話を手に取る。最近は富士山頂ですら電波が立つらしいけれど、表示されているのは圏外の二文字だった。念のために警察の電話番号を試してみたけれど、何度かけても不通だった。「ここからじゃ連絡できないみたい。すると人の手があまり入っていない山なのかな?」

「そうだろうね。日の出まではあと何分だい?」

「いま、二時を少し過ぎたところ。夜明けまではまだ時間があるみたい」

「霧が酷かったからね、そんなところだとは思っていたが……」

 あと数時間とはいえ、身動きがまるで取れないのはもどかしい。おまけに深夜まで本を読んでいたから眠くてたまらない。思わず欠伸をすると、祖母は優しく頭を撫でてくれた。

「まだ時間はあるから、朝まで休みなさい」

「でも、わたしが寝たら少しずつ空気が薄くなるよ」ある程度の密閉度はあるけれど、それでも少しずつ薄まっていくのは間違いないだろう。「外は氷点下に近いから寒くなるし」

「どのみち薄い空気に慣れないといけないから、そのほうが好都合かもしれない。もちろん苦しかったら早苗のことを起こすよ。こんな年だけど、得体の知れない現象に巻き込まれて野垂れ死には御免だからね」

 そう言ってもらえると逆に安心できる。だからわたしは服を着たまま布団に潜る。何だか窮屈だなと思いながら目を瞑ると、祖母がわたしの額を撫でながら子守唄を歌ってくれた。こんな状況であるというのにわたしは無性に安堵を覚えてしまい、あっさりと眠ることができた。

 

 次に目覚めたとき、カーテンの隙間からは赤白く強烈な光が差し込んできた。少し寒気がするけれど、長野の冬だって同じようなものであったし、空気の薄さもまるで気にならなかった。思いのほか密閉度の高い部屋なのか、あるいはわたしが慣れてしまったのか。

 祖母はどうなのかと様子を窺えば、わたしの眠っていた布団の横でうつらうつらしていた。どうやら側にいて番をしていてくれたらしい。起こすのはしのびないと思ったけれど、そうしなければ次の行動に移れなかったから、わたしは心を少しだけ鬼にした。

「起きて、おばあちゃん。もうすぐ朝だよ」

「む、ふむり、うん……朝だね」祖母は疲れているのか最初は覚束ない様子だったけれど、すぐに生気のある光を瞳に浮かべ、すっくと立ち上がった。「外に、出てみるとするかね」

 祖母はかつてジョギング用に使っていたジャージを着込んでおり、わたしも倣って高校指定の冬用運動服に着替え、上から同指定のジャンパーを羽織った。その防寒性を確認してから、わたしたちは部屋を出て廊下を渡り、玄関から用心して外に出る。夜明け間近であるためか霧はいよいよ濃く、数歩先さえも見渡せそうになかった。わたしは風で強引に霧をまき散らし、辺りを見回す。するとわたしたちの目にうっすらと古ぼけた神社が見えた。どうやらここにやって来たのは我が家だけではなかったらしい。

「他にも何か、移ってきたのかな?」

 わたしはもう少し広範囲に風を起こし、霧を追い立てる。家や神社の周りには針葉樹を中心として背が高く控えめに葉のついた樹木が並んでおり、その間を埋めるようにして背の低い綺麗な色合いの草花が生えている。わたしはこの光景にどこか見覚えのあるような気がした。

「高山性の植物がちらほらと見えるね。それらが樹木と共存できる高度、あるいは環境にあるのだろう。人の手が入った様子もない、実に豊かな自然だよ。わたしたちがこれから足を踏み入れるのがはばかられるくらいだ」

「おばあちゃん、やっと思い出した。遠足で尾瀬ヶ原に行ったとき、見た風景に似ているんだ」

 近所に尾瀬をフィールドワークしている学者がいるのだ。彼は夏休みになると子供たちを尾瀬に連れていき、豊かな自然を見せてくれる。わたしも何度か訪れたけれど、人間の手が入っていたからもう少しだけ整っていたはずだ。

「尾瀬に生えるような高山植物が散見されるということは、地理的にそう離れていないことになる。少なくとも日本国内であることは間違いないだろう。これは朗報と言えそうだが」

 祖母は言葉と裏腹に、渋い表情で空を見上げる。

「雨の降る気配はないようだけど、風が荒いね。天候が変わりやすいに違いない。ここがどこかは知らないけれど、夏で良かった」

 わたしにもここに集う風の気性は何となく理解できた。住むにはほとんど適していないのだろう。もしここに定住するならば、荒くれる風と常に対話しながら暮らさなければいけないかもしれない。それはそれで修行の一環にはなりそうだけど、できれば避けたい道だった。

「気をつけながら、近くを散策してみようかね。見通しの良い場所でも見つければ、眼下に文明の灯火を見つけられるかもしれない」

 わたしは小さく頷き、躊躇いながらも地面を踏みしめる。祖母も同じ気持ちのようで、わたしと同様におっかなびっくり進み始めた。最初に確認したのは、自宅と共にここへやってきた神社の様子だった。

「特に変わったところはないね。信仰の精彩を欠いたままだ」

 かつては祭祀者でありながら、祖母の言葉は辛辣そのものだった。

「中はきっと、霧でびしょびしょになってるよ。毎日掃除しないといけないかな」

「面倒だったら放っておけば良い。どうせ神はもういないのだから」

 愛着のある建物であり、そういう訳には行かないのだが、場合によっては打ち捨てる必要があるのかもしれない。

 わたしたちは次に、昇ったばかりで眩しい太陽に背を向けて木々をかき分けていく。

「獣道すらないね。まあ、この高度では住める生き物も限られ……おっと!」

 祖母はぱらぱらと枝葉が落ちる音ですぐに立ち止まる。わたしは祖母の体を支え、僅かに浮かびながら前に出る。そこには傾斜のきつい山肌があった。草木がその境目を覆い隠しており、さながら天然の落とし穴といったところだ。

「なるほど、手の入っていない自然は危ういと聞くけれど、早速のご挨拶というわけだ」祖母は小さく息をついてからわたしに言った。「すまないけど、これがどこまで続くのか、見て来てくれないかい?」

 わたしは急斜面がどこまで続くかを慎重に観察する。太陽の位置からして、それは西側と北側に大きく広がっていた。斜面は深く下のほうに続き、前方には霧に遮られてぼんやりと、巨人のようなシルエットが見えた。ここよりも更に高所へと続く峰のようであり、空を飛んだとしても先に進むのは難しいようだ。

「こちらは行き止まりと考えてよさそう」

「ふむり、では日の出でる方へ進むとするか」

 幸いにして東側は緩やかな斜面が続き、人間の足でも通用するかに見えた。しかしいざ踏み入れてみると湿度の高い土質で滑りやすく、背が低いといっても植物は足に絡んでくる。人の手が入っていないというのはやはり大きな壁となるらしく、道なき道の険しさに、わたしたちは引き返さざるを得なかった。

「草刈り鎌を片手に進むべきか、しかし、これでは半分も下りないうちに日が暮れてしまうだろう。何とも困ったことだねえ」

「わたしが空を飛んで行くべきかな?」

 祖母はわたしが人ならぬ力を用いるのに難色を示したけれど、それしか方法がないと考えたのだろう。申し訳なさそうに頷いた。

「面目ないがそれしか道はないようだね。全くもって申し訳ない」

「こんな事態になるなんて分かる訳ないんだから、謝らなくて良いよ」

「そう言ってもらえると助かるが、それにしても困ったときに知恵袋もろくに働かせられないどころか、孫に頼りきりとは情けないね」

 祖母はせめてしっかと立って歩こうとしたけれど、数十分の探索行ですらかなりの体力を消耗したようだった。道がもう少し緩やかであっても、祖母を連れては歩けないと思った。

 わたしは自宅までゆっくりと付き添い、やれやれと腰掛ける祖母に声をかける。

「それじゃあ行ってくるけど、呼吸のほうは大丈夫?」

「ああ、それなら問題なさそうだから心配せずに行っておいで。それよりも、何があるか分からないから、気をつけるんだよ。あと、まずいと思ったらすぐに力を使っても良いからね。人間に見つかるかもしれないけれど、手心を加えて何とかなる場所ではない気がするんだよ」

 祖母はいつもとまるで正反対のことを口にする。それが翻ってこの山の、環境の厳しさを示しているようだった。

「分かった。できるだけ早く帰ってくるから」

「急いでは駄目だよ。それからいざという時は、ここにわたしがいることを忘れなさい」

「そんなこと!」できないと言いたかった。でも祖母の厳しい表情が、わたしの甘い発言を封じてしまった。それでもわたしは最後の一線だけは頑なに守った。「本当にもしかしたら、見捨てるかもしれない。でも忘れたりなんてしないから」

 口ではああいったけど、わたしはこれ以上、肉親のことを忘れるなんてできるわけがない。祖母もそれは分かってくれたようで、それ以上は何も言わずにわたしを見送ってくれた。

 そうしてわたしはただ一人、山を下り始めた。

 わたしは瞑目し、辺りの音に意識を集中する。豊かな生態系が予想される山であること、また水を蓄えやすい土壌であることから、どこかに川があると推測できるからだ。風の力で聴覚を拡張すると、わたしは生き物の蠢く微かな気配から、あっさりと水の流れを聞き当てることができた。

「力が使いやすくなってるのかな。それともこの辺りが静かだから?」どちらにしろ、幸運を引き当てたことに変わりはない。「この流れが消えないうちに少しでも先に進まないと」

 夜露のためか地面は滑りやすくなっており、スポーツシューズを履いていても足下が覚束ない。人どころか獣の通る道さえなく、そろそろと徒歩で下りていたのではいくら時間があっても足りそうになかった。

「誰かに見つかるのは怖いけど、しょうがないよね」

 祖母の戒めに従い、わたしは地面から少し浮いた状態で一直線に水の流れを目指す。すると、少し先に山の斜面と区別できないほどの細い水の流れを見つけることができた。

「これ、源泉ってやつなのかな」それにしてはあまりにもか細くて、これが流々とした川になるとはとても想像できない。耳を澄ませること再度、轟々とした水音がもう少し下のほうから聞こえてきた。「信じて進むしかないよね」

 川の周辺には集落があり、そこまで辿り着けば電話なりなんなりで連絡できるはずだ。一軒家と古ぼけた神社が山の上に移動したことを説明しないといけなくなるが、身の安全に比べれば些細なことだ。わたしは大河になれと祈りながら、水の流れに沿っていく。

 ちょろちょろはやがてじょぼじょぼに近い音になり、気がつくとどうどう言いながら激しく流れていた。荒々しい岩肌が所々に見られ、いかにも上流みたいな風景になってきた。

 川の水は溜息が出るほどに透明で、深まる木々の隙間から指す光に照らされ、所々が宝石のように輝いて見えた。空気は微かな甘みを帯びて鮮烈で、呼吸しているだけで体内が浄化されそうであった。

「こういうの、森林浴って言うのかな」効果があるかはさておき、身を置くだけで心が落ち着くのは確かであった。「日本にも、ここまで人の手が入ってない場所があるんだ」

 わたしは感嘆の息をつきかけ、しかし慌てて首を横に振る。これほどの場所ならば、大っぴらに宣伝されていないとしても、好事家が訪れる可能性はなきにしもあらずだ。しかも現代はネット社会であり、情報が広まるのも早い。わたしは心なし速度を落とし、警戒しながら更に下っていく。その流れはますます荒々しくなり、半ば五月蠅いほどだ。

「こんな流れを筏で下るゲームとかあったなあ」

 そしてこの手の流れはしばしば滝へと通ずる。まさかそんなことはないと思いながら、それでも川の流れに沿って進んでいく。

 突如、空以外の光景が消え失せた。激しい水しぶきが服にかかり、わたしは驚きで飛行を忘れ、真っ逆様に落ちていった。絶叫をあげながら落ちることしばし、わたしは辛うじて飛行できることを思い出し、腹に力を込めて制動をかける。必死に息を整え、慌てて辺りを確かめる。

 何とも大きな滝が、わたしの眼前にあった。少し距離を取り、全景を眺めようとしたけれど、いつまで経っても俯瞰できなかった。つまりはそれほどまでに大きな滝ということになる。

 わたしは地理の授業で習ったことを思い出そうとした。これほどの滝ならば、さぞかし有名であるに違いない。流石にかのナイアガラとまではいかないにしても、日本最大規模であることは間違いないだろう。そこまで考え、わたしは慌てて滝の流れに紛れるほど近付いた。有名ならば、そこには人が集まる。空を飛んでいる所を見られたらえらいことになるだろう。わたしは滝の片端まで移動し、なるべく背景に紛れるようゆっくりと下降していく。果てはあるはずにしてもなかなか見えて来ず、わたしはその壮大さに畏怖すら覚えるほどだった。

 自然は凄いということを、わたしも含めて現代人は実感しにくい。あらゆる地形は征服されつつあり、また天候すら操る技術を心得つつある。天地の畏怖は奪われ、人間のものとなったのだ。

「ここには、それが残っている」

わたしは独りごち、不意に自宅と神社がここへ移って来た理由を理解できたような気がした。

「神はわたしたちが天地の畏怖と近しい場所にいることを望んでいるのかな?」

 例えそうだとしても、ここには人間がいない。いくらありのままの自然が残っていたとしても、信仰なき場所に移ろうては意味がない。

「神はそれすらも分からないほどになられたの?」

 それは哀しい想像であった。それとも全てに定まるべきところが存在するのだろうか。神の不在、住処の移動、そしてわたしの力。

「その掌に良しとするには、わたしはきっと賢しすぎる」祭祀者であるならば、愚直に綸言を拝すれば良いのかもしれない。「できるならば従いたい。でも、あまりに荒すぎる」

 わたしだけならばまだ良い。しかし老体である祖母までを共に連れて来るのは、少しやり過ぎだと思う。

「神よ、あなたはわたしから去られたのですか? それともどこか感じられないほどの遠くから見守っているのですか? 前者ならば言葉はありません、後者ならば、どうか……」

 我が元に綸言を賜り給え。そう口にしようとして、わたしは視界の端に驚くものを見つけた。わたしと同様に、中空へと身を漂わせるものが、一目散にこちらへと迫っていたからだ。どうしようか迷っているうちに、空を駆るものはわたしの目の前にいた。

 その出で立ちは実に奇妙なものであった。まるで長刀を操る女性のような袴姿であり、紅葉をあしらった独特の模様がまだ来ぬ秋を慎ましやかに示していた。腰に大刀らしき獲物を帯び、きちんと歩けるのかと疑うほどの高下駄を履いている。頭には山伏が被っているような頭巾を被っており、それだけでもまるで時代劇に出てくる登場人物のようだが、真に驚くは犬耳とふさふさの尾を生やしていることだった。

 彼女はくんくんと鼻を鳴らし、訝しげな表情を浮かべた。その仕草はどこか幼げに見えるものの、双眼は獣のように鋭く、ぴりぴりとした気配を全身から放っていた。まるで剥き身の剣といった感じだ。

「そこな人間、何故に山へ立ち入った?」彼女は辺りを見回し、それからわたしの臭いを注意深く嗅いだ。「もう一人はどこにいる? 枯れた人間の新しい臭いが微かについているから誤魔化せないぞ!」

 どうやら彼女は臭いで、わたしが本当は二人連れであることを見抜いたようであった。まるで犬のような嗅覚だなと思い、本物のように動く耳を見て、まさかと口にしかけた。そんなことがあるのだろうか。しかし彼女は空を飛び、高下駄を履き、時代物の着物を身に纏っている。

「すいません、つかぬことをお聞きしますが」彼女の視線は思いのほか威圧的で、わたしは怯みそうになる心を鼓舞しながらそっと訊ねた。「もしかして、あなたは人間ではないのですか?」

 あまりにも馬鹿らしい問いであった。しかし今は姿を消しているとはいえ、神が存在したのだから、妖も存在するのではないだろうか。半ば希望的観測を述べると、彼女は小馬鹿にするような鼻の鳴らし方をする。

「何を当たり前のことを言っているんだ。それともお前はまさか、天狗の領分にまで来て、しらを切り通そうというのではないだろうな?」

「天狗!」もしやと思っていたが、彼女はやはり天狗なのだ。「まさか実物に会えるなんて! でも、犬の天狗がいるなんて知りませんでした」

「わたしは犬ではない、白狼天狗だ。お前はわたしを、ひいては白狼を愚弄するつもりか!」

 少女の姿からは想像できないほどの、唸り声にも似た低音にわたしは思わず背筋を伸ばす。それほどの迫力が目の前の天狗から感じられたのだ。

「そんなつもりはありませんでした。わたしは天狗というものをよく知らないのです」

 わたしの中にある天狗像は、赤らかな高鼻と鴉のような黒翼を持つ異形の偉丈夫である。斯様に可愛らしい出で立ちの天狗など想像したこともなかったのだ。それゆえの過ちであったが、しかし白狼天狗の少女は余計に疑いを抱いたようであった。

「天狗に無知な人間が、たったの二人きりでこんなところまで訪れるはずがないだろう。妖怪の山に天狗が住むなど、人里では年端のいかない子供でも知っているだろうに」

 見知らぬ単語が並び、わたしの頭は飽和状態になりつつあった。だから思慮もなく訊ねてしまった。

「ここは、妖怪の山と言うのですか?」

「当たり前だ」天狗の少女はそう言い切ると、わたしの右手をぐいと掴んだ。「どうやらここで話していても埒があかないようだ。連れの老人の所在も含め、詰め所で事情を聞かせてもらおう」

「それは……」困る。それに事情を話したところで信じてもらえるとはとても思えないし、少女は若いのに融通が利かないように見える。捕らえられるのはまずいような気がした。「わたしは山を下りたいだけなんです。信じてください。ここまで立ち入ったこと、無知故に愚弄するような言葉を吐いたことはお詫びいたします」

 わたしはできるだけの誠意を込めて、目の前の天狗に頭を下げた。これで絆されないのならば、いよいよ進退が窮まってしまう。祈るように縋るように見つめると、彼女はわたしの処遇をどうするべきか真剣に悩んでくれた。然るに妖と言えど、天狗は……少なくとも彼女は、機微の分からない相手ではないらしい。しかし、次に決意を定めたとき、天狗の少女はそれでも手を離してくれなかった。

「わたしは哨戒の命を受けたもの、見逃すわけにはいかないのです。もとい、見逃すわけにはいかない。ご容赦ください」

 どうやら道は塞がれたようだ。かくなる上は隙を見て腕を振り解き、逃げ出すしかないのかもしれない。しかし上手く逃げられたとしても、彼女の鼻ならばもしかしたら遙か上流にある祖母の臭いを嗅ぎつけるかもしれない。もはや天狗が人間に友好的であることを願うよりほかないように思えた。

 そのとき、ひゅうと一陣の風が吹いた。それはわたしと白狼天狗の眼前で止まり、人の形として結実する。白のワイシャツに丈の短いスカートを身につけた彼女は、わたしが憧れているような、細くて整った体つきをしていた。黒い瞳と肩までのさらさらな髪の毛、長い睫にほっそりとした頬の形をした見目麗しい顔立ちだった。あまりにもわたしの理想そのもので、想像が形になったかと思ったくらいだ。しかし立派な頭巾は、彼女がおそらくは天狗であることを示していた。

「およ、椛が仕事をしているとは珍しいわねえ」

 彼女は麗しい見目と裏腹、剽軽そうな声で白狼天狗に椛と呼びかけた。親しげな様子であり、知り合いなのかと視線を向ければ、彼女は露骨に不機嫌そうな表情を浮かべた。

「いつもは天狗の領分までやってくる不審人物がいないから結果として暇なだけですし、いざという時にはきちんと仕事をします。今回のように」

 椛はそう言って、もう一人の天狗にわたしを示してみせた。彼女はちらとわたしを見てから、ふむふむと何度か頷き、悪戯っぽい笑みを浮かべてみせた。

「どうやら椛はわたしのために働いてくれたみたいね。感謝感激雨霰と言うべきかしら」

「な、何をいきなり……まさか、彼女のことを知り合いだなんて言い出すのではないでしょうね?」

「そのまさかよ」黒い髪の天狗は物知り顔に頷いた。「わたしを訪ねてくれたのは良いですが、途中で道に迷ってしまったみたい」

 まるで本当にそうであったかのように言い切ると、彼女はわたしに向けて片目を瞑ってみせた。

「それにしても、いけませんねえ。妖怪の山は危険なところ、妄りに訪れてはいけないと言ったはずなのですが。わたしを慕ってくれるのは嬉しいのですが」

 彼女はまるで恥ずかしがる乙女のように顔を赤らめ、身をくねらせてみせた。すると椛はみる間に顔を赤くし、口吻を飛ばす勢いで声をあげた。

「は、破廉恥です! 人間と妖怪が逢瀬だなどと!」

「愛に種族の垣根など存在しません」彼女はあっさり言い切ると、動揺で緩んだ椛の手をさっと引き抜いた。「そんなわけで彼女はわたしが身請けするわ。ご迷惑をおかけして申し訳ないわね、それでは!」

 黒い天狗はわたしを連れ、この場から離れようとする。その一瞬前に、椛が制止をかけた。

「い、いやいや、わたしは騙されませんよ。彼女からはあなたの匂いがまるでしませんでした。新しい匂いも古い匂いもなかった。どう考えても初対面……」

「もう、心配かけたら駄目でしょう?」

 椛の言葉を遮るように、わたしの体を柔らかくてしっかりとした感触が覆う。気がつくまでもなく、彼女がわたしを深く抱擁しているのだった。家族以外の相手にこのようなことをされるのは久しぶりで俄に戸惑っていると、彼女はあっさり体を離し、微かなどきどきだけを残していった。

「で、先程は何を言おうとしていたの? 再会の喜びで感極まってしまい、よく聞いていなかったわ」彼女はにやにやとした笑みを椛に向ける。「匂いがどうのこうのと言っていたような気がするけど」

「こ、この、事実を捏造するなんて! あなたそれでも新聞記者ですか!」

「捏造だなんて滅相もない。愛の前にはあらゆるものが事実になるだけのこと。それでは納得して頂けたようだから、わたしはこれで」

 彼女は八手の葉を模した団扇を一薙ぎし、すると辺りの風が急に騒がしくなり、遂には突風として椛を吹き飛ばした。それからわたしの手を掴むと、まるで風のように素早くこの場から離脱した。滝を一気に駆け上り、川を少しだけ遡ると、手頃な岩場の側で飛ぶ足を止めた。

「ここいらまで来れば大丈夫でしょう」彼女は素っ気なく手を離し、その飛行に身を委ねていたわたしはうっかり川に落ちそうになった。「おっと失礼しました、どうやら飛ぶことにあまり慣れてないようですね」

 彼女は岩場に腰掛けると八手の団扇で口元を隠し、目元に皺を寄せた。どじなわたしをあざ笑っているに違いなかった。わたしは怒りっぽい性格ではないけれど、彼女の態度に何故かとても腹が立った。

「悪かったですね! 向こうではろくろく飛ぶ機会もなかったもので」

「誉めているんですよ。それでよく妖怪の山奥まで来られたものです。余程運が良いのか、それとも何か特別な力を有しているのか……そこでぷかぷか浮いてても疲れるでしょう? 隣に座ったらどうですか?」

 彼女にそう言われ、わたしは少し迷ってから隣に腰掛けた。わたしは風の力で浮いているためか、一箇所に留まるのがあまり得意ではないと気付いたからだ。

「とまれ、難儀なことでした。でもあなただって悪いんですよ? 妖怪の山を登れば、斯様な目に遭うことくらい分かっていたでしょうに。清く正しく親切なこのわたしがたまたま通りかかったから良いものの、下手したら死ぬような目に遭っていたかもしれません」

 死ぬなんて言葉をあまりにもあっけらかんと使うものだから、わたしは逆に少なからぬ怖気を覚えた。そして彼女や先程、椛と呼ばれたもの。聞きたいことが多すぎて、わたしは素性も知らないというのに縋るような目で訊ねていた。

「ここは一体どこなのですか? あなたは? 妖怪の山とは? ここは日本のどの辺りなのですか? 天狗って何ですか? あなたの他にも沢山……」

 そこまでまくし立て、わたしはようやく彼女が口元に人差し指を当てているのに気付いた。

「質問責めをする前に、まずやることがあると思いますけどね」

 わたしは少し考えてから、慌てて頭を下げた。

「あ、あのっ、すいません。助けて頂いたんですよね、わたし。その、ありがとうございました!」

「どういたしまして」彼女はさらりと礼を受け止め、次にわたしを指さした。「あなたのお名前、まだ聞いてないですよね?」

 あまりにも当たり前のことを指摘され、わたしは顔を赤くする。彼女がにやにや笑っているところからして、林檎のように赤面しているのだろう。

「わたし、東風谷早苗と言います。東の風の谷でこちや、早いに苗と書いてさなえです」わたしは某推理小説風に、姓名を一字一句砕いて説明する。「失礼ですが、あなたのお名前も窺って良いですか?」

「射命丸文です。射的の射に命、丸は言わずもがなですね。あとは文と書いて、しゃめいまるあやです」

 彼女はわたしと同じように名乗り、ほっこりとするような笑みを浮かべた。わたしは微妙に視線を逸らし、小さく息をつくと、彼女に再び向き直った。すると彼女はどこか、物欲しげな目でわたしを見ていた。

「わたしのことは、文と読んでくれて構いません」

「あ、はい。その、文……さん」心の中では文と呼べても、初対面の相手を呼び捨てるのは流石に難易度が高すぎた。「あの、わたし訊ねたいことが……」

「では、わたしも早苗さんと呼ぶことにします」文はさんの部分を少しだけ強調すると、わたしの肩にするりと手を回してきた。「そんなに身を固くしなくても良いですよ、もっと落ち着いて、力を抜いて」

「いや、その……」同姓であるとはいえ、ぴたりとすり寄られて耳元で囁かれるのは何だか落ち着かない。「訊きたいこと、あるんです」

「そんなこと、後にしましょう。久しぶりに会えたというのに連れない態度はなしですよ」

「それは、先程の天狗を騙すための方便では」

「どうでも良いではないですか。一目会ったその日から、恋の花咲く時もあるのですよ」

 文はわたしのことをじっとりと潤んだ目で見つめてくる。整った顔立ちに、鮮烈な風の匂い、細くて柔らかい感触。わたしは素性の知れない、もしかしたら人間ですらないものに絆されかけていた。

「駄目です、それはよくありません。こういうのはきちんと段階を踏まなければ」

 辛うじてそう言い切ると、文はなおも懇願するような瞳を向けてきたが、不意にわたしを緩やかな拘束から解き、失礼なことにけらけらと笑い始めた。

「ああ、可笑しい。なんですか、その初な反応」

 文は鴉のようにけたたましく笑い声をあげる。からかわれたと知り、わたしは瞬間湯沸かし器のように怒りで頭が茹だち、思わず平手を作っていた。それが振り下ろされなかったのは、文がぴたりと愉悦を収めてしまったからだ。

「これだけ匂いをつけておけば、椛がいくら訴えても通用しないでしょう。まあ念のためということで」そう言って文は腰に身につけた古めかしい革の鞄から、分厚そうな手帖とペンを取りだした。「その間に早苗さんへの質問を考えてみました」

 あわあわとしていたのはわたしだけであったと知り、文のことをこ憎たらしいと思ったけれど、現在の状況を知る機会であるからには耳を傾けざるを得なかった。

「率直に訊ねますが、早苗さんは外世界からの来訪者ですか?」

 外という意味が分からずに首を傾げると、文は満足げに頷いた。

「やはりそうでしたか。これは良いネタを……もとい、随分と戸惑われたことでしょう」文は何事かを手帳に書き留めながら、言葉を続ける。「貴女みたいにふらふらとした人間が妖怪の山にいる説明もつくというもの。もっと上の辺りに入ってきて、この山をずっと下ってきたのですね?」

「ええ、その通りですが……文さんはわたしの身に何が起こったのかご存じなのでしょうか?」

「然り。というわけで、早速ですがその場所に案内して頂けないでしょうか。ちなみに早苗さんはお一人でこちらに?」

「いえ、祖母とそれから建物が二つ」 

「ふむり、その方も異能の力をお持ちなのでしょうか?」

 かつては持っていたと口にしかけ、わたしは慌てて飲み込んだ。文の請うままに回答していると気付いたからだ。顔つきを見るといつのまにか瞳が貪欲にぎらぎらと輝いていて、信頼できかねる形相である。文はわたしの視線に気付き、慌てて表情を隠したけれどもう遅い。わたしは口を一文字に引き締め、文のことを強く睨みつけた。するとまるで悪びれる様子もなく、さらりとことを認めた。

「あらら、ばれちゃいましたか」

「わたしの素性を知った上で破廉恥なことをして動揺させ、情報不足で不安なのを最大限に煽って根掘り葉掘り聞き出そうとしましたね? それで? 訊きたいだけ訊いたらどうするつもりでした?」

 そう言えば椛と呼ばれていたものは文のことを新聞記者と呼んでいた。ペンと手帳を当然のように取り出したことも、椛の言葉を補強しているように思える。

「とっとと逃げ出して、記事にするつもりだったのでしょう?」

「いやだなあ、そんなことするわけないじゃないですか。わたしは清く正しいをモットーとしているのに」

 文は明らかな棒読み口調であり、わたしは更に文句を言おうと口を開きかけ、咄嗟のところで飲み込んだ。そしてもう少しだけ理性的な言葉を捻り出した。

「よろしいでしょう、わたしは貴女の取材を受けます。訊きたいことがあれば、何でも訊いてください。ただし、条件があります」

 わたしの言葉に文は怯んだけれど、おそらく乗ってくるはずだと読んでいた。情報を聞き出そうとする瞳の色とそわそわした態度、そして少しだけわたしの勘も加味しての判断だ。文はわたしの提案に考える素振りを見せてから、やれやれとばかりに息をついた。

「良いでしょう。でも過分な要求には答えられませんよ」

「ここがどこであるか、知りたいんです。あと、少しばかり生活の融通をつけてもらえると助かります」

 二つ目の条件をつけたのは、文がわたしを外からの来訪者だと言ったからだ。ここがどのような外に対して内であるかは分からないけれど、容易に脱出できない場所であるかもしれない。そうなると電気もガスも水道もない我が家では、早々に困窮するのが目に見えている。

 文はわたしの要求に渋い顔を浮かべてみせた。面倒な奴に引っかかったと言わんばかりだ。いつもならば他人を煩わせるのは気が引けるけれど、なりふり構っている場合でないことくらいは分かっていた。

「集り通しになるなんてことはありません、お願いします」

 わたしは岩の上に立ち、大きく頭を下げようとして、苔で足を滑らせてしまった。肩を打ち、痛みで身を浮かせることができず、今度こそ川に落ちると思った。しかし予想していた冷たさはいつまで経ってもやって来なかった。文の柔らかで温かい体に支えられたからだ。彼女はふっと息を吐いてごく小さな旋風を作ると、中空に投げ出された万年筆と手帳を器用に拾い上げ、それから耳元で小さく言った。

「あくまで期限付きですからね。それとわたしは一介の新聞記者であり、過度な要求には答えられないので、そのつもりでいてください」

 文はそのまま岸まで飛んでいき、わたしをゆっくりと下ろしてくれた。わたしが感謝の視線を向けると、文はふいとそっぽを向いた。

「勘違いしてはいけません。このまま突っぱねたら椛の所に駆け込んで、哨戒の邪魔をした一部始終を言いつけるなんて口にしかねませんでしたから」

「あ、その手がありましたね」流石にそこまでは頭が回らなかった。「まあ、上手くまとまったことですし、人間万事塞翁が馬ということで」

「それ、用法を微妙に間違っていませんか? まあ良いですけどね」

 文はわざとらしく溜息をつき、少しだけ咎めるような口調で言った。

「わたしは平和主義者ですからこの程度で済みましたが、人間如きが天狗と対等に交渉しようなどとは思わないことです。天狗の中には荒くれた一派もいますからね」

「その辺りも含めてこれから訊かせてもらうんです」

 わたしの言葉に、文は分かっているのかなと言わんばかりの細まった視線を寄越し、それからゆっくりと手を伸ばしてきた。

「では、行きましょう。ここからは早苗さんが案内してください」

 わざわざ手を握らなくても良いとは思うけれど、あるいはわたしのことを少しでも心配してくれたのかもしれない。そうであれば良いなと何故か思いながら、わたしは文の手を握り、我が家に向かう。これでようやく現状が把握できそうであった。

 川を遡り、樹木や高山植物の群れをすり抜けることしばし、わたしは何とか迷わずに帰宅することができた。文は不自然に佇む二棟の建築物を見るや現金にも手を離し、素早く四方を窺い始めた。その動きと言えばまるであてのない風のようで、臍曲がりな性格加減を表しているなと、わたしは意地悪く考えた。

 文はなおもめまぐるしく動いたのち、わたしの前でぴたりと制止し、続けて早口に感想を述べ始めた。

「こちらが自宅ですか」文は平屋のほうを指差しながら言葉を続ける。「人間が造るにしてはなかなかに頑丈で、少々の雨風なら簡単に凌げそうです。これが今の人間の技術だとするならば、その発展たるや感嘆せざるを得ませんね」

 いくつもの聞き捨てならない単語が耳をつき、わたしは文にじろりと視線を向けながら訊ねる。

「文さんは人間の住んでいる所を知っているのですか?」

「ええ、山を下りてしばらく行った所に人里があります」文は素っ気なく言うと、続けて古びた神社を眺め、小さく息をついた。「随分とくたびれた社ですね。博麗の社もみずぼらしいですが、輪をかけて酷い」

「くたびれていて悪かったですね」自覚しているのに文が口にすると何故か腹が立ち、わたしは刺々しく言い返した。「これでも先祖代々、大切に守られてきた信仰の要なのです」

 明治以前には上社下社ともに立派な社が建ち、諏訪の信仰を正しく一心に集めていたのだが、見栄より口にしなかった。文はそのことに気付いているのか、あくまでも冷静であった。

「馬鹿にしているわけではありませんよ。客観的な事実を述べているだけです」続けて寄せられた文の視線には、それくらいも分からないのかと言わんばかりの侮蔑が込められていた。「しかし、これで分かってきました。どうしてあなたたちがここに来たのか」

 文は手帳にさらさらと二棟の特徴を書き込む。初めて見た建物だというのに、雑な中にも驚くほどの再現率であった。

「立ち話もなんですし、中に入りましょう」

 そう切りだされ、わたしは頷こうとしてすんでの所で動きを止めた。そうして無礼な天狗を上目遣いに睨みつける。

「それを口にするのはわたしの方ですよ」

「これは失敬」申し訳ないと思っていないことは軽い口調から悔しいほどに明白であった。「長い話になりますから、気遣いですよ。あるいはわたしなりの愛です」

 また訳の分からない戯言を口にされ、わたしは無言で玄関に向かうとゆっくり戸を開き、帰還の挨拶をした。祖母の声がすぐに返ってきたのでわたしは安堵の息をもらし、それから文に入ってこいと目で訴える。すると玄関の前で律儀に直立不動し、いくら待っても入って来なかった。

「何をちんたらとしているのですか? どうぞ、上がってください」

 すると文はようやく緊張を解き、嬉しそうな表情で中に入ってきた。妖怪の類は招かれなければ入って来ることができないというどこぞの逸話を思い出し、わたしは上げてはいけないものを招いたのではないかと、少しだけ心配になる。しかし当の本人と言えば、家の至る所に視線をさ迷わせてばかりで、他人の家を初めて訪れた子供のようであった。

「後でいくらでも案内します。まずは話を聞かせてもらわないと」

 釘を刺すと、文はこほんと咳払いをする。わたしは先ほど声のした居間の襖を開けた。部屋の中央には冬になると炬燵の役目も果たす頑丈な木製の座卓があり、祖母は上座にどっしりと腰を下ろしていた。

「お帰り、早苗。どうやら山のことが分かる客人を連れ帰ってくれたようだね、ご苦労さま」

 わたしは小さく頷き、祖母と向かい合う位置に座る。文はわたしの隣でどっかりと胡座をかいたけれど、少し不安そうだった。否、どうやら祖母の風体に畏れのようなものを抱いているらしい。そのことを察しているかは分からないけれど、祖母はいつもと異なる威厳に満ちた調子を部屋中に放っていた。

「客人よ、わざわざご足労頂き、感謝いたみいります。わたしはそこに座る早苗の祖母で、守矢早苗と言うものです」

「射命丸文です」わたしのときと違い、文は姓名をわざわざ分解して説明しようとしなかった。「丁重な挨拶、こちらこそいたみいります。今回はどうやらとんだ事態に巻き込まれたようで、心中ご察し致します」

 祖母は鷹揚に頷くと、下に座る天狗に真摯な色の瞳を向けた。

「孫の早苗から話を聞いているかもしれませんが、わたしたちは些か不可解な状況に当たっております。つきましてはこの地に住まわれるものに、詳しい話を聞きたいと思っております。長く拘束することになるかもしれませんが、ご容赦頂けると幸いです」

「気にしないでください。時間に見合えるものは得られると考えていますから」文はわたしに対してのような軽い態度をすっかりと拭い、祖母と真剣に対峙していた。「ときに察するものはおありでしょうか。それとも一から噛み砕いて話しますか?」

「検討は付いていますが、やはり一からじっくりと窺いたいですね」そう言ってから、祖母はわたしにちらと視線を寄せた。「すまないが、冷蔵庫から麦茶を持ってきておくれ。電気は切れているが、ここの気候なら丁度良い塩梅だろう」

 確かに、長話するのだから飲み物なしというのは流石に辛い。麦茶は大事だけど、ここで消費するだけの価値はあるのだろう。わたしはそう判断するとゆっくり立ち上がり、場を濁さないように居間を出た。それから台所に向かい、冷蔵庫を開く。いつもに比べて食品の臭いがむっと漂ってきて、電気の通っていないことを否応にも実感せずにはいられなかった。

「食べるとしたら足の早いものからだよね」口にしてから、そもそも瓦斯なしに調理した経験がほとんどないことに気付く。中学のとき、キャンプ実習で一度試みたことがあるだけだ。そしてこの家にはおそらく飯盒も何もない。「ライターの一本かマッチ箱くらいはあるとして、あとは……そうだ、気圧が高いと確か沸点が下がるんだ」

 最悪、芯の残ったご飯で我慢しなければならない。

「そもそもお米がどれだけ残っていたっけ」わたしは心配になり、シンクの中にあるプラスチック製のお櫃を確認する。「良かった、結構残ってる。そう言えば数日前に買い足しておいたんだった」

 不幸中の幸いという諺が頭に浮かび、すぐに慌てて払った。祖母からの頼まれごとを失念しかけていたことに気付いたからだ。わたしは三人分のコップと、ピッチャーに入った麦茶をお盆に乗せ、慎重に運ぶ。洗いものに使う水さえ確保できないのだから、食器は気をつけて扱うべきだと考えたからだ。

 居間に戻り、麦茶を差し出すと文は不躾に匂いを嗅ぎ、それからおっかなびっくりに少しだけ口をつけた。毒味でもしているのかと思ったけれど、それからすぐに半分ほど飲み干したから、単純に見慣れぬ色と匂いであっただけのようだ。

「馳走になります」文は堅苦しく言うと、水分を得て滑らかになった舌で唇を舐め、大きく息をついた。「では本題と参りましょう。最初に、早苗さんと早苗さん……何だかややこしいですね」

「わたしのことはババアとでも呼んでくれて構いません。その代わり、馬鹿丁寧な口調ではなく、砕けた語り方を許してくれると嬉しいのですが」

「では、便宜的に守矢さんと呼ばせて頂きます。わたしに対して堅い口調を使う必要は一切ありませんよ。そういうのは苦手ですから」

 そう言って小さく舌を出すと、祖母は狸のように微笑んでみせた。

「ではよろしく頼むよ」

「了解です」文はわざとらしく咳払いをし、場を仕切り直してから改めて話を始めた。「守矢さんと早苗さんがいま、どこにいるかからお話させて頂きます。ここは幻想郷、人と妖怪が相暮らす不思議の成立する場所です」

 幻想の郷。人と妖怪。まるで下手糞な物語に出てくるような設定である。それでいて、わたしはそのことを無碍に否定できなかった。文が空を駆り、突風を起こす様を目の前で見てしまったからだ。それにしてもいきなりな話である。少なくともわたしにはそう思えたし、祖母も同じように考えるだろうと決めつけた。しかし祖母は明らかに落ち着いており、動じる素振りすら見せなかった。

「なるほど、ここは神隠しの郷なんだね。もしかしたらと思っていたけれど、この年になって誘われるとは考えてもいなかったよ」

 祖母の口にした神隠しという言葉に、わたしはどきりとした。やはり神意はここにあり、わたしたちはその代弁者、敷衍者として喚ばれたのかもしれない。そんな期待を読みとったのか、祖母は小さく首を横に振った。

「神隠しと言っても本当に神が起こしているとは限らないよ。もしかしたら悪魔的な存在の些細な悪戯なのかもしれないし、単純な法則性があるのかもしれない。妖は奔放に見えて、実は法則だからね」

 祖母がそう口にすると、文はすいと目を細めた。

「よくご存じですね。もしかして、退魔の心得をお持ちなのでしょうか?」

「まあ、似たようなものだね」祖母は妖怪を取り上げるサイトの管理をしていたことがある。つまり少しばかりの知識がある程度だ。祖母は当然ながら、そのことを文に話さなかった。「だがそれも、娘に譲るまでの話だよ。その娘も故あって早逝し、今はここにいる孫の早苗が継いでいる。今のわたしにできるのは、爪の先に風を灯すことくらいだ」

 祖母は人差し指を立て、自分の息を軽く吹きかけた。するとすぐに、蝋燭の火にも似た濃い風が形を作っていく。わたしのように広範囲ではないけれど、風を完全に御し切っている。初めて見る祖母の技にわたしは驚かされ、風の力を操る天狗である文までも、僅かに仰天の表情を浮かべていた。文はまるで鬼でも見るように、わたしに鋭い視線を向けた。

「もしかして、早苗さんも同じことができますか?」

「無理ですよ! 第一、わたしは満足な修行すらして来なかったのですから」

 一子相伝という遠慮からか、あるいはわたしにごく普通の道を歩ませたかったのか。祖母はわたしに一度も稽古をつけてくれたことがない。空を飛ぶことも、風を操るのも全て我流で身につけたことだった。

「そ、そうですよね。お年を召されているからこその技だと、最初から思っていましたよ」文は空笑いを浮かべ、それから改めて祖母に向き直った。「そのような力が使えるのですから、当然ながら長生きされているのですよね。齢数百歳ほどとお見受けしましたが」

 わたしはもう少しで口に含んだ麦茶を吹き出すところだった。人間がそんなに生きられるはずないのだが、文はまるで気付いていなかった。

「わたしは化性の類ではないよ。あと半年ほどで八十になるただの人間さね。まあ、それだけ生きれば妖怪と言えなくもないかね」

 祖母はからからと笑い、指に集めていた風を収めて大きく息をついた。

「これだけの力を使うのでも、それなりにしんどい。そもそも、ここに来るまではまるで力が使えなかった。ここは人外の技をふるい易い場所のようだ。だからこそ人間の理が触れることのできる外側に存在すると検討をつけたのだが、相違ないようだ」

 わたしが戸惑っている間にも、祖母は着々と冷静に推測を重ねていたらしい。小説を山ほど読んでいながら現状に対応できていないことが無性に恥ずかしくなり、わたしは俯くしかなかった。対する文といえば衝撃から立ち直ったのか、万年筆をぺろりと舐めた。

「するとやはり貴女たちは外から郷入りを果たしたのですね。どうして天狗すら立ち入らないほどの高地に移住してきたのかは分かりませんが、もしかすると風を操る力と関係しているのでしょうか?」

「それはわたしこそ訊きたいことでね。そもそもこういったことはよくあるのかい?」

 祖母が訊ね返すと、文は不格好に唇を尖らせ、曖昧に頷いた。

「恥ずかしながらに言えば、わたしも全ての現象を把握しているわけではありません。ただしいくつかのことは割合にはっきりと言えます。まず、外からの漂流物はそれなりにあり、その存在から人間や知性の高い妖たちは外があることを半ば事実として受け止めています」

「漂流物ということは、物ばかりなのですか?」

「基本的にはそうですが、稀に外の人間がこちらに迷い込むこともあります。ただ、良い噂は聞きません」

 文の表情が分かりやすく陰ったことから、わたしたちにとって芳しくない情報であるらしい。だが、今は心地の良い話だけ聞いて良い状況ではなかったし、突破口というものは案外悪い側にあるのだと、中島みゆきが主題歌を歌うドキュメンタリィから学んでいた。だから文の話をしっかり聞くために耳を欹てる。

「迷い込んだ人間がどうなるかについては諸説あります。誰にも知られず妖怪に食われてしまうとか、最初から人里で暮らしていたかのように振る舞い始めるとか、力の強い妖怪の貴重な労働源になるとか、天狗の中でも様々な意見が語られています。その中にはこっそりと郷の外に出されるのではないかというものもありますが……」

 そこで文は口を噤み、わたしと祖母を交互に見やる。

「どうも今回はそういったものと違うような気がするのです。先程も言いましたが、貴女たちは神隠しではなくて郷入りしたとわたしは考えています」

「その二つには何か違いがあるんですか?」

「前者の場合は漂流物と同じ扱いであると考えて下さい。誰からも意図されず、おそらく郷の仕組みを偶然にすり抜けてきたのでしょう。後者の場合、そこには強い意志、あるいは意図の介在している可能性があります。あるいは貴女たちが、外の世界から完全に忘れ去られたのか」

「そんなこと、あるわけない!」忘れられたという言葉が何故か厭わしくて、わたしはつい声を荒げていた。「近所の人は皆、わたしやおばあちゃんのことを覚えているに決まっています。友人だっていた!」

 それらの人たち全てがわたしを忘れてしまうなんて考えたくもなかった。確かに風を使うけれど、そこまで希薄ではなかったはずだ。

「皆が早苗さんのことを忘れたとは言いません。忘れられたのはおそらく、風使いの力を持つことの明文化された意義です」

「わたしが風を使う意味なんて分かりきっている。神に仕え、その教えと存在を偏く広げるためです」

「そのことを、誰もが忘れてしまったとしたら?」

「そ、そんなこと……」ないと言い切りたかった。でも、よく考えれば神社に参拝してくれる人なんて近所に住む人たちでさえ、誰もいなかった気がする。子供たちが時々遊び場にしていたけれど、彼らはそこが神の社であることに気付いていただろうか。「そんなこと、ないです」

 本当は理屈を投げ捨てて怒鳴りつけたかった。でも考えれば考えるほど、文の言うことが正しく思えてならなかった。それほどまでに神を疑う自分が情けなくて、すると今度は涙を流してしまいそうだった。

「わたしがちゃんと神のことを教え、伝えなかったから?」忘れられてここに追いやられたとしたら、それはもしかすると。「罰が、当たったのですか?」

 目頭から暖かい水が零れる。それでわたしは悲しんでいるのだと気付いた。何よりも文の言葉が事実なのだと気付いてしまった。

 わたしは祭祀者であることを誰からも忘れられてしまったのだ。だからこそここにやってきたに違いなかった。その実感が胸に痛くて、なおも涙がこぼれてくる。頬を伝い、テーブルにまでぽたぽたと落ちた。

「えっと、罰とか、そういうのじゃありませんから!」まるでわたしを慰めるように、文が声をあげる。「そういうものなんです。忘れられたものを自動的に集めるんですよ、この郷は。シャッターを押せば写真が撮れるのと同じことです。神は早苗さんに罰なんて当てたりしません。当ててないですから……」

 まだ出会ってからそんなに立っていないのに、文はわたしに対してそれなりに真剣でいてくれた。もしかしたら今後の取材を円滑にするための計算かもしれないけれど、それでもわたしは嬉しかった。慰めなら何でも良いなんて浅ましいけれど、泣きやむためにわたしにはそれが必要だったのだ。

 わたしは涙を拭い、文に精一杯の笑みを向ける。文何度も瞬きをしてから微妙にそっぽを向き、人間の女はよく分からないと聞こえるように独りごちた。

「この郷は忘れられたものの集まる場所である」湿り気を帯びた場を引き締めるように、祖母が厳かに口を開いた。「風の民は忘れ去られた。そう、確かに忘れ去られたのだろう。非科学的なものはいくらでも忘れ去られる世の中だ。夜が妖ではなく、文明の光を灯した人の時間となって幾星霜。さもありなん」

 祖母はまるで呪文のように言葉を紡ぎ、己を納得させるように大きく頷く。それから重要なことをさもあっさりと切り出した。

「これが郷入りだとして、わたしたちはここから出られるのだろうか」

 文は少し考えてから、申し訳なさそうに首を横に振った。予想はしていたものの、その仕草はわたしにとって少なからぬ衝撃を伴うものであった。

「かつて、あるものがこう言いました。『幻想郷は全てを受け入れる』と。それは翻って、受け入れたものは離れられないということでもあります。出口はあるでしょう。在処を知るものもいるかもしれません。でも、使えるとは考えない方が良いでしょう。それに一度忘れられてここに来たならば……」

「二度目も、三度目もある?」

「それはどうでしょうか。ただ、二度以上の郷入りを果たしたものがいるという話を、寡聞にしてわたしは知りません」

 要するにわたしと祖母はこの場所、幻想郷から出ることができないらしい。本当なら慌てふためく事実であるはずなのに、それにしてはいかなる感情も胸になく、ただ非現実感だけが募っていくのみであった。

「帰ることができないならば、わたしたちは」どうすれば良いのかと訊きかけ、わたしはすんでのところで別の質問に変えた。「ここでどうやって暮らしていけば良いのでしょうか?」

「その問いに答えるのは難しいですね。わたしはいわゆる外来人を世話したことが一度もありません。早苗さんがわたしに何を要求したいのかさえ、正確には分からないのです」

 電気、水道、瓦斯、それからスーパーマーケット、ホームセンター、コンビニエンスストア、ファストフードショップ。他にも細々と必要なものは山ほどあった。しかしそれらが手に入らないこともまた、わたしには何となく察しがついていて。それは何かと問われれば心が折れてしまいそうで、わたしは何も訊ねることができなかった。

