−9−

 私は――。

 死ななくてはならない――。

 私は――。

 今、私は台所にいる。血の臭いが直ぐ近くでする――父さんが死んでるからだ。父さんは金串のようなもので、首筋を刺されていた。まるで、昔の時代劇のような殺し方。つまり、相手の身体的特徴をある程度熟知し、そして最たるは哀れみのない殺し方ということだ。

 そこから包丁を一本取り出すと、私はゆっくり一つの部屋へと向かった。この世界で最も永きを過ごした場所に向かう。そこほど、死に場所に相応しいところはないだろう。

 そして、私はそこに辿り着く。後は、首筋に包丁を当ててすーっと引けば良い。さぞかし大量の血が溢れ、私の人生は血の温もりの中で孤独に絶えていくだろう。

 首筋に包丁を当てる。後は、強く力を込めてスライドさせれば――。

 三十秒が経つ。

 一分が経つ。

 そして三分の経った時、私は荒い息を吐きながら包丁を落とし、蹲りながら泣いていた。

 どうしても、怖くて――。

 他に道はないのに、どうしようもなく怖くて――。

 独りで死ぬことの孤独に耐えられそうになくて――。

 私は、無様に、みっともなく、泣いている――。

第一幕第五場
『医師と花火師』

−10−

 僕たちの元にやって来たのは白衣を着た二十五くらいの男性と、タンクトップにショートパンツというラフなこと極まりない装いをした同じ年くらいの女性だった。

 男性は、この暑さだというのに長袖の白衣を平然と着こなしている。そして、何か用途の分からぬ黒の鞄を右手に抱えていた。風貌は大人びた装いに似ずことのほか幼げで、大学院生といっても何ら不思議はなさそうだった。しかし、この村に大学などある訳がないだろう。となると信じ難いがこの人は医師で、例の鞄は回診用に薬や包帯などの応急処置具が揃えられている筈だった。

 こちらの不躾な視線に気付いたのだろう。『医師』は、僕の方に近寄り人懐こい笑顔を浮かべてくる。

「こんにちは、見慣れない顔だけど君も迷って来たクチかい?」

 君も? ということは、この男も何か迷ってこの村に来てしまったのだろうか? 不思議に思い首を傾げていると、男は何も言わず首を振った。

「まあ、そんなことはどうでも良いけどね」僕にとっての重大事を、男は全く無関係かの如くあしらってみせた。「僕は江田湖(こうだしょう)といって、この村で医師をやってる。と言っても、こんな容姿に童顔だから始めは皆、学生か研修医のバイトかって怖い顔をするんだがね。全く、医師と政治家と教師は、老けてる程信用されるってのは本当だよ」

「そんなことはないですよー」横から星崎冷美が割り込んでくる。「この村の人は江田さんのこと、良いお医者さんだってとても信頼してるんです。ですよね、燎子さん?」

 燎子と呼ばれた女性は、縋るような江田医師の視線と冷美の同意を求める表情に真っ向から逆らい、ひょいと肩を竦めてみせた。

「さあ? わたしは風邪にも怪我にも縁がないから分からないね」

 彼女の連れない一言に、男性は情けない表情をしてから溜息を吐いた。しかし、本当に疲れている様子はないようだから、慣れてるのかもしれない。実際、二人で並んで歩いてきたのだから、そこまで殺伐とした関係でもないのだろう。

「では、もし仮にそのようなことがあった時には僕の所に来るなり呼びつけるなりして下さい。藪医者なりの治療はさせて頂きますから」

「はいはい、期待してるよ」

 彼女は医師に向かって何度かひらひらと手を振ると、新参者である僕にやはり、物珍しげな視線を送ってきた。この村は余程、他の場所から人が来ないのだろう。

「おっと、初めてだというのに自己紹介がまだだったな。あたしは久賀燎子(くがりょうこ)っていうんだ。久しいに賀正の賀、燎原に火を駆る子と書いて燎子と読む。まあ、名前ほど熱血してる訳じゃないけどね。まあ、宜しくな」

