5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【10】

 次に目覚めたとき、時刻は四時を少し回っていた。あれから五時間以上経っていることに安堵し、それからもう一度寝直そうかと考える。あと二時間少し眠り、気だるい体で登校の準備を始めるならば、朝になるまでずっと起きていた方が良いのかもしれない。しかし、布団から出るのも偲びなかった。先んじてベッドから出ている僕を見れば、谷山は強く傷つくだろう。かといって、理想的な温もりと柔らかさを持つ空間の中で二時間も、何もせず覚醒を保っていられる自信は全くない。結局は気だるい朝を迎えることになるのだろうなと、僕は布団を被り直した。

 谷山の様子からは、眠りを乱された痕跡は見つからない。僕は例によって、彼女の全てで自分を満たしたいという欲求に抗いながら、その可愛い寝姿をじっと眺めた。頬や口元からは力が抜け、しかし整った顔の形を崩すことは些かもなく。吐息は控えめで小さく、胸の隆起も僅かに感じられる程度で。やもすると、生きているのか疑いたくなるくらいの、静かな眠りだった。もし御伽噺の眠り姫がいるならば、それは彼女のような眠りを永遠としているのだろう。

 柄にもないことを考えていると、不意にお腹が空腹を訴え始めた。そう言えば、昨日の昼よりむこう、何も食べていない。いよいよ進退窮まり、僕はもう一度谷山を覗きみた。もう暫くは、眠りが途切れるようなことはなさそうだ。心の中でごめんと呟き、僕は部屋を出て、台所へと忍び込む。冷蔵庫の中を見ると、豚と里芋の甘露煮、ほうれん草のおひたし、出汁巻き卵が器に入れて綺麗にラッピングされてあり、小腹が空いたらレンジにかけて食べることとメッセージが添えてあった。僕は甘露煮をレンジにかけ、併行して炊飯器のご飯を椀に装い、盆に載せて部屋に持ち帰った。

 すると間の悪いことに、谷山がすっかり目を覚ましており、僕の両瞳と手に持っていた盆とを交互に睨みつけた。目尻にはうっすらと湿り気があり、相当に拙い状況であることを無言で示している。

「側にいてくれるって言ったのに、目が覚めると居なかった」違うと口を挟もうとしたけれど、谷山の語勢は僕のそれを遥かに凌ぎ、より逃げ場を奪う形で痛烈に吐き出された。「お腹が空いたからって、私のこと、見捨てた」

 僕は違うと言いたかったけれど、谷山の言葉は抗いようのない事実だけで構成されていて。それでも言い訳くらいは考えることができたかもしれないけれど、僕は敢えてそれをやらなかった。代わりに料理の載せられた盆を置き、影のような存在の谷山に、一歩近づく。すると、可笑しそうにくすくすと笑いながら、駆け足のように速い言葉を僕にぶつけてきた。

「冗談だよ、だって橘がこんな時間に家を出てくなんて有り得ないこと、頭の良い私ならきちんと分かってるからね。トイレか、食糧調達かなって踏んでたけど、予想通りだった。だから、私は全然寂しくないよ。寂しくなんか、ないよ。橘は私の所に戻ってきて、そして一緒に居てくれる。そうだよね?」

 無機質に近い言葉の羅列が、最後になって強い寂寥、恐怖と共に打ち破られ、粉々になり、後には泣きそうな谷山だけが残っている。僕はそっと近寄り、弱々しげな体をきつく抱きしめる。吸い寄せられるように自然と唇を合わせ、ゆっくりと離すと、その時には既に、谷山から強さは失われていた。踊る膝を安定させるように足を絡め、倒れそうな体を支えるため、首に両手を引っ掛けさせる。求めるままに何度も口づけを繰り返し、あるいは頬を寄せ合い、互いの体はいよいよきつく、強く縛られていく。

「ねえ橘、私ね、今とても面白いこと考え付いたんだ」甘い囁き声が耳の中を巡り、僕はいよいよぞくぞくとした興奮に抗えなくなっていた。「食欲と性欲って、どっちが強いんだろうね。橘は、料理よりも私を食べることを優先する? それともご飯が欲しい?」

