4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【7】

 ただ平和であるだけの日々は、いつだって長く続かない。生きていくならば、より危険な場所に出て行くことは避けられないし、またそうしなければ生きていけない。冬休みという、健やかな日々は既に過去の彼方、一週間の幻想は三学期という厳粛な区分に追いやられようとしていた。気だるく目覚めた朝、カーテンからもれる光は白々しいほどに眩く、世が明るさに満ちていると錯覚しそうになってしまう。僕は首を振り、隣に眠る谷山の頬にそっと手をやる。正月の一件以来、谷山は僕の部屋に勝手に入り込んだり、ベッドに潜り込んだりして、女王振りを如何にも発揮していた。いや、女王然とした態度ではあったけど、根元の部分では僕の感じた寂しさに対する精一杯の思いやりがこもっていたのだと思う。

 彼女を起こさぬようにして、洗濯仕立ての冬服に身を包み、その窮屈さに肩を上げたり下げたりして軽く調整する。正当で面白みのない進学校らしく、遊びは一切含まれていない。上着は模範的なブレザーで、ボタンは真鍮製の校章入り。男女で身体機能上の差に考慮した部位が僅かにあるものの、基本デザインは同じで、女子が男子の制服を着ても殆ど違和感はない。その逆も然りで、制服を泥水で汚したある男子生徒が姉の着古しで登校したところ、見事にばれなかったという逸話もある。本当かどうかは分からないけど、彼の汚したのがズボンであったならば、猥褻関係の罪で補導されていたことは間違いない。男子の下はズボンで、女子の下はスカートであるからだ。

 谷山の制服はどうなっているのだろう、ちゃんと持ってきたのだろうか? 抜かりはないのだろうけど、余りにも平和そうに眠るものだから、つい心配してしまう。

 平和を思えば、今日から学校に通う危うさもまた、同時に考えてしまう。僕はこの家の外にいるであろう、谷山の敵を警戒し、いざという時には対決しなければならない。正直言って、完全な覚悟が己に醸成されているとは思えなかった。敵を叩き潰す覚悟なんて、特に。もしかしたら、谷山の盾になる勇気さえ振り絞れないかもしれない。僕は両頬をぴしゃりと叩く。目の前で大事な人の運命が潰えていく、そんな場面を目前で見るようなことがあってはいけない。

 谷山の寝顔をこれでもかというほどに灼きつけ、覚悟を少しだけ上乗せする。唇を頬に添え、そっと口元に持っていく。顔の表層の反応より目覚めていると確信し、優しくキスをする。彼女は目を開き、肩に両手を回して来るけど、その仕草にはもう慣れていたので、揺らぐこともない。強引にベッドから引きずり出してから、なおもしがみついて来る彼女をしっかりと受け止める。気だるい体温と心地良い感触を胸に包みながら、僅かに乱れた髪の毛をそっと撫でる。余りに制服を強く掴むものだから、皺にならないかと心配だったが、背後に心配を向ける僕を見て、谷山は神経質そうに眉を潜めた。そんな下らないこと思わないでと言わんばかりの視線が心を煽り、もっと強く抱きしめ合う。

「今日から学校が始まるから」谷山が、耳元でそっと囁く。「だから、それに負けないくらいの暖かさが欲しいんだ」

「でも、今までだって普通に通ってたような気がするけど」

「それは、あそこの冷たさに慣れきっていたからだよ。私も学校やクラスメイトの反応と同じくらい、冷たくて素っ気無く、温もりのいらない人間だったから。でも、今は違う」続きを求める僕の唇に、彼女は焦らすようなキスをする。舌が僕の上唇をなぞり、それから奥に押し入ってきた。躊躇わずに戸を開き、奥まで求めたいという欲望を存分に満たし合う。言葉を忘れかけてきた頃合いを見計らって、名残惜しげに唇と舌を離してから、小さな声で付け加える。「ここの暖かさを知ってしまったから、君の温もりを知ってしまったから。もう冷たいままの自分じゃいられない、冷たいだけの場所に耐えられる人間じゃなくなってしまったんだ。橘、私はね、弱くなった。ほんの少しだけ、弱くなったんだよ」

 微かに揺れる瞳の奥を、僕は真っ直ぐに覗き込む。そこには、不純の欠片さえも見出せぬ色が煌いていた。裏切りなど微塵も疑ってないが故に、その時が来たら絶対に仕損じることはないであろう、ある種の狂気とも思える愛情の視線だ。僕は不意の衝動に駆られ、谷山の頭を胸に導く。限りある命の音を聞かせながら、僕はそっと囁き返す。