 確かに少し気だるそうな挨拶で、体からは良い意味で力が抜けている。背は僕より少し低いくらいだから、女性としては長身の部類に入るだろう。そして恐らくは、普段から心の内を積極的に曝す方ではないらしい。差し出された手は、年頃の女性にしては少しがさついていて無骨で、黒や灰の粉みたいなものが沢山付いていた。

「ああ、これ? まあ、仕事柄ってやつかな。あたし、村の外れで花火を作ってるからこういう汚れや作業で手が荒れちゃっててね。もう、慣れたけど」

 彼女は、普通の女性なら余り歓迎しないであろうその手を、眩しい宝石のように空へとかざす。その腕が生み出したものに誇りを持っていなければ、とてもそんなことはしないだろう。僕は他者に誇れる可能性に至る道すら薄ぼんやりとしているせいか、少し彼女の自信を羨ましく思えるのだ。まあ、ないものねだりしても仕様がない。僕は礼儀に反さぬよう、江田医師と久賀さんに向かって、今日何度目かの挨拶をした。

「記憶喪失の旅人かあ――そこまで胡散臭いと笑うに笑えないな」と言いつつ、腹を抱えてくっくっと押し殺し笑いを忍ばす久賀さんは、失礼の塊だった。「でも今時、そんな職業――ドラマか小説くらいのもんだぞ。水戸黄門だって、最近はもっとマシなこと言うよ」

「――水戸黄門は今も昔も越後の縮緬問屋の隠居ですけど」

 江田医師がそっと突っ込みを入れると、久賀さんは鋭い目付きで医師を恫喝した。その迫力に負けたのか、彼はすごすごと引き下がった。情けないと言う莫れ、僕も少しだけ怖かった。

「でも――つまりはそれだけ純粋に何かを探してるってことを意味してるんだろうな。探しているのが人か、生き様か、君だけの星か、それはあたしにも分からない。ただ、君が純粋だってことはよく分かる」

 そうだろうか? 僕はそんなに純粋な性質に見えるのだろうか?

「純粋って言うか、騙されやすそうな顔はしてますけどねー」

 真面目に考えていると、冷美が横から茶々を入れてきた。

「違いないな」

 しかも、久賀さんが同調して笑い出すものだから僕としては立つ瀬がない。もう一人の男性である江田医師に助けを求めようとすると――。

「こんにちは、今日も朝から働き通しで大変だったんじゃないかい? ここは老人が多いからねえ、ほらほら昼食も出来てるから存分に食べてって良いよ」

「今日は上手い出汁のとれる魚が仰山、取れたからな。味も保証付きじゃ」

「ありがとうございます。こちらから押しかけて、いつも親切にしてくださって」

 ほのぼのとした会話を、篠原夫妻と繰り広げていて僕の味方にはなってくれそうもない。残された道は、女々しく拗ねることだけだった。

「もう、良いです。どうせこの村には僕の境遇を嘆いてくれる人なんていないんだ。何かの見世物くらいにしか思ってないに決まってる。それに、よく考えたら僕の悩みは村の駐在所に駆け込めば済む類のものだから、今から直ぐに行きます。冷美、道を教えてくれないか? 道案内役なんだろ?」

 この言葉で、別に誰かを傷付けようって訳でもなかった。けど、名前だけ辛うじて覚えてる、何の拠り所もない自分が馬鹿にされてると思って、つい強い口調で言ってしまった。僕の何を感じ取ったのかは分からない。けど、冷美は僕が見た中で一番、激しく動揺しているようだ。そしてあろうことか、大きくつぶらな瞳から涙をぽろぽろと零し始めた。

