6 墓碑の国、あるいは救いきれないもの 【2】

 夕暮れ時に、うっすらとした死を嗅ぎ取るなんて、何年ぶりのことだろう。行き交う学生の後姿から、次に自転車でそれぞれの我が家へと急ぐ子供たちから、わたしはそれを感じてしまう。そして、窮屈そうにスーツを着こなす大人や、苛立 たしげに車を吹かす若者、杖を付きうっそりと歩く老人からは、何も感じない。

 最早、死は年老いたものから順番にやって来るものでは無くなってしまったのだろうか。若いものから、何の経験もない順番に、朽ちてしまう世の中になったのだろうか――きっとそうだろう。今の子供たちに、蓄えは一切残っていない。国家財政は数年前、決定的な破綻を来たした。国の重鎮は悪びれることなくそれを言い放ち、国民は気だるげにそれを受け入れた。勿論、抗議を行った人間がいないわけではない。マスコミは連日のようにキャンペインを組み、国民にもっと総出をあげて怒るよう、煽り立てた。怒りが波のように満ちるよう、国を揺るがすほどになるよう、声を張り上げ続けた。そして国を真剣に憂う人間も確かにいて、大きな輪がぐるりと、国会議事堂の周りを取り囲んだ。当時、刑務所で服役中だったわたしは、日本にもまだ、これだけの怒りが眠っていたのだと、感心したのだが、それも一ヶ月ほどで霧のように消えた。仕様がないの一言で、国家の破滅すら、容認されてしまったのだ。

 これからこの国は、外資によってバラバラに解体されてしまうだろう。早ければ再来年にも、日本は先進国の位置付けから外されるかもしれない。

 子供たちに見えるのは、無気力で不安げな表情ばかりだ。対して大人たちは、同じく無気力かつ不安ではいるけれど、しかしどこか安堵も浮かべていた。何か決定的なことがあったけれど、俺たちはぎりぎりでそれから免れたのだと。

 死するものと生するもの――二つを分けたのは一体、何だったのだろう。国民の政治への無興味? 政治家たちの無策? 官僚主義の窮極? いや、どれも違う。自分だけは助かりたいと願い、その力があったものとなかったもの。ただそれだけが、二つを分けたのだ。

 死者はこれからますます増えるだろう。それ以上に、生ける屍は増えるだろう。それともわたしが気付いていないだけで、この街は既に生ける屍だらけなのかもしれない。少なくとも夜、街をうろつくのは危ない。国家公務員にまともな給料が払えなくなって暫し、警官なんてあてにならない。寧ろ彼らに金を落とす人間のために、権力を振るう可能性だってある。現に隣町で起きたマフィアの抗争だって、警官が堂々と前に立って、拳銃をぶっ放していたというではないか。

 夜はもう、安全ではない。昼すら、確かではないのだ。鉄橋の向こう、山の頂に、紅い太陽は確かに沈もうとしている――もうわたしのような人間が、表立って歩いていられる時間は終わりを告げた。

 あと十年もすれば、人々は語るのだろうか。日本にはかつて、経済大国と呼ばれていた時期があった。黒字に唸り、世界各国に援助金をばら撒いていた。ロケットを自前で打ち出すくらいの金があったし、世界一安全で、水はただ同然だった。スイッチ一つで電気が通い、ガスも思い通りに出てきたと。

 あるいはそれさえも、何をそんなファンタジー抜かしてるんだと、否定されてしまうかもしれない。これから日本が向かおうとしているのは正に、そういう道だ。

 わたしの足取り同様、この国もまた覚束ない。立っていられるための力を、根こそぎ奪われてしまった。

 そしてもう自らでは、涙を流すことすら、できないのだ。

 

 確実に店舗の減りつつある商店街を抜け、管理するものがなく、荒れ放題となった市民公園の前を通る。そのとき、フェンスに人間が叩きつけられる音と、拳が頬に打ち下ろされる鈍い音が聞こえてきた。辛うじて明滅する蛍光灯が、そのシルエットを残酷に浮かび上がらせた。三人の若者が、一人の少女を追い詰めていた。