「一つだけ言えることがあるとしたら、人間だけでここに住むのは極めて危険だということです。ここは妖怪の山、天狗や河童を始めとして幾多の妖怪が居を成している所ですから」

 妖怪の山というのは先程から何度も耳にした単語である。その物騒な響きも今となっては全く別の意味を発していた。

「特に確かめはしなかったけれど、射命丸さんは天狗だね。天狗とは集団で生活する妖怪なのかい?」

「おそらくこの幻想郷で最も高度な文明生活を営む種族ですよ」文は半ば誇らしげに、半ば息苦しそうに答えた。「河童や、また里に住む人間もそれなりの文明程度ではありますが」

「そう言えば先程カメラがどうのと口にしていたね。解像度はどのくらいだね? それとも既にウェアラブルのパソコンに組み込まれた?」

 祖母はもう少しで八十となるにも関わらず、わたしと同じかそれ以上のデジタル用語を口にしていた。脳卒中で倒れたとき、リハビリの一環としてわたしやネットを教師に勉強したからだ。対する文は、機械音痴な中年男性のような不安さで訊ねてきた。

「えっと、かいぞうどって何ですか?」

「解像度が大きいほど、撮影される画像は鮮明になる。もしかすると天狗はそのように言わないのかね? 技術基盤が違うのかしらん。天狗のカメラというのはどのような形をしているんだい?」

 祖母は手帳を指差し、文に描いてみるよう勧めた。すると万年筆を巧みに動かし、あっという間にカメラらしき形状の物体が紙上に現れた。

「これはまた古めかしい写真機だね。わたしの母が似たようなものを使っていた記憶があるよ。ほらほら魂が抜けるよと追い回されたものだ、懐かしいねえ」

 茶目っ気のある昔話を開陳され、戸惑うわたしを尻目に、祖母は愉快そうな口調で言った。

「いやはや、童心に帰ることができた。ありがとうね」

「どういたしまして」半ば虚仮にされたと気付いたのだろう。文はとても不機嫌そうだった。「そう言えば、誰かさんにも言われましたね。天狗の文明などごっこ遊びと一緒であると。本当の文明を知る貴女たちからすれば、さぞかし可笑しいのでしょうね」

「そう拗ねなさんな。珍しいというのは、取材価値があるということだろう?」

「それで毎回、人間に虚仮にされろと? わたしは誉れ高き天狗ですよ。斯様なことを許すと思いますか?」

「許すよ。新聞記者というのはあらゆる逆風をものともせず、記事になりそうなことがあればどこにでも飛び込んでいく。人間如きが愚弄したところで屁とも感じないだろう」

 祖母がそう言い切ると、文はぴたりと口を噤み。次の瞬間には呵々大笑の響きを辺りに振りまいていた。大気の震えすら感じる文の笑いに、わたしは初めて天狗というものを感じたかもしれなかった。

「面白いですねえ。人間には時々、糞度胸が座っていて天狗にもまるで物怖じしないものがいる。蛮勇ですが、わたしはそういうの嫌いじゃありませんよ」

 文はなおも腹を押さえて笑い、何度も大きく息をついて何とか愉悦を追い払う。わたしがはらはらしながら様子を窺うと、祖母は更に驚くことを口にした。

「では蛮勇ついでに訊ねよう。もしわたしがここに留まりたいと言ったら、どうするね?」

 こんな高所に留まるだなんて、わたしにはまるで理解できなかった。それよりも下山して人里の世話になるほうが良いに決まっている。文明は発達していないかもしれないけれど、頼るものがいなければ生活はいよいよ苦しくなるだろう。しかも祖母は齢にして八十近い。本格的な高山の冬の寒さに耐えられるとはとても思えなかった。

 文も同じようなことを考えたのだろう。その顔は半ば苦笑に歪んでいた。

「理解できませんね。もしかして、あの古ぼけた社に神を立てますか? それとも貴女が神のように振る舞うとでも言うのですか?」

「わたしは資格を喪った祭祀者に過ぎない。ただ、長らく住んできた家を手放すのが些か惜しいと考えているだけで、深い意味などまるでないんだ」祖母は再度、意味と呟いてからゆるりと腕を組む。「あるいは、わたしや早苗がここに喚ばれたのには理由があるかもしれない」

「郷入りに理由なんてありませんよ。そのことを認めるならば、現行の祭祀者が世に見捨てられるほど未熟であるという仮定を復活させる必要があるように思えます」

 文の冷たい物言いに、わたしは肩を震わせる。

「そうじゃないんだ。ただ、わたしたちがここに来たからには、祭祀者として振る舞う必要があるのではないかと、そんなことをふと思っただけなんだよ」

 祖母の言葉の意味はよく分からなかった。しかし、文には気付くところがあったのだろう。警戒の色を顔に滲ませていた。

「おかしいですね。貴女ときたらまるで、知っているみたいですよ。もしかしてここに来る際に、どこかの誰かさんの手引きを受けませんでしたか?」

「いや、これは年寄りの勘みたいなものさ。どうやら当たらずとも遠からずと言ったところだが、さて」祖母は組んでいた腕をほどくと、挑戦的な表情を文に向ける。「先程の問いに答えてもらおう。わたしがここに残る芽はありやなしや?」

「ありません。天狗が大した力のない人間を、己が上に据えると思いますか?」

「わたしは天狗のことをよく知らないからね。修験道から外れた僧、あるいは怪奇現象の権化。しかしそこまで言い切るには力の強い種族なのだろう。対してわたしは力を喪った祭祀者」

 祖母は諦観のようにそう吐き出すと、俯いて黙り込んだ。わたしのことがまるで勘定されていないのは祖母の優しさかもしれないけれど、わたしにはそれが歯がゆく思えた。だから教室でもないのに小さく手を挙げていた。

「わたしには祭祀者としての力があります。しかも神々の胤と同じほどの力を有している、らしいです」

「ほう、神の末裔ですか。然るに貴女は祭祀者であると同時に、現人神であると主張するのですね。たかだか忘れ去られる程度で」

 わたしの怒りは声にならず、ただ文を睨みつけるだけだった。もしかしたらその勢いに一瞬だけ飲まれたのかもしれないけれど、次には襟元をつかまれ、ぐいと捻られていた。わたしと変わらないくらいの細腕なのに、まるで万力で締め付けられているかのように強烈だった。

「威勢の良いだけでは何も変わりませんよ」

 祖母の目の前であるためかすぐに離してくれたけれど、わたしは床にうずくまって何度も咳をしなければならなかった。それが無性に悔しくて、わたしは必死で風の力を集めた。ここからこの天狗を吹き飛ばしてやりたかった。

「早苗!」子供の頃以来の厳しい叱責に、わたしは甚だ冷静を欠いていたことに気付く。「天狗を風で吹き飛ばすのは可哀想だよ」

 すると今度は文のほうが、剣呑な雰囲気を漂わせて祖母を睨みつける。

「わたしが人間の小童程度に後れを取るとでも言うのですか? 今すぐ確かめても良いのですよ。ただし彼女の命は保証しませんが」

 そう簡単に負けはしないと言い返したかった。けれども祖母に窘められた直後であるし、命など死などと平気で口にする文が怖くなかったと言えば嘘になる。

「遠慮します。おそらくわたしは力なきものですから」口にしてみて、謙遜でもなく本当にそうだと思えた。だからもう悔しくなかった。「でも、そうすると……」

 わたしがそれを認めるのは、間接的にせよ祖母の気持ちを蔑ろにするということだった。しかし、祖母にわたしを咎める類の視線はなく、むしろ困難に直面して喜ぶ荒武者のようであった。わたしの前ではいつも好々婆であったから、祖母の振る舞いには目をみはるような思いであった。

「力では叶わないかもしれないが、一芸に秀でていれば何とかなるということはないだろうか。例えばわたしは外の知識を持っており、長年に渡ってそれを子供たちに広める仕事を続けてきた。妖怪の山に同じものを教授するのは、何らかの特権性となりはしないだろうか」

「そうですね……」文は深く俯き、瞑目したのちに大きく首を横に振った。「文明だのと言っても、知識のみしか持たないものは容易に敬われないでしょう」

「武道の嗜みも少々。といっても力が喪われたいま、それだけでは妖の類に通用しないだろう。あとは何だろうねえ、酒の飲み比べならばこれまで負けたことがないのだけれど、何の誉れにもならないだろう」

 酒の飲み比べなどと言われても、わたしにはまるでぴんと来なかった。祖母はわたしが知る限り、一滴もお酒を飲んだことがないからだ。それにそんな特技に意味はないと思った。だが文は俄に真面目な顔つきとなり、祖母に問うて来た。

「飲み比べでなら誰にも負けないのですか?」

「誰にもとは言いきれない。ただ、どれだけ飲んでも酔って取り乱したことなど一度もない。鯨のように、鬼のように飲むと言われたこともある。懐かしいねえ、友人を救うためやくざの若親分と夜を通して飲み比べたあの日。いやはや、あれは青春だった」

 さらりと怖ろしい事実を聞いたような気がするけれど、文は同じを聞いて何とも面白いと言わんばかりに唇を歪めた。

「鬼と並ぶほどに飲めるのならば、いかな武闘派の天狗とて、認めないわけにはいかないでしょう。天狗より飲めるのは鬼しかなく、そして鬼はかつてこの山に君臨した存在であるからです」

 鬼と言えば酒呑童子を始めとして、雨ほどに酒を飲み干すことで有名とされている。伝説の中だけにある種族が実存するとして、それに次ぐほど飲めるのならば、人間なんて爪垢のように一息で吹き飛ばされるだけではないだろうか。

「天狗の飲み会は時として一夜二夜では収まりません。その覚悟がおありでしたら、陳情するに吝かではありません」

「ほう、親分とさしで飲み比べをする機会を与えてくれるのかい?」

「できるかどうかは分かりませんよ。ただ、どちらにしろこのような所に郷入りした貴女たちを如何様にか遇する必要はあり、このことは大天狗たちや頭領の天魔様にも伝わるはずです。直接の謁見を望むのならば、一度だけならば通るかもしれません。逆に言えば、その機会を逃せば二度はないと心得て下さい」

「了解した。それでは、首尾良く手配してくれると信じているよ」

「分かっているのかなあ」文は不満げに唇を尖らせ、それからわざとらしく溜息をついた。「上手くいった暁には、今回の件をいの一番で記事にさせてもらいますよ。それくらいしてもらえなければ割が合いません」

 文は同意するような視線をよりにもよってわたしに向けてきた。どうしてこちらに振るのか戸惑っていると、祖母はけらけらと妖怪めいた笑い声をあげた。

「それでは、準備に取りかかるとしましょう。ただしその前に記事を作るための取材をある程度まで行わせて頂きますよ。そうしないと一番乗りなんて無理ですからね」

「それならば、文さん以外の取材を受けなければ良いのでは?」

 わたしがさりげなく訊ねると、文は小さく首を横に振った。

「特定の記者を露骨に贔屓すれば、後々の反感を買います。それはお互いのためによくありません」

「なるほど、こちらの今後のことを考えてくれているのですね」

 不遜な物言いも多いけれど、わたしたちの立場を慮ってくれる分別と親切心もあるらしい。これは少しだけ見直すべきかもしれないと考えていたら、文は慌てて首を大きく横に振った。

「幻想郷はただでさえネタが少ないのですから、お互いが独占ばかりしていたら、記事作りは殺伐としたものになります。それが嫌なだけですよ。わたしは天狗のことを考えているのであり、人間のことを考えているわけではありません」

 照れ隠しであるのか、殊勝な心掛けであるのかは分からない。ただ天狗の射命丸文には色々あるのだなと、そのくらいならわたしにも分かる。否、それがわたしに分かるほとんど唯一のことであるかもしれなかった。

「そんなわけで、この家や神社を含めて案内してもらいます。よろしいですね?」

「遺漏なく十分に。ただ、わたしは数年前にちょいとした病をした関係で取材に耐えるほど動けそうにない。聞きたいこと、案内して欲しい場所があったら早苗に頼むと良い」

「わたしですか?」一瞬、戸惑ったものの確かにその役目を果たすことができるのはわたしをおいて他にいないだろう。わたししかいないとも言えるけれど。「えっと、不束者ですがよろしくお願いします」

 文はわたしの言葉を聞いて何故か小さく息をついた。

「頼りないですねえ。まあ、選り好みできる様子でもないか」

 文はそう言って立ち上がると、わたしを置いて先々と部屋を出る。わたしは彼女に聞こえないよう、祖母に顔を近付けた。

「あいつ、やっぱ嫌なやつ!」

「気は悪くないと思うけどね。それに、こちらの住人と仲良くなっておけば、色々と都合の良いこともあるかもしれない。もちろん早苗が嫌だと言うならば無理強いはしないけれど、わたしの見立てではうまが合うと思うよ」

「それはないよ」わたしは感情を出さないように断言し、わざとらしく眉をひそめた。「それにしても、人間と妖怪が相暮らす世界だなんて、信じられると思う?」

「さあてね。それでも彼女が人ならざる力と倫理を持っていることは確かなようだ。妖怪であると断言はできないけれど、ここがわたしの知る世界と異なることは、早苗も薄々気付いていたはずじゃないかね? そのことも含めて、彼女を通して知れば良いよ」

「それって結局、文さんと仲良くなれってことでしょ? おばあちゃん、狡い言い方をしてる!」

「ふむ、そうだね」祖母は指摘されると神妙に頷き、わたしに頭を下げた。「早苗の力を見込んで、是非ともお願いしたい」

 そんなことを言われるのもされるのも初めてで、わたしは慌てて手を振った。

「その言い方も狡いよ。それにわたし、肝心なことを聞いてない。おばあちゃんはどうしてここに拘るの?」

 住んでいた家を離れたくないといっても、終の住処とするまでの拘りなんてないはずだ。深い意味はないと言っていたけれど、それでもそれなりに納得できる理由が欲しかった。しかし祖母は、半ば答えを探すように首を傾げてみせた。

「さて、何故だろうねえ……理屈とは少し違うんだけどね」

 祖母が長考モードに入ると、わたしですら容易に立ち入ることができない。おまけに文が外から早くと呼び立てるので、わたしは祖母の答えを聞くことができず、続いて部屋を出るしかなかった。

「考えが定まったら、わたしから話すよ」

 祖母はわたしが去る際に一言残してくれた。だから否応でも納得するしかなかった。

 文は家に備えついているものを、まるで子供のように色々と不思議がってみせた。電気が通じていないからただのがらくたに過ぎないのだけれど、玄関に据え付けられた電話機に始まり、天井に備え付けられた電灯に蛍光灯、壁から突き出したコンセントに至るまで、その探求は細かくも留まることを知らなかった。わたしがその仕組みを一つずつ説明すると、文は信じられないとばかりに顔を歪め、それから宝石のように目を輝かせて文明の仕組みを書き留めていく。その様子を見て、彼女は本当に人間の敷衍した文明をまるで知らないのだなと溜息をつくような思いであった。

 廊下をある程度進むだけで疲弊するくらいに言葉を交わしたのち、文はプレートの掲げられた部屋の前で足を止めた。

「ここが早苗さんの部屋ですか?」

 あまりにも分かりやすく興味を示すので、わたしは慌ててその前に立ちはだかった。

「初対面でプライベートを覗くなんて記者にあるまじきでは?」

「ふむり、そうですね。ではもっと親しくなってから、改めて伺わせて頂きますね」

 営業用の笑顔だと分かっているのに、あまりにも親しげだから、わたしは曖昧に頷くことしかできなかった。

「では、先に進みましょう。このペースでは中を巡るだけで日が暮れてしまいそうです」

 その意見には同意するところが大きかったので、わたしは暮らしの上で最も心配の大きな場所である台所に文を案内した。すると文は水場とガスコンロ、食器棚と冷蔵庫を素早くぐるりと見渡し、烏のように首をかくりと傾げた。

「ここが台所ですか? それにしてはあまりにもコンパクトに収まりすぎている。食器を入れる棚は良いとして、この大きな箱は?」

 文は冷蔵庫を開け、ぎっしりと詰まった種々の食糧や調味料を見て、実に素直な驚きを示した。

「なるほど、これだけ頑丈ならば虫や鼠も容易には手を出せない。しかし食べ物にはそれぞれ保存に適した方法があるはずです。どの食材も同じように納めておくのは必ずしも良策とは言えません」

「だから、棚ごとに温度や湿度を調整できるのですよ」

「それは氷を使うのですか? しかし氷のように大切なものをただ食材の保存に使うなんて……」文は理解できないとばかりにそう言うと、わたしに疑惑の視線を向けてきた。「無礼を承知で言えば、それほどの貴人が住まう家とは思えないのですが」

「外の世界では、これが平凡な暮らしのものにさえ、行き渡っているんです。あと温度の調整には氷ではなく、電気の力を使います」

「電気ですか? あのように激しい力を使うなんていよいよ訳が……いや、いつぞや将棋好きの河童が話していたな。電気を使えば妖力のように、様々な力を自由に操ることができると。絵空事だと思っていましたが、人間は実現したのですか?」

 河童という聞き慣れた別種族の存在が気になったけれど、ここは文の疑問に答えるのが先だと思った。

「ええ、外の世界では電気の力で食べ物を適温保存する箱を発明しました。冷蔵庫と言います。それだけではありません。電気で動く時計、電気で動く写真機、多くの人間を乗せて数千里先まで移動する車輪付きの箱さえ、人間は電気の力で動かしているのです」

 自分が発明したわけでもないのに、わたしは外世界に住む人間の所行を半ば誇らしげに語ってみせた。文の驚きが素直に面白かったからだ。

「なんと、なんともはや……西洋かぶれの滑稽な猿真似を始めたところまでは知っていましたが。そして先程説明された電気製のランプに電気製の通信機、何もかもが電気、電気、電気だ」

「流し場の水はハンドルをひねれば自動で出てきます。コンロのスイッチを回すだけで、管に繋がれた瓦斯を利用して料理できるほどの火を自動で熾します」

「む、む、む……それらの技術が下々にまで完全に行き渡っているのですか。人間は弱い生き物だと思っていましたが、弱さに晒され続けたことで、それだけのものを獲得したということなのでしょうか」

「かもしれませんね」文明の発達は多分、人間の弱さと無関係ではないのだろう。「外の世界において、人間は技術で何でもするのです」

「さもありなん。まるで妖怪のように、いやそれよりもた易く文明を操る。なるほど、これでは神も妖も不要とならざるを得ない……」

 文はただ感嘆のためにそう述べたのだろう。でも、わたしのほんのりとした優越感を憂鬱と変えるには十分過ぎた。少なくともわたしは、神をいなくする技術を誇ってはいけないはずなのに。わたしの力は代替可能であると身に沁みていたはずなのに。

 そんなわたしの気持ちを余所に、文はどこか悔しそうに肩を落としていた。

「これは正直いってわたしの身に余ります。河童ならばあるいは何とかできるかもしれませんが、同等の暮らしを保証することはできません。再現できないことのほうが多いでしょう」

「ええ、それは分かっています。だから文明に依拠した設備を軒並み、この世界で再現できるレベルにまで落とす必要があります。わたしはそのことを誰かに依頼する必要があるのでしょうね。ここに住むにせよ下山するにせよ、新しい設備は必須です」

「どちらにしても、見積もりは必要でしょう。少しばかり知り合いの河童がいますから、彼女を派遣するようにしましょう。外世界の知識が満載と聞けば、涎を垂らしながら訪れるはずですよ」

 それにしても改修は大規模になるだろう。この家の半分を取り壊さないといけないかもしれない。もしもここに住み続けるならば。

「その辺りの手配は文さんに任せます。あとは……」食糧、水、燃料、十分な衣類、最低でもこれらのものを定期的に補充できなければ生きていくことはできないだろう。「水は、何とかなるはずです」

 山の高所であるため、ここには濃い霧が立ち込める。わたしの力で凝集してバスタブにでも貯めれば、相応の量になるはずだ。足りないならば井戸を掘れば良い。近くに源泉があるのだから、適当に釣瓶打ちすればいくらでも沸いてくるはずだ。

「食糧は、里に求めるしかありませんね。ただし、相応の対価は必要だと思いますが、この家にはどれほどの蓄えが?」

 祖母の年金に両親の残した遺産の大半は通帳に収まっている。それでも家にある金をかき集めれば数万円にはなるはずだった。わたしがそのことを告げると、文は目を見開くほどに驚いてみせた。

「それだけあれば、何もしなくても数年は余裕で暮らしていけますよ。下々などと言っていたのは人間なりの謙遜だったのですね」

「それは流石に言い過ぎでは」数万円では一月の生活にすら届かないはずだ。そこまで考えて、わたしは根本的な思い違いに気付いた。「ちょ、ちょっと待って下さい」

 わたしは自室に駆け込み、財布を引っつかむとすぐに文の元へと戻り、もじゃもじゃ髪の医師が印刷された紙幣を一枚取り出した。

「これが千円札ですが、見覚えないですよね」

「これが? こんな貧相な男の印刷された紙で千円と主張するならば、まだ木の葉に千円と書いて出した方が騙されるかもしれません」

 やはり、間違いない。ここで流通している通貨は、外のものとまるで違うのだ。もしかすると紙幣が使われていない可能性もあった。

「もしかして、早苗さんの世界ではこれが千円なのですか? こんな貧相な男なのに?」

「そうです」わたしはもじゃもじゃ頭の偉人を初めて憎らしいと思った。「外の世界では貨幣や紙幣のデザインが何度も変わりました。あるいはこの世界でも同様の刷新が行われたかもしれない。どちらにしろこれはもう、ちり紙と同じだけの値打ちしかありません」

 わたしはこの千円札で鼻をかみたくなったけれど、すんでのところで思い留まった。通用しないお金であっても粗末にするのがはばかられたからだ。

「そうすると、物々交換になりますねえ。幸いにして妖怪の山には珍しい果実や茸、それに栄養たっぷりの山芋などが、秋になると手に余るほど穫れます。しかし、人間がそんなことをしているのを山の妖怪たちが見逃すわけありません」

「要するにここで暮らすためには、天狗との融和が必須なのですね?」

「そういうことです。山を下りた方があらゆる意味で上策なのですよ。早苗さんからそう言ってもらえないですかね」

 余りにもあっさりと断言され、わたしはまたぞろ腹が立った。口にしてもしょうがないのに、わたしは文を咎めずにいられなかった。

「それならば先程の場で、文さん自身が口にすれば良かったではないですか。おばあちゃんの話に乗ってきたのはそちらでしょう?」

「いや、そのですねえ」文は歯切れ悪く言うと、反省した子供のように口をもごもごとさせた。「天狗でも長老格になると老相を好むものが多くなるのですが、彼らと対峙しているような気持ちになります。何というか落ち着かないんですよ」

 人間と同様、若い天狗も老いたものに対する苦手意識があるらしい。祖母は穏やかな人間だけれど、語りたがり、諭したがりのほうが多い。そうでなければ炎天下の中、数十分ものスピーチを嬉々として行うなんてできないだろう。気持ちが分かると同時に、老相の天狗にかちこちしている文を思い浮かべると、少しだけ可笑しかった。

「まあ、そんなことはどうでも良いのです。早苗さんの御母堂が負けたら、この住まいを潔く引き払ってください。わたしは人間にも知り合いがいますし、麓での暮らしを手配するに吝かではありませんから」

「そうですね」わたしは茫洋と呟きながら、寄って立つところのまるでない自分に気付いていた。文の意志、祖母の意志、天狗たちの意志、わたしの意志だけがどこにもないのだ。「わたし、どうしようかなあ」

 ふとした呟きだが、近くにいた文の耳には当然入ったのだろう。人間と違ってぴんと尖った耳に、わたしは異世界感を覚えた。

「はっきりしない物言いですね。もしかして、早苗さんは自分のやりたいことをまるで決めてないのですか? 年長者の言葉に唯々諾々と従っているだけなのですか?」

「だって、わたしには何も分からないんだから」

 知っていると思っていた。この世界はおそらく、わたしの求めていたものだから。科学の理から外れた、小説の中だけにしか現れないはずの世界なのだ。そんな世界の出てくる小説を、わたしはこれまでに山と読んできた。そのような所に放り出されてもやっていける自信があった。わたしには物語の主人公のような力があったからだ。それなのに実際、求めていた世界に放り出されると、わたしは文明に浸された柔な子供としてしか行動できない。途方に暮れて、涙が出そうだった。文の前だから辛うじて我慢できた。

「何もかも分かっていれば、いくらでも偉そうに言えます!」

「知ろうとしていないだけでしょう!」

 文はわたしがびっくりするほどの大声で返すと、わたしの手を強くつかんだ。そうして家の外に出ると、空高くまで一気に駆けあがってみせた。耳がつんとして、わたしは必死で風を操り、気圧と速度を整えていく。息を整え、声が出せることを確かめると、わたしは言葉なんてどうでも良いから文を詰りたかった。しかしそれは、遙か遙かにまで広がる空と大地に、清涼な大気と豊かな自然の中に消えていく。

 話にだけ聞いていたものが、わたしの視界一杯に広がっていた。文明を示すものはどこにもなく、木々の濃い緑と、荒々しく流れる川の青白さが、急峻な地形の山渓が、わたしの心に飛び込んでくる。大きく深呼吸をすると、大気に混じって様々な力の残滓が感じられた。それは文のような妖のそれであり、わたしが感じてきた神のそれでもあり、他にもわたしの感じ慣れない幾多もの力があった。そしてその多様性こそが、この世界であった。

「これが幻想郷です。わたしの生きてきた世界、これから早苗さんが生きていく世界です。もっと、見てみたいですか?」

「見たい!」美味しいケーキをねだるように、わたしは文にねだった。「もっと先を、もっと早く、いくらでも!」

「では、行きましょう」文は手の力を少しだけ強くすると、まるでアクロバット飛行のような急速急角度で降下していく。滝の水よりも早く落ち、滝壺のすれすれでふわりと浮かび、そのまま川なりに進んでいく。目の眩みそうな清々しさだった。「早苗さん、怖くないんですか?」

「全然!」遊園地のジェットコースターなんて、鈍くさいにも程があった。もっと早く、レールから飛び出して高く早くといつも願うような子供だったのだ。「こんなにも素敵なアトラクション、初めてです!」

「ふむり、残念ですね。少しくらい怖がって欲しかったのに」

 文は一気に速度を落とし、徐々に高度を上げていく。目の前には深い渓谷があり、併走するようにしてどうどうと川が流れていく。否、この流れに従って渓谷が形成されていったのだろう。

「この辺りは河童の領域ですね。彼らは器械いじりが大好きで、山では天狗に次ぐ文明を持っています」

「文さんの言っていた知り合いも、ここに住んでいるんですか?」

「そうですが、今日はいないですねえ。もしかすると、椛相手に将棋でも打っているのかもしれません」

 椛という名に首を傾げかけ、最初にわたしを連れていこうとした天狗であると気付いた。

「天狗と河童が将棋を打つんですか?」

「ええ。共に才童同士、端で見ていると差しが面白いんですよ。あまり見ていると気が散ると怒られて追い払われるんですが……それに彼女はわたしが顔を見せると、いつも嫌な顔をするんですよ。もう少し愛想を良くしても罰は当たらないと思うのですがね」

「真面目そうでしたからね」いきなりしょっぴかれそうになったはずなのに、わたしは何故か彼女を擁護する言葉を口にしていた。「相性が悪いのか、あるいは彼女なりの照れ隠しなのかもしれません」

「照れ隠しで噛みついて来られたらたまったものではありません」

「なるほど、切ない片思いなんですね」

 わたしがからかうように言うと、文は慌てて首を横に振った。

「誰が片思いですか。滅多に仕事のない歩哨だから、労ってあげているだけです。それもこれも……」

 話し過ぎたと思ったのか、文はむっつりと口を噤んでしまった。わたしも話に夢中で、河童が泳いでいたとしても見過ごしていたのだろう。幻想郷を見たいはずなのに文と話しているだけなんて本末転倒で、だから眼前の光景にしかと目を向ける。

 高度が徐々に下がり、すると冬用のジャケットとジャージでは暑くなってきた。袖をまくっても日差しは強く、麓と往復して過ごすならば衣類での調節が大事だとしみじみ思う。更に流れを沿って下ると、遠くに見慣れた田園風景が、その少し先には四方を砦のような木製の壁で囲われた緩やかな町並みが見えた。おそらくあそこが文の言っていた人里なのだろう。

「青々とした稲穂の小波、今年はきっと豊作なのでしょうね」

「さもありなん」文もまた満足そうに頷く。もしかしたら天狗も人間と交易して美味しい作物を仕入れているのだろうか。「今年は良い酒が、たんとできるに違いありません」

 文の興味は米よりも、発酵酒のほうにあるようだ。そもそも天狗が人間と同じものを食べるかさえ分からなかった。わたしはふと興味を覚え、文にそろりと訊ねてみる。すると思案顔ののち、意地悪そうな顔と共に舌なめずりした。

「妖怪が何を食べるかなんて、昔から決まっているでしょう?」文は飛ぶ足をぴたりと止め、顔のラインをつつと指でなぞっていく。「知っていますか? 性を知らぬ小娘の肉は特に美味なのですよ」

「あの、冗談ですよね?」話を物騒な方向から引き戻そうとしたけれど、文はぐいと顔を近付けてきて、生半可な曲解を許してくれなかった。「わたし、雑食だから美味しくないと思いますよ」

「早苗さんからは甘くて美味しい匂いがしますね」わたしのやんわりとした拒絶をものともせず、文は冥い欲望を淡々と綴っていく。「最初から気になっていたんですよ。柔らかな肌に歯を立てて、ばりばりと引きちぎった肉はどんなにか美味しいのでしょうね」

 どこかは虫類じみた舌で、唇を舐める仕草はぼんやりとしてしまうほど艶やかで綺麗だった。だから首筋に向けて歯を剥き出しにされても、拒むことができなかった。罠にかかったかもしれないと感じる一方で、文にならこのまま食べられても良いという倒錯した気持ちが胸の中に満ちていって、わたしは体の力さえ抜いていた。

「まるで蜘蛛の糸に落ちた獲物のよう。可愛いなあ」

『東風谷はアレの生まれだけど、気にしなければ可愛いほうだよなあ』

「やめて!」聞きたくもなかった過去の言葉が心に響き、わたしは全力で文を突き飛ばした。「わたしのこと、嫌らしい目で見ないで!」

 体だけを求めないで。気持ち良いだけじゃ嫌なの! 心を見て欲しい。心を見て欲しいの! わたしは声にならない叫びをあげ、ぜいぜいと息をした。文にはわたしの元から離れて欲しかった。すぐに離れて欲しかった。どこかへ行って欲しかった。消えて欲しかった。

 そしてその願いが叶ったかのように、文は急速にわたしの視界から外れていく。否、まるで何かに吹き飛ばされたかのように墜落していく。何が起こったのか分からずに戸惑っていると、不意に背後から見知らぬ声がかけられた。

「危ない所だったわね」わたしより少し低くて、年頃らしい弾んだ声だった。「あの天狗、人間を取材したいとか言っておきながら目的は人食いだったのね。危うく騙されるところ……」

 そこまで口にして、背後の人物は言葉を止める。慌てて振り向くと、そこにはおめでたさを象徴するかのような少女がいた。ノースリーブの服に飾り袖をつけた奇抜な出で立ちに、右手は同色の札。わたしよりも少しだけ緩やかな頬の形、強い意志を感じさせる黒瞳の眼光に、羨ましいくらいのさらさらとした黒髪。

 空飛ぶ新たな不思議が、わたしの目の前にいた。彼女はわたしの先にいる、おそらくは文を見据えているのだろう。振りかぶり、札を投擲しようとした彼女を、文は慌てて制した。

「待ってください、誤解です。わたしたちはちょっとした愛の戯れを交わしていただけでして、ええ誓って本当ですとも。ね!」

 文はそう言ってわたしに必死で目配せをしてきた。あんなことをしたのだから突っぱねても良かったのだけど、かといって紅白の少女が味方とも言い切れず。文の親切を思い出し、わたしは曖昧に頷いた。

「愛はありませんが、戯れではありました」

「本当に? こいつは貴女を食べようとしていたわけではないの?」

 改めて問われると自信はなかったけれど、今回だけは文を信じようと思った。それにわたしも過剰反応を半ば自覚していた。

「それならば何故、この天狗と同行していたの? こいつは口当たりだけなら良いけれど、一皮剥けば烏の羽のように真っ黒黒助よ」

「むむむ、霊夢さんたらひどいなあ。わたしは清く正しく麗しくをモットーに、誠実な誌面作りを心がけていますよ。敢えて言わせて頂くならば、ホワイトオブホワイトです。まあそのようなことはさておき、今日は少しばかり重要なお話がありまして。彼女、郷入りなのですよ」

 それだけで霊夢と呼ばれた少女には全てが通じたのだろう。わたしのことをじろじろと見回したのち、大きく溜息をついた。

「あまり聞きたくないけれど、郷入りではしょうがないわね。それに天狗がわたしを積極的に頼るなんて、聞き逃すわけにもいかないか」

 独り言のように呟くと、彼女は面倒臭そうに言った。

「取りあえずついてきて。ここで話すには長くなりそうだから。茶でも飲みながらゆっくり聞かせて頂戴」

 彼女は人里と異なる方向に飛んでいく。まずは人里を見ておくべきではないかと思ったけれど、文が袖を引いて促すので、わたしも後を追わざるを得なかった。

「彼女に話をつけることができれば、鬼の力を得たようなものですよ。素っ気なさそうに見えますが、意外と情味もある。だからできるだけ弱々しく振る舞って下さい」

 そういうのは騙すようで嫌いなのだけど、手段を選んでいる場合ではないのだろう。天狗が頼るのだから、どれほどの妖怪かは分からないけれど。気だけでも強く持とうと思い、わたしは両の頬を張って気合いを入れ直してから、彼女の後を追った。

 石段を上った先にある朱の鳥居を、慎ましやかながらも栄えの面持ちある神社を続けて目にし、わたしは思わず感嘆の息をついた。いくら手入れしても古びるばかりであった守矢の社に比べ、ここには息づく信仰と神への寵愛が感じられた。外の世界ではすっかりと失われてしまったものが、ここには根付いていた。

「どうしましたか? 神社と越してきた癖に神社が珍しいのですか?」

「そういうわけではありませんが、大層立派だなと思いまして」

 文の問いに率直な感想を述べると、紅白の少女は照れくさそうに頬をかいた。

「日々の賜物と言ったところね。では、わたしは茶を用意してくるから。そこの烏は客人を案内して頂戴」

「了解しました」人間に侮られるのは嫌だとこぼしていたのに、巫女の前では妙に殊勝な態度を取っていた。「その代わり、美味しい茶菓子を忘れないで下さいね。あと、お茶は熱々でお願いします」

「善処するわ」否、砕けたやり取りをできるほど懇意であるようだ。文とは今日出会ったばかりだというのに、そのことが何故か少しだけ悔しく思えた。「東風谷さん、だっけ?」

「わたしのことは早苗で良いですよ」

「そう、ではわたしも霊夢で良いわ。神社とともに来たということは、参拝の作法も分かっているわよね。善処を期待しているわ」

 霊夢は境内に視線を寄せ、わたしをちらちらと窺いながら奥に入っていった。よく意味が分からなかったけれど、参れと言うならば従うに吝かではない。わたしはお手水で両手と口内を清め、賽銭箱の前に立って二拍二礼一拍する。そうして奉じる銭のないことに気付いた。

「あの、すいません。手持ちがありましたら貸して頂けないでしょうか? 後で必ずお返ししますので」

「別に賽銭など良いのに」文は首の後ろで手を組み、口笛を吹く振りをする。返す当てのないものに貸したくないのかもしれなかった。「ない袖を求めるほど、彼女も守銭奴ではありませんよ。まあ……」

 文は腰につけた鞄をごそごそすると、艶の消えた銀貨を一枚取り出して、わたしに手渡してくれた。

「ありがとうございます」わたしは受け取った銀貨をまじまじと観察する。頭の中にある歴史の知識から該当する時代を見つけようとしたけれど、どうしても見つからなかった。そもそも色が銀のようだというだけで、これが銀かどうかも分からないし、この世界に独自の通貨では検討のつけようもない。わたしは銀貨の正体追跡を諦め、賽銭箱に放った。「これでよし、一応けじめがつきました」

「いえいえ、あとから体で返して頂きますから」

 わたしはつい噴き出しそうになった。先のことがあるから尚更信用できなくて白眼視すると、文は慌てて手を振った。

「嫌だなあ、冗談ですよ冗談。利子をつけるなんてこすいことは言いませんから、本当に余裕ができたら返してください。まあ正直、銀なんて吸血鬼にぶつけるくらいの価値しかないんですけどね。それならばガラス玉のほうがよほど素敵です」

「ガラス玉なら小さい頃、祖母と遊んだビー玉やお弾きが押入れの奥に残っているかもしれません」

 何気なく言うと、文は瞳を輝かせてこちらににじり寄ってきた。

「本当ですか? ぴかぴかのガラス玉ですか?」

「磨けばぴかぴかになるかも……って近い近い、近いですよ!」

 くっつくように顔を近付けられるのは流石に気恥ずかしかった。文もそのことに気づいたのか慌てて離れ、ふうと息をついた。わたしは半ば呆れた調子で言葉を続けた。

「文さんって何気にスキンシップを求めてきますよね。それに先程からの言動に行動、何だかおじさん臭いですよ」

「お、おじさんってそれは酷いというか……いやいや、早苗さんからしたらわたしなんて妖怪しわくちゃ婆かもしれませんが」

 文の呟きに、わたしは彼女が何歳くらいなのだろうと、急に気になってきた。

「あの、女性に年を訊ねるのは失礼かもしれませんが、文さんって何歳くらいなんですか?」

「歳、ですか? 人間換算で?」わたしが頷くと、文は指をゆっくりと折り始めた。「うーん、正確には分からないですねえ。千はいってると思いますが、二千にはやや遠いとしておきましょう」

 千、二千という単位は人間であるわたしにとって余りに途方もなかった。昭和、大正、明治と元号を遡り、江戸、戦国、室町と時代はどんどんと歴史めいてくる。それでも止まることなく鎌倉、平安まで突き進んだところでようやく追いついた。そして開いた口が塞がらなくなった。

「な、なななな何ですか、それは! からかっているのですか? 千歳だなんて紫式部で百人一首で盛者必衰ではないですか! 蹴鞠の世界選手権でも開くつもりですか?」

「落ち着いて下さい。千でそんなに取り乱しては、ここでは到底やっていけませんよ?」

「だだだだだって、千歳とか、人間の一生が二十人分ですよ。人生五十年、下天の内をくらぶればと詠った織田信長に失礼だとは思いませんか?」

「いや、そんなことを言われても……」文は素っ気なく頭を掻き、額を指でちょいとつついてきた。「わたしはわたしです。遙けき時を生きた天狗であり、そのことを偽ろうとは思いません」

 文の仕草で少しだけ気持ちが収まり、わたしは深呼吸をして気分を沈めた。それでも胸が高鳴っているのは、歳の話題に弱い女性であるからか、とんでもない話を聞かされたからか。判断できなかったから、慌て取り乱したことだけでもと、文に頭を下げた。

「わたし、駄目ですね。空を飛べるものばかりだというのに、年齢一つでこんなにもわたわたして」

「いや、良いですよ。それより中に入りましょう。霊夢さんがお茶の準備を済ませていらいらしているかもしれません。彼女は怒らせると頭から角が、口からは牙がにょきにょきと生えてきて」

「なに出任せ吹き込んでるのよ」

 霊夢は嘘つき天狗の頬を拳で殴りつけると、悶絶する様子を余所ににっこりと笑みを浮かべた。もちろん目は笑っていない。

「こいつは空気を吸うように捏造し、吐くように嘘を飛ばすから気をつけるように。それでは、中でゆっくりと話を伺うとしますか」

 霊夢の迫力に気圧される形で後に従う。文が付いて来ないから少しだけ不安だったけれど、勝手知ったる場所であるようだから、問題なしと判断した。

 わたしが通されたのは、座卓が中央に置かれた六畳一間であった。茶の仄かな芳香に混じり、色々な生活の匂いがしたから、普段もここで食事やら雑事を済ませているのだろう。わたしは一言断ってから、ほんのりと湯気の立つ湯呑みに手を伸ばし、一口啜る。少し温めだけれど、苦さと渋みの調和が取れた良質の茶であった。渋の出し方が祖母と似ていたので、わたしは心地良く喉を潤すことができた。

「あら、味が分かるみたいね。訪れる客が皆、貴女のように繊細で物静かなら、茶の淹れ甲斐もあるというものだけど」

「わたしも霊夢さんの淹れるお茶は好きですよ。愛があります」

 いつの間にか、文はわたしの隣に正座して、にこにこと愛嬌を振りまいていた。霊夢は蠅を払うように手を動かし、わたしに目で説明を求めてくる。そこでかくかくじかじかと、わたしはことの次第を話す。外世界で仕えていた神が停止したこと、その夜未明に自宅と守矢の神社がこちらに移ってきたこと。ちっぽけな冒険に歩哨天狗との一悶着。文との出会いと、わたしたちの要求について。途中まではわたしの話に黙って頷くだけだったけれど、祖母が山に住むことを欲していると話したところで大きな溜息をつかれた。

「それはやめておきなさい。命がいくつあっても足りないわよ。あまつさえ天狗の頭領と酒の飲み比べ? 自殺をしに行くようなものよ。貴女の祖母がどれだけお酒に自信を持っているかは知らないけれど、一升二升の清酒なんて天狗にとってみれば水と同じようなものなんだから」

「うむ、その通りです。あるいは祭祀者の一族に受け継がれる術のようなものでもあるのでしょうか?」

 わたしは少なくともそのような話など、聞いたことがない。もっとも、祖母は洩矢神の祭祀者が受け継いできた秘技や口伝をあまり聞かせてくれたことがないから、妖怪との酒飲み合戦に対抗する術を心得ているのかもしれなかった。

「分かりません。ただ、そうしないと山にはいられないのでしょう?」

「酒で勝ったからといって、天狗が人間を己が上に置くとは思えないわ。貴女がもしこのブン屋を基準にして天狗を想定しているのならば、それはとんだ大間違いよ。彼女は天狗の中でも、人間に興味を示す珍種なの。突然変異と言っても良いくらいだわ」

「流石にそれは酷い言い種ではありませんか?」

 文のやんわりとした抗議を、霊夢は当然のように無視する。

「天狗は山に在り、人を惑わし見下すもの。人に見下されることを許すはずがない。山の頂に居られるはあらゆる意味で天狗を凌駕する存在しかない。例えば鬼であるとか、古豪の神であるとか」

 神という一語に、わたしは肩を震わせずにはいられなかった。

「貴女は先程、神が消失したと言ったわね。その神は、こちらへやって来なかったの?」

「おそらくは。わたしにも感じられませんでしたから」どんなに弱っていても、側におられるならばわたしには分かったはずだ。「消えて、しまわれたのでしょう」

「寄る辺なき神の死、か。わたしにも痛い事実ね」

 彼女もまた、巫女であるからには神意に敏感であるのだろう。そう言えば、ここは霊的にとても安定しているけれど、神意のようなものがまるで感じられないことに気付く。あの古ぼけた神社でさえ、神がいた頃は僅かであれ意を発していたというのに。

 ここは余りにも空白のような気がした。もしかすると、霊夢はかつて神を失ったことがあるのだろうか。興味はあったけれど、もしそうだとすれば深い喪失を伴うはずで、だから初対面のわたし如きが訊けることではなかった。

「あるいは、それが目的なのかもしれないわね。貴女の祖母が山に拘る理由」

「それは、一体どういうことなのでしょうか?」

 外世界の現実ばかり知っているわたしには皆目検討がつかず、自信なく訊ねることしかできなかった。

「彼女は妖怪の山という象徴の上にあることで、信仰を得るつもりなのかもしれないわ。そうして、一度喪われた神を取り戻したいのかもしれない」

 霊夢の言葉はわたしに重くのし掛かってきた。もし彼女の言葉が本当ならば、祖母が敢えて危険な場所に踏み留まろうとしている理由は。

「わたしのため、なのでしょうか?」

「己のためであるかもしれないわ。彼女もかつては祭祀者であったのだから、神を取り戻したいと強く熱望しているのかも」

 それもまたあり得ない話ではなかった。祖母は強く言葉にしなかったけれど、わたしとは別の方向性で神に拘泥している節があったからだ。

「どちらにしろ、わたしにはやめておけと言うことしかできないわ。やるとしても、生半可な覚悟では挑まないこと。自分が何をするべきかも定められないならば、論外としか言いようがない」

 言明を避けたけれど、霊夢がわたしの至らなさを指摘したのは火を見るよりも明らかであり。わたしは俯いて恥じいるよりほかなかった。そしてそんな弱さを霊夢は許してくれなかった。

「下を向いていても何にもならないわ。きちんと自分で決めて、それからやりなさい。やることを決めたら、頼れるだけ頼りなさい。わたしも職責の範囲で協力してあげるから」

 厳しさから滲み出る霊夢の優しさと心遣いに、わたしは胸が詰まった。見ず知らずの人間にここまでしてくれることを感謝したかった。その前に文が茶々を入れたから、わたしには何もできなかった。

「おや、随分と安い言葉をかけるのですね?」

「わたし以来の同業者だもの。それにこの、常識が通用する感じ。懐かしすぎて涙が出そうになるわ。ええ、弁えている相手に心安く接するのは当然のことではなくて?」

 普段どれだけ非常識な存在を相手にしているのかが透けて見えるようだったけれど、天狗しか知らないわたしには何も言えなかった。

「話が逸れたけれど。慌てて決めることはないわ。ここではとてもゆったりと時間が流れる。それでも無限の猶予があるとは言えないけれど、流れる雲でも見ながら一度、心を整理すると良いわ」

 流れる雲と心の中で呟き、わたしは息をつきそうになる。外の世界にいたとき、そんなものをじっくりと眺めたことなど一度もなかった。穏やかな学生生活ではあったけれど、それでもぼんやりとできるほど緩やかではなかったからだ。勉強に追われ、それ以外の時間は趣味や憩いに当てていた。その全てが上を見上げるものではなかった。観測されないようにこっそりと空飛ぶ練習をしていた時さえ、そのものをじっくりと見ることはなかったと思う。

 わたしは逸っている己を見出し、小さく頷いた。それにわたしは祖母からきちんと話を聞いていない。最低でもそれだけは果たして、できればたっぷりと時間をかけて、立ち位置を定めたかった。

「分かりました。もしお世話になる時がありましたら、よしなにお願いします」

 角度よく頭を下げると、霊夢はまるで恍惚のように息をついた。

「これよ、これ。この折り目正しさ、わたしに対する礼儀」

 霊夢は文のほうをちらと睨み、すると彼女は口笛を吹く振りをする。誤魔化そうとしたのだろうが、上手くいったとはとても言えなかった。すると文はわたしを立たせ、そそくさとこの場を立ち去ろうとする。

「それでは。ことが定まりましたら、新聞をお届け致しますよ」

 霊夢は無言で札を投げつけ、文はすんでのところで避ける。息のあったコメディアンみたいだなと思った。

「話なら早苗に聞くわ。文の捏造三流新聞なんて誰が読むものか」

 文の作った新聞に恨みでもあるのか、それとも別の理由があるのか。どちらにしても、相当に辛辣な物言いだなと思った。

「では、わたしもこれで。文さん、行きますよ。わたしのこと、きちんと記事にしたいのでしょう?」

「はいはい」文はわたしの言葉を軽くいなし、それから不意に顔を歪めた。「何だか嫌あな予感ですねえ」

「都合が悪いなら追い払うけど?」霊夢がいつのまにかわたしの背後におり、胸苦しくなる程の力を周囲に展開させていた。「結界の反応具合からして、お仲間のようね」

「知り合いの哨戒天狗ですよ。故に気遣いは無用です」

「了解。まあ天狗と本気でどんぱちやるのは疲れるし、任せて良いなら任せるわ。ただし神社やその周辺を汚すことがあったら、綺麗になるまで掃除をしてもらうからそのつもりで」

 霊夢はくるりとわたしたちに背を向け、次には一瞬で気配を消してしまった。得体の知れない底力を感じさせる動きに、わたしは文の顔をそろりと窺う。

「彼女はなりこそ普通の少女ですが、この幻想郷で起きた様々な事件に足を突っ込み、解決してきたとされています。眉唾ですが、それなりの貢献をしたことは確かでしょう。相応の力持ちであることは間違いありません。あまり怒らせない方が良いですね」

 その割に文は霊夢のことを怒らせていたけれど、それは天狗の性分なのか、それさえも許される実力の差があるのか。どちらにしろ二人のツーカー加減は何となく癪に障るものがあった。

「さて、では彼女が何を連れてきたか確かめてみましょうか。はたしてどのような蛇が飛び出してくるのか」

 文は神妙な顔付きで神社を後にする。わたしは文の手を取らないように強く拳を握りしめる。あくまでも己の意志で歩いたり飛んだりしたかったからだ。

 鳥居の側で待っていたのは、わたしがここに来て最初に出会った獣耳の天狗であった。同じ種族でも黒人と白人では色素量がまるで違うように、天狗にも何種類かいるのだろうか。もしかすると互いに交配できないほど違うのかもしれなかった。

「おやおや、哨戒天狗からお使い天狗に格下げされましたか?」

 文がにやにや顔で声をかけると、椛は分かりやすく顔を赤らめ、大袈裟に首を横に振った。二人は余り仲が良くないと聞いていたけれど、こうして目の当たりにすると一目瞭然だった。

「今は失礼にも目を瞑ります。さて、貴女たちにはこれからある御方と会って頂きます。その方は滝の上で二人が現れるのを待っていますので、急いで付いてきて下さい」

「嫌だと言ったら?」椛の真摯な物言いに、文は平然とそっぽを向いた。「哨戒の邪魔をしたと告げ口でもしましたか? それで上をせっついて説教を受けさせようとでも? そんなの真っ平御免……」

「郷入りの娘を検分したいとのことです」椛が軽口に楔を打つと、威勢の良かった文の口がぴたりと閉じられた。「貴女がわたしを欺いていたのは分かっていました。しかしよりにもよって、郷入りの事実を黙っていたとは。これはある種の背信行為と受け取られても仕方がありませんよ」