 僕は少し腰を屈め、そして谷山は少し背伸びして、もっと簡単にお互いの顔に触れ合えるようにする。茶褐色の豆電球と、外から漏れ入る星月の光は、見慣れているはずの谷山を、神秘深く美しく見せた。彼女の全てを手に入れているという充足感は、荒波のように心を揺らしていく。より深いところへ、探り合うように視線を交わし、互いを手繰り寄せ、全てを近づけていく。体だけでなく、心も絡み合って、強く感じ合えるように。この流れを止められるものはないと、僕も――そして谷山も、思っていた。お腹の虫が大きく響き渡るまでは。

 さっきのは、僕のじゃなかった。つまり、谷山のだ。妥当な推測を裏付けるように、彼女はからかうような笑いを立て、僕に耳打ちした。「私は、食欲の方かな」

 僕は、床に置いた食事を勉強机の上に乗せ、谷山に箸を手渡した。こんなこともあろうかと、箸はきちんと二セット用意してあるし、ご飯も小盛りで二つ用意した。もし谷山が起きなくても二杯食べきることは容易だが、一杯だからといって不足することもない、絶妙な量を装ってある。僕は机とセットのコロ付き椅子に、谷山は隣接するベッドから身を乗り出して、めいめいに箸を踊らせた。

 谷山は寝起きにも関わらず、割と良く食べた。甘露煮の三分の二に、卵焼きとほうれん草を半分ずつ、起きて直ぐの胃にこれだけ詰め込めるとしたら、谷山の胃は僕の考えていた以上に強いのかもしれない。あるいは、眠った振りばかりで、実は全然寝ていなかったとか。怖ろしいことに、僕はその可能性を否定できなかった。

 夜食か、あるいは朝食と呼んで差し支えない食事を終えると、谷山は再び大きな欠伸をした。僕を覗き込む瞳は情熱的であろうとしたけれど、とても成功しているとは言えなかった。眠りが足りない、或いは充足していないのだ。僕は小さく頷くと、谷山をベッドに促した。

「ごめんね、お腹一杯になったら眠くなって……」

 谷山は本当に眠たそうに、目をごしごしと擦り、迷うことなく布団の中に潜っていった。それから、僕が入れるだけのスペースを空け、そっと手招きする。沢山の温かみが逃げていったのだろう。最初こそひんやりとしていたけれど、すぐに気だるさを誘う温もりが取り戻されていった。谷山は一分もしない内に、眠り特有のリズムを持った呼吸をたて始めた。それとも、眠りの呼吸を必死で演じているのだろうか。僕は指先で、谷山の脇腹を鋭く突付いてみる。一瞬、びくりと体が仰け反り、だから僕は彼女の眠りが仮初めであることを知った。

「もしかして、眠れないの?」

 声をかけても、返事はいつまで経っても届かない。もう一度、同じことをしてみると、今度はぴくりとも動かなかった。反射的に、徒労の溜息を吐く。どうやら全ては僕の思い過ごしで、谷山はぐっすりと眠れているらしい。僕はもう一度だけ谷山の寝顔を確認すると、気だるさに身を委ねた。

 

 次の日、目が覚めると、既に時刻は七時を幾らか回っていた。僕は谷山を揺すって起こそうとしたけれど、首を苛立たしげに振るだけで、手を尽くしても芳しくなさそうだった。

「体がしんどいんだ、結構辛い感じがする」

 谷山は僕の目を見て、懇願するように言った。その両瞳は僅かに充血し、頬もどこか病的な赤みを持っているように見受けられる。また風邪を引いたのだろうかと、僕はダイニングに置いてある体温計を取り出し、熱を測ってもらった。二分後、無機質なアラームが測定完了を示し、僕はデジタル表示を凝視する。六度二分、一般的には平熱と目される温度だけれど、女性の平時体温は時に驚くほど低く、この程度でも強い気だるさを帯びてしまう可能性もある。僕は谷山に、平熱がどれくらいか訊いてみた。

