あたしが中学二年生の頃だった。

 例年になく気合の入った催し物の企画と反比例するかのような責任感のなさが、一部の生徒に過大な皺を寄せていた、あの頃。企画の主催者であるあたしとその友人は、毎晩遅くまで残り、迫る時間に追われながら準備を続けていた。

 いつだったかは覚えていない。さして重要でもない気がする。

 流れ星がすーっと、空を駆けて行くのを見た。

 まるで星空が流す涙のようだ――。

 などと格好の良いことは思わず、あたしはただ例の迷信に心を捉われてしまったのだ。即ち、流れ星が流れている間に願いごとを三回言えば、叶うというあの迷信に。

 もう文化祭のことを忘れて、あたしと友人は星だけを見ていた。

 そして、その時はやって来た。

 星は再び流れたのだ。

 しかし、三度も願いを言うなんて無理だった。

 舌を噛みそうになりながら二回目のお願いの途中で星が消えたことに気付き、揺り返すように失望感が襲ってきた。

「もうっ、こんなこと言い出したの誰よ。あんな短い間に願いごとを三回言うなんて、無理に決まってるじゃない」

 と、その時。

 友人がくすくすと笑い出したのだ。

「なあんだ、とっても簡単なことじゃないですか」と。

 あたしには信じられなかった。そんな簡単に実現できるとは、どうしても思えなかったのだ。現実に可能な解があるとは思えなかった。それこそ奇跡が起きるか、魔法でも使わない限り、不可能なことではないか――。

 でも、友人の答えは――。

 奇跡でもなく、魔法でもない――。

 それは、ただひとつの、ふたりの――。

STARS OF TEARS

 しとしとと。肌にまとわりつく小雨が、服を濡らす。顔にもワイパが付いていれば良いのにと思う程、微細に貼りついた水滴が視界を遮り、不愉快だった。傘を差しているからこそ余計に苛々が募る。役立たずな、レモン色の野暮ったい傘め――一層、投げ捨てて思い切り、駆け出してやろうか。一瞬、本気でそんな考えが浮かんだ。でも、結局は自分が困るのだ。彼女はぐっと堪え、目的地向けて歩き出す。その向かう先が、問題だった。

 手入れされていないのか、雑草ばかりが生い茂る名も無き空き地。まるで無名の画のよう。通り過ぎるものの殆どは心にもとめないし、とめたとしても直ぐに忘れてしまうくらい、印象の薄い場所だった。秘密基地にできそうな土管も、かじって直ぐ吐き出すような渋柿も生えていない。近くに雷を落とす老人もいなければ、壁には落書き一つもない。そこには何もない、誰もがそう口を揃えて言う場所。訳の分からないことに、彼女が訪ねるのはそんな場所に魅入られてしまった無二の友人であった。

 夏の終わり、身を疎ましく冷やす秋雨がささやかに身を乗り出す季節。故に彼女は毎日、その空き地へと通っていた。その友人は雨の日、時間があれば必ずそこにいる。健康だろうと風邪をひいてようと、満腹だろうと空腹だろうとだ。少女はそれを止めさせたかった。彼女は言う。そこはある男性の消えた場所だと。そしてその男性のことを自分も知っている筈だと。冗談ではない。彼女は首を振る。友人の側にいた男など、自分は知らない。そんな奴がいたら、真っ先にちょっかいを出しただろう。大切な友人の天秤につりあう男かどうか、細に穿ち観察したに違いない。結果的には強く心に刻まれて然るべきだった。

 しかし、彼女にはそんな男のいた記憶などない。健忘症? 冗談ではない。一人だけが覚えていて他の人間が忘れてしまう、そんな健忘症がある筈もない。伝染性集団健忘症? そんな症候群、聞いたことない。常識的に考えれば、答えは一つだった。友人は夢を見ている。起きていても眠っていても、夢を見ているのだ。少年の夢を見ている。俯きがちな心を融かし、射止め、包み込んでくれる優しい少年の存在する――という夢を。白昼夢は雨と共に来たり、青空と共に去る。彼女は、雨がなるべく降らないことを祈る。照る照る坊主に願をかけるなんてもう、恥ずかしくてできない。だから、何かに祈った。願いを聞き届けてくれるものなら、何でも良い。悪魔でも、魔王でも良いから――。