 ここで足を止める謂れなどなかった――どのみち、わたしには何もできない。これまでにも、他者が苛まれていたのを無視して通り過ぎたことは、何度もあった。いちいち心を痛めていてはたまったものじゃない。それでもわたしは、心を傾けずにはいられなかった。

「あれっぽっちのことしかやらないで、それで金を取ろうってのか?」

 下卑た声だった。何をやらせていたのか、容易に分かる。声をかけた男は、ごつい手で彼女の腕を掴み、獣のように目を爛々と輝かせている。切実に何かを求め、それが叶わぬならば全てを壊してしまう――そんな泥臭い狂気に捉われている。

 彼女は微かに震えながら黙っていたが、意を決したように顔を上げ、何かの言葉を――小さくて良く聞き取れなかった――三人に投げかけた。男たちの顔は蒼ざめすぐさま紅潮し、遂には剥き出しの敵意を込めた表情に変わった。刹那、鈍い音と共に、人間の体重を受け止めたフェンスがいななく。彼女は右頬を押さえながら、地面に蹲った。続いて繰り出される拳と蹴り。どこを狙うでもない、無秩序で醜い暴力の嵐。彼女は背を丸め、必死で耐えていた。見ているこちらが吐気を催すような一方的さに、目と耳を塞いでしまおうと考えたが、小さく首を振って留めた。自分でもよく分からないが、わたしは見届けようとしているのだ。ならば目を、心を背けることがあってはいけない。

 幸い、男たちの息はみるみるうちにあがってきた。どうやら彼らは喧嘩慣れしていないようで、ロクに人を殴ったこともないらしい。拳を酷く痛め、熱も急速に冷めつつあった。暴力は、映像や小説で表現されるように容易くはない。格闘家が長時間の戦いに耐えられるのは、肉体的に鍛えられ、精神的に研ぎ澄まされ、あらゆる方法論と科学で保護されているからであり、本当は振るった者にも等しい痛みが返ってくる。

 三人組はとうとう息も絶え絶えとなり、立ち尽くすだけとなった。彼女はといえば、未だに蹲って大きく震えている。その無様な姿に心満たされたのだろう。彼らは悪態をつきながら、早足で去っていった。わたしは彼らの姿が闇に紛れるのを確認してから、急いで駆け寄った。

 頭を強く打たれているかもしれない。なるべく動かさないようにして、わたしは彼女の容態を見た。すると、表面上は酷そうに見えるものの、その実致命的な一撃は食らっていないことが分かった。見事な急所の外れように、彼女がこのような修羅場を同じようにして何度も切り抜けたことがあるのだと理解する。顔も最初に受けた右頬の一撃と数撃程度で、骨が折れたり歪んだりということはない。痣は暫く残るかもしれないが、容貌を損なうことはないだろう。

 そこまで容態を見て、わたしは初めて彼女の顔をしっかりと見ることができた。ところどころ青痣ができたり膨れたりしているが、それでも顔の線は細く、整っているのがよく分かる。薄手のブラウスの上からカーディガンを羽織っており、白のラインを絞ったパンツを穿いている。土と埃に塗れ、薄い色の上下は小汚い茶色に塗れている。と、彼女の目が大きく見開かれる。片方が腫れているため、痛々しさが余計に伝わってくる。

「なに、してんの」

 容姿に似つかわぬ、低くしゃがれたような声だった。

「怪我してるから、大丈夫かなと、様子を見てた」何か取り繕おうと思ったが、別に悪いことをしているでもなし、相手に無駄な不安を抱かせるのもことだろう。わたしは正直に話すことにした。「別に何かしようと思ってたわけじゃない」

「どうだか」彼女は半分塞がった目を更に細め、わたしを睨みつけた。「いかがわしいことをしようとして、いきなり目が覚めたから、ばつが悪くなって言い訳したんじゃないの?」