「六度ジャストくらいかな」

「ん、じゃあ熱はないみたいだけど。喉が痛いとか、鼻が詰まるとかそういう兆候はない? 或いは胃がむかむかするとか、お腹が痛いとか」

 ゆっくりと噛み砕くように訊ねるも、谷山は首を曖昧に、左右に振るだけだった。

「とにかく、体がだるくて……辛いんだよ。だから今日は、学校休む」

 谷山はそのまま、聞く耳持たないとばかりに布団を被ってしまった。

「谷山、どうしたの?」

「五月蝿いなあ!」

 くぐもった中にも、その声は強く、刺々しく響いてきた。

「辛いって言ってんだから、そんな感じに話しかけないでよ」

 僕は思わず、口を噤んだ。別に陰めいたものを込めた覚えはなかったのだけれど、谷山にはそう聞こえたらしい。暫しの沈黙が落ち、しかし更なる言葉は全く聞こえてこない。僕もまた、一言も発することができず、部屋を後にすることしかできなかった。しかし、他の場所に移ることもできず、廊下に立ち竦んだまま、動くことができない。眠たい目を擦りながら、母が部屋から出て来た時にはだから、助かったと思った。

「どうしたの、そんな……部屋の真ん前で突っ立って。また、裕樹と何かあったの?」

 非難がましく向けられた視線を、僕は正面から受け止めることができなかった。何かあったのは確かだし、どうやら今回は純粋に、僕が悪いみたいだったからだ。

「谷山、今日は調子悪いから、休みたいんだって」

「そりゃ構わないけど、それでどうして気まずくなるのよ」

 最初はどうにも説明が付かないといった様子だったけれど、一つ思い当たる節があったらしく、目の色を曇らせて、先程よりも真剣に訊ねてきた。

「それはきっと、体じゃなくて心が辛いのかもしれない。だから、学校にも行きたくないのかも」

「心が辛いって……それってつまり、学校行く気が起きないから、休むってこと?」

 それは単に、ずる休みしたいってこと? いや、それは違うような気がする。谷山は確かに気紛れなところがあるけれど、純粋な怠惰で物事を放棄したりはしない。だから、まだ……平気なようでいて、昨日の衝撃から立ち直れていないということなのだろう。

「そうね……」母は顎に手を当て、思案気に俯いてみせたが、不意に別のことを思いついたらしく、次の質問をぶつけてきた。「ところで雪は、連絡網に載っていた以外の連絡先って知らない?」

「いや、知らないけど、どうして?」

「それが、昨夜から何度か電話してみたのだけど、全然繋がらないのよ。電源が入っていないか、電波の届かない場所にありますの一点張りで、留守電サービスも作動しない。連絡もなしに、娘がいなくなっている訳だから、父親は凄く心配しているはずだし、だから一刻も早く伝えたいのよね。あ、でもそう言えば、クリスマス・イヴの時にも連絡、通じなかったわよね。偶然、二度とも電池が切れたか何かして繋がらなかったのかしら。それとも……」

「故意に、繋がらなくしてる?」

 自分で言ってみて、少しぞっとする。誰かが谷山に関する全ての通信手段を牛耳っているとするならば、事態は僕たちの思っている以上に偏執的で、怖ろしいものであるのかもしれない。

「かもしれない。どのみち、繋がなくちゃいけないことは確かだから、こっちはもう少し粘ってみる。雪は担任に、裕樹の父親から何か連絡を受けてないか、訊いてみて。もしそうだとしたら、ここに居ることを教えてあげて」

「もし、そうでなかったら?」

 母は僅かに思考を詰まらせた後、はっきり述べた。

「伝えなくて、良いわ」

 どうして、と訊ねる前に、母は辛辣な口調で言い切った。

「一晩行方の知れなかった娘を、本気で心配しない男親なんて、何の役にも立たないに決まってる。或いは……これは考えたくないことだけれど、一晩外泊したくらいじゃ気にも止められないほど頻繁に外泊してるのかもしれない。どちらにしても、娘に気を留めてないということでは同じだから、安易に飛びつくと逆に裕樹のこと、傷つけてしまうんじゃないかって思うのよ。それに……」