 何故かは分からないけれど、椛はわたしが郷入りした人間であることを既に知っているようだ。もしかして、文が何らかの方法で通信したのかと疑ったけれど、当の本人は戸惑い立ち尽くすのみだった。

「郷入りを感知されたのですよ。やって来たものが力なき人間であるため、気付いたものは極僅かですが」

 椛は無知なわたしや文に、ことを噛み砕いて説明する。そして文の青ざめようから、相当の使い手であることが容易に想像できた。

「もしかして、わたしたちを待っておられる方というのは……」

 椛は文の問いかけに答えず、踵を返して日の沈むほうへと飛んでいく。それでも文はおろおろと立ち尽くすだけであり、わたしは必死で後を追うように促した。

「行ってしまいますよ。追わなくて良いのですか?」

「あ、はい。そうですね……」これまでの強気が嘘のような変わりぶりであり、少し可哀想になるくらいだった。「白狼に置いていかれるなど烏天狗の名折れ」

 その一言で辛うじて己を鼓舞したのだろう。文はふらふらと飛び上がり、精彩を欠いた速さで空を駆けていく。わたしはその風を借りる形で追い縋り、二人に並ぶ。できるとは思ったけれど、実際にやってみるとその速さに息が詰まりそうだった。おそらくこれ以上の速さを持つ文が全力で飛べば、どのような視界が広がるのだろうか。想像もつかなかった。

 きっと怖ろしくも素晴らしいものが見えるに違いない。そしてわたしはいつかそれを見なければならないと思った。

 

 遊ぶように下った行きと違い、帰りはほぼ一直線だったから、わたしたちはあっという間に滝上へと辿り着いた。それから木々の濃い所を縫うようにして抜けることしばし、椛は川から少し外れた所にある大岩の前で飛ぶ足を止めた。

 岩の上では十歳くらいの童が足をぶらぶらさせていた。品の良い緑で染められた小袖を身に纏い、小さな足に灌木から直接切り出したかのような茶の高下駄を履いている。文や椛と同じデザインの頭巾を被っており、おそらく天狗なのだろう。しかし、耳が尖っているわけでも、獣のようにふさふさしているわけでもなく。中性的な顔立ちであり、遠目には性別さえ見分けることができない。顔に張り付いた無邪気な笑みは、どこか老成すら感じさせるものであり、わたしは改めて彼、ないし彼女が、得体の知れない存在であることを自覚して心を引き締めた。

 わたしの判断が正しかったことは、文や椛が即座に傅く様で確かめられた。こんな所にいる以上、ただの童でないことは分かっていたけれど、同じ種族を平伏させるほどの力を持っているのだ。

「ご苦労様、椛。君はもう下がって良いし、興味があるならばこのままここにいても良い。但しどちらにしても他言無用に願いたい」

「畏まりました」椛は傅きながらそう言い、意を決して顔を上げた。「不遜ながら、わたしも静聴させて頂く所存であります」

「分かった。文も顔を上げて良いよ」

 その言葉と同時、童は岩からひらりと下りて、鳥のようにふわりと着地する。その様は何となく身の軽い獣を連想させるものであった。よく見ると小袖には、尻尾をくるくると渦状にした猿の意匠が縫い込まれていて、なるほどなと思った。猿が木々をひょいひょい飛び交う様は、天狗に見えないこともない。

 とまれ、わたしは間違いがないよう丁重に挨拶することにした。

「あの、初めまして。貴方も、いや貴方様も天狗でありますか?」わたしも文と同じように傅くべきかと考えたけれど、素性も分からないものにそうするのは逆に不遜であるような気がして、立ったまま頭を下げる。「わたしは東風谷早苗と言います。この度は……」

「人と妖怪が共暮らす幻想の郷に入って来た。そのことは端折って構わないから、かくかくじかじかと話してもらえれば助かるな」

 童はわたしを見上げると何故か目を細め、まるで懐かしいものでも見るかのように眺めてくる。わたしには当然ながら心覚えがまるでなく。ただ怯むことしかできなかった。

「あの、わたし何か気に障ることでもしましたか?」

「いや、不躾な目で見てすまない。ただ、懐かしいなと思ってね。貴女はわたしの伴侶だったものと雰囲気が似ているんだ」

 天狗も夫婦の契りを結ぶのかと目を丸くすると、童はわたしの全身をゆるりと見定める。

「細い顔立ちに、甘くて豊満な体つき。女性であるから当然だけど、あの人の女性的な特徴をとてもよく引き継いでいる。まるであの人の魂が生まれ変わり、わたしの元を訪ねてくれたかのようだ」

 童とは思えないほどのじっとりとした視線に、わたしはつい魅入られそうになった。よく見るとその顔は怖ろしいまでに整っており、笹のような爽やかな香りが鼻をくすぐり、思わずうっとりしそうになった。

「話が、本筋からずれておられますよ」

 横から不意に、文の鋭い声が放たれて、わたしの鼻先でぱんと弾けるようだった。それでわたしは正気に戻り、童からそそくさと距離を取った。童は文のことを一瞬だけ厳しく睨んだけれど、次には愉快そうな様子で岩の上に飛び乗った。その声からは砕けた調子が消えており、その身からは重苦しい圧力のようなものが天衣無縫に放たれていた。どうやらここからが本番であるらしい。

「閑話休題、説明をお願いできるかな。二度手間、三度手間かもしれないけれど、貴女の口から聞かせてもらえると嬉しい」

 その口調とは裏腹、わたしに他の選択肢は残されていないようだ。瞳の奥が猛獣のように鋭く、逆らえば容赦しないと無言に語っていたからだ。それでも臆しているとだけ取られるのは癪だったから、わたしは霊夢にしたのと同じ話を、童姿の天狗に話して聞かせた。彼、ないし彼女の顔色は子供のようにころころと変わり、話し終えるとその表情はこちらを傲慢に見下ろす笑みとなっていた。年は低く見えるのに、文よりも数段堂にいった見下し方であった。

「ほうほう、人間風情が天狗と飲み比べをして権利を勝ち取ろうと言うんだね? 無知とはいやはや救い難いけれど、外世界の人間はそこまで天狗のことを忘れているというわけか。文明を気取り、狼のように天狗を狩りだそうとし始めた時点で薄々感づいてはいたけれど、人間はかつての道理を完全に外れてしまったらしいね」

 童天狗はわたしや祖母、というより人間全体を誹謗しているようであった。

「そのような人間が、天狗に酒で勝てるのか。しかして神の末裔ならば、そんじょそこらの人間よりは酒に強いのかもしれない。もしかすると天狗に並ぶのかもしれないね。面白い、確かめてみたくなったよ」

 童天狗は一人で次々に定めていくと、神妙な様子の椛に、気さくに声をかけた。

「すまないが、椛には少しばかり使い走りをお願いしたい」

「はっ、それは構いませんが、伝言の類ならわたしよりうってつけの鴉がいるのではないですか?」

 椛はお偉方の前だというのに、それでも文への当てこすりを忘れていなかった。余程、仲が悪いのだろう。文はまるで素知らぬ振り、そして童天狗はにやにや笑いを浮かべていた。

「速さだけならば文に頼んだだろう。でも同時に腕っ節が必要なんだ。厳しい任務をこなしている椛にこそうってつけなんだよ」

「そうで、ありますか」目上の人に誉められたからか、椛は気恥ずかしそうに俯き、少しして堂々と顔を上げた。「それで、如何様な?」

「天狗の酒蔵から、力が及ぶ限りの酒樽を持ってきて欲しい」

 その発言でわたしにも文にも、やろうとしていることがすぐに分かった。そしてわたしは今更ながら、目の前にいる天狗が何者なのかを理解する。

「了解しました。力の及ぶ限り持ってきます」

「お忍びで来ているから、わたしの許可は与えられない。上手く酒蔵に忍び込み、誰にも気付かれずに失敬してくるんだよ」

 何気に酷い命令だと思ったけれど、椛は「御意」と言い残し、迷いなく任務に飛び立っていった。その姿を見守ってから、わたしは改めて童天狗に声をかける。

「貴方様はもしかして、天狗の頭領ですか?」

「退屈極まりない閑職だよ。だから、楽しみの一つも欲しくなる」童天狗は溜息のように言うと、再びひらりと下りてきた。「それよりも貴方様だなんて、他人行儀な言い方はやめて欲しいな。わたしには貴女が、もとい早苗のことが他人とは思えないんだ。運命というのは安い言い方かもしれないが、そのようなものを感じるにも吝かではないね」

 童天狗は訊ねもせずにわたしのことを呼び捨てると、わたしを少し苦しそうに見上げてくる。ふと不憫に思い膝を曲げて視線を合わせると、首筋に腕をするりとかけ、涼しげな声で囁いてきた。

「早苗にはわたしの本当の名前を教えてあげる。天狗の中でも本当に旧い一部のものしか知らない真名だよ。聞きたい?」

 わたしは知識欲が強いから、つい首を縦に振りそうになる。すんでのところで踏みとどまることができたのは、横からわざとらしい咳払いが聞こえてきたからだ。今更ながら童天狗の挙動に不審を感じ、だからやんわりと退けることにした。

「真名を知って、ただで済むとは思いません。何が望みでしょう?」

 できるだけ穏やかに、失礼のない言い回しを選んだと思う。対する童天狗の言葉は、わたしの想像を遙かに越えていた。

「名を明かすのだ。つまるところ、名に捕らうということだよ」彼、ないし彼女はわたしの肩から腕を離し、熱っぽく手を握ってきた。「了解してくれたならば、妻に迎えるつもりだった」

 刺身の付け合わせによくある大根の細切りですよねえ、わたし結構好きなんですよ……とでも言えれば良かったのだろうか。実際のわたしは衝撃的な告白にただひたすら慌てるよりほかなかった。

「妻って、つつつ妻って、奥さんで嫁で熱い味噌汁は飲めないんですよね? というか天狗が人間の妻を迎えるとか良いのですか?」

「普通の人間ならば迎えなかっただろうね。つまり早苗は特別ってことだよ。この意味が分かるかい?」

「えっと……」分かると言ったら次にどんな言葉が飛んでくるか分かっていたから、わたしには何も言うことができない。困りきったわたしは、同じ天狗である文に縋るしか道がなくなっていた。「文さんったら、黙ってないで少しはフォローしてください。わたしは幻想郷のことをまるで知らないのですから。そういう約束だったでしょう?」

「待って下さい、その振り方は狡いですよ」

「狡くて構いません。さあ、文さん説明してください。天狗は人間の女性を娶るものなのですか?」

 せき立てるように訊ねると、文は童姿の上司に目で助けを求める。しかして、その表情はいつの間にか能面のようになっていて、いかなる感情をも読みとれそうにない。同種にまで意地悪をするとは、何とも筋金入りだと思う。

「それより早苗さんこそ、そんなことを聞いてどうするんですか?」

「知れば今後、天狗とどう接すれば良いのか、参考になります。社交辞令として受け止めるべきか、気を付けるべきか、知識に留めておくのは有用ですからね」

「山から下りるならばそんな必要はありませんよ」

 文に指摘され、わたしははっとする思いに駆られた。確かにその通りだ。山から下りて人里に暮らすならば、わたしは妖怪の山にも、そこに住む天狗にも煩わされることはない。要するにわたしはここに住むことを選びかけていたということだ。それが何故かと問われればわたしには相変わらず答えることができない。祖母のためと言い切るには弱いし、こんな所に来た以上、家を離れることに未練は左程ない。

 そんなわたしの沈黙を破ったのは、童天狗のくつくつとくぐもった笑いだった。

「ああ、おかしい。貴女がここへ来たのは昨日の夜だというのに、まるで旧知の仲ではないか。なるほど、その適応力ならば山で暮らすことに傾いたとしても不思議ではないね」彼はひとしきり笑い倒してから、案外真面目に切り出してきた。「わたしも早苗には側にいて欲しいと思うよ。妻に迎えたいからね」

「あれは天狗特有の冗談ですよ、早苗さん。騙されてはいけません」

「騙してはないよ。それに天狗の頭領であるわたしと結びつけば、早苗たちがあそこに住むことを不満に思うものはいなくなる」

 確かに一理あると思うけれど、しかし確実が保証されているわけではない。彼はわたしに優しく細やかであるかもしれない。わたしもいつかは彼のことが好きになれるかもしれない。それでも、わたしはウイムジィ卿とハリエットみたいな愛の結実を目指したかった。お互いをよく知った上で、堂々と共に歩きたかった。押しつけや打算はできるだけ避けたかったのだ。

「わたしは貴方を知りません。知らないものといきなり結婚することはできません」

「では、相克してもらうより他はない。天狗は己に劣るものを上に置くことはできないからだ。わたしや文は変わり者なんだよ」

「わたしはきちんとした天狗です!」そこまで言って、文は慌てて口を塞いだ。よりにもよって頭領を変わり者と言ったも同じだと気付いたからだ。「あやややや、決してそのような意図はなかったのですよ」

「ほらね、天狗は序列意識が高い。こうやって上にもの申せるだけで特別なのさ。先程の白狼もそうだけど、わたし自身は傾伎者が嫌いじゃなくてね。鬼の留守を埋めるためとはいえ、少し運営方針を間違ったかなあと考えているんだよ。あ、これもできれば他言無用でお願いしたいね」

 気さくなのが地であるのか、それとも何らかのポーズであるのか。笑顔の中にも思考を読ませることなく、だから曖昧に頷くしかなかった。

「では、わたしたちは先に早苗たちの住む庵へ向かうことにしよう」

 童天狗は懐から旧い鏡を取り出すと息を吹きかけ、岩の上に置いた。

「これでよし。椛が戻ってきたら、この子が知らせてくれる」

 まるで生き物のような物言いであったが、鏡は光が当たってもいないのにきらりと光を放ち、からんとわざとらしい音を立てた。

「あの鏡は、天魔様の眷族なのですよ。わたしが烏を使うように、鏡を生き物のように使うのです」

「なるほど。時に天魔様というのは?」

 わたしは童天狗の様子をちらと窺う。そう言えば、童天狗の名前を聞いていないと今更ながらに気付いたからだ。

「わたしもそう呼ぶべきなのでしょうか?」

 すると童天狗は分かってないとばかりに、首を横に振った。

「それは頭領の別称みたいなもので名前ではないよ。弁えるべき場ではそう呼んで欲しいけれど、私的な場では正式な名前で呼んで欲しいと思っている」

「だからわたし、結婚なんてしません」

「ふむ、二度も袖にされるとは残念至極」特にへこんだ様子もなく、彼ないし彼女は寧ろ不敵に笑んでみせた。「その気の強さ、ますます妻に迎えたくなったよ」

「だからですね……」あまりにも嫁嫁言われると、反論する気力も失せてしまう。あるいはそこから既成事実を捻り出すのが目的かと思い直し、わたしはもう一度だけ言い切った。「わたしはお嫁に行く気など、毛頭ありません」

「女はいつか嫁に行くものだよ。それにわたしなら鯔であっても構いはしな……」

 相手はわたしを悠に凌ぐ相手だと分かっていたのに、気付いたら手が出ていた。右手のひりひりした感触に、呆然とする。忘れようとしていたのに、こんなにも意識していることに愕然とした。見抜かれているという羞恥が全身を貫いた。それを隠したくてもう一度叩こうとすると、後ろから手をつかまれた。

「おやめなさい。そのような無礼が罷り通る相手ではありません」

「この人はわたしに酷いことを言ったのよ!」

「それでも、今は控えるべきです。貴女の一存で全てを御破算にするつもりですか?」

 涼やかで少しだけ低い声が、耳と心に沁みいるようだった。少しだけ冷静になれたけれど、怒りが収まったわけではなかった。鋭く睨みつけると、しかし童天狗は半ば本気でしょげているようだった。

「すまない。そこまで憤るほどの失礼になるとは知らなかったんだ。人里の慣習で早苗をとらえていたけど、それでは駄目なのか……」

 本当の子供を泣かせてしまったようで、酷く落ち着かない気持ちになった。こんなわたしでも母性があるなんて信じられなかったけれど、それでもわたしはこれ以上、怒る気持ちにはなれなかった。

「わたしこそ、事情も知らずに叩いてしまいました。どんな理由があろうと良くないことです」

「うん、良いよ。わたしこそすまない」

 絆されてしまった気はするけれど、これで良いのだろう。同意を得たくて文のほうを見ると、どうにも戸惑った様子を見せていた。

「あの、どうかしたんですか?」

「いえ、何というか天魔様のイメージが刷新されていく感じでして。わたしの知っている普段の態度とはまるで違う……」

 文は解せぬといった調子で首を傾げている。その様子を見てわたしは内心ほっとした。先程のやり取りに含まれていたものに気付いていなかったからだ。

波乱の中心は川面ぎりぎりを、まるで跳ねるようにして遡っていく。

「ああして見ると、普通の子供みたいですねえ」

「だからこそ怖ろしい。あの御方は決して一枚岩でない天狗たちを、圧倒的な力と頭脳で統べて来られた。裏がないわけないのです」

 それくらいわたしにも分かっていた。彼の言動は無邪気で突拍子のないように見えて、慎重に計っているような雰囲気がうっすらと付き纏っていた。わたしの秘めごとをあっさりと暴かれてしまったことからもそれは容易に窺える。用心しなければならないのだろう。

「わたしもできるだけ気を配りますが、おそらく庇いきれません。早苗さん自身が気を付けて下さいね」

 わたしは小さく頷き、少し先で手を振って呼びかける彼に、気を引き締めて付いていった。

 それから約一時間後、家の前で酒樽が見事に組体操をしていた。わたしの臍くらいまでの高さがある、ずんぐりとした樽が一二三の六個、並の大人なら一つとて飲み干すことができないだろう。

「半径かける半径かける、円周率は三で良いかな。高さは仮に一メートルとして」あまり想像したくない数字が弾き出され、飲んでもいないのに目眩がしそうになった。「天狗はこれを一夜で飲むんですか?」

「いやあ、流石にこれは。胃がたぷたぷになってしまう」天狗の頭領にしてもこれは些か大袈裟に過ぎたようで、分かりやすい苦笑を浮かべていた。「余った分は餞別ということで」

 わたしはどうするとばかりに、鉢巻をした祖母に視線を寄せる。すると何とも嬉しそうに鼻を鳴らし、天魔さん――せめてそう呼んで欲しいと固辞された――の幼げな顔を見やった。

「清冽で混じりもののない香りがするねえ。これは上酒だよ、飲み比べで使うにはちと勿体ない」

「ほうほう、分かりますか分かりますか」

 老人と、童に見える老境天狗が、同じような表情を浮かべているのは何となくおかしかった。しかも微妙に仲が良さそうで、わたしとしてはこの状況をどう捉えて良いのか分からなかった。

「おや、早苗さんたら浮かない顔ですねえ。この香しい匂いに心躍らされないなんて。もしや先程のことが引っかかっていますか?」

「いえ、そんなわけじゃ」図星だったから、わたしには何も言えなかった。「戯れであると確定されたのですから喜ばしいことですよ」

 自宅につくまでは何事もなかったのだ。事件は祖母と天魔さんが顔を合わせたときに起きた。彼と来たら祖母を見た途端に色めきたち、名前やら簡単な素性なりを一方的に聞き出したあと、挙げ句の果てに祖母のことを妻に迎えたいと言い出したのだ。しかもどうやら社交辞令ではなく、本気であるらしかった。

 祖母が魅力的な女性であることは疑い得ないけれど、先程までのアプローチをまるでなかったことのようにされて、忸怩たるものを覚えなかったと言えば嘘になるだろう。女性としての魅力を云々する以前の問題である。天狗に人間風の礼儀を求めても仕方ないのかもしれないけれど。

「椛さんを少しくらい労っても良いのではないかと」

 名前を呼ばれた当の本人は、ぐったりとした様子でわたしに視線だけを寄越した。あれだけの樽を一気に担いで持ってくるのは、いかな天狗といえども難行であるらしい。酒に夢中である祖母と天魔さんに変わり、わたしは椛に大きく頭を下げる。

「お勤めご苦労様です。冷たいお茶でもお出ししましょうか?」

「かたじけない」椛は前時代的な物言いとともに身を正す。「貴女は天狗にも怖じないし良い御方だ。初めて会ったとき、問答無用で捕らえようとして申し訳ありませんでした」

「いえ、他人の領地に無断で入ってきたのならば、妥当な行動だったのでしょう」日本は国境を侵犯されることがとても少ないから実感は薄いけれど、天狗にとっては切実な問題なのだろうと思った。「では、何とか工面してきます」

 わたしは和気藹々する祖母と天魔さんの横をすり抜け、台所から麦茶の入ったコップを失敬する。冷たいというよりはぬるいと言うべき温度になっていたけれど、冷蔵庫が働かないのだからしようがない。冷凍庫の氷もほとんど溶けていて、生活への不安が少しだけ甦ってきた。

「もっと気を大らかに持つべきかもしれないけど」わたしにはそこまでの度胸がない。生まれたときにはあったけれど、成長するにつれて起きた様々な出来事が、わたしからそれを奪ってしまったのかもしれない。「意気地なし、弱虫のわたし」

「弱虫ならば、天魔様に平手を食らわすなんてできませんよ」背後から文の声がかかり、わたしはもう少しで麦茶を零すところだった。「人間なんて弱いんですから。開き直りましょうよ」

 微妙に腹立たしい言い回しだったけれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。開き直りが足りないことは半ば自覚していたからだ。

「椛が舌をだらりと出して、まるで犬のようでしたよ。早く持っていってあげてください」

 言われるまでもなく、わたしは椛の所に戻ると麦茶を差し出した。匂いを確かめるのは文と同じだったけれど、疑うことなくごくりと一気に飲み干した。よほど疲れていたのだろう。

「嗚呼、確かに冷たくて美味しい。外世界の人間はこれほどのものをいつも飲んでいるのですか?」

「それは後日、わたしの特集記事を御覧あれ」

 文が茶々を入れると、椛は実に分かりやすく機嫌を悪くした。

「どうせ捏造だらけなのでしょう。誰が読むものか!」

 つれないなあとばかりに、文が肩を竦める。犬猿の仲ならぬ犬鴉の仲とでも称するべきなのだろう。もっとも文のほうでは特に椛を嫌っていないようで、だからこそ椛の空回りぶりが一層強調されていた。赤裸々であり、半ば無惨ですらあった。

「ごちそうさまでした」

 怒りの中でも忘れられない礼儀正しさがいかにからかいの種になるか、子供の頃に変な名前だとからかわれていたわたしには、悲しいほどよく分かった。羽目を外せないものは人間であれ天狗であれ、ままならないということなのだろう。

 当然ながら、酒樽は家に入らなかった。そのため、縁側に面した一室に席を用意し、バケツリレーのように運ぶこととなった。その役割は当然ながら椛が果たすこととなり、ここでも悲しみの構図が浮き彫りになった。もっとも用が済んだから立ち去って良いというのに居続けているのだから、半分は自己責任なのかもしれなかった。

 わたしは火を通さなくて良い食材を使って、酒のつまみをなるたけ用意した。茄子と胡瓜の漬け物、キムチ、サラダ味のプリッツにクラッカー、アーモンドバター、漬け物以外はどれもこれもおそらくこちらでは手に入らない貴重品である。勿体ないけれど、酒だけをごくごく飲ませるのは流石に味気ないと思ったのだ。

「それでは準備も整いましたところで、勝負にかける意気込みのほどを窺いましょう」文はまるでテレビアナウンサーのように大袈裟な口調である。「天魔様、いかがでしょうか?」

「別に、守矢さんがわたしの妻となってくれれば、こんなことをする必要ないのだけどねえ」

 またぞろ熱っぽい調子でそんなことを言うと、祖母はからからと笑い飛ばして見せた。

「わたしは干物ではないからね。水で戻しても嵩が増えたりはしないのさ。天狗でありすぎてそんなことも忘れてしまったのかい?」

「いえ、貴女は乾いていても素敵な人です」

「ふむり。しかし今更、新たな伴侶を求める程の気持ちもなし。然るに我らは酒で勝負をつけるしかない」

「全く、遺憾なことだねえ」

 二人のどこかほのぼのとした雰囲気に、みるみるうちに毒気が抜かれていく。文も同じような気持ちなのだろう。あれほどの騒がしい口をぴたりと閉じてしまった。それが合図であるかのように、双方がちびりちびりと飲み始める。

 このように遅いペースでは何日かかるのだろうと最初は思ったけれど、気がつくと椛が忙しなく酒樽と酒席を往復するようになった。わたしも時々手伝わなければならないほどで、これが酒豪同士の飲み合いであると今更ながらに気付いた。本当に自信があるものは決して慌てない、騒がない。ただ淡々と飲みゆくのみだ。日がゆるりと沈みだした頃には、一つ目の酒樽が半分ほどになっていた。

 電気がなければ、夜になれば明かりの取りようがない。わたしは少し迷ってから、押入れの奥にしまっておいた蝋燭を取り出した。電池を始め、こちらで使用できる文明機器はより非常時のために取っておきたかったからだ。

 蝋燭を立てると、酒を飲み交わす二人の姿は鮮やかな朱色の杯と相まって、いよいよ幻想めいてきた。幻想郷なのだからむしろ日常かもしれないけれど、わたしにはまだ馴染みのない光景だった。そして二人の酒量は些かも衰えることなく、デュースを続ける庭球の様相を呈してきた。スリリングではあるが、同時に暇ということだ。もっと派手な短期決戦を想定していたから、わたしは必死で欠伸を噛み殺していた。そして文は欠伸を隠さなかった。少し離れた所で椛だけが正座を崩していなかったけれど、妙にもじもじとしている。天狗と言えど、頻繁に動き回りながら同時に畏まっていると流石に辛いのだろう。

「手伝ってあげないんですか?」

「面倒臭いです」

「手を貸したら椛さんも少しは見直してくれると思うのに」

「ですかねえ。でも面倒臭いなあ」文はわざとらしい欠伸をし、遂には床にごろりと転がってしまった。「結局は他言無用ですよ。一文の価値にもなりません。派手な騒ぎもなし、時折つまみを口にしては、鯨のようにごくごくと飲み続ける始末。わたしだって酒を飲みたいし、取材をまとめたいのですよ」

 文はまるで駄々っ子のように手足をばたばたさせる。しようのない人、いや天狗だなと思う。

「勝負の見届け人なんて引き受けるんじゃなかった。いや、わたしの見込み違いですね。早苗さんのおばあさんがまさか、あんなにも飲める人だとは思いませんでした」

「そうですね、わたしもまるで予想外でした。祖母はわたしの前では一度もお酒を飲んだことがありませんでしたから」

「けじめのようなもの、だったのでしょうか?」

 祖母がそのようなものをわたしに語ったことは一度もない。しかし娘と義理の息子に先立たれた労苦重責が並々ならぬものであることくらい、わたしにも分かる。本当ならば門限云々と、危険がないよう厳しく躾をしたかっただろうに、わたしが危ない真似をして帰ってきても、嫌な顔一つしなかった。あのことがばれた時だって、黙って慰めてくれた。それらのことがどれだけわたしの救いになったか、今ならよく分かる。いや、わたしは所詮子供だ。大人の真剣を理解できるほど出来てはいないはずだ。

「人間は、難しいですね。単純だけど、たまに果てしなく分からない」

「わたしも、難しいですか?」

「そうですね。いや、まだ分かりやすいのかな?」文は腕を組み、ううむと唸り声をあげる。わたしと誰かを、おそらくはあの霊夢という巫女と比べているのだろう。「早苗さんにはこちらの常識で計れないところがあります。おそらく外世界からやってきたことに由来するのでしょう」

 要するにそういったものを除けばそれなりに単純ということだ。

「わたしは難しいほうが好きですよ」文の言葉にわたしは思わずどきりとした。「上手くまとめられたら良い記事になりますから」

 わたしはごく僅かに肩を落とし、ゆったりとした二人の勝負に視線を寄せる。暗がりのためか顔色はよく見えなかったけれど、祖母の体が微かにゆらゆらし始めているようだった。

 祖母に体調変化の兆しが現れているのかもしれない。そもそも八十前の老人にこのような無理をさせて良いのか、本当に今更だけど心配になってきた。こんな簡単なことも考えられなかったのは、幻想に目が眩んでいたからだと思う。しかし、ここで声をかけて祖母の気持ちを挫くのも何だか間違いであるような気がした。

 かくして時間はゆるゆると過ぎていく。電池駆動の時計は、今日のところはまだ精確に時を刻んでいた。あれもいずれ動きを止め、ねじ巻き式の時計が取って代わるのだろうか。些細なことにもじれてしまい、わたしは別のつまみでも取ってこようかと腰を上げようとした。

 そのとき、不意にばたんと物音がした。祖母が座卓に突っ伏して、ぴくりとも動かなくなっていたのだ。わたしは慌てて駆け寄り、中学のときレスキューの特別授業で習った、意識の確認方法を試す。口に手を当て、呼気を確かめてみてわたしは小さく息をついた。酒精の臭いがしたけれど、概ね安らかな寝息だったからだ。鼾も立てていない。

 そこまで確認してようやく、勝負がついたのだと気付いた。わたしは座布団を二つに折って簡易の枕とし、祖母を寝かせた。

「さて、ようやく勝負ありだね」天魔さんは大きく息をつき、正していた背筋を少しだけ緩めた。「まさか四半日近くもかかるとは、恐るべき大酒豪だ。並の天狗より余程嗜む。しかし相手はこのわたしだ」

 並々ならぬと言外に言い切り、天魔さんはわたしに不適な笑みを向けてきた。

「さて、守りの矢はついに折れた。風無き娘よ、どうするかい?」

「どうすると言われても。わたしに何を求めるのですか? もしや嫁になれば、融通を利かそうという取引ではありませんよね?」

「話は最早そのような段階を過ぎているよ」彼はそう言って、椛に目で指図する。彼女は迷った末、澄み切った酒を祖母の杯に注いだ。「全てを決めるのは、つまるところこれだよ」

 彼はわたしに、祖母の代理となって飲み比べろと言っているのだ。ある種の慈悲であるのか、それとも人間の二人程度簡単に片付けられるということだろうか。

「わたしは未成年です」それでもわたしの口から出たのは、外の常識であった。「お酒なぞ、まるで嗜んだことがありません」

 新年に御神酒を少々、舌で転がしたことがある程度だ。それに両親はともに酒が弱かった。祖母の如き鯨の胃袋であるかもしれないけれど、すぐに潰れて倒れる算段のほうがより大きいはずだ。しかし理の賢しさなど、当然ながら目の前の大天狗には通用しなかった。

「成熟は歳で決まるのではないよ。覚悟の数で決まる。早苗がわたしと飲み比べるほどの覚悟を決めたのならば、そこで成人したと考えて差し支えないだろう。だから酒も自由に飲んで良い」

 無茶苦茶な理屈だと思った。同時にその定義は魅力的でもあった。何故ならばわたしは一人前の大人になりたかったからだ。祖母を煩わせない、独立した一個の強い女性になりたかった。

 それに祖母がここまで無茶して成し遂げようとしたことなら、その一助となりたかった。祖母はわたしに人生の一部を捧げ、わたしは今日まで何も報いて来なかったからだ。だからわたしは頷き、杯を手に取った。

「受けましょう。わたしは祖母の勝負を継ぎます」

 わたしはその証とばかり、清酒をこくりこくりと飲み干し、その残滓をちびりと舌の上で転がして確かめる。少し辛くて、滑らかで、喉にすいと落ちていく。美味い飲み物だと思った。

 胃が微かに暑く、喉は僅かに涼やかだ。肌はほんのりと赤く、しかし頭はすっきりとしている。わたしは残りを一気に飲み干して、大きく息をついた。これは確かに辛いもの、味の濃いものが食べたくなる。

「いやはや、初めてにしては見事な飲みっぷりだねえ。でもまあ、夜はまだまだ長い。ゆるりと、行こうじゃないか」

 わたしは無言で頷き、注がれていく酒の波打つ声を聞く。ほろほろと、ほろほろと、鳴いている。わたしは漬け物をちびちびかじりながら、音が立たない程の緩やかさで飲んでいく。塩味のものと一緒に飲めば、今度は甘みがひょっこりと顔を出す。

「これは、酒飲みが太るというのも分かる気がするなあ」とても美味しくて、とても幸せだ。「おばあちゃんはこれをわたしのためにずっと我慢してたんだ。偉いなあ、強いなあ」

 わたしだったら我慢できたかどうか分からない。その強さに、わたしは涙すら出そうだった。そんな涙を隠すには当然ながらお酒だ。ごくごくすると、心はふわふわになる。

「も、もう少しゆっくり飲んだ方が」

 文が無粋にも袖を引いてきたけれど、わたしはにこりと微笑んで許してあげた。

「いいえ、わたしは幸せな飲み方をしているのです。あの、椛さん、もう一杯を早く持ってきてくださいね」

「えっと、そのう……」椛は躊躇したのち、穏やかな笑みの天魔さんに視線を向けられ、慌てて次の一杯を運んできた。「無理、しないでくださいね」

「大丈夫ですよ。わたし、幸せなだけです」

 突然に光が恋しくなって、わたしは縁側までひらりと移動する。縁に腰掛け、夜空に輝くきらきら星を清酒に写しながら、くいくいといただく。

「粋な飲み方だねえ。そうそう、勝負といっても遊び心を忘れてはいけないね」

 天魔さんはわたしの隣に座り、同じようにして酒を飲み干していく。天狗は幸せそうに酒を飲むから、わたしも負けられないと思った。

「嗚呼、わたしは幸いです。この幸いで、皆を偏く照らしたい」

「あの、早苗さん。本当に、大丈夫ですか?」

「文さん、月が綺麗ですね」

「いや、月なんて出ていませんよ。早苗さん何を見て言ってますか?」

「月がとっても青いから、えっと……この続きはなんでしたっけ?」

「知りませんよ、外世界の歌なんて」

「恋の花咲く時もある」何となくそんな気がした。「月は今でも明るいが、えっとこれの続きもよく分からないのですよね」

「だから、月なんてどこにもありませんよ」

「月はいつも、そこにあります」

 見上げれば、空は白く丸く。それは眼前でくっきりとした真円を保っていた。いや、それは細長くて何本も何本も地上から生えていた。それは月なのか、それとも柱なのか、もしかしたら蛇だったかもしれない。

「みんな、ここは良いところですよ! 早く降りてきてくださいな!」

 わたしは立ち上がり、夜空に向けて大声を張り上げる。わたしは浮かぶ、溶ける、まどろむ、そして……沈みゆく。

「早苗さん!」

 文の真摯な声が、最後に聞こえた気がした。

 目覚めは爽やかに訪れたようだったが、上半身を起こそうとすると頭の中で針を持った小人が暴れているかのような、酷い痛みが駆け巡った。体が鉛になったようで、わたしは横にならずにはいられなかった。

「なんだろう、これ」こんな苦しさは生まれて初めてだった。体は僅かに熱っぽく、喉がからからとして痛い。目の奥からは相変わらず、不愉快な痛みが定期的に発せられ、吐きそうなくらい辛かった。「もしかして、風邪でも引いてしまったのかな」

 だとしたら生まれて初めての風邪ということになる。これも神がいなくなった弊害の一つであるのか、それとも……その先が微妙に思い出せず、わたしは何とか痛みを鎮めようとこめかみに手を当てる。そのとき、こちらに向かう足音が聞こえ、次いで低くくぐもった声がかけられた。

「およ、目を覚ましましたか」

 何とか視線を向けると、そこには気遣わしげな表情を浮かべる文がいた。その手には水の張られた洗面器と小さなタオルがあって、彼女がわたしを介抱してくれたのだと朧気に理解できた。

「調子はどうですか?」

「凄く辛いです。風邪ってこんな感じなのですね」初めての辛さで、わたしは相手を気遣うことすらできなかった。それくらいしんどかったのだ。「全身がばらばらになりそうです」

「そりゃ、初めてであんなに飲めば風邪を引いたようにもなります」そこまで言ってから、文は探るように訊ねてきた。「もしかして、まるで覚えてない?」

 その問いに答えられないということは、覚えていないのだ。

「わたしは、何をしましたか?」どこまで記憶が残っているか、わたしはずきずきする頭を鼓舞しながら、何とか探ろうとする。夜、夕方、そしてもっと前。「大きな樽の山。そうだ、ここでお酒の飲み比べが行われた」

 それはゆるゆると続き、夕方になり、夜になっても勝負がつかなかった。そこまでは何となく覚えている。そこから先は黒い靄がかかっているかのように、何も見えず、また思い出せなかった。

「どちらが勝ったのですか?」

「守矢さんが勝ちましたよ。いやはや、人間には怖ろしい酒豪がいたものです。正に鬼の如くとしか言いようがありません」

 文の説明はあまりにも淀みなく、嘘くさかった。だから上手く開かない両瞼を必死にこじ開け、文の顔をじっと見つめた。

「本当ですか? 気休めなんて必要ありませんよ」

「今更そんなことを言って何になりますか」

「でも、まるで勝利したという感じがしないのです」

「酔って記憶を忘れれば、実感などあってないの如し。しかして事実はここにあり、十分に見届けられました。早苗さんはここにいて良いのです。そのことを喜ぼうではありませんか」

 その笑顔はどことなく胡散臭かったけれど、確かに気休めを軽々しく使うようなものではない。まだ一日の付き合いだけれど、そのくらいならば察することができた。

「分かったら安心して目を閉じてください。まだ酔いが覚めないでしょう?」

「ええ、そうですね」なるほど、この辛さは二日酔いに起因するものらしい。そこまで考えてから、わたしははてなと目を瞬かせた。「そう言えば、わたしはどうして二日酔いに苦しんでいるのでしょうか?」

「すいません、わたしが祝勝気分を盛り上げるため、無理に勧めてしまいました。早苗さんはお酒に弱く、しかも慣れていないため二杯三杯とするする飲んだから、倒れてしまったのです」

「なるほど、わたしはやはり飲めない側でしたか」何やら大声を上げていたこと、前後不覚で倒れたことが朧気に実感できた。「ご迷惑をおかけして、わたしこそすいませんでした」

「いえいえ、何というか、その、ねえ」文は後ろめたそうに視線を逸らし、小さく息をついた。「家族みたいなものになるのですから」

 文の言いたいことが上手く飲み込めなかった。そのことは本人も重々承知らしく、こほんと咳払いをしてからしずしずと頭を下げた。

「不肖ながらこの射命丸文、今日からこの家で暮らすことになりました。不束ものですが、宜しくお願いいたします」

 きちんと言い直したつもりだろうが、余計に訳が分からなくなった。文は天狗であり、ここに暮らす縁も謂われもまるでないはずだ。

「ちょっと待って下さい」自分の大声がずきずきと響き、わたしは心得て声の調子を落とす。「どうしてそうなるのですか?」

「それはわたしの台詞ですよ」殊勝な言葉の次であるというのに、文は唇を尖らせ、不満たらたらであった。「と言いたいところですが、結局のところは自業自得なのでしょう。わたしはこの件にいち早く足を突っ込んだ。あまりに早過ぎたのかもしれません」

「答えになっていません」文の言葉は己自身を騙そうと騙そうとしている。その己自身を知らないわたしに、何が知れるというのだろう。「頭が痛いんです。曖昧に語られても理解できません」

「わたしは窓口なのです。価値のある人間を、天狗が管理する。その有用性について、わたしは報告を行う。天魔様に酒で打ち克った事実と併せ、二人がここに住むことを担保してくれるでしょう」

 人間を籠中の鳥と表現したことは気に入らなかったけれど、大体の事情は把握できた。そうしてようやく、わたしは目の前の天狗に大きな迷惑をかけてしまったのだと気付いた。

「すいません。ここに住まわされるなんて、単身赴任のようなものでしょう?」

 山の中にあるとはいえ、元の共同体から離れて独りになるのは辛いことだ。わたしや祖母の我侭ゆえ不自由を強いるのは申し訳なかった。文はそんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、淡い笑みを浮かべるのみであった。

「気にしないで下さい。人間のように群れて暮らすわけでもなし、新聞記者をやめろというわけでもありません。書き物が少し増えるだけですし、わたしは書くことが嫌いではないのです。それに公然と新しい郷の住人に密着取材できます。悪いことばかりではありません」

「でも、先程まで不満そうだったではありませんか」

「そういう振りをしておけば、恩を売れると思ったからです」

「いま洗いざらい、胸の内を打ち明けてくれました」恩を売るのは諦めたのか、それとも押し通す気なんてなかったのか。それに文は結局のところ、わたしや祖母がここにいるために、力を尽くしてくれるのだ。「ありがとうございます。文さんは、親切なのですね」

 感謝の言葉を口にすると、文は僅かにそっぽを向いた。

「そう思わせるために、話の流れを組み立てたのかもしれませんよ」

「そんなことはないと思います」とはいえ、文が何らかの思惑を秘めてここに留まっているのは確かだろう。何もなければここからすいと逃げ出すくらいには、彼女は自由だからだ。「どちらにしても、こちらこそよろしくお願いします」

「まずはゆっくりと休んでください。風邪を引いているようなものですから。守矢さん共々、お世話します」

 わたしは頷き、ゆっくりと目を瞑り、そして妙に胸苦しいと気付いた。この感じは何だろうと考え、すぐに知れた。わたしは布団をめくり、もぞもぞと動いて着ているものを外に追い出していく。

「さ、早苗さん、何をいきなり……」

「服を着ていると、落ち着いて眠れない体質でして。すいませんが、洗濯籠の中にでも置いて頂けるとありがたいです」

 文は無言で頷きながらジャージの上下を掴み、伸縮する素材が珍しいのかびよんびよんと伸ばしていた。そんな微笑ましい光景すらも眠気は覆い隠し、あっという間に包んでいった。

 次に目を覚ましたとき、枕元では文が胡座をかいて座っていた。呻き声でもあげたためか、文はその目覚めをじっくりと待ち構えていて、そのことが少し気恥ずかしかった。

 体は未だに水を吸った真綿のようだったけれど、起きられない訳ではなかった。全身を覆う熱っぽさもなく、頭も殆ど痛くない。良い酒は気持ちよく抜けると言うけれど、二日酔いの後遺症はほとんどない。寧ろ低血圧から来る気怠さのほうが強かった。わたしはうんと体を伸ばし、辺りを見回して、自分の部屋でないことに気付いた。布団の側には真新しい下着に、秋物と覚しき洋服があり、わたしはぼんやりとしながら寒さにせき立てられて一つ一つ袖に通していく。着終えたところでもう一度体を伸ばし、眠気を追い払うと、ようやく動こうという気持ちになってきた。

「そうはいっても、何をしたら良いのか」掃除機も洗濯機も使えないでは部屋の掃除もできないし、どうしようと考えていたら、文がわざとらしくわたしに背を向けていることに気付いた。「文さんたら何をしてるんですか?」

「いやいや、いきなり着替えを始めたのはそちらでしょう。それとも赤の他人に一部始終をじろじろ見られても良かったのですか?」

 文の指摘でわたしは行儀の悪い所を見られたと気付いた。意識されると何だか急に恥ずかしくなり、そのことを察してくれた文の行動にありがたさを覚えた。

「文さんって紳士なんですね。女の方ですから淑女と呼ぶべきかしら」

「どちらでも構いませんし、別にそんな……」文はもごもごと口を濁してから、わざとらしく目尻の下がった笑みを浮かべた。「そうですね、逐一観察しておくべきでした。折角の無防備なのですから」

「むう、さっきの発言は取り消します。文さんたら親爺臭いです」

 わたしの指摘に文はよろめき、小さく息をついた。どうやら少なからず自覚があるらしい。

「まあ、何はともあれ体調が戻ったのは何よりです。守矢さんも元気になりましたし、これでようやく出かけることができます」

「今日も取材ですか? それでしたら……」

 頼みたいことがいくつかあったのだけれど、文はその前に首を横に振った。どうやら取材ではないらしい。

「ここで暮らすからには、元の住まいから必要なものを持ち出す必要があります。客間の一つを使うことは既に了解を得ていますから、後は運び込むだけです。ついでに知り合いの河童を見つけて、交渉をつけておきます。他に何か頼みたいことはありませんか?」

 早口でまくし立てる文の言葉を反芻し、わたしは一つだけ付け加えた。

「火を熾す道具がありましたら、お願いします」

 家にはマッチとライターの蓄えがそれなりにあるはずだけど、それだけに頼る訳には行かない。それに幻想郷流の火熾しを学ぶ必要もあると考えたからだ。火は生活の要である。

「了解しました。守矢さんからも同じことを頼まれましたから、見繕って持ってきますよ」

 祖母もわたしと同じで火が大切だと考えたらしい。幻想郷にはおそらくいくつもの乾燥食品が存在するはずだけれど、レトルトほどの便利さはないだろう。燃料と食料を貯蔵するための倉庫も必要だ。ここは高所だから蠅も鼠も湧かないと思うけど、湿度が高いから腐敗速度は麓とそう変わらない気がした。

「考えることが色々とありすぎる」

「そういうときは、焦らないことが肝要です。できることから一つずつ、固めていきましょう」

 文の言うとおりだった。焦っては駄目であるし、ここではゆったりと時間が流れる。勉学に追われることもない。そう自分に言い聞かせると、飛び立つ文を見送る。彼女はまるで風のように、あっという間に視界から消えていった。

 

 祖母の姿は居間で見つかった。飲み比べのために移動されていた座卓は元通りになっており、祖母は何も移っていないテレビをぼんやりと眺めていた。まだ体調が優れないかと思いながら声をかけると、祖母は柔らかい苦笑を浮かべた。

「この時間はいつもテレビだったから、ないと落ち着かないね」

 思わず時計を見ると、一時を少し回ったところであった。

「働いていた頃は昼間にテレビを見っ放しの生活なんて想像もできなかった。わたしは能動的に教える立場の人間だったから。でも、老骨になってさえ、人間は変わる。堕落する。老後の使い方というものをまるで追求して来なかったからかもしれないね。がむしゃらに戦後を生き抜いてきた世代にはそういうものが多い。そうして働き終わると、抜け殻のようになるのさ。中には新しい生き甲斐を見出すものもいる。わたしは仕事に使っていた時間を、子育てに使ってきたから張りのある余生ではあったけれど、それでも文明化された世界は、老人に暇を押しつけてくる。老人の多くは、暇でなどありたくないのにね」

 半ば愚痴のような、自省のような独白であった。あるいはわたしを少しでも励ましたかったのだろうか。祖母は続けて、仕方なさそうに息をついた。

「中学に入ってからは、早苗がこのテレビでゲームをするようになったね。文字や登場人物が細かくて、全てを楽しむことはできなかったけど、早苗が楽しそうなのでまあ良いかと思った。目を悪くするのではないかと、時々は気になったけれどね」

「おばあちゃん、わたしよりゲームが強くなっちゃったよね」

 一人で落ち物パズルをやるのは味気なく、相手をしてくれる友達もいなかったから、祖母にせがんだのだ。最初こそこちらが教える側だったけれど、いつの間にか十連鎖を普通に決めるようになり、わたしでは歯が立たなくなったのだ。悔しかったけれど、ネットワーク経由での対戦が脳卒中のリハビリにかなり役立ったのだから、物事というのは割とよく出来ているのかもしれない。

「もう、できないね。わたし、もう少しでクリアできそうなゲームがあったんだよ」自室にある携帯用ゲーム機には、戯画化された陪審員裁判を楽しむゲームが刺さっている。丁度バッテリーが切れたばかりで充電もしていなかったから、続きは永遠に霧の中だ。「残念だなあ……」

「ここには名残りがある。その全てが、やがて消えゆくだろう。それでもわたしたちはここで生きていく、ことになるはずだ」

 半ば覚悟はできていたはずだけど、わたしは頷くことができなかった。自分で認めてしまえば、後戻りできないと感じたからだ。わたしはその代わり、昨日と同じ質問を祖母にした。

「おばあちゃんはどうして、ここに住みたいの? 山の上で苦しい生活を強いられるというのに」少し躊躇ってから、わたしは霊夢の話してくれた説を投げかける。「信仰を集め、神を喚び戻すため?」

「かもしれない」祖母は否定しなかった。「わたしや早苗は、祭祀者としての役割を忘れ去られたため、ここに来た。同じくらいに忘れ去られた神が、やってきていけないという道理はない。というより、ここに社が立ったならば、それはある意味、道理ではないかと思うんだよ」

「ここが神の在るべき新たなる地、わたしやおばあちゃんは……その先駆者であるということ?」

「わたしたちがここへ来たことに意味はない。しかし新たな意味を作ることはできる。そういう意味を」

 祖母の言うことは謎かけめいていて、わたしにはよく分からなかった。でもその決意が固いということは厳しく引き締められた表情からよく分かる。祖母は未だに祭祀者の心を持ち続けているのだ。

「もちろん、これはわたしの我侭だ。早苗が付き合うことはないよ」

「おばあちゃんを一人になんてできない」

「一人じゃないよ。あの天狗がここに詰めてくれる。ぶつぶつと不満は言うだろうが、気は悪くないから雑用くらいならこなしてくれるだろう」

「それでも、わたしはここから離れない」祖母の体調だけでそう主張しているわけではない。そのことを分かってもらうために、わたしは少しだけ強く言葉を押し出した。「ここではおそらく、いかなる不思議も許される。信仰でさえも。それならばわたしは、神と向き合いたい」

 外の世界で、わたしはその存在を身近にしながら、まるで向き合おうとしていなかった。だから今や、神がどのような姿形であったかさえ満足に思い出せない。それでも、神は消えてしまうまでわたしの側にいてくれた。きっと、わたしに伝えたかったのだ。

「神がいたから、わたしは力を持つ孤独に押し潰されなかったのではないかと思うの。その恩に報いたいし、それに」わたしは昨日、文に見せてもらった光景を思い出す。「ここはとても綺麗。夏はとても鮮やかで、秋はきっと彩りや実りに満ちている。冬はとんでもなく厳しいかもしれないけれど、火を囲んで語らえば良い。そうしてやってきた春を、新しい季節を目一杯、謳歌するの。わたしと、おばあちゃんと、神様。二人と一柱。慣れなくて苦しいかもしれないけれど、わたしきっと大丈夫だよ」

 わたしはまだ、この世界のことをほとんど知らない。でも今は、この答えで良いと思った。わたしは息を吸い、大きく吐く。こんなにも自分の想いを全力で伝えたのは初めてだったからだ。