 その結果がこれだ。不定な空、湿気を帯びた空気、舞い散る水の欠片、これが答えだ。それでも彼女は歩を進める。本当なら、報われないことはしたくない。陰気だなんて、キャラじゃない。ただ――救いたかった。かつての友人はああではなかった。確かに物静かではあるが、優しい笑顔のできる娘だった。周りを優しく包む空気を持っていた。それが今は。刺を張りすまし、笑顔は凍り付き――ツンドラの大地から覗く苔のように僅かな感情が浮かぶだけ。それは彼女に少なからず衝撃を与えた。自分の預かり知らぬところで、何と変わってしまったのだろうと。そして、そうなるまで何もしようとせず、遠巻いているだけでいた、自分に激しい嫌悪を抱いた。今度こそ。何かたった一つでも良い――できることがあると微かな望みを抱き、彼女はそこへ向かう。もう、数メートルもない。見えてくるピンクの水玉雨傘、一縷の望みも虚しく、その友人――里村茜は今日も、虚無のように立っていた。全てを吸い取るように、全てを否定するようにして。

 声をかける。里村茜は一瞬、希望に満ちた視線を向けたがその正体に失望し、溜息を吐いた。そして、再び空き地に目を向ける。明らかに排斥の仕草だ。もう自分のことなど邪魔者としか思われていない、それが彼女には辛かった。
「もう、止めてよ」
 だらしなく五日も振り続け、連日のように惑う虚無に当てられたのかもしれない。今までのどんな言葉よりも昏く、感情のこもった声が茜に向けられる。
「いくら待っても無駄だよ、誰も来ないよ」
 その声がどこか諦めめいて聞こえるのは、茜の返事を予測していたからだろう。
「来ます」
 茜は自分に言い聞かせるようにして、更に言葉を紡ぐ。
「ここで待っていれば、何時かは必ず」
「何時かって、何時よ?」
 茜の声に覆いを被せるようにして、彼女は声を重ねた。
「何時か、何時か――そうやって待っていてもう半年、ううん、その前からずっと待ち続けてるのに、誰も来ないじゃない。そんなの無意味よ」
 それが茜を傷つけるだけだと分かっているのに、止められない。体に馴染む雨と、何より苛立ちが。心を疚しめてならなかった。
「人が消えるなんてありっこないよ――ねえ、いい加減――」
 そして、言ってはならないことを口にする。
「馬鹿な夢見るのなんて、やめようよ――」

パンッ!

頬を刺す、針のような痛み。しかしそれ以上に、茜の全身を切り裂くような憎悪の視線が痛かった。茜の右手は鋭く振り下ろされたままの格好でしばし静止した後、残酷な言葉と共に戻る。
「嫌いです」
彼女は慌てた。茜がそこまで怒るのを初めて目の当たりにしたからだ。
「消えてください、今直ぐここから」
威嚇するように、両の手が強く握られる。
「貴女なんて――」
やめて、そこから先は言わないで。彼女は後ずさるが、耳は塞げなかった。
「消えてしまえば良い」
「ごめん、茜」
怯えながらも謝る彼女に、茜はぐっと唇を噛み締めている。先程の言葉を酷く後悔しているようだったが、収まりようのない怒りはなおも彼女に向けられていた。
「詩子――」
茜はようやく彼女の名前を呼んだ。詩子――そう、それが彼女の名前。そして友人の名前は里村茜。茜と詩子――。
「ごめ――」
「帰ってっ! 今直ぐ帰って下さい。私の目の前から、直ぐに立ち去って下さいっ!」
雨と傘と俯きとで、詩子にはその表情が分からない。でも――。
「ごめん――本当にごめん。茜――あたしが悪かったから――おねが――」

