3 精神の頂、あるいは愛に全てを【前編】

 目を開く。そこにはいつも通りの光景があって、僕を和ませてくれる。隣に眠る谷山をそっと起こし、それから朝食の準備を始める。家事は代わる代わる行うのが、きちんと定められた規則だった。エプロンを着けて甲斐甲斐しく動いていると、彼女の視線を感じて少しばかり気恥ずかしい。昨日の夜に作り置きしておいたパンケーキの生地を、温まったフライパンに流し込む。ぷつぷつと穴が空くのを横目で見ながら、ベーコンエッグとじゃがいもの付け合わせを仕上げていく。もう、慣れたものだ。興味深そうに近づいてきた谷山の頬をそっと撫でながら、もう直ぐできるからと言って少しだけ微笑む。眠たげな顔を笑顔に形作っている様子を見ると、僕はとても幸せになれる。そうして、用意できた朝食を平らげて、出かける前に挨拶するようなキスをして、僕たちはそれぞれに出かけていくのだ。そんな、日常になった朝の光景の余韻を楽しみながら、僕は会社に向かう。でも、それがどこにあるか思い出せない。それどころか、景色が混濁していく。混乱が極まったと同時に、僕は本当の目覚めを迎える。そこは温かいベッドの中で、母が冷たい視線を投げかけていた。

「ん、えと……今日から冬休みじゃなかったっけ」そもそも、母はまだ睡眠から目覚めていないはずなのだ。その間に、僕は谷山を……。隣を見ると、夢の繰り返しのようにして谷山が隣で幸せそうに眠っている。僕は立場の悪さを悟った。「その、これには大きな理由があるんですけど、聞いてくれますでしょうか?」

 母は気だるそうに手を振る。やはりまだ眠いらしくて、大きな物事を消化する気力がないらしい。

「良いよ、それが合意の上でなら。無理矢理だったら、警察に通報するけど」実の息子でも、母は容赦しないらしい。「見たところ本番には及んでないみたいだし、だから許すことにする」

 どういう基準を僕に化しているのか、いまいち分からないけど、最低限の信頼はしてくれているらしい。谷山の眠りを確かめると、僕は母に訊ねた。

「氷を使う予定はない? なかったら、全部使うけど」

「ないけど」素っ気無く答えてから、真剣な表情で谷山を覗き込む母。「もしかして彼女、風邪引いてるの?」

「うん。だから数日、うちに泊めるかもしれないけど、良い?」

「どうかな。親に電話して、迎えに来て貰うのが一番良いような気がするけど」

 それもそうだ。僕は昨日と同じ番号を慎重にダイアルしたけど、依然として親は出なかった。

「留守みたい」余り期待はしていなかったけど。「理由は分からないけど」

「なら、良いかな。じゃあ、もう少し眠るから。世話は、連れて来た雪がきちんと取ること。但し、手に負えないくらい酷くなったら直ぐわたしに連絡すること、良いね。何もかも、勝手に独りで解決しようとしたらいけないよ」

 ぶっきらぼうなのか優しいのか分からない母の言葉を、僕は素直に受け止めて肯く。彼女は満悦そうに手を振ると、再び寝床に還っていく。夕刻くらいには、正式に谷山と面通しできるだろう。僕は氷枕の中身を入れ替えて、冷却ジェルシートを新しいものと替えた。

 そして、改めて谷山を観察する。昨日より熱は下がったようだけど、依然として苦しそうだ。好きな人が痛々しげなのに何も出来ないというのは、思ったよりじりじりとするのだと、今更ながらに気付く。でも、知ったところで何ができるだろう。僕はこうして、黙って見ていることしかできない。僕は、今もこうして無力なのだ。

 谷山裕樹。一昨日の夜まで、少しばかり変なクラスメイトとしてしか意識していなかった女性が、ここにいて僕の心を掻き乱している。その事実は、心というものの良い加減さを僕に示しているようだった。そして柄にもないことだけど、その良い加減さ故に人間は人間なんじゃないかと、思ってしまうわけだ。誰かに夢中になれる、僕にとってそれは魅力となり始めていた。谷山のことを好きでいられる僕は、そうでなかった時よりも活動的で思いやりのある人間になっているような気がする。不思議だった。誰かを好きになることで、人というのは優しくなれるものらしい。

