4 不浄の王、あるいは崩れゆく結晶【8】

 休憩を経るごとにエスカレイトしていく噂や中傷に辟易し、またやきもきさせられながら、三学期初日は辛うじて衝突なしに過ぎて行った。退屈な始業式や、クラス役員を擦り付け合うだけのホームルームでも緊張を緩めることができず、予想以上に積もった疲弊をいなすよう、軽く深呼吸する。正義感や好奇心を持つ誰かが、谷山に酷く問い詰めたりしないか心配だったのだけど、それも杞憂に終わったようだった。

 もっとも、暫くは余談を許さない状況が続くだろう。嘲り甲斐のない、詰まらない人間であることを冷徹に装っているから、直ぐに別の強い話題へと移ってしまうのは目に見えているが、情報に対する飢えを我慢できる人間ばかりとは限らない。露骨な言葉を用いて訊ねる人間もいるだろうし、もっと陰湿な行動を実行に移すことも考えられる。そのことで彼女に負担がかからないよう、注意深く見守る必要があるし、時によっては直接介入する必要も出てくるだろう。谷山との関係を疑われるかもしれないが、誤魔化せないほど正直ではないし、頭も悪くないつもりだ。

 軽い指針を立て終わると、既に数人となった教室で未だ佇む谷山へと、視線を寄せる。若干、気を許した感じの笑みを寄越す彼女を見て、僕はゆっくりと席を立つ。行きと同様、予め定めておいた合流地点に向かおうと扉に手をかけた瞬間、逆側から鋭い勢いで開け放たれ、僕はバランスを崩して転びそうになった。

 眼前には厳つい表情を浮かべた担任が立っており、いつもの親しさは完全に影を潜めている。不恰好なほど大きいレンズの眼鏡から覗く目は鋭く、厚ぼったい唇は完全に引き絞られており、教室の誰もが只事ではない空気を感じ取った。憤りにも似た感情は素早く谷山に固定され、続けて険を込めた言葉が打ち出された。

「谷山、少し訊きたい事があるから、職員室まで来なさい」

 数人の女子生徒が、谷山のことを不審そうな双眸で睨みつける。教師に目を付けられるのならば、噂はきっと本当なのだ……各々の心が一つの思いで満たされていることは余りにも明らかで、不快感すらわいて来なかった。谷山は彼の目を柔く受け流しながら、棘に満ちた言葉を打ち返す。

「それは主に今日、この教室で流れた風評と関係あるのですか?」

 彼は怯み、それから僕とその他数人を順繰りに眺め回した。無言で出て行けと主張しているのは明白だったが、僕は敢えて合図に逆らい、谷山の後ろに付いたまま離れなかった。刹那、忌々しげな表情と気配が放射されたが、直ぐに浅い怒りへと落ち着き、溜息を吐いた。

「ああ、そうだ。それに……」と言って彼は、数学を担当している学年主任の名前を挙げた。「磯崎先生が10時少し前、隣町にある女子高の制服を着て、中年の男性と並んで歩いていたのを見たと、息巻いてるんだ」

 学年主任の磯崎は、風紀に殊更厳しく違反した者には説教と容赦ない罰を与える、機械人間のような教師だった。噂によると、卒業を二週間前に控えた生徒が父親と酒を飲んでいる場面を偶然目撃し、周りの嘆願を全て跳ね除け、停学処分にしてしまったこともあるらしい。その生徒は推薦で大学に合格していたため、大学も合格を取り消さざるを得ず、浪人に追い込まれたとか……勿論、嘘であるかもしれないけれど、それくらい融通が利かない教師であることに変わりはない。谷山もそのことを理解しているのか、緊張を微かに表面化させていた。

 弱みを敏感に嗅ぎ取ったのか、彼は教師らしく同情するような視線を谷山に寄せる。

「正直、わたしは谷山のことを疑いたくない。普段の素行はまあ、申し分ないし、何より学業において他に比類することのない成績を残している。わたしは、君に目をかけているんだよ、本当に」彼の口調はどこか熱っぽく、谷山への強い執着を窺わせていた。どこか気に食わないものを感じながら、僕は担任の言葉に耳を傾け続ける。「しかし、余りにも目撃され過ぎている。並の弁解じゃ、彼を納得させることは」

「納得させる必要が、どこにあるんですか?」

 谷山が彼の言葉を強引に遮り、威圧感のある声を教室中に振りまく。僕は彼女の持つ切り替えの早さに備えられるだけ同じ時を過ごしてきたつもりだったけど、それでも張りのある剣幕には一瞬、たじろがされた。況や、ろくに彼女を理解していない教師には必殺の一撃だったに違いない。

「校則を破って繁華街をうろうろしていた誰かでも良い、磯崎先生でも良いでしょう。私が性愛を交わすためのホテルに入った所を目撃したんですか?」それは、と口ごもる担任に対し、谷山は攻撃の手を緩めない。「確かに私は、他校の制服を着て夜の街を歩いていました。もし、何かの罰則を与えるというのならば、それに従いもします。けど、理由もなしにそんなことをしていた訳ではありません。そして神に誓っても良いですが、私はあの日、売春等の諸行為を一切行っていません」