「早苗の気持ちはよく分かったよ。でも、一つだけ忘れてはいけないことがある」

「一つだけ? 沢山ありすぎて、絞りきれないよ」

 炊事洗濯云々と思いを巡らせていたら、祖母はくすくすと笑いながら答えを言った。

「天狗の居候のことを忘れてはいけないね。二人と一人、それに一柱。彼女がいれば、早苗も寂しくはなくなるだろう」

「別にいなくても良いのですよ、あんなの。口が悪くて嫌な奴だし」

 頬を膨らませながら訴えると、祖母は顔から笑みを離さず、わたしは釈然としなかった。でも、確かに文がいればそうそう退屈することはなさそうだった。それに文の存在を認めて初めて、わたしはここで暮らしていけるなと、確信することができた。

 そんなわたしの気持ちを知ってか知らずか、祖母は厳かな表情をわたしに向けてくる。

「これからは庇護し、される関係では通用しない。わたしも早苗に、生きていくため様々な無理を言うだろう。時には意見がぶつかって、喧嘩するかもしれない。気まずくなることはあるし、互いに顔を合わせたくないと思うこともあるかもしれない」

 そんなことはないと言いたかった。でも、ここには瓦斯も電気も水道もない、厳しい高地だ。祖母のような人格者であっても、担保できないものがあるのかもしれない。否、わたしが祖母に当たり散らす可能性のほうがずっと大きいはずだ。そんなとき、わたしはどうすれば良いのだろうか。

 その問いに、祖母はきちんと答えを用意してくれていた。

「でもね、どんな時でも早苗はここにいて良いんだ。わたしがいなくなれと願った時でさえ、ここにいて良いんだよ。そのことを忘れないように。決して、忘れないようにしておくれ」

 強くて優しい言葉だと思った。矛盾しているけれど、言いたいことはよく分かった。それがきっと、家族というものなのだろう。だからわたしたちは神を、おそらく家族として迎え入れるのだろう。

 文のことは? もちろんそうだろう。神でさえ家族として迎えようと考えるほどなのだから、妖怪とてそうであっていけないという道理はないはずだ。人間と神と天狗が一つ屋根の下だなんて有り得るのだろうか。この郷に不慣れなわたしにはまるで分からない。

 でも、そうであって欲しいと思った。

強く強く、思った。

10

 少しするとお腹が空いてきたので、冷蔵庫を覗いてみる。生で食べられそうなものといったら、胡瓜とキャベツくらいのものだった。わたしはそれらに塩をかけ、ぽりぽりと食べる。最初こそ胃が重たかったけれど、少しすると頻りにぐうぐう鳴り出して、わたしに更なる食べ物をせがんできた。

「火が使えないと、どうしようもないなあ」もう一度ガスコンロのつまみをひねってみるけれど、一瞬だけ青白い炎が浮かんだだけで、あっという間に消えてしまった。どうやらガスボンベはこちらの世界にやってこなかったらしい。「それくらいの融通、利かせても良いと思うけど」

 仕方がないので、外に出て薪を集めることにした。あてはなかったけれど、燃料があれば簡単な料理くらいなら何とか作れるのではないか。そんなことを考えながら外に出て、そこでわたしは食事のことなど忘れてしまうかのような光景に遭遇した。地面の至る所に亀裂が走り、密に咲き誇っていた高山植物や、疎らに葉をつけていた木々が広範囲にわたって無惨に押し倒されていた。まるで突風と地震が同時に起きたかのようだ。

 わたしは慌てて祖母の元に戻り、ことの次第を報告した。既に状況を察していたようで、祖母はやれやれと言わんばかり、首を大きく横に振った。

「酔いどれた天狗の頭領が、上機嫌で妙な術を使ったらしくてね。辺りがまるで台風のようになったんだよ」

 分かりやすいしかめ面をしているところからして、余程の酷さであったらしい。そう言われると月夜に暴風の真っ直中を、ぼんやりと立ち尽くしていたような記憶が微かだがある。

「文と椛の二人で、必死に抑えてようやく何とかなった。一時は家が吹き飛ばされるかと思ったくらいだよ。流石は天狗たちに畏れられるだけのことはある。酒とはいえ、よくぞ勝てたものだ」

 あの無惨さを見たからこそ、頷かざるを得なかった。文が天狗は怖ろしいと口を酸っぱくして言っていたのも、今なら理解できる。わたしと祖母はとんでもなく脆いロープで綱渡りをしていたようなものなのだ。

「そう言えば、お二方は帰られたのですね。文さんがいたことは朧気ながらに覚えているのですが」

「ことが終わると恐縮しながら帰っていったよ。流石の天狗でも、いやだからこそ深酒して前後不覚になるというのは恥ずかしいことらしい。ここを文に任せ、椛が支えながら去っていった。正式な通達は後日、大天狗の集会にて行われるらしい」

「大天狗の集会、ですか?」物々しい雰囲気が感じられる催しであり、わたしは俄に不安を思えた。「何故、そのような場を?」

「お披露目ということらしい。そこであの天魔さんが、大々的にかつ威圧的に発表して、反対意見が出ないうちに押し通すそうだ」

 なるほど、その辺りの演出や根回しは人間の社会とそう変わらないらしい。日本でも獅子に似た髪型の総理大臣が、同じような手法を用いて長らく世相を操作してきた。十年という異例の長期政権は、日本を底のない不況から引き上げた代わりに、非合理的なものを改革と称して排する強引さも秘めていた。あと数年続けば、単に自社仏閣を参るだけでも何らかの罰が課せられるような法案が通っていたかもしれない。日本は戦後以降、さもすればそのような方向に走る国で在り続けている。

「嫌そうな顔をしないでおくれ。若いうちはこういうことを嫌うと分かってはいるし、その反応は好ましいとも思うけれど」

 祖母はわたしが清廉であると誤解したらしい。神を蔑ろにするような政治に対する嫌悪感であったが、ここで口にしても詮無きことだろう。わたしは異論なしとばかりに頷いた。

「天狗党という厄介な一派がいるらしい。天狗であることの誉れを何よりも重視し、人間に畏怖を与えるための定期的な人さらいを復活させると公言しているそうだ。酒の飲み比べに勝ったという事実だけでは彼らを抑えるのが難しいから、派手なパフォーマンスを見せつける必要があるらしい。幸いなことに天狗党は若くて実力のない天狗の集まりに過ぎないから、大勢の支持を取りつければ手出しできないとのことだ。頭領直々の友人で、天狗の盟友ともなれば、害すれば大義名分はおろか、色々な面子を潰すことになるからね」

 天狗とて必ずしも一枚岩ではないということらしい。わたしはようやく、問題がさほど解決していないことを理解する。

「すると、昨夜の飲み比べにはどんな意味があったんですか?」

「前哨戦みたいなものだろうね。絶望の宴はこれから始まるのか、あるいは希望となるか?」祖母は芝居がかった調子でそんなことを口にする。「そうあれかしと、願うしかない。ただし、頭領が味方であるから案外、マッチポンプということになるかもしれない」

「そこまで手を回してくれるかなあ」

 常に計る視線で見る冷静さゆえにおそらく頭領の座を勤めている。新たな厄介の種を敢えて持ち込もうとするだろうか。いかに勝負で敗れたとはいえ。

「惚れた女のためならばと言っていたけどねえ」

 あまりの発言に、わたしはコントのように転げるところだった。そして何気に怖ろしいのは、祖母が満更でもなさそうな表情であるということだ。

「この老骨はあと十年保たないだろうと言ったら、それでも構わないんだとさ。愛に時間は関係ないらしい。一瞬とも言うべき永遠があれば良いと。困ったものだよ、天狗に娶られるなどと可笑しい話さ」

 時間のない人間からすれば、騒がしくしたくないのかもしれない。

「まあ、結婚は最後の切り札だね。宴で収まらなければ、電撃的に発表されることになるかもしれない」

 それは正に昨日、わたしが頑として拒んだことであった。

「そういうの、わたしは嫌だな」

「昔は恋愛結婚のほうが余程、珍しかったよ」祖母はわたしの嫌悪をあっさりと受け流し、続けてしみじみと語ってくれた。「幸いにして良人だったから、わたしも素直に慕うことができたけどね。そんなわけで愛から始まらない結婚には慣れているし、苦とも思わないわけだ」

 祖母に抗弁するには、わたしは余りに幼く、ことを知らなさすぎた。ましてやあんなことを起こしたわたしが、何か言える資格もないと思った。もちろん、祖母はそんなことを指摘したかったわけではないだろうが、心なしずきりと胸が痛んだ。

「とまれ、彼がどれほど本気であるのか。楽しみでもあり、不安でもありと言ったところだよ」

 顔は笑み、心は座り、祖母は僅かに帯びていた不安をどうやら完全に払拭したようだ。あるいはわたしの前だからこそ、気丈に振る舞っているのかもしれないが、つまり大人でいられるほど落ち着いている。わたしはいちいち不安で仕方ないのだけれど、これも重ねてきた齢の差なのかなと思った。

「話は脱線したけれど、だから心配することはないよ。そう言えば、早苗はどうして外に?」

「薪を集めようと思ったの。単純な煮炊き程度の料理なら、燃やすものがあれば作れると思って。足の早い食べ物は早めに火を通しておきたいし」

「そうか、家事の仕組みが大幅に変わるのだったね。すると、早苗に仕込み直さなければいけないか。掃除や洗濯にも電気は使えないし。そうだね、文が戻ってきたら試してみよう。火を打つ練習も兼ねて」

 マッチかライターを使うつもりだったけれど、節約しておきたいらしい。さもありなんと頷き、わたしは溜息を辛うじて噛み殺した。

「戻ってくるまで、どれくらいかかるかな?」

 何気なく聞いたつもりだったけれど、体は正直だ。食べ物のことを考えるだけでお腹がきゅうきゅうとなり、わたしは赤面するより他なかった。

「困ったねえ。さりとて、ここには一食を作るだけの燃料すらない。小枝を集めてこようにも、濃霧と高所の気候で湿っているだろうし」

「わたしなら、もっと下の方まで行って、薪を取ってくることもできると思うけど」

 少しだけ飛んで行き、燃えやすい薪を集めて戻る。特に問題はないと思ったけれど、祖母は難色を示した。

「事情を知らない天狗に遭遇する可能性があるから、あまり動かないほうが良いと言われた。早苗が遭遇した天狗は話が分かるものばかりだったけれど、皆がそうではないらしいからね」

 祖母は天狗党のことを暗に述べているのだろう。昨日は特に身を隠すことなく飛んだけれど、今から考えればあまり良くなかったのかもしれない。

「じゃあ、わたしたちは何もできない。下手すると飢えるかも」

 生まれてからこの方、食べ物に不自由したことのないわたしには、飢えがどういうものか分からなかった。しかし祖母が厳しい顔を見せたから、唯ならぬものであるとは検討がついた。

「そのために、頭領は天狗の住み込みをここに置いたのかもしれない」

「でも、文さんはは人間の頼みに唯々諾々と従うとは思いません」

「普通の人間なら駄目だろう。早苗なら、頭を下げれば聞いてくれるかもしれない」

「わたしでも変わらないよ。それに……」わたしは文にあまりぺこぺこと頭を下げたくなかったのだ。「どうしてそんなこと言うの?」

「さあて、まあ年寄りの勘みたいなものだよ。おや、どうやら噂をすれば影のようだ」

 わざとらしく空を見上げた祖母につられ、わたしも同じほうに視線を向ける。すると明らかに不格好な荷を背負い、こちらにやってくる文の姿が遠めに見えた。空気を歪め、より遠くを望めるようにしてから再度焦点を合わせると、棚に色々な荷物を更に括りつけているのが見えた。昨夜の椛ほどではないけれど、何とも大仰な姿だった。

 文はわたしの目の前に降り立ち、よいこらせとかけ声をかけながらどしりと荷物を置き、照れ臭そうに頬をかいた。

「面倒臭いので、一度に持ってきてしまいました」

「いやはや、天狗というのは剛毅だね」祖母は半ば呆れた様子だった。「随分、目立っただろうに」

「滝までは空を飛ばずに背負ってきましたし、昇りきるまで椛に見張ってもらいました。抜かりはありませんよ」

 祖母は疑いの眼差しを向けながらも、大勢では納得したようで小さく頷いてみせた。然るに文もそれなりの意識を持ち、この件に望んでいるようだ。のほほんとしているのはわたしだけであり、危機感が足りないと内省する反面、自分だけ必要な情報を知らないという反発心も覚えた。だから少しだけ、言葉が刺々しくなった。

「夜に紛れて、逃げ出すようにすればもっと見つかり難かったのでは?」

「妖怪は夜のほうが強くて活発ですし、烏天狗だって夜目くらい利きます。おまけに気配が鋭くなるので、隠密行動が発見されやすいのです。昼は当然ながら明るくて、何かしなくても見えるから気を張らないのですよ。天狗というのは組織的ではありますが、同時に物臭でもありますからね」

 懇切に説かれるとわたしの無知と自分勝手がいよいよ浮き彫りになる。それでも素直に頷けなかった。

「外世界は人外がそれらしく存在できない領域となっているそうですね。故に実感できないのかもしれませんが、妖怪は基本的に夜行性であり、また月齢に左右されます。満月の夜に吸血鬼とまでいけば極端ですが」

 文はまるで吸血鬼が実在するかのように語る。否、ここは幻想郷なのだから実際にいるのだろう。

吸血鬼と言えば、ホラーやファンタジーによく出てくる想像上の怪物である。耽美から醜悪まで様々な形に描かれ、夜を駆るその姿はわたしの憧れであった。しかし今は、現実と空想をごっちゃにしているときではない。現実の空想と向き合うときだ。

「人間上がりとか、そういった特殊な事情がない限り、妖怪は夜の生き物であると心得て下さい」

「すると、文さんもそういった特別を持っているのですか?」

 ふと疑問に思って訊ねると、文はわざとらしく手帖を取り出した。

「わたしはですね、人間を筆頭にそういった特殊ものを取材することが多いので、昼間によく現れます。もちろん夜の住人も取材しますから、必ずしも昼だけの存在ではありませんが。わたしは無理をすれば、七日七夜程度なら十分に起きていられますから」

 それもまた天狗の力なのか、あるいは修羅場を迎えた記者の成す無理無茶であるのか。おそらく両方合わさっているのだろう。

「そんなわけで昼夜問わず、家を飛び出して若干煩わしく思えるかもしれませんが、ご容赦を。さて、もう少しすれば来客があります。それまでに運び込んでしまわなければ」

「客人ですか?」わたしの頭に浮かんだのは童天狗の天魔さんと、犬耳……もとい狼耳と尾を生やした木訥な白狼天狗の姿であった。「昨日のことで何かあったのでしょうか?」

「昨日? いえいえ、客人というのは河童ですよ、河童」大事なことであるのか、文は二度繰り返した。「知り合いに話をつけると言ったでしょう? 椛の所で将棋を打っていたので、他言無用と念を押して依頼すると、瞳を輝かせまして。何はともあれ一度見せろと。昨夜に派手な飲み会があって、家人は疲れていると言ったのですが、興奮して話を聞かず、工具やら何やらを取りに戻ってしまいました。荷物を背負っていなければ止められたのですが……」

 文は言い訳をまくし立て、それからちらちらと様子を窺ってきた。

「早苗さん、守矢さんともに体調のほうはどうでしょうか? どうしても駄目だと言うならば、わたしが責任を持ってお引き取り願いますが」

「わたしは大丈夫だよ。良い酒だから、翌朝にはするりと抜けた」

「わたしも平気です。ええ、平気ですとも……」

 意気込んだのがよくなかったのだろう。わたしは再度、盛大にお腹の虫を鳴らしてしまった。またぞろ茶化されるかと身構えれば、文は苦笑を全力で抑えながら、それでもわたしの空腹を気遣ってくれた。

「お腹が空いているのならば、良いものがあります」

 文は荷物をごそごそと漁り、紙袋を取り出してみせる。するとどこか懐かしい、醤油の焦げた味が現れ、わたしの鼻腔をすいとくすぐった。

「お煎餅です。少し湿気ていますが、十分にぱりぱりです。これだけでは喉が乾くので」文は再度、荷物を探ると今度は見事な形の瓢箪を取り出してみせた。「これで喉を潤してください。少し口をつけましたが、気にしないでもらえると幸いです。他に何か必要なものはありますか?」

「いえ、大丈夫です」見知らぬ誰かと出会うような気分では微妙になかったのだけれど、おそらく長い時間介抱してくれたのだから、我侭は言えなかった。「ありがたく頂きますね」

 文は気さくな笑みを浮かべ、それから祖母に部屋の場所だけでなく、薪や食糧を置く場所も訊ねた。手にできるだけの資源を持ち寄ってくれたらしい。

「わたしが以前に使っていた教本やら、雑多ながらくたを保管してある物置がある。薪は取りあえずそこに運ぼうかね。食べ物は文の言う河童の技術屋が来てから決めるとしよう。写真現像用の暗室は、やはり物置かね。半地下で陽光の当たりにくい部屋はあそこだけだから」

「そこまで広くなくて良いですし、厚いカーテンを引けば十分に代用できます。しかし配慮することが案外に多いですね」

「一度、家を壊して建て直したほうが良いのかもしれないね。やれやれ、文明は退行というものを許さないものらしい」

「何だか、身につまされる言葉です。やはり天狗の文明はごっこ遊びということなのでしょうか」

 祖母は批判したかったわけではないだろうが、誇りの高い天狗に取っては自らの拙さを示されたも同然なのだろう。文はむっつり押し黙ると、祖母の言った通りに荷物を運び始める。引っ越しに慣れているわけではなさそうだが、女手に見えて怪力無双である。危なっかしいと声をかけそうになるほどの荷物を抱えて数往復で、取りあえず新しい場所に荷物を引き込んでしまった。

「確かに、労働力として加えることができたらこれほど力強いものもないかも」

 しかし本当にわたしのお願いだけで、大丈夫なのだろうか。確かに昨日は色々と案内してもらったけれど、それは取材の一環かもしれないし、実際に相手したからこそ分かることもある。文は簡単に胸襟を開くような性格ではない。わたしに複数の隠し事をしている。半分は勘みたいなものだけど、きっとそうだろう。わたしも隠していることがあるから他人のことは言えないのだけれど。

「文さんはきっと、どこかで割り切ってしまうんだろうな」

 その線がどこにあるかは分からないけれど、踏んづけたり越えたりするのが怖いなと思う。何といっても、この世界でわたしに初めて親切にしてくれた人なのだ。嫌なところもあるけれど、わたしは……近付きたいなと思っている。単に見知らぬ世界で寂しいだけかもしれないけれど。

「おや、黄昏ていますね。何か新しい憂いごとでもありましたか?」

 当の本人に背後から声をかけられ、わたしは自分でも吃驚するほど反応してしまった。文は振り向くわたしに、猫のようなにやにや笑いを浮かべてみせた。

「もしかして、わたしのことを考えていましたか? あの素敵で格好良くて高貴な天狗様とどうすれば仲良くなれるんだろう、などと思っていたとか」

「そんなことないです。わたしは文さんのことなんてこれっぽっちも考えていませんでした」

 これから家で暮らすのだから、家事を分担しろと言いつけるつもりだった。でもすんでのところで躊躇われた。わたしの言葉に予想外のショックを受けたようであったからだ。そのことが何となく切なくて、わたしは思わず弁解の言葉を口にしていた。

「わたし、自分のことしか考えられないくらい、色々なことが怖ろしいんです。これまでの常識がまるで通じない場所であるというのに、食事を作ることも風呂を炊くこともできない」

 一日以上も入浴していないことを思い出し、わたしは自分の体に嫌悪感を覚える。すると文は不躾にも、首筋に鼻を寄せてわたしの臭いを嗅ぎ始めた。

「別に臭くありませんよ。わたしも昨夜は入浴していませんが、特に問題ないはずです」

 そう言って文は脇を上げ、同じことをしろとアピールしてくる。わたしは仕方なく文の脇に鼻を寄せたけれど、ほんのりと甘い香りが漂うだけで不快な異臭はまるでしなかった。もっとも代謝の仕組みが人間と違う可能性もあるから、わたしが臭くないという保証にはならないのだけれど。

「ほらね、大丈夫でしょう? それに夏場なら水浴びで済ませてしまえば良いのですし、冬は汗をかかないから数日に一度で構いません。食事なんてもっと簡単です。風を操って火加減を調節すれば良いんですから。早苗さんならすぐ身につけることができます」

 文はそう言って、片目を瞑ってみせた。

「慣れないうちは、わたしが手伝います。いつまでも寄りかかられるのは困りますが」

「皆まで言わなくても、分かっていますよ」

「困ったことがあったら遠慮なく訊いてください。人間如きの悩みであれば、たちどころに片づけてみせましょう」

 文は実にひねくれた傲慢さをわたしに示した。もしかすると、英語で言うところのノブレスオブリージュに似た精神なのかもしれない。人間と共に暮らすことで損なわれた誇りを偉ぶることで補填しようとしているのかもしれない。あるいは単に歩み寄ってくれたのかもしれない。どちらにせよ、心の中に巣食っていた不安や諸々が文の保証で嘘のように軽くなっていた。

「ですから早苗さんは、まな板に乗った鯉のような気持ちでいてください」

「いやいや、それはおかしいですよ」明らかに用法が違うので、芸人気質でないわたしでも、即座に指摘せざるを得なかった。「料理される鯉の気持ちだなんて、不安で一杯じゃないですか!」

 文はうっかり間違えたとばかりに頬をかき、悪戯小僧のような笑みを浮かべる。それで彼女に覚えていた鬱屈も不思議と晴れたような気がした。しかし、次の一言が全てを台無しにした。

「ともかく、これで格好良くて素敵なわたしとどうやったら仲良くなれるか、考える時間ができたということですね」

 また体の良い冗談かと思えば、文は割と本気のようだった。

「えっと、冗談抜きで言っているんですか、それ」

「わたしが人間に、こんなにも歩み寄っているのですから。少しくらい考えてくれても罰は当たらないと思いますよ」

 なるほど、どうやら天狗は人間に対して良くも悪くも貴族的な気持ちしか抱けないらしい。ならば、こちらとしてはできる限り利用するだけのことだ。仲良くなった振りはする、でも心を許したりはしない。

 貴女が線を引くならば、わたしも線を引こう。生活を楽にしたいから頼るけれど、それ以上の介入は許さない。祖母は家族と言ったけれど、わたしは同じ屋根の下に住んでいる客人としての扱いを崩さないと心に決める。歩み寄ってくれるならその限りではないが。

 それだけの決意が何故かとても重く、わたしは文に気持ちを悟られないよう、明るい笑顔を装って言った。

「分かりました。これから毎日、決まった時間に文さんのことを考えて過ごすことにします」

 すると文は自分からの提案だというのに、微妙に困った様子を見せた。わたしが何を考えたのか悟られていないことは明らかで、何故ならばわたしの言葉に、無邪気に喜んでみせたからだ。

「それは素晴らしいことですね。善処を期待します」

 わたしは曖昧に笑み、辺りには微妙な沈黙が訪れる。おそらく人間同士では訪れない状況に居心地の悪さを覚えていると、外から「もしもし、誰かいますか」と、聞き覚えのない高音気味の声が聞こえてきた。

「あの声は河童ですね。わたしが引き合わせますから、任せられるかどうかを見極めてください。わたしは信用できると考えていますが、人間からするとそうではないかもしれません」

 天狗が愛想良くても決して人間と同じ目線に立たないように。わたしは心中に述べると、祖母を呼んで三人で玄関に向かった。

11

 家の前に立っていたのは、鮮やかな緑青色のつなぎに同色のスカートを着た、わたしより数歳ほど年下に見える少女であった。復員兵が背負っていそうな背嚢を担ぎ、服についた沢山のポケットからは無骨な工具がはみ出している。十の指はところどころ傷や黒ずみがあり、心なしか鉄と油の臭いがした。微かに緑がかった黒髪を左右で縛っており、その上にぺたんこの帽子を被っている。

 このようないくつかの特徴を除けば、彼女は普通の女の子とまるで変わらなかった。しかして、ここは妖怪の山であり、生身の人間なら辿り着くこと叶わない場所だ。彼女が文の話していた河童なのだろう。その割には泥臭さもなく、肌が緑というわけでもない。背中の甲羅と頭の皿は見えないけれど、天狗が人間とそっくりなのだから、彼女もまたそうであっておかしくなかった。

 彼女はどこかおどおどした様子でわたしと祖母を見やり、文の顔を見つけてようやく気を持ち直した。人見知りするのかもしれない。わたしも同じような性格だから、見ず知らずの他人に曝される怖さは何となく理解できる。わたしは彼女を怯えさせないよう、機を見てそっと言葉を押し出した。

「こんにちは。貴女が、文さんの話していた河童ですか?」

「あ、はい、そうです。河城で、にとりです。あの、名字が河城で名前がにとりなんだけど……いえ、なのですが」

「無理して丁寧に喋らなくても良いですよ。わたしは東風谷、早苗です。東の風に谷でこちや、早いに苗で早苗です」

「うん、早苗さん、だね。わたしは、にとり、なんだけど」

「はい、にとりさんですね」

 しどもどして捗らない会話に、わたしは焦らず言葉を返していく。

「ごめん、何だかこういうの苦手なんだ。緊張すると、言葉が認識から離れていくような気がする」

「分かりますよ。わたしも本を読んでばかりの時はそうでした。相応しい言葉を慎重に探してしまう。本当はもっと適当で良いのに」

「そう、そうなんだ。わたし、慎重になっちゃうんだ。でも、それだと上手く伝わらなくて。軋轢が酷くなることがあるし、面倒臭いから実力行使って気持ちになるんだ。わたし、そういうのも得意だし」

 にとりは誇らしげに鼻を掻き、無邪気な笑みを浮かべる。それからしなびた胡瓜のようにしょんぼりとしてしまった。

「良くないんだけどね。皆からもよく言われるんだ。集中力とそこから生み出される技術は凄いけれど、伝えるのが下手だって。確かにわたし、自分の中にあるものを伝えられないんだ。だから集団作業は苦手で。でも一人だって大丈夫だよ。早苗さんはこの家のこと、見て欲しいんだよね」

「はい、そうです。この家に使われている技術がどれほど転用可能なのか、どう手直しをしたら良いのか、できれば見極めて欲しくて」

 にとりはふむりと頷き、家の壁をこつこつ叩く。

「漆喰のようだけど、色は鼠色に近いし、おまけに信じられない硬度と来ている。特殊な石や砂を砕いて、水と一緒に練ったのかな? でも河童すら知らない調合だ」

「それはコンクリートというものです。作り方は概ね、にとりさんの言われた通りです」

 早苗にとっては当たり前のことであったけれど、にとりにとっては未知の存在なのだろう。むしろ初見でそこまで見抜いた慧眼を評価するべきだと思った。

「原材料とか分かるかな? この硬度が再現できれば、河童の里にとって革新になること間違いなしだ」

「いえ、この家は外世界の大工が建てたものですから。強度や材料のことまで詳しくは分かりません。でも研究したいならば、隙間風が入らない程度でサンプルを採集しても良いですよ」

「本当?」にとりは打ち解けたのか興奮したのか、技術者の手でわたしの柔な手をぎゅっと握りしめた。「人間は盟友だけど、早苗さんはその中でも特別だよ」

 何とも現金な物言いだったけれど、にとりの笑顔があまりにも天真爛漫だったから、わたしは何も返すことができなかった。

「こほんこほん」文が後ろからわざとらしい咳をする。「友誼を称え合うのは後にして頂けると助かります」

「ふむり、確かにそうだ」にとりはひょいと手を離し、まずは家の外側を屋根も含めて丹念に見て回る。わたしが何の変哲もないと思っていた所に、にとりは強い驚きを示し、時には虫眼鏡で細緻に観察するという詳細ぶりだった。ぐるりと一周し、にとりはそれだけで目が回りそうになっていた。

「精確に切り揃えられた木材、混ざりもののない透明なガラス、年季が入っているのにひび割れもほとんどない屋根瓦、排水や風通しは細かい所まで気が使われているし、薄ぼけた風情とは裏腹、高度な技術の塊と来たものだ」

 にとりはぶつぶつと呟きながら、口元に手を当て、何やら熟考し始めた。

「妹の言葉はある意味、正しかったのかもしれない。かつては不実だと思ったものの、うむむ……」

 そうして遅れた待ち合わせ相手に苛立つかのように、狭い間隔を言ったり来たりする。流石に目に余って、わたしはそっと声をかけた。

「あの、にとりさん?」

「ひゅい!」それなのに、にとりは癇癪玉が破裂したかのような驚きをみせた。「ああ、早苗さんか。驚かさないでよ」

「いや、驚いたのはこちらですよ。いきなりぶつぶつと、さては麻薬を常習する探偵か、卵頭の探偵かといったところでした」

 わたしの指摘でにとりはようやく我に返ったらしい。先程までの活発さが嘘のようにしゅんとうなだれてしまった。

「ごめんなさい。なんかこう、没頭すると周りが目に入らなくなることがあるんだ。昔ほどじゃないけれど、うん、気をつけてはいるんだよ?」

 にとりは首と手足を器用に回し、それ以上は何も言うことなく、断りなしで家に入る。どうにも気質の安定しない娘……もとい、河童のようだった。

「なるほど、文さんが才童と言った意味、分かった気がします」

 良くも悪くも己の求める所に一途なのだ。良い方に向かえば、無類の才能と集中力を発揮するけれど、それ以外のことを省みる努力をしばしば怠る傾向にある。本人に自覚があるからまだ常識的な範囲で収まっているのだろう。それすらもない天才は世間に貢献できる反面、周囲にとっては天災なのかもしれなかった。

「性格に難ありかもしれませんが、才能は確かですよ。でも、驚きました。彼女は人見知りが激しいのに、初対面で打ち解けていたではありませんか」

「早苗も没入するタイプだからね。馬が合うのだろう」

 祖母の言葉は半分だけ本当で、半分は嘘だった。わたしは秀才であっても才童では決してなかったからだ。物語に没入することを好んだけれど、たった一つの蹉跌で失ってしまった。

「おーい、早苗さん。早く早く!」

 感慨に耽る暇なくにとりの声が聞こえ、ありがたいと感じた。彼女の明るさやひたむきさに触れていれば、わたしもつられて笑うくらいはできそうだった。惨めなわたしを思い出さずに済みそうだった。

 にとりは律儀にも玄関で待ち続けていた。肝心なところで行儀の良さが出たのかと思ったけれど、お預けを食らった犬のようなつぶらさで、わたしのことをきらきらと臨んできた。そこでわたしはようやく、にとりを家に招くべきだと気付く。

「どうぞ、にとりさん」

 言うやいなや、にとりは靴を脱いで早速玄関を観察していく。

「靴入れに傘立て、これもまた設計と組立てに微塵の隙もない。洋靴はそこまで珍しくないけれど、仕立てが良い。そしてこの傘だ。薄くて半透明の見慣れない素材だけど、雨で破れたりしないの?」

「撥水加工済みですし、ビニール自体も水を弾きます。ビニールというのは石油から精製できる不繊布の一種です」

「石油って、あの黒くてどろどろした液体のこと?」

 これまで技術者としての顔を保ち続けてきたにとりが、まるで嫌な呪いでも見たかのように顔をしかめていた。

「にとりさんは石油が嫌いなんですか?」

「便利なのは分かるけど、水や空気を汚すからね。鉱石や石炭と同じだよ。慎重に採掘して使わないと、辺りがすぐに汚れてしまう。今更金属のない生活なんて考えられないから、手を染めないわけにもいかないのだけれど。河童にとって一番大事なのは水だからね」

 これまで年下の娘くらいにしか考えていなかったけれど、種族特有の思考基盤が明確に存在するらしい。天狗ほど難しくはなく、寧ろ明瞭ではあったけれど、それだけに頑なでもあるのだろう。わたしはにとりを案内するのが急に怖くなった。この家は人間がどれだけ自然を汚してきたか、見る目があれば実に雄弁と語っているに違いないからだ。

「傘に当たるのはこれくらいにして。それではまず、水回りから調べていくとしよう」

 にとりは興奮を隠さぬままに提案してくる。わたしは廊下をそろそろと歩き、件の台所へにとりを案内した。すると予想通り、にとりは狭い中をせわしなくぐるぐると回り始めた。

「これは、文さんに聞いた通りだ。眉唾ではなかったのか。いや、これまでの技術程度からすれば、本当ではないかと推測はできていたけれど、実物を見るまでは、うん……」

 にとりはガスコンロのつまみを回してかちんかちんと音を立て、火花の散る様子に感嘆してみせた。

「鉄を打ち合わせて火花を立て、瓦斯を安定供給することで火勢を安定させるんだね。そして隣にあるのが水を出す器械?」

 続いてにとりは水道のバルブを開け閉めして、その感触を存分に味わった。水は流れなかったけれど、機構そのものがにとりの興味を引いたようだった。

「管はおそらく水源まで繋がっていて、ねじで放出する水量を調節する。井戸水を汲むポンプのように、何らかの力で水を吸い上げて、ここから放出するんだ。よくもまあ思いつくなあ、こんなこと」

 以前の文にしてもそうだけれど、無意識に浪費していた外世界の文明をここまで立派なものとして囃し立てられると、誇らしいような、肩身の狭いような、複雑な気持ちを覚える。

「食べ物はこの中で保存しているのだよね」台所の技術について、文から事前に聞いていたのだろう。にとりは冷蔵庫の扉を開き、今は気温とほぼ同じになってしまった中を子細に調べていった。

「これが電気で動く保冷箱だね。氷もなしで冷やすなんて、相当のエネルギーが必要だと思うけど、どうやって供給していたの? まさか、空から降ってくる雷を収集できるとか?」

 そんな仕組みでないことは分かっていたけれど、かといって発電の仕組みを正しく説明できるほどの学は積んでいなかった。それでもにとりの希う表情を見ていると黙っているわけにもいかず、わたしは己の中にある知識を咀嚼していく。

「そうですね、強力な運動エネルギーを電気に変換するんです。運動エネルギーは、えっと……」石油の燃焼や原子力と口にしかけ、わたしは慌てて心の中で訂正する。「水の落下力を利用するんです」

「つまり水力による発電だね。やっぱりだ、あの滝は流れているだけでエネルギーの莫大な源になる。だから、わたしは何度も主張してきたんだよ。天狗に頭を下げてでも、あの滝をエネルギーとして利用するべきだって。水車の比ではないんだ!」

 にとりはそのことをずっとアイデアとして温めてきたのだろう。俄に口吻を飛ばしながら、持論をまくし立てる。

「それなのに、上の奴らは天狗と折衝するのが面倒臭いと抜かすんだ。良いかね? わたしたちは器械を動かすのに妖力を使う。河童にしても天狗にしてもそれは同じだ。そのために力の上下で性能が左右されるし、個人ごとの細かい調節が必要になる。例えば、天狗の扱っているカメラだ」

 文をびしりと指さし、にとりはまるで講義のように朗々とした口調を続ける。

「カメラは繊細なので、個人の妖力に合わせるのがとても難しい。力が増せば再度調節が必要になるし、何らかの理由で力が弱くなると、性能ががくりと落ちる。経験があるだろう?」

 何らかの突っ込みを期待して視線を寄せたけれど、文は力なく頷くだけだった。頭領にさえ言葉を挟んだ彼女だというのに、目の前の河童が放つ独特の気勢に押されているのだ。あるいは器械が苦手なのかもしれなかった。

「河童は確かに器械いじりが得意だけど、取りあえず作ってみようで始まり、計画性なく突き進む場合が多い。これまでは上手くいっていたけど、将来的に複雑な器械が一般的となったら、出たとこ勝負では駄目になる日がきっと来る。理論、法則、それらに基づく統一された技術、そのためには共通化されたエネルギーと規格なんだよ。実際に人間はそれを成し遂げた。河童にできないはずがない」

 にとりは夢中でそこまで言い尽くすと、一種の据わった瞳で三人だけの聴衆をぐるりと見回した。わたしはただ圧倒されるだけ、文も何か言いたげであったが口にされることはなかった。ただ一人、祖母だけが乾いた拍手を響かせていた。

「確かに、貴女の言う通りだ。人間は科学の申し子となり、発展の途を築いてきた。力というものを徹底的に研究し、陸海空のみならず宇宙にまで飛び出した。それは凄いことだと思うよ」

 にとりは同意するように頷いたけれど、祖母は黙って首を横に振った。

「でもね、そのための代償はとても大きかったんだ。早苗は優しいから言わなかったけれど、電気を得るために人間は沢山の石油を燃やしたし、更に毒性の高い物質を危険な方法で反応させる技術にまで手を染めてしまった。その結果、外の世界は汚れのない場所が珍しいくらいになったのさ」

 祖母の言葉に、にとりは冷水を浴びせられたようになった。顔は青ざめ、体をがたがたと震わせる。祖母はそんな彼女を気の毒そうに眺めながら、厳しい物言いをやめなかった。

「わたしは河童がどんな種族か知らないけれど、誰もそのことに気付かないほど愚かであるとは思わない。おそらくその誰かは分かっていたのだろう。誰にも使える力は危険であると。人間にも作り出せると知れば、便利な生活ができるとすれば、手を染める可能性は高い。そして便利に生活できるだけの電気を生み出すためには自然が壊されなければならない。水力を用いた発電でさえ、施設を備え付けるために周りの環境を著しく変えてしまう。それは果たして許されることなのだろうか?」

 祖母はとても卑怯な言い方をしたと思う。人間は自然を著しく改変し、利便性を取得することを己に許したため、発展できたのに、そのことをまるで棚に上げているからだ。にとりほど聡明なものが、それに気付かないはずがなかった。

「その言い方は狡いよ。わたし、わたしは実践したいだけなんだ。試したくても試せない、頭の中を沢山の思考が通り抜けるのに、立ち尽くして眺めていることしかできない」

「その気持ちは、分かると思う。わたしは別の理由から、諦めてしまったのだけど」

「どうして? 人間は自由にできるんでしょ?」

「確かに人間は自然を改竄してきた。でも、だからといってそこに暮らす人間全てが自由というわけではない。わたしも女だてら、ゆくは博士か教授かと考えながら、一心に学を修めていた時期があったよ」

 祖母の話に、わたしは半ば本気で驚いていた。そんなこと、わたしはこれまで一度も聞いたことがなかったからだ。教職に就き、いくつかの高校で数学や物理を教えていたことは知っていたし、たまに教え子が訪ねて来たから実感できた。でも、研究職を目指していただなんて、これまで耳に挟んだこともなかった。

「結局のところ、生活の事情から定職に就いたのさ。教えることは肌に合っていたけれど、何か一つの分野に打ち込みたいという熱が消えるのには随分と時間がかかったよ」

「でも、諦めることができたんでしょ? わたしにも同じようにしろと言いたいんだ。それは酷いことだと貴女は思わないのかい?」

「諦めろと言っているわけじゃないよ。ただ、貴女の憧れているものにはそういった負の側面があることを知って欲しいだけだよ。過ちを犯した先人のお節介とでも言うべきかな」

「そんなもの……」いらないと言いたかったのだろう。でも、あれだけの純粋な情熱を語れるがゆえ、祖母の言葉を棄却できなかったに違いない。苦しそうに呻き、恨みのようにぼそぼそと言った。「やっぱり狡いし、受け入れられない。わたしは、わたしの思うままにこの腕を振るいたいんだ」

「そうだね。でも、わたしとしてはここが外世界と違う発展をしてくれれば良いなと思っている。それがこのような郷のできた理由の一つではないかとわたしは愚考するのさ」

 にとりはしばらく黙っていたけれど、やがて渋々頷いた。

「まだ納得した訳じゃないよ。それに使えないとしても、わたしはこの家に使われている技術をできるだけ学びたいと思っている」

「わたしとしては、この家をどう改装して良いか見立ててくれれば、いくらでも好きにして良いと考えているんだけどね」

 祖母の指摘に、にとりは我を取り戻したかのように瞬きをした。いきなり長口上を始めたときからそうではないかと思っていたけれど、にとりは当初の目的をすっかり忘れていたようだった。

「そうだった。うう、わたしと来たら気をつけようと思っていた矢先に同じことを……このお馬鹿さんめ、河城にとりめ」

 奇妙に己を叱咤すると、にとりは改めて背筋を伸ばし、台所から飛び出していった。風呂場やいくつもの部屋を調べ、辛うじてわたしの部屋に入ろうとするのを食い止め、コンセントや電池駆動の時計などを見て回っては素直に感心し、次には大きく首を横に振った。誘惑されないよう、心を配っているのだろう。その熱心さは、おそらくわたしの何十倍も生きているというのに、何となく年下の少女を思わせるものがあった。

 一通りの確認が終わるとにとりは居間に向かい、座卓の側に腰を下ろすと、巻物のようにくるくると巻いていた紙を適当な長さにちぎり、万年筆でラフを引き始める。独特な記号に満ちているけれど、この家の見取り図であることはすぐに分かった。一度見ただけで精確な間取りをほぼ把握し、図面に起こしているのだ。恐るべき記憶力と言えた。

 ここは任せて良いと祖母が言ってくれたので、微かな体の火照りを拭いたくて、涼やかというよりも冷ややかな風を浴びに、外に出る。

 日は思っていたよりも赤く傾き、昼と夜のあわいを青と赤が複雑に溶けて微睡んでいた。星々が濃藍の闇に光を穿ち、きらきらと輝いている。月は猫の爪みたく鋭い三日月を呈しており、まるで少しだけ大きな星のようであった。何とも豊穣でそして鮮やかな一日の終わりである。これほどの宵を、わたしは初めて見たような気がする。

「良い宵ですね」洒落のように言い、文がわたしの隣に立つ。「今日もまたどたばたの一日でした。酔い上がりで大丈夫でしたか?」

「ええ、問題ないです。ちょっと色々な意味で疲れましたけど」

「すいませんね。わたしがもう少し言葉を選べば良かったんですけど」

「いえいえ、結果としては悪くありませんでした。にとりさんは個性的ですけど、可愛らしくて誠実な方だと分かりましたし」

「己に誠実でありすぎるんですよね、良くも悪くも。ああいうのは生き辛いと思いますよ。椛としばしば将棋を指しているのも仲間と馴染めないからですし、鬱憤を晴らす術を知らないから少し興奮しただけで長口舌が現れる。できればその辺は、悪く言わないでもらえると助かります」

「そうですね」そう言える文も誠実だと感じたけれど、わたしは何も言わなかった。憮然としてそっぽを向くに違いないからだ。「でも、自分に誠実な生き方をできないと、いつか辛くなりますよ。同種族のいないこの場所で、自由に語ることが肩の荷を下ろす助けになるならば、いつでもここを訪れて欲しいと思っています」

 その言葉に偽りはなかったのだが、文はからかうように細やかな視線を向けてきた。

「そうして、信者第一号の完成と言うわけですか」

 嫌みに怒りで返さなかったのは、軽く図星をつかれたからだ。にとりのような身を置き辛い妖怪は他にもいるはずで、彼女らの憩いの場となることが、信仰の第一歩になるのではと朧気ながら算段していたのだ。

「狡い考え方でしょうか?」

「良いのではありませんか、それで」わたしの問いに、文は突き放すようなぶっきらぼうで返した。「でも、零れものを集めると、目をつけられますよ。それに天狗は天狗、河童は河童として生きるのが一番良いのです。況や」

 そこで文はわざと言葉を切る。でも、言いたいことはよく分かった。人間は人間として生きろということだろう。

「文さんはわたしに、ここに居て欲しいんですか?」そんなことが本当に、唐突に気になって。わたしはそっと訊ねていた。「それとも、居て欲しくないんですか?」

「わたしは命じられるまま、ここにいるだけです」

「そうじゃなくて。文さん自身はどう思っているのですか?」

「人間は人間らしく、分を弁えるべきです」

「違う!」わたしは焦れったくて声を荒らげていた。「わたしは文さん自身の言葉が訊きたいのです」

 彼女自身がどう思っているのか、わたしはそれが知りたかった。夕日が無闇に哀愁を駆り立てたからかもしれない。文はそんなわたしを呆れるように大きな息をつく。

「わたしは早苗さんのことが嫌いではありません」

 どのようにも取れる言葉だった。興味がないだけかもしれないし、少しは友誼のようなものを感じているのかもしれない。でもわたしの行いに不快を覚えていないと分かっただけでも、安堵できた。

「こういうこと、いちいち言わせるのは無粋ですよ」

「無粋でも何でも構いません。言わないと分かりませんよ。伝わりません。家族や長年の連れ添いは無言で語ると言いますが、それは嘘です。どんなに長く共連れても、伝え合うことは必要なんです。そうすることでしか、互いの異人性は埋められません。わたしと文さんは人間と天狗なのだから尚更です」

 断絶は家族さえも遠ざけ、異人すらも隣人とする。

「わたしとにとりさんは異人同士ですし、わたしとおばあちゃんさえも異人同士なんですよ」

 それは悲しい把握でもあるし、希望的観測でもあった。わたしは祖母を、にとりや文を理解できる対象として捉えているからだ。

「わたしには至極当然のことですが、外世界の人間にとっては違うのでしょうね。極僅かな神や妖怪を除けば、外世界には人間しかいないのですから」

「珍しい考え方だという自覚はあります。まあ、半分は受け売りなのですが」人心に盲し、塞ぎ込んでいたわたしをすくい上げてくれた小説の主軸となる思想。他者は所詮、異者でしかないということ。「人間が宇宙へ進出して数千年、第二の第三種接近遭遇に際して繰り広げられるドラマを描いた小説です」

「何というか、気宇壮大ですね。まあ、幻想郷には宇宙人も住んでいるのですけれど」

 さらりととんでもないことを暴露され、わたしはこれまでの憂愁を振り捨てて、文につかみかかっていた。

「何ですかそれ! 初耳です! どんな姿形をしているのですか?」

 わたしはあれやこれやと、色々な形の異星人を想像する。典型的なタコ型か、それともリトルグレイ? あるいは獣臭い出で立ちであるとか、頭や手足が複数あるとか、逆に円形のつるつるした容姿であるかもしれない。蟻だったり豚だったり、百足の形をしているのかも。珪素型だとなお素敵だと思った。とにかく夢は脳裏を駆け巡り、ふわふわと浮き上がりそうだった。文はそんなわたしの心につんと針を刺した。

「見た目は人間と変わりません。そもそも本当に宇宙人かどうか、わたしは未だに疑わしいと考えているのですが」

 ぱちんと弾ける音が聞こえるかのようだった。わたしは残念とばかりに息をつき、それから文をしげしげと見つめた。

「でも、そうですよね。天狗や河童が普通の容姿なのだから、宇宙人も人型だと考えて然るべきでした」

 しょんぼりと肩を落とし、夢打ち砕かれた心を修繕しようと試みるも、文の高らかな笑い声がそれを残酷にも封じてしまった。

「な、どうして笑うのですか! わたし、がっくりさんなのに!」

「いや、早苗さんは本当に宇宙の話が好きなんだなあと思って」言いながら途中で堪えられなくなったのか、文は腹を抱えてくぐもった笑いを浮かべた。「だから、人間なのに天狗や河童と平気で会話できるんですね。のみならず、対話によって異人性の壁を壊すことができると考えている」

「そこまで無鉄砲ではありません」あまりに笑われるから慌てて抗議したものの、効果の薄い予防薬くらいにはなったのだと、少しして考え直す。「そうですね、異星の客と出会うことを夢見ていなかったと言えば嘘になります」

 ベントラーベントラーと夜空に希うことを考えたこともあった。結局のところ実行しなかったけれど、己とも神とも異なる存在を求めてやまなかったのは事実であった。

 わたしは異人性の壁を本当に崩したいのだろうか。否、信仰を募るということは神と信者の間にある異人性を少しでも拭うということだ。そして、その媒介のために祭祀者はいるのだ。あるいはと、わたしは祈りを胸中に奉じる。ここでは神だって、自身の言葉で語られるべきだ。

「わたしは結局のところ、神の代弁者に過ぎません。祖母も同じで、あとは本当に古ぼけたモニュメントとしての社があるだけ。神の教えだなんて大層なことは説けないし、その知識もない。でも種族の垣根を越えて一人でも多くのものが通ってくれるならば、神はこの地に新たな信仰を見いだすかもしれません」

「それが、早苗さんの望みですか?」

「分かりません」わたしは率直なところを答えた。「沢山の事柄が、短い間に一気呵成でわたしの中に雪崩れ込んできたんです。十分に整理できていないのでしょう。でも、その中にはここにいるべき理由がいくつもあって、わたしはそれらを徐々に掘り起こす必要があるのでしょうね」

「成程、よく分かりました」漠然としたことしか語っていないはずだけれど、それで文は満足したようだ。「では丁度、お迎えも来たようですし、家に戻りましょう」

 文の言葉でわたしはようやく、何もない所に湿った気配があることに気付く。そちらに視線を向けると、ぼんやりした中から徐々に見慣れた河童の少女が現れてくる。彼女は申し訳なさそうに頭を下げた。

「あの、ごめん、わたし立ち聞きするつもりじゃ……ううん、するつもりだった。わたしのことを話しているのが聞こえたから」

 にとりのしゅんとした仕草に絆されかけたけれど、文がわたしに一瞬、鋭い視線を寄せたから、嫌でも気付いた。文はにとりが聞いていることを、わたしに黙っていたのだ。本音を語らせるために。わたしから異人に対する真の想いを訊きだし、それはもしかしなくても河童の信頼を奪い去るものになったかもしれなかった。あるいは二人が最初から密かに結託していたのかもしれない。わたしが信頼に値すると確かめるために。ここで種明かしをしてくれたということは、少なくとも二人の眼鏡に叶ったということだ。

 少し考えてから、わたしはにとりのおでこを指でぴんと弾いた。

「能力にかまけて、他者のプライバシーを覗くのは良くありません。それは一方通行に過ぎます」

「そうだね。だから早苗さんの話を聞いてる間、胸がずきりとした」どうやら河童は反省心の薄い天狗と違い、きちんと悔い入ることができるらしい。にとりが特別なだけかもしれないけれど。「対話することで、異人性を克服する。分かっているけど難しいな。わたしみたいなのだと、特に難しいよ」

