5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【3】

 帰路の途中こそ大人しかったけれど、谷山は家に着くといつもの元気を取り戻し、ただいまと大声で挨拶をした。それから僕をちらと窺い、勝手知ったる我が家を一直線に、ダイニングへと飛び込んで行く。後を追い覗き込むと、ホットプレイトをテーブルに出し、お好み焼きの準備をしている母の姿が見えた。我が家の主は今、正に谷山の帰還を喜び、顔を綻ばせていた。かき混ぜ途中の生地が入ったボウルをうっちゃり、谷山の細い肩を目一杯に抱きしめる。その力が余りに強いので、谷山は胸の中でじたばたして、一秒ごとに抗う力を無くしていった。流石に拙いと思い、僕は母の肩を掴んで、半ば強引に引き剥がした。

 苦しみ咽ぶ谷山を見てようやくやり過ぎに気付き、母は慌てふためき始めた。けほけほと涙交じりの咳をしながら、しかし谷山はうっすらと微笑みを浮かべている。そこには、僕の望む光景があった。

「ごめんなさいね、力の加減を間違えちゃって」母は少し気まずそうに、屈み込んだ谷山へと手を伸ばす。「お帰りなさい、裕樹」

 名前を呼ばれた谷山はそっと手を掴み、そっと胸の中に収まっていく。こうなると、母の猫可愛がりは筋金入りで、暫くは言葉も交わさずにひたすら、頭を撫でていた。二人を離したのはホットプレイトが電熱により唸る音で、母は調理中であることを思い出して、再びボウルを手に取った。別の籠には両手一杯のキャベツが盛られ、他にも豚バラや天かす、葱にもやしにチーズと、定番の具が所狭しと並んでいる。

「今日は少し変り種で攻めてみることにしたの。先ず生地を引いて、上にどんどん具を重ねていく広島風ね。きっと裕樹も来るんじゃないかと思って、三人分用意してあるから、どんどん食べていってね」

 用意万端であることを示し、母は生地の攪拌を再会する。谷山はお好み焼きが珍しいのか、具材を見回して瞳を輝かせていた。僕はつと母に視線を送り、小さく首を振ったので無言を貫くことにした。

 母の言葉は、真実と少しだけ違っていた。いつ谷山が帰ってきても良いよう、材料は常に三人分用意され、無駄になった分を巧みにローテーションしていくという食生活を続けている。ちなみに昨夜はソース焼きそばだったから成程、非常に効率的な献立だった。

「関西焼きだと、刻んだキャベツや他の具と一緒に混ぜ込むんだよね。そっちは何度か食べたことあるけど、広島風は初めてだから、楽しみ。ねえ令子さん、一個自分で作ってみても良い?」

「ええ、勿論よ。良い? 今から見本を作って見せるので、じっくり手際を盗むこと」

 気合を入れて肯く谷山を見て、母は柄にも無く腕まくりしてみせる。それから先ず、お玉で生地を一掬いして、ホットプレイトの上に薄く円形に広げていく。それからごっそりとキャベツを乗せ、もやしに葱にチーズにと、まるで親の仇のようにして山にしていく。谷山は目を丸くして「こんなのを引っ繰り返せるの?」と不安げに訊ね、返す母は意味深な笑い声をもらすだけだった。

 天かすをふりかけ、豚バラを満遍なく敷くと、つなぎのために上から少しだけ生地をかける。それから大きなへらを両脇に添え、殆ど迷いなく裏返した。僅かにはみでたものの、それらもへら捌きによって素早く寄せられ、上からの圧迫によって水蒸気が面白いように芳ばしい音を奏でていく。数分もすると、やや分厚い本格広島焼きがその原型を形作っていた。

「うわあ、あのてんこ盛りがちゃんと円形に収まってるよ」何度もその光景を目の当たりにしている僕でさえ驚きなのだから、初見の谷山が驚くのも無理は無いだろう。僕の袖を掴み、無邪気に訊ねて来た。「広島の主婦は皆、この技を持っているのかなあ?」

