第一部 愛に全てを

--Somebody to Love--

 それで? 時によってはだれだって、みんな行ってしまえばいいって願うのさ。時には、わたしだって、きみが行ってしまえばいいって願うだろうよ。わたしが言いたいのはね、たとえわたしがきみに行ってしまえと言っているときでも、きみは行ってしまわなくていい、ということなんだ。

【死者の代弁者/オースン・S・カード】より引用

1 不定な夜、あるいはさよならネバーランド 【前編】

 僕が谷山祐樹と本当の意味で出会ったのは、高校二年の時だった。その頃の僕は、良く言っても生意気な餓鬼で、悪く言えばとんでもない世間知らずの洟垂れ小僧だった。生きることに何の意義も見出せず、学校生活を下らないと断じながら、ドロップアウトする気概もなく、日々往々と過ごしていた。勉学は苦痛でなかったし、身体能力も悪くなかったけれど、抜群というわけでもなく。それゆえ、余計に厭世観が御しがたくなっていたのだと思う。中途半端に何かができるのは時として、何もできないより酷い害悪を生み出すことがある。僕はそういう人種の最たるものの一人だった。とにかく、世の中が退屈で堪らなかったのだ。

 焦燥という負の感情に灼かれながら、その日も僕は、気を紛らわせるために駅前の噴水広場辺りをうろついていた。気晴らしできるだけの素養をもった女性に声をかけるためだ。条件があえば複数で行動することもあったが、僕は基本的に一人で行動することを好んだ。大人数で行動するメリットよりも、デメリットの方が強いと感じていたからだ。基本的に大人数でナンパするメリットは女性の警戒心を解きやすいこと、デメリットは本命の奪い合いが起こり、些か効率的でなくなる点だろう。僕は女性にとっての本命になれるほど、傍目に惹かれる容姿をしているわけでもなく、かといって誰からも敬遠されるほど酷くもなかった。一言で片付けるならば、平々凡々とした顔立ちだった。妥協の産物の最たるであり、どうでも良さそうな女性を宛がわれそうになるのが常だった。僕には、それが我慢できなかった。

 女性の容姿に拘っていたわけではない。妥協させられていると思うのが嫌だった。ナンパなんて軽い手段で女性に接近しているくせにと揶揄されそうだが、僕にだって多少の矜持はあった。それに、男女の問題は下手を打てば一生涯の問題にも結びつく。妥協で今後全てのものをふいにする気などさらさらなかった。僕は僕の選んだ中で最善のものを掴み取りたいと、熱望していた。今考えれば未熟な愛情表現の形態であったが、なかなかに真剣な問題だった。

 あと一つ、気軽な女性を求める強い理由があった。得てして女の方が、男性より話上手なのだ。勿論、年頃の男だから異性への肉体的興味がなかったわけではない。しかし、僕にとっては退屈を埋める一手段に過ぎなかった。セックスで退屈が埋められれば存分に励んだし、話だけ弾んで手を握ることすらしないこともあった。得てして、付き合いが長く親密になるのは後者だった。そういう女性の数人とは、当時も友人として随分馬鹿騒ぎした記憶がある。ときには県有数の進学校に通う学生らしからぬことをした。でも僕にとって、女性が恋人である必要はなく、友人関係でも十分上手くやっていけた。男女に友情などないと恋愛至上主義者らは主張するが、それは全くの過ちだ。キスやセックスをしたところで、男女は恋愛関係になど発展しない。その先に進むには恋愛感情と異なる、ある種の透徹とした意志が必要となる。そこを誤解しているから、大抵のカップルは本能の分しか恋がもたないのだ。全く、無様な限りである。

 そんな心情を課していたから、12月23日の夜、仏頂面をして隣町にある女子高の制服を身に纏い、噴水に腰掛けている少女に声をかけた時も、友人としての関係を築けるに足るか計る以外の何も意図していなかった。敢えて特別な理由をつけるならば、補導される可能性が高いことを承知で進学校の制服を着て、男が引っかかるのを待つ少女の威風堂々とした仕草に心を惹かれたのだ。ねえ、と僕は声をかけた。そんな格好をして、警察や教師の目が気にならない? 彼女の顔を見て、僕は驚いた。髪型は多少変えてあるし、ノンフレイムのいかした眼鏡をかけていたから一瞬気付かなかったけど、瞬きしてもう一度見やると、彼女が同じクラスの谷山裕樹であることが分かった。谷山? と素っ頓狂な声を出すと、彼女はちょっとした悪戯がばれた子供が見せる気まずそうな表情を浮かべたが、しかし直ぐに消えた。次に彼女の表情を彩ったのは、いつも教室で見せるクールで無愛想な仮面だった。僕は未だ、ショックから立ち直れないでいた。