「帰って下さいっ!」

 普段の茜からは考えられない声量に、詩子は思わず後ずさった。鋭い、殺意すら感じられる視線に耐え切れず、殆ど逃げるようにして立ち去る。胸は後悔で一杯だった。茜の心を傷つけたこと、茜から嫌われてしまったこと。馬鹿な夢――こんな言葉、使う気なんてなかった。今日の自分は変だ――おかしい。茜のことを心配しているし、あの場所から引き離したくもある。でも――傷つける言葉を吐く気なんて――傘を差しても全力疾走していると効果なんて殆どない。けど、今はまとわりつく水滴すらも気にならない。ただ、逃げたかった。とことんまで自分の中の空に閉じこもり、何も考えたくなかった。それが逃避だと分かっていながら。情けない。いつもは明るく振舞っているくせに、こんな時、強がりや仮初めの威勢の良さは詩子を救わなかった。

「ねえねえ、昨日のドラマはどうだった? あのドラマ」
 と、しかし。次の日、教室に入った詩子はいつものようにクラスメイトの先端に立ってはしゃいでいた。茜が苦しんでるのに、自分だけ明るく何もなかったように騒いで、いい気なものだ。分かっていても、無為に態度を変化させてクラスメイトを慌てさせることはできなかった。それに正直、陰鬱な友人と接している時には得られない慈雨のような安らぎを求める心もあった。疲れているのかもしれない――疲れの所為にするの? 心の中で正しそうに見えるものとそうでないものがせめぎあっていた。
「うんうん、今週も主人公がなっさけなかったよねー」
 クラスメイトの一人が答える。火曜日の朝に話すドラマなんて月曜九時に決まっていたから、皆も何が? と問い質すような野暮なことはしなかったし、それが同年代の証でもあった。共通の概念によって、紐の両端がしっかりと結ばれている感覚。馴れ合いと分かっていながらも、容易に抜けられない麻薬のようなものだ。勿論、それは悪いことではない。でも――結び付けられた紐のもう片側が宙ぶらりんで、何もない所に結び付けようとしている友人のことを考えると、素直に認めてはいけないような気がした。

「ねえ、詩子、どうしたのぼーっとして」
 別のクラスメイトが、詩子の肩を揺する。慌てて我に返り
「何の話?」
 と切り出すと、皆は一切に溜息を吐き、また別のクラスメイトを指した。
「彼女がもう直ぐ引っ越すって話をしてたの」
「引っ越すったって転向するわけじゃないよ。父さんが四十にして頭でもおかしくなったのか一戸建て買うって言い出してさ、通う時間も長くなるし。それに、工事は来週の土曜日から始まるからまだまだ住めるのは先」
 言いながら、そのクラスメイトの顔はにやけている。きっと、自分だけの部屋がもてるのが嬉しくて堪らないのだろう。
「へえ、どこなのそれ」
 詩子が尋ねると、やはり嬉しいのだろう、彼女は家の建つ周りのことを微に細に話し始めた。すると不思議なことが起こった。何故か詩子にもその情景をぼんやりと思い浮かべることができたのだ。まるで既視感でも覚えたように鮮明、かつ具体的になるそれに、詩子は声をあげた。その場所がどこか、唐突に理解できたからだ。

「どうしたの詩子、急に大声あげて」
 咄嗟に口を塞ぐが、放たれた声を遡り喉に押し込めるのは不可能だ。
「――トイレ」
 皆の力が妙な形で抜けていくのを尻目に、詩子は部屋を出て本当にトイレに向かった。中に入り、用を足したフリをして外に出ると急に恐ろしくなった。茜の待ち続けているあの空き地がなくなってしまう、それを知ってしまったからだ。

