水瀬家の食卓 香里篇

「千鶴さん、ここですっ。ここが鬼の住家です!」

(「大和鬼人譚」より引用)

「これ以上、手間を取らせないでくださいね」

秋子さんは笑顔で佐祐理さんの突進を交わすと、後頭部に鈍器を叩きつけた。

そして無念の表情を浮かべながら、糸の切れた人形のように倒れていった。

そんな異様な光景を、私は見ているしか出来なかった。

何?

この部屋で一体、何が起きたの?

今、無事でいるのは私と秋子さんだけ。

栞は放心したように意識を失っており、名雪は濡れたぬいぐるみを必死で抱きかかえている。

相沢くんはさっきから笑い声を絶やすことなく、北川くんは目覚し時計をかじりながら、

「あかね……美味しいよ……」 そんな言葉を繰り返していた。

あゆという娘は、

「でびるがんだむは滅んだ……」

などとわけのわからない言葉を呟いている。その手にはごっそりと栗色の髪の毛が……。

その髪の毛が真琴という少女のものだということは、髪の長さが奇妙に不揃いの真琴を見ればよく分かる。

そして派手に転んで昏倒した美汐という娘。

そして同性愛に目覚めた挙句、二人して秋子さんに張り倒された舞と佐祐理の上級生二人組。

残った秋子さんは、それでも微笑をたたえつつ、微かに血の付いた鈍器を手にしている。

この悲惨な光景で、秋子さんのその姿だけが、私の目に異常なものとして映っていた。

そして最後の生き残り? である私の方に、その顔をゆっくりと向ける。

その不自然さに、私はいつかテレビで見た絡繰人形を思い出していた。

恐い。

背筋がぞくぞくする。

「香里さん」

「あ、な、なんですか、おばさん」

声が引きつっているのが、自分でも分かった。

「大変なことになりましたね」

その大変なことに拍車をかけたのは、秋子さんではと思ったが、敢えて口にはしなかった。

私は死にたくない。

「え、ええ。でも、みんな大丈夫ですか?」

どうみても大丈夫でないのだが、恐怖で頭の働きが鈍っていたらしく、私はそんなことを尋ねてしまった。

しかし秋子さんは、

「ええ、この二人の方はきちんと手加減しましたし……」

ならば、あの強く鈍い音はなんだったのだろうか……。

「他のみんなも大丈夫ですよ」

おおよそ根拠のなさそうな秋子さんの言葉。

しかし彼女は、本気で大丈夫と考えているように、落ち着き払っている。

「取りあえず、救急車とか呼ばなくて良いんですか?」

私はふと思い出したことを口にする。混乱していて、今まで救急車を呼ぶということすら思い浮かばなかったのだ。

「平気ですよ。こちらの方は、私が全て『処理』しておきますから」

処理……その言葉に、寒気が走るような感覚を覚えたのはどうしてだろう。

「香里さんは、妹さんを連れて先に帰って置いて下さい」

そんなことを言われても、こんな惨状を見逃して帰れというほど、私は白状ではない。

というか、夢に出てきそうで恐かった。

「でも、私もお手伝いしないと、人手が足りないでしょう?」

私は食い下がったが、秋子さんは……。

「大丈夫です。私を信じて……くれませんか」

少し間があったのは、気のせいだろうか。

それよりも、一瞬噴き出した殺気のようなものは何だったのだろうか……。

サカラッテハイケナイ。

私の本能がそう告げた。

秋子さんに逆らうことは許されない。

私は即座にそう判断し、未だ気絶している栞を背負うと水瀬家を後にした。

「また、いらしてくださいね」

まるで、会が平和的に終了したとでも言わんばかりの笑みで、秋子さんに見送られながら……。

 

夜中……いつもならとっくに眠っている時間だ。

しかし今日は、目が冴えてさっぱり眠れない。

原因は分かっている。

あそこに置き去りにして来た人たちの安否を、心の奥底で考えているからだろう。

(平気ですよ。こちらの方は、私が全て『処理』しておきますから)

秋子さんの声が、心の中で響く。

処理……その言葉が耳にこびり付いて離れない。

治療ではなく、処理。

秋子さんがその言葉を選んだ理由が、私には不可解に思えてしょうがなかった。

(確かめよう)

明日の朝日を清々しい気分で拝むためにも、絶対にもう一度確かめておくべきだ。

そう思った私は、上着を羽織ると闇夜の道を一人、再び水瀬家へと向かった。

 