 谷山は、僕と同じごく普通の進学校に通う平凡な生徒だ。鼈甲の厚縁瓶底眼鏡をかけ、黙々と授業をこなす機械のような女性だった。学業成績ではトップを独走し、どんな運動もそつなく上手にこなした。僅かな羨望と多量のやっかみから、彼女につけられた渾名は『出来過くん』だった。命名したのは同じクラスの、名前を覚える価値もないほど見下げ果てた男子生徒だ。救われないことに、彼はこの冗句を最上のものだと思い、僕以外の全ての男子が同調した。僕が、話し相手を気軽な女性に求めるのも無理はないことだと思う。一点の差に剥き出しの優越感を滲ませ、一位の差で媚びへつらい、劣等めいた嫉妬を隠そうとしない。どうして僕が、そんな奴と仲良くしなければならない? 理由なんてどこにもなかった。それでも、露骨な排斥を受けない分だけ男はましだった。女子は突出した才能、陰に表現するならば目立った杭を容赦なく叩いた。谷山は既に散々叩き伏せられ、土の中に埋まってしまった無害な秀才に追いやられていた。少なくとも、僕はそう思っていた。たった今、この場にいる谷山を見るまで。

「何やってるんだ?」僕は咄嗟に切り出した。「どんな憂さ晴らしか知らないけど、女子高の制服なんか着てたら誰よりも早く補導されるぞ」

 最初、僕はこれが谷山独特のストレス発散法だと思った。いつもと違う自分を演じることで、活力を得る。昨今のコスプレブーム加熱は、僕も知っていた。実際、友人に連れられて行ったことがある。昔懐かしのアニメキャラに扮した四十過ぎの親父や、流行のどぎつい露出度をしたアニメコスチュームを着た十代の少女、彼女たちを追いかける二十代、三十代の素人カメラマンたちで、中はむせ返るほどの熱気に溢れていた。そこではオタク文化爛熟の一過程が、生々しく表現されていた。アニメオタクの友人はご満悦の様子だったけど、僕は次回の訪問を促されたら、遠慮しようと心に決めていた。差別というわけではない、他の何かを演じるという心情を、僕が理解できなかっただけのこと。他の何かを演じるという文化は日本に根付いて何ら害のないものであるし、妄想が正の方向に発散されるなら健全ですらある。僕は会場の外に出て溜息を吐きながら、そんなことを考えていた。

 谷山がコスプレを嗜んでいるのならば、僕としてはこれ以上の言葉をかけず立ち去るつもりでいた。過ぎた冗句を披露すると些か痛い目に遭う、ということをこの才女も学んでおけば良いのだ。しかし、谷山は気だるそうに首を振った。冗談ではないと言わんばかりに。僕は少しむっとして、じゃあ何をやっているのかと訊ねた。彼女の答えは二文字の、極めて明瞭な、しかし衝撃的な単語だった。「売春」

 何かの冗談かと思ったが、谷山は平然として、駅前通りを過ぎる早帰りの会社員を目で追っている。まるで商売相手を見定めるかのように。僕は些かの焦りを込めて、本当か? と声をかけた。谷山の瞳が、簡単な道理さえ理解しない愚者を嘲る、冷たくも鋭いものに変わっていく。言葉よりも雄弁に、彼女は語っていた。二度も同じことを訊くな。僕は一瞬だけ空を仰ぎ、それから辺りを見回す。視界の隅に直進してくる警察の姿が見えた、案の定だ。谷山の着ている制服はここらで見かけない、しかしなかなかに有名な代物だった。彼女はそれを理解していないのだろうか。成程、ありそうなことだった。頭の良さが勉学にだけ発揮され、その他の日常に向けられない。秀才と呼ばれる人間にありがちな行動だ。

