5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【11】

 一人の学校は、随分と久しぶりだった。勿論、周りには三十人を超える同級生がいて、一緒に授業を受けているのだが、僕は彼らを、自分と同じものだと、どうしても思えなかった。だから僕は、大勢の人間がいる中で、やはり一人なのだろう。物事はやけに色褪せて見え、空だけがいつもと変わらず、深く優しい蒼でいた。

 授業中も、休み時間も、ひたすら空を見て過ごした。徐々に移りゆく雲の動き、陽光の変化、時折見られる鳥たち、空を割る飛行機雲。僕を除けば――いや、僕すらも目まぐるしい不偏の一欠けらとして在ることはできない。ただ、それらを垣間見て、憧れ、あるいは思いを馳せるだけ。空を想うということは、永遠の片思いに似ている。

 昼休みになると、購買でサンドイッチと牛乳を買い、席に戻る。いや増す喧騒にも心を奪われることなく、ひたすら食物を頬張り、飲物で流し込む。機械的に物事を推し進めることで、少しでも動揺や寂寥といった感情を抑えようと試みるのだけれど、上手く行かない。やがて僕は観念し、机に突っ伏した。新学期になると、どんなに寒くても教室にヒータは焚かれなくなる。お蔭で足元に淀んだ冷たい空気が、結果として全体を冷やし、眠気を体から奪っていく。どうやら、眠ることもできないようだ。僕は鞄から本を取り出し、目を通し始めた。

 二十分ほど読み続けたところで、五分前の予鈴が鳴ったので、僕は催してきたものを出すため、階段脇にある男子トイレに向かった。幸い、僕の他には誰もいなかったので、気兼ねなく溜息をつくことができた。さて、早く戻ろうと少し足早に動こうとしたとき、遠慮がちな呼び声が僕を捉えた。

「あの……」

 見ると、どうやらクラスメイトの一人のようだった。僕と同じくらい印象が薄くて細い奴と、肩幅が広くて鷹揚そうな表情の奴。どうでも良い用事のようだったら、無言で立ち去ろうとしたけれど、どうやらそうでもないらしい。

「何か、用?」

 少し冷たげに声をかけると、細い体をした――制服を襟元まできちんと着こなしている辺り、相当真面目そうな印象を受ける――クラスメイトが、何か言葉を発しようと、口を開いた。しかし、彼の性格は初対面の人間にいきなり、いけしゃあしゃあと質問できるようには、できていないのだろう。代わって鷹揚そうな奴の方が、溌剌と話し始めた。

「いきなり、あれなこと聞くようで悪いんだけどさ」そういう彼の顔に、遠慮や申し訳なさといったものは微塵も感じられない。「橘って、谷山と仲良いの?」

 いきなりの質問に面食らうものの、直ぐに意図は読めた。要するに、僕と谷山がどこまで進んだ関係かを見極めようとしているのだ。僕は侮蔑をたっぷり込めて、話者を鋭く睨みつけた。しかし彼は、一向に怯む様子がない。もう一人の方に目を向けると、彼は露骨に顔を紅く染め、うつむいてしまう。なるほど、つまり僕と谷山の関係を知りたいのはこちらの方で。もう一人は純粋なのか興味本位なのか、谷山に思いを寄せる友人に助けの手を差し伸べた、といったところだろうか。事が分かれば、全ては瑣末で詰まらない。無視して立ち去ろうと思ったけれど、一つだけ気になることがあったので、それは止めておいた。

 その代わり、別の種類の爆弾をぶつけることにした。

「どうして、谷山との関係がどうだなんて、僕に聞くの?」

 相手は、疑問を呈されるとは思っていなかったのだろう。鷹揚そうな奴も僅かに怯んだ様子で、僕の意図が何であるか読み取ろうと、慎重な言葉を投げかけてきた。

「どうしてって……その、だって毎日のように一緒だし、親密そうだし」

「別に、そういう関係じゃないよ。僕と谷山は、単に凄く気が合う友人ってだけで。そもそもあいつ、うちの高校で別に好きな奴がいるはずだし。だから僕がどんなにアプローチしても、無駄なんだよ」