 不意に谷山は、僕の方へと真摯な視線を向ける。それは先程の言葉が担任ではなく、僕に向けて放たれたということを意味する。制服で街を歩き回ったことは事実だけど、売春はしていない。他の男性に肌を重ねたりもしていない、そう訴えたいのだろう。僕はそっと頷き、それから首を振る。分かったからもうこの辺で止めようと促したのだけど、谷山の弁舌は止まらなかった。

「もし行っていても、疑わしきだけで人を罰することはできません。ここは魔女狩り村ではなく、法治国家日本なのですから」その口調は酷く挑発的で、担任を酷く驚かせると同時に、怒らせてもいた。「そして、私がわざわざ不利になるのを覚悟で先生たちの好奇心を満たす必然性などどこにもありません。分かりますか、微塵の欠片ほども、ないんです。分かったら、その鋭い眼光を収めて下さい。権威をかさに着るのも止めて戴けませんか?」

 彼は拳を固め、振り下ろしたいという気持ちと極限のところで戦っているようだった。もしかしたら谷山は、暴力を振るわれることで事を有耶無耶にしてしまおうと考えたのかもしれない。或いは、我らが担任の理性と資質に賭けたのかも知れない。結局のところ、いつまで経っても暴力は振るわれず、代わりに辟易し疲れ切った中年男性の溜息が漏れた。

「分かった、谷山。君の言うことは正しいんだろう、わたしに追求する権利はない」それから、硬直したように立ち竦む女子生徒に厳しい言葉を向けた。「申し訳ないが、わたしはもう少し谷山と話したいことがある。できれば、席を外して欲しいんだが」まるで解呪のようにして動きを取り戻した女子生徒たちは、そそくさと教室を立ち去っていった。それから担任は、僕の目を鋭く覗き込む。「橘も関係がないのならば、出て行ってくれ」

 僕は迷わず臆せず、一歩も引くことなく谷山の側に控えていた。それを見て、彼は僕たちの関係を悟ったのだろう。驕りや見下した感のない、鷹揚とした大人として、谷山に鋭く問うた。

「谷山、君は売春をしていたんだね」

「いいえ、していません」彼女はあっさりと、そして頑なに否定した。「23日の夜も含めて、私はその手の違法行為を行ったことなど一度もありません、一度もです、良いですか?」

 気まずい沈黙が流れ、教室を重い空気が支配する。僕は咄嗟の時、谷山を連れて逃げられるよう、足に力を込めたが、しかしすぐに杞憂だと気付き、身体の強張りを解いた。緊張が鈍感な僕にも理解できるくらい、和らいだからだ。

「そうか、分かった」担任はもう一度溜息を吐き、それから慎重に、殊更ゆっくり言葉を運び始める。「23日の夜、君は他校の制服を着て歩いていたが、校則違反はしていない。きっと、コスプレか変装の趣味があるんだろう。そして、不特定多数の人間に仮装を見せ付けるため、ふらふらと夜出歩いていた」

「そう、ずばりその通りです」谷山はからかうようにして、本当は的をかすってもいないであろう推測に対して、肯定の姿勢を見せた。「三毛猫ホームズばりの名推理でしたよ、先生」

「谷山、わたしは嘘を吐くのが苦手なんだ。分かるだろ、とても苦手なんだ」

 生徒を諭すその口調にはしかし、隠し難い諦観の念が占められていて、何となく同情したい気持ちになる。形は違えど、僕も谷山に全てを明かして貰ったわけではなく、その想像以上に深い暗部のことを思うと胸が痛くなるからだ。何らかの欠落を埋められることを期待して谷山の表情を伺うも、その表情、雰囲気は平然の枠を些かも逸脱していない。僕は溜息を吐きたくなるのを必死に堪え、荷物を持って立ち上がる谷山を見ていることしかできなかった。

 開け放たれたドアから外に出る間際、谷山は一度だけ深く、礼の意味を込めた辞儀をする。それは彼女の気遣いかもしれないし、もしかしたら良心かもしれない。単に形だけだということも考えられるし、心の中で目一杯の嘲りを浮べているのかもしれない。僕にできることと言えば、小走りで廊下を駆けていく谷山の後を追いかけることだけだった。

