5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【5】

 疲れ果てたようにうな垂れる谷山を背負いながら、僕は来た道をゆっくりと引き返していた。去年のクリスマス・イブに比べれば、いくらか体重も増えているはずなのだけれど、驚くほど軽いのは変わらない。油断すると、風船や羽のように遠くへ飛んでいってしまうのではないか。帰路の中で僕は、それらの妄想を抑えることができなかった。

 数分ほど歩いただろうか、谷山は唐突に僕の背から離れ、代わりに腕を強く組んでくる。

「もう、大丈夫」先程までに比べれば、怯えや恐怖といった感情は嘘のように落ち着いていたが、探るような伺うような視線は相変わらずだった。「これ以上、迷惑をかけるのも悪いしね」

 卑近な笑みを浮かべる谷山は、とてもじゃないけど大丈夫であるようには見えない。

「別に、あと少しだから遠慮しなくても良いよ。谷山のことだったらさ、一時間でも二時間でもおぶさってて平気だから」

 なるべく力強く聞こえるように言ったつもりだけど、谷山は極めて疑わしげな視線を僕に寄越す。余り力が強い方だとは思われていないのだろうか、少し悔しいなと思いかけ、直ぐに間違いであることに気付く。ほんの些細なことであるというのに、谷山は再び怯え始めていた。それなのに、腕に絡まる力は強まる一方で。僕は今更ながらに、手をあげたことを後悔する。いや、後悔なんてものじゃない。もしできるのであれば、融通の利かない右手を切り落としてやりたかった。彼女をより暗いところに連れて行くくらいだったらまだ、そちらの方がましだったような気がする。しかし、その右腕がなければ、谷山は縋るものが何もなくなってしまう。

「本当にもう、大丈夫だから――そんな目で、見ないで」その言葉に、僕は思わず歩みを止める。「憐れんだりしないで、変なものを見るような目で、私のことを見ないで。私は確かに、善いことと悪いことの区別って全然分からなくて、頭のおかしい人間かもしれないけれど、さっき橘がやってくれたようにしてくれれば、ちゃんと分かるから。やっちゃいけないことは本当に、二度とやらないから――私、とても頭が良いからそういうことだって、簡単なんだ」

 それから谷山は、指折り数えながら言葉を連ね始めた。

「朝、起こされたらきちんと起きないといけません。ずる休みしたらいけません。犬を公園の砂場に埋めたらいけません。猫の首を切り落として、飾ったらいけません」抑揚の全く無い声だった。「機嫌の悪い時に、ママに話しかけたらいけません。ママの言うことはきちんと聞かないといけません――あ、でもママはもう死んでるか、あはは。後はね……」

「もういい、分かったから」それ以上聞くと何かが壊れてしまいそうで、僕は谷山の声を半ば強引に押し留める。「谷山が……良い娘でいられるのはよく分かってるから。僕の言いたいのは、そうじゃないんだ」

 絡め取られた腕のため、自由に身動きの取れないもどかしさを感じながら、僕はなるべく穏やかな口調であることを心がけ、出来る限りの穏和な表情で谷山の双眸を柔らかく見つめる。

「谷山は僕にもっと頼っても良いし、怖がらなくても良いんだ……ごめん、手をあげておいてこういうことをいうのは、むしが良過ぎるのかも知れないけど」

「そんなことないよ。橘は、やらなければいけないことをやっただけだから。寧ろ、そういうことのきちんとできる人なんだなって、それが凄く嬉しい。前に橘ってさ、私のことを幸せにしてみたいって言ってくれたよね、私きちんと覚えてるんだよ」

 勿論、僕だって覚えてる。あんなに恥ずかしい科白はないなと、自分で少し恥ずかしいと思ったくらいだから。そうそう忘れられるものじゃない。

「そのことを今日ほど、本気で受け止められると思ったことはないよ」

 谷山の告白は僕にとって、少なからずショックだった。これまで出来得る範囲において、谷山のことを優しく包んでいると思っていたのに。数ヶ月の必死の頑張りよりも、一度の暴力の方が心に響くと言われたのだ。アイデンティティが根元から揺らぐような眩暈を覚え、僕は谷山の腕にしがみつくようにして歩く。これでは立場が全く逆ではないかと思うと、女々しいと分かっているのに、恨み言が止められない。