 どうしよう。家に帰ると詩子はそのことだけを考えた。これを茜に教えようか――詩子は悩んだ。元々、悩まず直情的にというのが自分の性格だ。思ったことを口にする、思ったことをする――これで人生の九十五パーセントは乗り切ってきた。でも――何故か、言えなかった。茜と気まずくなってしまったからではない、知らぬ間に空き地が潰えてしまえばもしかして、諦めてくれるのではないか。とても他力本願だ、それは分かっている。でも、他に方法が考えられなかったのだ。詩子は黙っていることにした。来週の土曜日――詩子はこの日が雨にならないよう、祈った。もし叶うなら天使に服従しても、神の奴隷になっても良い。これほどまで、何かに何かを真剣に願ったことはないというくらい――ただ祈るのみだった。

 相変わらず。それは降り続いている。明日は晴れだとの予報を聞き、安心して眠りこけていた詩子の耳にそれは残酷に響いた。眠気が一瞬にして拡散する。時計を見ると既に十時を回っていた――何という迂闊さか。カーテンを開けると、そこには水に溶かした墨のような雲と、反して透明な雨とが暗澹たる膜を作り、詩子を嘲笑っていた。必死に祈った結果がこれか、詩子は急いで着替えると朝食も食べず顔も洗わず、髪もセットせず、傘だけ引っつかんで家を飛び出した。天候が雨であるなら、彼女は――茜はきっと、あそこに居る筈だ。それは詩子が敢えて目を瞑り続けていた、最悪の結末だ。差していた傘は途中で閉じた。走るのにこれは余りに鬱陶し過ぎる。

 そこを曲がると空き地の見える、最後の曲がり角まできた時だった。荒々しい怒鳴り声が詩子の耳にまで響いてきた。
「早くそこをどけよっ、轢き殺されたいのか?」
 ショベルカーの運転手の声。空き地に入ろうとするそれを遮るようにして、茜がいつもと変わらぬ調子で立っていた。予想通りの光景に、眩暈がする。
「そこにいると邪魔なんだよ」
 既に何度も忠告した後なのだろう。男は怒りを露わにして、叫んでいた。しかし茜は背を向けたまま無視し続けている。とうとう運転手は堪忍袋の尾が切れたらしい。男はショベルカーから降り、茜の肩を掴もうとした――。

パンッ!

 傘を持つ方と反対側の手で、茜は男の手を叩いた。
「邪魔しないで下さい」
 酷く抑揚のない声に、男の理性が切れた。ゴン! と。鈍い音がしたかと思うと同時に、茜は普通ならありえない方向へと転がっていった。最初、何が起きたのか分からなかった詩子だが、男の強く握られた拳と理性の吹き飛んだ目を見て、直ぐに分かった。
「ふざけんなこのクソ餓鬼が、こっちは毎日苦労して金稼いでるんだよッ! 手前こそ変な言いがかりつけて邪魔してんじゃねえ」
 男は殴られた場所を抑え蹲る茜の襟首を掴んで強引に立たせると、力の限り突き飛ばした。バランスを失った茜は、空き地の端まで風にさらわれたビニル袋のように転がっていく。泥濘んだ地面で、洋服は泥まみれになっていった。うめく茜に満足したのか、男は素早く背を向けてショベルカーの方に向かおうとする。その時、詩子の中で感情が爆発した。何を考えるでもない。ただ友人をボロ雑巾のように扱った目の前の男が許せなかった。

「このおおっ!」

 背中からぶつかられたのか、男は無様に転んだ。詩子は無我夢中で男の少し薄くなった髪を掴み、力の限り拳骨をお見舞いした。茜を傷つけたこいつが許せなかった。あらぬ限りの大声をあげ、詩子は男を殴り続けた。しかし、体格の差は歴然としている。背筋の力で吹き飛ばされ、詩子は憤怒の塊のような男と対峙することになる。殺されるかもしれない――でも、茜を守れるのなら満足だった。しかし、そこでようやく救いというものがひょっこりと顔を出した。或いはあれだけ大声で騒いでいて、今まで誰も気付かなかったのが不思議ですらあったのかもしれない。兎に角、野次馬の登場によって男は我に返る。このままでは女子高校生を苛める悪人にしか見えないと判断したのだろう。男はショベルカーに戻り、スモークガラスを閉め、もはや誰も遮ることのない空き地へと入り込んでいった。詩子はそれに構わず、未だぐったりと体を横たえる茜の元に向かう。彼女はただ絶望的な眼差しで、濫入者を追い続けていた。頬には紅く膨れた跡があり、整った顔立ちをしているだけに余計目立つ。詩子にはそれが痛々しくて堪らなかった。しかし、肌に染み込むような雨も冷たい泥も、痛みや衝撃を緩めてはくれない。

