5 慟哭の瀬、あるいは小さな世界の終焉【12】

「谷山……」

 どう言葉をかけて良いか分からず、挙句の第一声は、ただ名前を呼ぶだけのものだった。それでも、虚ろな瞳をした谷山には有効だったらしく、僕の存在を見据えたかと思うと、次には縋りついてきた。それから声を押し殺して、小さく嗚咽し始めた。

「もう……嫌だ、あんなの、もう、我慢できない」

 胸の中で、谷山はいやいやするように、首を強く横に振った。

「嫌なんだよ、苦しいのも痛いのも悲しいのも辛いのも、何もかも嫌なんだよ」それから谷山は僕を仰ぎ見て、苦笑するような表情を浮かべた。「分かってる、誰もが皆、苦しいことを抱えてるのに、自分だけそういうのが嫌で、避けたくて、逃げたくて、幸せな誰かに頼り切る……そんなことしちゃいけないんだって」

 そんなことはない、と言ってあげたかった。でも、覚悟のない一言は逆に谷山を傷つけてしまいそうで。僕は柔らかく滑らかな髪に覆われた頭を、撫でることしかできない。暫くそうしていると、谷山はようやく落ち着いてきたのか、途切れ途切れながらも話を続けていく。

「でも、我慢できなかったんだ、舌を噛み切って死にたくなるくらい、駄目だったんだ。私は弱くなってる、ちょっとした痛みすらも、私を傷つける。そして、一度ついた傷はずっと血を流し続ける。その痛みから逃れたかった、苦しまないでいる場所が欲しかった。だから私はここに来たんだ、たった一つの信じられる場所だから」

 谷山は紅く泣き腫らした瞳を、無垢な在り方で向けてくる。僕にはたじろぐ暇すらなかった。

「だから、ここに居させて――ううん、ここじゃなくても良い。私と橘と、令子さんと。三人で一緒に、平穏でいられるなら何処でも良い。私を二人の側にいさせて。暖かく微睡むことを、私に許して。理不尽なことで傷つかないでいられることを、私に許して」

 幾つものお願いと許しを請う声が、僕の中に積み重なっていく。その一つ一つが、背負うに難い程の重さを持っており、だから僕はその中で圧し潰されてしまうのではないかとすら危惧した。でも、心の重さは決して肉体の重さを潰さない。心の重さは、ただ心だけを容赦なく潰し。そうして、潰れた後の心は一体、どうなってしまうのだろう。考えたくも無い――でも、考えなくてはいけない。

 先ず、谷山を招き入れることが先決だった。兎に角、上がってよ声をかけ、ダイニングの椅子に座らせた。心を落ち着けるならば、紅茶が良いだろうか。小説ではよく、ブランディを混ぜた紅茶を気付けに振る舞っている。だが、うちにはそういう気の利いた酒精の類は置いてないし、置いていたとしても分量よく手際よく、用意するなんてできなかっただろう。

「どうする、母さんも起こしてきた方が良い?」

 これからの将来に関わることならば、どのようなことにしても、僕一人の胸に秘めておくことはできない。ならば、三人で真剣に話し合ったほうが良いのではないかと、僕は思ったのだ。しかし谷山は、大きく首を横に振った。

「多分、そうしなきゃいけないんだろうね。でも……正直いうと、自信がないんだ。ありのままを打ち明けて、それでも私は、受け入れられるのかなって。それに、いきなりだと上手く話せないかもしれない。だから先ず、橘が聞いて。そうすれば、次はきっと、理路整然と話すことができるだろうから」

 谷山は真剣な眼差しで、僕を惹き付けて離さなかった。そしてもし、どんなに彼女が離れたいと願っていても、僕は側にいることをやめなかっただろう。それくらい、この部屋に満ちる引力は強かった。

 その告白は唐突に始まり――。

 

 