「その、ごめ――ごめん、なさい」冷美は、必死に何度も何度も頭を下げていた。「私、その――ごめんなさい。だって、そうですよね。普通、記憶喪失なんて凄く、凄く大変なことなのに。私、未来のこと全然考えてませんでした。楽しそうとか面白そうとか、失礼なことばっかり言って、はしゃいじゃって。嫌でしたよね、嫌いですよね――」

 僕は――悪くない筈だ、きっと。正しいことしか、言ってない筈だ。でも、女の子の涙はどんなに正しいことも全て、間違いにしてしまう。それが純朴そうで、見目も割合に良くて、しかもいつもは笑ってばかりの明るい性格の少女ときた時には、総理大臣だって裸足で土下座して謝るだろう。僕が相対しているのは、まさしくそういうものだ。

 それでも意固地になって口を閉ざしていると、冷たい視線が四組、僕に注がれるのが嫌でも分かった。篠原夫妻、江田さん、久賀さん――その種類や形、重みは違うけど、その全てが非難と諦観の念に満ちている。それで、僕も折れるしかなかった。

「あの、悪かった。記憶喪失で確かに戸惑ってるってのはあるけど、それでも僕が言い過ぎた。別に冷美を傷付けようって訳じゃないし、ましてや嫌ってなんかないよ。それに、冷美が僕を元気付けようとしてくれたのは凄く有り難いし、何より命の恩人だ。誰よりも何よりも感謝してる。だから、その、泣き止んでくれないかな?」

 しかし、僕が何を言っても冷美は泣きじゃくるだけで態度を軟化させない。これは相当の重症とみえる。再び言葉と行動を失った僕は、きょろきょろと辺りを見回すだけの優柔不断な人間に成り下がっていた。

「なあ、こういう時、医師だったらどうするんだ?」

 無責任にも、久賀さんは何時の間にか江田さんの隣まで歩み寄り、脇腹を肘で突っつきながら面白そうに尋ねている。なんて奴だ。

 江田さんは少しの間、真面目そうに考えていたが、やがて何か思いついたのだろう、歪んだ顔は面白い興行を眺めている人間のそれに相違なかった。

「そうですね。注射を嫌がったり治療を嫌がったりする子供は研修医時代に結構、相手にしましたよ。僕は子供が苦手でしてね、何とかあやす方法はないかと先輩に相談したことがあります。そうしたら先輩は言いましたよ。分別のありそうな子供なら、しぶとく言って聞かせるのが最善だ。しかし、分別のない子供や癇癪を起こしている子供に対してできることはただ一つ。優しい言葉をかけ、抱きしめて頭を撫でてやれ――それで大抵の子供は泣き止むって」

 一瞬の沈黙の後、二人の男女は目を合わせて頷き、厭らしい笑みを浮かべながら手を振った。全くノリの良い反応だが、僕には全く歓迎できない。しかし、このやり取りの際にも泣きじゃくる冷美の声が僕の両親をちくちく突付くのも確かで――。

 しかも、一際な怒声が僕を強烈に後押しした。

「おい、峰倉君。女を泣かせるのは男の性だが、泣かせたままにするような奴は男の風上にもおけんぞ。別に減るもんじゃないだろ、抱きしめて頭を撫でてやれば良い。わしはいつもやっとる」

 宗一さんなら、そう接しても問題はないだろう。しかし、まだ出会って数時間しか経っていない、年も左程変わらぬ少女を抱きしめてあやすなどというのは何より恥ずかしいのだ。宗一さんも男として生きて来たなら分かりそうなものだが、昔の気持ちはもう忘れているらしかった。

「そうですよ。それにお鍋が煮え切ってしまうでしょう」

 対するタキさんの発言は、意外と無責任で冷たいものだった。或いは夫と違い、こういう事態には慣れっこで干渉しないのだ良いと考えているのかもしれない。しかし、それは何の助言も貰えないということだ。つまり、覚悟を決めなければならないということで――。