 少女達を嘲笑うかのように、業者の人間が次々とやってくる。誰もその片隅で泥に紛れ、存在の極めて薄い茜と詩子に気付かない。
「嫌」
 ようやく茜が声をあげる。
「私の大切な場所が――」
 茜は立ち上がり、工事の準備を始めた業者の人間に近付こうと歩を進めていく。詩子は茜の手を掴んで、それを留めた。
「詩子、離してください」
「ヤだ」
「離してっ!」
「じゃあ、離したら茜は何をするのっ! それが分かるから、離せない」
 茜は再び、工事を止めさせようと無謀にも立ち向かっていくだろう。今度はどうなるか、詩子には想像すら出来なかった。いや、想像したくないというのが正しいのかもしれない。
「もう――やめてよ――」
 詩子の声は半分、涙声になっていた。どのようなことをしても、どんな言葉を吐いても茜を傷つけることにしかならない、それが悔しくて悔しくて堪らなかった。
「やめて? 何をやめろって言うんですか? 馬鹿な――夢を見ることですか?」
 違う、そうじゃない。夢を見るのは悪いことじゃない。少しくらい、夢を見たってそれは責められる類のことじゃない。それは詩子の言いたいことではなかった。では、何を言いたい? 自分は無二の友人にどんな言葉で新たな傷を与える? 目を逸らすと、そこには圧倒的な現実が広がっていた。土地は切り崩され、地盤は固められ、そして新しい家族に幸せを与えていくだろう。変化していく現実――それにどれほどの意味を込めているのか分からず、詩子は絶望的な思いで叫んだ。

「現実から、目を、背けることよっ!」

 ぴくり、と。茜の肩に初めて、動揺の震えが走った。
「もし、茜の言うことが正しかったとしても、間違っていたとしても――今の茜は現実から逃げてるだけじゃない。変わらないものしか見てないじゃない。永遠に変わらないものしか――」
 永遠。
 その言葉に、茜の顔色がすうと蒼ざめていく。でも、詩子には気にする余裕がなかった。
「あの空き地と、思い出と――茜の見てるのはそれだけだよ――あたしのことなんて全然、見てくれない。あたし、あたしだって茜のこと、大切に思ってるのに、大切な友達だって思ってるのに」
 惨めなことをしていると思った。今やっているのは何でもない、嫌われたくないと腕に縋り付いている恋人のような行為だ。茜の心を留めたくて、惹き付けたくて、果てしなく卑屈になっている。自分がとんでもなく軽い存在に思えて、価値のない存在に思えて、自然と涙が浮かんでくる。自分はこんなにも弱かっただろうか。

「あ――」
 茜が戸惑いの声をあげる。詩子が手を離したからだ。
「詩子――私、」
 そして何とか、詩子に視線を合わせようと努力を始めた。しかし、そっぽを向いてしまった詩子に対してそれは不可能なことだ。
「私――そんなつもりじゃ――私――」
 唐突に、工事の大音量が空き地を包み始めた。ここでは静かに語らうことすら無理らしい。どうしよう。しかしいつもは冷静な頭も、今は混乱して全く働かない。どうして良いのか、そもそもどうしたいのか――分からなかった。そこに、そっと添えられる手。しかし今度は拘束ではなく、束縛でもない。ただ優しく、寄り添うことを示すためだけに差し出された手だった。詩子は視線で茜に促す。そして声をかける。
「行こ」
 今度は茜も逆らわなかった。

