少女は歌を口ずさむ
守矢神社の冬は早い。
麓ではようやく紅葉が色づき始めた頃だというのに、粗方の葉がくすんだ赤とともに落葉し、好き勝手に地面を彩っていた。そんな落ち葉たちと早苗は既に小一時間格闘していたけれど、勝利には程遠かった。
風で吹き飛ばせば楽だと分かっていたけれど、早苗には二つの理由でできなかった。一つは未熟な自分の腕では細かい調整が利かず、木々に残る葉まで吹き飛ばしかねないこと。例えあと数日であったとしても、先住者の都合を無視してこちらの利便を押し通すのは気が引ける。もう一つは単純なこと、神徳の無駄遣いなどしたくなかった。神に仕える身でありながら些事にまで用いることは冒涜的であると早苗は考えている。神奈子様は構わないと言ってくれたけれど、まだ幻想郷に来て間もなく、信仰は容易に揺らぎうるのだから自重している。
「でも、流石にこれは酷い」二重の枷を解いて強硬手段に走りたくもなる量だ。「今日は里への買い出しに寄り合いへの出席もあるし、かかずらっているわけには行かないんだけど。困ったなあ」
落ち葉など適当にあしらうのが良いのかもしれない。現に霊夢などはそうしているし、他でもそう変わらないはずだ。それでも早苗は何となく落ち着かなかった。学校でも清掃時間ギリギリまで落ち葉を集め、片付けきれないことが悔しかった。そういうことが気になる性分で、気になればいくらでもやってしまうのだ。
勉強や研究といった方面に向けば良いのだけど、そう簡単ではない。通信簿には毎学期、もう少し周りをよくみて行動しましょうと書かれたものだ。ある担任は数理に向いた思考だと言っていた。事実その通りなのだろう。理屈の通る数学は大好きだし、理屈の通った小説は大好きだった。その一方、理屈のない国語や歴史の授業は苦手だった。後者はともかく年号だけを暗記して何とかやり過ごしたものだ。ここは幻想郷であり、高等教育など望むべくもない。それならば思いこんだら一直線の性格も直したいのだけど、生憎の先天性だった。
箒を杖代わりにし、ぼんやり考え込んでいたら突如として騒がしい風が立ちこめ、瞬き一つすると目の前にゴシップ好きの新聞天狗が立っていた。半袖の白いブレザーに、破廉恥なミニスカートの取材用軽装だけど、首からカメラを下げていなければ、取材中の腕章も身につけていない。おそらく親しい相手への個人的な訪問を予定しているのだろう。早苗はそう判断し、邪険に扱うことにした。目的が他にあるならば、早々に立ち去ってくれると期待したからだ。
「わたしはいま、掃除で忙しいのです」
「落ち葉なんて、適当なところで区切らないときりがありませんよ」
「神前ですから」神様をだしに使うなんて、仕える身でありながら悪いなと思うのだけど、天狗を追い払ってしまいたかった。「ここにはニュースにできることなんて、何もありませんよ」
文は無視するように辺りを見回し、ふっと力を込めて息を吐き出す。すると地面すれすれに小さな旋風が次々と生まれ、瞬く間に落ち葉を山の方へと追いやっていく。
「こんなのちゃっちゃとやるべきです。心掛けは立派ですけど、だらだらと無駄に続けるのは修行になりません」
いちいちその通りなのだが、自分にできないことをあっさりと、しかも大規模でこなされてしまい、早苗は心中穏やかではなかった。
「わたしの風は神の賜物です。たやすく扱って良いものではありません」
「では、たやすくない時とはどういうものです?」
文は取材するときの口調で、早苗に訊ねる。
「それは、この守矢神社に徒なすものが襲いかかってきたときであるとか、あとは異変の調査であるとか」
「参道に落ち葉が残れば、守矢神社の格を落としますよね。これとて神社を徒なす脅威の一つではないでしょうか?」
「もうっ、ああ言えばこういう!」
「早苗さんの言葉に答えがないからです。論理性が足りないのですよ。まあ人間って大体そんなものですけど。理屈のないことばかり言う」
またぞろこちらの神経を逆なでしてくる。これ以上相手をすると本当に取り乱してしまいそうで、早苗は文を無視して掃除道具を片付けに向かう。すると背後からからかうような声がかかる。
「手伝ったのにお礼の言葉もないのですか?」
「……ありがとうございます」
いちいち癪に障る。同じ天狗でも白狼天狗の娘は折り目正しいのに、鴉天狗の面々は取材だの撮影だの何かと五月蠅い。最初は有名人になったようで悪い気はしなかったけれど、いちいちまとわりついてくるし、特にこの射命丸文という天狗は鬱陶しいことこの上なかった。
一度は二柱に追い払うことをお願いしたのだけど、取材拒否は何かを隠していると勘ぐられるので良くない、大っぴらに見えるのが良いのだと説かれては仕える身の早苗では言い返せなかった。それにしても対外活動を請け負うのは自分であり、体の良い囮扱いされている感は否めなかった。
「あのですね、なんで付いてくるんですか?」
人里まで買い出しに向かう早苗の隣に、文がぴたりと貼り付いている。わざとらしく速度を上げても下げてもまるで応えた様子がない。
「わたしも里に用があるんですよ」
「だからって、どうして隣をキープするんですか?」
「ここは妖怪の山ですから。人間が一人で飛ぶには危ないですよ。道理の通じる妖怪にとって早苗さんは不可侵ですけど、中にはそういうことに適当な奴らもいますからね」
これまた正論であるのに、恩着せがましい言い方が早苗には気に入らない。