 僕は素晴らしく憂鬱な溜息を吐くと、冷美の元に近寄りもう一度鍋を中心にして集まる四人の大人を見た。どうみてもつぶさに、フレーム落ちすら見逃さぬほど注目されているのが分かって、僕はまるで味気のないドラマのクライマックスを演じさせられてる素人俳優みたいな気分になった。

 どうやらやるしかないみたいだ――。

 最後の一線を越えると、僕は素早く左手で冷美の体を抱き寄せる。決心するまでは遅いが、一度決断を下した後の行動は早いと自負しているから、躊躇わなかった。服越しに感じられる冷美の体は思ったより柔らかいが、今はそれについて考えてる余裕はない。

「ほら、もう泣くなって」

 弟や妹がいたという記憶はないし、僕自身が行為に戸惑っているということは、こうして優しく他人をあやし、頭を撫でてあげたことなどないのだろう。冷美は少しだけ体を引いたが、僕のしていることを悟ったのか、そっと胸を預け横隔膜をしゃくっていた。身を委ねられる感触に、胸が淡く疼くのを感じる。これも初めての感情だが、その正体は何となく推測できる。大抵の母が子供に抱く、庇護を受け入れる気持ち――母性本能というものだ。以前、男の中にも母性本能は宿っていると聞いたことがあるので、これは直ぐに納得できた。

「僕が悪かったから――よしよし」

 本気で娘を持った母親の気持ちになっているのだろう。普段の僕よりは根気強かったし、冷美自身もあの激しい狼狽ぶりからすれば驚くほど早く立ち直りつつあった。しゃっくりの間隔も長くなっている。でも、冷美の様子が治まるにつれ僕の心が落ち着いてくると、気になることが頭をもたげてくるのだ。僕が強く言ったのも原因なのだろうが、それにしては冷美の泣き出し方が唐突で分別のない。今時の少女が、幾ら純朴であるとはいえきついことを一度言われただけで泣き出すとは思えないのだ。何か、僕の気付いていないところで冷美を傷付けるものがあったのだろうか?

 そんな思考に捉われていた時、冷美が微かな囁き声をもらした。

「――やっと、見つけた」

「え、何を見つけたって?」

 先程まで泣きじゃくっていて何も話してくれなかったので、冷美の声に僕は素早く反応してしまった。それが彼女を驚かせたのか海老のように飛び退き、服を掴みながらも僕との距離を置く。そこで、やっと泣き濡れた冷美の顔を見ることができた。微かな怯えが混じり、鼻水を盛んに啜る彼女はなおも僕の良心をいたく刺激してくれる。

「あ、その――それはこっちの科白です。それより、その――すいません、無様なところをお見せしてしまって――私、もう中学生なのに馬鹿みたいな泣き方して。おまけに、未来に優しく慰めて貰ったりして――」

 まだ少し動転しているのだろうか――出会ったときから嫌というほど発揮されてきたであろう闊達な口が上手く回っていない。

「だったら、気にしないで良いよ」僕は彼女の肩から手を離して二度、親愛の情を込めて頭を軽く撫でるようにして叩いた。「僕も言い過ぎた。それによく考えたら、何もない僕がこうして辛うじて落ち込まずにすんでるのも冷美が明るく振舞ってくれてたから――僕はきっと少しだけマシな気分でいられるんだと思う。僕は、泣かないですんでるんだと思う。それよりこっちこそ、ごめん。そんなに我を忘れるほど泣くってことは、僕が知らずに冷美のこと、傷付けたからだろ?」

 僕の言葉に、冷美は明らかに動揺し、それからふるふると大きく何度も首を振った。でも、それはきっと嘘だ。

「何が、冷美のことを傷付けたの?」

 残念だけど、僕の頭じゃ――そして出会ってから数時間のふれあいだけでは、彼女がショックを受けた原因が理解できない。そして理解できないことは相手から話を聞くことでしか存じ得ぬものなのだ。少なくとも、人間の言葉と思考の関係においては。

