−7−

 沢木和弘は電気も点けぬ部屋で一人、絶望と怒りに体を震わせていた。三年、たったの三年であった。勿論、単身赴任ということなのだから、彼女を不満に思わせていることは分かっていた。けど、それは彼女も了解済みだった筈だ。それに、長期休暇があれば何をも優先して彼女の下に駆けつけた。遠距離で積もりに積もった想いを晴らすかのように、お互いを満たした。買い物に食事、ドライヴに映画、カラオケ、睦事はお互いの欲求を晴らすような激しいものであったのに。去年も一昨年も、彼女の誕生日には心を込めたプレゼントを贈った。それに、何より沢木は彼女と約束した。戻ってきた時には、絶対に結婚しようと――沢木の言葉に嘘偽りは全くなかった。

 なのに、ようやくあと半年というところまで漕ぎつけた、その矢先だった。彼女が突然、涙ながらに電話をかけてきたのだ。ごめんなさい、ごめんなさいと先だって何度も連呼していたのは、今思えば先に謝っておくことでこちらの怒りを収めようという魂胆だったのかもしれない。兎に角、彼女の口から出た言葉は幾つもの脇道や言い訳を含んでいたものの、要約すればただの一言ですんだ。

「他に好きな男性ができたの――」

 最初にそれを聞いた時には、目の前が真っ暗になった。言い直しを要求し、同じ言葉が返ってきた時には、思わず彼女に怒鳴っていた。「どうしてだっ! お前、何で別に男なんて作るんだよっ!」との言葉に、彼女はなおもごめんなさい、ごめんなさいと鸚鵡のように繰り返すだけだった。もう拉致があかないと、沢木は暫くして一方的に電話を切った。これ以上は冷静に会話をする自身がなかったし、ごめんなさいなんて言葉、聞きたくなかったからだ。

 謝れば許される――自分との関係は要するにその程度の薄っぺらい関係でしかないと彼女は認識していたのだ。沢木はそのことを思うと、心掻き毟られるようだった。沢木は今の恋を、愛に辿り着くほどの稀有なものであると信じきっていた。これが最後の恋愛で、それは一生涯続くのだと思い、またそうである為にここまで頑張ってきたというのに――。

 それは、ごめんなさいで許されてしまう程度のものでしかなかったのだ。沢木にはそれが一番、悲しかった。勿論、単純にパートナを喪失するという不安もある。彼女とは正直、性格が凄く合ったし好みも近しいものがあった。性交の相性も悪くなかったと思う。だが、奔流の過ぎ去った今となっては些細なことに過ぎない。

 今、沢木の胸にあるのは自分が抱いた愛の確信めいた感情を彼女にも与えることができなかった、そのことに対する自らの力不足への悔恨だった。自分には何が足りなかったのだろう? 愛を確信させる強さと想い――それはどこから生まれどうしたら相手に伝え確信へと移ろうのだろう? いくら考えても、沢木には分からなかった。

 ちっぽけな誇りから涙を流す勇気も、愛を突き詰める勇気も、沢木からは失われていた。あるのはただ、未来に対する絶対的な絶望だけだった。

 

第一幕第四場
『黒づくめの女』

 

−8−

「――はあ?」

 少女の問いかけに対する、藤崎隆の第一声は正にそれだった。路地裏に引き込まれ、どのような目に合わされるかと少しながら怖れていたが、その質問は常識の範疇を遥かに超えている。金を出せと言われるならまだしも『世界破壊者』と尋ねられるなど、誰が予想しえただろう? 実に素っ頓狂な表情をしていることは予想できたが、それでも藤崎は己を振り返る余裕すら持ち得なかった。

 もしかしたら、何か聞き間違いをしたのではと、藤崎は耳掃除をする振りをして今度はこちらから尋ねかける。

「ちょっと、耳が詰まっててよく聞こえなかったらしい。もう一度、言って貰えないか?」

「だから貴方は『世界破壊者』なんでしょう? 隠しても無駄よ、私には貴方の体から滲む位相の歪みが見えるもの。世の在り方を在り方の規則よりも容易に組換え、或いは破壊できることのできる、それは証よ。普通の人間にはわからないでしょうけど、見える人には見えるの。そう言えば、貴方には納得して頂けるわよね?」

 藤崎には全く理解できないのだが、少女は解説を続ける気らしい。

「で、貴方は今、どんな力を使ってるの? それは、どのような影響を及ぼすもの? 良かったら、お姉さんにじっくりと教えて貰いたいのだけど、宜しいかしら?」

 少し腹立たしいことに、少女は自分のことを年下と断定しているようだった。藤崎は僅かんむっとしたが、そもそも変人に怒っても無駄だと言い聞かせ、冷静に対処しようと心を固める。