「僕が谷山を裏切った時には、ここを最も痛く苦しむ方法で刺し貫いて、お願いだから」

 不意を突かれたのか、戸惑いのための震えを隠すことなく顕し、谷山は固まる。僅かな停止期間を置いてから、彼女は制服の第二ボタンに口付けし、嬉々として声を弾ませた。

「勿論、そうするだろうね」命の迸りを求めるようにして、谷山は胸に耳を当てる。「絶対に、仕損じることはないよ。私は頭が良いし、執念深い。何より、君のことが好きだから。分かってるよね?」

 分かっていると思いたいけれど。僕は本当に困るくらい、彼女のことしか考えられないし、実をいうと全然怖くないのだ。僕を殺すと言う時の谷山は、とても魅力的な声と雰囲気で迫ってくるから。ただ、彼女がより愛しくなるだけで、手にかかる力が増すだけなのだ。

 お互いに温もりを補給し終えると、谷山はそっと離れてから不恰好な袖を僕に突き出した。

「じゃあ、そういうことで」彼女は平然と、とんでもないことを要求する。「着替えさせて」

 そこまで我侭だと、流石の僕だって額を指で弾く。

「それくらい、自分でやってくれないと困る」

 厳つい顔して注意すると、谷山は別段拗ねることなく部屋を出て行った。どうやら着替えは母の部屋にあるらしい。十分後、谷山はブレザーにスカートといういでたちで僕の前に現れる。鼈甲眼鏡こそかけていないが、それ以外は気だるげな表情で隅の席に縮こまり、退屈そうに時を過ごす彼女と同じだった。少なくとも表面上に変化はなく、少なからぬ不安を覚えた。谷山は僕の心配を払うように、情熱的な抱擁を寄せてくる。制服同士で抱き合うというのはどこかくすぐったくて、照れ臭い感じがしたけど、直ぐ気にならなくなった。その代わりに、僕が気を寄せているのは谷山の未だ衰えぬ微かな震えだった。

「やっぱり、少しだけ怖いな」

 谷山はやはり怖がっているようで。僕は安心して欲しいがために、当然でありながら言葉にするのを憚るべき励ましの言葉をかける。

「そう? 僕はずっと同じクラスだから大丈夫だと思うけど」

「そっか、そうだね」今までそんな事実などなかったかのように、谷山は僕の言葉を噛み砕いてから、背をきつく抱きしめてくる。「怖かったら、いつだって橘を抱きしめれば良いんだ、うん」

 やっぱり。そう言うと思ったから、学校でも近くにいる存在だということをひけらかしたくなかったのだ。しかしこうなれば一環の終わりに近い。できることと言えば、今から散々冷やかされることに対する心構えを築き上げていくことだけで。それは僕にとって、絶望的難事業だった。

「えっと、その……頼むから、授業中に行動に移さないように」

 取り合えず予防線は張っておいたけど、谷山は微妙な微笑みを崩さず曖昧に肯くだけだった。それでも彼女はいつだって温もりを目指して僕の背に手を回すだろう。そして、僕はどうしても拒めなくて、彼女が抱きしめるままに任せる。色々な意味で、溜息が出そうだった。

 少しすると、廊下の方から母の威勢良い声が聞こえてくる。朝食の準備ができたらしい。僕たちは頷きあった後、ダイニングに向かう。芳ばしいパンの香りに、僕は少しだけ不安を忘れることができた。

 

 一緒に登校するのは何かと拙いので――二人で学校に行く姿を見られたら、谷山を見張っているかもしれない誰かに感づかれてしまうかもしれないから――僕は谷山の数メートル後を付いていくような形で歩くように提案した。案の定、彼女は目に見えて不機嫌になったけれど、何か考え込むような仕草をして、それから渋々同意してくれた。もしかしたら、僕の考えていることを理解して同調してくれたのかもしれないし、彼女なりの考えがあるのかもしれない。どちらにしても、それが誰かに知られて恥ずかしいという、一般的な理由でないのは間違いないだろう。

