THE FIRST

―Hello again my old dear place―

ハローベイビー
僕はきっと愛を知らない
君もそうならついておいで
この果てしない物語の彼方へ

(この世の果てで愛を唄う少女/世紀末の詩)


−0−

 まだ、私がブリキの樵のような存在であった頃のこと。愛というものについて真剣に考えたことがある。

 無機的な歯車しか持たない私の心は、愛を洞察で得られると信じていた。その為、随分と色々なことを試したものだ。

 その殆どは、たった一人の存在に捧げられたものであったが、今となってはそれも船の通らぬ灯台のように光だけが通り過ぎて虚しい。

 ただ一つだけ言えるのは、どのような激しい言葉も行為も、私に愛というものの本質を理解させてはくれなかったということだ。

 全ての『事』が終わり、ただ悲しみだけが残された寂しい雨の中で、ようやく心を得た私は、今まで愛を知ることができなかったのは、ブリキの心しか持っていなかったからだと、悟った気でいた。

 思えば、なんという下らない戯心(ざれごと)であろうか。人の心もブリキの心も、例え金剛石の心であろうとも、人がただ、全てを捧げるような、献身的で、しかし危うい愛情を完全に理解することはできない。

 何故なら、その愛は世界の深遠よりも深く、矛盾に満ち、容易に世界を破壊してしまうからだ。しかし、世界を破壊するような、おぞましく強烈な愛であっても。

 その愛がただ私だけを向いていたことを思うと、切なくなる。もう、その愛が私に微笑みかけてくれることは二度とないから。

 

第一幕第一場
『僕と少女』

 

−1−

 何時の間にか、地面へ倒れ伏してしまったらしい。もう、指一本にすら力が入りそうにない。どうやら、僕はこのまま行き倒れてしまうようだ。 こうしている間にも、地面と太陽の熱は僕の生命力をぐんぐんと奪っている。恐らく、丸一日経てば魚の日干しのようになってしまうのだろう。その姿を想像すると一寸嫌な気持ちになるが、思考を処理する能力が脳から失われてしまったらしく、その為か幸運にも明確な形を成すことはなかった。

 がさごそと、凄く近い場所で音がする。最初は虫か、動物の類かとも思ったが、どうやら違うらしい。その物音の主は、薄ぼんやりと開かれた視界の中で確かに荷物を物色していた。僕は一瞬、何が起きているのか分からなかったが、やがて朦朧とした意識がとんでもない勘違いをしでかした。

 僕は荷物が奪われそうになっていると信じ込み、ならばせめてこの追い剥ぎに一矢くらいは報いようと、無意識に手を伸ばしていた。弱々しい力で掴んだそれは、多分足だったのだろうが、思ったよりも細っこくて力を入れればすぐに折れそうなくらいだった。

「わわわっ、も、もしかして――意識が戻ったんですかー?」

 その声質に、僕はまたしても驚いてしまう。追い剥ぎなんてする人間だから、もっと無骨な男性かと思っていたら、慌て戸惑う女性の声だったからだ。ただ、網膜を通して映し出される映像は相変わらず不鮮明で、男か女かも分からない。ここまで女性を示すものがありながら、実物が男だったらさぞかし嫌だろうなと、少しでも考えてしまったのは僕の脳がいよいよ膿んでいたからに違いない。

 すると、女の声と足首を持つ人間は荷物漁りを止め、次には平手で僕の頭をぴしゃりぴしゃりと、割と洒落にならない力で打ち付けてきた。

「もしもし、生きてますかー、生きてるんなら返事をして下さい。死んでるなら、返事なんてしちゃ駄目ですよー」

 全く、そいつの言い分は不条理だった。が、ここで返事をしないと死んだものと見なされかねない。僕は、本当に最後の命綱に縋りつくべく、喉をほんの微かだけ震わせてみた。

「た、たすけて――」

「え? え、えっと――死んでます?」

「ちょ、ちょっと待った――」

 本当は、生きてようが死んでようが結末は一つではないかと怯え、僕は意識したよりも大きい声を張り上げていた。

「生きてたら、声をあげろと言ったのはあなたでしょう――」

「あ、そうでした。ごめんなさい、ちょっとうっかりしてたみたいです。でも、混乱するとつい普段とは逆のことを言ってしまうって本当なんですねー、人間って不思議です」

 こんなところで、人間の反転心理などを語っている暇などない。僕は、目の前の人間が本当に自分を救ってくれるかどうか本気で心配になり、せめて相手の正体をもう少しくらいは見極めようと、何度か目をしばたたかせる。すると、不明瞭な部分までがようやく僕の目に届いてきた。