 母はまだ何かを話しているようだったけれど、僕の耳には入らなくなっていた。

 分かれば分かるほど、何かが分からなくなっている。確定的であったものが、不確定になっていく。何が本当で、何が嘘で。誰が敵で、どれだけが敵で、何故に敵なのだろう。それが知りたくて、僕は谷山を知ろうとするけれど、谷山は知られることを極端におそれ、かつ拒む。だというのに、自分のことを知って欲しそうな瞳で、僕を見つめてくる。少し薄くて形の良い唇は、時に虚言を紡ぎ、時に惑わし、時には面食らうほど真っ直ぐで、時には甘い言葉を吐き、そして時々はお互いの唇でその感触を確かめあって。それなのに僕は、殆ど何も分かることができない。

 僕は谷山のことが好きで、きっと好きで、多分、好きで……。

 きっと、そのはずだ。僕は、僕は、僕は……間違いなく、谷山のことが好きだ。彼女がどんな女性だって、過去にどんな男性と付き合っていたって、本当は僕以外に好きな男性がいたとしても、それでも、僕はきっと、谷山のことが好きで、きっと好きで堪らなくて。

 本当に、そうなのだろうか? 本当は他の男なんか考えたくもなくて、他の男性のことが好きだったりしたら許せないんじゃないか? 谷山の心が僕じゃない方を向いてしまったら、耐え切れないんじゃないのか? 許せないんじゃないのか? 邪で荒々しくて独占的で、僕はそんな風に谷山を愛し始めてるんじゃないか?

 五月蝿いって、怒鳴られたとき。

 一瞬、心が引き千切られるんじゃないかって思った。それくらい、谷山の拒絶は痛かった。あるいは昨日から降り積もったそれらが、遂にダムを打ち破ったのかもしれない。

 今の僕には、あまり余裕がない。二度と谷山に拒絶されたくない、好意を失いたくないという気持ちが、これまでにないほど膨らんでいる。これまで、幾つかの波があったけれど、僕たちは上手くバランスよく乗ってこれた。でも、今は違う。僕は度違いの波に曝され、身動きを取ることすらできなくなっている。

「だから雪は、裕樹の……って、どうしたのぼうっとして。わたしの話、きちんと聞いてた?」

 唐突に取り戻された聴覚に、僕は驚いてしまい、顔の筋肉一つ動かすことができなかった。

「まあ、わたしの言ったことが信じられないのは分かるけど。でも、多分そうじゃないかって思うの」

 何が信じられないことで、何がそうなのだろう。

「だから雪は折を見て、確かめて欲しいの」

 一体、何を確かめれば良いのだろう。

「嫌なことさせるけれど、お願いね」

 嫌なことって、どんなことなのだろう。

 もう一度、最初から聴き直すべきなのかもしれない。でも、僕は谷山のことが気にかかってしょうがなくて。だから母に適当な相槌一つ打って、自分の部屋に戻った。

 谷山は相変わらず、布団を被って自らの世界に閉じこもっていた。鞄に今日の授業分の教科書を詰め、制服に急いで着替えると、僕は最後に意を決して谷山に声をかけた。

「じゃあ、僕は行って来るから。谷山はゆっくり、寝てて」

 僕の言葉に、沈黙すら何も答えてくれない。秒針が三回転するだけの時間待ってみても何の反応もないので、僕は肩を落として、廊下に出ようとした。声は唐突に、背中越しに響いてきた。

「橘、気をつけて。それと、早く帰ってきてね」

 それだけで、沈みかけていた僕の心は、飛ぶようにして浮かび上がってきた。僕は谷山に拒絶されたわけでは全然なくて。だから、暫くの間はここを離れても大丈夫だ。僕は「うん」と肯くと、母に行ってきますと挨拶をして、家を出た。

 本当は全然、大丈夫なんかじゃなかったくせに。

 大丈夫なふりをして、家を出た。

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