 それが正しいかは分からないけど、僕にはそう接するより他の方法がない。僕はそそくさと着替えを済まし、それから谷山に着せるもののないことに気付いた。替えのパジャマは母のものを調達すれば事足りるとしても、他人の下着を使うことには抵抗を示すだろう。そんなことを考えていると、母がよれよれになったデパートの包みを持って戻ってきた。

「困ってると思ったから。これ、替えの下着とパジャマね」何と用意の良い人だ、と思いながら、僕は感謝の気持ちでそれを受け取る。「あと、洗濯機の使い方は分かってると信じてるから。んじゃ、お休み」

 気の利いた台詞だけ残して去っていく母は、ゲームのお助けキャラも務まるのではないだろうか。そんな馬鹿馬鹿しいことを考えながら、袋の中身を改めよう、としてやめた。こういうのは、着る人間が最初に確認するのがマナーというものだろう。僕は机に一式を置くと、彼女の目覚めを待つ。この様子だとまだ一時間ほど眠りそうだけど、谷山の顔は見ていても全然飽きない。そういや、動機は違うけど昔もこうして彼女を眺めていたことを思い出す。懸想しているに限らず、彼女を見ていることは楽しい。そして今は、少しだけ気安く手が届く。

 そんなことを考えたり、朝食の準備をしたりして一時間ほどが過ぎた頃、谷山はそっと目を覚ました。何かを探しているようで、それがぎこちなかったから、僕にはすぐ眼鏡を探しているのだなと思い、それを手渡そうとした。でも、彼女はそれを受け取ろうとしない。彼女は少し怒った様子で、僕は慌てて少しだけ身を寄せる。すると、僕の頬を強く引っ張って、それからくすくすと笑う。呆然とする僕から眼鏡を奪い、彼女は明瞭な言葉を口にした。「おはよう」

 頬を擦りながらおはようを返し、それから着替えを手渡す。「使う?」彼女は布団から出ると、包みを受け取り、予告もなく着替えだした。僕は慌てて後ろを向き、衣擦れの音にいちいち緊張しながら、谷山の着替えを背後で感じていた。

「見てても良いのに」普通、逆のことを言うだろうと叫び返す気力もなく、僕は黙っている。「そのために、私はわざわざ目の前で着替えてるんだよ」

 冗談か本気なのか分からない谷山の言葉。多分本気なんだろうけど、万が一冗談で彼女に嫌な気分をさせたらまずいから、僕は振り返らない。すると突然、背後から抱きすくめられる。新品のさらさらしたシャツ越しに伝わる、彼女の拙いけど女性を感じさせる柔らかさ。やばい、と思う。こういう状況には慣れてない。彼女の、細い四肢のくっきりと見える魅力的な姿を垣間見るのに、僕はただ後ろを振り向くだけで良いのだ。

「今、私がこうしていて」背後から、谷山の声が聞こえる。「多分、振り向いてくれないと思った。でも、現実にそうだと分かるのは、少しだけ哀しい気がする」

 それから素早く身を離し、再び布と肌の擦れる音が静寂の部屋を満たす。「良いよ」と声がしたので振り向くと、パジャマの裾が長くて持て余している谷山の姿があって、僕の目は釘付けになる。

「んー、橘の嗜好はいまいち分からないな。もしかして、袖がだぶだぶのシャツを着てる女の子にそそられるの?」

「いや、そういうわけじゃなくて」滑稽な仕草が面白かったのだが、それを言うと怒られそうなので、僕は即興の嘘を吐いた。「女の子のパジャマ姿を見るのは、初めてだったから、少し緊張しただけ」

「成程、納得した」谷山は詰まらなさそうに言うと、布団に潜っていく。「少しお腹が空いたから、何か軽いものを貰って良いかな、あと飲み物も」

「どんなものが良い? もしかしたらリクエストに添えるかもしれないから、一応」

「じゃあ、食パンとりんご」

 幸いどちらも在庫があるので、僕はすぐに用意することができた。消化に悪いといけないので、バターは本当に薄く塗って、林檎は八等分しておく。兎にできるほど包丁は上手くないし、第一病人には嫌味だろう。それなりの出来栄えを確認してから部屋に持って行くと、谷山はは開口一番、割ととんでもないことを言った。「食べさせて」