「そうですね。わたしも偉そうに言える立場じゃありません。伝えられないことってあります。理屈じゃないんですよね」

 にとりが「そうそう」と言いながら強く頷く。

「そうなんだ。伝えにくい。難しい。恥ずかしい」

 にとりはもごもごと言葉を濁し、それからわたしに向き直った。

「見積もりが終わったから、二人も中に入って欲しいんだ。あまり良い知らせは伝えられないかもしれないけど」

「気にしないで下さい。いまわたしたちが欲しいのは客観的な判断ですから」わたしはにとりを励まし、それからよく分からないなあという感じで立っている文に視線を向ける。「どうしたんですか? 解せぬと言いたげな顔をして」

 文は悔しそうに口元を窄めた。

「人間も河童も、わたしたち天狗もそういった点では同じなんですね。何だかそれが気に食わないというか」

「そうですか? わたしには好ましい事実のように思えますが」

「理解できません。否、理解したくないですね」

 文はそっぽを向くように言うと、先に一人で家の中に入る。わたしとにとりは顔を見合わせ、お互いに首を傾げてみせた。

「天狗らしからぬ機嫌の崩し方だなあ」

「あら、やっぱりそうなんですね」

「普段はあそこまで分かりやすくないと思う。然るに余程耐えがたいのか、あるいは照れ隠しなのかもしれないね」

「照れ隠し、ですか?」

「文さんは早苗さんと同じ部分があることを、心の内ではある程度、好ましいと考えているんじゃないかな。根拠はないけどそんな気がする」

「まさか!」そんな性質であるとは到底思えなかった。「気に入らない仕事を押しつけられて、無駄に苛々しているのでしょう」

「かもしれないね。きちんと対話しなければ、何も分からない」

 にとりはおそらく意図せずして、痛い一言を投げかけた。だから上手く返すことができず、曖昧な笑顔で誤魔化した。

 

 居間に全員が集まったところで、にとりは雑多な矢印や記号の描かれた見取り図を座卓に広げてみせた。

「まず結論だけ言うと、この家を改修するのは無理だと思う。何故ならば、この郷の如何なる技術者でも再現の難しい工法で建てられているから。無理矢理に改築しても、排煙性の低さがネックとなる」

 ガスコンロを使えば煙が出ることは少ないし、電気駆動の換気扇が十分に補ってくれるから、自然排煙を考える必要はない。そのことが仇になるとにとりは言いたいのだろう。火事への備えはあるかもしれないが、隙間の少ない建物であることに変わりはない。

「河童に可能な工法で、必要な施設を増築するのがベストだと思う」

 にとりは神社、住居と少ない余白に書き込み、その隣に空白の丸を書き込んだ。

「台所に薪や食糧を納める施設、風呂場を上手く集約しよう。あとは厠だけど、水洗トイレとやらは水を使い過ぎるし、堆肥として利用することが難しくなる。やはり使えないだろうね」

「こんな高所では汲み取り人もやって来ないから、慎重に処理する必要があるね。不潔にすれば病の原因にもなるし」大切な問題であるためか、祖母は敢えてここで口を挟んだようだった。「こんな高所で農作物を育てられるかは分からないけれど、ここでは得られる資源を貴重に扱う必要がある。早苗には酷なことかもしれないけれど」

 下の処理という口にするのがはばかられる件を振られ、わたしは思わず口ごもる。

「もう子供じゃないんだし、夜に一人で外に出るくらい平気だよ」

「そういう意味ではないのだけれど、まあ良いか。汲み取りのできる厠を増設しよう。すると元の台所が余るから、ここは……窓を潰して暗室にするかね。写真の現像には液状の薬品を使うから、そういう意味でもうってつけだろう」

 祖母は相次いで提案し、文に無言で窺いを立てる。少し思案してから、文は納得気に頷いた。

「反対側は木戸を閉めて暗幕を引けば、暗度は十分に確保できると思います。写真を現像するだけの部屋にしては些か広い気もしますが」

「予備の物置にも使う予定だよ。日の当たらない所に保管すべきものもあるはずだから」

「成程、分かりました。書斎兼寝室としてあてがわれた一間と併せ、わたしの要求はこれで満たされることになります」

「守矢さんや早苗さんのほうから提案は?」

「水源の確保はどうなっているのかなというのが気になったね」祖母はわたしと同じことを先んじて訊ねる。確かに、いくら施設を作っても水がなければ使いようがないのだ。「井戸を掘り当てるあてがあるのかい?」

 するとにとりは、自信満々な表情を浮かべた。

「河童を馬鹿にしてはいけないよ。水周りのことならばお任せあれ。既にどこを掘れば水が沸くのか、当たりはつけてあるよ」

「それならば安心だ。わたしからは以上だけど、早苗は何か付け加えることがあるかい?」

 わたしは首を横に振った。少なくとも現状において検討すべきことは全て潰したはずだ。

「では、できるだけ早く取りかかって欲しいのだけれど、施工期間はどれくらいになるだろうか?」

 祖母の質問に、にとりはぐっと声を詰まらせ、すまなさそうにぽつりぽつりと現状を語った。

「増改築には材料と手勢がいるんだ。漆喰に使える土と、長年の風雨に耐えるだけの粘りを持った木材。それらを扱う腕のある職工を複数人。でも、ここに家があること自体、極一部にしか明かしてはいけない。だからそのどちらとも集めることができないんだ」

「つまり、わたしたちの存在が大っぴらにできるまで、何も手を着けられないということだね」

「わたしに権限があれば、便宜を計ることもできたと思うけど」

「いや、良いよ。それにここが大っぴらになるまで、そう時間はかからない。それまではあり合わせのもので何とかやっていくよ」

 祖母にはにとりを責める気はなかったはずだ。それでも恥じ入るように顔を俯けることしかできなかった。こちらが逆に申し訳なくなるくらいの落ち込みようだった。

「改装の見積もりが今回のお願いだったんだ。にとりは勤めを丁寧に過不足なく果たしてくれた。それだけでも十二分だよ。さあ、しゃんとしておくれ。動けるようになったら、すぐにでも本依頼を出すつもりなんだから」

 にとりは祖母の励ましを受け、ほんの少しだけ気持ちが上向いたようであったが、力不足を肩に背負っているに相違なく。そんなにとりをフォローしたのか、それとも単に話の流れを読めていないのか。文がわざとらしい柏手を打ち、無理矢理に場を打ち切った。

「では、話も終わったところで食事にしましょう。今夜はわたしが腕を振るうので、ありがたがって食べて下さいね。守矢さん、冷蔵庫からお米と具材を適当に見繕っても良いですか?」

「生の肉類や魚介類なんて放っておけば腐ってしまう。客人もあることだし、奮発して使ってしまおう」

 そう宣言し、文は祖母を連れ立って居間を出ていく。にとりは良いのかなあと言いたげな目でわたしを見つめ、小さく頷いてその問いに答えた。

「わたしも手伝いに出ます。にとりさんはどうしますか?」

「あの、だったらわたしも。施設がないから人手、いるだろうし」

 にとりはどうやら落ち込みのピークを越えることができたようだ。客人を働かせるのは気が進まないけれど、実際に手を動かすことで気が紛れると判断し、わたしはにとりにも助力を願うことにした。

12

 わたしとにとりの仕事は川から水を汲んでくることだった。水面は暗いからよく見えなかったけれど、先の記憶が正しければ聖者のように澄んでいるはずだ。にとりがごくごくと飲み始めたから口に含んでみたけれど、水道水よりも清冽な飲み口であった。

「美味しいですね。外の世界ではこんな水、飲んだことがありません」

 素直な誉め言葉のつもりだったけれど、にとりは暗闇にどこか浮かない表情を浮かべ、言った。

「外の世界って、そんなに水が汚れているの?」

 そんなつもりではなかったのだけれど、祖母との問答が彼女の中に根ざしてしまったのだろう。問いかけは可哀想なくらいに真摯だった。

「そうですね。わたしは外世界で、大きな湖の近くに住んでいましたが、直に水を飲むのはもちろんのこと、泳ぐことすらままならない有様でした」

 諏訪は精密機械の工場が多く、有名な時計や印刷機の会社がいくつもある。煤塵を大っぴらに出す類の汚染は少なかったけれど、それでも湖や支流の水を汚すのには十分過ぎた。おまけに獰猛な外来魚が心ない釣り人たちによって放流され、公害によって乱れた生態系をより一層悲惨なものとした。湖底は淀み、神湖の趣は徐々に拭いさられていった。

 住民は遅れ馳せながらもその事実に気付き、県をあげて浄化作業に励んできた。その結果、最悪の状態は脱したと言えるだろう。しかし一度崩れた自然は、そう簡単には元に戻らない。デリケートな国産の湖魚は、未だに住まいを脅かされ続けている。

「わたしは綺麗な川や湖が好きだよ。河童だからね。でも同時に、高度な技術とその維持にも憧れるんだ」

「何となく、分かるような気がします」わたしは技術に対する拘りもないし、高校半ばまでの学を修めただけの若輩に過ぎないけれど。「わたしの家には空想科学と呼ばれるジャンルの小説があります。人類が科学の進歩によって環境問題を克服し、宇宙に飛び出す船を建造し、銀河系の外にまで活動圏を広げていくお話もざらにあります。そのような話を読むたび、わたしは真に高度な、誰もが救われる技術に焦がれるんです」

 少し熱っぽく語ったことは自覚していたけれど、にとりに必要なのはその熱だと思った。その予測は当たっていたようで、にとりは我が家を初めて見たときのようなきらきらを蘇らせていた。

「なるほど、人間はそんな小説を読むんだ。夢のような技術、未来の御伽話、か。希望を書き、それらを実現させてきた?」

「現実の法則はもっと詰まらないものだと分かった例も沢山ありますけどね。例えば、物質は光の速さを越えることができない」

 アインシュタインが提唱した相対性理論の主幹である。光速が不偏であることを縁にした物理則は超光速宇宙船が実現不可能であることを高らかに宣言してしまった。

「それでも、希望を形にした例だって沢山ある」

「そうですね。例えば、軌道エレベーターというものがあります」アーサー・C・クラークの『楽園の泉』という小説で一躍有名になってからこちら、様々なSFで使用されてきた架空の建築物だ。しかしいま、外世界では架空でなくなりつつある。「先程挙げた宇宙船ですが、巨大な質量を最終的に第二宇宙速度まで加速しなければならず、そのためには莫大な燃料を必要とします」

「質問、第二宇宙速度ってどれくらいの速さなの?」

「えっと、確か」わたしは中学の教科書に出ていたその速度を、辛うじて思い出すことができた。「秒速十一コンマ二キロメートルです。あ、メートル法って分かります?」

 気を利かせて訊ねると、にとりは大きく頷いた。

「統一された尺度は技術に不可欠だからね。紆余曲折はあったけれど、外から流れてくる書籍ではメートル法の記述が多いから統一しているんだ」外世界から流れてくるものには興味があったけれど、話を脱線させそうなので、わたしは黙って肯定するに留めた。「それにしても、時速十一コンマ二キロメートルじゃないんだよね? 秒速だなんて、天狗よりも遙かに早いに違いないや」

 ジェット機が確かマッハ二から三くらいで飛翔する。それでも秒速一キロに届くか届かないかといったところだから、その速さはおして知るべしだ。

「それだけの速度を生み出すのは容易ではありません。その解決策として考え出されたのが、軌道上空にまで伸びる自動昇降のための塔を建てるという計画です。およそ四万キロメートルの塔を建て、宇宙ステーションと直結する。そこまで来ると重力の影響はぐっと少なくなるから、ずっと少ない燃料で宇宙船を飛ばせるわけです」

 わたしが説明したのはざっとした概要部分だけだ。それでもにとりは目を回しそうな表情で、空を眺めた。

「なんと、途方もない……将来的に沢山の宇宙船を飛ばすとなれば、確かに節約にはなるかもしれないが、そのために何万キロメートルもの塔を建てようと発想するのが凄まじいし、ましてや実現してしまうなんて」

「まだまだ建造途中で実現には至っていないんですけどね」完成は確か二〇五二年を予定しているはずだ。「超軽量と硬度を併せ持つ素材を編んで造るのだそうです」

「そんな塔を建てられる素材なんてわたしには到底、思いもよらないよ。やはり技術というものは……技術というものは凄い!」

「ええ、わたしもそう思います」わたしは無難に前置いてから、ようやく話の確信に至る。「人類が一種無謀とも言える考えを実行に移したのには理由があります。戦争と資源の枯渇と環境問題です。前世紀、人類は地球をあまりにも汚し、浪費しました。そのツケを性急に払わされているんです。人類は、地球を半ば追われかけています」

 一九九〇年に警察国家の象徴であった建物がテロリズムによって破壊されてから十年で、十五個の核が炸裂した。ロシアに三つ、中国とインドに二つ、パキスタンとイラクとトルコに一つずつ。残りの五つは警察国家の体内で炸裂した。日本は最早、唯一の被曝国ではなく、核が炸裂した国家の一つに過ぎない。

 数百万の死と取り返しのつかない汚染を、あまりに今更ながら人類は畏れた。核は世界を滅ぼし得ると身を持って知ったのだ。かくして二十一世紀最初の年に、核兵器廃絶宣言が成された。外宇宙からの危機に備えて極僅かが残された以外は全てが破棄され、枯渇した資源を月や火星、他の太陽圏に求めるための計画が建てられた。軌道エレベーターはその最たるもので、人類融和の四字を冠した最大計画なのだ。

「おそらく人間はあまりに寿命が短いのです。そのため、長期視点で文明を成熟させることができません。将来的に人心が洗練され、あるいは寿命がぐんと伸びれば、可能性も出てくるかもしれませんが」

 あらゆる問題が高度化し、一人に知ることのできる量が相対的に少なくなりつつあるのだ。数学の諸問題に見られるよう、天才がその生涯をかけて一つか二つの問題をやっと解決する、そんな時代なのだ。急ぎ足になるのも当然だとわたしは思う。それ故に失敗しかけたのだ。

「文さんは人間の文明を知り、天狗や河童のそれをごっこ遊びだと揶揄しました。でも、わたしは違うと思います。寿命が長く、長期的に物事を進められる思考のもとで、文明は良好に開花し、発展するのではないでしょうか」

 要するに急ぐ必要など何もない。あるいは成熟の課程で、文明を捨てる日が来るかもしれない。火星年代記に出てきた火星人のように。わたしは人間だから想像するしかないのだけれど。

「差し出がましいと思うかもしれませんが、心に留めて頂けると少しでも気が楽になるかもしれませんね」

 長々と拙い話を聞かせてしまったかなと心配だったけれど、にとりは得心したかのような深い頷きをわたしに寄せた。

「ううん、そんなことない。なんか、目から鱗がぽろぽろ落ちた感じ。文明、技術、種族。わたしはこの三つを結び付けて考えたことがなかった。そうだね、うん。無理に人間を装っても駄目なんだ。わたしは河童なのだから。人間のようにはできないし、それで良いんだ、きっと」

 にとりはわたしの胸に飛び込み、ぐりぐりと押しつけてきた。感謝の意を示したいとは分かっていても、どうにもくすぐったくてたまらなかった。無骨な布地で彼女の柔らかさがあまり意識されなかったから気持ちは楽だったけれど、用事もあるのだし、なるべく早く引き剥がしたかった。

 そのとき、背後からわざとらしい咳が聞こえてきた。

「おやおや、どうやら逢瀬の邪魔をしたみたいですね」

 その声でにとりも彼女に気付き、わたしにしがみついていることが恥ずかしくなったのか、慌てて離れた。

「あれ、文さんがどうしてここに?」

 にとりがとぼけた声で訊ねると、文の眉が不機嫌そうに上がった。

「あれ、じゃないでしょう。水を汲みに行っただけだというのになかなか戻ってこないから、守矢さんが心配してわたしを遣わしたのです」

 文は腕を組み、憤慨具合を口調だけでなく態度でも伝えていた。わたしとにとりは慌てて水を汲み、二人して誤魔化しの笑みを浮かべる。文は重苦しく息をつき、付き合っていられないとばかり、先々と飛んでいった。わたしは急いで文に追いつき、子供のように弁解した。何故かそうしなければならないと思ったのだ。

「にとりさんの悩みを聞いてあげていたんですよ」

「そんなことだと思っていました。にとりは河童ですから、スキンシップで感情を伝えたがるんです」

 そう言えば、河童は相撲が好きだという話を過去に聞いたことがある。にとりがわたしに抱きついてきたのも、そうした河童の特性によるところが大きいのだろう。特にどぎまぎする必要はまるでないわけだ。

「ごめんごめん、人間にはそんな風習ないんだよね。早苗さんが、その……」にとりは少し口ごもってから、恥ずかしげに言った。「お姉さんのように思えたから」

 一人っ子であるわたしにとって、その言葉は半ば殺し文句だった。

「気にしないでください。それにわたしもにとりさんのこと、少しだけ妹みたいだなって思っていたんです」

「そう? だったら、嬉しいかも……」

「夜道でぺちゃくちゃ喋っていると、いらぬものにぶつかりますよ」

 文は強引に言葉を割り込ませ、大人げなく前に出る。これは後で少しばかり、宥めなければいけないなと思った。

 

 

 当然と言うべきか、文は瓦斯のない調理に慣れており、焚き火に使えそうな石を素早くかき集め、円形に並べてみせた。その中に薪を組み、燃焼促進用と思われる細い枯れ木や枯れ草を詰め込んでいく。最後に用意してあった煉瓦を二枚、縦置きにして固定し、あっという間に即席の調理炉を作って見せた。

「ここからが肝要です。いかなる理由かは知りませんが、高地では普通にやると飯が美味く炊けません」

「えっと、ボイル・シャルルの法則ですよね」ここが標高二千メートルと仮定し、わたしは頭の中で沸点を概算する。「水の沸点はここだと、九十度くらいですね」

 米に含まれる澱粉は、九十八度で二十分以上加熱しないと糊化しない。そのまま炊けば、芯が残ってべたべたした米飯が炊きあがるだろう。

「わたしはボイル何とかは知りませんが、早苗さんの言う通り高さに応じて沸点は下がります。それを補うために、ちょっとした工夫がいるのです」

 文は飯盒の中身をわたしに見せる。濁り水の中から僅かに覗く米は炊けていないのに、それでも少しだけ食欲をそそった。

「まず、米を長い時間浸けておくこと。もう一つは飯盒に圧力を込めることです。風を押し込めて、素早く蓋をするんです」

 そう言って文は圧縮された空気を掌に作ってみせた。にとりには見えないようだったけれど、わたしには制御された風の流れを見ることができた。

「こうして、中に圧のこもった空気を押し込み、蓋をします。きつく締めてくださいね」

 おそらく普通の飯盒よりもかなりきついのだろう。外見からは分からないけれど、何となくはちきれそうな印象を覚えた。

「では、早苗さんもやってみてください。今日は上手く行かなくても、いずれはできるようになってもらいますよ」

 微妙に重圧を感じる口調なのは、先程のことを根に持っているのだろうか。それともわたしに生活のいろはを厳しく躾ようとしているのだろうか。どちらにしろ、これだけ細かい操作は初めてであり、わたしは緊張しないようできるだけ力を抜き、風の流れに耳を傾ける。それらを徐々に、両の手に集めていくイメージを崩さぬよう、そして異なる大気圧を飯盒に押し込める。蓋をすると反発が思ったより強くて、わたしは必死で閉めなければならなかった。

 安堵の息を一つ、そっと文の表情を見やると、予想外の驚きを浮かべていた。

「どうしたんですか? 何か至らぬところでも?」

「いやいや、見事なお手前で。以前に力を使い慣れていないと話していたのは謙遜だったのでしょうか?」

 それでわたしは少し目立ち過ぎたのだと気付いた。その証拠に、祖母の顔が僅かだけ険しくなった。

「そんなに沢山は使ってないよ。外が暑いとき、寒いときに時々冷暖房代わりに使ったくらいで。あと、友達に嫌らしいことを言った奴の鬘を吹き飛ばしたり、ひったくりの足をもつれさせたり、転んで車道に倒れそうだった子供を支えたり……兎に角、悪いことには一度も使ってないんだから」

 わたしはわざとらしく眉をしかめた。誤魔化しであることは分かっているけれど、他に繕いようがなかったからだ。己の力を悪い方向に使ったことなら、一度だけある。でも正面きって問いつめられることには耐えられなかった。何故なら、その悪いこととは殺人未遂だからだ。

「わたしの戒めを微妙に守らなかったことが今に繋がっているのだから、敢えて叱ることもないだろう」

 祖母の言葉にわたしはほっとする。もしかしたら二人きりになったとき、お小言を食らうかもしれないけれど、文やにとりの前ではやめて欲しかったのだ。

「では丸く収まったところで、いよいよ火を入れましょう。こちらは生半な腕だと、そう簡単には実現できませんが」

 文は手にした火打ち石をかちんと鳴らし、火花を中空で熾火に変えてみせた。それをひょいと薪の中に放り投げ、乾いた細枝がぱちぱちと燃え始めた。

「おお、久々でしたが上手く行きました」

 なんという凄技と思ったけれど、文の言葉にはどこか引っかかるところがあった。

「久々ということは、普段は別の方法で火を付けているんですか?」

「普段はマッチを使います。そちらの方が格段に楽で扱いやすいですからね」

 何ともまあ、身も蓋もない話であった。

「マッチがあるのなら、どうして言ってくれなかったんですか?」

「ちょっとした余興です」文はどこか挑戦的な口調であった。どうやらわたしが先程の技をあっさりと成功させたのが、悔しかったらしい。それでより高度な技を見せつけたのだろう。こういうところは大人げないなと思う。「では、続けて水炊き鍋を作りましょう。綺麗に捌かれた豚肉に牛肉、それにアサリがあるから、それだけでも良い出汁にありつけそうです。それにしてもああ、海のものなんて本当、まともに食べたのはいかほど前のことか」

 文は具材が乗せられた大皿を運びながら、中央に鎮座するむき身の貝に目映いほどの眼差しを寄せていた。

「海はやはり、ここから遠いのでしょうか」

 長野には当然ながら、海がない。外世界であれば、電車で数時間もかければ日本海、ないし太平洋にまで出ることができただろう。幼い頃に両親をなくしたわたしは中学校の頃に一度、遠足で訪れただけだ。秋口であったから泳ぐことはできなかったけれど、ぎざぎざとした岸壁に寄せる荒い波、どこまでも深く青く広がる水面に、わたしだけでなく同乗したクラスメイトは皆、心を惹かれていた。

 ここならば海は更に深く鮮やかであるに違いない。そう期待していたからこそ、文の言葉は最初、どこか他人事のように聞こえた。

「幻想郷に、海はありません」

 さも当然のように言われ、どう反応して良いのか分からなかった。やがてじわじわと心に滲み、最後には謂われようのない落胆に変わった。自分でもどうしてか分からないけれど、酷く心に堪えた。

「海がない、ならば魚や貝はどうするのですか?」

「川や湖で取ります」これまた、文は素っ気なく言った。「塩は取れるのですが、他の海産物については加工品が時々流れ着くくらいです。こんなことになるのならば、外にいたときもう少し、海の魚や潮の香りを楽しめば良かったと今は思っていますよ」

 海がない、ここには海がない。心の中で二度繰り返し、わたしはようやくその事実をえいやっと飲み込むことができた。

「海産物がないと、味付けの幅が狭まるね」祖母はより現実的な問題を憂慮していた。「加工品というのは乾物だと推測するのだが、鰹節や干した昆布なども含まれるのかい?」

「高級品ですけどね。わたしも季に一度か二度、ほんの少し使う程度です。その代わり、茸類は豊富ですから川魚と一緒に出汁を取ります」

「ふむり、そうすると我が家にストックしてあった昆布や鰹節、旨味調味料などは慎重に使わないといけないね」

 朝の味噌汁に使うなどもってのほかだろう。幻想郷に味噌があるのか、あったとしてもどのような味なのかは分からないけれど。

「まあ、今日は忘れよう。何しろ数日ぶりのまともな食事なのだから」

 思い出したようにぐるぐるとお腹が鳴り、文はしのび笑いを立てながら、もう一つ焚火場と台座を作り、鍋を上手く固定した。

 水を注ぎ、一枚ものの昆布を入れて、弱めの火を熾す。片やぐつぐつと、片やぽつぽつと水が騒ぎ、ほんのりとした食材の匂いが漂ってくるのは半ば拷問であった。

「悩ましそうな顔をしてますね」文が弱みを見つけて嬉しいのか、実に意地悪い笑みを浮かべる。「お米は急き立てると美味しく炊けませんよ」

「胡瓜だったら持ってるけど、食べる?」にとりがポケットを漁り、かじりかけの胡瓜をわたしに差し出してくる。「腹の足しになるかは分からないけど」

「助かります」遠慮する余裕すらなく、わたしは胡瓜に塩をかけ、冷水とともに食する。しかし焼け石に水であった。「ありがとうございます。お陰で少しだけましになりました」

 ぐるぐると獣の唸り声のような音がする。死にたいと、半ば本気で思った。

「あの、ごめん。おやつの残りはあれだけなんだ」

「気にしないでください。その、わたしが食いしん坊なだけです」

 宥めてみたけれど、効き目のないことは分かっていた。だからこそ、忍び笑いを浮かべている文が憎らしかった。

 圧力をかけているためか、飯盒の中からぽんぽんと少し甲高い沸騰音が聞こえてくる。

「蓋が弾け飛ぶので、あまり近づかないほうが良いですよ。そこから蓋を閉め直して、蒸らして出来上がりですね」

 物騒な話だけれど、無理矢理に圧力鍋のようなことをしているのだから、蓋が弾け飛んでも仕方ないのかもしれない。

「そろそろ昆布は引き上げ時ですね。肉類と椎茸、少ししたら野菜とアサリ、最後に葱とニラを順番に入れていきましょう」

 元々料理が好きなのか、それとも海の幸に心奪われているのか、文は出汁の匂いがする鍋に顔を寄せ、満悦の様子であった。

 鍋の体裁が整い、わたしは頂きますと同時にがつがつと具をよそっていく。豚肉を摘み、酢橘の絞り汁を加えた醤油で頂くと、口の中が旨味で弾けた。体全体が空腹であることを主張しだし、がっついていると理解していても止められなかった。

「余程、お腹が空いてたんですねえ……あ、その野菜半煮えですよ!」

 文は鍋奉行になろうとしていたけれど、構いやしなかった。にとりがわたしの野菜と悲しそうに言っていたけど、今日だけは自制できそうになかった。

 空腹の第一波がようやく収まったところで、ぽんと小気味良い音がした。続けて鉄と鉄の当たる乾いた音。振り向くと、蓋の外れた飯盒から魅惑的な白米の匂いが漂ってきて、わたしに新たな腹の虫がとりついた。

「駄目ですよ。きちんと蒸らさないと」

「でも、良い匂いです」わたしは文に必死な視線を寄せる。これ以上待たされたら、わたしは子供らしく地団太を踏みそうだった。「文さん、食べ物の恨みは十代祟りますよ」

「安い割には厳しすぎです。分かりました、空腹こそ最高の調味料って言いますものね。飯盒は二つあるから、一つは早苗さんのために空けましょう。それで異存はありませんか?」

 文は祖母とにとりに、やれやれといった表情を寄せる。祖母は何とも平然としたもので、対するにとりは何だか困った様子だった。

「では早苗さん、一杯目です」まるでお代わりすることを前提とした言い方だけど、正しいと感じたので反論できなかった。「三杯目からはそっと差し出してくださいね」

 言われなくてもそうするつもりだったけれど、醤油たれのついた牛肉とともに頬張ると、肉の旨味に米の甘みが相まって、溜息が出るほど美味しかった。一杯、二杯を空気のように平らげ、三杯目をどっしりと胃の中に収めてようやく、はしたない自分を思う余裕が出てきた。衣食足りて礼節を知ると言うけれど、諺の正しさを思い知らされた。わたしはげっぷを抑えながら、夕食でぽこんと膨らんだ胃を擦る。高地の涼しい風が頬を撫で、わたしは伝う汗を拭いながら文のほうを向いた。感謝の言葉を伝えたかったからだ。しかし当の本人はといえば、あまり機嫌が良さそうではなかった。

「極楽の心地といった顔をしてますねえ」彼女の揶揄は予想以上に冷ややかで、わたしは途端に申し訳なくなった。「満足に火の通っていなかった肉や野菜もありましたが、ご気分の程は?」

「あの、すいません。だからいま、こうして感謝を」

「不要です」文はふいっとそっぽを向き、鍋と飯盒の様子を交互に確認する。「ささ、守矢さん。こちらは良く煮えていますよ」

 文は祖母のお椀を受け取ると、具をバランスよくよそっていく。もしかして、鍋の逐一を把握しておきたかったのだろうか。鍋奉行ではなく鍋将軍、もしかすると鍋暴君なのかもしれない。

 それにしても、あまりにつれない態度である。わたしは冷たい水で喉を潤しながら、そこまで意固地にならなくても良いのではないかと、今更ながらに腹立たしかった。だから視線を感じたとき、わたしはわざとらしく睨み付けてやった。

 にとりはびくりと身を震わせ、お椀の具をおそるおそる差し出してくる。まるでこちらが強硬に催促したようであり、わたしは目を伏せ、小さく頭を下げた。

「ごめんなさい。わたし……」

「うん、分かってる。そのさ、文さんは」

「さあさ、にとりにも注いであげましょう」わたしとにとりの空気を断ち切るように、文がお椀を取り上げ、追加の具をよそっていく。それからぼそりと言った。「もう、勝手に取っちゃ駄目ですよ」

 わたしは無言でお椀を差し出し、無言で食べた。食事の場を気まずくするのは良くないと分かっていたけれど、わたしは全てを飲み込めるほど良い性格ではないのだ。

 鍋は十分ほどでなくなり、残った汁とご飯で薄味の雑炊を作って頂いた。あらゆる旨味を吸い取った米は、具とともに食べる白米と違う、優しい甘味と塩気をはらんでいた。文はちらちらとわたしを見ていて、謝りたいのが分かっていたのに、わたしはそれでも無視した。嫌な奴だなと思ったけれど、止められなかった。

 料理が終わると同時に、辺りは暗闇に包まれた。それでも相手の顔形が朧気にはつかめたし、用意しておいた燭台に火をつけると、より一層明らかになった。目が暗闇に馴染み始めているのかもしれない。

 洗い物は大桶に汲まれたもう一杯の水で行われた。焚火にかけたためか、鍋も飯盒も黒く煤けており、束子でなければ汚れが落ちないし、水はあっという間に黒く濁っていった。食器洗剤を使いたかったけれど、こちらのやり方に慣れなければいけないと考え直し、冷たい水や汚れと格闘する。汚れはこんなに落ちないものなのだと身に沁みた。排水口がないから、汚れた水を処分する方法すら思いつかず、文に訊ねるとそこいらの木々に撒けば良いと言われて、わたしは赤面するように俯く。

「畑があればそちらに撒くのですが。それにしても、こんな高地で作物が育つかどうか」

「問題は夜の寒さと露だね」祖母はふむりと頷き、眉に皺を寄せた。「気候の急激な変化にも対応しないと。まだ遭遇してないけれど、この高地では天気も変わりやすいはずだ」

「胡瓜なら定期的にお裾分けできるけどそれだけじゃ駄目だよね」

 わたしの隣にいたにとりがぼそりと呟く。

「お気持ちは嬉しいですが、確かに」わたしは地理の授業を思い出しながら、ぽつぽつと考えを口にする。「寒冷に強い植物……馬鈴薯や玉葱でしょうか。あと麦も有名ですよね」

 北海道産が有名な農産物を挙げたけれど、祖母はそれでも渋い顔をしていた。

「それにしても、ここは寒い。札幌よりも最低気温が低いんだ。夏でこれだから、秋には氷が張るかもしれない。冬は言わずもがなだ」

「ロシアや北欧の農業とか、きちんと勉強しておけば良かったなあ」

 ここでも知識のないことが新たな不安を生み出していく。知とは厳しさの中でこそ試されやすいのだ。

「ビニールハウスといってもここにビニールはないだろうし。硝子で代用できるものなのか」

 「硝子張りの温室なら、河童の集落内で実運用されているよ。でも確かに硝子は高級品だからなあ。今のままでは便宜も難しい」

「今のままでは、ですか?」

 含みのある表現をしたので訊いてみると、にとりは小さく頷いた。

「この家は技術の塊だから、その供出と引き替えにできると思う。増改築諸々の費用もそこから捻出しようと考えていたんだ。文さんに聞いたけど、この家にはお金がないんでしょ?」

 わたしは迷った上で首肯した。外世界で通用するお金ならあるけど、そんなことを話しても意味はない。

「天狗に認められないことには、わたしも大っぴらには動けない。同じ河童相手なら、交渉の手伝いもできるけど」

 結局のところ、話は始まりに戻ってくるわけだ。妖怪の山に住む偏く、少なくとも天狗から居住権を得ない限り、ここで生活してくのは極めて難しい。わたしは改めて、己の立場を痛感させられた。

 

 申し訳なさそうなにとりを励まし、送り出すとようやく一日が終わったという気持ちになった。昨日ほどではないけれど、腹が膨れたこともあって、疲労がどっと押し寄せてきた。吹き抜けていく肌寒さにも促され、わたしたちは家に戻る。

「課題ばかりが山積していく感じだね」祖母は平静を装っていたけれど、その表情は深く険しい。「わたしは思った以上に、文明に染まりきっていたらしい。いや、わたしの生まれた頃には拙いながらガス、電気、水道が揃っていた。戦争中は似たような暮らしを営んだけれど、常だったわけではない」

 弱音に近い祖母の言葉が、ずしりと胸に重い。

「まあ、追々やっていきましょう。面倒ならわたしに押しつけて構いませんから」ここに住むのは止した方が良いと言っていた文がわたしや祖母をフォローしていて、何だか変な気持ちだった。「疲れていると、考えも沈みがちです。深酒の影響も残っているでしょうし、今日は早く眠ってしまいましょう」

「そうだね。実を言うと、すぐにでも眠ってしまいそうだ。申し訳ないが、お先させてもらうよ。早苗もできるだけ早く寝た方が良いね」

 明かりがなければ本も読めない。電気がないからゲームもできない。やることがなければ、眠るしかないのだろう。

 お休みの挨拶とともに祖母を見送ると、居間にはわたしと文だけになった。すると先程の諍いが思い出され、急に気まずくなった。

「わたしも、もう寝ます。あの、えっと……お休みなさい」

 わざとらしくあくびをし、席を立つと文は闇に溶けるような声を投げかけてきた。

「お休みなさい。きちんと布団を被って寝て下さい」

 言われなくてもそのつもりだった。わたしは自室に戻り、敷きっぱなしの布団に視線を落とす。明日、晴れていたらきちんと干して、あとは服やタオルも洗う必要がある。そんなことを考えながら着ていた服を脱ぎ、下着姿になったところで、わたしはあることに気付いた。

 汗と、煤の臭いがする。よく考えると二日前の夜に体を洗って以来、手洗い以外で身を清めるということを一切していない。一度気になると、わたしは少なからぬ混乱を覚え始めた。随分落ち着いたと思っていた症状が、首をもたげてきたのだ。

 我慢するべきだと思い、下着を脱いで布団に潜り込む。そのまま目を瞑り、何とか眠ろうとしたけれど、意識すればするほど臭いがきつくなり、いよいよ耐えられなくなった。精神的なものだと分かっていたけれど、緊張と喉の乾きが押し寄せてきて、どうしようもなかった。

 せめて汗だけでも流したくて、わたしは脱いだ服を着込むと、タオルを持って窓からそっと家を抜け出した。川の水は綺麗だから、わたしの汚れと臭いを流してくれるのだと、強く心に念じる。

 わたしを邪魔するように夜風は冷たく、それでも気持ちは変わらなかった。わたしは汚いという気持ちを抑えられなかった。

「どうしよう、どうしよう……」

 文明の恩恵がないこの地では、毎日の入浴など不可能だろう。沸かした湯で全身を拭うだけの日もあるはずだし、髪の毛は数日に一度しか洗うことができないかもしれない。考えただけで怖気がし、そんなことを考える己に自己嫌悪する。

「ここに住んでいる人が皆、汚いと言っているようなものじゃない。そんなの駄目だよ」

 悪いことだと分かっているのに、汚いのが我慢できない。葛藤を続けながら源泉を下り、水の流れに飛ぶ足を委ねていると突如、大きな水跳ね音が聞こえた。獣でもいるのだろうか。警戒しながら音のしたほうに近付くと、流れが一時的に緩やかとなっている溜まりの中央から、見知った顔がひょこりと出てきた。

「あやや、早苗さんも水浴びですか?」

 星々と猫爪のような三日月だけの弱い光に照らされた文は、冷水に浸かっているためかなおのこと青白く、水気を吸って黒髪がしんなりと垂れていた。瞳と唇だけがほんのりと赤くて、髪の毛からそろりと覗く鋭い耳も相まって、どこか異界めいた艶めかしさがあった。普段のさばさばとした印象があるから、余計にそう感じられた。

「はい、その、体の臭いが気になって」

「ふむん、別に不快な臭いはしなかったですけどね」文は無造作に水から出て、ぽたぽたと滴を垂らしながら近づいてくる。当然ながら一糸纏わぬ姿であった。文はかちこちになっているわたしの服を濡らさないよう、慎重に鼻を近づけてきた。「僅かに臭うけど気にする程度じゃありませんよ。まあ、早苗さんが気になるなら止めませんけど」

 文は亀のようにひょいと顔を引っ込め、それでもわたしは一歩も動けなかった。細く引き締まった四肢の全てが剥き出しになっていたからだ。目の前でぱちんと大きな音がして、わたしはようやく我に帰り、つと目を逸らす。それで文はようやくわたしの恥じらいに気付いたらしく、声を隠して笑い声を立てた。

「わたしの完璧な体型に見とれてしまったようですね。さもありなん、さもありなん」

「外世界の人間は、他者に裸を見せたりはしません」

 一部でも事実であることが癪で、わたしはまるで酷い不道徳だと言いたげに、不機嫌を装った。すると文はからかうように訊ねてくる。

「へえ、それはおかしいですね。人間だって、他者の前で裸を見せることくらいあるでしょうに」

 明け透けな物言いに、わたしはついかっとなった。相手の真意を確かめず、頬を叩こうとした。文は振りかざそうとしたわたしの手首をきつく掴み、それでいて何やら戸惑い気味であった。

「早苗さんは共同浴場に行ったことがないのですか? 人里には何軒もあると聞きますが。まさか外世界では服を着たまま入るのですか?」

 不作法なと言いたげな文の声に、わたしは己の下世話な曲解に気付かされ、赤面しそうな思いだった。頬の色でそのことを勘ぐられなかったかと、わたしは気が気でなかったけれど、文はわたしの手を離し、そっぽを向いてわたしの元から飛び去っていく。

 機嫌を損ねたのかと考えただけで、心がちくりと痛んだ。夕飯の時に生まれた行き違いのようなものを正しておきたいと考えたのに、まるで逆の方向に話が進んでいる。そのことが生み出す動揺を抑えきれないことに、わたしはまた驚きと不安を感じていた。

 沸々とした気持ちを駆り立てているうちに、また臭いが気になってきた。いっそこのまま、服を着たまま水を浴びようかなんて馬鹿なことを考えていると、川縁に渦を巻くような風が一陣、柱のように伸びていった。少しして、文が服を着込んだ姿でわたしの元に現れた。髪はまだ少し濡れていたけれど、それにしてもものの三十秒もかかっていない。天狗の早業と言わざるを得なかった。

「わたし、こういう性格ですから」文は照れくさそうに濡れ頭をかき、胸に手を当てた。「それに新聞記者ですし。思ったことは聞いちゃうんです。不愉快な思いをさせてしまうかもしれませんが、平にご容赦を」

 どこか尊大さを感じさせるけれど、わたしに配慮していることはよく分かった。

「でも、早苗さんだって良くない。人間にとって秘するは美徳かもしれませんが、何か言いたげに口ごもりながら非難の目を向けられれば、寛容なわたしだって腹を立てたくもなります」

「そんなこと」していないと言いかけて、わたしはすんでのところで留めた。鍋のことで機嫌を悪くした文にわたしは理由を問わなかったし、今もこうしてまた何も言わず誤解に任せて頬を叩こうとした。後者については明らかに良くないことだったし、前者についても何らかの理由があるのかもしれなかった。「わたし、とてもお腹が空いていたんです。泣きたいくらいに」

「分かってましたよ。でも、十分に火を通さない肉や野菜は人間の体に危険です。天狗でさえ侮って、腹を壊すものがいるのです」

 そんな大袈裟なと言いかけ、そこでわたしはあることを思い出した。この世界には糞便や排水の施設すら満足に整っていない。外世界ほどの衛生管理は当然ながら行き届いていないに違いなかった。文が鍋を厳しく引き受けたのは、人間であるわたしや祖母に万一のことがないか配慮してのことなのだ。

 それでもわたしはなお、弁解の言葉を先に立てた。

「外世界の食べ物は清潔なんです」

「なるほど。するとわたしの態度は狭量に見えたでしょうね」

 文はわたしを責める様子など微塵もない。それでようやく、わたしは素直に謝ることができた。

「ごめんなさい。わたし、河豚みたいな膨れ面でしたよね?」

「河豚なんてここ数百年、一度も食べていませんよ」

 そう言って、文は暖かい微笑みをわたしにくれた。そのことが何だか妙に気恥ずかしくて、わたしは誤魔化すように言った。

「わたし、体を拭いてきます。覗かないで下さいね」

「別に良いじゃないですか。それに早苗さんはわたしの裸、見たじゃないですか」

 白い肌と整った四肢を思い出し、わたしは少しばかりの妬みと共に言い返した。

「別に見せて欲しいだなんて頼んでいません。文さんが勝手に霰もない姿で現れただけですから」

「手厳しいなあ。まあ、これからも機会は沢山ありますし、何れご本尊を拝む幸いに服することを期待しましょう」

 それから文はいきなり、わたしに抱きつき、髪や首筋に鼻を寄せてきた。

「大丈夫、やっぱり臭いません。早苗さんの良い匂いがします」

 そう言ってひょいと身を離し、文はあっという間に視界から消えてしまった。

「水は冷たいですから。布で拭うだけとはいえ、気をつけて」

 遠くにいるはずなのに、耳元で囁かれているようなのは、風を操る力の一環なのだろうか。わたしは誰もいないのにわざとらしく咳払いをし、川端に辿り着くと、服を脱いで外気に肌を曝した。桶に水を汲み、タオルをつけて絞るとそれだけで手がきんと冷えた。

「確かに水浴びは無謀だったかも」特に心臓が弱いというわけではないけれど、準備なしに入れば手足がつるかもしれない。「早く済ませて戻ろう」

 汗のかきやすい箇所を重点的に拭い、顔を洗う。髪の毛は一度ざぶりと水を被ってから、丁寧に拭いていく。シャンプーやボディソープは使わなかったけれど、嫌な臭いがする感じは概ね拭いさられていた。

「これで大丈夫になったのかな」自分に言い聞かせようとしたけれど、まるで実感がなかった。だから臭いの気にならない理由が本当はどこにあるのか、理解するほかなかった。「家に帰ったら髪を乾かして、寝よう。明日、文さんにお礼を言おう」

 決意しないと曖昧に誤魔化しそうだから、わたしははっきりとそう口にした。荷物をまとめ、自宅に戻る途中、どうして文の言葉がこんなにも胸に沁みたのか、割と真剣に考える。

「わたし、文さんのことを信頼しているのかな?」

 会って二日にも満たない、人間ですらない彼女。そんなことが有りうるのか、わたしにはよく分からなかった。きっと誰とも仲良くなれた幼少の記憶が曖昧であり、それからは消極的な性格のために人付き合いを狭い範囲に限定してきた。仲の良い友人がいなかったわけではないけれど、わたしの方から打ち解けるにはいつも長い時間がかかった。

「頼る人が他にいないということもあるかもしれない」それでもと、わたしは思う。「わたしは文さんのこと、信頼したいのかな?」

 口は酷いし、傲慢で自惚れも過ぎる。でも、優しいところもある。すぐ打算で誤魔化そうとすることもあるけれど。

「人のこと言えないよ。文さんもきちんと物を言わないじゃない」

 わたしは文のことをもっと知りたいのだろうか。

「分からない。わたしはまだ何も知らない」

 文のことだけではない。幻想郷のこと、そこに住む様々な種族の妖怪のこと。わたしはほんの一部を垣間見ただけに過ぎないし、実をいうとここに至ってまだ少しだけ疑っていた。

「わたしは狐狸の類にでも化かされているのかもしれない」

 どちらにしろ、わたしの運命を決める出来事は間近に迫っている。

「天狗の頭領が主催する集会」そこで何が決まり、事態がどう転ぶのか。それもわたしには分からない。「わたしはそこで……」

 何を選ぶべきかが、おそらく問われるに違いない。根拠はなかったけれどそんな気がしてならず、すると意味もなくぶるりと体が震えるのだった。わたしはそんな予感をわざとらしく心の奥に押し込めて、寒さのせいだということにした。

 

 

 それからの三日間は、文明の薄い世界の生活に適応するため費やされた。なるべく外世界の消耗品を使わないことを目標にしたけれど、それがどれほど大変であるか、わたしはすぐ思い知らされることになった。

 まずは食事だが、主に燃料の理由から三食作る余裕がないと分かった。朝夕の二食を確保するだけでも精一杯で、量も控えめを心がけたから、昼を過ぎるとお腹が無性に空いて切なくなった。外世界のおやつは保存が効いて長持ちするから、今の状況では迂闊に食べられない。常温保存のできる野菜や果物、缶詰や調味料ともども大事にしなくてはいけなかった。文が魚や野菜、祖母が食べられる野草を調達できるというのに、わたしは何も得られなかったから、我侭を言う訳にもいかない。育ち盛りだなんて言い訳にならなかった。

 次に屋内外の掃除だが、掃除機を使うことはできないけれど、料理ほどは辛くなかった。主に中学校のとき、箒のかけ方や雑巾の絞り方を厳しく仕込まれたからだ。当時は時代錯誤とも感じたのだけれど、今は授けてくれた教師たちに強い感謝の念を覚えている。

 外に出ると、温度差のせいか庭先に生えていた草花が既に衰えつつあった。視線をもう少し先に向けると、散り散りに薙ぎ倒された高山植物や樹木の名残が見える。飲み比べのとき羽目を外した天魔さんが残していった爪痕の一部だ。目立つ所は文が片付けてくれたけれど、元通りになるにはもう少しかかりそうだ。

 古びた神社は考慮の末、基礎を残して大幅改装することに決めた。信仰の礎となるには余りに古び、神意が離れ過ぎていたからだ。できれば温存したかったけれど『博麗神社にも増して神意から遠い。不吉ですらある』と言われれば、頷かざるを得なかった。祖母に具体的な改装計画があるのも、わたしが話を飲んだ理由の一つだった。結局のところ住に関しても、わたしは何の貢献もできなかったわけだ。

 それならば衣で挽回しようと腕をまくったけれど、一番辛いのがここだった。洗濯機は動かないから、たらいと洗濯板を使う必要があるのだけれど、これが実に重労働なのだ。幻想郷で作られている石鹸は効き目が弱く、汚れが落ちにくいのも作業を辛くしている理由の一つだった。腕や腰がたちまち筋肉痛になり、温かい風呂に入りたいという気持ちがますます高まっていく。実際には熱湯で体を拭うのが精一杯だった。髪の毛を試しに石鹸と水で洗ってみたけれど、案の定ぱさぱさに痛んだ。高価なシャンプーは使っていなかったけれど、それでも髪の毛や頭皮への影響がまるで違う。髪を短く切った方が良いのかもしれない。

 高所であるためか、温度の割に服の乾きが早いのはありがたかったけれど、天候がすぐに臍を曲げるというデメリットもはらんでいた。強風を含んだ雨は予想していたよりも突発的で強く、細くない枝までがぱらぱらと巻き上げられた。硝子張りの温室を作るのは少し難しいのかもしれない。

『寒さと風、おそらくは霧に霜。これらに強い作物しか、ここでは育たないだろう』

 祖母が難しそうな顔で言ったけれど、わたしも同意見だった。

 悩みだけがどんどん募っていき、更に数日が過ぎた。天魔さんからの連絡はなく、わたしたちは事態の進展しなさにじりじりとし始めていた。そうして一週間ほどが過ぎた日の午後、にとりが大きな荷物を背負い、やってきた。

「こんにちはっす」にとりは何故か微妙に体育会系口調だった。わたしとの距離を計りかね、微妙な語尾になったのだろう。引っ込み思案にはありがちなことだ。「早苗さん、いま忙しいかな?」

「先ほど一仕事終わったところです」竿にかけられた洗濯物がぱたぱたとはためく様をぼんやりと眺めていた。今頃の時間になると、わたしはいつもそうして過ごしていた。あまり動くとお腹が空いて後から辛いからだ。「ごめんなさい。何も進展がなくて、にとりさんにお仕事を頼むことができません」

「それなら大丈夫。考えること、勉強することはなくならないから」いかにも才童らしいことを言い、にとりはポケットから胡瓜を出した。「あの、お腹が空いて辛そうだって聞いたから。これで癒せるかどうか分からないけど」

「いえ、非常にありがたいです」わたしは涎を抑え、調味料を取りに戻る時間も惜しくて、剥き出しの瑞々しさと青臭さを味わう。外世界の胡瓜と比べて水気が少ないけれど、喉と空腹を同時に潤すには十分だった。「いただきました、ごちそうさまです」

 食前の挨拶を忘れていたので併せて口にすると、にとりは目をぱちぱちさせた。

「早苗さん、河童みたいに胡瓜を食べるんだね」

「いつもは調味料をかけるんですけど。お腹が空いていましたから」

「胡瓜は何もかけないで食べるのが良いと思うな。胡瓜だけじゃない、野菜は調味料をかけると水気が飛んでしまうし、喉が渇いちゃう」

 どうやら河童は野菜本来の味がきついとは感じないらしい。寧ろ水気が何よりも大事らしい。

「それじゃ、塩をたっぷりと利かせる漬け物は苦手なんですか?」

「いや、あれはあれで美味しいよ。冬場は保存させないといけないってのもあるけど。ただ無性に喉が渇くから、あまり食べられない。同じ塩味でも、鍋や煮物は割と平気なんだけど」