 僕を覗き込む大きなダークブラウンの瞳は、まるで実験材料の宇宙人を見るかのような興味で満ちている。肩甲骨の辺りまで伸ばされた髪は、無造作に後ろで一つに束ねられていた。所謂、ポニィ・テイルというやつだ。肌は真夏の日差しを毎日一心に浴びているのか、小麦色にこんがりと焼けていた。と言っても、都会でよく見かける日焼けサロンなどで焼いた不健康で不自然な感じは全くしない。白くないのに、無為に美白剤を塗った肌よりは余程、透き通って見えた。

 手足に限らず全身に及んでも少し細っこいイメージを受けるが、叩いて折れるという感じは全然しない。二の腕も足も適度に引き締まっていて、さぞかし毎日、色々なところを走り回って遊んでいるのだろうなということが容易に想像できる。今時、ちょっと地方でも見られそうもないほど、純朴で健康美に溢れた少女だった。

 服装も至ってシンプルで、トドかジュゴン辺りをデフォルメした動物のプリントされたシャツとジーンズをカスタムしてあつらえ直したショートパンツを穿いている。平たく泥で汚れたサンダルには、先程の僕の推測を裏付けているようでもあった。

 まあ、僕を覗き込んでいたのはそのような少女だったのだが、その時に目を奪われたのは少女の容姿ではなく首からぶら下がったある物体だった。

 無骨なステンレスの水筒に紐をつけただけの簡素なものだったが、僕にはそれが万難の霊薬を入れた高価な薬壺にも等しい、高貴な入れ物に見えた。まるで、神様か仏様の後光が指しているかのような錯覚すら覚える。きっと、頭の神経が数本、切れているのだろう。それで、見えもしない幻覚が見えているのだ。

 しかし、それがどうした。僕の命はアレにかかっている。神様とか持ち出さなくても、きっと体の全身から脳から、本能全てがアレを貴重なものとして認識しているのだ。神仏を大して信じていない僕は、そちらの方の意見を採用することにした。

 まあ、そんなことはどうでも良い。僕は少女の足首を離すと、水筒に向かって手を伸ばす。

「あのー、何をなされてるのですか?」

 僕の必死の行為に、しかし少女は一際、間延びしたような声をあげる。僕は『みず』と声に出そうとしたが、最早口の中がカラカラで言葉すら出ない。

「もしかして、這いずりゾンビの真似?」

 違うっ! と叫ぼうとして、血圧が上がってしまったのだろう。瞬く間に僕の意識は白く引き伸ばされ、何かが頭で切れたような音と共に、うつ伏せで地面に倒れ伏せた。

「わっ、力尽きた! あの、大丈夫ですか? 生きてますか? 生きてたら返事して下さい。死んででも返事して下さいーっ!」

 頬を叩くだけじゃなく、全身をがっくんがっくんと揺らすものだから、理不尽な台詞に反論することも許されず、僕は再び意識の底へと落ちていった。

 前にもいや増す、死の予感を覚えながら――。

 

−2−

 後頭部が、何故か柔らかいもので包まれていた。唇には、冷たく心地良い液体の感触が満ちている。喉が無意識にそれを嚥下していることだけが、僕にもようやく感じられた。しかし、固い地面しか存在しない筈の道端で、枕のように柔らかい感触だけが理解できない。

 梢をさらさらと揺らす音が、先程よりも強く聞こえる。太陽の気配も、蝉の鳴き声も心なしか印象弱い。兎に角、体の調子が以前と比べるとかなり楽だ。まるで、肉体から魂が抜け出してそれだけになってしまったかのような――え?