 確かに病人なんだから身体はだるいかもしれないが、そんな照れ臭いことはしたくない。でも、谷山は悪びれる様子もなくあっさりと言葉にして出す。

「こういうの、ドラマなんかだとありがちだよね」最近のドラマは、そんな場面を流したりしないだろう。漫画やアニメだと時々あるけど、そういうのを見て喜ぶ人って余りいない。そのくすぐったさが好きだって言う奴もいるけど。「それにね、確かめてみたいと思うんだ。好きな人に何か食べさせて貰うと、どんな感じなのかなって」

 好きな人、というのは僕のことなのだろう。何度言われても実感がわかない台詞だけに、何度言われても同じように心を動かされてしまう。僕には、彼女に好かれているという確信が抱けてないのだ。そしてそれ以上に、好きであるのかという自信がない。心を惹かれているのは確かなんだけど、どうしてなのか分からない。突然で、本当に突然過ぎたから、彼女にもっと入り込んで良いのか、決められないんだ。それなのに、谷山は僕の中に平気で入ってきて、かき乱してくる。

「駄目かな。橘ってこういうの、面倒くさいって思うほう?」彼女は探るような瞳を、僕に当ててくる。「べたべたしたり、簡単に好きって言っちゃったり、迫ったりすること、嫌?」

 僕は首を振る。そうじゃない、谷山にそうされるのは嬉しいし、どきどきする。

「じゃあ、私のことをそんなに好きじゃなかったりする?」

「違う」それこそ的外れで、僕は急いで否定する。そして他に言うことが思いつかず、僕は本音を口にしてしまう。「好きだけど、こんなに突然なの初めてだから」

 すると、谷山はにっこり笑う。「だったら、何の問題もないよ。お互い好き合ってるんだし、そうなるのに時間なんて関係ないと思う。実際、私だってどうして橘のことを好きになったかって説明しろって言われたら、とても難しいよ。でも、気付いたらそうなってた。それが感情というものだったら、仕方ないよ」

 彼女はとても簡単に言うけど、僕には割り切れない。感情だからしょうがないって、それはそう思えるほどに頭が良いから言えるのだと思う。仕方ないって。それで恋って、して良いものなのだろうか。僕には分からない。本当、分からないことだらけだ。谷山は僕より沢山のことを瞬時に理解できて、進めるのかもしれない。

「そんな、自分だけ分かってる顔してる、みたいな顔をしないで」そんなに不審そうな目つきをしていたのだろうか、谷山が諌めるように言葉を紡ぐ。「私にだって、この気持ちはよく分からないよ。誰かをね、本気で好きになりたいと思ったのは初めて。だから、私は直裁的な行動を取るの。胸が高鳴るような言葉を口にしたり、肌に触れたり、キスしたりして、どれだけ君のことを想えるのかを実験してる。あ、実験って言ってもそれは実際を兼ねていて、他の誰かで実践しようなんて気持ちはないよ。私は橘のことをどれだけ想えるか、を知りたいんだ」

 注意深く想いを口にして、谷山はにっこりと笑う。

「私は、こういうやり方しかできないのかもしれないね。誰かを測ったり、試したり、それできちんとした反応を得られたら嬉しいと思うんだ。でも、そうしたいと感じるのは相手が私をどう思っているのか分からないからで、どう思われているかを知りたいからなんだ。きっと、性分なんだと思う。何でも測って物事を推し進めて、それで冷たい人間だって見られる。良くないとは、思うんだけどね」

 僕は、これまで以上に心を開いて話す谷山の言葉に、黙って耳を傾ける。

「それは、心がないってことじゃなくて、心がこもっていないというわけじゃない。ただ、理が克ちすぎてしまうみたい。忌々しいんだけどね、そういう自分が。嫌いなんだよ、こういう自分が」

 そして、僕の持っていた器から林檎を一切れ食べる。

「橘は私のこと、頭が良いって羨ましそうに言うよね」僕は正直にうん、と肯く。谷山は少し寂しそうな表情をする。「でも、私がそれを良いと思えたことは一度もない。今もそうだよ、君のことを疑わせて怯えさせて、踏み込むことを躊躇させてる。こんなんだったら、頭の良さなんていらない。馬鹿で良い、君の思い通りに動くような頭の悪い女で良いから、それでも君に好いて貰える方が余程、嬉しいって思えるよ。他者と異なる性格をしているって、いけないこと? それは私のことを見るのに、それほど邪魔なものなの? だったら」