 同じ理由で漬け物が駄目だと言う人間もいそうだけど、河童の場合はおそらく種族全員が似たような嗜好なのだろうと推測する。

「なるほど。すると天狗にも好きなもの苦手なものはあるんですか?」

「いや、天狗は雑食だよ。ただ、文さんは烏天狗だから鳥類を食べるのは嫌がるんじゃないかな」

 そう言えば、文は魚を好んで捕ってくるけれど、鳥を狩って来たことは一度もない。そしてふと嫌なことを考えた。

「もしかして、虫が好物だったりします?」

 わたしの質問に、にとりは苦み走った表情を浮かべたどうやらビンゴらしい。

「前に、飛蝗の佃煮が大好物だって言ってた」

 生で食べることもあるのかと聞きかけ、わたしは口を噤んだ。世の中には知らない方が良いこともある。

「も、椛さんは狼ですよね。彼女はやはり肉食メインなのですか?」

 悪戯に深い方向へ話が及ぶ前に、わたしは別の話題を振った。

「そうだね。だから野菜は全般的に苦手なんだ。彼女とは気が合うけれど、その一点に関して言えばまるで話が合わない」

 にとりは俄に頬を赤くしている。臆面もなく怒りを露わにするのだから、余程親しい間柄なのだろう。

「ある時など、狩った兎の皮を剥いで生でバリバリ食べていてね。もう少しで喧嘩になるところだったよ」

 口元を赤く染めながら獣を貪る姿を想像することは割と簡単だった。国民的な人気を誇るアニメ映画に、似たようなシーンがあったからだ。わたしの胃と心は俄に重くなった。理性的で賢そうな椛が、同時に強烈な野生と凶暴さを併せ持っていると知ったからだ。外世界の理で考えてはいけないと分かっているのに、人間でないことを感じると少し、辛い。

「早苗さんからも言って欲しいな。野菜も食べないと健康に悪いって」

「分かりました、善処します」まるで政治家の答弁だなと思いながら、わたしは更に話を逸らす。「ときに今日はどのような用事で? 随分と重たい荷物のようですが」

「これくらいならへっちゃらだよ。そうそう、燃料の節約になるような品物を持ってきたんだ」

 にとりは背嚢を下ろすと太陽の位置を確認し、何かを組み立て始めた。少なくとも河童の間にはねじが普及しているようで、ドライバやレンチらしきものを駆使して、ものの十分もしないうちにパラボラのようなものを完成させた。

「これは一体、何に使うのですか?」

「太陽光を効率的に集める装置だよ。これだけの高所ならば、昼間に置いておけば夕刻までにかなりの温かい湯ができるはず」

 ここの気温で湯と言えるほどの熱量が得られるとは思わなかったけれど、折角の好意を無碍にするわけにもいかない。それににとりは才のある河童である。できないことを自信満々に語る性格でもない。

「同じように、太陽の熱を使って調理する器具も用意してみたんだ。卵を焼くくらいなら火を使わなくてもできるよ」

 そこまで言って、にとりはまずいことに気付いたらしく、今のはなしとばかりに首を振った。

「文さんって烏天狗だよね。卵は怒るかも」

「鶏の卵だったら平気そうでしたけど」卵は足が早いからとゆで卵にしていたのだが、文はけろりとした顔で食べていた。「残酷なことをしたのでしょうか?」

「彼女だったら嫌なことは嫌だと言うんじゃないかな。鴉の卵でなければ平気なのかも」

 それはエゴイスティックな考えだと思ったけれど、口にはしなかった。それに人間だって、同じほ乳類の肉を平気で食べる。文にとって鶏の卵を食べるのは、似たようなことなのかもしれない。

「でも、鶏肉は嫌いなんですよね」基準がよく分からない。否、わたしが天狗の倫理感をきちんと把握していないだけなのだろう。「難しいなあ。いや、素直に訊けば良いだけの話なのでしょうけど」

「ううん、難しいと思うな」人見知りのにとりが言うと、不思議な説得力があった。「嫌なこと、苦手なことを聞くのって、辛いよ」

 わたしとにとりは強い共感のうち、しみじみと溜息をついた。良くない癖だとは分かっていても、内向的ゆえの窮屈さを吐き出すのに必要な儀式なのだから、本当に仕様がない。

「取りあえず、組み立てておくよ。使わないならば次に来たとき撤去するから」

 わたしは小さく頷き、不意にあることを思い出した。洗濯を楽にするため、考えていたことがあったのだ。わたしはそのことをにとりに耳打ちする。

「外世界の洗濯機を基に着想しました。そんなに複雑な構造でなくて良いんです。動力はわたしですから、あとは遠心運動できる機構ときつく蓋のできる排水口があれば」

「それならば、何とかなると思う」にとりは即決で請け負ってくれた。「早苗さんの力でどう動くのか一度試験してみたいな。プロトタイプができたら、ここまで持ってくるよ」

「そうですね、大変だとは思いますがよろしくお願いします」

 わたしは他の天狗に見咎められるのを避けなければならないからだ。行動の制限がいよいよ厭わしくて、わたしは痺れを切らし始めていた。

 

 天魔さんが椛を共連れにやってきたのはその日の夕刻、逢魔が時というにふさわしい赤光たなびく時間帯であった。最初こそ当てこすりの一つでも口にしようと考えていたのだけれど、余裕のある童顔に貼り付いた憔悴のようなものを見て取れば、何も言えなかった。

「すいません、ようやっと準備が整いまして」

「遅い。天狗は疾きことを旨とする種族ではないのかい?」

 祖母は実に容赦ない言葉を正面からぶつけた。童天狗は良い笑みを浮かべ、わざとらしく頬をかいた。

「いやはや面目ない。鶴の一声が有効であれば良かったのだけれど。わたしは頭領であるとはいえ所詮、落ちたものに過ぎないので。しかして手筈は一つを除いて整いました。根回しを完成させるために、わたしは今日こうして訪れたのです」

 天魔さんは祖母の手を取り、真面目な顔で言った。

「結婚してください」

 部屋の中が冷たい空気で満たされる。わたしと文はふと顔を見合わせ、祖母は絆されることなく首を横に振った。

「それしか道がないと言うのならば、受けないでもないが」

「いや、これは心変わりしていないかなと期待しての行動でして。駄目なら無理強いはしません」童天狗はするりと手を放し、わたしと文を視界に収めて言った。「では本題を。そこの二人、結婚してください」

「は?」我ながら実に気の抜けた言葉であった。「えっと、何を仰りたいのでしょうか?」

「結婚というのは夫婦の契りを結び、共に暮らすことだよ」

 辞典から引いたような定義を口にされても、わたしには何も言うことができなかった。否、言うべきことが山ほどありすぎて口にすることができなかったのだ。

「ちょっと待ってください。その理屈はおかしいです」一足先に思考が追いついたのか、文が口角を飛ばす。「どうしてわたしが人間風情と結婚しなければならないのですか?」

「そ、そうですそうです。わたしだってこんな、会って間もない人ですらないものと、あまつさえ結婚だなんて真っ平御免です」

 文の腹立たしい抗議に押され、わたしも飄々とした様子の童天狗にきつく文句を言う。

「まあ、なんというか、これも不徳の致すところでね」まるで反省していない口調で言うと、次いで煙草の煙でも吐き出すような長い息をついた。あまりにもわざとらしい仕草だった。「舌先三寸嘘八百を並び立て、何とか誤魔化そうとしたけれど駄目だった。証がなければ、多岐に思想の分かれた天狗全てを納得させることはできないんだ」

「証って、わたしと文さんの結婚がどのような証になると言うのですか? 天狗と人間の婚姻に、いかなる重さがあると言うのです?」

 兎に角も結婚が嫌で、わたしは真摯に詰め寄っていた。天魔さんは文に揶揄するような視線を向け、それからわたしに言った。

「正確には神業を持つ巫女と、天狗の結婚」彼は意味が分かるかと言いたげに、わたしの両瞳を強く見据える。「成立すれば、人間を良く思わない天狗と言えど、反論することは極めて難しくなるはずだよ」

 おそらく天狗には意味のあることなのだろう。そう考えて文のほうを見ると案の定、あんぐりと口を開けかけていた。余程衝撃的だったのだろう。

「幸いなことに、早苗さんは祭祀者にして神の末裔であり、その力も申し分ない。あとは巫女らしい姿をすれば大丈夫だよ」

「結婚するという前提で話を進めないで下さい」文は天魔さんを、続いてわたしを睨み付け、気炎を吐いた。「わたしはこんな、ちんちくりんの娘風情を娶る気などありません」

「ち、ちんちくりんとは何ですか? わたしより小さい癖に!」

 高下駄を履かなければ文のほうが心なし、背丈の低いことを指して言ったのだけれど、文はぐと歯を噛み締め、顔を赤くした。

「この体のほうが、抵抗が少なくて早く飛べるんです。増やそうと思えばいくらでもできますから。誤解しないでくださいね」

 違うと言いかけたところで、何とも覇気のある呵々大笑が、辺りの空気を震わせる。どこからそんな声をと言いたくなるような勢いで、童天狗が腹を抱えて畳の上をじたばたしているのだった。

「あはっ、いやあ可笑しい。息がぴったりじゃないか。まるで長年連れ添った夫婦のようだ」

「冗談じゃありません」「冗談言わないでください」

 文と声が重なり、わたしはいよいよ頬が火照るのを感じた。

「いやはや、なんともはや」童天狗は清々しいほどにわたしと文を笑い切り、すると表情を鋭く切り替えた。「申し分のない話だと思うけどね。相性は良い、働きは甲斐甲斐しい、伴侶と迎えるに吝かではないと考えるのだけれど」

「だって、文さんは女性ですよ」

「天狗は同姓同士の婚姻を認めているよ。そのことで人間のように差別や偏見をぶつけたりしない」

「それでも、無理です」同姓を好きになることはあるかもしれないけれど。いま好きでない相手と、将来好きになるかもなんて希望的観測で結婚するのは絶対に嫌だった。「本当に、それしか道はないんですか?」

「そこまで嫌がるのか。文、怒らないから正直に言おう。早苗さんにどんな酷いことをしたのかい?」

「何もしていません。感謝されこそすれ、ここまで非難されるとは思いもよりませんでした」

「ふむり。すると外世界に余程忘れられない相手でもいるのかい?」

 わたしはある人物の顔を思い出しかけ、強く首を横に振った。「いません!」と大声で言い、どこか調子の合わない会話に新しい戸惑いを覚え始めていた。

 そのとき、これまで黙っていた祖母が突然、声をあげた。

「ああ、そういうことか。早苗、彼らは外世界の人間が恋愛結婚することを知らないんだ。悪気や含むところがあるわけじゃないよ」

 わたしは思わず声をあげそうになった。そう言えば、恋愛結婚というのは割と最近にできた考え方であると、授業で習った気がする。

「外世界の人間は、お互いに慕い合った相手と結婚することが主流なんだ」

 祖母が改めて説明すると、これまでけろりと話を進めてきた童天狗が初めて動揺の端緒を窺わせた。

「それは随分と気の長い話だね。それに効率も悪い」

「外世界では、医療が高度に発達した結果、死産が大幅に減少したんだよ。だからそのような効率の悪さも許されるようになったんだ」

 恋愛結婚は医療の進歩よりもむしろ西洋文化の影響が強いはずだ。そこを敢えて外したのは、説明が面倒になるからだろう。

「うーむ、出産で死ぬことなく、寿命もほぼ関係のない天狗には、そういう考え方は生まれなかったけど」天魔さんはどうにも納得できないようであったが、次の一言で無理矢理納得させた。「まあ、人間は天狗と違いますからね。しかし困りました。わたしはこの縁談をもって、皆を納得させる予定だったのですが」

 天魔さんと、続けて祖母の視線がわたしに向けられる。わたしは重圧に息を飲み、それでも小さく首を横に振った。

「わたしは早苗に無理強いできない。すると……」

「嫌だなあ。そういう打算で結婚するなんて」

 こちらには縁談を振ってきた癖に、恋愛を成就させようとしている童天狗が何とも図々しかった。

「わたしは一度結婚しているし、勤めも十二分に果たした。次は自由にすると決めているんだ」

 言い訳がましくそう口にすると、文は当然のように強く食ってかかった。

「わたしだって嫌です。人間なんて」

 すると、天魔さんはこれまで脇に控えていた椛に声をかけた。

「では椛、早苗さんと結婚して欲しい」

 当然ながら、椛はわたわたと慌てながら、声を張り上げた。

「え、ちょっと、ま、待って下さい。それは……命令ですか?」

「どう捉えてくれても構わない。ただ、そうだね。君の地位について取りなすに吝かではない」

 椛の地位がどれほどのものかわたしには分からない。ただ、その一言は椛を否応なく黙らせ、わたしに視線を寄せさせた。

「白狼天狗に横から浚われるくらいなら、わたしが結婚します」

 ばん! と大きな音が立った。少しして両掌が痛みを帯び、それでようやく座卓を叩いたのだと気付いた。

「わたしの気持ちは」そこまで言いかけ、しかし次を口にすることはできなかった。ここまで紛糾しながら、我を貫くのはいくら何でも我侭過ぎると悟ったからだ。「考える時間をください」

「分かった。でも、その、申し訳ないんだけど、大天狗たちへのお披露目は明日の夜だと通達してしまったんだ。だから……」

 それはつまり人生の大問題を、たった一日で決めろということに他ならない。

「頭領なんだから、無理にでも延期させてあげられないのかい?」

「大天狗集会の発令を反故にすれば、いかなわたしと言えど失脚は免れません。そしてわたしほど貴女たちに寛容な天狗はいないのだということもまた心得てください」

 言い方こそ尊大だったけれど、天魔さんはどこかしょげた様子だった。悪いと感じているのだろう。わたしや祖母に寛容だという言葉に偽りがないと、その態度で痛いほど分かった。

 分かったからには、応えないわけにはいかなかった。それでもわたしは応じるの一語を、どうしても口にすることができなかった。ただ重たい沈黙を残したまま会合は終わり、明日また来ますという言葉だけを辛うじて残し、天狗の頭領と白狼天狗は夕焼けの残り香と共に去っていった。

 

 

 夕食は無言のまま淡々と進み、体を洗うためにわざわざ熱湯を用意してくれた文にお礼を言うこともできなかった。文は確かに良くしてくれるけれど、今日の話を聞いた後では何らかの打算があるのではと疑わざるを得なかったのだ。

 わたしは逃げるように自室に戻り、光なき中で布団も引かず、床の上にだらしなく寝転がる。背中が少し痛いけれど、構いはしなかった。

「結婚だなんて、困る」わたしは誰かと愛し合うことすらあの時以来、満足に考えられなかったのに。「ましてや、好きでも何でもない相手だなんて」

 こちらの世界では、恋愛結婚という概念が極めて薄い。例外もあるけれど、おそらくは一度は結婚とそのための責務を果たしきったからこそ許されることだ。寿命の短い人間に、二度目など滅多に許されない。

 もちろん手続きを踏めば離婚できる。しかしその意味合いでさえ、大きく異なる。外世界では個人同士に帰結するけれど、ここではより多くの共同体全ての問題となり、結婚の責務を放棄することに他ならない。生半な気持ちでは決められないのだ。

「しょうがないことなのかな?」この世界に来た以上、流儀に従うべきなのだろうか。「わたし、文さんと結婚するのかな?」

 口に出してみたけれど、ときめきのような強い感情は生まれなかった。ただ少しばかりの動揺と焦りが、胸のうちを去来するのみだ。

「こんなの一日じゃ決められないよ」我侭だと分かっていても、無理なものは無理だった。だからわたしは卑怯だけど、祖母に問うことにした。「狡いよね。自分の判断を、他人に委ねるなんて」

 祖母は一人きりとなったわたしの家族だけれど、今回の決定に際して過度の口出しができないくらいには他人だ。そこを敢えて求めるのだから、甘え以外の何ものでもなかった。

 それでもわたしは部屋を出て、居間から物音や話し声が聞こえないことを確認すると、祖母の部屋に向かう。襖をそっと開けると、祖母は座布団の上に座り、背を正して待っていた。どうやらわたしが訪れると、半ば予期していたらしい。だから、余計なことを挟まず言った。

「わたしには決められない」

「そうか、じゃあ残念だけどこの話はご破産だ」

「やらないとは言ってない。ただ、どうしたら良いか分からないの」

「少しでも迷うようなことに早苗を巻き込めない」

「誰だって迷うよ。迷ったらそれを回避して、そんなことを続けたら何も辿り着けないじゃない。そんな言い方、狡いし嫌だよ」

 狡いのは誰だ? わたしは心の声を黙殺し、祖母を責めた。然るにわたしは、予想以上に心を乱しているのだろう。祖母は瞑目し、何事かを話そうかと迷った末、ぽつぽつと打ち明けてくれた。

「早苗に話さなかったことが一つある。わたしにはかつて、神の姿を見ることができたんだ。早苗よりもっとしっかりした姿で」

 祖母に関するいくつかの来歴と同様、一度も聞いたことのない話であった。

「本土決戦によって人口の八分の一を失った日本が、米国の占領化に置かれたことは授業で習ったね。弓なりに伸びる土地は米国にとって、ソ連や中共への防壁に等しく、それゆえに手厚く庇護され、また基地化された。その後の四十年間、一九三二年から一九七二年まで日本は暫定的な米国第五十一州として存在した」

 それくらい小学生でも習うことなのに、つらつらと説明するのは根が教師である故だろう。わたしは祖母の言葉を聞き飛ばすことなく、おさらいするような形で歴史をなぞっていく。

「わたしは十五のとき、早苗の曾祖母にあたる女性から力を継いだ。要するに逝去したということだが、前後すること神の御姿を見ることができるようになっていた。祟り神として畏れられたというからどれほど厳ついかと思いきや、まるで幼い子供なんだよ。天真爛漫で、気のつく子だった。人を殺め、追い落とすだなんてまるで考えられなかった」

 これまでも、祖母は異類の扱いになれているのではないかと思わせるところがあった。特に天魔さんの扱いにはかなり慣れていたような気がする。それなりの覇気を滲ませていた時でさえ、祖母だけは妙に平然としていた。それも神との対話を通じて、接し方を学んでいたからだと考えれば筋が通る。

「もちろん、そんなに簡単な性格ではなかったけれどね。自分を蔑ろにし、忘れゆく土地のものを嘆き、恨んでいた。祟りと憎しみの華をいま一度、人の世に咲かせようと考えたことすらあった。ただ同じくらい、人間を誇りにしていた。神なしでこれほど栄えたことを素直に喜んでいたんだ。そのちぐはぐさがわたしには不憫に思えたし、徐々に己をすり減らさなければいけないことが拍車をかけていた。蝋燭が短くなるように、神は徐々に細く小さくなっていった。わたしも頑張ったけれど、徹底的な敗戦と基督教への教化が土着神への信仰を奪っていた。やがて、神は明確な人の形を保つことすら不可能になった。朧気にそうであると認識させることが辛うじて可能であった」

「だから、わたしは覚えてないの?」居たという認識はあるのに、わたしは神の細部をはっきりと思い出せなかった。今まではそれを己の不徳であると考えていたけれど。「どうして言ってくれなかったの? わたし、そのことで随分と悩んだのに」

「茫洋としたものならば、目を瞑ることができる。しかし共感できるものとして語れば、もはや無視することはできない」

 それではまるで、人間の形をしていなければわたしが神を見捨てたと言っているようなものだ。分かるけれど、あまり気持ちのよいことではなかった。でも、実際にわたしはその境界に立っていたのだ。

「わたしのことを恨みもせず、その姿を儚くしていった寛容に報いたいと言ったら、早苗はわたしに協力してあの天狗と結婚してくれるかい?」

 祖母の問いは柔らかな口調の中にも辛辣で、一切の曲解を許さないものであった。それでもわたしはただ訊ね返すことしかできなかった。

「わたしは残酷で自分勝手なのでしょうか?」

「他の誰かがそう言うかもしれない。だが、少なくともわたしはそんなことを考えたりはしないだろうよ。早苗が優しい娘であることを、骨身に染みて分かっているからね」

 祖母は淀むことなく言い切ったけれど、申し訳ないことにわたしを救ってはくれなかった。結局のところ言葉がなくなり、わたしはすごすごと撤退するよりほかなかった。

「ありがとう。わたし、もう少しだけ考えてみる」

「そうだね。ただ、考えるだけでは何も進まないかもしれない。最後には当事者同士の対話が、ことを決めるのだろうね」

 それはつまり、文と会話して結論しろということだ。あんなにも嫌がっていた彼女がまともな話し合いに応じてくれるとは思えなかったけれど、それならばわたしから歩み寄るしかない。気は進まないけれど。

「善処してみる」例によって曖昧な言葉を選んでから、わたしは少しだけ決意して言い直した。「あの、頑張ってみるから」

 わたしは祖母の部屋を出て、自室に戻る。その途中の廊下で、わたしは不意に飛び出してきた影と衝突しそうになった。

「おっと、危ない」文はわたしの体を支え、バランスを整えてくれた。「人間は夜目が利かないんですから。迂闊に歩いてはいけません」

「誰のせいだと思っているんですか?」

「わたしのせいだというなら謝るに吝かではありませんが、生憎ながら心当たりがありません」

 あんなことを言われたのに心当たりがないとは、鈍いにもほどがあると思った。だから暗いことにかこつけて、文の顔をきつく睨みつけた。

「そういう文さんこそどうしたんですか? 怖くて厠に行けないから、おばあちゃんに助けでも求めようとしたんですか?」

「幽霊なんて見慣れているし、敵ではありません。わたしはですね、その、何と言いましょうか」

「わたしと話をしたかった?」半分かまをかけてみたのだけれど、文は割と分かりやすく動揺してくれた。「結婚のことで」

「無論、その通りです。二人で話せないかと、こうして早苗さんの部屋を訪れた次第でありまして」

「そうですか。心当たりがないと言うから忘れているのかと思いました。文さんも所詮は鴉ですからね」

「鴉と烏天狗は別物です」相当の侮辱であったのだろう。文はわたしを壁に押しつけ、鋭く睨んできた。「早苗さんはたまに、癇に障ること言いますよね」

「文さんなんてしょっちゅうじゃないですか」

 何らかの落とし所を見つけたいはずなのに、いきなり喧嘩になってしまう。絆されることもあるのに、同時に腹が立ってしょうがない。こんな気持ち、生まれて初めてのような気がする。

「つまりお互い様ということです」先に折れてみせたのも、わたしを子供に見せるようで気に入らなかった。「そういったことを短い時間でできるだけ理解するために、話し合う必要があります」

「本当に話し合いですか? わたしの部屋をうろうろして。本当は夜這いでもかけて、既成事実を作ろうとしたんじゃないですか?」

「馬鹿なことを言わないでください。誰が人間の女なんかを」

「抱く魅力もない相手と結婚するんですか!」

 どうしてこんなことを口にしたのか、自分でも分からなかった。悉く魅力を否定してくる文が憎らしいのか、狡い言い回しで巧みに逃げようとしているのが、気に入らないのか。

 わたしは文を押し退けて自室に戻り、ドアを開け放して宣言する。

「勝手に入って来てください。そうして如何様にも好きにしてください。それとも文さんは、こんなか弱い人間の娘一人屈服させられないのですか?」

 気が付くと、わたしは畳の上に押しつけられていて。痛くなかったのは、風の力でクッションを作ったからだろうか。無駄に気遣われたのが、わたしにはいよいよ気に入らなかった。

「わたしは齢千年を越える天狗です。人間の娘如き、掌中に収めることは容易です。分かりますか?」

「ええ。ですから、早くやってください。わたしだって、若いなりに色々とやっていますから」

 嘘偽りがまるでないから少しだけ胸が痛かったけれど、仕方ない。若気の至りは時として、取り返しのつかない代償を求めることがある。

 文はわたしに跨り、上からじっと見下ろしている。その瞳はある種の熱を帯びているようであり、それでいてどこか寂しそうだった。わたしはまな板の鯉のように、ことが始まるのをただ冷静に待ち続ける。しかしいつまで経ってもことはなく、それどころか文はわたしをあっさりと解放してしまった。

「わたし、そんなに魅力がないんですね」

「いいえ。露悪で分かりやすい挑発に乗ることこそ、天狗の名折れと考えたまでのことです」文は自分を納得させるように頷き、朗々と言葉を続ける。「ふんぎりがつかないから、既成事実をもって己を納得させようとしたのでしょう?」

「別にそんなこと考えていません」わたしはやけになっていただけだった。誰かのためにしたことではなかった。でも、それで良いと思った。「そうですね、わたしが折れればおばあちゃんは目的のために動ける。文さんだって、何らかの見返りが得られるのではないですか?」

 頭領直々の命だ。それが人間との結婚という天狗にとって不名誉なことであっても、補い得る何かがあるに違いない。

「それでは、早苗さんの気持ちはどうなるのですか?」

「弱い気持ちならば、ないほうが良い」

「滅私奉公というやつですか? 人間にも天狗にも早苗さんの行いを誉めるものはいるでしょう。でも、わたしは気に入りません」

「では、どうしろと?」文がどういった結論を求めているのか、わたしにはまるで分からなかった。「きちんと言ってください」

 文はそうしなければいけないかと、目で問うて来た。わたしが頑としてはねつけると、何だか酸っぱい葡萄でも食べているかのような顔をして、ぽつぽつと語り出した。

「早苗さんは自分に魅力がないのかと言いましたよね。同じことを、わたしは早苗さんに問いたいです」

「そんなの、狡い」文はなんだかんだではぐらかし、答えを拒んできたからだ。でも、わたしが求める結婚は結局のところ、その一点にかかっているといっても過言ではないのだ。「ない、とは言いません。その、少しはありますよ。見ず知らずの相手よりは、といった程度ですが」

「ええ、そうですね。わたしもそんな感じです。こうやって」文はわたしの手をそっと握る。「不愉快とも唐突とも思わないくらいには」

「本当に、それくらいですね」わたしはもう片方の手を文に重ね、小さく息をついた。「でも、それ以上は今は無理です」

「まあ、いざとなれば離婚しても良いわけですし」折角の良い雰囲気を、文は堅い笑いとともにあっさりと崩してしまった。「ただ、そのときは天狗との繋がりが終了しますし、面子からしてわたしが早苗さんを捨てるという構図になると思いますが」

 それでも絶対のものでないと分かっただけでも、わたしの心は少しだけ軽くなった。現金だなと思いながらも、わたしは文の言葉を継ぐ。

「それに、まるで赤の他人が繋がるわけではないと分かりましたから。もう大丈夫です。一週間程度の付き合いですけど、わたしと文さんは他人じゃない。だから大丈夫の、はずです」

 それからわたしはふと思い立ち、一つだけ条件を追加する。

「そうだ、プロポーズの言葉が欲しいです」

「プロポーズ? なにそれ美味しいですか?」

 素っ気ない物言いだった。幻想郷にプロポーズなんて単語は伝わっていないのかなと思ったけれど、文は頬を少しだけ赤くし、分かりやすく嫌そうな顔をした。

「良いじゃないですか。心にもないことだって構いませんから」わたしは少し迷ってから、少し前に読んだ小説のことを文に話す。「浪漫的なことは期待していません。ただ、少しばかり雰囲気を望んでも罰は当たらないと思いますよ」

 わたしは片目を瞑り、文に顔を近付ける。照れくさそうにそっぽをむき、ぶつぶつと何か恨み言のようなことを呟いていたけれど、ふと何かを思い出したのか、渋々といった様子で話しかけてきた。

「前に、魔法の森を住処とする魔法使いの家で、それらしい一文を目にした覚えがあります」

 魔法使いとは、これまた何とも幻想小説的な職業であった。その手の話が好きなわたしは、そろりと口を挟む。

「魔法使いが恋の勉強ですか? それとも恋することが魔法の一環なのでしょうか?」

「彼女には想いを寄せる相手がおりまして。ただし未だに、気持ちの一欠片さえ伝えられていませんが」

「なるほど、まるで人間ですね」

「人間ですよ。わたしが知っている魔法使いのうち、魔法使いでない唯一の存在です。興味があるのならばそのうち引き合わせてあげますよ。さておき、借り物の言葉で良ければ早苗さんに捧げましょう」

 文は小さく息を吸い、そして朗々と詩を謳う。

 

  かのひとは、美わしく行く

  雲影もなき国の、きらめける

  星空の、夜のごとくに

 

  ぬばたまの、黒きもの、輝けるもの

  よきものはことごとく

  かのひとの、姿と瞳にこそあれ

 

  ま昼間の、まぶしさに、神の惜しみし

  あわれなる、夜の光に

  やわらかに、融けてこそあれ

 

 そこで文は詩をやめ、申し訳なさそうに口ごもる。

「すいません、ここまでしか覚えていませんでした。確か続きもあったと思うのですが」

 そうは言うものの、実に良い調子の詩であった。途中までであっても、想いに満ちたその内容はわたしの心を打った。必ずしも流暢ではなく、途切れ途切れであったことも、逆に好ましかった。

「その本の名前や作者は分かりますか?」

「いいえ。取材の際にちらりと見ただけですから」

「そうですか。では、いつか思い出してわたしに聞かせてください。それまでは、未完成の言葉たちで勘弁します」

 わたしは文の手の甲に、そっと唇を当てる。結婚というよりは寧ろ、契約に近い気がした。否、結婚も契約の一つだ。

「さあ、文さんも誓いをください」

 手を差し出すと、文は不審なものがついていないかとばかりにその状態を確かめ、匂いを探ってきた。その過程で唇が少しだけ当たり、文は慌てて顔を離した。

「これで良し。あとは本番に備えて眠るだけです」おそらくわたしと祖母は大勢の天狗に囲まれ、晒しもののようになるだろう。たかが人間風情と散々、馬鹿にされるかもしれない。それでも、どのような結果になっても足を地に着けて挫けることはない。何故かそんな気持ちになれた。「では、また明日に。それともまだ何か質問でも?」

 文の瞳は暗がりの中にも、もの問いたげであると一目で分かる。だから先んじて訊ねたのだけれど、むっつりと黙ったままであった。

「そこに居座られては眠れません。それとも後悔していますか?」

「後悔しているのは早苗さんではありませんか?」

「聞き返すのは狡いです」わたしは文の退路を容赦なく塞ぎ、再度の問いを投げかける。「人間風情のちんちくりんなど願い下げですか?」

 あるいは。心の中でもう一つの可能性を思い浮かべ、しかし口にできなかった。天魔さんはそのことに気付いていたけれど、文はどうなのだろうか。

 答えはすぐ、そよ風のような感情とともに現れた。

「わたしは早苗さんのことを、幸せにはしませんよ」

「幸せなら、わたしが決めます」誰がどうして幸せになるなんて、誰にも分からないのだから。そのことが身に沁みていたから、すぐに言い返すことができた。「でも、ありがとうございます」

「どうして感謝されるんですか?」

「わたしのことを幸せにしようと、一度は考えてくれたんですよね?」

 その問いに文はふいと顔を背け、表情を気取られぬように背中を向けた。ゆっくりとドアを開け、こちらを振り向かぬまま言った。

「興奮して眠れない、なんてことがないように」

 文はわたしのことを子供扱いしたけれど、怒る気にはなれなかった。照れ隠しだと分かっていたからだ。文は「おやすみなさい」とわたしのほうを見ずに言い、軽やかな足音とともに去っていった。

「可愛いところもあるんだ」足音が聞こえなくなると、わたしは何気なしに呟いた。「わたしとは違うなあ」

 事実を当然のように飲み込み、わたしは小さく息をつく。わたしの身に興奮はない。微かな震えと、恐れがわたしの心を満たしている。否、文がいなくなったと同時に鮮やかに蘇ってきたのだ。

「こういうの、マリッジブルーって言うんだっけ」

 愛のない相手との結婚でも、憂鬱は訪れるものらしい。何とも不合理で怒りすら覚えたけれど、すぐに蒼い感情が全てを飲み込んでいく。形骸だと心の中で復誦しても、止められなかった。

 わたしは詩を口ずさもうとする。文がくれた借り物の言葉たち。既に大半が零れ落ちており、断片だけが宝物のように残っている。それらを心の中でこね回していると、少しずつ気持ちが落ち着いて来た。欠伸が出て、わたしを温かな寝床へと誘う。衣服を脱いで布団に潜ると、最初こそ冷たかったけれどすぐ暖かくなってきた。

「ウィムジイ卿とハリエットみたいには行かなかったけれど」寧ろ長年の月日を想いに費やしてきた彼らとはまるで逆だ。「よく考えれば、異種族との結婚だって浪漫的だよね」

 悲劇に終わりやすいのが玉に瑕だけど。そう心の中で付け加え、そもそも愛のない関係に悲劇など生まれないと考え直す。

 物語のようだ。

それはわたしの心を慰撫し、誤魔化すにはうってつけの言葉だった。だから心が沈みそうになると、同じことを繰り返した。眠くなるまで何度も、何度も。

 

 

 最悪の寝付きである割には良い目覚めだった。わたしは大してぐずることなく布団から這い出し、少し考えてからいつもの服を着た。本番にはまだ早いと考えたからだ。自室を出て居間に行くと、祖母がいて朝から繕い仕事をしていた。

 朝の挨拶をしてからふと思うところがあり、おそるおそる祖母に訊ねる。

「それ、もしかしてわたしのための衣装なの?」

「他に誰がいるね。早速で済まないけれど、着合わせをお願いできないだろうか」

「そんなの、急な結婚を手配した向こうに用意させれば良いのに」

 先程の不満をぶつけると、祖母は首を横に振った。

「守矢の祭祀者が身に着ける正式な衣装なんだ」

 祖母はそう言って、鮮やかな青地に独特の文様が入った袴を広げる。博麗神社の巫女が穿いていた赤地とはまるで異なっており、守矢の独特さを示しているようであった。

「上は、普通の白無地なんだ」わたしは祭祀服を広げ、まじまじと眺めた。「神前に立ち、誓いを立てるのにうってつけなのかな?」

 その誓い自体が偽りであることはさておき、守矢の祭祀服は洋服しか着たことのないわたしにとって、とても新鮮に移った。

「服の上からで良いから着てみておくれ。裾や足回りを詰めるから」

 祖母に請われ、わたしは着物と袴をするりと身に着ける。帯を少しきつめに巻くと、祖母が楽で崩れない結び方を教えてくれた。

「これで良し。ふむり、問題ないようだね」

 どうやらわたしは母の体型に近づいているらしい。和服だから多少の余裕は許されるといえ、わたしが祭祀者であることを示しているよう思えた。感慨に耽ることしばし、わたしはこの姿を文に見せたくなった。

「あの、文さんはもう出かけられたのでしょうか?」

「いいや、まだ寝てるんじゃないのかい?」祖母はそう言ってから、天狗に感化されたのではないかと思えるような笑みを向けてきた。「惑うことなく衣装合わせに協力してくれたからもしやと思ったけれど、あれから文と何か話したのかい?」

「誤解しないで。わたしと文さんは利害の一致を確認しただけなんだから」

 祖母はわたしの言葉を信じていないようだった。嫌ならやめても良いと言ってくれなかったからだ。

「でも、結婚しても良いとは考えたわけだ」

「離婚する自由だってあるのよ」

 わたしは言い返し、祭祀者の服を脱ごうとした。そのとき襖がゆっくりと開き、次いで現れた文の姿に、わたしは目を瞬かせた。彼女はいつもの服の上から、青々と茂る草木を思わせる小袖を羽織り、頭にはぼんぼんのような白い毛玉のついた頭巾と、鮮やかな朱のかんざしを身につけていた。頬にはうっすらと白粉を差し、唇にはごく上品に朱を差していて、普段から整った顔立ちをより麗しく見せていた。これまでお洒落にまるで興味を示してこなかったわたしを後悔させるくらい、文の着飾りは上品で洗練されていて、まるで隙がなかった。

「どうやら天狗様は今回の結婚に全力を尽くしているようだね」

 祖母が軽くからかうも、文は感情を乱すことなく平然としていた。

「大天狗集会ですからね。下手な格好で出れば噂はあっという間に広がり、恥辱は天地に満ちるでしょう。着飾るのはともかく、化粧はあまり好きではないのですが、致し方ありません」

 文は化粧崩れを気にしているのか、いつもと違って細々と口を開き、声も心なし小さかった。そういった配慮も含め、文は細かな気遣いのある淑女そのものであった。そんな彼女にまじまじとした視線を向けられ、わたしは恥ずかしくて頬が赤くなった。

「申し分のない巫女姿ですね。博麗の巫女とは大違いだ」そう言えば、霊夢はかなり変形した巫女服を身に着けていたなと、今更ながらに思い出す。「よく似合っていると思いますよ」

 素直な誉め言葉なのに皮肉だと感じたのは、文に比べて不準備な装いであったからだろう。わたしはついと視線を逸らし、拗ねるように言った。

「どうせ心の中では馬子にも衣装だなんて、考えているのでしょう?」

「いえいえ。花嫁たるもの、もう少し身を整えるべきだとは思いましたが、その齢ではろくに知らないでしょう。まだ時間はありますし、わたしが麗しの乙女に仕立ててあげましょう」

 それではわたしがいつもは麗しくも、乙女でもないかのようだ。しかし紛うことなき事実であり、わたしは悔しいながらも粛々と従うしかなかった。

「化粧道具は持っていますか? ないならわたしのものをお貸ししますが」

 一応持ってはいたけれど、あれを使いたくはなくて嘘をついた。すると文はまずわたしを立たせ、着崩れた小袖と袴を整えてから、わたしを正座させた。寝起きでぼさぼさとした髪に櫛が入り、少し癖のある髪質が大人しいほど素直に従ってくれた。櫛の質が良いのか文の腕が良いのか、おそらくは両方なのだろう。それから文はわたしの髪に油のようなものを丹念に撫でつけ、再び櫛を通していく。触らなくても、艶のあるしっとりとした髪が整いつつあると分かった。

 髪の手入れが終わると、今度はより難物である顔の手入れだ。文は小さな鋏を取り出し、眉や睫を細かく切り揃えていく。顔に軽く白粉が叩かれ、唇に紅が塗られていく。小指についた練り物の紅がわたしの唇をなぞる仕草は、文の真摯な表情と相まって、よく分からない緊張をわたしの中に生んでいた。

「はい、これで美人さんの一丁上がりです」

そんな大袈裟なと思ったけれど、文が向けてきた手鏡に映る、まるで別人のようなわたしを見て、それが嘘でないことを知った。

「気に入って頂けましたか?」

 気に入ったなんてものではなかった。文がわたしの顔に施したのは正に魔法の類であり、うすぼんやりとした何の変哲もないわたしが、花嫁といって遜色のないものに変わっていた。

 辛うじて頷いたわたしを見て文は満足気に笑み、それからわたしの頭をちらと伺う。

「あとは髪飾りか何かがあれば良いのですが」

「それならこちらに良いものがある」祖母は一度部屋から出ると、古めかしい木箱を伴い、戻ってきた。「これを着けると良いよ」

 箱の中に入っていたのは、厳めしい顔つきをした白蛇の髪飾りであった。少し仰々しい気がしたけれど、文は喜び勇んで髪飾りを結いつけた。

「ふむ、何やら神々しさが感じられます」

「それはそうさ。何しろ漏矢神が直々に賜われた品物だからね。話が正しければ数千年にも渡り、歴代の風祝に受け継がれてきたはずだ」

「ほう、それは何とも頼もしい。それにしても、わたしは漏矢神の御身体を存じませんでしたが、なるほど蛇を縁代とされていたのですね」

 ふと問われ、わたしは思わず考え込んでしまう。わたしは神の姿さえ満足に認識できなかったけれど、わたしの側にいたときは人の形を取っていたはずだ。知識を求めて祖母に縋るも、表情からしてよくは分からないようであった。

「代々継がれてきたのは蛇の髪飾りだよ。それは間違いないのだけれど、もしかすると過去に遺失した神の賜物が存在したかもしれない」

 祖母は腕を組み、目を瞑る。どうやら過去の記憶、おそらくは伝承の知識を明確に思い出そうとしているらしかった。

「漏矢神が中央から派遣された神と戦い、辛うじて勝利したことは前に話したね。相手の麗しさに絆されて夫婦の契りを結んだことも」

 わたしは小さく頷き、一方の文と言えば興味深そうな表情を浮かべ、祖母の顔と話に注視していた。

「漏矢は旧き土着神であり、その御身体は蛙のような姿をした何かであるとされている」

「蛙、ですか?」鸚鵡返しに問うと、祖母は重々しく頷いた。「では、どうして蛇の髪飾りが?」

「戦神が蛇を御身体とされていたからだよ。漏矢神は求婚の贈り物として、蛇の形をした髪飾りを作られた。後に二柱の子孫が生まれ、人間の男を婿にして迎えた際に、譲り渡されたのだ」

「なるほど、面白い話です」文は口だけでそう言ったものの、どこか腑に落ちないようでもあった。「しかし蛙が蛇に勝つだなんて、随分と変わっていますね。普通は逆じゃありませんか?」

 正にわたしも同じことを考えていた。神話というのは破天荒に見えて、整合性を重んじるところがある。下々が納得しない話は、流布しにくいはずだ。それを敢えて曲げるのだから、そこには大きな理由が存在するはずだ。

「わたしもそう思うよ。かつて神が見えていた頃、わたしは失われた伝承を埋めるため、漏矢神に色々と話を伺ったのだけれど、やはり附に落ちなくてね。訊ねてみたのだけれど、体良くはぐらかされたんだ」

「それはますます怪しいですね」文は懐を探り、愛用の手帖と万年筆を取り出して、麗しくも取材者の表情となっていた。「こういっては失礼ですが、本当に漏矢神は中央との戦神に勝利されたのでしょうか」

「だからわたしは文献に当たろうとしたんだ。しかし主立った記録は既に喪われていた。一神法とそれに伴う神仏排斥政策によってね」

「一神法、ですか。なるほど……」文は化粧が崩れそうになるほど、眉間に皺を寄せた。然るに文もこの非道なる大悪法を知っているのだ。「文明開化に伴う悪影響の最たるであり、幻想郷が閉じられることになった最たる原因でもある。ええ、忘れたくても忘れられません」

 かつて日本は蒸気船と大砲によって、無理矢理に国を開かされた。時代の趨勢により、その十年後、江戸の幕府が倒された。古い体質を引きずったままの幕府に、混迷の時代を運営する力は残されていなかったからだ。もし幕府の時代が続いていれば、日本は当時の清やインドのように欧米列強の手で完全な植民地と化していただろう。

 それを良しとしない新政府は、欧米列強に追いつき追い越せをスローガンに掲げ、不利な講和条約を結ばされながらも、欧米のやり方を急激に取り入れていった。その一環として生まれたのが一神法である。

 当時の政府に、欧米が強いのは一つの神を強固に信じているからだと唱えたものがいた。日本にキリスト教を広めたい欧米人はそれに同意し、日本も万能な一なる神を信望するよう熱心に説いた。しかし彼らの思惑は最悪な形で結実する。新政府は天皇を一なる神とすることに決めたのだ。そのためには、過去に根付いた神仏、宗教の悉くが邪魔になる。

 神武の代から脈々と続く現人神の末裔を、西洋の神と同じ階梯まで引き上げるために新政府が行ったのは、苛烈とも言える徹底的な神仏廃毀であった。神話の本流にそぐわない神社仏閣は打ち壊され、貴重な資料が塵芥となった。傍流の神や妖怪を扱った書物は厳しく禁止された。これらの政策は一九三二年、本土決戦によって八分の一もの人口を失う大敗戦まで連綿と続いたのだ。その影響は今でも日本人の中に根深く存在し、信仰の自由を大幅に規制する法律が何度も通過しかけては瀬戸際で食い止められてきた。それも次は叶わないかもしれないと言われている。

 その影響はもちろん、守矢の信仰にも及んだ。諏訪の上社下社は全てが取り潰され、祭祀者たちは一つ神に仕えることを余儀なくされた。自宅とともにこちらへ移ってきた古い神社がその具現である。

 祖母は大凡そのようなことを語り切ると、大きく息をついた。長話で流石に疲れたのだろう。

「閑話休題。そのために真実は確認できなかったのさ。結局のところ、わたしは漏矢神をある存在と考えることで納得することにした」

「ある存在」文は自信なさげに、しかしはっきりと答えた。「もしかして、龍ですか?」

「然り。日本は古来より龍に護られた国とされていた。地震や火山が多いためにそう考えるようになったというのもあるけど、龍の力が至る所に根付いていたのは確かなようだ」

「そう言えば、この幻想郷も龍との盟約で産まれたと聞きます」

「なるほど、するとわたしたちは龍縁の上にあるのかもしれないね。漏矢神は龍を頼んで王国を産み、誰かは知らないけれど同じことをして幻想の郷を産んだ。幻想郷が忘れられたものを集めるのも、一つには龍を手中に収めるためかもしれない」

 文は小首を傾げ、何やらぶつぶつと呟く。

「彼女はそんなこと考えてないと思うけどなあ」

そのような意味合いだったけれど、わたしにはよく分からなかった。

「地を這う龍が、後に蛙として語られるようになったのかもしれない。真相は分からないよ。漏矢神が嘘を吐かれていたのかもしれない。仮にそうだとして、どうしてそんなことをしたのかも分からない」

「負けたのが恥ずかしかったからかもしれませんよ。それで過去の資料が散逸したのを良いことに、歴史を歪曲したのかも。敗者より勝者であったほうが、信仰も集まりやすいですからね」

「かつて望んで娶った相手を、そのように貶めるでしょうか?」

 口にしてすぐ、わたしは暗澹たる気持ちとなった。己の虚栄心に利用できるほど愛が薄れていたかもしれないと、そんなことを考えてしまったからだ。

 そんなわたしの心を少しでも和らげてくれたのは、文の言葉だった。

「外世界は苛烈な弾圧の渦中にありました。二柱が共存できなかったのかもしれない。だから信仰が一つに集中するようにした」

 憶測に過ぎなかったけれど、わたしの推測よりはよほど救いがあるように思えた。ただしそう結論付けるには、一つ確認しなければならないことがあった。

「信仰を譲り渡したはずのもう一柱の神はどうなったのでしょうか?」

 わたしの問いに、文は小さく首を横に振った。

「誰からも信じられなくなった神の末路を、わたしは知りません。ただ、おそらくは消えてなくなる……否、最初からいなかったものとして扱われるのでしょう」

「それでは」まだ、漏矢神が虚栄を求めた浅ましい存在であると考えたほうがましだ。でもわたしはその説を押し通すことができなかった。漏矢神が何も望まず、ただわたしの側にいてくれたと知っているからだ。それは虚栄に満たされた神の行いではない。そしてわたしは竦むほどの事実に気付く。「漏矢神が娶られた戦神の名前を、わたし」

 それは守矢の祭祀者が奉るべき一柱であったはずだ。それなのに、わたしはその名を知らないのだ。わたしは怖れを覚えて祖母の顔を見据え、同じ恐慌に彩られていることを発見する。

「わたしにも教えてくれなかった。はぐらかされたんだ。いや、かつてわたしの母が語ってくれたような」

 祖母が指をこめかみに当てていると、文が神妙な顔で爆弾を投げつけてきた。

「そもそも、そのような神がいたのでしょうか?」わたしは思わず目を見開いた。文が信仰の根幹に疑義を差し挟んだからだ。「かつて大きな戦争をしたという話も、夫婦になったという話も、全ては漏矢神の創作だったとしたら」

「そんなことはありません。わたしが身につけている蛇の髪飾りがその証拠です」

 頭を向けると、しかし文は「駄目です」と一言に切り捨てた。

「このようなもの、いくらでも作ることができます。力のある神ならばそれらしい力を込めることくらい、容易なはずです」

「でも、二柱でなければいけないはずなんです」根拠すら口にできないのに、わたしはそれでも文の説を否定しようとしていた。「そうでなければおかしいんです。わたしには分かります」

「でも、もう一人の神は早苗さんの元にも、守矢さんの元にも姿を現しませんでした」

「それは、でも」わたしは守矢に、二つの神がいるという証拠を何も見出すことができなかった。それでもわたしは迷った末に、大きく首を横に振った。文の言葉を根拠はないけど否定した。「神はいます。漏矢神、八坂神の二柱こそわたしが奉るべき御方たちです。疑うならば、そうすれば良い。でも誰が否定したとて、わたしは二柱の存在を信じます」

 わたしはきっぱりと言い切り、文の反応を待った。あまりに強い剣幕であったのか、文は半ば呆然とした様子だった。そして不思議なことに、祖母さえも驚きで顔を半ば白くしていた。

「早苗さん、あの、一つ質問があります」

「はい、なんでしょう」論拠はなくとも反駁する用意はできていたから、わたしは拳を握りしめて応じた。「何でも訊いてください」

「八坂神というのはどちら様でしょうか?」

 聞き覚えのあるような名前を口にされ、わたしははてなと首を傾げる。すると祖母が憑き物に動かされるようにして、不自然なまでの鋭さで立ち上がった。

「そう、それだ。思い出したよ。母が言っていた」

 祖母は再び部屋を出ていき、先程よりも小さく薄汚れた木箱を伴い、戻ってきた。蓋を開けると、中には辛うじて蛙と分かる、おもちゃのような髪飾りが入っていた。

「当時、母が身につけていた蛇の髪飾りを、羨ましがったことがあってね。神の形をした髪飾りが欲しいとねだったんだよ。すると漏矢神が、これをわたしにくれたんだ」

 手作りの感が強い、どこか野暮ったい代物である。ごく小さい子供には似合うかもしれないけれど、妙齢の女性が好んでつけるようなものではなかった。

「わたしは微妙な年頃であったし、独特の可愛らしさがあるけれど子供じみたこの髪飾りには良い顔をしなかったんだ。すると母が、漏矢神の用意されたこの髪飾りを、蛇の隣にとめてみせた。そのとき、母が言ったんだよ。これで二柱が並んだ、漏矢神に八坂神と可笑そうに口ずさんでね。漏矢神は照れ臭そうに、それでいて……少し寂しそうにしていたんだ」

 祖母は老境の女性らしく遠い過去に寂寥と懐かしさを寄せていた。そのような姿を見せられては、流石の文も二柱目の神の不在をこれ以上、訴えることはできなかった。この話もまた、確かな証拠はどこにもない。それでいて、物証にも増した確からしさが感じられた。神の話であるためか、祖母の話であるためか、それは分からない。