水瀬家は既に、暗幕が垂れ下がったかのように、暗く静かな様子を見せていた。

それがあの騒ぎの後では、不気味にすら思える。

しかし私は、それを確かめなければいけない。

私は意を決して、ドアのノブに手を掛けた。

多分開いてないだろうと思ったが、予想に反してドアは軋む音を立てながら緩やかに開いた。

無用心だと思ったが、もしかしたらみんなの世話をしていて忙しなかったからかもしれない。

そう好意的に受け取ることにした。

玄関を見ると、既に数足を除いて靴は無くなっている。

(皆、帰ったのかな?)

そう思おうとした。けど……香里の勘は、まだ何かあることを告げていた。

まだ、何かがあるって言うの?

その時、台所の方からバタンと、何か戸が強く閉まる音がした。

私は少し迷ったけど、結局、そっちの方に行ってみることにした。

なんでもない可能性もある。

しかし、何かが起こってからでは遅いのだ。

私は思ったよりも音を立てる廊下を、爪先立ちで歩いていった。

しかしダイニングには、誰もいなかった。

部屋の中央に並んでいた丸テーブルは、既に片付けられたらしい。

そこにはいつもの長テーブルが、椅子と共に並んでいるだけだ。

床の方を見ても、人が倒れているという様子も無い。

「良かった、どうやら私の取り越し苦労だったみたいね……」

闇夜に響かぬように囁くと、私はダイニングを後にしようとした。

すると奥の方のドアから、明かりが微かに漏れていることに気付いた。

「……一応、あっちも覗いておこうかしら」

何もなかった、そのことに少し気を強くした私は、思うことなく奥の方へと向かった。

奥のドアをくぐると、明かりが漏れている場所が分かった。

それは秋子さんの部屋だ。

どうしよう。

入るべきか、入らないべきか。

しかし、この部屋に死体がまとめて並べられている……なんてことがあるかもしれない。

私はそう思い、恐る恐るドアを開けた。

そこは至って簡素な部屋だった。

ベッドに机、クロゼットに鏡台。

女性的な飾り付けはしてあるが、それ以外に特に見るべきところはない。

そう思いながら、部屋を見渡していた私の前を、ある物が目に映った。

机の上に無造作に置かれたノート。

表紙にはJAMと書いてあった。

(JAM? ジャムってもしかして、秋子さんのジャムのレシピ?)

一度は素通りしたが、しかし少し気になることがあり、私はそのノートを手に取る。

(もしかして、この中にあの成分不明のジャムの製造法も……)

数年前、名雪の家で御馳走になり、三日も夢に出て来るほどの破壊力を持つあのジャム。

思い出すだけで、寒気がした。

あんなものをどうやって作っているのか、しかしそれは興味として私の頭に残っていた。

それが、今、明らかになるのだ。

私は逡巡した後、胸の高鳴りを抑えつつ、適当なページを開く。

しかし……私はそのページを見て驚愕した。

そこに書かれているのは日本語ではない。

英語でも、仏蘭西語でもない。私の知らない、未知の言語であることは間違いないだろう。

いや、一度だけテレビか何かでみたことがある。確か……

(失われた言語と言われている、ラテン語?)