「じゃあ、これまでの僕は谷山に、全然信用されてなかった?」答えを聞くのが怖いというのに、それでも僕は問わずにはいられなかった。「僕は取るに足らない人間でしかなかった? 僕は、谷山のことが好きで、本当に大好きで……だから苦しんでいたり、痛がってたりしているところなんて、見たくないんだ。それなのに、殴った方が信用できるなんて、それじゃ、まるで……」

 苦しみが谷山にとって対した痛痒でないのならば、今までしてきたことに何の意味があるのだろう。そう思うと、涙を流したいのは谷山だと分かっているのに、僕は涙を流さずにいられなかった。弱い人間の、最低な行為だと分かっているのに、苦しんでいる女性を問い詰め、答えを開かせずにいられない。何て嫌な奴なんだろう、僕は。

 全ては言ってしまってからの躊躇いであり、意味は全くないというのに、くよくよした悩みから抜け出すことができなくて。僕は恐る恐る、谷山の顔を覗き込む。そこには案の定、相似形のような動揺が現れていた。

「違う、そんなことない。橘の優しさや労りは、凄く嬉しかった。奇妙なところを見せても、それでもしっかりと受け止めてくれたし、怖がったりもしなかった。沢山の我侭を、寛容に包み込んでくれた。私には勿体ないくらいの異性で、逃してしまったら一生後悔するって、毎日のように思い続けてきたんだよ。肌を重ねるのはとても気持ち良いし、心を重ねるのは心地良かった。隣に橘がいるだけで幸せに満たされたし、安心できた。今日のことがなくても、私が橘のこと、好きで好きで堪らないことに変わりはないから、本当に……そうなんだよ。谷山の本質って善だから、滅多なことじゃ人を傷つけることはできないって分かってる。きっと私を殴ったとき、私よりも痛いって思ってくれたよね。そういうとこ、凄く愛おしいよ。本当、大好き……」

 でも、と谷山は底昏い声で付け足す。

「私は弱い人間だから、橘の覚悟が知りたかったんだ。例えば、例えばだよ? もしナイフを持った強盗が目の前に現れたと仮定してみて。橘が決して戦うことのできない人間で、刺されるがままになるしかないのだとしたら、悔しいよね、でも諦めるしかないんだ、誰も戦うことができないから。それで人生終わっちゃう、嫌だよね。明日、そんなことが起きたら私たちは何十回、何百回とデートやキスやセックスをする機会が奪われるんだ。そんなの許されないよね、許したくないよね。でも、橘はいざとなったら強盗を反対に殺せてしまう人間だって分かったから。今日からは不安に思わず、もっと堂々と遠慮せずに、一緒にいられる、愛し合っていられるんだよ。それって、とても嬉しいことだと思わない? 私はだから、本気だって思ったんだ。橘は意味も無く、私を傷つけたりしないって分かってるけどね。それでも私のために、他者を排除できる、そうだよね?」

 谷山は熱っぽい口調で、僕の不覚悟さを少しずつ追い詰めていく。それが意図してのことなのか、そうでないのかは分からないけれど、僕の返事を心待ちにする谷山の表情は純粋そのもので。殺すことができないなんて、とても言える状況ではなくなっていた。それならばと、僕は想像する。もし、谷山の前にナイフを持った人間が表れたら僕はどうするのだろう。先ずは何とか、逃げようと試みるはずだ。ナイフを持った人間に、格闘技の経験を持たないものが正面から挑んでも、先ず十中八九傷を負わされるか、殺されてしまうだろうから。精一杯、谷山の手を引いて全速力で走ってにげる。でも、追い付かれてしまったら? その時の僕は何故か、ナイフよりもレンジの長い角材を持っている。これならばきっと、勝てるだろう。さて僕は、どこまで強盗を傷つけるだろう。僅かの迷いの後、答えが導き出された。

 やっぱり、殺してしまうだろう。手加減なんてできないし、谷山を脅かすような不届き者なんて多分、生きてる価値はないだろうから。殺してしまうと、思う。

 僕がそっと肯くと、谷山は本当に嬉しそうな表情を浮かべ、僕の首に齧りつくようにして、抱きしめてくる。それから情熱的なキスを寄せ、名残惜しげにそっと離すと、くっつくくらいの近い距離を保ち、興奮を露にしながら語りかけてきた。