 まさか、ここは死人の魂がやってくる場所ではあるまいか? 死の確信にも満ちた昏倒の記憶が蘇り、僕は慌てて目を開く。しかし、そこには同じ少女がいて、先程とは違う角度で僕を興味深そうに見下ろしているのだ。しかし、その瞳には心配の色も含まれているようだった。

 彼女は手にコップを持っている。そこには冷気の湯気すら立つような水がなみなみと張られていて、それだけでも僕は強烈な渇望を覚えるのだった。

「そ、それ――」

「良かった、目が醒めたんですね。心配したんですよー、もう一度ばたんって倒れて、体を触ってみると凄い熱じゃないですか。これは大変だと思って、木陰のあるところまで引っ張ってきて、血が頭に回らないように支えてあげてから、衣服を緩めて――あー、ちょっと胸の辺りとか見えちゃったんですけど、男の子だから構いませんよねー。それで、唇がからからに乾いてるから脱水症状かなと思って、水を少しずつ飲ませてあげてたんですよ。あ、例の米袋は道端に放ったままですけど、命には変えられませんよね。というわけで炎天下の中ですが、日本人の育てたお米はあれくらいで挫けたりはしません。私が保証しますっ!」

 思ったより、口の達者な少女だった。兎に角ハイテンションで話すものだから、僕としては『水が欲しい』と差し挟むこともできず、ただ恨めしそうに水の入ったコップを睨んでいた。するとようやく視線に気付いたのか、少女がとりとめもない話を止め、慌ててコップを差し出してくる。

「あ、ごめんなさい。話に夢中になっちゃってました。お母さんにもよく言われるんですよね、お前は話に夢中になり過ぎるのが悪い癖だって。そうすると周りとか目に入らなくなっちゃって――こういう性格ってなかなか直らないものですよねー、はいお水です。冷たいからゆっくりと飲んで下さいね、じゃないと頭がきーんとなっちゃいますよ」

 そんなことは言われなくても分かっていたが、余計なお世話とでも言えばそれに数倍する反論を投げかけられそうだったので、僕は口を噤んだままにしていた。話し終えた少女からコップを受け取り、言われたとおりゆっくりと飲み下す。少しずつ体中に染みていく水が、沸騰しそうなくらいに煮えたぎっていた心と体を安らかに静めていくようだ。僕は命の水という言葉を、これほどまでに実感したことは今までなかった。水がこれほどまでに、心身に作用するということもだ。

 時間をかけて水を飲み干し終える頃には、体に付いていた重石が嘘のように取り除かれていた。先程、魂だけが抜けたような感じと評するより数段、力もわいてきたようだ。ということは、さっきまでが本当にやばかったということだ。僕は今まで一番、それを確信すると共に自分を助けてくれた少女の存在を初めて、ありがたいと思った。

「ありがとう」空のコップを差し出すと、僕は僕のできる精一杯の笑顔と感謝を名も知らぬ少女に向けた。「本当に生き返ったような気分です。体も随分、軽くなったようだし」

 少女は僕の言葉に最初、目をぱちくりとさせていた。だが、それが感謝だと気付くと日に焼けた顔を僅かだけ真っ赤にして、大袈裟に手を振った。

「そんなー、命の恩人だなんて大袈裟すぎます。困っている人間がいたら助ける、当たり前のことじゃないですかー」

 当たり前と言うが、今の世の中、助けるという行為を当たり前に思える人間など左程いない。それを当然だと言い切れる人間ともなると尚更だ。勿論、それが全面ではないにしても、少女が想像したとおりの純朴な面を持ち合わせていることは間違いのないようだった。

 それにしても、気持ちが良い。真夏の猛烈な陽光を恵みのように受け、育ち、大きく幹を伸ばす木々の醸し出す温情すら感じられる影の何と涼しいことか。蝉もここでは破壊的に鳴くことがなく、木漏れ日に合わせてゆっくりと囀っているようにすら感じる。頭部を包む、柔らかく温かい何かに身を委ね、すぐにでも眠ってしまいたいくらいだった。しかし、ふと気になる。自然界の物質でここまで枕にするほどうってつけで柔らかいものがあったろうか、と。

「あの、僕が頭に乗せているものは何ですか?」

 まるでどうして口が大きいのと尋ねるあかずきんのような口調で問いかける。すると彼女は、母親めいた微笑を浮かべて答えるのだ。

「私の膝ですよ」

 ああそうか、膝枕か――だからこんなに気持ちよくてって、え?