 僕は広島人じゃないし、その手の知り合いを持たないので分からないけど、そんな気がする。まあ、平均して月に二度も作っていれば、嫌でも上達するのだろう。一点豪華主義の特殊スキルという気も、しないでもないけれど。

 母は更にそばを炒め、薄く円形に延ばした溶き卵の上に乗せ、その上にお好み焼きを乗せる。引っ繰り返して、その上からソース、鰹節、青海苔の順でかけていく。芳ばしい匂いが当たり一面に広がり、お腹がなるのを抑えることができない。大皿に乗せられたお好み焼きが適当な大きさに切り分けられ、僕と谷山はあっという間に半分を平らげてしまった。

「幸せに美味しいよね、これ」言いながら更に一切れを口の中に放り、冷たくした水を半分ほど一気に飲み干した。「こんなに楽しい食べ物だったら、私がいる間にもっと作って欲しかったのに」

 まさか材料節約のためとは、口が裂けても言えない。母は「あらまあ」とおっとり声をあげ、それではと言わんばかりに二枚目を焼き始めた。一枚目と同じく、完全に首尾よく焼けたお好み焼きを見て、そして母に敬愛の念を向ける谷山を見て、少しばかりの対抗心が僕の中に芽生えてしまった。

 更に頬張り始める谷山を他所に、僕は控えめに立候補して焼き始めた。隣で女性二人、仲良く食事しているけど、見て見ぬ振りをする。母ほどではないが、僕だってそれなりにものは作ることができる。生地を延ばし、具を乗せて、適度な火が通ったところで引っ繰り返す。少しダイナミックにはみ出したけど、原型は辛うじて保たれていた。僕は軽く安堵の息をつきながら、具を押し込めていく。形さえ整っていれば、まだ繕いようはある。修復されたお好み焼きを見て、僕は息を付いた。余計な打算を持つと、心が乱れる。先ずは集中集中と形を整え、卵の生地を作り、出来上がったお好み焼きを上に乗せて引っ繰り返す。見栄を張りすぎて少しばかり躓いたけど、全体から見ればかなり上出来の類だった。

「わ、橘も広島の主婦並だ、凄い凄い」褒められてるのか、馬鹿にされているのか分からない物言いだけど、目は尊敬を讃えていて、僕は思わず照れてしまった。「こうなったら私も、負けられない……と、その前に」

 谷山は僕の作ったお好み焼きを、続けて突付きだす。こんなこと言ったら張り倒されそうだけど、谷山はいつもお腹を空かせているような気がする。僕の中では『谷山=はらぺこ』な式が既に根付いており、微笑ましいことこの上ないのだけど、年頃の娘として何か間違ったものも感じる。

 結局、ボリュームのある広島焼きを0.5×3枚食べた谷山はへらを持ち、意味も無く金属を打ち合わせてから、鉄板に敵愾心を向けた。火と争えば料理は敗北するような気がするのだけど、余りに真剣過ぎて声もかけられない。数秒後、生地を伸ばすのが先だと気付いた谷山は、偉そうに空咳をしてから鉄板に生地を広げた。初めてにしてはなかなか手際が良い。それからキャベツをこんもりと、ああ初めての人間が引っ繰り返せるレヴェルではなくなってきている。僕は止めるべきだろうか。使命感と谷山の一所懸命に天秤を揺らし、決着がつかず救いを求めて母を盗み見れば、当の責任者は楽しそうに料理を観覧するばかり。

 谷山は腕まくりを――制服が皺になるという考えは、彼女の中に最早存在しないようだった――すると、両手にへらを持ち、えいやっという掛け声と共に思い切り跳ね上げた。お好み焼きは有り得ないほど斜め上空へと飛び立ち、僕の視界から消えた。次の瞬間、顔を熱く気色の悪い感触が支配する。

 凍る時間、のち熱くてたまらず、僕は「ぎにゃーーー!」と有り得ない無様さを晒しながら円形の物質を払い除け、台所へと走る。必死で水道の蛇口を全開にして、頭から水を被るとようやく、熱さと痛みが消えていった。しかし、一端水から離れると、頬の辺りがひりひりして熱い。どうやら少しばかし、火傷してしたようだ。