古くはヨーロッパ圏の公用言語であり、今は用いるものもいないはずの言語だ。

何故秋子さんは、こんなものを流暢な文字で書けるのだろうか。

そんなことを頭に思い浮かべている時だった。

異様な気配が、私のすぐ真後ろに生まれた。

「……香里さん、どうしたんですか?」

その声に、私は肩を思いきり震わせて振り向いた。

そこにはいつものように、微笑をたたえて佇む秋子さんがいた。

右手に、キラリと光る薄い金属のようなものを手にして……。

「い、いえ、やっぱりみんなのことが気になったので、つい……」

私はしどろもどろになりながらそう答えた。

嘘は付いていない筈だ。

けど何故か、震えが止まらない。

その恐怖の源が何かはよく分かる。

秋子さんだ。

彼女の発する何かが、私を恐怖の淵に追い込んでやまないのだろう。

その時、私は悟った。

この人には絶対に叶わない……。

「そうですか、香里さんは友達思いなんですね」

秋子さんの表情と物腰は、相変わらず柔らかだ……表面上は。

「でも……人の家に勝手に入るのは、お行儀が良くないと思いませんか?」

言いながら、秋子さんは僅かに目を細める。

私はそこに、獲物を狙う狩猟者の煌きを見たような気がした。

そして私に見せるように、手の中のものをキラリと輝かせる。

「あ、はい、その、すいませんでした……」

私は、そう言うのが精一杯だった。

しかし秋子さんは、身にまとう強烈な気配を幾分か和らげたようだ。

それでも、私に恐怖を抱かせるには充分なものだったが。

「あ、秋子さん、このノートは一体?」

私は掠れるような声で、しかしそれだけは言った。

「これですか? 私は中世ヨーロッパの歴史に興味があるんですよ。その当時の書物は、皆ラテン語で書かれているでしょう? ですから、軽く嗜む程度に……」

軽く嗜む程度? 私には、とてもそうには見えなかった。

けど、それを追求したら、私は間違いなくただではすまない。

「どうやら分かっていただけたようですね……じゃあ、夜も遅いから、早く帰った方が良いですよ」

「は、はい……それではさようなら、おばさん」

「ええ、さようなら」

私と秋子さんは表面的な挨拶を交わした。

これで助かる……そう思い、ドアに手を掛けた時だった。

突然、強烈な殺気と共に、秋子さんが耳元で鋭く言い放った。

「『アレ』は、見ませんでしたよね」

アレ? アレとはなんだろうか。

さっき見たノートのこと?

それとも、まだ別の秘密を、彼女は握っているのだろうか。

「……どうやら、見てはいないようですね」

そう言うと、秋子さんは殺気を全て開放し、ついでに私も恐怖から開放された。

その後のことは、余り覚えていない。

私は必死で自分の家まで逃げ帰った。

そして、布団を頭から被って逃げるように眠りにつき……。

ひどい悪夢を見た……ただ、それだけだ。

 

次の日の朝、私は教室で名雪、相沢くん、北川くんの三人にあった。

「おう美坂、昨日は楽しかったな」

そういう北川くんの歯は、綺麗に栄え揃っていた。

確か、あの時はぼろぼろになっていた筈なのに……。

「うん、とっても楽しかったよ」

猫のぬいぐるみを抱いてひたすら泣いていた名雪が、笑顔で言う。

「結構、ああいうのもいいかもな」

そして狂ったような笑いを浮かべていた相沢くんも、清々しい顔で答えた。

これはどういうことだろう。

もしかして、私は、変な夢を見ていただけなの?

けど、あんなに明晰な夢を見るなんてこと……。

「ねえ、真琴やあゆ、それに美汐って娘は大丈夫なの? それに舞さんや佐祐理さん……」

私は名雪の両肩を掴むと、そう名雪に問い掛けた。

「え、うん、別に何もなかったけど? 香里、どうかしたの?」

名雪はきょとんとした顔で私を見ていた。

となると、やはりあれは全て夢だったのだろう。

私はそう思おうとした。

それが一番現実的だ。

しかし……。

「あ、そう言えばお母さんが香里に言伝があるって」

その言葉に、私の顔は僅かに引きつった。

「余計なことは、喋らない方が良いですよ……だって。どういう意味だろうね」

 

香里編 終了


エンディング(BGM 風の辿り着く場所)

 

キャスト

相沢祐一……真琴の入れた茸によって、笑う。
北川潤………時計に付着していた、オレンジ色の半液体の作用によって幻覚を見る。
美坂栞………北川の入れた唐辛子を口にしてしまい、轟沈。
月宮あゆ……栞の入れた薬と祐一の笑いが引き金となり、キョウジ兄さんの幻を見る。
水瀬名雪……真琴の入れたぬいぐるみを本物の猫だと思い、精神崩壊。
沢渡真琴……あゆのゴッドフィンガーによって髪を引き千切られ、轟沈。
天野美汐……舞を止めようとして、巻き添えを食らって轟沈。
川澄舞………真琴が入れた瓶の中身を服用したことにより、最初に見た佐祐理のことを愛してしまう。
倉田佐祐理…舞を倒された恨みから秋子さんを襲うが、返り討ちに合う。
美坂香里……秋子さんの秘密の一端を垣間見る。
水瀬秋子……彼女の握っている謎とは、一体何だったのだろうか……。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

[秋子篇へ進む][秘密は秘密であった方が……]