「でも――何処に行くんですか?」

 暫くあてもなく歩いてみて、ようやく茜が肝心なことを口にした。
「えっと、何処に行こうか」
「――汚れの落とせる場所が良いです」
 ここでそれができる一番近い場所は、茜の家だった。置いてきた傘が気がかりだったが、かといって拾いに行く気にはなれない。しかし、走る気にもなれなかった。手を繋いだまま、茜と詩子は濡れるがままに任せる。汚れも多少は落ちて、多少は好都合でもあったから。茜の家に着くと彼女は靴下を脱いで洗面所に向かう。暫くして乾いたタオルを一枚と雑巾を二枚持ってきた。汚れた衣服は洗濯籠に投げてきたのだろう、現れた茜はシャツとショーツだけの姿で、詩子は妙にどきりした。けど、昔から散々見てきた体だと思い直し、動揺をばれない程度には押し殺す。三つ編みはほどかれており、腰の下まで届く髪がさらりと揺れた。まだ泥がところどころに付いているのが痛ましくはあったが。雑巾を床に置き、タオルを手渡すと茜はぺこりと頭をさげた。髪の毛が今度は蛇のように揺れる。

「あの――泥を落としたいので、シャワーを浴びても良いですか」
 詩子は二の言葉を継ぐ暇もないほど素早く肯いたが、茜はまだ上目遣いで詩子に何かを期待しているようだった。もしかして――一緒に入ろうなんて言い出すんじゃ――。 「それと、私の部屋から着替えを見繕って来て下さい」
 期待は脆くも外れた。まあ――良いとしよう。
「あと、詩子の服も濡れて気持ち悪いだろうから、私の服、適当に選んで着ても良いです」
 詩子は肯いた。もう一度お願いしますと頭を下げる茜に微笑を返すと、安心して洗面所に戻っていった。詩子はタオルで全身を満遍なく拭くと、茜の部屋に向かい遠慮なく服を借りた。
「――中学生の時は同じサイズだったのに」
 妙な敗北感が滲んだが、敢えて無視することにする。詩子は茜の替えの服と下着を選び、階下に持って行った。

 もう一度茜の部屋に戻ると、詩子は暫し入る機会のなかった茜の部屋をぐるりと見渡した。ああ、と詩子は思う。シンプルながらも暖かな色で統一されたカーテンやカーペット、小物やぬいぐるみに、彼女は優しくも温かい茜の本質を見たような気がした。何時の間にか、ああも変わってしまったと思えた茜――その色は変わっていないのだ。ただ一つ、妙に部屋の雰囲気とそぐわないものがあることに気付く。茜が買ったのだろうか、新しい目覚し時計だった。もっとも電池が抜かれているのか、動作はしていないようだ。綺麗だが、どこか不思議なデザインの目覚ましだった。茜の趣味には相応しくないように思えた。

 暫くすると、茜が髪の毛を下ろしたままの姿でやって来た。
「――珍しいね、髪下ろした茜を見るの久しぶり」
「一日に二度も結うのが面倒臭いだけです」
 確かに。というか低血圧で朝に弱い茜がどうやって髪結いの時間を作っているのか、詩子には未だ不思議だった。でも、今はどうでも良いことだ。茜は詩子の隣に座り、そして窓の外を一瞬だけ、寂しそうに見つめた。
「あの空き地、今はどうなってるんでしょう」
「さあね」
 分からないのだから、他に答えようがない。
「そうですね、分からないし、分からない方が良いのでしょう――」
 そして茜はそのまま、今度は真剣な眼差しで詩子を射抜いた。
「詩子――」
 茜は詩子の名前を確認するように呼んだ。
「詩子はまだ――」

「私が馬鹿な夢を見ていると思いますか?」

 詩子は思わず、息を飲んだ。彼女は多分、こちらの曲解を簡単に見抜くだろう。そしてどんなに茜に残酷であろうと、ただ自分の心の中にある真実を求めている。そう、思った。だから詩子は何も言わず――。