 探偵がどのようにして尾行したり、追跡調査をしたりするのかは分からない。でも、僕は僕なりに谷山の敵がいないか、後を付いてきていないか、さりげなく探るよう心がけた。徐々に生徒の流れが増し、和気藹々とした会話の輪が至るところに見える。同じ制服を着て、思い思いに学校へと向かう同年代の学生たち。彼らもまた、僕に理解できない悩みや苦しみを抱えているのだろう。また、喜びや楽しさを知ってもいるのだろう。でも、僕のような切実さを持つものはそう沢山いないのではないだろうか。そんな使命感じみた優越を振り払い、谷山だけに集中する。しかし、通学のおよそ30分間、彼女を付けねらう不審人物は発見できなかった。まあ、初日だし幾らでも時間はある。僕は谷山から三分遅れて教室に入るため、教師の目が光る校門をのろのろと潜る。鉄製のロッカから上履きを取り出し、ゆっくりと片足ずつ履いていく。リノリウムの床を踏みしめながら、わざと遠回りして教室に入る。そこには再会を喜ぶ生徒たちの明るく、しかし僕には全く関係のない光景が広がっているはずだった。

 入って最初に感じたのはどこか殺伐として落ち着きのない、阻害的な空気だった。声は意図的に潜められ、陰気に彩られている。不審に思いながらも席に着き、何処となく声や視線を追っていくうち、クラスメイトの攻撃的な暗さが全て谷山に向けられていることに気付いた。当の谷山だけが平然と、冷たい表情のまま俯きがちに考え込んでいる様子で、何事かと思い、無意識のうちにアンテナを張り巡らせる。聞こえてくる会話の断片からは、俄かに看過し難い単語が含まれていて、僕はもう一度谷山に視線を寄せる。彼女は興味無さそうに虚空を見つめるのみで、何も伺うことはできない。

 男と歩いていた、と誰かが言った。それが夜の10時頃で、隣町にある女子高の制服を着て、中年の男性と親しげに歩いていたと。いや、一触即発の空気だった。あれって援助……そこで誰かが空気を鋭く漏らし、言葉を悪意的に途切れさせる。くすくすと忍び笑いが聞こえ、或いはひそひそと中傷めいた呟きが広がっていく。

 23日と言えば、夜の駅で谷山と会った日にあたる。最初はそのことが、噂の根源であるのかと思った。でも、噂が真実だとしたら、その男性は僕で有り得ないことに気付く。どんなに老けていても、僕が中年に見えるはずないし、第一、あの日谷山と別れたのは午後8時過ぎだった。どんなに多く見積もっても8時半を超えてはいない。10時に彼女と一緒に歩いていたのは、別人だということになる。

 抑えつけようとしても、疑念や焦燥は膨らむばかりだった。先ず、谷山と一緒にいた人物は誰なのか。希望に縋るよう、僕はそれが父親であるという可能性を一番に考えた。でも、噂に寄れば二人の間には諍いがあったという。もし、それが偽りだったとしても、実の父親が他校の制服を着せるなんて考えられない。それに谷山は、父親がクリスマスイブに仕事で海外に出かけてしまい、年度末まで戻ってこないと漏らしていた。大切な仕事の前日に、そんな夜遅くまで娘を引っ張り出すなど、普通では有り得ないだろう。そして谷山の父親は、きちんとした商社に勤めていて、おそらく責任能力や管理能力も高い。海外事業の一端を任されているのだから、推測は正しいだろう。よって、父親では有り得ない。僕は最高の希望的観測を叩き潰して、思わず溜息を吐く。それならば、中年男性と称される男の正体は誰なのか?

 僕が敵だと思っている人間? それともたまたま、道を聞かれて案内していたのか? どちらにしろ、誰かに誤解されるような場所に同じ服のままで、何故歩き回っていたのだろう。谷山の側に二週間いた僕にも、明確な答えを掴むことはできなかった。心中の晴れない霧は増すばかりで、僕は縋るようにして谷山に視線を送り続けた。透明な沈黙は破れる様子を全く見せず、担任が朝礼を始めたので、僕は前に倣おうと視線を教壇に向ける。その一瞬の隙を突いて、谷山は目を合わせてきた。苦痛を秘めた寂しげな表情は、君まで私を疑わないでと必死で訴えかけているようで。僕は彼女を見失いかけたことを心の底から恥ずかしく思い、恥じる変わりに精一杯、谷山の一瞬を受け止める。僕は担任の話を聞きながら、自分の脳髄に鞭をくれてやった。

 噂は何時だって唐突に現れ、そして直ぐに消える。一時の爆発に捉われず、掬い取れる微かな真実が見えた時、それを壊さずにそっと浚えば良い。そしてあの夜、他の男性に身体を許していたとしても、僕の心は変わったりしない。少しばかり嫉妬が滲んでしまうかもしれないけれど、谷山はそれすらも喜んで受け止めてくれるはずだ。

 僕と谷山は決して、揺らいだりしない。そう確信できても、僕の中にある不安は心の隅に蟠ったままで。闇の足音に一歩、踏み入られたような、気色の悪さをどうしても拭うことができなかった。

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