「そうだよね、良かった。橘ならきっと、そう言ってくれると思ってた」

 嬉々として紡ぐ谷山の様子に、罪悪感めいたものは微塵もない。そして僕はふと、彼女は母親に『人を殺すのは悪いこと』だと、きちんと教えられたのだろうかと、訝しんだ。いや、と僕は心の中で首を振る。それくらいは幾らなんでも、理解しているはずだ……いや、本当にそうなのだろうか。

 寝物語の中で、谷山が言っていた。僕が他の女性に気を惹かれるようなことがあれば、容赦なく心臓を刺すと。あの時は半分、冗談のような気持ちで受け止めていた。でも、本当にそうなのだろうか。冗談にしては余りにも本気で、そして躊躇が無さ過ぎだったような気がする。

 本当に、こうも軽々しく応えてしまって良かったのだろうか。本当に僕の言葉が、谷山のためになっているのだろうか。もしかして、とんでもない間違いを再び、犯してしまったのではないだろうか。不安だけが脳内をぐるぐると回り、定まるところを持つことができない。

 少なくとも分かったことはと言えば、谷山が僕の予想していた以上に深いものを抱えた女性であるということで。その厄介さにも関わらず、僕は決して谷山から離れることができないのだ。

 いや、離れられないんじゃなくて……離れたくない。彼女の中の、底知れぬ昏さを垣間見たというのに、想いはますます募るだけで、留まろうとしない。彼女の全てが欲しくて、堪らなかった。きっと、谷山と同じくらいに僕だって壊れている。善悪の彼岸を簡単に跨いでしまえるほど、愛情に麻痺してしまっている。お互いを満たしあえるという希望に比べたら、殆どのことはきっと些細なことで。だから、覚悟さえ決めればきっと何だってできるはずだ。そのような日が、できれば訪れないことを、僕は心底祈るのだけれど。

「ねえ」完全にペースを取り戻したであろう谷山が、甘みを帯びた声をかけてくる。僕は物思いに耽るのを止め、目の前の愛しい存在だけに心を傾けた。「そういえばもう、一週間も経ってるんだよね」

 言いながら、谷山のしなやかな指が胸元や臍の辺りを盛んに撫で回してくる。そして一度意識してしまうと、不可逆なのが男の情けないところで。これまでの出来事と入れ替わるようにして、性への興味が頭の中を支配していく。僕は応じるとばかりに深く唇を合わせ、ゆっくりと離す。谷山の中には情欲の赤めいた光が宿っており、それはきっと僕も同じなのだろう。

「でも、今からじゃ帰っても……」流石に昼間からというのは、無遠慮過ぎる。「そういうことする場所、いくつか知ってるけど、そうする?」

 そういうことをする場所とは、そういう場所だ。意味はきちんと通じたみたいで、谷山は目に見えて顔を輝かせる。

「どういうところなんだろうね、私って実はそういう場所に行くの、初めてなんだ。ピンクのライトが光ったり、回転ベッドだったり、するのかな?」

「それは、場所によるけれど、僕の知ってるのはビジネスホテルを少しだけ改造したようなところだけかな」谷山の無邪気な質問に苦笑しそうになりながら、僕は少しだけ偉ぶって答える。「無いこともないけどさ、ピンク照明の部屋でしたいって思う? 僕だったらそれは、勘弁して欲しい」

「あはは、それは確かにそうだね」

 谷山の笑いには本当、屈託がなくて。僕は取りあえず、危機的状況を脱することができたのだと確信する。それでいて、根底に根付く不安が解消されたという感じは全くしないのだが、それはきっと時間をかけて行うべきなのだろう。そう自分に言い訳してしまうといよいよ、谷山とのこれからの行為しか考えられなくなってしまい。僕は彼女の華奢な腰に手を伸ばし、強く引き寄せる。

「じゃあ、行こうか」

 うんと言って、僕と谷山は並んで素直に歩き出す。途中、屋外も面白いかもしれないなあと呟いていたが、僕は聞こえないふりをした。

PREV | INDEX | NEXT