ただ、首を振った。

 一瞬、静寂が場を支配する。そしてそのまま、肩の温もりに変わっていく。驚いて見ると、茜は詩子の肩に身を寄せていた。
「ありがとう」
 と、彼女は言った。茜の声は呟きに、そして――寝息に変わる。余程、疲れていたのだろう。詩子は茜をベッドに運ぶ。そして暫く寝姿を眺めていたが、余りの心地良さそうな顔に思わず大きな欠伸が出た。眠い――果てしなく眠い。どうしようかと考えたが、迷いはない。詩子は茜の眠るそのベッドに潜り込み、その柔らかい温もりに包まれ、やはり直ぐ眠りに落ちた。しばし、静寂の部屋には二人の寝息だけが響いていた。そして。詩子が目を覚ました時、茜はもうベッドにいなかった。既に雨の上がった空を窓硝子越しに、見つめているようだった。衣擦れの音で覚醒に気付いたのだろう、茜はぼそりと呟いた。

「詩子――流れ星の話を、覚えてますか?」

「流れ星?」
「はい」
 茜は肯き、言葉を続ける。
「中学校の頃、文化祭で遅くなったことがあったでしょう。その時、星を見ましたよね」
 ああ、と詩子は声をあげる。中二の頃の話だ。
「うんうん、覚えてる。三度、星が流れたんだったよね、確か。一度目は見過ごして、二度目は結局、舌を噛みそうになっただけで。でも、三度目で成功して――あれ?」
 成功した、ということは覚えている。しかし、どうやってそれを成したかが詩子の頭の中からすっぽりと抜け落ちていた。
「おかしいな、三度目はどうやって成功したんだろう。あんな一瞬の間で三度も願い事をするなんて普通、できるわけないのに」
 詩子が首を傾げると、茜は諦めと寂しさを足したように複雑な表情を浮かべた。
「やっぱり、覚えてないんですね」

 茜はどうやら成功の理由を知っているらしい。しかし、幾ら考えても詩子には同じ結論に辿り着けなかった。
「ごめん、思い出せない。でも、本当にどうやってやったの? そんなことができるとしたら、ノーベル賞ものじゃないの? いや、比喩じゃなくて」
 詩子は真剣に述べたのだが、茜には可笑しかったらしい。くすくすと声をもらし、そして付け加えた。
「そこまで大袈裟なものじゃありません。凄く単純なことですよ――パズルと同じです。ああ、何でこんな簡単なことに気付かなかったんだろうって。でも、そうですね。このことに気付ける人間って、そんなに沢山はいないのかもしれません。人間って欲望の動物ですから」
 妙にもって回った言い回しに、詩子は眉を潜めた。パズルとかそういうややこしいものは、余り好きではなかった。
「何よそれ――どういうことなの? 答え教えなさいよー、茜ー」
 思わず肩をがっくんがっくん揺するが、茜は頑として口を割らない。しかしその代わりは用意してくれた。
「そうですね。では、ヒントをいくつかあげます。
 一つ目、人間は欲望の動物ということ。
 二つ目、人間には誰一人、同じ存在はないということ。
 三つ目、ビートルズのイマジンという曲」

「うー、余計意味分からないよ。ビートルズのイマジン? そこにヒントがあるの? どういう曲だったっけ? 天国も地獄もない、宗教も国境もない、そうすれば理想の楽園が創れるって――そんな内容じゃなかった?」
 中学の授業でどこぞの教師がその詩に平和の歓びを感じ取り、熱心に語っていたことがある。しかし、茜はそれを否定した。
「確かに、そうも歌ってますけど――それだけじゃありませんよ。あの曲は最後にこう結ぶんです。