 そして唐突に終わった。

 衝撃は加速度的に強まり、全てを縮め、圧し、崩していく。いくつもの希望が崩れ、抑圧され、喜怒哀楽すらも幻想と化し、後には純粋な絶望が残る。

 谷山がその日、僕に語ったこととは、即ちそういう類のものだった。

 まるでこの世界には、光がまるでないと錯覚しそうになるくらい、谷山は己が身に降りかかった様々な出来事を、暗く紡いでいった。

 僕にとって一番衝撃的だったのは、僕の想像したいかなる陰惨なる暴虐にも増して、それは暴虐的だった、ということだ。あるいは、僕にもう少しだけ、暗黒を見通す力があれば、もっと早く谷山が出していたサインにも気づけたかもしれない。しかし、現実にもしもなどという希望――あるいは絶望――は存在しない。過ぎた時はただ一つの現実としてだけ留められ、未来もまた然る。とすれば、僕たちにできることは、じっと前を見据え、より良い道を歩んでいくことだ。しかし、今の僕には歩むべき明日が見えなかった。見ることができなかった。その代わり、僕は谷山を見る。全身が小刻みにぶるぶると震え、瞳はどんな改悛者もかくやと言わんばかりに潤み、頭を額につけんばかりに項垂れて――谷山はその告白によって、自身も酷く傷つけられ、打ちのめされていた。

「私、前に話したよね。地獄に堕ちるべき、私の罪を」

 救い切れない嘘と、おぞましい姦淫――確か、谷山は僕にそう言ったはずだ。

「今なら分かるよね、私が何を隠してきたのか、何をされて来たのか。嫌なくらい分かるよね、どうしようもなく卑劣で、穢れている私のことを。白い服をあっという間に、どろどろに汚してしまうくらい汚れた私のことを」

 谷山は両腕で自らを包み込むように抱きしめ、震え始めた。

「こんなの嫌だよね。ごめんね、こんな私でごめんね。汚れてることを隠したまま、抱きしめたりキスしたりしてごめんね。肌を重ねたりしてごめんね」

 歯をかちかちと鳴らし、目頭からは涙が溢れるように流れている。制御を失った機械が、最後の一振動をするかのように、谷山の動きはぎこちなく、それ以上に心がぎこちなかった。

「本当にごめん……ごめん、なさい」

 僅かに頭を下げると、谷山は崩れ落ちそうなくらい、前に傾いた。僕は慌てて体を支え、僕の中に招き入れた。

「良いよ」

「良いって、何が良いの? 橘は私の何を、良いと思ってくれるの?」

 疑わしげに臨む谷山の耳へ、僕はそっと語りかけた。

「自分を責めなくても良いってこと」

「嘘……そんなの、嘘だ」

 抱きしめる手の中で、谷山は何度もいやいやするように、首を強く横に振る。

「だって私、私は、酷い、ことを……」

「違うよ。谷山は僕に酷いことなんて、何もしてない。いつだって、どこでだって」

 行動で、言葉で否定できないように。私は谷山の頭を更に強く抱きしめる。

「寧ろ、謝るのは僕の方で。谷山の本当に辛い部分、気付いてあげられなかった。勿論、知って欲しくないって、谷山が願っていたのは分かってたけど。でも、本当に相手のことを想っているならば、分かっていて敢えて知らない振りして、当然のように全てを受け止めるとか、そういうこと、できなくちゃいけなかったのに」

 それだけのヒントは、十分にあったのだ。今にして思えば、細かい疑問点や谷山の不安、奇矯な行動の殆ど全てが、それを示していたような気がする。それなのに僕は、苦しみをその場限りの言葉で励まして、いなして、元気付けたなんて、思い込んで。涙が出そうで……実際、何滴か零れ落ちていたかもしれない。