 そんなことはない! 咄嗟に激情が口を飛び出そうとした。しかし、声を荒げれば、例えそうでなくてもそうであるのと等価になってしまう。わたしは冷た過ぎない程度に、突き放した言葉を返した。

「そう思いたければ、思えば良い」

 彼女は目をぱちくりさせた。それからわたしを、不思議な生き物であるかのように、じっと見つめてくる。それから少し考える仕草をし、探り気味に問いかけてきた。

「じゃあ、なんで話しかけてくるのさ。あたしになんか求めること、あるんでしょ?」

 求めること――そんなのわたしが知りたかった。そもわたしが何故、足を止めたのか、論理的な説明をわたしはまだ導き出せていない。一層のこと、彼女に聞きたかった。しかしそれでは、彼女を混乱させてしまうだけだろう。

 だからわたしは、悪意のない嘘をついた。

「困ってる人間を助けるのは、当然のことだ」

 自分でも白々しいのは分かっているけれど、分かりませんと答えるよりはましだろう。そう考えていたのだが、彼女は突然、弾けたように笑い出した。その勢いがあまりにも強いものだから、わたしは少し憮然としてしまった。

「あっは、はは……ごめ、んね。今時、困っている人を助けたいなんて、そんなこと言うひとがいるとは思わなかったから。貴方、どこの化石人? みたいな。いや、うん、凄いな……あははは」

 わたしはそんなに可笑しいことを言っただろうか……いや、言った。この時世、困っている人がいるから助けるなんて、僕は魔法が使えるんですくらい、荒唐無稽かもしれない。彼女はまた一頻り笑った後、徐に立ち上がり、膝をぱんぱんと払った。

「じゃあ、あたし、行くね」

 彼女はわたしの方を向き、痣と汚れで歪んだ顔を、精一杯の笑顔にした。理不尽と屈辱に塗れていたが、それでも彼女の笑顔は凛々しく、そして魅力的だった。踵を返し、足早に立ち去ろうとする。わたしは何か中途半端なものを感じながら、彼女が無事であることにほっとしていた。わたしが覚えた些細な感情の正体は遂に分からなかったけれど、きっと知らないほうが良かったのだろう。

 ふと、人影が揺らぐ。どさ、と鈍い音。まさかと思い駆け寄ると、彼女は気を失っていた。本当は辛くて堪らないのに、元気な振りをしていただけだったようだ。詰まるところ、わたしのことなんてこれっぽっちも信用していなかったのだろう。さもありなん。わたしが彼女でも、同じ行動を取ったろう。

 彼女をどうしようか少しだけ迷ったけれど――あるいは迷ったふりをしただけかもしれない――、やはり放っておくことはできなかった。このままにしておくのは目覚めが悪いということもあるだろう。困っている人間を助ける、そんな簡単なことを否定されて悔しいというのもあるかもしれない。

 わたしは彼女を背負う。彼女の家族、知り合い、そして何よりも彼女自身――確かめなければいけないことは沢山ある。しかし今は、安息できる場所を求めるべきだ。夜は刻一刻と深まりつつあり、わたしや彼女のような人間が安全でいられる時間はとうに過ぎている、急がなければ。

 街灯が疎らに瞬く道を、急ぎ足で進む。彼女はぞっとするくらいに軽く、抜け殻のようだった。

 不意に、思い出す。

 あの日も、そうだった。ぞっとするくらいに軽い裕樹を背負って、雪の降る街を歩いた。染み込むような冷たさを肌に感じながら、一歩一歩。熱を帯び、うわ言のように呼吸する裕樹は、この世で最も弱い生き物のようだった。

 それに比べれば今、背に負う彼女には、強さを感じる。

 彼女――。

 そう言えば、彼女の名前すらまだ、知らないのだった。

 わたしは苦笑する。

 恐れることはない。裕樹と彼女では何もかも違う。

 だから、何も起こったりはしない。

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