 勿論、それは嘘だった――あるいは嘘と信じたい――けれど、相手は谷山のことを表層しか知らないので、容易く疑問の渦に巻き込まれてくれた。

「それ、本当なの?」

「うん、そうだけど。二人は何も聞いたことない? 谷山と付き合ってる男の噂」

 二人は暫く顔を見合わせ、互いの考えを無言のままやり取りしていたが、やがてほぼ同じタイミングで、首を横に振った。どうやら魚を釣り上げることはできなかったようだ。

「知ってたら、橘になんか聞かないよ」

 僕になんか、か。どうやら相手は僕のことを、そんなに好きじゃないらしい。まあ、良いけど。僕は、だから望み薄だよとだけ告げ、教室に戻った。

 昼の授業を空疎に過ごし。放課後になると、笑顔で下校する生徒を出来得る限りで観察し、部活動を一巡りしてみたけれど、写真の中で谷山と親しそうに寄り合っていた男子生徒と合致するものは見つからなかった。写真の比率を信じるならば、背丈は僕より少し高いくらい、薄い銀縁フレームの眼鏡をかけていて、髪は清潔に撫で付けられている。肩幅や体つきは割合しっかりしていて、どこかの運動部である可能性を窺わせる。だから、もっとも目を光らせてみたのだが……。

 もしかして、既に高校を卒業した生徒であるということは考えられないだろうか。いやと、僕は首を振った。何故なら、僕は写真の男を確かに、どこかで見たことのあるような気がするからだ。

 今日はたまたま休んでいて、学校に出てきていないのだろうか。あるいは……もしかすると、遊びでうちの高校の制服を着ているだけかもしれない。何故なら、写真の中で谷山はうちの制服ではなく、23日の夜に着ていた、隣町の女子高の制服であったからだ。しかし残念ながら、僕には他校の友人も知り合いも沢山はいないし、思い当たるものには既に心の中でバツを付けてある。

 どうやら八方塞がりのようだった。

 そもそも、あの写真は何を意味しているのだろう。

 幸せの象徴みたいに見えた、あの写真が、本当に谷山の不幸の一端を担っているのだろうか。考えるたび、自信が無くなっていく。

 何をどう、信じれば良いのだろう。僕はどこまで、谷山に干渉して良いのか、何から守れば良いのか。未だに理解することができていない。街中で他校の制服を着ていた谷山、僕との出会い、その夜に中年男性らしき男性と歩いているのを目撃され、そしてクリスマス・イヴ。僕たちは互いを想い合うことを知り、ずっと幸福に過ごしてきた。春休みが終わり、新学期がやって来る。谷山の唐突な変化、母親からの虐待、鞄の中に入っていたツーショット写真――そこには谷山と見知らぬ男子生徒が写っている。

 これらを一本に繋ぐ事象とは、一体何なのだろう。

 謎は深く、真実を垣間見ることを、僕に許さない。

 

 放課後になると、僕は担任に、谷山のことで家族から何か連絡がいってないか、暗に訊ねてみた。彼は、どうしてそんなことを訊くのかと訝しんでいるようだったが、正直に教えてくれた。

「いいや、本人から、今日は体調が悪いからって連絡があっただけだな。これまで学校を休んだことなんて一度もないし、珍しいなとは思ったけどな。そういや昨日は遅刻したけど、その時にはもう、体調が悪かったのかもな」それから担任は僕の目を、じっと見据えてくる。「橘はその辺のこと、何か知らないか?」

 いきなり質問を振り替えされ、僕は強く戸惑ってしまった。

「どうして僕に、そんなことを訊くんですか?」

「だって、橘は谷山と仲良くしてるじゃないか……別に隠さなくても良い。わたしは、校則で男女間の交際はどうこうだなんて、無粋なことは言わないから。で、どうなんだ?」

 目を細め、どこか昔を懐かしむ様子から、教師らしい厳しさや指導的空気は感じられない。だからといって、僕が正直に何もかも打ち明ける義務はない。心は痛むけれど、だからといって教師を信頼するということとは別問題のはずだ。僕は黙って首を横に振った。