「あのですね、何がどう間違ったのかは分かりませんが――」こういう、夏の日差しに頭をやられたような人間には、なるべく穏当な言葉遣いを心掛けねばならない。藤崎は心持ち、丁寧に喋ることにした。「僕には貴女の言うような能力もないし、そもそも世界を引っ繰り返せるような能力を一個人が持ち得る訳がない」

「貴方がどう思っているのかは左程、問題じゃないの」

 少女は藤崎を掴む腕の力を心なしか強め、不敵な笑みを浮かべる。藤崎にはだから、彼女が全く納得などしていないことが悲しいほど理解できた。

「それとも、無自覚に放出してるのかしら。まあ、過去に幾つか例があるしあり得ないことじゃないけど、でも制御できないとなると処断しか方法がないのよね。日本はレヴェルの高い法治国家だし、屍体を出す真似は出来れば控えたかったのだけど――」

 それどころか、話が不穏当さを増し始めている。処断に屍体という言葉に加え、おまけに頭痛も酷くなるわで一刻も早く逃げ出したいのだが、拘束はまだ解かれていない。しかも、無理に抵抗すれば問答無用で痛い目に合わされかねないということも先程の会話から推測できた。となると、どうするべきだろう? そもそも、目の前の少女は何者なのだろう? そこからして藤崎には分からなかった。

 張りのあるスーツに身を包んでいるから、何か所属先があることには相違ない気がする。しかし、それにしては年齢が若すぎるような気もした。もしかしたら漫画などでよくある、飛び級を繰り返して日本では想像できない若さで大学を卒業した天才児かもしれないと、藤崎は想像してみた。だとすれば突拍子のない科白にも納得できそうな気はするが、かといって少女の何も分かったことにはならない。第一、そんな天才が日本に来て一般人をかどわかし世界を滅ぼす人間だなんて言い始めるのがそもそもおかしい。藤崎も一見した時は、何かの扮装をしているとしか思えなかった。

 と、そこで不意に一つ閃くものがあり、藤崎は思わず何度か瞬きして少女をいなすような視線で語りかけた。

「ああ、成程――確か、ファイナル何とかってRPGに君みたいな黒ずくめの女諜報員が出てたような気がする。あと二週間くらい先に、君のような格好をした人達が集まる大きなイヴェントがあるよね。それの練習? でも、普通の人を巻き込んじゃ駄目だよ」

 藤崎は、それが忌憚ない唯一の解答だと思っていたのだが、しかし少女は目をぱちくりとさせるばかりだった。

「イヴェントって何のこと? 私、そんなの知らないわ」少女は藤崎の言葉をあっさりと否定する。「もしかして私の言うこと、冗談だと思ってる? それともしらばっくれれば見逃して貰えるとでも? それはちょっと認識が甘いんじゃない? もしそうなら、ちょっと認識を改めて貰わないといけないわね」

 認識を改めるという言葉と共に、少女の唇が鋭く歪む。先程までは微笑を表していたそれを、僅かに角度を変えるだけで冷笑へと変化させる。その演技じみた態度が余計に現実感を奪うのだけど、また冷水を浴びせかけられたかのような鋭さを伴っていた。夢や非現実の曖昧さでは、決してこの鋭さや対峙感は再現できない。藤崎は思わず及び腰になった。

「大丈夫、少し冷たいか痛い思いをして貰うだけだから」

「冷たいか痛い?」

「そう。人一人恫喝するくらいなら、総体からすれば微々たるものでしょうから」

 総体から微々という言葉の意味が藤崎には案の定、分からなかった。少女は少女自身の哲理を持ち何かを語っているのだが、さっぱり理解できそうにないのがもどかしい。しかし、少女が何かをやろうとしているのは明らかだったし、何より背筋の奥底のほんの片隅でちりちりと警告するものがあった。彼女の言うがままにやらせることに対する、本能めいた想念は藤崎の口をより滑らかに言い訳めいた口調して開かせる。

「ちょ、ちょっと待った――別に誤魔化そうとしている訳じゃない。ただ、本当に心当たりがないんだ。第一、僕は平凡な高校生だし、力なんて意識したこともない。そんな力を持ってた先祖の話も聞いたことないし、妙な人体実験を受けてたなんて世迷いごとの類だ」