 不思議なことに、谷山は校外でなく上……屋上に足を向けているようだった。まさか変なことを仕出かさないだろうなと心配になったが、よく考えるとあそこは四方を金網のフェンスで張り巡らされている。ならば何のために、と心の中が小波立つのを堪えながら、階段を二段飛ばしで進んでいく。小さな踊り場で足を止め、屋上に続くドアと対峙する。ノブはすっかり古び、埃と錆を被っていたのだが、拒絶めいた見た目とは裏腹に、ドアはあっさりと開いた。より上空に近いためか、隙間を見つけた風は容赦ない冷たさと強さをもって、一瞬のうちに通り過ぎていく。目を細め、何度か瞬かせると、僅かな視界に谷山の姿がぼんやりと映った。僕はそっと歩を進め、フェンスに手をかけて、校庭を見下ろす彼女に近づいていく。幾つもの部活動が忙しない動きを続けており、或いは繰り返している。汗を流す、健全な学生を、しかし谷山はぞっとするほど冷たい目で見つめていた。いや、冷たいなんてものじゃない。冷たさにすら、慈悲はある。彼女の瞳には、どのような感情の色も見受けられない。ただ、客体にして物事の流れを追っているようにしか、見えなかった。まるで機械のように揺らぎない視線、そして無機質のような確固とした不在。

 彼女は今、僕など思いもよらぬ世界を見ているに違いない。以前にも感じた、強い不安を抱かせる存在に、僕は到底耐え切れず、声もかけずに後ろからきつく抱きしめる。一度だけ強い震えを見せた谷山は、しかし有機質の柔らかさをもって、僕に身体を預けてくる。年末年始と健啖なところを見せ付けたにも関わらず、その重みはクリスマスイヴに担いだ時と殆ど変わっていない。

「何を、見ていたの?」

「さあ」谷山は心地良さそうに呟くと、気だるく首を振った。「ぼんやりしていただけだからね」

「あんなことを言って、大丈夫なの?」

「大丈夫、池上先生は一年の頃から色々と面倒を見てくれた人だから」微かな敬意を込めて担任の名前を口にするも、やはり声には覇気が感じられない。「もう一つくらいの気紛れくらい、見逃してくれるんじゃないかな」

 確かに彼は怒っていたが、谷山に危難が加えられる可能性を必死で追いやろうとしていた。ドラマの如何なる熱血教師にも似ていない普通の教師だけど、朴訥で誠実で、少しの融通が利くくらいには頭が柔らかいのだろう。同じ立場なら、好奇心を敢えて殺し、あそこまでの発言ができたかどうか、疑わしい。いや、きっと無理だろう。

「ごめん」何もできないこと、不意打ちしたこと、その他心にできない全ての想いを、僕はただ一語に込めて、伝える。「急に抱きしめたりして……痛くない?」

「暖かいよ」

 谷山は僕の右手を取り、甲に唇を当てる。それは姫が、密かに愛する騎士へと送る親愛のように、僕の胸を容赦なく突き刺した。

「私は、どうしたら良いんだろうね?」本気で訊ねてくる谷山に、僕は適切な言葉を返すことができそうになかった。「色々なことがとてもよく分かるのに、自分のことになるとまるで盲目のように何も見えないんだ。真っ暗で、怖くはないけれど、途轍もなく……」

 僕の右手をそっと胸元に導き、穏やかなリズムを刻む心臓を鷲掴みにして欲しいと願わんばかりに強く押し付ける。

「寂しくて、堪らなくなるんだよ」

 谷山の声は重く、そしてどこか欠けた感じがした。僕は彼女の欠けた破片くらいにはなれるのではないかとひた向きに願い、祈るにして耳元で囁いた。

「暗闇を感じたら、僕がいつでも手を握るから」僕は甲の側から彼女の手を握り、すっぽりと包み込んでから、一本ずつ丁寧に指を絡めていく。「君の手を決して離したりしないから」

 じっとりと汗ばんでいく掌と手の甲を絡ませたり、緩めたりして不恰好な握手の感触を楽しむ。だが直ぐに焦燥が勝り、今のままで満足できなくなってきた。心が統制されていない。もう、手綱を付けていなしておくのはきっと限界なのだ。

「出来る限り僕の側にいて」胸の中の何かに突き動かされ、僕は更に強く谷山を抱きしめる。「僕の見えないところで、気付けないところで谷山が脅かされて、傷ついたり、苦しんだりするのが嫌なんだ。それだけは絶対に耐えられないから。きっと、僕は僕を許せないから」

 少し言い過ぎたかなと思った時には、言葉と行動が思考から独立して飛び出していた。以前、怖い想い方をすると釘を刺されたばかりだけど、何故か今は無性にこうしなければいけない気がした。怖いくらいに想っていることを、彼女に伝えなければいけない。

 今まで無言を貫いていた谷山が、不意に口を開く。

「大丈夫。あと少し、あと少しで全てが、大丈夫になるから」

 それは、新しく現れた谷山の信頼であり、言葉であり。同時に、今は大丈夫でないということを示す、貴重な危機信号で。そして、これまで推測の域を出なかった、僕や母の考えを裏付けるものでもあった。

 やはり、危険はあるのだ。彼女を脅かす敵も、確かに存在する。

「それまで、私は橘のことを無様なくらい頼ることになると思うけど、許してくれる? 手を繋いでいてくれる?」

「うん」と答えてから抱きとめる手を離し、正面から向き合うとその右手を取った。掌と手の甲に口付けし、羽毛のように軽く抱きしめてから、甘く鋭いキスをする。

 僕は、谷山に身も心も預けているのだと、改めて実感した。

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