 しかし、冷美は頑なに口を閉ざして何も言おうとしない。余り、人に話したくないことなのだろうか――僕がそう訝しんでいると、冷美は突然、僕の両手をぎゅっと握ってきた。

「いえ、傷つけたんじゃありません」冷美は深みのある眼差しを強く向け、ついで頬を少しだけ赤く染めた。「実は私、一目見たその時から、未来のことが好きでした」

「――え?」それが余りにいきなり過ぎたから、僕は間の抜けた表情と声を示すことしかできなかった。「それは、どういう意味――」

「ああ私、この人こそ運命の人だなって思ったんです。けど、私が失礼なことを言ったせいで未来が怒ってあんなことを言うから私、もう二度と未来に会えないかもしれないと思って、そう考えると自然に涙がわいて来て――こんな気持ち初めてだったのでどうして良いか分からなくて」

なんだか話がとても微妙な方に向かっている気がしてならない。しかし直ぐ、必死に思いのたけを話そうとする冷美の目が完全にはこちらを向いておらず、何処か気もそぞろといった様子なのに気付いた。彼女はやはり、嘘を吐いている。だから、僕はそっと冷美の耳に囁いた。

「別に、頑張って嘘を吐かなくても良いよ。どうしても言いたくないなら、僕は聞かない。それくらいの分別は心得てるつもりだから」

 すると、冷美は最後に大きく体を震わせ、それから僕の肩におでこをこつんと当てた。

「――ありがとう、ございます」

「いいって、そんなに気をつかわれるの、余り好きじゃないしね。それより、早くしないと鍋が煮詰まるよ。ほら、ハンカチか何かで涙を拭いて」

 そう促すと、冷美は僕のシャツで涙を拭き始めた。

「こら、やめろって」

「うう、だって私――ハンカチ持ってないんですよー」

 情けない声に誘われ、僕は自分の持ち物にハンカチがないか調べた。すると、左ポケットに新品の青を基調とした柄のハンカチが一枚、丁寧に畳まれ収められていた。涙なら兎も角、洟をかまれたりしたら堪らないので「ハンカチなら僕が持ってる」と素っ気なく言い、彼女に手渡した。冷美は涙を拭い、お約束のように洟をかむとばつが悪そうに返してよこした。

「では――戻りますか、皆も待ってますし」瞼は少し腫れ、涙の跡も隠しようがなかったが、取りあえずは元気になった冷美が僕の服の裾を引っ張る。「ほらほら、皆も待ってますよ」

 冷美が駆け出したので、僕も慌ててその後を追う。何だかさっぱり決まらない二人だけど、少しだけ狭まった空気を僕は心地良いと、不覚にも思ってしまったのだ。

 鍋の前に戻ると、既に鍋は強く煮立ち食べられるのを辛抱強く待っていた。

「よっ、よくやった――未来くん」久賀さんが、僕の肩を思い切り叩くが予想できたことなので咽ずにはすんだ。「まさか本当に――いや、なかなか格好良かったぞ」

 今、少し聞き捨てならないことを言ったような気がしたが、僕は敢えて聞かなかったことにした。横を見ると誰かが既に手配してあったのだろう、冷美は濡れタオルで顔を拭っていた。

「じゃあ、万事収まったことだし、ご飯にしようか」江田医師が無理矢理まとめて、鍋を突付こうと盛んに箸を動かしてる。「食べながら話のできるところが人間の良いところだと昔先輩も――」

「お前が仕切るな」久賀さんはぴしゃりと医師をやり込めてから、鍋の万人であるタキさんに了解を取る。「それでは、宜しいですか?」

 勿論、タキさんが断るはずもなく、いただきますの言葉を交わすと幾つもの箸が素早く鍋に走っていき、数瞬後には魚や野菜を掴み取っていった。明らかに皆、鍋に慣れており僕も必死で己の領域を確保せねばならないほどだった。