「だから、僕の方こそごめん。何の力にもなれてなくて」

「そんなことない!」

 谷山は僕の腕を強引に振り解き、唾の飛んできそうな勢いで捲くし立てる。

「お願いだから、そんなこと言わないで。だって私、いつも橘に力を分けてもらってたんだよ。苦しくて、押し潰されそうで、でも自分を潰そうとする何かをはねのける力なんてなくて。そういうとき、橘と情を交わして、好きになって、相手のことが分からなくて、それでも好きにならずにはいられなくて。他の誰もが私を拒んでも、それでも橘は受け入れてくれるって、不思議なくらい信じられたから、だから……私は今日まで生きていられた、生きていられたんだ!」

 悲痛な叫びのあと、音の波が途絶えたかのように、辺りがしんと静まり返る。

 と。

 唐突に、谷山の顔が笑みに変わった。

「だから、うん。私、卑怯な訊き方だったね。橘が全部受け入れてくれるって分かってたから、自分を悪く言って、それで許してもらって、心が休まることを手に入れようとしてた。でも、それじゃ今までと同じだよね」

 どこか前向きめいた、しかしどこにも焦点のあってない瞳。まるで何かに憑かれたかのような、どこか吹っ切れた表情。

 吹っ切ってはいけないものまで吹っ切ったかのような、無機質な……。

「私は、それが嫌になったの。気休めみたいな癒しなんて欲しくない。だからもう、ここから離れたくない。ずっとここに居たいの」

 谷山は完璧な笑顔を浮かべ、僕にそっと顔を近づけた。

「良いよね?」

 僕はきっと、即座に肯くべきだったのだろう。しかし、谷山の表情や感情の変化が余りにも急激で。直ぐには答えを返すことができなかった。

 谷山は、深い瞳を僕の中に映し、いつの間にか真摯な表情を作っていた。綺麗な顔立ちなだけに、その精巧さと魅力は恐ろしいほどで。僕は思わず、唾を飲み込む。すると、柔らかで小さな唇が、硝子のように動いた。

「もしかして、嫌なの?」

 その一言が、余りにも悲しみに彩られていて。僕は、少しでも躊躇った自分が許し難いもののように思えた。悲しみの表情よりも苦しみの表情よりも、無表情な谷山は、あってはならないものだ。そうさせてはいけない。

 谷山の顔を崩したくて、僕はそうっと顔を寄せ、静かに唇を重ねる。頬の辺りが微かに朱を帯び、柔らかい表情に変わる。何度も何度もお互いの感触を確かめて、近づいたときと同じように離れる。

 肉体的な距離が十分になったとき、心の距離は二人の間にもう、存在しなくなっていた。

 瞳が揺らぎ、体が揺らぐ。

 僕たちは……。

 

 

 目が覚める。

 ここは、どこだろう……新幹線の中?

 そうだ、勿論その通りだ。

 どうやら思索に耽っているうち、いつの間にやら眠り込んでしまったらしい。

 幼い頃の夢、未熟な自分。

 しかし、どんなことがあっても枯れ切らない力と、他者への想い。

 何もかも捨てて、誰かを愛することができた自分。

 今はもう、ないものたち。

 悲しくなる。

 わたしがこれから向かう場所は、かつて愛しきものだったものだけでなく。

 かつてわたしが持っていた輝かしい全てを、埋葬するところであるからだ。

 それでも、わたしは向かわなければならない。

 

 さて、まだ目的地まであと一時間半ほどある。

 眠るべきだろうか、起きているべきだろうか。

 過去に続きを求めるべきだろうか、現在に続きを求めるべきだろうか。

 暫し迷った末、わたしは後者を選んだ。

 敢えて悲しいことを、追体験する必要はない。そんなこと、したくない。

 だからもう、過去の話は終わり。

 どんなに理不尽で、中途半端だったとしても、これ以上の過去は思い出したくない。

 これからも、思い出すことはないはずだ、きっと……いや、多分。

 もしかしたら、思い出すことがあるのだろうか?

 しかし、それは今ではない。

 必要なとき、必要な場所で。

 だから今は、現在の物語を。

 わたしに必要なのは多分、それだから。

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