「人体実験で『世界破壊者』は生み出せないわ」

 少女は妙なところだけ肯定し、冷笑を保ったままに再び藤崎に顔を寄せてくる。間違いなくそれは恐怖なのに、それ自身ではなく少女の魅力によって藤崎は緊張していた。

「それに、ご先祖様は余り関係ないの。フィッツグランテやエクスクラモンドのような特殊な血筋でない限り、それは突発的に生まれ、世の理を変え、そして消え去っていくだけ。歳は更に関係ないわ。それこそ〇歳の赤子から一〇八歳の老人にまでそれは等しく与えられる可能性のある力なのだから。で、言い訳はそれだけなのかしら?」

 少女は説明を終えると、明らかに面白がる類の表情を浮かべ藤崎を見据える。獲物を弄る猫のように細い虹彩は、御しきれない感情をゆっくりと刷り込んでいく。これが殺気というものなのだろうかと心の隅で考えながら、藤崎はここから抜け出す為の説得を続ける。

「いや、言い訳じゃなくて――何でそんな物騒な力が僕の中にあるんだ? 第一、貴女にどうして力の存在を認知できる? 僕自身には何も分からないっていうのに」

「前者で尋ねるならば、答えは不定。力が何処から生まれ、どのように育まれ、そしてどのような過程で人間に固着するのか、それを完全に証明できたものはいないの、残念なことにね。あらゆる科学師や宗教師、魔術師がそれを試みたけど、失敗に終わってるの。ただ後者については、直ぐに答えられると思うわ。その方法は既に確立済みでね、素質のある人間ならある種の波動位相の歪みを検知する能力を備えることができるみたい。今のところ、その補足率は約九十八パーセントってところだから、概ね信頼できるんじゃないかしら」

 また新しい単語がでてきて、いよいよ藤崎の頭も回らなくなってきていた。彼に分かるのは、何やら訳の分からない技術で補足された挙句、妙な濡れ衣を着せられているということだけだ。

「でも、本質的に訳の分からないものなんだろ? それを、たった一つの技術で完全に補足できるものなのか? 僕には根拠が不足しているように思える」

 最早、その力があることを前提として話していることに気付きながら、藤崎は目の前の少女から逃れたいという一心で詭弁を並べて続ける。世界の破壊より何より、藤崎には目の前の少女が唯一の敵だった。

「それは、確かに図星ね」少女は藤崎の意見を腹立たしい程のアバウトさで肯定し、顔を少し遠ざける。どうやら、追い詰めるという気勢を少しだけ削ぐことには成功したようだった。しかし、少女も負けてはいない。「でも、位相の歪みが見えるということは在る世界からずれているということなの。まあもう少し端的に言うと、貴方は二つの世界の丁度中間にいるような存在なのよ、可哀想なことに。貴方、ジョンパール分岐点って言葉、御存知かしら?」

「有名なSF用語でしょう? 確か、重要な歴史に干渉することで別の歴史を生み出すとか、そういった感じのものだったと記憶してるけど」

「ええ正解、よくできました」

 藤崎の説明に、少女は出来の悪い生徒を相手するかのような態度だった。

「人間は普通、一つの可能性世界にしか存在できない――これは分かるわね。今の世が科学、乃至数学万能の世界ならば、それ以外の世界には存在できないの。物理法則以外のそれに反する概念性は、世界によって否定される。しかし、稀に二つ以上の可能性世界に跨って存在することのできる特異存在と言うものが発生する。それは突き詰めれば、一つの可能性世界に普遍する法則を他の可能性世界に移植することができるという事実に帰結するわ。そうなれば、被移植側の存在目的性が消滅してしまう。世界が破壊されるわけ――つまり、私の言う世界破壊者とはジョンパール分岐点を自在に生み出せる存在よね。他にも異説あるけど、今のところは我々の中で最も支持されてる考えだし、幾つか実例も示されてるから間違いないでしょう。もっとも、これは科学という概念性に則った説明でしかないのだけれど」

 少女は先程の説明を科学的と言うが、藤崎には何処か出来の悪いSFの概念をそのまま聞かされているようにしか思えない。目の前の少女がいかにもファンタジックな存在であることも、それを助長している。第一、そんな極秘っぽいことを他者にべらべらと喋っている時点で、嘘臭さ満点だった。並列世界という概念は、超弦理論という物理学の一大統一法則と目された理論が予測したということもあり、ある種SF作家のムーヴメント的意味合いが強い。それに触発された戯言と言い切ってしまえば、それで終わる筈だ。