「はふはふ、真夏に炎天下でお鍋なんてやっぱり贅沢ですよねえ」

 冷美が取り分けた具材を頬張りながら、額に汗を流しつつ僕に同意を求めてくる。

「確かに、なかなか味わえないシチュエーションではあるけど――」

 クーラのがんがんに効いた場所なら兎も角、流石に毎日は遠慮したい。でも、こうやって見ず知らずの人とさえ打ち解け一つの食卓を囲ませる魔力というものを、鍋は持っていると思う。そこだけは、同意しても良いと思えるのだ。

「ええ。でも、楽しいですよね」

 僕が大きく頷くと、冷美はとても嬉しそうに笑う。鍋が美味しいことより何故か、僕は彼女が笑っている方が嬉しいと思った――とても不思議なことだけど。

 食事中の会話もまた食事の速度と同じくらいに盛んだったが、僕は話すことがないので主に会話を司る久賀さんと江田医師の話を黙って聞き、たまに相槌を打っていた。例えば、子供に請われて怪我を負った仔狸を――勿論、江田医師は獣医の免許など取っていない――治療をしたという珍エピソードを江田医師が披露すると、久賀さんも負けじと初めて上がった自分の花火の話をことも大袈裟に話してくれた。もっとも後に聞いたことだが、既に食事の席では十数回と話題に挙がっていたものらしかったが。

「そう言えば、この村でも来週末が花火大会ですよね」冷美が、久賀さんに期待の眼差しを向ける。「もう、用意はできてるんですか?」

「ああ、大概はね。後は打ち上げ台の微妙な調整が終われば大丈夫かな。本当は打ち上げも打上師って専門の職人が行うんだが、三十玉程度だだから一人で取り仕切って問題ないだろう。これから星華海岸へ下見してくる。全く星華とはよく言ったものだ、まるで花火の打ち上げ場所として名付けられたようじゃないか。それとも昔は本当に、あの海岸で花火を打ち上げていたのかもしれないな」

 成程、その推測は案外、正しいのかもしれない。でなければ、この何もなさそうな村に星華なんてきらびやかな名前はつかないだろうから。

「わしはここに越してきて日も浅いから、花火を見るのは初めてだ。楽しみにしとるよ」

 今まで若者のお喋りに耳を傾けていた宗一さんが、興味深げに口を挟んでくる。その様子は僕でなくとも、花火や祭りが好きな老人の姿を思い浮かべるだろう。

「ええ。数は少ないですが精鋭揃いですから期待してて下さい」

 久賀さんは拳をぐっと握りしめ、その気合の入りようを皆に披露した。不思議なことだが、彼女が保証すると根拠のないことでも上手く行きそうな気がするのだ。僕はこういう全身から滲む力を感じさせる人間を以前、何処かで見たことがあるのだがよく思い出せなかった。

 しかし、それよりも。よく考えれば、僕はその時までこの村に可能性の方がぐっと少ない。もしかしたら――こんなことを言うと冷美に再び泣かれてしまいそうだから言わないのだが――明日にはもうこの村にいないかもしれないのだ。

 僕の昼食における後半は、こうした思索と会話の半々で占められていたと思う。

 魚と野菜が二度も追加され、更にたっぷりと取れた出汁から作られるおじやさえも貪欲に消費され、昼食の終わった時には皆が満腹を享受していた。

「それでは、僕は回診に戻ります。篠原さん、昼食ありがとうございました」

 江田医師は鞄を手に持つと、白衣の皺を伸ばして篠原夫妻に一礼する。

「いやいや、若い人が気張って食べてくれるのを見てるだけで、こちらは嬉しいんですから。遠慮せずに、何時でも来てくれれば良いのよ」

 タキさんは、それを至って無骨で気の良い笑顔で返してから、まるで親が子供にするよう白衣に付いた砂を払ってやった。彼は少しくすぐったそうだったが、内心の嬉しさまでは隠しきれていない。彼が照れるように立ち去ろうとするのを、僕は慌てて止めた。