「だ、大丈夫?」災いの張本人である谷山が、頬の痛みに顔を顰めている僕の元に近づいてくる。「わ、ちょっと赤い……ごめん、まさかあんなことになるなんて思わなかったんだ。その、力んでつい、大ファウルというか、月は無慈悲な夜の女王というか……」

 頭の中で、料理と野球とSFの記憶がごちゃごちゃになっている。そこまで混乱していることに微笑ましさを感じるのだけど、頬が痛みを増してきて、上手く笑うことができない。代わりに、空いた手を優しく、谷山の手に置いた。

「大丈夫だって、そんな酷くないから。もう少しだけ冷やして、後は時が自然に治してくれる」

「橘が怪我するなんて、思ってなかったんだ」さりげない慰めも、谷山には全く通じていない。それどころか、僕の行為に断罪じみたものを感じているらしい。「ごめんなさい、本当にごめんなさい。ああ、うう……」

 僕の顔をみて俯いて、また僕の顔を見て俯いて。もしかして、痛みから推定できるより火傷の度合いが強いために余計、罪悪感を覚えていたりするのかもしれない。それとも……無意識のうちに怒っていたりするのだろうか。

「顔が見苦しいの? それとも、怖い顔してた?」

「だから違う。顔に酷い怪我させたんだよ。怒鳴りつけたいでしょ? 普通、殴って躾けるものでしょ?」

 今、何て言った?

「分かってる、分かってるから。橘も、令子さんも、とっても優しいって知ってる。でも、何度も粗相したし、厚かましいこと言ったり、差し出がましいこと、したりした。本当は、きちんとした対応をしたいって、思ってるんだよ、ね?」

 だから、何を。

 何を、言いたいんだ。

 一番あって欲しくないことを体現するよう、谷山は強く身体を震わせている。それ以上に蒼ざめ、母は怒りで顔を慄いていた……谷山ではなく、彼女を酷い目に合わせている存在が誰であるかを確信して。拙い、と思った。あの顔を見られたら絶対、谷山は誤解してしまう。僕は遮二無二、引き寄せようとしたけど、怯えた谷山は激しい勢いで手を振り払ってしまった。その反動で、身体が一瞬反対側を向いてしまう。でも、一瞬あれば彼女には十分だった。

 目尻に涙を浮かべ、谷山が外に飛び出していく。後には彼女の零したお好み焼きと、そして学生鞄が雑然と残されている。呆然として、思考の定まらない僕を殴るようにして、母が叫ぶ。

「追って、今すぐに!」一瞬身を竦ませてしまった僕に、母は更なる檄を飛ばした。「早くっ! 追いかけて、お願いだからっ!」

 言われてようやく硬直が解け、僕は何も持たずに駆け始めた。急いで靴を履き、外に飛び出すと丁度、エレベイタが10階と下のマークを光らせ、嘲笑うようにして降りていく。階段を目にやり、落ちるようにして全速力で階下を進む。途中、勢い余って何度も古ぼけた壁に身体をぶつけ、その度に頭がくらくらした。それでも、谷山を追う気持ちが衰えることは無かった。唯一の居場所からさえも身を背け、谷山は全てから逃げ続けなければいけない人間になりつつある。何とかして、止めたかった。暴力も、激しい叱責もない、そんな至って普通の家族もあるんだって。僕は味方だって、ここにいるって、大好きなんだって、伝えないといけない。

 マンションを出て、左右を見回す。谷山がどちらに行ったか分からないけど、追いかけないといけない。谷山に追いつくまで、諦めてはいけない、ここに戻ってきてはいけない。精一杯の想いが、僕の足を突き動かす。アスファルトの無慈悲な道を、痛む膝を抱えながら必死に走る。汗が火傷の跡に降りかかり、掻き毟りたいほど痛い。爪が割れて、心臓がばくばくで、体の全ての痛みより、心が悲痛な叫びをあげていた。

 出鱈目に動く心臓を叱咤しながら、僕は走り続ける。

 走り続ける。

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