 しかし、少女の存在を否定すれば即、痛い目に合わされかねない。現実に即するか、空想に埋没するか、藤崎には強烈な二者択一が迫られていた。

「言いたいことはよーく分かった」藤崎は取りあえず、強く少女を肯定したあとでやんわりと否定することにした。「ただ、並行世界というのはあくまで仮説だ。そもそも、その世界を仮定する為の法則がまだ理論物理学という不確かな分野にしか立脚してない」

「この場合の並行世界とスーパ・ストリングは無関係よ」少女はきっぱりと断じる。「スーパ・ストリングから派生した並行世界説は、全ての並行世界が同じ物理法則であることを仮定しているに過ぎないわ。私の言ってるのは、様々な法則や概念可能性が織り列なる並列世界のことよ」

 ここまで来ると、もう絶望的に分からない。藤崎は頭を掻き毟りたくなった。まだ同じ物理法則から成る人間と会話するなら兎も角、異次元の会話には慣れない。

「どう、分かった?」

「分かるわけないだろ!」

 少女の余りにあっさりとした物言いに、藤崎は思わず怒鳴っていた。立場は圧倒的に不利なのに、それでも何かを言わずにはいられなかったのだ。

「僕はね、学校の人間には余り知られてないけど、実は気の長い方じゃない」

「それは奇遇ね、私も気の短い方なの。正直もう、質問に答えるのも飽きてきたし」

 少女の不敵な物言いに、藤崎は遂に感情を爆ぜた。こんなに怒ったのは、高校に合格した時の両親の余りの過保護ぶりに腹が立って怒鳴った時以来だなと片隅では思っていたところ、理論を組み立てる頭くらいは残っていたのだが、藤崎自身は気付いていない。

「貴女の言ってることはさっぱり分からない。第一、もし貴女の言ったことが全て本当だと仮定してですよ――そんな確信めいたことを会って初めての人間にべらべらと喋りますか? 僕は何も知らないし力なんてない。しかし、もし貴女の言う力を持っている人間が本当にいると仮定する」

「貴方の言うことは、仮定ばかりなのね」

「黙って聞いて下さい。そういう人間に貴女の知識を語る時、もし物分りの良い人間ならば良い。力を使うことを悔い改めてくれる。しかし、そういう力を悪用しようとしたならば――貴女の語ったものは武器にすらなる。人は不思議なことでも、理論付けられさえすれば安心できる生物なんですからね。理屈さえ付けば、躊躇しない。人を愛することも、殺すことさえもだ」

 少女は藤崎の言い分に、いちいちもっともだと肯いている。

「かもね。でも、そういうわけにはいかないの。我々の規律の最高法規に以下のような一文ものがあるからね。『同じ運命を持つものには我々と同じ知識を知る権利がある。その上で選んだ道の上でのみ、我々は処断を下せる』のだと――初代エクスクラモンド家の当主が定めたこの規律にだけは、誰も逆らうことができない。まあ確かに、何も知らずに殺されちゃうのは可哀想だと思うわ――こういうのって大体、よくも分からないのに力を得ちゃうってパターン、多いから」

 初代の決めた方針に逆らえない――藤崎にはそれが、ある意味で物凄く体の良い逃げ文句のような気がしてならなかった。しかし、敢えて口を挟まず続きを促す。

「それに、力を持つ人間は全て皆、我々の力になってくれる可能性もあるの。趣旨に賛同して貰えるなら、そしてそれを正しく使えるのならば、世界を破壊する力こそ世界を守る力に他ならないのだから。世界を荒ぶる混沌に還す神と守護天使は、この世界では同じ顔をしてるのよ」

 そう言って――。天使のように微笑もうと試みた少女の顔は、黒ずくめの姿と小悪魔めいた容姿に遮られ、藤崎には逆に悪魔のように見えた。

「というわけでこちらも色々と話したのだから、貴方も決断して貰わないといけないわね。貴方に残されている道は三つ。全てを委ね力を失うか、我々の力になるか、全てを拒否して私に殺されるか――単純な三者択一よ、選びなさい。それが、私の提供した情報に対する貴方の代償。それとももしかして、貴方は代償無しに情報を得られると思っているの?」

「腕を掴まれてたら逃げられない」

「でも、質問をしたのは貴方よ」

「もし、宇宙人と出会ったなら色々と質問するのは当たり前だ」

「じゃあ貴方、私を宇宙人だと言うの? こうも人間の規格に則り、端整な作りをしている女性になど、そうそう会えるものではないでしょう」

 少女は藤崎を掴んでいる手とは反対側の手を腰に当て、首を傾げる。確かに少女の言うことは肯けるが、自ら主張するところがまた胡散臭い。しかも黒づくめの姿で格好をつけて言うことではないような気がする。何だか、急に馬鹿らしくなった。