「早苗のお陰で、思い出したんだ」祖母はそのことを強調すると、改めてわたしに訊ねてきた。「早苗はどうして八坂神の御名前を口にすることができたんだい? わたしすら忘れていたのに」

 それで初めて、わたしは神の名前を口にしたのだと知った。わたしにはまるで実感というものがなくて、だから正直に答えた。

「分かりません。ただ、ふっと浮かんだんです」

 つまるところ、わたしと神を結びつける何かが存在するということだ。風を操る神通力だけではない。風祝とはそういうことができるのかもしれない。人と神を取りなす。時には結びつける。

 神が消えても力がなくならなかったとき、わたしはなおも在り続けるものに疑義を抱いた。でも神は単純に消えたわけでも、ましてや喪われたわけでもないのかもしれない。わたしは何らかの縁で神と繋がっている。だからこそ風祝の力もまた健在なのだ。

「おばあちゃん」わたしは祖母に粛々と手を差し出す。「そちらの髪飾りも身に着けて良いですか?」

 そうすることでわたしは守矢の祭祀者、風祝としていられるのだと思ったからだ。祖母は何も言わずに髪飾りを授けてくれた。二つの髪飾りは少しだけ重たかったけれど、これが神の重みだと考えることにした。

「ちぐはぐだけど、不思議と良く似合っていますね」

 文がおそらく誉め言葉をわたしにくれた。だから、この選択が間違えでないと信じることができた。

「文さん。わたし、覚悟が決まりました」

「わたしもです」文は同意するように、頷きを寄越す。「守矢の二柱が一神法の被害者であるならば、力を貸さない訳にはいきません」

 文は一瞬ではあるが、嵐のような怒りを瞳の奥に窺わせる。

「かつて、国が殺したのは旧き傍流の神々だけではありません。一つ神の存在を脅かす力を持った妖異もまた、あらゆる手段を持って狩られたのですよ。そのために外世界では、妖怪がまるで御伽話に出てくる架空の存在みたく語られています」

 わたしは文の言葉に小さく頷いた。神の存在を身近に感じながらも、わたしはそれ以外のものに強い架空性を覚えていたからだ。

「今更、彼らを糾弾する気はありません。それで喪われたものが戻ってくるわけではありませんから。でもね、わたしはかねがね思っていたんです。神を束ねる邪知暴虐に、一矢報いてやりたいと」

 文はそれから、わたしに小さく頭を下げた。天狗としてはほとんど精一杯の誠意だったろう。

「わたしの中にあるのは、利得と怨念です。先にも言いましたが、早苗さんを幸せにする気はありません。承知頂けると幸いです」

「わたしだって、文さんのことを愛していないからお互い様です」

 文も狡いけどわたしも十分に狡い。狡い同士、似たもの同士。風の力を使うところまでそっくりだ。全く嫌になるけれど、不思議と嫌じゃなかった。

「愛も幸せも、後から生まれるかもしれない」祖母は一人、納得するように柔らかな笑みを浮かべる。「わたしが愛を知ったのは、良人と何度も体を重ねてからだったよ」

 お互いの決意を確かめあった後の、やけに生々しい発言にわたしは頬が赤くなるのを感じた。一方の文と言えば、ただただ小さく息をつくのみだった。

 でも、お陰でぴんと張った緊張の糸が良い具合にほぐれてくれた。気負うことなく前を向いて、一世一代の舞台を迎えられそうだった。

 

 

 天魔さんは昨日と同じ時刻に、椛を従えやってきた。その姿といえば、わたしや文はおろか、祖母にさえ溜息をつかせるようなものであった。童姿であるから化粧はごくうっすらとしたものだったけれど、柳の細かく縫い込まれた着物と相まって、まるで動く日本人形といった風情だ。にやにや笑いだけがいつもと同じであった。

「早苗さんが綺麗なのは当然として、文も随分と化けたね」

 昨日の反省などどこ吹く風とばかり、天魔さんは実に上機嫌だった。

「さて、そのようにおめかししているのだから改めて問うまでもないかと思うけど、いま一度確認するよ。二人とも此度の婚、異存は有りや無しや?」

 わたしと文は一瞬だけ視線を合わせ、同時に頷く。そのことを確認すると、今度は祖母に躊躇いなく色目を使ってきた。

「守矢さんもよくお似合いですよ」祖母は真っ白で短い髪を丁寧に撫でつけ、小豆色の着物を身に着けていた。上品な老婦人の出で立ちであったけれど、その目は軽口を叩く相手への怒りで静かに燃えていた。「反省してないわけじゃありません。ただ天狗とはこういうものでして」

「分かってるいよ。ただし、わたしは軽佻浮薄なやつは嫌いだけどね」

 祖母の言葉に天魔さんは半ば、本気でしょげてしまった。それでも次には気を取り直し、それから椛に視線を向けた。

「早苗さんは守矢さんがエスコートするから、文のことは椛がエスコートするように」

 いつもと変わらぬノースリーブのシャツに袴姿の椛は、頭の耳を小刻みに動かした。尻尾はぴんと跳ね上がり、全身で嫌悪を示していた。

「それは、命令でありますか?」椛はあくまでも生真面目に、天狗の頭領を問い正す。「然らずんば、ご拝謁賜ります」

「命令ではないよ。好きにすれば良い。でも、ここいらで一つ、借りを返しておくべきではないかな。何しろ彼女は、命の恩人なんだから」

 わたしにも分かるほど赤裸々な暴露に、椛は殺気にも似た感情を放射する。帯びた刀に手をやろうとさえしたが、すんでのところで思い留まったようであった。小さく息をつき、文をじろりと睨みつけてから、粛々と頷いた。

「付き添いも決まったことですし、参りましょうか。ささ、守矢さんはわたしの背中に乗って下さい。遠慮しなくて良いですよ」

「早苗、済まないが背を貸してくれないか?」

 それなりに真剣そうな気持ちを挫くのは忍びないけれど、祖母をこの童天狗に委ねるのは不安だったので、素直に背を貸した。誰かを背負って飛ぶのは初めてだけど、風に乗るのは一人の時と同じくらいスムーズだったし、祖母は飛行をまるで怖がらなかった。

「わたしも昔は風祝だったからね。もっとも本当に良い風のとき、数分ほど飛ぶのが精一杯だったけれど」祖母は背中越しにそう言い、次には何も入っていない風呂敷のように軽くなっていた。「ちょいと早苗の風を間借りさせてもらっているよ。ここならわたしも少しだけ力が使えるらしい」

「それでもしっかり捕まってて」祖母の軽さが見たこともないのにふわふわの魂を感じさせ、わたしは思わず叫んでいた。「夜風は冷たくない? 風の流れは調整してるけど」

「暖かいくらいだよ。それと、もう少し速度を出してもらっても大丈夫だ」

 祖母の言葉と同時、天魔さんが一気に速度を上げた。文と椛、少し遅れてわたしが後に続く。日が暮れかけていたから、近くについていなければ相手を見失ってしまう。置いていかれることはないと考える一方、これも試験の一環ではないかという気がして、わたしは三人の天狗に引き離されないよう気をつけながら、妖怪の山を滑空する。

 

 夜の訪れと同時、遠目にぱちぱちと目立つ灯りが飛び込んできた。電気がない夜を明るくできるならば、そこには特別が潜んでいるはずだ。つまりあそこが結婚を執り行う場所なのだろう。

 心構えができていたから、降りますよと促されたときも動揺はなかった。ただ、道を形作るように篝火が等間隔で並んでいて、厳かさと一種の野蛮さを同時に覚えた。足下は石畳、正面にはどこか講堂を思わせる藁葺き屋根の建物があった。

「そういえば、結婚って何をするんですか? わたし、何も聞いてないんですけど」

「ああ、結婚といっても今回は特別だよ。何しろ、大天狗を一同に介して、新たな外戚を招き入れるか判定するのだから。場はかちこち、一切の曲解すら許されないだろう。賑やかな宴席を期待していたならば、申し訳ない。ここでことが定まれば、改めて天狗一同をあげた大披露宴を開くつもりだから、今回は容赦してくれると助かるな」

「いえ、それは構いません」寧ろ心の準備もなしに、天狗の宴会に巻き込まれることこそ恐ろしかった。途中までしか覚えていないとはいえ、天狗の飲みが尋常でないことは、身に沁みていたからだ。「あと、大天狗とはどのような方たちなのでしょうか?」

 すると天魔さんは立ち止まり、文をじろりと睨みつけた。

「君は伴侶となる女性に、何も教えてないのかい?」

「無茶言わないで下さいよ。一日でお互いの気持ちを定めただけでも奇跡だと考えて頂かないと」

 一理あると判断したのか、天魔さんはふむりと頷いてから指を三つ立てた。

「では、大まかに三分で説明しよう」

 そう宣言してから、童天狗は唇を舌で舐める。紅が落ちないのは特別製なのか、それとも何かの術で繕っているのか。どちらにしろ、地味ながらに実現するのは難しい技なのだろう。

「わたしたち天狗が、妖怪の山の一角に居を構えているのは知っているね。大天狗は全部で十二人おり、十二の領分をそれぞれに治めているんだ。その他の天狗は、大天狗の弟子という形で序列化され、一番上から太郎坊、次郎坊と続いていく。人間でいう親子関係も存在するけれど、幼少を経ずして序列に組み込まれていくわけだ」

 文を通じてその思考が人間と異なることは分かっていたけれど、コミュニティの形成も人間とは随分と違うらしかった。

「射命丸文というのは、序列を除いた簡略名であり、射命丸ヶ次郎坊之文というのが正式なんだ」

「その名前、嫌なんですよね。色々と七面倒くさくて」

 次郎坊という序列を謙遜しているわけでないのは、文の麗しくも歪んだ表情からよく分かった。

「椛も本当は、犬走ヶ三十三郎坊之椛というのが正しい」天魔さんがそう補足すると、椛は容赦なく文を睨みつける。どうやら三十以上もの差があることに、我慢ならないらしい。「天狗は総じて虚栄心が高いから、序列の扱いは気をつけたほうが良いかもね」

 確かに、割と穏やかで虚栄の薄そうな椛さえ、序列には厳しく眉を動かした。もっとも彼女の場合、文への対抗心が強いのかもしれないけれど、侮っていけないものだということはよく分かる。

 それからわたしはふと気になり、祖母にちらちらと視線を寄せる童天狗に質問する。

「では、天魔さんの正式名称は?」

「忘れた」強弓より放たれた矢の如き素早い返答であった。鋭くにべなく、そして容赦がなかった。「わたしは追い落とされたもの故に、天魔で十分なんだ。別に困るわけでもなし、そもそも面倒くさい」

「その面倒な仕組みを作った張本人が何を言うのやら」文は半ば呆れたように言い、大きく息をついた。「かつて必要であったことは分かっていますけどね。今や年功序列の心筋梗塞寸前ですよ」

 文はどうやら、現在の序列を疎みながらそれなりの理解を示しているらしい。次郎坊、つまりある大天狗の二番目に位置しているのだから、その理由を知っていてもおかしくはなかった。

「だから今回の結婚には期待しているんだ。もちろんその後にもね」どこか含みのあることを口にすると、天魔さんは童らしい笑みをわたしに浮かべた。「まあ心配しないで欲しい。これが終わればわたしも割と表だって支持に回ることができるから。生活も改善されるだろう」

 彼の物分かりの良さが、わたしには少しばかり怪しく感じられた。先にもわたしの秘密を見抜いていたし、結婚の日取りがいきなり決まったことにも若干の不信を抱いている。苦心して場を設けてくれたようではあるけれど、何の打算もなしにそれだけの苦労をするとも思えない。これから、あるいはことがなってから先に、彼の根回しはやがて豊かな枝葉となり、花を咲かせ、実を結ぶのかもしれない。

 詮無きことだと思い直し、わたしは説明を終えて再び歩きだした天魔さんの後に続く。祖母のことをちらと見たけれど、何やら考えごとをしているところからして、似たような懸念を抱いているのかもしれない。対する文と言えば特に気負うことなく堂々と歩いており、その横を歩く椛からは、刺々しい気配が密やかに放たれていた。先にも匂わせるところはあったけれど、椛は文のことをどこか訝っている節がある。あるいは一種の照れ隠しであるのか、付き合いの短いわたしには判じかねた。

 周りをちらちら窺っていたら、いつの間にか目指す建物が間近に迫っていた。するとこれまでしんとしていたのが嘘かというくらい、あちこちから不躾とも思えるほどの視線が飛び交い始めた。ひそひそとざわめく声、梢を揺らす騒がしい音、ペンの走る滑らかな音などが、密やかな中にも五月蠅いくらいであった。

 それらに紛れ、わたしは一瞬だけど、背筋の凍るような鋭さを覚えた。怒気にも似て、それよりも更に烈しい感情。文も同じものを感じたのか首を動かさずに視線を巡らせたけれど、判別できないようであった。

「これほど騒がしいと、どうにもなりません。まあ、予想していたよりは穏やかですから良いとして」文はそう耳打ちすると、天魔さんを睨みつける。「なんでこんなに天狗が集まっているんですか? 宴席はないと告知しなかったんですか?」

「もちろんしたけど、今回の結婚は天狗社会にとっての一大事だからね。天狗が神業持つ巫女を娶るんだ。天下の再来ってやつだよ」

 どうやら、ことはわたしの予想を大きく越えているらしい。前にもわたしが天狗に娶られることは何か大きな意味があるのだと、示唆されたことはあった。しかし閉鎖的な社会が新たな外戚を迎える以上の深い意味はないと考えていたのだ。否、そうであれば天狗の頭領が念入りに舞台を整えるわけがない。

「念入りなのかな。何だかなし崩しというか、取り返しがつかないというか」一度はきちんと決意したのに、端からぐらぐらと揺れてきた。「あの、わたしには何が求められているのですか?」

「あの山の上で、安らかに暮らすこと。天狗の上にあり、神の規範として、代弁者として健やかに。それは早苗さんの求めるものと何ら変わらないはずだよ。さて、いよいよ姿を示すは狡知に長けた大天狗のおわす大集会。その真中に立ち、夫婦の契りを結んでもらう。なに、君たちにならできるよ」

 無責任な言葉をさらりと吐き、天魔さんは童のように集会所の大扉を押し開ける。

「気軽に開けていますが、これ大天狗級の神通力がないとびくともしないんですよ」文が再び耳打ちしてくる。言われて視線を寄せると、見た目以上の重たさと寄せ付けなさを感じる。「ここ以外に入口はなく、無理に押し入ろうものならば、天魔様直々の結界によって容赦なく焼き切られます。故にここで開かれる会議は問答無用で他言無用。大天狗集会が格違いであることを示す証左の一つです」

「要するに、わたしや文さんの力じゃ出られないってことですよね」

「わたしなら開けることもできますが、そのための神通力を練り上げる前に捕まりますね」

 どのみち、逃げることはできないというわけだ。

「結婚が終われば出られますよ」

「終わらなければ?」この先には、おそらく一癖も二癖もある天狗が並んでいるはずだ。「もしかするとわたし、取って食われるかも」

 不意に怖気を覚え、足が竦み出す。力のある異類の懐に飛び込むのがどういうことであるか、まるで分かっていなかったのだ。そんなわたしを支えるように、文の手が肩に置かれる。

「そんなことさせませんよ。あんな腐れ大天狗たちに食べられるならば、わたしが率先して食べます」

 励ましであるどころか、文自身が危険であることを暴露したも同然であるというのに、何故か不思議と震えが止まった。

「分かりました。でもあまり痛くしないでくださいね。わたし、痛いのってあまり得意じゃないんですよ」

「それはお任せあれ、と。おや、椛と来たら何故に顔を赤くしているのですか?」

「いえ、その、惚気に当てられただけのこと」椛はわざとらしく刀の調子を確かめると、咳払いをして白く気高い顔色に戻る。「よく考えるとわたしだけ、酷く部外者のような気もするのですが」

「縁ができたのならば、もはや部外者とは言わないんだよ。それは大切にされるべきだ」

 天魔さんは良いことを言ったのか、はぐらかしたのか分からない論調で椛を丸め込み、目でわたしたちの入場を誘った。わたしたち全員が中に入ったことを確かめると、天魔さんは茶化すように言った。

「ようこそ、世にも楽しい伏魔殿へ」

 

 大天狗の集会所は、木張りの床に壁の、どこか中近代の砦を思わせる造りとなっていた。そして驚くべきことに、天井からは一昔前の電球を思わせる橙色の光が降り注ぎ、本来ならば真っ暗な室内を薄暗くも照らしている。

「あれは電気じゃないですよね?」

「蓄積した神通力で発光する照明だよ。我々天狗は程度の差こそあれ、夜目が効くから普段はあんなもの使わないのだけれど、今日は特別な日だから、大天狗たちからたっぷりと力を供出してもらったんだ」

 エントランスホールの奥、入口の大扉と平行にそびえる両開きの扉にもまた、同じような力が感じられる。然るにあそこが集会所の本丸なのだろう。

「お、来おった来おった!」向こうからばたんと扉が開き、中から現れたのは身の丈二メートルを悠に越える居丈夫であった。頭巾から覗く髪は白く、鼻は高々として顔は赤らか、寄せる皺と白髭に、修験者の服装と年期の入った高下駄は、物語に出てくる天狗そのものであった。「天魔様から話を聞いて、超突風でやってきてやったぞ!」

 どうやらかの天狗様は、文の旧知であるらしい。しかして彼女の顔は苦虫を噛み潰したようであった。

「次郎坊の勤めも余所に下々と混ざり、売れない新聞を刷ってばかりで、いつ腰を落ち着けるかと心配していたが、ようやくか!」

 その顔には祝いよりも寧ろざまあみろ的な表情が浮かんでいる。どうやら二人は犬猿の仲であるらしい。

「せいぜいほざいていれば良いですよ。これほどの可憐で美しい花嫁を娶ると知っても、同じことが言えますかね」

 文はこちらにウインクし、すると迫力ある赤ら顔が全力でわたしに注がれる。目を逸らそうにも逃れられず、すると感情が一回転して怒りすら沸いてきた。

「じろじろと見られてやるほどわたし、我慢強くありませんよ」

 わたしはそう言って大天狗の顔を思い切り見上げ、睨みつけた。彼は一歩後じさり、よろよろとよろめきながら更に半歩、そして突風のような溜息をついた。

「むむむ、悔しいが認めざるを得ないな。儂の嫁さんには負けるが」

 どうやらこの天狗、妻帯者であるらしい。そのことが分かると不躾な視線も何故か愛嬌のように思え、不思議と気持ちが落ち着いていった。もしかすると美人であると認められたからかもしれない。だとしたら我ながら現金な性格だと思う。

「彼女の再臨と聞いてはいたが、さもありなん」赤ら顔の天狗は得心するように頷いてから、今度は若干親しげにわたしを見下ろしてきた。「同姓でも構わないという気になっても仕方ないな。いや、そうかなるほど。だからこそ……」

「あーあーあー」強引にも過ぎる文の声が会話を断ち切り、するりとわたしの腕に両腕を絡めてきた。「そういうわけで、わたしと早苗さんは宿縁と愛の元に今宵、結ばれるわけです」

「早苗……ふむり、実りある良い名前だ」赤ら顔の天狗はそういって名前を誉めると、膝をついてわたしに視線を合わせてきた。「儂は妖怪の山にて大天狗を務める十二の一、射命丸と申す」

 予想していたとおり、彼は文の師匠に当たる大天狗であるようだ。それにしても射命丸だなんて、文と混同してどうにも紛らわしい。わたしと祖母も同じ早苗だから、紛らわしさではどっこいなのだけど。

「東風谷早苗です」わたしは礼儀正しく挨拶をする。「何だかその、妙なことや面倒なことに巻き込んだのならば申し訳ありません」

「いやいや、麓のほうでは博麗の活きが良いから色々と騒がしいようだが、天狗の領分にまで来れば静けきに等しい。そんな場所に風となり華となり、吹いてくれれば退屈も紛れようというものだ」

 大天狗はごく控えめに、しかし響くような笑いをもらす。その形と同様に剛毅剛胆、暇を良しとしない辺り、文の師匠であるというのも頷けないではない。

「何よりも文のことを娶ってくれるのだから、儂としてはそれだけで何も言うことはない」

「娶る、ですか? わたしは娶られるのだと思っていたのですが?」

「どちらも女形なのだから、互いが娶り娶られるに決まっている」

 赤ら顔の大天狗はしれっとそう言い切り、次いで文に好色そうな表情を寄せた。

「同姓同士の褥がどのようであるか、何れ儂にも教えてくれ」

「黙れ好色爺が」文は蓮っ葉な女性のように言ってから、ごほごほと咳をする。「淑女の前で品性下劣な話は無用に願います」

「場を和ませようとしたのだが」

「余計に悪くなります。ほら、早苗さんだけでなく守矢さんのほうも機嫌を損ねられていますよ」

 大天狗は反省する様子もなく祖母に視線を移し、まるで何かとんでもないものでも見たかのようにぴたりと動きを止めた。

「こ、この類稀なる貴婦人はどなたか?」

「早苗の祖母で、守矢早苗と言うものです」祖母は見知らぬ天狗の前であるためか、いつもの口調を押さえてしずしずと礼をする。「急な出来事で呼び寄せてしまったのならば、共々お詫びいたします」

 この大天狗には祖母の話がほとんど耳に入っていないようだった。顔を赤くし、相手の了解も求めずに手を取ろうとしたものだから、天魔さんが慌てて間に入り、それを遮ってしまった。

「彼女は駄目だ。わたしが先に目をつけたんだから」

「ああ、いやその、そういうつもりではないのだ。ただお手を取り、しばし居られればそれで満足だ。斯様な貴婦人に、いかなる不躾を押し通せるものか」

 どうやら天魔さんに続き、赤ら顔の大天狗にも強い感銘を与えたらしい。妖怪には年齢の魅力を感じ取ることができるのか、それとも祖母が特別であるのか、それは分からない。二人の天狗に慕われた祖母は、まるでやんちゃな生徒に嘆息をつく教師のような顔をしていた。

「貴女が早苗さんの付き添いならば、申し分ない。それで、文の付き添いは……」大天狗はひっそりと影のような椛の姿を見つけ、祖母とは別の理由で困惑させられたようだった。それから天魔さんに向けてぼそりと呟いた。「良いのか?」

「わたしが決めたんだ。それに二人は縁がない訳でもなし、百年以上も前のことを蒸し返すのもそろそろやめるべきだと思うんだ。彼女ほどの才童を三十三郎坊などと、あからさまな下につけるのも良くない……と、個人的には思う」

「それは犬走のやつが決めることだろう」

「然り。だがこうして大天狗の集会に端役としてでも参加するのだ。無視はできないだろう。犬走が持つ忠誠心の高さはわたしも認めるに吝かではないけれど。流石にこちこち過ぎるだろう?」

 天魔さんは椛に意味ありげな視線を送る。彼女は軽く俯き、しばし逡巡する素振りを見せた。口を開きかけ、しかし何も言わなかった。わたしが見るところ、椛は差程嬉しそうでなかったように思う。序列を上げることに興味がないのか、それとも他に理由があるのか。どちらを採用するかで、先に見せた文への対抗心の意味が異なってくるはずだ。そしてわたしはいま、十分に判断できるだけの材料を持っていなかった。

「お前が適当過ぎるんだよ。まあ、確かに潮時か」

 天狗の頭領に対して随分と気さくな口の聞き方をする。二人はどうやら上下の関係とは別に、緩く親しげな繋がりを持っているらしい。

「しかし何度も言うが、判断するのはあくまで犬走だ」

「了解した。では、ここで立ち話もなんだし、そろそろ中に入ろうか」

 天魔さんは赤ら顔の大天狗に目で合図をする。彼は中に続く大扉をひょいと押し開けた。中からぴりっとした気配が濃厚に放射された気がするけれど、緊張のほぐれていたわたしはさほど物怖じすることなく、文と並んで進むことができた。あるいはそのためにこの大天狗はわざわざわたしたちの前に姿を現し、取り留めのない会話を始めたのかもしれない。だとしたら何ともありがたいことだった。

 

 中に一歩踏み入れると同時、十一の気配がわたしの体を容赦なく打った。光に眩んだように瞳を閉じ、意を決して開くとそこには奇妙ながらもどことなく覚えのある光景が広がっていた。

 要は時代劇に出てくる陣中なのである。部屋の奥は段が一つだけ高く、そこに歩みゆくものを遮らないよう、大天狗たちは左右二列に並んでいた。最高の意志決定機関であるというのに、否、だからこそ飾り気というものが一切なく、天狗たちが腰を下ろす座布団以外の調度品は一つも見当たらなかった。

 その代わり、大天狗一人一人が高価な調度品に等しかった。文の師匠と同じ赤鼻の居丈夫が三人、同じく赤鼻の居丈婦が三人、椛に似た耳と尻尾を備えた大男が二人。ここまではわたしの知る天狗に含まれるものであった。

 あとの三人が未知であり、それぞれに異彩を放っていた。一人目は狐面をつけた異様にひょろ長い男。二人目はくっきりとした眼の隈に恰幅の良過ぎる腹をした狸様。そして三人目は猪の皮を被り、深く俯いて顔を隠していた。それでいて誰よりも強い視線を、猪被りの大天狗から感じたのである。わたしはすぐに視線を逸らし、賢明ですという文の囁きにより、正しい判断であることを知った。邪気はないけれど、どこまでも冥い雰囲気がある。

 わたしは薄氷を踏むように一歩、一歩、前に進む。あまりに構えており、だから段差で蹴躓きそうになった。そんなわたしを、文は当然の勤めのように支えてくれた。それで少しだけ体が温まり、気持ちが前向きになる。わたしは思い切って振り返り、十二の意識を受ける。大きく息を吸い、そっと吐く。圧迫されそうだったけれど、それでもしっかりと立っていられる。だから今のところは大丈夫だと思った。

「さて、諸君」重苦しい雰囲気を断ち切るように、天魔さんが快活な声を上げる。「本日は各の事情がある中を集まって頂き、大変に感謝している。この前に集会を開いたのは三十六季前……いや、十四季前のことだったかな?」

 おそらく何らかの冗談を言ったつもりなのだろうが、大天狗たちは誰も反応しようとしなかった。流石の天魔さんも心地を乱されたのか、わざとらしく咳をして場を濁した。

「まあ良い、大事なのは今であり、これからだからね。さて、これからわたしたちは一つの決定を成さなければならない。かつての大離散や幻想郷閉鎖に勝るとも劣らない大決定、即ち神巫女と天狗の婚姻だ」

 天魔さんはぐっと言葉を抑え、大天狗たちの反応を伺う。既に事情を知っているのか、それとも大天狗となれば多少のことでは動じないのか、誰もがぴくりともせずに頭領の言葉を待っていた。

「天狗、ひいてはこの山から神が喪われて幾星霜。受難の前兆に先駆け、神なる巫女がこの地に現れるは正に天啓である」

 何やら不穏な単語がちらほらと見え隠れしたような気がしたけれど、わたしの思考はぷつりと切られた。背筋の凍る唸りのような声が聞こえたからだ。

「受難ならばとうにあった。しかしてその時、我らを救う神はあったか?」

 白狼の大男は最初に天魔さんを、次に文の側へ侍る椛を厳しく睨みつけた。おそらく彼こそが椛の師匠である犬走の大天狗なのだろう。

「かつての受難に神は必須でなかった。しかして今回の受難には神が要る。我らの上に立つものが。そのことは貴君にも分かっているはずだ」

 天魔さんは白狼の言をばさりと切って捨て、朗々と言葉を続ける。

「その心が盲でないならば、神意を視たはずだ。その主と天狗の婚姻は我らを、のみならず妖怪の山全体を安寧に保つだろう。これに敢えて逆らうものあらば理を通すべし。なければもって婚姻を成立する」

 天魔の声は童のものであるというのに、集会の全てに均しく覇を放っていた。どこか不服そうであった白狼の大天狗でさえ、言葉を噛み、黙るよりほかないようだった。

 そのとき、冥さを秘めた言葉がわたしの耳をどろりと打った。

「異存はなし。しかして仮初めの縁では十全でなし」上座に鎮した猪被りの大天狗だった。「真なる縁である証を見せるべし」

 そう問われ、わたしはただ立ち尽くすしかなかった。わたしと文の関係はどう考えても仮初めでしかなかったからだ。首を曲げずに目だけで文のことを窺うも、どうして良いか分からないのか、俯くばかりであった。天魔さんの助け船を期待できるかとしばらく待ってみたけれど、いつまで経っても場の静寂は晴れず。

 場が窮まったかと思った刹那、文がわたしの肩に手をかけ、強引に振り向かせる。何をするかと問う間もなく、わたしの口は柔らかい感触で塞がれる。

 文はすぐに顔を離し、包み込むようにわたしを抱きしめる。まるで本当に愛しているかのように、わたしのことを扱っていた。

「わたしは彼女のことを心から愛しています。それで十全だと認めて頂けないでしょうか?」

 辺りを包むは、重苦しい沈黙であっただろう。しかし、わたしの頭を占めていたのは、文に口づけをされたという事実と、いまこうして抱きしめられているという現実だけだった。意識すればするほど顔が赤くなり、鼓動が早くなり、何も考えられなくなっていく。それでもじっと耐えたのは、ここが正念場であると辛うじて理解できたからだ。

 わたしは文の体を、浮いた両腕でしっかりと抱きしめる。柔らかさに埋もれ合い、審判の時を待つ。それはとても長く、また短いものでもあった。つまるところ時間の感覚がまるでなかったのだ。

 そんなわたしをここに戻したのは、冥くも愉快そうな猪被りの笑い声であった。

「未だ十全ならざるも、しかして真なり」そうして猪被りから顔を覗かせ、天魔さんに向けた。「好きにすれば良いだろう」

 天魔さんは天狗の頭領らしい頷きを寄越し、わたしと文はそれで慌てて身を離し、どちらからともなく手だけを繋ぎ、改めて大天狗たちに向き合う。天魔さんは他に異存がないかと、無言で他の大天狗に訴える。そして沈黙こそが答えであり、場がようやく落着したことを示していた。

「これにて射命丸ヶ次郎坊之文と、東風谷早苗の婚姻と成す。さて、これで今回の議題は終了となる。ご足労、重ねて感謝するよ。あとは大天狗同士、友誼を確かめるも良し、さっさと塒に帰るも良しだ」

 天魔さんはそう言って必要以上に朗らかな笑みを浮かべた。この場を仕切る重圧はわたしの考えているよりも余程、重たかったということだろう。

 大天狗集会が終わると同時、鋭い針のような視線があった。それは白狼の大天狗から椛に向けられ、強く突き刺さる。序列を差し置いてこの場にいるのが、狼の習性として許し難いのか、あるいは別の理由があるのか。どちらにしろ、椛は申し訳なさそうに顔を伏せるだけで、そのことに満足した大天狗は同族を伴い、一目散に集会所を後にした。

 感じが悪いなと思ったけれど、くさくさした気持ちが凝る前に文の師匠がからかうような笑みを浮かべながら近付いてきた。のみならず人間がカップルなどを囃し立てる時に鳴らす口笛を実に軽快に吹いてみせた。文は途端に顔を赤くし、帰れと言わんばかりに大きく手を振った。

「ふむふむ、まあ初夜の邪魔をしても仕様がない。ここは糞爺、糞婆どもで我慢しておこう」

「まあ、糞爺はともかく糞婆だなんて」

 そう言って前に出てきたのは二メートルを越える、圧巻と表現することにはばかりのない、細身の女天狗だった。文の師匠のように鼻は高くなく、日焼けした人間といって差し支えない加減の肌色をしていた。しかして彼女が人間でないことは、文と同じくぴんと立った一対の耳が如実に示していた。齢は人間にすれば三十過ぎくらいだろうか、確かに婆というには若い姿だった。実際にはその数十倍、もしかすると数百倍も年を取っているのかもしれないが。

「当然至極のことではないか、今更繕うことでもあるまいて」

「男は枯れても虚しいだけ。でも、女には枯れてなお残るものがある」

 女の大天狗は厳しく言い放ち、男どもの顔を一様に歪ませると、文に視線を寄せる。露骨に表情を消したところからして、師匠とは別の意味でこの女天狗が苦手らしい。「文ちゃんも良い年なんだから、もう少しなりを整えないと。いい加減、疲れるでしょう?」

「いえ、わたしは、このままで良いです」

「そう? まあ、どのような年つきでいるかは個人の自由ではあるけれど」女天狗は納得できないというような顔をしていたけれど、不意に何かを思い出したのか、祖母がわたしを見るときのような表情に変わり、こそりと耳打ちをした。それを聞いた文は、これまた眉根に皺を寄せる。またまた芳しくないことであるらしい。「あんな態度だけど、文ちゃんのこと、見習うべきところもあると誉めているのよ。今回も急な引っ越しと結婚で随分と寂しがっていたわ。これから忙しいと思うけど、できれば庵などを訊ねてやってくれると助かるわね」

「姫海棠!」遠くから別の大天狗が彼女を呼ぶ。どうやらそれが彼女の名前であるらしかった。「今日は胸中の珠が嫁入りした記念として、射命丸が酒宴の一切合切を持つらしい。一秒たりとて愚図愚図している暇はないぞ!」

「あらあらまあまあ」彼女は可愛らしい驚きの声を上げると文、そしてわたしに格好の良いウインクを残していった。「次はおそらく披露宴ね。天狗の全てをあげての盛大なものとなるでしょうから、今から心しておくことね」

 吉報か凶報か分からない言葉を残し、烏天狗系の大天狗たちは雪崩れるようにして集会所をあとにする。台風一過と思いきや、いつのまにか狐面をつけたひょろ長い大天狗がわたしの前に立っていた。彼、ないし彼女はわたしに細長い指の右手を差し出してきた。おそるおそる握り、そのまま軽く手を振ると同時、ぼろりと崩れて葉となり、そのままひゅるりと旋風のように、端から端へと移動していった。それからこーんと高い嘶きを残し、あっという間に去っていった。

「あれでも祝福しているんだよ。あいつは綺麗どころが好きだから」続いてやってきたのは、まるで信楽焼のような狸腹の天狗であった。「今日は厳かな場でしたから自重しましたが、披露宴ではこの腹鼓の音、高らかに響かせてみせましょう」

 狸天狗はぽんぽこぽんと、正に狸の腹鼓を打ち、煙のように消えていなくなる。

「狐のほうが口無丸、滅多に喋らないからそれが遂には名前になった。狸のほうは手鼓丸、言わずもがなだね。あの二人は狐狸で対抗心は強いけれど、こと音に関しての相性は抜群に良いんだ」

 天魔さんはそう、楽しそうに説明する。

「天狗と言えばやはり烏天狗が有名ですけど、狐や狸も天狗になるんですか?」

 少し気になって訊ねてみると、天魔さんはさらりと答えてくれた。

「天狗とは修験道から外れたものたちの総称だからね。色々なのがいるよ。昔は人間の天狗もそれなりにいたんだけど」

「そうなんですか? でも、昔ということは……」

「今はいないよ」天魔さんはにべなく言い切った。「かつて人間たちとの間に激しい遺恨が発生した関係で、追放の憂き目にあったんだ。彼らに落ち目はなかったんだけど、しようがなかった。それでも細々と交流は続いていたけれど、文明開化と一神法のせいでぷつりと切れてしまった。彼らはいま、どうなっているんだろうね」

 天魔さんはもしかしたら、わたしや祖母が何か知っていると思ったのかもしれない。しかし、わたしは少なくとも外世界で天狗になど遭遇したことがないし、祖母も同じであるようだった。

「そんなわけで妖怪の山にいる天狗は、烏天狗と白狼天狗が大半を占めている。あの二人と、それから猪々丸にはそうでない天狗を雑多と押しつける形になっていて、少々心苦しいとも感じているんだ」

「お気になさらず」これまた唐突に声が聞こえ、わたしはおろか天魔さんまでもが驚きで肩を震わせる。「画一としているより余程面白い」

 猪の被りものをした大天狗は、のそのそとわたしの前に近付き、ぼそぼそとした声で耳打ちをする。

「静止する風の娘よ。愛を育むのだ。そのことが何れ貴女を救い、その前途を有望なものにするだろう」

 彼はわたしから離れると被りものをめくり、素顔を見せる。そこにあるのは異なる猪面であり、両の瞼は刀傷と瘡蓋で無惨にも塞がっていて、右目だけが辛うじて開けるようだ。毛色は随分とくすんでおり、猪とは思えないほど痩せこけた頬だ。それでいて精悍な雰囲気を損なわないのは、歴戦の強者であるからとしか言いようがない。彼はわたしの顔を確認すると会釈をし、次には影のように去っていた。こうして十二の大天狗が全て退場した。まるで集会所自体が溜息をついたかのように、緊張が一気にほぐれていく。

「これで、第二関門も突破か。予想以上に波乱がなくて助かったよ。もっとも猪々丸に難癖をつけられたときはどうしようかと思ったが」

 猪々丸というのは音の響きからして、先程の猪天狗のことだろう。

「あるいは予見して然るべきだったかもしれないね。彼は契りに特別な意味を求めるはずから」天魔さんはそう言って、わたしに真面目な顔を向けてくる。「あの被りものは奥方の毛皮で作られているんだ」

 死してなお、愛するものと離れずに生きる。それは浪漫的であると同時に、どこか怖ろしいことであるようにも思えた。人間も故人の持ち物をいつまでも身につけたり、時には遺灰の一部を食したりするけれど、やはり少しだけ怖いなと感じる。天魔さんはまるでそんなことはないという風に話を続けた。

「だから猪の字を二つ並べて、ししまる。ししししまるというのが正式なんだけど、皆からは敬意を込めてそう呼ばれている」

 それがどうして敬意になるのか、わたしにはいまいちピンと来なかった。それで不思議そうな顔になっていたのだろう。文が助け船を出してくれた。

「天狗の中では名前の短さが一種のステータスになるんです。一概には言えないけど、偉いものほど短い名前を認められるんです。例えば天魔は三文字、大天狗の名前は五文字か六文字が通例となります。四文字を認められるというのは、彼が天魔様の次に認められているということです」

「詰まらない通例なんだけどね。徒弟制度を作ったおまけとしてこんな慣習ができてしまったんだ。だから三郎坊もさぶろうぼうではなく、さろうぼうと読む。たろうぼう、じろうぼう、とんで、しろうぼう、ごろうぼう、ろくろうぼう、しちろうぼう、はちろうぼう、きゅうろうぼう、じゅうろうぼう……十一以降は言わずもがなだね」

「なるほど、天狗の徒弟制度は自ずから順列的な木構造になるのか」祖母はどうやらこの命名規則を面白いことだと考えているらしかった。「これだけの合理性が必要とされるのだから、天狗はかつて強い結束を必要とされたのだろうね」

「然り。まあ、それを話すと実に長くなりますので、そちらの生活がある程度落ち着いてから、四方山の一つとして話をさせて頂きますよ。さて、わたしも今日は流石に疲れたからもう一仕事したら塒へと引きこもらせてもらいましょう。椛も今日はご苦労様でした」

 椛は考えごとをしていたのか、分かりやすく身を震わせてから、いつものように堅苦しい調子で頷く。わたしたちは天魔さんについて大天狗集会所を後にする。

 外に出るとあいも変わらず痛いほどの気配が注がれている。それでいて誰もが姿を現す様子がない。すると文が不機嫌そうに口を開いた。

「入るときも感じましたが、撮影を禁止する結界を張っていますね?」

「このことを騒ぎ立てられ、書き立てられるのは、嫌だろう?」

「そうですが、取材の自由を制限するのはあまり愉快な気持ちになれませんね。分別であり、賢明な判断だとは思いますが、関係ない風を装って実は手綱を握り続けているあなたの手腕、正直いってあまり好きじゃないんですよ」

 随分とはっきりものを言うなと思った。結婚という無理難題を押しつけられてさえ、敬意を失わない口調であったのに、いまは対等の目線で口を聞き、また己の意見を躊躇なく押し出していた。

 射命丸文という天狗の芯は、新聞記者なのだ。報道の自由に関して、彼女はとても強い一念を持っている。

「今ここで結界を切っても良いんだよ。撮影音が鳴り響き、同業者がどっと押し寄せるだろう。天狗なら耐えられるかもしれないけど、人間には心労になるかもしれないね」

 文を押さえつけようとする言説に、わたしはかちんときた。報道の自由を享受し、守るべきものの一つであると教えられてきたからでもあるし、お上の押しつけというものに反感を募らせてきたからでもあるのだろう。とまれ、わたしは得意がる童天狗にきつい言葉を投げつけた。

「わたしは構いません。撮りたいなら撮らせれば良いし、聞きたいことがあればできる範囲で余すところなく語ってやれば良いのです」

 鼻息が思わずもれるほどの勢いであり、口にしきってから言い過ぎたかなと後悔してしまうほどだった。天魔さんは最初こそ表情を固めたものの、すぐにどきりとするような笑みを返して寄越した。瞳に浮かぶ色の深さは、わたしを通じて誰か遠いものを想っているのだと、朧気に感じさせた。

「今日まで色々と駆け回ってきたから疲れてるんだ。新聞記者に群がられでもしたら、皆を思いきり吹き飛ばしかねない。この辺り一帯を裸にしてしまうのは流石にまずいだろう?」

 天魔さんは何故か、意味ありげな視線をわたしに寄せた。

「それは冗談として、明日の朝にはそれなりに正確な情報が天狗の情報網を回り、続々と記事になるだろう」

 それを聞いた文が、どこか悔しそうに口元を窄めた。

「こんな大ニュースを、わたしの新聞で大々的に取り上げられないとは」

 何とも手前味噌な言い方であり、実に文らしいなとわたしは思う。

「文はこれから、早苗さんをいくらでも独占密着取材できるじゃないか。あることないこと、むふふなことまで書き放題だ」

「それは駄目です。いかな伴侶とはいえ、情報を独占するのは記者の沽券に関わりますからね。早苗さんが嫌がらない範囲で、誰もが気軽に取材されて然るべきですよ」

「そんなこと言ってられる立場かい? 番付も売れ行きもそれなりのくせに」

 どうやら特大の図星をつかれたようで、文はぐぬぬと歯噛みをしながらも、気弱な反論の声をあげた。

「誇りを忘れ、番付や売り上げだけを追求するようになっては、ブン屋としておしまいですよ」

「それを言うなら、露出的な意味で決定的瞬間な写真を控えるべきだと思うけどね」

 それは俄に聞き捨てならぬことであり、わたしは文に細く冷たい視線を浴びせる。文は大きく手を振り、弁解してきた。

「少女たちの魅力的な瞬間を切り取った結果です」

「それは良いけど、発禁になっては元も子もないね」

「記事にいちいち検閲をかけるのが、そもそも気に入らないんですよ」

 なおも言い渋る文に、天魔さんは大きく釘を刺す。

「ご祝儀代わりに一つ教えてあげよう」童天狗は人差し指を立て、いつの間にか真面目な表情であった。「文の新聞は桃色的な意味合い以外で一度発禁されかけたことがあるよ。もちろんわたしとて、報道の自由を妄りに侵したくはない。だがここ数年でいよいよ過激な記事や桃色な意味で自重しない新聞が増えてきてね。それだけならば良いのだけど、少しばかりたちの悪い集団の活動も俄に活発化している。僅かなりとも検閲せざるを得ないんだ」

 文は少し考えたのち、探るような視線を天魔さんに向ける。

「その集団というのはもしかして天狗党ですか?」

「然り。文は次郎坊のくせに派閥争いなんてどこ吹く風だから疎いかもしれないけれど、彼らの機関誌は今季に入って既に二度回収されている。輪転機を使えないから古い活版技術を使った少数刷りだし、どちらも広まる前に発見できたけど」

 わたしは天狗党もまつわる事情もほとんど知らない。それでも天狗党の存在に陰鬱な後ろ暗さがあることは彼らの真剣な表情から実に明らかだった。

「そんな奴ら、天魔様の頭脳でさっさと捕まえれば良いじゃないですか」

「わたしとて無軌道な若者の暴走を完全に推定できるほど万能じゃない。それに奴らは小規模ながらなかなか尻尾をつかませなくてね。先日、ことを起こす前の党員を捕縛できたのは僥倖に等しかったよ。そいつの行動が成功していれば潜在的原理主義者を揺り起こし、人間との深刻な摩擦を引き起こしていたはずだ。いかに天狗が強者とはいえ、百年程度でああも苛烈に駆り立てられた事実を忘れるなんてね。まあ、そういう胡乱なところもある意味、天狗らしいとも言えるけど」

 天魔さんはどこか皮肉に締め括り、それから椛にちらと視線を向ける。

「早苗さんは椛に一つ感謝すべきことがあるね。天狗党の鉄砲玉を見つけだしたのは、実は彼女なんだよ」

 そう言われて椛のほうを向くと、彼女はさっとそっぽを向いた。

「勤めのうちですから、感謝される筋合いはありませんよ」特に機嫌を損ねたわけでもないのに、椛はすこぶるつきの怒りを肌に滲ませていた。「それにわたしは天狗党が嫌いですから」

 そのとき椛が発した殺気は、まだ堅気の人間であるわたしにとって、実に恐ろしく感じた。そんなわたしの心を見て取ったのか、椛は途端に殺気を鞘に納め、小さく頭を下げた。

「過日は申し訳ありませんでした。斯様な事情で俄に気が立っておりまして、そこに見慣れぬ人間の不審者です。つい強硬な態度を取ってしまいました」

 なるほどと、わたしはようやく合点する。最初に見せた態度と、それ以降で印象が異なるのは、そのためだったのだ。そしておそらく後者の、礼儀正しく寡黙な在り方が本来の彼女なのだろう。

「わたしが怪しい人物であったのは確かでしたし、椛さんにも事情があるのですから致し方ありませんよ」

 わたしは友好的な笑みを椛に向ける。すると彼女はたたらを踏むように後じさり、わたしからも顔を背けてしまった。

「なるほど、早苗さんも天狗殺しだなあ」天魔さんは横から訳の分からないことを言い、それから徐に懐を探り、一枚の札を渡してきた。何やら奇妙な文様が複雑に織り込まれた呪札のようだった。「餞別も済ませたことだし、わたしはこれから記者の目と耳を一手に引き受けるよ。これは取材防止の結界だから持っていくと良い。効果は一晩もすれば切れるけど、押し掛け取材に来るような天狗は、頼もしい伴侶に追い払ってもらえば良い」

 差し出された札を受け取ると、天魔さんはまるで子供のように、腰に手を回してきた。

「改めて、結婚おめでとう。こんな形で結びつけた本人が言うことじゃないかもしれないけど、幸せに」

 天魔さんはそれだけを言ってわたしから離れ、続いて文に二言三言耳打ちした。赤くなったり青くなったりで、しかしどれもがなかなかの無茶難題であることは、文の様子から一目瞭然だった。

「それでは、良い初夜を」

 最後にさりげなく嫌な言葉を残すと、天魔さんは近くの木に捕まり、大車輪で勢いをつけて空に飛んでいった。しばらくして続々と気配が続き、わたしたちは渦中の人であるというのに、静寂に取り残されてしまった。

「なんというか、不思議な方ですね」真面目と不真面目、寛容と不寛容、邪気と無邪気がめまぐるしくも、一つの体に同居している印象がある。はっきりとしているのに、同時に曖昧模糊として捉えどころを見いだしにくい。「でも、根は良い人……もとい、天狗なのでしょうか?」

「いえいえ、油断してはなりませんよ」文は盛大に首を振り、わたしの考えが甘いと全力で指摘した。「天魔様とて天狗であることに変わりはありません。否、ある意味では一番天狗らしいとも言えましょう。誰かを驚かすのが大好き、特に情報操作と権謀術数が大好物なんですから」

 それは短い付き合いの中で、わたしも少なからず感じ取ることができた。だから人好きする顔をしていても、油断してはいけないのだろう。

「まあ、なんだかんだいって頭領という七面倒くさい立場でいてくれるのは助かります。大天狗連中にしてもそうですが、上に立つなんて面道事には関わりたくないですから」

「それは聞き捨てなりませんね」椛はずいずいと文に近寄り、狼特有の眼光を文に向ける。「貴女は次郎坊ですし、あのようなことをして上に立ちたくないなんて虫が良過ぎはしませんか?」

 責めるような口調の椛に、文はわざとらしくため息をつき、へらへらとした笑みを浮かべた。

「分かっていますよ。今回の結婚はこれまで自由にやってきた己への清算とも考えています。新聞記者をやめることはありませんが、それなりに身は固めますよ」

 椛はなおも文を睨めつけ、その子細までをも読みとろうと視線を巡らせ、ようやく納得したのか小さく頷いた。

「分かっているならば、良いのです」

 彼女の言葉はどこか重く、わたしには預かり知らない含蓄を含んでいるようであった。二人の間には長い時間が横たわっており、そのことが何故だか無性に苛立たしかった。

「まあ、とにかくです」文はわざとらしく会話を区切り、これ見よがしにわたしの腕を取った。「これからわたしと早苗さんは甘い初夜を過ごすのです。邪魔をする狼は、馬に蹴られて死んじゃいますよ」

「それは怖いですね」文の冗句を軽く受け流したのか、それとも本気で言ったのかは、よく分からなかった。「明日も仕事が早いですし、そろそろ……」

 椛がそこまで言ったとき、不意に無造作で大きな足音がこちらに迫ってきた。

「あれ、取材避けのお札、効果が切れたのかな?」

「いえ、これは札の効果を神通力で無理矢理抜けてきたのです。こちらに向かっているのは相当の強者、ですが誰でしょうね?」

「お館様です」椛は暗闇の中から、その正体を巧みにとらえていた。だからこそ、顔が青ざめているのだろう。何しろ椛たちの頭に座る天狗であり、威圧的な態度に終始していたのだ。「わたしを叱りに来たのかもしれない」

「ならば、その必要はないと言ってあげますよ」集会内で椛に見せた態度を、わたしは快く思っていなかったのだ。先程までの軽い苛立ちがどこ吹く風なのは我ながら移り気だと思うけれど。「椛さんは最初から最後まで実に立派でした」

 しかして、二メートルを雄に超える巨体が現れると、わたしの口は思うように動いてくれなかった。わたしは喧嘩すらろくにしたことがないけれど、目の前の天狗が歴戦の勇士であることは実に明らかであったからだ。体中に付いた傷、質量ともに疑いようのない強靱な筋肉、放射される獣の気配、近づくとこれほどまでに怖ろしいのかと、わたしは半ば感嘆する思いだった。