 とうとう警官が目の前まで来た。おい、と厳つそうに声をかける。僕は咄嗟に助け舟を出した。谷山の腕を掴んで立ち上がらせ、そのまま僕の腰に絡ませる。それから谷山の腰に、腕をまわした。思ったよりも、細い腰だった。まるで疚しいことなど何もしていない風に歩き出すと、警官は背後から高圧的な空気を擦り付けてくる。後生だから上手く騙されてくれよと願いながら谷山の様子を伺うと、まるで本当の恋人のような仕草や距離を自然と演じている。これなら大丈夫だ。共なる思考で、彼女が売春してるのはどうやら本当らしいなと、今更ながらに理解した。谷山は危機に慣れきっている。犯罪に無関係な生き方をしている人間は、警官に目をつけられると普通は怯えるものだ。彼女は鉄の女さながらに、振舞って見せた。並の秀才や品行方正な人間にできるものではない。

 谷山は、警官がいなくなっても歩みを止めなかった。駅前のスクランブル交差点を超え、全国チェーンを展開していることで有名な丼屋に入店してカウンタに腰掛ける。僕が隣に座るやいなや、牛丼の大盛りを二杯注文した。食いながら話すという無言の意思表示だろうか。一分も経たずしてやって来た丼の片方を引き寄せようとすると、手に鋭い痛みが走る。何事かと思い振り返ると、彼女が甲の部分を割り箸で鞭打っていた。食べるな、ということらしい。僕は食欲をそそる丼を諦めて、谷山を眺めることに決めた。彼女は女性らしい慎ましやかさなど微塵も見せず、食物を機械的に胃へと運んでいく。ものの五分もしない内に、器は二つとも空になった。なんと健啖なことだろうか。僕は満足そうに腹を擦る谷山と、昼休憩の気だるげな光景を重ね合わせる。彼女は本当に食欲旺盛だったろうか。記憶は直ぐに、鉄面皮な秀才の小食な食事風景を再生する。彼女の昼食はいつも購買のカレーパンかクリームパン、あとはパックの牛乳だけだった。これで足りるのかと訝しむほど、殆ど何も口にしない人間だった。事実、谷山はクラスの女性の中で圧倒的に背が低い。140にギリギリ届くか届かないかの身長で、しかし機敏として堂に言っている。実を言うと僕は、谷山のことをよく見ていた。退屈な紳士淑女どもに満ちた教室の中で、彼女の絶対孤独な高潔さにどこかで憧れていたのかもしれない。或いは退屈凌ぎの一環に過ぎなかったのかもしれない。どちらにしても、僕が見ている限りにおいて、谷山が大食だったことは一度もない。

 つまりは、学生生活における羊の皮被りだったのだろうか。それとも、彼女一流の冗句? どちらにしても、余り面白くなかった。友人でもいれば明日の話の種になるかもしれないが、さもありなん。僕は諦めて牛丼二つ分の代金を取り出した。谷山が餌を強請る猫のような表情を向けてきたからだ。ここで僕が金を払わなくても、彼女は金を払わないだろう。店を出ても、谷山に遠慮ぶる態度はみられなかった。じゃ、と言って立ち去ろうとする彼女の腕を掴むことができたのは、ひとえに奇矯な人間の取り扱いを心得ていたからに過ぎない。できれば放って置きたいのだが、クラスメイトが翌日に逮捕されていたのでは洒落にならない。僕は僕ができる限りの忠告をした。

「ま、個人の事情に深く立ち入ったりしないけど」同情していないことを示すため、少しばかり突き放した口調で谷山に告げる。「今日はやけに警官がうろうろしているから、その格好じゃ絶対に成功しない」

「そうみたいだね」機械的な口調だった彼女に、抑揚の光が燈る。「歳末になると、度胸のない餓鬼まで犯罪したり家出したりするからたまったもんじゃないね。警官は得点稼ぐためか妙に張り切ってるし、苛立ってる。この格好なら頭の弱い親父が電撃的に拾ってくれるかと思ったけど、甘かったみたい」