「もっとも、お母さんに比べたら弾力も心地良さも落ちると思いますけどね。ああ、幼い頃に熱射病で倒れた時、一度だけ膝枕で解放して貰ったあの感触が忘れられませんっ」

 何やら微妙に趣旨の外れたことを語り始める少女だったが、僕としては年端も行かぬとはいえ女性に膝枕をされているという事実に気恥ずかしくなり、悪夢に追われ飛び跳ねる時と同じくらいの反射速度で体をがばっと起こした。そして、膝から軽さが抜けたことが不思議なのかきょとんとしている少女と向き合いながら、僕は冷や汗をかいていた。

「あれ、もう大丈夫なんですか? 私の時なんて、数時間は体が重たくて立てなかったんですけど――お米を愛する男の子はやっぱり頑丈なんですね。私、ちょっと感動です」

 対する少女は、会話の調子を微妙にずらしながら照れた様子など微塵も見せていない。寧ろ、憧れを込めた視線を向けられているのは、気のせいだろうか? きっと気のせいではないだろう。

 実を言うと、まだ活動したいと思うほど体調は良くないのだが、それを口にすると再び膝枕を要求されそうで怖い。僕はわざとらしく体の筋を伸ばし、大丈夫だということを殊更、強調した。

「うん、もう大丈夫。これも貴女が心を込めて看病してくれたからかな?」

 お世辞を言えば角が立たないだろうと思ったが、案の定、少女はえへへーと皮のむけかけた鼻を 少年のように擦ってみせた。分かり易い、非常に分かり易い性格だ。

 少女は一頻り照れ終わった後、何か思いついたとばかりに両手を打った。

「そう言えば、まだお名前を伺ってませんでした。それに、何故米袋を二つだけ、大事そうに担いできたというのも謎です。宜しければ、お教え願えないでしょうか? あ、でもでも、名乗るほどの者じゃないといって颯爽に立ち去っていくのも格好良いですから、それでも私的にはOKです」

 助けて貰って非常に失礼なことだけど、僕は思った。彼女は純朴な性格だが、それ以上に何処か何か性格的に根本的な誤りがあるのではないか、と。しかし、命の恩人にそれを指摘するのは余りに恩知らずだし、罪の欠片も無さそうな少女を見ていると、心安らぐものを感じるのも事実だった。結局、僕は彼女の期待には添えなかったが、きちんと名乗ることは名乗ることにした。

 名乗ることに――。

 あれ?

 僕の名前、何だっけ?

 そもそも、米袋だけを後生、大事に担いでいた時点で疑わなければいけなかったが、実は記憶がかなり欠落しているのではないだろうか。

 慌てて記憶の中から自らの名前を探すと、しかし最悪の予想に反し、直ぐに名前の方は思い出すことができた。

「未来――峰倉未来(みねくらみき)、それが僕の名前――だと思う」

「成程、峰倉未来さんですね。それで、どのような漢字を書くのですか?」

「山を表す峰に倉庫の倉、で未来と書いてみきと読む」

 少女は、迷うことなくその字を木の枝で地面に書いていく。峰という字が書けるということは、少なくとも小学生ではないようだ。まあ、最近は『弁える』を『べんとうくえる』とか建立を『けんりつ』などと平気で読む社会人もいることだから、そこまで推定するのは危険なのだが。

「未来と書いてみきですかあ――分かり易くて良い名前ですね」

 誉めてるのか、貶されているのか分からない評し方をすると、少女は徐に立ち上がり、膝の土を軽く払って、必要以上に恭しい礼をしてみせた。

「あ、名乗るのが遅れました。私は星崎冷美(ほしざきれみ)と言います。きらきらひかるの星に、御崎の崎、冷たいに美しいと書くんですよ。だから私は、かくも儚く冷たい美少女となる運命の元に生まれてきたというわけです」

 自分で美少女という辺り、なかなか根性も座っているらしい。まあ、目筋の整った顔つきや控え目な口元、健康的な笑顔を鑑みると、言い過ぎだなどと心の中で突っ込みを入れるような人間もいないではあろう。それは僕の主観なのだけど。

「それは冗談として、お互いに名乗りあったわけですので、もうちょとぶっちゃけた話をしましょう。先程と同じ質問になりますけど、峰倉さん――それとも未来さんとお呼びした方が良いですか? それとも、意表を突いてミッキーとか」