「あの、江田さん」

 僕が呼び止めると、江田医師はなってないなあといいたげに首を振った。

「僕のことは、江田先生と呼ばなきゃ駄目だよ」非常に尊大な言い口で、彼は僕を諭すように言葉を続ける。「特に、せんせいという部分には親しみを込めて――」

「たわけ」何時の間にか背後に来ていた久賀さんが、江田医師の頭をはたいた。「こいつなんて呼び捨てで良い、ましてや尊敬する必要なんて全くないからな。それと、あたしのことも下の名前で呼び捨てて良いぞ。それで落ち着かないなら、さん付けで構わないが」

「はい。それでえーっと――」しばしの間頭を捻り、僕はもう少しで忘れそうになっていた用件を引っ張り出すことができた。「そのですね、回診ということは色々な方のお宅を回るということですよね。だったら、もし米が届くのを心待ちにしている方を見つけたら僕に連絡をくれませんか。多分、そこが僕の目的の場所だと思うんで」

「米?」江田医師が明らかに僕のことを怪訝そうに見ている。そりゃそうだ、僕も同じことを聞かれたら同じような反応をしたことだろう。「要点がいまいち掴めないけど――見つけたら君に伝えれば良いんだね? それは構わないけど、連絡場所は何処にするんだい?」

「だったら、私の家に言伝を持って行って頂ければ大丈夫です」僕が何か言う前に、冷美が勝手に決めてしまう。「未来のことを、家族にも紹介したいですし」

 勝手に決めるなと思ったが、冷美のはしゃぐ顔と先程泣かしたと負い目からか強く出れず、僕は渋々頷いた。江田医師はその姿を見ると、君も大変だねえという思いを強く込めた視線をよこし、それから「分かった」と冷美に返事をした。

「では、探し物が見つかることを祈ってるよ、峰倉未来君」

 こうして江田医師が去ってから直ぐ、冷美が僕の服を引っ張ってきた。

「で、これからどうするんですか?」

「そうだな。さっきも言ったけど、やっぱ――」僕は少しだけ冷美の様子を伺い、それからきっぱりと言った。「探し物をするなら、村の駐在所に行った方が良いと思うんだ。探し物について、警察ほど系統だってやってくれるところは他にないわけだし」

 冷美は、先程と違い、取り乱す様子もなく僕の言うことに賛成してくれたようだった。

「そっかー、そうですね。では、私たちは駐在所に行きます。燎子さんはこれから船長さんの船で星華海岸に行くんですよね?」

「いや、今日は歩いてくよ。少し――考え事もあるんでね」

 彼女は手を後ろ手に組み、空にふっと視線を流す。やけに大人びたその仕草は、しかし燎子さんにとても似合っていた。

「じゃあ、途中までは私たちと一緒ですね」

「いや、私はもう少し後にするよ」

 燎子さんは冷美にそう言うと、僕にそっと目配せをした。誤解している、この人は絶対、僕と冷美の関係を誤解している。

「分かりました。それでは、私たちはこれで失礼します。それとお鍋、ありがとうございました。本当に美味しかったです」

 初見の時と同じく、冷美の礼儀正しさに倣って僕はお辞儀をした。

「こんなので良かったら、何時でもいらっしゃいな。峰倉さんもご一緒に」

「そうそう。あんたら二人なら、わしらはいつでも大歓迎じゃ」

 宗一さんとタキさんは夫婦揃って、非常にコンビネーションよく僕達を見送ってくれた。

「まっ、適当に頑張れよ」

 そして、燎子さんの投槍風な――しかし、応援はしてくれてるのだろう――言葉に見送られ、僕と冷美は船長の家を後にした。暫く歩き二人きりになったことを確認すると、彼女は足を止めて嬉しそうに話し掛けてくる。

「では、次に目指すは村の駐在所ですね」

 僕は「そうだね」と言って小さく頷き、二人で並んで再び歩き始めた。

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