「分かった分かった。でも、僕には委ねる力も与える力も、ましてや殺されて然るべき力など持ってない。よって質問は前提から間違ってる」

「――まだ、シラを切る気ね。ここまで懇意に説明してあげて、なかったことじゃすまないの。然るべき返事をしなさい、でなければ貴方を殺しますから。私、本気ですよ」

 少女のごね方はまるでやくざのように悪辣だった。では、どうすれば良いのだろうと苛立ち気味に思案していると、少女の肩に止まっている烏が肩を突っつき始めた。そして口をパクパクさせ始めたと思うと、驚くべきことに先程と同じく人語を喋り始める。今度は藤崎にも分かるようにという配慮があったのだろう、日本語だった。

「マスター、こいつうぜえ、さっさと殺しちまえ」

 目付きと顔付きの悪い烏は、口調もそのままだった。

「うーん、でもねえ。愚鈍だけど、根は悪くないと思うのよ。素材的にも良いし、後は調教次第で如何様にでも」

 少女の口からさらりと恐ろしい言葉が飛び出す。

「ちょっと待て、調教ってどういう意味だ?」

「うぜえてめえ、喋んな――ありゃ?」

 口の悪い烏が突然、人間には不可能な角度で首を傾げる。

「おいマスター、こいつちょっと変だぞ。もう一度、位相を調べてみろよ」

「えっ、何か変化があった――うわ、こりゃまずったなあ、早とちりね」

「和んでんじゃねーよ、ばーか、うっかりもの」

「仕方ないでしょ、茹だるような暑さで脳味噌駄目になってるんだから」

 いきなり仲違いを始めた少女と烏を見て、藤崎は呆気にとられていた。しかも言葉の節々には、自分が全くの勘違いで因縁をつけられたという節さえ見当る始末。何時の間にか腕の拘束も解かれており、藤崎は今が機会と言わんばかりに後ずさる。そして後ろを向いて逃げようとしたところで、服を少女に捕まれた。

「あの、少しご相談があるのですが、宜しいかしら」

 藤崎は少女の言葉に含まれる刺にあてられ、思わず肯いていた。

「先程の件なのですが、ちょっと事情が変わってしまいました。というわけでもう、貴方に対する拘束力はないのですが、できれば任意でいくらか訊きたいことや相談したいことがあるので暫くご同伴して頂きたいなあと思いまして。協力して頂けますよね?」

 是非を問わさぬ声。少女に首根っこを捕まえられ、非常に情けないと思うのだけど、藤崎はもう一度肯く。逆らったら負けだと思った。少女は藤崎を一八〇度向き直させ、両手をぎゅっと握る。

「こんな熱い太陽の中では脳味噌も茹だりますわよね? 近くに牛丼のお店があるので――私、日本の軽食の中でもこれが気に入りまして――続きはそこで。勿論、私の奢りで宜しいですわ」

 この少女は、都合が悪いと口調が変に丁寧になるらしい。その辺りをからかってやりたい気分だったが、意味もなく変なことをすると嫌な目に合わされかねないし、後の禍根を断つのが大変そうだった。ここは一度でかたをつけておくべきだろう――藤崎は真剣にそう思う。

 少女の言葉に喚起され、猛烈な暑さが身に蘇る。頭痛は以前にも増して酷いが、暫くはこの妙な少女から逃げられそうになかった。

「そう言えば――」

 握りしめていた手を離すと、少女はわざとらしくぽんと手を叩く。

「まだ、自己紹介がまだでしたね。私はレイチェル=エクスクラモンド、エクスクラモンド家の血筋に連なり、正当な魔女として生まれたものです。これからも、お見知りおきを」

 少女――レイチェル=エクスクラモンドは血筋に連なるという科白に偽り無き、恭しい礼をしてみせる。これからもという言葉は一度きりという言葉と逆であるというのに、藤崎は目の前の存在に圧倒されて思わず会釈を返していた。

「藤崎隆です、宜しく」

「成程――では隆、私の方はレインと呼んでください。レイチェルでは長過ぎるでしょう? では行きましょうか」

 レイチェル――レインは問答無用で藤崎を名前で呼んだ後、その意も介せずとことこと歩き始める。その肩には烏が止まり、盛んに藤崎を睨みつけていた。

「こらゼフィ、威嚇しちゃ駄目でしょ!」

 どうやら、烏の名前はゼフィというらしい。藤崎はそんな馬鹿なことを思いながら、レインの後を追う。太陽と頭痛だけが激しさをます、夏昼の盛りだった。

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