「今日はすいませんでした」椛はすっかりと平伏し、耳と尾を縮め、半ば震えてさえいた。「差し出がましい真似をしてしまいました」

 それでわたしの胸に、反抗の気概が蘇ってきた。わたしはもう少しで間に立ちはだかり、大きく両手を伸ばして立ち向かうところであった。しかしその前に白狼の大天狗自身が必要ないことを示してみせた。

「顔を上げてくれ、畏まる必要もない。わたしはお前を労いたいだけなのだから」

 彼……もとい、彼女だ。ゆったりとした服装の上に、ささやかだけど女性らしい膨らみのあることに、わたしは今更ながらに気付く。その彼女は、きつい顔つきの中にも確かな柔らかさを瞳に秘めていた。

「もう一人の手前、ああいう態度を取らざるを得なかった。許して欲しい」彼女は潔く弟子に頭を下げると、文に向き直る。「椛に斯様な晴れの場を与えて下さったこと、感謝する。それだけ、伝えたかった」

「別に便宜した訳じゃありません。信じてもらえないかもしれませんが、本当に成り行きでしたから」

「それでも、有り難いことだと考えている」

 白狼の大天狗に強い視線を向けられ、それでも文はしれっとした調子で真剣をかわした。

「分かりました、そういうことにしておきます。それより、こんなことをわざわざ伝えに来たのですから」

「分かっている。すぐにとはいかないかもしれないが、椛が正当な処遇を受けられるよう、努力する」

「そのことを理解しているならば良いのです」文は物怖じすることなく、大天狗と言葉を交わしていた。あるいは椛のため、敢えてそうした態度を取っているのかもしれなかった。「用も済んだことですし、わたしと早苗さんには夫婦最初の共同作業がありますから」

「そうか」彼女は同姓同士であることに、まるで頓着しないようだった。「良い娘を娶ったと思う。改めて、祝福させてもらうよ」

「ありがとうございます」大天狗に対する文の返答は、少し冷たいなと感じるほど表情がなく、また素っ気なかった。それから慌てて笑顔を作り、軽い調子で言った。「それなりにやっていきますよ」

 大天狗は文の言葉に、何か言おうとしたけれど、小さく首を振って取りやめた。そうして、椛を目で促す。

「わたしはここで失礼させて頂きます」

 椛は丁重に辞儀をすると、大天狗の後に続き、飛び去っていく。文はその姿を最後まで見届けると、大きく息をつく。

「何というか、どうも」文は照れくさそうに頭を掻きながら、ぽつりと呟いた。「白狼の女は、苦手でして」

「椛さんの場合は多分、文さんがからかい過ぎるからだと思いますよ」

「そうだと良いんですけどね」文はどこか曖昧な言い回しを残し、わざとらしく柏手を打った。「それでは用事も済んだことだし、さっさと帰りましょう。化粧を落とさないといけないし、夕飯も食べないといけませんから」

「そう言えば、食事が何も出なかったね。披露宴でないとはいえ、食べられるものを用意してくれても良かったのに」

 祖母が不満げに言うと、文はまあまあと諫めた。

「烏に白狼、狐に狸に猪では、共通する料理など用意できるはずもありません。本当は何ヶ月もかけてゆるゆると準備されるのですが、今回は超特急で召集されましたからね。まあ、それだけ重要視されているのだと考えて、角を収めてもらえれば」

 ふんと小さく鼻を鳴らし、祖母はわたしに背中を貸せとせがんでくる。何だか急に偏屈になったようで、わたしは少しだけ心配に思いながら、祖母を背中に乗せて、すっかり更けてしまった夜の山を、文について飛んでいく。

 その途中、わたしの頭に温かい滴がぽたぽたと落ちてきた。雨かと思って上を向いても、空は穏やかで雲も少なく、舟のような半月をうっすらと輝かせている。

 続いて聞こえてきた啜り泣きで、わたしは祖母が落涙しているのだとようやく気付いた。

「娘たちにも、見せてやりたかった」

 ぽつりとした呟きに、わたしはもう少しでもらい泣きするところであった。仮初めの結婚であっても、祖母にとっては実に感慨深いものであったと、今まで気付かなかったことを迂闊に思えた。

 わたしは祖母に泣かれるほど立派なことを成し遂げたわけではない。だからきっと、これからが大事なのだ。胸中に決意を刻み込むと、わたしは更に少しだけの涙を受けながら、帰途に着いた。

 

 家に戻ると、玄関に籠一杯の胡瓜と山盛りの握り飯が並んでいた。籠を重石にして簡潔な書き置きが残されており、そこには技術者らしいかっきりとした文字で、こう書かれていた。

「素性の分からぬ天狗に頼まれました。必要になるということだったので。胡瓜は取りあえずの祝いものだと考えてください。また後日、正式に伺います。それと、やっぱりこの言葉は必要だと思うので、早苗さんと文さんに送ります。結婚おめでとう」

 宛名を見るまでもなく、にとりの文であった。わたしが全文を読み上げると、文はどこか遠くに一瞬だけ視線を伸ばし、それからわざとらしくわたしに向き直った。

「お祝いもの第一号というわけですね、ありがたいことです」文はなむなむと食べ物に手を合わせ、それから言った。「わたしは水を汲んできます。守矢さんと早苗さんは、この贈り物を家の中に運んでください」

 文は手近な桶を引っ掴むと、清流を求め飛び立っていく。わたしは祖母と顔を見合わせ、張りつめていた気を一気に解き放つ。文は馴染みの天狗ではあったけれど、今日の修羅場を越えてきた身にとっては、僅かながらも緊張を強いる存在だった。

「この帰還をもって、ようやく天狗のコミュニティに認められたということなのか。それとも、これが始まりなのか」

 祖母のその言葉で、わたしと同じ懸念を共有していることが何となく分かった。確かに、大天狗たちの承認は得られただろう。しかし天魔さんを始めとして、こちらの与り知らぬ話を勝手に進めているような節がいくつも見えた。その中でわたしが最も憂慮したのは、遠からず開かれる披露宴である。それこそわたしと祖母が初めて経験する天狗の宴会となるだろう。彼ら、あるいは彼女らは、天狗の上に住まう巫女を穴が開くほど検分するはずだ。もし、そこで致命的な粗相があれば、大天狗の承認があってさえ、天狗たちから認められなくなるかもしれない。

「わたしは、ここに依って立つだけの力を身につけなければいけないんだと思う。今日はきっと始まりであるか、まだ始まってすらいないのかもしれない」

 その想像はわたしの足下を揺らそうとしたけれど、辛うじて踏ん張った。天狗と結婚してまで掴もうとした機会なのだ。逃すわけには決していかない。

「気負ってはいけないと言いたいところだけど、難しいんだろうね」

 祖母は溜息のように言い、それでも俯いたり背いたりはしなかった。

「それでもわたしは、我侭を貫きたいと思うんだよ。孫娘を危うくすると分かっていながら」

「おばあちゃんの我侭は、そのままわたしの我侭だよ」わたしはそのことをはっきりと口にする。「わたしは風祝で、しかもとびきりなんだから。すぐに天狗なんてぺしゃんこにできるほど強くなるよ」

 希望的観測が半分、残り半分は虚勢。つまり自信なんてまるでなかったけれど、それでも良かった。口にすることが大事だと考えたからだ。

「さあ、にとりさんからの祝いもの、中に運んでしまいましょう」

 祖母は、まだ何やら考えることがあったのだろう。どこか怪訝そうな顔をしていたけれど、次には胡瓜一杯の籠をひょいと担いでいた。わたしは玄関の戸を開けて祖母を助けると、握り飯の乗った大皿を持ち、その後に続いた。

 

 夕食を終え、化粧をすっかり洗い流すと、ほとほと気が緩んでしまったらしい。ひたすらに眠くなり、わたしは文や祖母に先んじて、一足先に眠ることとした。

いつもの挨拶をすると自室に戻り、のそのそと布団を敷く。風祝の衣装をハンガーに引っかけ、下着を脱いで中に潜り込む。最初の日は寒いと感じたけれど、今はさして気にならなかった。高山の気温に慣れてきたのか、無意識に体温や気温を整える癖がついたのか。両方なのだろうなと思いながらうとうとしていると、不意にドアがノックされる。半ば夢見心地にどうぞと声をかけ、すると文のお邪魔しますという声が返ってきた。ドアがゆっくりと開き、音を立てて閉まる。かちりと鍵がかかり、わたしは思わずびくりとした。ここにはわたしと祖母、文さんの三人しかいない。鍵をかける必要なんてないはずだ。

 するすると衣擦れの音がして、それでようやく顔を出すと、そこには下着だけを身につけた文が立っていて、寝床に素早く潜り込んできた。わたしたちはぴたりと密着し、むき出しの部分が触れ合って、温かい緊張感をもたらす。

「な、何を、するんですか?」口にしてすぐ、愚問だと気付いた。文は何度もそのことを、わざとらしく述べていたからだ。「わたしのこと、襲いに来たんですね」

「違います」文はにべなくそう言い切ると、裏腹に体を密着させ、顔を近づけてきた。「守矢さんにも聞かせたくない話をしたくて。といっても卑猥なことではないですよ」

「天狗がわたしたちに隠していること?」

 文が鍵をかけてまで全てを閉め出し、語ろうとすることなんて、それくらいだと思ったのだ。そして話の内容もおおまかに検討がついた。

「おばあちゃんが聞いたら、顔をしかめることなんですね」

「守矢さんは早苗さんに厳しく見えますが、その実十分過ぎるほどに甘いです。例えば本当に、命の危険が迫るなどと聞けば、早苗さんがどれだけ主張しても許すことはないと思うのです」

 文の分析に、わたしは率直な驚きを示した。祖母のわたしに対する厳しさが割合表面に留まっていることを見抜いていたからだ。

「わたしは新聞記者ですから。それに割と分かりやすいですしね」

 文はわたしの緊張が緩んだと見て取るや、ほんの少しだけ距離をおいた。それでも触れているところは未だ多く、わたしは初手の緊張から未だに抜け出せずにいた。それでも頭を回すだけの余裕は残っていた。

「要するに、文さんはわたしが思っている以上に危ないと言いたいのですね? そしてそれをおばあちゃんには伏せておいたほうが良いと?」

「懸念だけです。それも天狗社会が擁護するのだから、現実の危険となる可能性は極めて少ないはずです。それでも零ではなく、万が一のことが起きてもそれだとすぐ分かるようにしておきたいんです」

 わたしは小さく頷き、文の顔を厳しく見返す。それくらいできないといけない気がしたのだ。

「良いです。話してください」聞いてしまえば、甘えることはできないだろう。でもわたしは、己の身からできる限りそれらを取り除いてしまいたかった。「わたしたちは結婚後、どんな災厄に見舞われるのですか?」

「あくまでも可能性です」そう前置きしてから、文は一見素っ気なく言葉を続ける。「わたしたちはかつて遙か西国にあり、一組の神を奉っていたことがあります。仲睦まじい夫婦でして、彼らは修験道を外れたものたちによって長らく信仰されていましたが、外から大挙してやってきた鬼たちに追い落とされます」

 鬼という単語に、わたしは赤く堅い肌を持つ怪物を思い浮かべる。凄まじい力を発揮し、都に仇成し、人民を苦しめたものたち。歴史では中央に従わない勢力や賊の類を象徴したものと習ったけれど、天狗や河童がいるのだから、鬼がいてもおかしくないはずだ。

「鬼たちは天狗や河童、土蜘蛛などを使い、山に鎮座して豪放磊落の限りを尽くしましたが、やがて目をつけられ、恐ろしい力を持つ将たちを抱く武士の一団と、その姦計によって壊滅させられました。残されたものたちは殺められ、封印され、あるいは東国に逃れました。東にその威を轟かせていた白狼天狗たちに匿われ、ようやく腰を落ち着けることができたものの、根が軽い烏天狗と規範を重んじる白狼天狗ではどうにも馬が合わず、小競り合いが耐えませんでした。やがて一部の強硬派は、西国に戻りて生き残りの鬼に許しを希い、白狼天狗たちを平らげることを画策するようになりました。そうすれば鬼を重んじた烏天狗は、白狼天狗の上につくことができると考えたからです」

 何とも俗っぽい考え方だと思ったけれど、天狗は修験道から外れるような俗物の集団であるとも言える。より強い俗に流れるものが出てくるというのもあり得るのだろう。

 そこまでを無言で咀嚼し、だがわたしには文が何を言いたいのかいまいち理解できずにいた。そのことを知ってか知らずか、文は先々と話を進める。

「結局のところ、この目論見は失敗します。理由としてはまず、天狗の頭領である天魔様が、白狼天狗の重んじる序列や規則を烏天狗に受け入れやすいよう敷き直し、それが大勢の支持を得たから。今日にも続く七面倒くさい徒弟制度のことですね。もう一つは西国にて難から逃れた鬼たちを招聘するのに失敗したことです。彼らの多くは地に封され、極一部のものたちは人と積極的に混じり、異形の力を持つ一族として皇の隠されるべき権力の一つとなりました。そんな鬼たちにとって天狗の誘いは傍迷惑でしかなかったわけです。鬼たちは『天狗は東に逃れた妖怪たちを代理として統治せよ』と命じました。皮肉にもこの命が、天狗の結束を強くしたのですね」

 文は小さく息をつき、その労苦をまるで自分が体験したかのように表現してみせた。否、おそらく実際に体験したのだろう。

「天狗が代理として統治することは徐々に外へと広がり、そのことを知った不埒な輩どもが、その座を求めて明暗に天狗を脅かそうとしました。しかし天狗たちは頑としてそれらをはねつけ、首座の不在に託けて、人間に比べて遙かに大らかな社会が形成されました。時代が移ろい、あの忌まわしい一神法が猛威を揮ってすら、天狗の上に収まるものは認められず、許されませんでした」

 文はそこで言葉を切り、おそらく意図してわたしの反応を待った。当然の疑問が口から飛び出すことを期待したのだろう。それが分かっていても、わたしは訊ねずにはいられなかった。

「それなのに天魔さんをはじめ、天狗たちはわたしや祖母が高みに居座ることを正式に認めましたね。その理由こそ、わたしがこれから合うべき危難をも示しているはずです」そこまで口にして、わたしの中にはかなり明確な推測が浮かび上がっていた。しかしここで早々と口に出すのははばかられ、だからわたしは文の結論を促した。「その理由を、話してくれるんですよね」

 文は頷き、率直に答えそのものを言った。

「鬼です」わたしはやはりと心の中で頷き、しかし黙ったままでいた。「数年前、この幻想郷に一匹の鬼が現れました。名を伊吹萃香、かつて四天王と呼ばれた最強を持つ鬼の一人です。彼女は予告もなくふらりと現れ、幻想郷に留まり続けています。最初こそ奇妙な異変を起こそうとしましたが、麓の巫女に手懐けられてからは主に彼女の住む社の周辺に留まり、のんべんだらりとした日々を送っています。わたしも何度か取材を行いましたが……」

 文はそこで実に分かりやすく表情を歪める。然るにあまり面白くない取材結果であったのだろう。

「随分と仄めかしての確認ではありましたが、彼女は山に収まる気などないようでした。しかし天狗たちはそのことを素直に信じませんでした。鬼は嘘などつかないはずなのですが、大天狗たちは鬼なんていつでも心変わりすると考えているようですね。わたしはそうは思わないんですが、とまれ鬼の脅威は、天狗たちの間で広く議論されるようになりました。これは先遣であり、彼女はいずれ鬼の国から軍勢を引き連れてくるのではないか。天狗たちは直接的な侵攻を怖れ、また一部のものたちが野望とともに鬼を引き入れるよう画策するのを怖れています。その一派の最たるが、先も話題に出た天狗党なのですよ」

 ぴたり、と。ようやく物語が現状にはまり込んだ。天狗の脅威を思い出させることに熱意を燃やす原理主義者たち。彼らが人間を襲うために、かつての主を頂こうとするのは、理に叶っているとまでは言えないけれど、十分にあり得ることだと感じた。

「山が新たな主を得たと示し、天狗が支持することで、天魔様や大天狗たちは鬼に対し、山にはもうお前の居場所などないと間接的に宣言したのです。それと同時、天狗党を始めとする鬼を頭に据えるべきだという言説を前もって封じ込めたことになります。ただしそのどちらも完璧とは言えません。そこに危機の入り込む余地があるわけです」

「わたしには天狗よりも強い鬼と対決する可能性ともう一つ、血気に逸った天狗に襲われる可能性があるんですね?」

「その通りです」文はわたしの言葉を素直に認めた。後ろ暗いことであるが故に、わたしの指摘は確からしいと信じることができた。「後者の可能性については、哨戒天狗が目を光らせるように手配済みですし、何よりもわたしが側にいますから」

 文は得意げな顔を浮かべ、臆するところがまるでなかった。

「前者についても、対峙することはまずないと考えて良いです。彼女は何かを統べることにはもうこりごりですし、博麗神社の巫女に個人として執心するのに夢中ですから。これは天魔様とも一致したところでして、早苗さんは心配しなくて良いです。一番厄介なのは、人間風情が山の上に立つならと考える胡乱な存在に襲いかかられることです。これについても天狗は警戒しますが、全域をカバーすることはできません」

「だから、わたしは強くなる必要があるんですね?」できれば端下の天狗に勝てるくらいの力。大したことにしか力を使ったことのないわたしにとって、それは強い懸念事項の一つだ。「わたしのような何も知らない人間が、本当にそこまで強くなれるのでしょうか?」

「わたしが直々に鍛えるんですから、強くなってもらわないと困ります。それに早苗さんは才能ありますよ」

「本当ですか? 気休めではなく?」

 文は軽薄な天狗だから、人間など当てにならないと考えているのかもしれないとわたしは疑っていた。しかし文は柔らかい態度の中にも、強い自信を持っているようだった。

「ええ、わたしは風ですから。同じ風のことはよく分かります」

 わたしに才能があるなんてとても信じられなかった。それでも才能云々に関わらず、わたしは文に並び立つほどにならなければならないはずだ。そうでなければ、最も性質が悪く強い相手と戦うことになったとき、全てを押し潰されて、おしまいにされる。

「そうですよね。文さんよりも強い相手と戦うかもしれないのですから」

「いや、鬼のことなら心配しなくても……」そこで文はぴたりと言葉を止め、どこか青い顔でわたしを見やった。「早苗さんはわたしより強い天狗が、天狗党の一員であることを危惧しているのですか?」

 言葉の調子から、文はそのことをまるで考えたことがないようだった。わたしですら思いついたのに。

「だって、天狗党は血気逸った若い天狗たちの集団ですよ?」

「そういったものたちの背後には大体、落ち着いた顔の煽動者がいるものです」日本でかつて軍部の若者が暴動を起こしたとき、その背後には油を注ぐものたちがいた。直接には加わっていなくても、ある思想や行動を促す狡猾な老人が存在する可能性はある。「天狗はそこまで複雑ではないのかもしれませんが」

「いえ、そうですね、あり得ます」文は珍しく素直に過ちを認め、わたしに求めるような視線を寄せた。「あの場に集まった大天狗たちは皆、千年前のいざこざを体験し、鬼に与するのを反対しました。彼らが今更、原理主義などにかぶれるとは思いませんが、天魔様にはそういう可能性もあると報告しておきます。もちろん、早苗さんの思いつきであることは伝えません」

「いえ、伝えても良いですよ」人間には天狗と異なる価値観を与えることができると知らしめるのは悪いことではないと考えたからだ。利用価値があると考えてくれるかもしれないし、神の知恵と敬う天狗が出てくるかもしれない。だからわたしはもう少し強い意見を押し出した。「少なくとも天狗党が若さに逸っただけの集団ではないかもしれないというのは伝えて下さい。天狗たちは端下を一人だけ捕まえて、あるいは短絡さが若さであるという強い偏見で、彼らの正体がよく分からないのに決めつけているのだと」

 文はわたしの提案に少しだけ難色を示したようだが、やがて大きな頷きとともに受け入れた。

「分かりました。早苗さんからの意見であること、伝えます」厳かに宣言してから、文はどこか気難しい顔をわたしに見せた。「それにしても、なんというか……早苗さんは怖いですね。わたしだってそこまで穿ったものの見方はできません」

 この程度の推測ならそこまで難しくないと思うのだけど、往年の推理ものを読み耽ったからこそ身についた能力なのかもしれなかった。こちらに来てから疎かになっていたけれど、やはり本は定期的に読まなければならないと強く感じた。もしこの幻想郷に図書館のようなものがあるならば、今度案内してもらおうとわたしは心密かに決めた。

「まあ、早苗さんが意地悪なのはさておき。長くなりましたが、要するに早苗さんは軽い危険を常に負っているということになります。自覚し、行動して頂けると助かります。日が暮れてからは行動しないこと、不審な飛行物体を見つけたら、警戒を怠らないこと。何よりも少々の危険など、跳ね返す力を身につけることです」

 天狗たちに一応、承認はされたけれど。まだ妖怪の山の一員というには程遠いと、わたしは痛感せざるを得なかった。それでもかつて、ここにやって来て本当に不安だった頃に比べると格段の進歩だった。少なくともやるべきことが分かっており、注意すべきものが何かも人間の尺度で十分に理解できる。あとは多少辛くても、積み重ねるだけだ。

「文さん、わたし頑張ってみます」

「ええ、期待してますよ」文は素っ気なく言うと、わたしに強くしがみついてきた。「では、初志貫徹といきましょうか」

「初志って……」わたしは文の行動に気付き、言葉だけで必死に拒む。「そんなもの貫徹したくありません」

「愛のない行為は嫌ですか? わたしほどの手練れならそんなものなくても、気持ちよくしてあげられると思いますが」

 わたしは文の抱擁をふりほどき、暴れるようにして文を寝床から追い出した。「出ていけ!」と言ったかもしれないが、わたしは本当に無意識で怒りに満ちていて、本当にそう口にしたかは分からなかった。

 なおも睨みつけ、今度こそ自覚して怒鳴りつけてやろうと考えたけれど、すんでのところで喉の奥に落ちた。拒まれた文が惨めで辛そうな表情を浮かべていたからだ。

「すいません、冗談のつもりだったんです。本当は匂いを付け合うだけで良くて、ただその、早苗さんを軽くからかいたかっただけで。そこまで嫌がるとは……」

「ええ、分かっています」わたしは何も考えられなかったし、この汚らわしい天狗を一刻も早く、部屋から追い出したかった。そうしないとわたし自身が臭くなってしまいそうだったからだ。「こういうの、本当に嫌なんです。もう、本当に辛くて」

「ごめんなさい。もう、しないですから、絶対に」

「ええ、やめてください」

「本当に、しないですから」

「ええ、分かっていますよ」わたしの中に少しだけ理性が甦り、椛に捕まったときのやり取りを朧気に思い出していた。「そうしないと匂いでばれてしまうんですよね?」

 それに対する文の返事はなかった。また反論されるのが怖いのだろうか。それはまるで文らしくない行動に思えた。

「天狗なんですから。人間にこうまで散々言われら、もっと怒っても良いんですよ」

 それでも文は何も言わず、無言で鍵を開けてドアを開ける。外に出ようとしたところで、わたしは腹立たしい相手のはずなのに、何故か助け船を出していた。

「一朝一夕では話せないことなんです。でも、いつか話しますから。その、文さん……わたし、全部が嫌になったわけじゃありません。ただ、愛もないのにそういうことするのが嫌なだけで」

 かつてそうしたことがあると、半ば打ち明けたも同然だった。もしかすると軽蔑されるかもしれないと思ったけれど、文は全く逆の態度を取った。

「早苗さんは、わたしとまだ、夫婦同士でいたいですかね?」

 文は切ない微笑みを浮かべ、心から望んでいるかのように言った。まるで嘘偽りないかのようだった。それでいて明確な嘘だとも分かっていたから、これは文が見せた最大限の譲歩なのだと考えることにした。

「不束者ですが、これからもよろしくお願いします」口にして、わたしにはそれが本心なのだと理解できた。「前にも言ったかもしれませんが。この気持ちは今も変わりませんよ」

「そうですか、なら良かったです」文はそれだけを口にして、部屋の外に出る。それからドアを閉める前にひょこりと顔を出した。「それでは早苗さん、お休みなさい」

「はい、お休みなさい」わたしはドアがぱたりと音を立て、足音が聞こえなくなるのを確認してから、布団を被り直して、誰もいない天井に同じ言葉をもう一度繰り返す。「お休みなさい、文さん」

 そうしてわたしは大きな大きな息をつく。文がわたしを嫌わないでくれたからだ。

「嫌なわたし。駄目なわたし。どれだけ頑張っても出てくるなあ。強くなれば、そういったわたしから訣別できるのかな?」

 否、ここで生きるならば強くならなければならない。わたしは裸のお姫様だけど、いつかは立派な服と冠が似合う本当のお姫様にならなければいけない。物語に出てくる主人公のような、立派な存在にならなければ。天狗たちは信仰してくれないし、神をこの地に迎えるなど夢のまた夢だろう。

「わたし、強くなる」決意を口に出し、拳を固める。「わたしは強くなるんだ」

 結婚式の夜、わたしは孤独な中で、羊を数えるように心の中で唱えた。何度も、何度も、復誦した。それでも眠りにつくのは難しく、最後に縋ったのは文のわたしを求める切なげな笑みであった。

 すると胸が温かくなり、血が巡り、わたしの中に健やかな眠りがやってくるのを感じた。彼女は信じるべきわたしの友であり、連れ合いなのだ。そのことを信じて、彼女が信じてくれたわたしを信じて。

 わたしはそれからすぐ、穏やかな眠りにつくことができた。

 

 

 夜は苦手だ。悲しいこと、辛いこと、苦しいことはいつも、夜とともに訪れるから。妖怪が夜を苦手とするなんておかしいけれど、天狗は集団と規律に暮らす種族となってから、夜をそこまで重んじなくなった。カメラの発明と普及も、主に記者として生業う天狗たちの昼型化を加速していた。わたしが人間を主な被写体として扱うようになったのには、目眩ましの意味もある。ほんの僅かでも、夜が苦手と探られる可能性を減らしたかったのだ。

これから会う天狗はわたしのそんな性質を十分過ぎるほど知ってるから、虚勢を張る必要もない。少しだけ肩の力を抜き、わたしは月と星だけで辺りの景色を見やる。烏天狗は決して夜に弱い種族ではない。そこらの夜行性妖怪よりは余程、目が利くのだ。

 天狗の領域の更に上となる源泉の森は、夏でありながら既に初秋の様相を呈している。頂上付近は一月足らずのうちに冠雪するはずであるし、ここらも秋の終わりには雪に沈み込んでいるだろう。川は根元から凍り付き、九天の滝もその流れを部分的に閉ざすだろう。川面の底に、魚たちは辛く厳しい冬を堪え忍ぶだろう。

 麓では夏の盛りは過ぎ、豊穣の秋がそこかしこに顔を覗かせ始めている。蝉の鳴き声は少なくなり、替わって鈴虫や蟋蟀などの秋虫が歌い始めるようになっていた。稲穂も少しずつ収穫の色を帯び始めている。今年は天候も良く、あと一月もすれば頭を垂れ始めることだろう。強い風が吹かなければ、秋の果実も続々と実りを始めるはずだし、秋雨とともに味わい豊かな茸たちも、むくむくと生えてくるはずだ。

 時が季節を司るよう、高さもまた別の季節を彩る。人間には些か厳しく、それゆえに山は侵されざる妖怪の領域であり、後年には人間たちに狩り出された妖怪の隠れ家ともなった。その聖域も百季以上前、あらゆる土地を管理し、また数多の妖異偽神をおしなべて追い立てようとする人間の凄惨とも言える営みにより、瞬く間に潰えていった。妖怪の山とて例外ではなく、八雲紫が当代の博麗とともに龍神を訪い、命がけの儀式をもって結界を敷かなければ、蹂躙の憂き目にあっていただろう。かつて無茶無謀な扇動を行った償いのつもりなのか、自由自在にデザインできる箱庭世界が欲しかったのか。わたしには未だもってよく分からないし、彼女の考えを読むことなど不可能に近いだろう。

 とまれ、こうして幻想郷という名の箱庭世界が打ち建てられると、妖怪たちは徐々に麓へとその住まいを変え、あるいは下山していった。河童もそうした妖怪の一つである。臆病だった彼らも、人間の驚異がほぼなくなったと知ることで徐々に開け広げるようになり、今では中流付近に広がる渓谷や、その周辺に幅広く住むようになった。天狗とは表面上、密接な関係を続けてはいるけれど、なるべく関わりたくないというのが本音のようだ。河童にとっては、天狗も鬼と同様に畏怖するべき存在だからだろう。にとりのように、天狗と友好的に交流する河童は珍しい。もっとも彼女とて、河城一族の偏狭さに一時的な反抗を試みているだけかもしれない。わたしとしては、せめて椛との友誼は本当であって欲しいのだけれど。

 椛のことを考えると自然にかつてが思い出され、わたしは大きく溜息をつく。彼女は飄々としているけれど、わたしのことを酷く憎んでいるに違いない。百年もの時を経て、今更仲良くなろうと白々しく近付いたのも、鬱陶しいとしか感じていないはずだ。仕方がない、わたしはそれだけのことをしたのだから。仕方がない。

「いけませんね、また仕方ないだ」わたしは独りごち、頭から追い払おうとするも、どだい無理な相談であった。この一週間で一気に様々な仕方ないが、降り懸かってきたからだ。「嫌ですねえ、わたしはまだ枯れ果てるつもりなどないのに」

 わたしはすらりと右手を伸ばす。しみ一つ、皺一つない若者の肌と骨だ。老いることなくこの身を保ってきたのはある意味誇りでもあり、しかし呪縛でもある。千季以上も生きれば、ロクでもないことの一通りは体験する。大概のものは身を固めて仔を成してもおかしくはない。わたしと同年代の、いわゆる大江山世代は皆がそれなりの地位に腰を落ち着けている。そうして、未だに売れない新聞を作り続けているわたしに硬軟の説教を飛ばす。お前もそろそろ後進を指導する立場についてはどうか。かつていくつもの功を立て、次郎坊の地位にいるのだから尚更のことではないか。未熟者の振りをしているわけにもいかないぞ。

「功名であるものか」わたしはそう言いながら、手近なところにあった石を放る。それは川面をちゃぽちゃぽと跳ね、向こう側へと辿り着き、ぴたりと動きを止める。「そんなもの、わたしは欲しくなかった」

 その果てが、このような現状であるならば尚更だった。何故人間の女を娶らねばならないのか。かつて天狗を始め、あらゆる異類を締め出した外世界の末裔なのに。わたしは神に見放された東風谷早苗という名の少女に、本当なら唾を吐きかけてざまあみろとでも言わなければならないのに。

「おや、マリッジブルーとは頂けないねえ」

 真上からいきなり声がして、しかし特に慌てることなく息をついた。多分、聞いているとは思ったのだ。だから聞かせてやった。全てではないにしても、わたしの本音を。いけ好かない天狗の頭領様に。

「記者たちは上手くあしらったんですか?」

「ああ、勿論だとも。射命丸の次郎防、射命丸文は取材中、偶然にも神巫女の郷入りに立ち会い、その美しさに一目で恋に落ちた。神巫女も天狗の凛々しさに己の恋を喜びて与え、郷入りの気配を感じて駆けつけたわたしは、その電撃的な光景にただただ啓示を受けるしかなく……」

「戯言は沢山です」わたしは天魔様の言葉を途中で遮った。あまりに馬鹿らしくて、聞いていられなかったからだ。「わたしは好き勝手やりますよ。早苗さんにも既に了解は取ってありますから。写真を撮り、記事を書き、新聞を配る、それがわたしという存在です」

「それが駄目だとは言ってないよ。まあ、わたしだったらこれを機に売れない新聞からは足を洗うけど」

「わたしはですね、虚栄を求めて新聞を書いているわけではありません」

「真実、事実の類がいかほどの役に立つ?」天魔様は実に手厳しく、痛いところを突いてきた。「自分では事実に尾鰭の花を咲かせた、面白可笑しい記事であると考えているかもしれないが、文の記事は基本的にくどくどしいんだよ。今時、誰がきちんと取材し、かつ折り目正しい文章で書かれた新聞を読むと思う? 神の隣人を漁り、愉快に書き立てたほうが売れるし、誰からも喜ばれる」

「そういうのは、便所の落書きと言うんですよ」

「ならば、新聞とはそういうものなのだろう」あまりにもあまりな断言に、わたしは怒気の放出を抑えることができなかった。「怒るのは結構。ただ図星をつかれて逆上するのはみっともないよ」

 自ら毒を撒き、返す刀で吹き散らすのだから、わたしとしては乾いた笑いしかでなかった。

「姫海棠の嬢ちゃんはまだ良いよ。彼女は若いからね、ああいった反主流も許される。でもね、文のは偏屈の域に達している。そのような行いを快く思っていないものは多いし、妖怪と人間を同列に扱う記事構成にも冷たい視線を向けるものは少なくない」

「要するに、天狗党と似たもの同士ってわけですか」

「原理主義、行き過ぎたリベラル、どちらも公序良俗を乱すことに変わりはない。次郎坊ほどのものがそれをするとなれば、その影響力は少なからぬものとなる」

「天魔様は、右にも左にも向けないかちこちに退屈されているのでは?」

「だからといって、全てのものを見逃すわけにはいかないよ。弁えろとは言わない。せいぜい首輪に繋がれたことを意識し、その息苦しさに身悶えするが良い」

 それが本音かと言いたかったけれど、違うことも重々心得ていたし、丁々発止としたやり取りでストレス発散していることも理解している。付き合わされるほうは貯まったものではないけれど。

「いい加減、本題に入りましょう。眷族を遣わして、わたしをここまで呼んだのはいかなる用事ですか」わたしは懐に収めていた鏡を真上に放り投げる。「夜這いをかけろというならもう手遅れですが」

「用事なんてないよ」天魔様はわたしの言葉を無視し、あっさりと宣言した。「だから、わたしの言葉に公はない。完全に私のものだと考えて欲しい」

「そんなこと、断らなくても良いでしょうに」

「けじめは必要だよ。特にわたしのようなものにはね」

 天魔様の声は平板で、いかなる感情も読みとることはできなかった。それでいてどこか寂しさのようなものを秘めているように思えた。

「わたしにこんなことを言えた義理じゃないのは承知している。厚かましいことも理解している。それを棚に上げて、一つだけお願いがある」天魔様は大岩の上からわたしの前にひょいと降りたち、童姿で深く頭を下げた。「彼女を幸せにしてやって欲しい」

 幸せという言葉は、わたしの心を強く打った。まさか天魔様の口からストレートに出てくるとは思えなかったし、わたしが早苗さんに宣言したことを思い出したからだ。

 彼の立ち振る舞いは、わたしを明らかに怖じ気付かせた。何故ならば、天魔様はかつて得、そして亡くした幸福をわたしと早苗さんに仮託しているのだと分かったからだ。

「それだけが言いたかったんだけど、文はからかい甲斐があるから、随分と沢山の言葉をくっつけてしまったね。気分を害したならいくらでも謝るよ、だから胸の内に少しでも留めておいて欲しい」

 畏れ多いの一言をわたしはすんでで飲み込んだ。天魔様は、わたしをその後釜に最も近いのだと間接的ながら明かしたに相違ないからだ。

「善処します」わたしはそうとしか答えられなかった。「ただし、わたしは偶然の結果としてここにいるに過ぎません」

 もっとふさわしいものがいるのではと、わたしは言外に問うた。すると天魔様は大きく首を横に振った。

「今回のことは偶然に違いない。でも、思いつきで言った訳じゃない」天魔様はわたしの顔を見据え、らしくない真剣な表情をわたしに向ける。「あの日、彼女の亡骸を密かに持ち帰ってくれた文の、粛々とした姿を見たときから、ずっと考えていたことなんだ」

 彼女。わたしにとって無二の友人であり、背信者であり、わたしが殺した天狗の一人でもある。

「わたしは公人であるため、私情を振りかざすことはできない。そのためにまるで敵と見えることがあるかもしれないし、容赦なく見捨てるかもしれない。それでも、わたしの願いを忘れないで欲しいんだ」

 天魔様はもう一度頭を下げようとし、わたしはそれを慌てて留める。そのまま沈黙だけが募り、わたしはもう少しで彼に伝えることを忘れるところだった。

「これは私見なのですが」少し考えてから、早苗の案であることは伏せることにした。見抜かれるかもしれないけれど、そのときはそのときだと己を納得させる。「天狗党が上から指示されている可能性は?」

 天魔様は一瞬、わたしが何を言おうとしたのか分からないようであった。

「変なことを考える。百年前のことはともかく、それ以前の様々な受難を体験してきた古参の天狗たちが敢えて、総意と秩序を乱したりするとは思えないが。考慮はするべきか……」

 しばし何かを考えたのち、天魔様は惜しそうに眉をひそめた。

「猪々丸殿に視てもらうべき絶好の機会があったのに、利用できなかったのは残念だ。早く言ってくれれば良かったのに」

 彼の話しぶりからして、自分の真下にいる十二人さえも疑われるべきだと考えているようだ。天魔様も早苗と違うけれど、また異なる来歴を持つのだと、わたしは今更ながらに納得する。

「あの場で視てもらったのは守矢さんと早苗さん、それからあと一人」

「椛ですか?」椛が彼女の姉貴分であり、天狗党の勢いが活気づいてきたならば、天魔様は猪の大天狗に視させたはずだ。「彼女は今の天狗党を嫌っています」

「口なら何とでも言える。ただ、そうなんだろうね。天狗党を立てたのは椛の妹分だが、その中で高まった極端な思想が、彼女を死に追いやったとも言えるのだから」

 天魔様は少し躊躇ってから、探るように当然のようなことを訊ねてきた。

「猪々丸殿の眼は知っているね」わたしは小さく頷く。あの猪の大天狗はそれ故、独特の立場と畏敬を勝ち取っている。「視たものの最も大きな意志、欲望、抑圧に限って読み取る能力」

「覚りほどではないし、意識して上書きすることも可能だ。椛はそれを知っているから、犬走殿にお願いして彼女の動揺を誘ってもらった。散々に渋られたけれど、身の証と納得してもらったよ」

 わたしは今更ながら、集会所内での行為に合点する。だから犬走殿は椛に冷たいと言えるほどの態度と視線を向けたわけだ。

「大意は貢献、大望は義務、大抑は憎悪。椛は貢献したいという強い意志を持ち、それを義務と感じ、何かへの憎しみを抑え続けている。それは彼女の献身的な活動、ないし天狗党が嫌いであるという、彼女の言動と一致するわけだ」

 天魔様はわたしを安心させたかったのだろう。しかし、わたしの心は暗澹として晴れない。彼女の憎悪がわたしに向けられている可能性が払拭されたわけではないからだ。わたしはそのことを隠し、素っ気ない様子であと二人について訊ねる。

「早苗さんと守矢さんは?」

「早苗さんの大意は成長、大望は信仰、大抑は恋愛」

 大意、大望についてはよく理解できた。しかし大抑の恋愛というのがよく分からなかった。

「彼女は恋愛を己に戒めているということですか? 何故に?」

「さあね、それを彼女から読みとくのも君の仕事だと思うけどね?」

 わたしは元々、恋に落ちようなどとは考えていない。だから不必要だと考え、だんまりを決め込んだ。

「最後に守矢さんだが、大意は神、大望は信仰、大抑は孫」

「彼女は根っからの信仰者なんですね。しかし、大抑の孫というのは……ああ、なるほど」

 早苗を孫として扱うのを我慢しているということだ。彼女が親代わりであったことを鑑みると、その抑圧は実に分かりやすい。

「これを足がかりにして、二人と良好な関係を築いて欲しい」

「こういうの、狡くないですか?」天魔様がわたしの善良を探るような、にやけた顔を浮かべるのでわたしは慌てて言葉を継ぎ足した。「人間相手なんですから、ヒントなどなくても簡単に掌握してみせますよ」

「もちろん信じているよ。まあ、これも餞別の一つだと考えてくれ。では、わたしはこれで帰るとするよ。伝えるべきは伝えたし、吟味しなければならないこともできたからね。徒労に終わるとは信じているけれど、まあ愛しい人の考えなれば」

 どうやら天魔様は早苗でなく、守矢さんの意見であると考えているようだ。惜しいところを掠めた格好となるが、わたしは正解を教えるほど親切ではなかった。

「では、上手くいくことを期待しているよ、文」

 天魔様は最後に健闘を称える旨の言葉を残し、煙のように姿を消した。わたしはしばらくぼんやりと、先程の言葉について、願いについて、考える。思いは口から漏れ、闇夜を呪いのように駆ける。

「わたしに人間を幸せにしろだなんて」

 妖怪をきな臭い銃で追い立てて、あまつさえ彼女をずたずたにしてしまった外世界の人間を、幸せにするなんて真っ平御免だ。

「人間なんて、弱くて、狡くて」わたしは神の名の下、容赦なく銃を撃ち放った人間の、汚泥にまみれたような顔を浮かべようとした。しかし実際に浮かんできたのは、綺麗で善良で控えめな早苗の微笑みだった。「でも、わたしを苦しめたのと同じ理由で苦しめられたものの末裔でもある」

 人間だとしても、それならば幸せにしても良いのだろうか。

 一瞬だけ生まれた詮無き思いを振り払い、わたしは抜け出した窓から自分の部屋に戻る。まだ整理整頓もろくにできていないけれど、今日から、ここが正式にわたしの家となる。

「悪くはないけれど、落ち着かないなあ」

 越して間もないためか、人間と共同生活をする羽目になったためか、それは分からない。わたしは布団を敷くと上半身裸になってから俯せになり、背中から羽根を出す。いつもは収めているけれど、たまに無性に出したくなることがあるのだ。ぱたぱた羽ばたかせると気持ちが落ち着くし、天狗であるという自負を補給することもできる。

「要するにわたしは天狗として、疲れているんだな」

 天狗なのに、天狗に疲れるというのもおかしな話だけれど。妖怪の山の天狗は、大なり小なり天狗に疲れるのが常だ。だから酒は大量に消費され、宴会も大小様々なものが頻繁に開かれる。わたしは酒こそ大好きだけれど、それを鬱憤晴らしとして消費するのが好きではない。だからといって、こんな晴らし方が正しいとも言えないのだけれど。

「自由気ままであった頃が懐かしい」千年以上も昔、鬼を頂点として好き勝手やっていた頃、またそれ以前のただ飛んでいれば良かった頃に、戻りたくないと言えば嘘になる。だがそれ故に狩られ、追われた過去があるから、自由を謳歌することに躊躇いも覚える。「天魔様の疑念は正しい。旧い天狗に取って、その力を気ままに振るい人間を脅かすことは、必ずしも一義ではない。幻想郷で暮らし始めてからは尚更だ」

 その一方で天狗の尊厳を取り戻したいという気持ち、ただ一つの山に居場所を狭められ、規則で縛り付けられたための閉塞感も理解できる。どちらも理解できることが、この悩ましさを生んでいるのだろう。

「わたしは筆と自由を忘れない。ただ、それと同じくらいに、わたしの置かれた立場は、わたしを縛る」

 それらとどう折り合いをつけていけば良いのか、今のわたしにはよく分からなかった。でもそれを分かりやすい不安で覆うのは癪だった。わたしは黒い翼を動かしながら、不安が飛び去るのを待ち続けたけれど、変化がないどころか暗い気持ちばかりがわいてくる。空を駆けて気持ちを紛らわせようかと心に決めかけたとき、遠慮がちにドアをノックする音が聞こえた。和室なのにドアというのも変な造りだなと改めて思いながら、わたしは羽根を収め、薄いシャツだけを身につけて訪問者を迎える。早苗が意趣返しに来たと考え、肌の露出が多い姿で驚かせようとしたのだ。

 ドアを開けると、そこに立っていたのは守矢さんだった。彼女はどこか険しい様子で、顔にはわたしに対する不審をそこはかとなく見せていた。

「一度、部屋を訪ねたらいなくてね。よもや早苗の所かと思ったら、一人でぐっすりと眠っていたからね。厠にでも行っていたのかい?」

 頷きかけ、わたしはすんでのところで言葉を止めた。そこまで確認しているのだから、わたしがどれだけここを空けているのか、把握しているに違いなかった。

「故あって外に」誤魔化しではあるけれど、嘘をついていない分だけましだと考えることにした。「詳しく訊きたいですか?」

「そうだね……いや、わたしとしては浮気でなければ良いんだ」

「結婚したその日に、他の天狗と会いに行くような愚者であると?」

「形骸であるならば増して、そういう相手に機嫌取りは必要だろう。文にそんな甲斐性があるとはとても思えないけど」

 棘のある言い方ではあったけれど、秘密を抱えている分、不利であることは承知していた。ぶちまけて良い類のことではあるけれど、このまま素直に話すのも面白くなかった。

「気を揉ませたのであれば謝罪しますよ」

「謝って欲しい訳じゃないよ。ただ、そうだね……わたしは早苗に、幸せになって欲しいと考えている。それだけなんだ」

 守矢さんは、それをできるのがまるでわたしだけのように考えているようだ。そんな期待を視線に込めて、わたしをじっと見据えている。天魔様のみならず、彼女からも同じことを期待されている。まるで示し合わされているような気がして、わたしは思わず反駁の言葉を口にしていた。

「わたしはね、早苗さんに了解を得ています。この結婚で貴女を幸せにする気はないのだと。神と信仰を求める身ならば、それで良いのではありませんか?」

「早苗は神を求めていない。強い信仰を、大きな何かに求めるほど、早苗は神を感じることができなかった。それが許されなかったんだ。だから、早苗が求めるのは神でなく、己で拠って立つ強さなんだ。それから、もう一つ……」

 言葉にしかけて躊躇ったけれど、彼女が何を伝えたかったは分かっている。早苗の最も抑圧された願いに関するものだろう。それを叶えることが早苗を幸せにするならば、ますます冗談ではなかった。

「心配しなくても、早苗さんには強くなってもらう必要があります。そのために、わたしは惜しみない手助けを与えるでしょう」

「そうして、早苗を危険なことに巻き込むのかい?」

 彼女は隠そうとしていたことを当然のように見なしていた。集会の雰囲気から察することはできるはずだが、おそらくはもっと具体的な危機を推測しているはずだ。だからここでもわたしは包み隠さなかった。

「天狗に関われば、人間は少なからぬ危険を引き受ける必要があります。もちろん、わたしはそれが最小限になるよう努力します」

「それは、上からの命令だから?」

「いいえ、わたしと早苗さんが配偶者同士であるからです」

 これは半ば以上、偽りのないわたしの気持ちである。これで納得してもらえなければ、今のわたしに尽くす言葉はないだろう。どんな罵りも甘んじて受けるしかないと覚悟していた。

 対する守矢さんの反応は最初こそ固かったけれど、徐々に柔らかな笑みや許しへと変じたようだ。すると彼女はその調子で改めてわたしに相対してきた、

「わたしはただ甘え、受けるだけの老人でしかない。そんなわたしにできることは何か、ずっと考えていたんだ。今の文になら、それを話しても良いと思う。聞いてもらえるだろうか?」

 守矢さんはそういって率直に己の考えを語る。それはあまりにも突飛なく、とても実現するような案だとは思えなかった。

「迷惑をかけるつもりはない。紙面で少しばかり宣伝を打ってくれれば良いんだ。後のことはわたしで何とかやってみるから」

「うむむ、分かりました。上手くいけば、学問の加護みたいなものが期待できるかもしれませんし」

「漏矢神にそんな加護があったかしらん」守矢さんはしれっとそんなことを言い、誤魔化すように笑ってみせた。「まあ良いだろう。神の加護なんて、後付けのものがほとんどなんだから」

 祭祀者がそんな適当で良いものかと思ったけれど、守矢さんはまるで気にしていないようだ。混ぜっ返すのも面倒で、わたしは話を先に進めるため、黙って続きを促した。

「すぐでなくても良いんだ。いや、時間が必要だからまたそのときに依頼するよ」

「了解しました。ただし、集まらなくても新聞のせいにしないでくださいよ」

「そこは天狗らしく、任せて下さいとでも言うべきところじゃないか、頼りないねえ」彼女はわたしをからかうように言うと、次に大きな欠伸を浮かべ、涙目をしぱしぱとさせた。「話すことは話したし、夜も遅いのでもう寝るよ。夜分遅くにすまなかったね」

 守矢さんは殊勝に詫びの言葉を残して、部屋を後にする。わたしは脱力感を覚えて布団に倒れ込む。人間の癖にどこか旧い天狗めいたところがあるから、早苗と比べて他人の気がしない。惹かれることはないけれど、天狗受けする女性であるとは思う。

「それにしても突拍子がない。家系なのかなあ」

 その奇抜さや天狗にはない考え方が、やがては妖怪の山を変えていくかもしれない。平和なまま、誰もがもう少しやりたいことをやれるような場所になるかもしれない。その礎になるのならば、この結婚も悪いことではないのかもしれない。しばしの不自由が、やがてより良い自由に繋がるとしたら、わたしは頑張っても良い気がする。

 否、人間にそのような裁量はないはずだ。それでももしかしてと思うのは、彼女の強さと頑固さを間近に見てきたからだろうか。わたしには分からないし、結局のところは無意味だ。

「人間と共に暮らすなんてやはり屈辱的だけど」

 わたしには射命丸文としてできることがある。そのことを自覚し、コントロールできるならば、人間を娶りながら十分に天狗として生きていけるはずだ。

 己の中で結論を下すと、もはや羽根を出しておく必要性を感じなかった。仰向けになり、明日以降のことをしっかりと考えることができた。

「まずは明日の朝、目一杯謝らないといけないわね」

 天狗であることを疑われるくらいの謝罪と誠実をみせなければならないだろうが、もはやそこまでの苦痛はない。わたしにはやるべきことがあるし、早苗の笑顔を思い出すとますます軽くなっていった。

「わたしは早苗さんと仲直りをしてから、配偶者として共に生きていかなければならない」

 わたしはそう呟き、逸る気持ちを押さえながら夜が明けるのを待つ。

 やがて訪れる日の出は、わたしの新しい日々を祝福するはずだから。