「昨日は体調が悪いとか、そういうことは一切ありませんでした。もしかしたら僕が、見逃していただけかもしれないですが」

 担任は黙って僕の言葉を咀嚼し、少ししてから「そうか……」と、感慨深く呟いた。僕はその表情から何か嘘が読み取れないか試したけれど、何か隠しているということはなさそうだった。つまり、谷山の父親は娘の不在に対して少なくとも、学校には全く連絡を入れていないということだ。それが分かれば、十分だった。

「では、僕はこれで失礼します。あの……私事で時間を取らせてすいませんでした」

「別に構わないよ。生徒の私事都合に耳を傾けるのも、教師の仕事だからね。何か困ったことや相談したいことがあったら、気軽に尋ねてきなさい。勿論、男女関係のことでも構わないぞ」

 そう言って、からからと笑って見せる。僕は三学期のときにあった、谷山に対する追求の件があってから、あまり担任に良いイメージを持っていなかったのだけれど。それはもしかしたら、了見の狭い捉え方だったのかもしれない。僕はお礼の言葉を述べようとしたのだが、不意に笑い声がぴたりと止んだので、飲み込んでしまった。

「誤解のないように言っておくと、わたしは割と本気で言ってるんだ」彼はそう申し置いてから、思考を逐次言葉にするような、訥々とした喋り方で、思いを語り始めた。「谷山は、橘と付き合いだしてから、随分と明るくなった。態度こそ変わらないけれど、雰囲気が随分と柔らかくなったし、その……危うくなくなったというべきなのかな」

 そうなの、だろうか? 僕と一緒にいることが多くなってから、谷山の危うさは嫌というほど身をもって味わっている。確かに僕は、ほんの少しだけでも支えとなっているかもしれないけれど、壊れやすさという本質は何も変わっていないような気がする。

「わたしは一年の頃から、彼女のことはどことなく危惧してた。成績は抜群に良いし、問題行動も一切起こさないから、優等生に見えるけれど、どこか……危うい感じがしてな。硝子細工のように、少し力を加えただけでも無残に壊れてしまいそうな。上手く言い表せないのがもどかしいんだが。橘も多分、分かってるんだろう?」

 僕は肯いてから、担任が思いのほか正確に、谷山を捉えていることに驚いた。しかし、そのことが分かっていても、実際に何を相談するべきなのか。何があったとき、頼るべきなのか、僕には分からない。結局のところ、僕は谷山について何も知らないも同然なのだから。

「だから、何かあったら遠慮するんじゃないぞ」

 何かあったら。でも多分、何かあった時には、谷山はもう終わってるんじゃないかって気がする。だから、僕も担任も快い顔はできなかった。僕はさっと頭を下げ、逃げるようにして職員室を後にした。

 

 家に戻ると、中に誰もいないのか、入り口が施錠されていた。僕は持っていた鍵でドアを開け、ゆっくりと中に入った。ただいまと声をかけても、誰も出てこない。念のため、総ての部屋を回ってみたけれど、洗濯物や布団がベランダに干してあるのを発見できただけで、他には何もなかった。

 僕は何も敷かれていないベッドに横たわり、スプリングの感触を身体に染みこませていく。そして今更ながら、強い内省が沸いてくる。僕は一体、何をやっているのだろう。谷山のことを疑って、嘘をついてまで探りを入れようとして。知られたくないって言ってたのに、簡単に分かられたくないって言ってたのに、僕は谷山のことを影でこそこそ知ろうとしている。

 もっとも、知ろうとしたにも関わらず、何も知ることができなかったのだけれど。

 いや、谷山自身のことではないけれど、いくつか分かったこともある。少なくとも自分以外に一人以上、谷山を好いている人間がいるということ。担任は長い間、谷山の在り方を危惧していたということ。前者は僕にとって何の助けにもならないけれど、後者はもしかしたらいざというとき……。

 待て。

 いざという時とは、一体何だ。僕はどうして、そんなことを思う?

