部屋の空気が二、三度は下がるような、奇妙な話だった。

高々、十かそこらの少年があんな気の触れた言葉を発するだけでも信じられないのに、栞の言うにはこれからが本番らしいのだ。

祐一はそんなことを思いながら、震えていた。

勿論、栞の話に恐怖したからではない。

一方にあゆ、もう一方に何時の間にか真琴が身を摺り寄せてきているからだ。

二人ががたがたと震える影響で、祐一の体も震えているというわけだ。

蝋燭の炎がゆらりと揺れる。

部屋の中が更に張り詰めた空気へと転嫁したまま、栞の話は続けられた。

 

第一章 闇の棲まう病院・後篇

 

「本当に恐かったのはその日の夜だったんです……」

栞は繰り返すように言った。

「何かが不安でした。それが何かと聞かれたら答えられないんですけど……とにかく、緊張して眠れませんでした。特に緊張している訳でもないのに、こんなことは初めてで、私は寝返りを何度も打ちながら煩悶とした時間を過ごしていました。

両親も姉もいなくて、私は一人ぼっち……しかも、昼間あんな所を見ていたから、怖くて怖くて辛かったんです。もう消灯時間は過ぎたから、電気を点ける訳にもいきません。豆電灯の茶褐色の薄い光以外に、この部屋を照らすものはありません。

時計の針や、時折風が窓を叩く音すら強く耳に入ってきます。皆さんも経験ありますよね……緊張すると、周りの音が突然気に鳴り出すことが。そんな不快で不安な夜でした。

どれくらい時間が過ぎたでしょうか。時計を見ようとシーツの隙間から顔を出したときです。今までこの部屋で生み出されてきた音とは明らかに違う、異質な音が、外から聞こえて来るんです。

リノリウムの床を鈍く這うような不気味な音は、思ったより早い速度でこちらに向かってきます。何かがこちらに迫って来てるんです。確かに、ここに向かって……。

ドアは、簡単に開きました。当然ですよね、患者が何かあったらまずいでしょうから、病室に鍵を掛けている筈がないんです。これって物騒ですよね? 強盗とか、簡単に入って来れるんですから。知ってますか? 深夜の大病院って比較的セキュリティが甘いんです。

夜中に歩き回っても、警報ブザーとか赤外線も無いし、当然監視カメラもありません。看護婦の数も足りないから、見回りも満足にできませんしね。忍び込もうと思えば、案外容易に忍び込めるんですよ。その時は、そんな知識なかったんですけどね。

すいません、話が逸れました。

大きな蛇の這うような音の主が人間であることに気付くのには、そう時間は掛かりませんでした。ドアの外から気配というか、息遣いが……分かるんですね、そういうのって。

そこに入ってきたのは、あの少年でした。生気の抜けた瞳は僅かな燐光をたたえ、皺だらけの入院着は少年の体にまとわりついていました。柄の無いモップを両手に抱えているという奇異な格好です。それはどんなドラマにでてくるお化けよりも、恐ろしく思えました。

『お姉ちゃんは、僕の味方だよね』

そんなことを考えている私に、少年はぽつりと言うんです。その時は、本当に困りました。どう答えて良いか分からなかったんです。無闇に味方だと答えてしまうと、異世界に引きずり込まれそうな、そんな錯覚すらおぼえました。

喘息感のある息をこひゅー、こひゅーと発しつづけながら、少年はまるで蒼ざめた馬に乗る死神のように、こちらを凝視していました。これは全て、少年の妄想でしょうか? それとも私の妄想? それとも、長い長い悪夢を見ているの?

『早く……答えてよ』

少年は僅かに声を荒げて――それでも弱弱しい声でしたが――私に言いました。ぺたり……素足とリノリウムの張り付く音が、闇に沿って耳に木霊します。

その時の私の気持ち、分かりますか? 私は何も考えられない頭で、小さく頷きました。もし断ると、私は目の前の少年に殺される……本気でそう思いましたから。

『そっか、やっぱり僕の思った通りだ』

少年は黄ばんだ歯をさらけだして、にやりと笑いました。開かれた口からは、恐いほどに真っ白な舌が見えます。少年はこちらまでゆっくり近寄ってくると、柄の無いモップの一つを私に手渡しました。

『じゃあ、お姉ちゃん、行こう』

少年は、私をどこかに連れて行こうとしているようです。

『行くって、何処へ?』

すると少年は目をぎょろっと見開いて、口元に酷薄な微笑を浮かべました。

『決まってるじゃないか、お姉ちゃんと僕とであいつを殺すんだよ……ふ、ふふふ』

少年の口から漏れる笑い声……それはいたいけな少年の漏らすそれとは最もかけ離れていました。しかも、少年は何かを殺す気なんです。そんなことを、いとも簡単に口にできるなんて、どう考えても普通じゃありません。私は何とか思い留めようとしました。

『殺すってそんな……だって、犯罪ですよ、それ』

『いいんだよっ!! アレは人間じゃ無いんだから』

少年は声を荒げると、次にはぜいぜいと激しく咳込みました。とても無理の聞く体とは思えません。もう、ぼろぼろの体なんですよ、なのに表情は野獣のようなギラギラとした殺気に満ちてるんです。