 谷山の口調から反省の気持ちは毛の一筋ほども感じられない。常習的犯罪者の開き直った姿勢は殆ど傲岸不遜で、僕は呆気に取られていた。すると彼女は、素早く体を近づけてきた。

「こうなったら橘、君で良いや」僕の苗字を呼び捨ての上、谷山は僕の手を握り締めてくる。「買わない?」

 その意味するところは、火を見るより明らかだった。色々やらせてやるから金払えと、交渉を持ちかけているのだ。

「金で買うほど、女には飢えてない」

 淡々と事実だけ述べたつもりだったが、少しばかりの優越感が混じっていたことは否定しない。谷山の態度が意地悪く、距離を感じさせるものになったことが、何よりも僕の愚かさを示していた。

「じゃあ、これでお別れだね」谷山は躊躇なく背を向けると、足早に歓楽街の方向へと進んでいく。何か、致命的な失敗を犯した気がして仕方なかったが、どう対応したら良いのかが分からない。谷山は、ぼんやりと見つめる僕の方に一度だけ振り返ると、一瞬だけ弱々しげな笑みを浮かべ、それから表情を殺して言った。「君は、他の奴らと比べたら少しはましだと思ってたよ」

 他の奴らと谷山が言うのは、クラスメイト一同だろう。このとき、僕の心は湯沸かし器のように熱され、思うところを失っていた。十派一絡げの連中と同質だと断定されるのは、我慢ならなかったのだ。僕は走り、谷山の足を留める。荒々しく肩を掴み、無意識の口上を打ってやった。

「いくらなんだ?」

 周りの人間が一斉に振り向く。かまやしなかった。僕が何もできない輩と思わせたまま、谷山を立ち去らせたくなかった。半ば意地のような力の場が、再び僕と彼女を結びつける。その仕草と表情に、僕は迂闊と胸を打たれた。申し分のない微笑が浮かんでいて、癪なほど可愛らしかったからだ。

「いらない」取引を持ちかけておきながら、彼女はきっぱりと看板を引っ込める。「私は橘のことが好きだから」

 余りにも唐突な告白で、僕は石膏のように固まってしまった。情けないことだが、僕はこのとき至って普通の人間であることを、谷山の前で堂々と曝け出してしまった。でも、仕方ないだろう? 谷山が、あの谷山裕樹が僕のことを好きだって言ったのだから。例え彼女にどんな裏があろうと、うろたえるしかない。近寄りがたいと敬遠しているクラスの男子だって、共時性が醸し出す彼女の美貌を認めないものはいなかった。僕にしても彫像を愛でるように谷山へと視線を寄せ、退屈な授業の暇潰しをしたことがある。それくらい、谷山は可愛かった。威圧的な切れ長の睫毛に彩られた目に、痩せ気味な顔のラインは彼女を妙に大人めいて見せる。控えめで形の良い唇から「好き」と言葉がもれれば、背筋が震えるのも当たり前というものだ。そして、一度意識してしまうと収まらないのが人の性であり、僕の心は表情や挙動を通して、谷山に丸分かりだったはずだ。今度こそ徹底的に幻滅させたに違いない、苦々しい思いの去来する中、彼女は平然として掌を裏返した。

「なんてね」

 その一言で全てを有耶無耶にし、谷山は手を握ってきた。掌の微かな部分を伝わり、芳香が鼻をくすぐるような錯覚を受ける。実際に臭うのは吐瀉物みたいな酸性の淀んだ空気だったが、僕の嗅覚に情報は伝達されなくなっていた。

「橘、駅の構内入場券を二人分買う金銭の余裕はある?」何だか分からないけど、僕は肯いた。「買って」

 人の波に逆らいながら交差点を引き返し、駅の中に入る。自動券売機で入場券を二枚購入すると、一枚を谷山に手渡した。彼女は旅行風の家族に続いて、駅員に切符を見せる。さも見送り客であるように。意図するところが分かったので、僕も彼女に倣って改札を通り抜けた。電車が来るまで一分ほどあったので、一番無難な微糖の缶コーヒーを二つ買い、これも一つを手渡す。彼女は目を瞬かせたのち、コーヒーを受け取った。谷山も予想できないことには驚くらしい。そのことが分かって、何となく嬉しい気分になった。理由は分からないけれど。

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