「――後生ですから、ミッキーだけはやめてください」

 精神上ではなく、著作権上も問題大有りのような気がする。

「好きなように呼んでくれて良いですよ。下の名前で呼び捨てようが、構いません」

「そう。じゃあ、そうさせて貰います。未来は、何の目的でこんなところまで来たんですか? しかも米袋を背負って。ここの道を通っているということは『夏影村』を目指しているということですよね。それくらいは推測も付くんですが――米袋を背負っている理由が分かりません。きっとこれは、今までに読んだどのミステリィにも当てはまらない斬新な謎だと思うんですよ」

 勝手に人の存在をミステリィにされてはたまらない。と言うより、ここがどの場所かも、夏影村がどのような所なのかも、僕の脳からはすっぽり抜け落ちているのだ。或いは、一度もそのような場所に向かったことはないのかもしれない。兎に角、僕にはその夏影村に向かう動機が決定的に欠落していた。一時にせよ物理的に満ち足りた僕にとって、今一番重要なのは精神的な充足だった。しかし、僕一人ではそれを埋めることができない。

 そこで、僕はどのような反応をされるか半ば予測した上で彼女――星崎冷美に全てを打ち明けることにする。と言っても、僕に打ち明けられることなど殆どないのだけれど。

「記憶喪失なんですか? それって凄く浪漫的ですよね。ええ、私には最初から分かっていました。貴方の存在は何処か、ミステリアスで影のあるものだって。嗚呼、未来は平凡な夏影村にサスペンスフルで燃えるようなスリルを持ち込む存在なのですね、素敵ですっ」

 星崎冷美は僕の予測値を裏切ることなく、余り歓迎したくないハイテンションを発揮し始める。

「いや、僕は別に危険人物じゃないって。第一、記憶喪失の人間が全員、危険人物だなんてことがあったら先ず、学会やマスコミで大騒ぎになってますよ。多分――熱射病で一時的に記憶が混乱してるんですよ。米袋を担いでたのは――きっと夏影村に親戚か何かがいて食糧を届けに来ていたんです。それで、辻褄はあいませんか?」

 何となく適当にでっちあげてみたが、何となくそれが一番、ありそうな気がする。熱射病による記憶の混乱、一時的なショック状態、十分にありえそうだった。だとすれば、僕がとるべき最善の道は夏影村に向かうことだ。

 しかし、星崎冷美は明らかに不満そうだった。

「むう、夢も浪漫もないですねえ。でも――確かにそれが一番ありそうですし、世の中なんてそんなものかもしれないですしね。分かりました、そのようなことであれば不肖、この私も協力してあげます。夏影村の道案内役も必要ですし、何より記憶喪失の人間に同伴なんてそうそう経験できるものじゃありません」 

 僕は寧ろ最後の項目こそ彼女の主目的ではないかと怪しんだが、彼女は信頼に足る善意の持ち主でありそうだし、少なくとも退屈だけはしそうになかった。

「それじゃ星崎さん、お願いできますか? その、月影村でしたっけ?」

「夏影村です。それに――そちらだけ上の名前でさん付けだなんて、親愛の情が欠けているとは思いませんか? 私のことは冷美と親しく呼び捨てにして良いですよ。寧ろ、推奨ですっ。さあ、言い直して下さい。今すぐ、即座に、親愛の情をたっぷりと込めてですよ」

 むくれた顔で力一杯に主張されると僕としては逆らえる筈もなく、苦笑いを浮かべながら渋々言い直したのだった。

「それじゃ――冷美、お願いして良い?」

「ええ、勿論です」

 星崎――いや、冷美は腰に両手を当て意を誇らんとばかりに胸を反らした――余裕を持って片手で包んでもまだ足りないくらいだろうか。そして、腰回りは予想以上に細いようだった。

「――今、少し嫌らしい目付きじゃありませんでしたかっ!」

 なかなかに目ざとい。しかし、素知らぬ振りをすることにかけては僕だってそれなりのものなのだ。平然と首を振ると、冷美は渋々、追求を諦めたみたいだった。

「分かりました。二、三、気になるところはありますが、気にしないことにします。では行きましょう、私の後をしっかり付いてきて下さいね。まあ、夏影村までは後数分というところなんですけどね――道も一本だけですし」