『人間じゃないんだから、いくら殺したって悪くないさっ!! お母さんだって言ってたよ、人間の命は大切だって。僕はあんな奴より大切なはずだ』

何でしょうか。

少年の言葉、凄く違和感を感じました。だったら、人間以外ならどんな目に会っても、どんな目に会わせても良いってことじゃないですか。人間以外は、生き物とも思ってないんですよ。柄の無いモップを震える手で握り締めながら、

『叩き潰してやる……ミキサーにかけてミンチにしてやる……どろどろだよ……』

そんなことを一人で呟く少年に、私は心底恐怖を覚えました。

『そうしたら、お姉ちゃんにも分けてあげるからね……』

その、悪意に溢れた表情は今でも記憶にしっかり残ってます。

少年は私の手首をぎゅっと握り締めて……凄い力でした。あとでその部分を見たら、小さな手の跡がくっきりとプリントされてました。骨ばって体力の無い筈の少年のどこにそんな力があるのか……私には想像が付きませんでした。

非常灯の灯る廊下を、二人だけで歩く……それがこんなに恐いことだなんて思いませんでした。それでも私は、催眠術にでもかけられたみたいに、束縛から逃れることができません。気が付くと、少年の入院している部屋の目の前まで来ていました。

少年はドアを開けると、中を覗き見ました。そして嬉々とした声で、私の耳元に囁いて……まるで腐臭のような息でした。死霊の吐息のような、背筋を凍らせる……。

私も少年に言われて、部屋を覗きました。けど……私が見る限り、中にはどのような生物の存在をも感じられませんでした。

『な、何も、いませんよ』

私がおそるおそる言うと、少年は怒りで顔を歪めました。

『嘘だ嘘だ嘘だ、いるだろ、僕のベッドの上に乗って、こちらをじっと睨んでるんだ。女の顔で、鶏のような羽を生やしてる。暗闇の中にはっきりと存在している闇なんだよ。お姉ちゃんには見えないの!!』

私は静かに首を振りました。実を言うと少年の剣幕が余りに恐ろしかったので、私は声を聞くことができませんでした。私には存在すら分からない化け物より、目の前にいる人間の方が余程恐く思えました。

今、少年の話していることは全て妄想ではないのか。妄想に囚われて、ありもしないことを口走っているのではないか……そうとしか思えませんでした。

『嘘だ。本当にはお姉ちゃんにも見えてるんだ。でも恐いから、見えないふりをしてるんだよね。ねえ、そうだよね、そうだよねそうだよねそうだよね……恐いから見ないんだ、見えないふりをしてるんだ。でもね、あそこにはいるんだよ。化け物だよ、化け物……』

私にぎりぎりまで顔を接近させてそんなことをまくしたてたと思うと、次にはモップを持って部屋の中に飛び込んでいきました。

『化け物はみんな死んじゃえ、死んでしまえよっ』

少年は何もない空間に向けて、何度もモップを叩きつけました。

『ぐしゃぐしゃにして、挽肉にしてやるんだ……ふふ、ふふふふ』

何度も何度もモップを叩きつけました。

『ミキサーにかけてぐしゃぐしゃにして、二度と元に戻らないようにしてやるっ!!』

何度も何度もモップを叩きつけました。

『早く死ねよ、早く死ねよ、死ねよ、死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ死ねよ……』

もう、息も絶え絶えで、今にも倒れそうなのに、それでも少年は殴ることをやめませんでした。その内、モップがすっぽ抜けて床に落ちました。すると今度は、拳で殴りかかりました。

『あは、はははは……もう、ぐしゃぐしゃだあ……』

何がぐしゃぐしゃなんでしょうか?

私にはただ、少年が虚空に向かって拳を振り上げているとしか思えません。

すると、突然少年が荒い咳を始めました。

何度も何度も。

部屋中に血を吐きながら、それでも少年はベッドに向けて拳を叩き付けていました。

そして……とうとう体を床に横たわらせたんです。

体をがくがくと震わせながらも、その声は呪詛と憎しみに満ち溢れていました。

狂気。

その言葉が、きっとぴったり似合う世界……。

だから、看護婦さんが話しかけてくれなければ……。

きっと、動けないままだったと思います……」

栞はそこまで話すと、体を大きくぶるぶるっと震わせる。

「栞、その話って本当なのか?」

両側で耳を押さえて震える二人を他所に、祐一は尋ねた。

「ええ、本当よ……私も後で看護婦から聞いたわ」

その問いに答えたのは香里だった。その顔は、何故か青く小刻みに震えていた。この話は既に聞いている筈だから、香里が恐がる道理はない。それとも、冷静に見えて案外恐いものが苦手だったりするのだろうか……祐一はそんなことを思った。

「それで……その少年はどうなったんですか?」

秋子は珍しく神妙な面持ちをしていた。

「お医者さんの看護もあって、何とか一命は取りとめたそうです。でも、その事件がきっかけで別の病院に移ることになって……それからのことは私も知りません。ただ……」

栞は唾を大きく飲み込むと、細い声でこう話を閉じた。

「もしかしたら、錯覚かもしれませんが……お医者さんが少年に駆け寄る寸前に、一瞬だけ見えたんです。ぐしゃぐしゃに崩れた女性の顔を持つ異形のものが、闇の中にすうっと溶け込んでいくのを。

その顔は確かに……禍禍しい笑みを浮かべていました。

私の話はこれで終わりです」

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