 そうして、彼女は片手を伸ばす。

「私は、愛されにくいということかな、愛されないということなのかな?」

 谷山の切実な表情が、僕を射抜く。こういう時の彼女はとても壊れやすそうに見えて、目を離せず、心を離せない。これほど、一人の女性に対して弱いなと感じたことなんて、今まで一度もなかった。

「そんなことない。僕はね、谷山のことをとても魅力的に思ってる。愛されにくいなんてことない、僕は君のことをとても愛らしいって思える」小悪魔のような仕草、最初は戸惑ったけど、今はどんなに僕を戸惑わせても良いって思える。それくらいに、君を思っているから。「ただ単に、僕が意気地なしなだけ」

 でも、それじゃいけない。僕の臆病さは、谷山を怯えさせてしまう。大切に扱うことは大事だけど、それは何もしないということと同義じゃない。少なくとも、谷山にとってはそうなんだ。僕は林檎を一切れ掴み、彼女の口に運ぶ。

「そっと、よく噛んで食べて」

 しゃりと欠片を含み、彼女はそれを糧にしていく。その仕草、芳ばしさは僕をやけに緊張させる。そう言えば、林檎を食べさせるのは性行為のメタファだって聞いたことがある。それを思い出して、緊張しているのかも。勿論、風邪を引いた彼女に何かをするわけはないのだけど。それからパンを半分、林檎を一切れ残して全部平らげた谷山に、僕は顔を近づける。シート越しに、額をくっつけて、それから不意打ち気味にキスをする。彼女は呆として、それから少し驚いて、僕を単純に恋するような顔で見上げた。

「今、どきどきした、凄く」谷山は口元を、恥ずかしげに押さえている。「怖いくらい。不意打ちにキスされるだけで、私はこんなに弱くなってしまう。じゃあ、これ以上進んだらどうなるのかな?」

 不意に何かされることの弱さに見惚れながら、僕はもう一度キスしたい衝動を抑えて言葉を出すことを優先させる。

「私、橘と肌を重ねてみたいと思ってる」そっと、過激なことを口にする谷山に、僕は背筋を伸ばす。「切実に、心から。貴方の全てを感じたい。それで、私の心がどこまで貴方によって変えられていくんだろうね。それは定量的に収まるのかな、それとも計算できないくらいに壊れてしまうのかな。とても、興味深いと思わない?」

 とても彼女らしい言い方に、僕は苦笑してしまう。

「ねえ、今からしてみる?」谷山はそんなことにも気付かず、或いは気付かない振りをして、僕にそっと身を寄せてくる。「私、体調そんなに悪くないし、汗をかいたら熱が下がるかもしれない」

 流石にそういう嘘臭い療法を試そうとするほど、節操ない性格ではない。僕は谷山を静かに寝かせて、それから彼女を静かにさせるため、耳元に欲望を囁く。

「じゃあ、風邪が治ったら、してみる?」精一杯の照れ隠しに、僕はそれが当然のような感じで言ってみる。「谷山の想いが熱に浮かされた一過性の欲望でなければ、だけど」

「熱がなかったら、私はもっと積極的だよ」

 そう言って、谷山がくすくすと笑う。僕もつられて笑う。そうして林檎の味がするキスをもう一度してから、僕はパジャマに着替えて彼女に抱きしめられるために、ベッドに入る。彼女の醸し出す空気、言葉、その全てが心地良くて堪らない。今この瞬間、彼女に騙されていても、僕は微笑んでありがとうと言って、キスできるような気さえする。

「ありがとう」彼女の声が聞こえる。そして、強く抱きしめる確かな感触が、僕を満たしていく。「橘が私にくれたものは、私をとても幸せにしてくれる」

 それが、何だか別れの挨拶みたいで、僕は抗うように言葉を繋ぐ。

「僕で良ければ、谷山の幸せに思えることを、できたら良いなって思う」

 そうしたら、谷山は迷いなく僕に言った。

「うん、ずっと私を幸せにしてね」

 まるで、プロポーズの言葉のようなくすぐったさも、僕は自然と受け入れられた。「僕の出来る限り」と答えてから、僕は谷山の頭を撫でる。

「君を、幸せにしてみたい」

 本当に、本気で思う。

 僕は、谷山に幸せであって欲しい。

 そのために、僕にできることがあれば。

 僕のできる精一杯をやろうと思う。

 今、そう決めた。

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