 ということは、僕は村を目の前にしながら行き倒れそうになっていたという訳か。何とも間の悪い話だ。しかし、そのお陰で道案内も捕まえることができたことだし、まあ良いとしよう。些か、性格に難ありなのが唯一の不安点ではあったが、あえて気にしないことにする。

 僕と少女は歩き出した。再び真夏の支配する領域へと身を曝すと、例の米袋を背負い直す。今までのつけのようにどっと汗が噴き出てくる。それは村の住人であろうと同じようで、冷美も玉のような汗を額に浮かべていた。しかし、足取りは非常に軽い。

「で、夏影村というのはどういうところ?」

 歩く間、無言なのも気まずいので僕の方から話題を振ることにする。冷美は村のことを話したくて堪らなかったのか、向日葵のようにぱあと明るい笑顔を浮かべた。

「ええ、とても良い村ですよ。先ず、この道を抜けて村に入り少し歩くと『駅舎』と『船長さんの家』が見えてきます。船長さんの家は小さな船着場の近くに立っていて、日中は仕事が忙しくなければ、そこから少し離れた砂浜や『月光島』の方まで運んでくれます」

「船長さん? 月光島?」

 駅舎は廃線となった線路があることから予測もつくのだが、船長や月光島というのがいまいちよく分からない。

「はい。船長さんはその名の通り、船長さんです。昔は何処かの大きな港で網元さんをやっていたらしいですが、今は引退して奥さんと小さな漁船だけを連れてこの村に引っ越して来たんです。見た目は怖いですけどとても優しい方で、お昼にはいつも取れたての魚を用いた鍋を振舞ってくれるんです。毎日、それを目当てに船長さんの家に通う人も多いんですから。今の時間なら丁度、御馳走になれるかもしれませんよ。私もあのお鍋は大好きです」

 要するに、それも今では失われて久しい、世話好きの好々爺夫婦ということだ。純朴で変り者の少女といい、夏影村には失われしものが幾つも残っているらしい。

「ふーん、それで船長さんか。で、月光島は?」

「うーん、あの島については説明が難しいんですよ。百聞は一見に如かず、機会があれば船長さんに頼んであそこにも案内してあげます」

 どうも上手くはぐらかされた様子だが、或いは余程の名所なのだろう。ここに長居するかどうかは分からないが、心の隅くらいには留めておくことにする。

「にしても夏影村に月光島か――結構、面白い名前だね」

 ミステリィならば、財宝伝説の一つでも残されていそうな命名規則だ。

「さあ、私には詳しいことは分からないですけど――でも、どちらも韻の響きが良いじゃないですか。きっと、粋の分かる人がつけたんですよ」

「そういうもの――」

「あ、ほらほら、出口ですよ」

 僕の適当な言葉を遮って、冷美は少し先を指差した。確かにここから僅かだけ、開けた平地のような場所が見える。そして、空気も微かに変化があった。いつも、海岸沿いを通る時に香る潮の匂いだ。確かにこの先には海がある、そして冷美の言うことが本当なら、この先に夏影村が存在している筈だ。僕の心は俄かにわきたった。

 冷美は我慢できないとばかりに、足早く村の入口へと走っていく。僕も荷物を背負っているからそこまで早くは走れなかったが、懸命に後を追う。

 そして、村の入口まで辿り着いた時、潮の香りが殊更、鮮烈になったかのような錯覚を受ける。いや、錯覚ではなかった。幾つもの民家を縫って走る線路を辿ると、そこは確かに海に繋がっている。ここからでは駅舎も船長さんの家も分からないが、海の向こうには小さな島が見えた。あれが冷美の言う月光島なのだろう。

 少し先を歩いていた冷美は、僕の到着に気付くと足を止め、まるで映画のワンシーンのような仕草でくるりと振り向いた。そして、溢れ出るばかりの笑顔を表情一杯に浮かべて僕にこう言ったのだった。

「ようこそ、夏影村へ」

 彼女の生命力に満ちた全身と表情に、僕は不覚ながらも強く惹きつけられていた。

 そして、これが僕と少女――そして夏影村との邂逅だった。

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