 もしかして僕は無意識の内に、取り返しのつかない事態が起きることを、感じてしまっているのだろうか。僕は心の奥から、それを取り出したいと渇望した。けれど、答えはいつまで経っても浮かび上がってこなかった。

 そのとき丁度、玄関で「ただいま」と声がしたので、僕は思考を中断して、迎えに出た。そこに谷山の姿はなく、買出しの荷物をもった母がいるだけだった。

「お帰り」

 僕は荷物を受け取り、ダイニングのテーブルに置いた。

「ところで、谷山はどうしたの?」

「うん、裕樹なら昼前に、家に帰ったわ。私は少し休んでいきなさいって言ったんだけど、もう大丈夫だからって。ごめん、無理にでも引き止めたほうが良かった?」

「いや、また明日も遭えるだろうから、別に良いんだけど」

 何故だろう……心が妙にざわざわしてしょうがない。どうして僕は、谷山の不在を不安に思うのだろう。

 そうだ、確か谷山は今朝、家を出るとき、僕に早く帰ってきて欲しいと行ったのだ。それはつまり、僕が帰ってくるまでここにいるということで。それなのに今、谷山はここに居ない。

 何か、谷山の考えを変える出来事が起こったのだろうか。

 それとも、単にうっかりしただけなのだろうか。

「ところで雪、担任の方には何か届いてた?」

 母が、朝訊ねていたことの答えを聞こうとしてくる。僕は小さく首を振り、溜息のように言葉を返した。

「谷山の父親からは、何も連絡が言ってなかった。もしかしたら、警察には連絡しているかもしれないけど」

「それは無いわ。警察に問い合わせてみたけれど、裕樹への捜索願は出てなかった。つまり、父親は何処にも何も打診してないってこと。どうやら、そういう親みたいね。もしかしたら、忙しくて確認を取る暇すらなかったのかもしれないけれど。どちらにしても、娘にロクにかまけていないという点では、同じだわ」

 母は憤然とした調子を抑えるために深呼吸し、更に言葉を続ける。

「だからね、やっぱり裕樹はわたしたちが守らないといけないの、分かる?」

 そんなの、ずっと前から分かってた。谷山には少なくとも、安全な逃げ場が必要なんだって。そして多分、逃げ場はここしか無いんじゃないかって。

 僕と母は肯き合い、お互いの意志を再確認した。

 それから僕たちは、谷山の帰還を待った。しかし、夕食の時間になっても戻ってくることはなかった。あるいは夜遅くになって、ひょっこり戻ってくるのではと期待したのだけれど。日を超えても、谷山は戻ってこなかった。

 よく考えれば、別にそれほど逼迫した状態ではないのかもしれない。しかし、その時の僕は、一刻も早く谷山に出会わないと、大切な何かが壊れてしまうような気がした。眠りに落ちてしまう自分を叱咤しながら、シャープペンシルの先で手の甲を何度も突付きながら、今日が続くことを自らに強制する。眠らなければ明日は来ない、明日が来なければ、明日さえ来なければ……。

 こつん、と音がしたのはその時だった。

 続いて、こつこつとノックするような音。僕は思わず玄関まで駆けていき、夢中でドアを開ける。

 そこには、息をきらして声を発することすらままならぬ谷山の姿があった。まるで何か恐ろしいものから、全速力で逃げてきたような、そんな有様で。

 苦しげで、怯えていて、今にも壊れてしまいそうで。

 もしかして、彼女を壊す何かが、襲い掛かってしまったのだろうか?

 いや、まだ谷山は壊れていない。必死で走って、ここまでやってきた。だからまだ、大丈夫なはずだ。

 僕は何度も自分に言い聞かし、谷山を家に招きいれた。

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