 僕を空想家だと思うかもしれない
 だけど 僕ひとりじゃない
 いつの日か きみも僕らに加われば
 この世界はひとつに結ばれるんだ

詩子――まだ、分かりませんか?」

「あ」
詩子は思わず叫んだ。奇妙なインスピレイションが、頭の中を満たしたのだ。分かった、ようやく分かった――確かに茜の言うとおりだと詩子は思った。分かってみればこんなに簡単なこともない。
「複数の人間が、全く同じ願いごとをすれば良いんだ。そうそう、そうだった、思い出したよ茜。だから三度目はそれを試したんだよね。この場合、一人で三回は無理だけど、三人で一回なら簡単に――」
 簡単?
 詩子の頭に、特大の疑問符が浮かぶ。ちょっと待った、一人では絶対成功しない。でも――二人でも、自分と茜の二人でもこれは成功しない。馬鹿な、それでは何故――。
 三度目は、成功したの?
 突然、詩子は凄く怖くなった。あそこに三人目がいた記憶はない。しかし――詩子の記憶が確かならば、間違いなく同じ場所に二人ではなく三人がいたことになる。そうでなければ成立しない。決定的な矛盾だ。体の震えが収まらない――馬鹿な、そんな馬鹿な。
 でも、心の中の何かが。
 詩子に三人目の存在を確信させた。今はもう記憶にすらない存在、しかしかつては自分の側にいたのだ。確かにいた。記憶にはないけど、その隙間からどんどんと零れ出していく。忘却の殻がぽろぽろと破れ、不完全な記憶が幾つも顔を覗かせた。  もう、怯えは抑えきれないところまで来ている。怖くなり、詩子は茜の顔を見た。彼女はただ力なく微笑み、ようやく気付いたんですねと問い掛けているようだった。

「茜」
 何かを口にしようと、金魚のようにパクパク動く。しかし、声がでない。それほど、詩子は混乱していた。未だかつて、これほどの混乱はなかったのではというくらい、頭が働かなかった。
「この話、詩子にずっとしようかどうか迷ってました」
 声の出せない詩子に代わり、茜が淡々と紡いでいく。
「今日、初めて決心できました。昨日までの詩子は私のことを否定するだけだったけど、今日の詩子は違うから。もっと優しく私を受け止めてくれたから、話すことができた――」
 そうだったのか――詩子は自分を心から信頼してくれていることを嬉しいと思い、同時に今まで信頼にすら足らない人間であったことを強く恥じた。
「ごめんね、茜。私、茜に酷いこと言ったよ。何度謝っても許せないくらいのこと」
「それなら――良いんです」
 茜は詩子に優しく微笑みかけ、そして
「私が詩子の立場だったら、もっと酷いことを言ったでしょう。冷たくて――現実的な人間ですからね。詩子のような温かいハートはないんです」

 そんなことはないよ。
 詩子は本当ならそう言いたかった。でも、当の茜がそれを望んでいない気がしたし、せめて今だけは自分をほんの少しだけ誉めてやりたい――そうも思えた。きっと、自分は楽観的でその場しのぎの人間なんだろう。
 無性に茜が恋しくなり、詩子は彼女の側に寄る。
 刹那、星の涙が二つ、空を駆けた。
 Stars Of Tears。
「流れましたね」
「うん」
「願いごと、し忘れました」
「うん、そうだね。でも、それでも無理だったよ。ここには三人目がいないから」
「――そうですね」

 一瞬の静寂。
 のち、詩子はゆっくり、口を開く。
「茜。もうあの空き地はなくなったけど――」
 さあ、勇気を出して言おう。
「これからはずっと、あたしも待つから。茜の望む三人目の存在を。そうしたらいつか、星を見ようよ。そして皆で同じ願いごとをしよう。いつまでも、一緒にいられるようにって」
 茜は目を見張り、詩子の顔を覗く。そして深く肯いた後、妙にそわそわした仕草で片手を差し出してきた。詩子には求めるものが直ぐに分かったので、迷わずその手を握る。そして、茜の耳元でそっと囁いた。

「あたしはここにいるよ」

[END]

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