「一人でも何とかなりますから」
文は嘲笑に見えなくもない表情を浮かべる。いちいち腹の立つ反応ばかりを向けてくる。これ以上言葉を交わすのは真っ平御免で、無言のまま空を飛ぶ。文は袖を引いたり声をかけたりしてきたけれど、全部無視してやった。すると文は早苗の周りをからかうようにぐるぐると回り始めた。早苗は不躾な天狗を怒鳴りつけようとしてすんでのところでやめ、別の方法でいなすことにした。外の世界で覚えていた歌を歌い始めたのだ。カラオケにはよく通っていたから、そらで歌えるものが数十曲はある。
最初は青空で歌うことに抵抗を感じたけれど、数曲歌いきった頃にはすっかり楽しくなっていた。敵に渡すな大事なリモコンと、勇壮無比の巨体を思い浮かべながら歌っているうち、山を下り終えたことに気付き、早苗はわざとらしく咳払いをする。ここまで無視してやれば流石にぐうの音も出ないだろうと期待して文の顔を覗き込むときらきらした瞳で見つめ返され、早苗はとっさに視線を逸らしてしまった。
「何ですか、下手な歌だって言いたいわけですか?」
素人なりに練習して身につけた声だ、そうそう簡単に否定されるものではないと思う一方、文が名にしおう歌い手である可能性に今更ながら思いつき、少し不安になる。綺麗な声をしているし、もしかすると本当にそうなのかもしれない。早苗は探るようにして文に質問を投げる。
「文さん、歌謡の経験はどのくらい?」
「いえ、あまり」文は何故かごにょごにょと口を濁す。あまり練習したことはなさそうだった。「歌いながら空を飛ぶのって、気持ち良さそうですね」
「それなら文さんもやれば良いのですよ。歌の一つや二つ知っているのでしょう? もし知らないならわたしの手持ちからいくつか伝授しますけど」
風の使い手ならば魔装機神のあの曲とか、色々教えるのも良いだろうとそんなことを画策していると、文はそそくさと立ち去ってしまった。
「やはり人間の声なんて大したことないのかなあ」
早苗は喉に軽く手を当て、ドの音をお腹から響かせる。文の明瞭な声音とは違う、微かに鼻のかかった声。媚びてるような感じがすると自分でも分かる。歌を歌っても少しだけ残る。
文は天狗の耳でそこまで聞き分けたのかもしれないと考えるだけで少し悲しい気持ちになる。引きずってへまをしないうちに用事を済ませようと、早苗は急いで人里に向かった。
それから一週間ほどは文も神社に現れず、早苗はそれなりに心穏やかな日々を送っていた。最後の枯れ葉を一所に集め切り、一雪来る前にお芋さんでも焼こうかと楽しい思いを巡らせていたところで、参道を律儀に歩いて白狼天狗がこちらにやってくる。滝を守る天狗の一人で犬走椛という名であると朧気に記憶していた。
「こんにちは、いつも精が出ますね」
早苗はそっと会釈する。同じ天狗でこうも態度が違うと、問題ないはずなのに何故か違和感を覚えてしまう。
「お勤めですから。ときに今日はいかなる理由で? 神奈子様でしたら、昼過ぎにならないと……」
蛇を縁代にしているから冬は動きが鈍くなると説明しているが、実際のところは単なる出不精である。こんなことで神徳を集められるのかとやんわり諭してはみるものの、どうにも聞き分けてくれないのだ。だからこその神様なのかもしれないけど、早苗には気が気でないのだった。
「それなら承知しております。今日は早苗さんに伝えておきたいことがありまして」椛は心なしトーンを抑え、囁くような声となる。「ここ数日、妖怪の山には不審な事例がいくつも報告されておりまして。害を加えられたという報告はないのですが、念のために」
芳しくない顔色から未解決であることを見て取り、早苗は情報を求めて質問を投げかけた。ことによっては二柱に報告しなければいけないことだからだ」
「不審な事例とはどのようなもので?」
「物陰から妙な騒音が聞こえるのですよ。笑い声のような泣き声のような、叫び声のような苦悶の声のような。鴉天狗の噂によれば、かつて京を脅かしたヌエなる妖怪が蘇ったのではないかと」
「ヌエ、ですか。確かヌエの鳴く夜は恐ろしいというキャッチコピーの映画がありましたね」ただし実際に見たことはないはずだ。推理ものだった記憶はあるのだけど、題名までは分からなかった。「文さんの足が遠ざかったのはそれが原因なのかしら」
それならばヌエには誰かを脅かさない限りで妖怪の山をかき乱してくれれば良い。そこまで考えてから歩哨に対する気遣いがないと気付いて椛のほうを見ると、腹に据えかねるといった顔つきをしていた。思わず謝りかけ、何も口にしてないと今更思い当たり、それでは何故怒っているのかと首を傾げる。
「射命丸文はここに足繁く通っていたのですか?」
「最近はそこまででもないですけど」おそらく取材対象として飽きが生まれつつあるのだろう。「ご存じなかったんですか?」
「えっと、まあ、不審者じゃないですからね」椛はくるりと背を向け、そそくさと飛び去っていく。「くそっ、あの性悪め」
何やら妙なことを呟いたような気がするけれど、訊ねる暇もなく飛び去っていった。それにしてもヌエだとは。
「えっと、ヌエってなんだっけ?」
ヌエの鳴く夜は恐ろしいけれど、どうして恐ろしいのかを早苗は知らなかった。仕方なく、早苗は奇声をあげる何者かに注意するべきだということだけ心に深く刻みつけた。
その日の午後、人里に向けて山を下りる途中、偶然に文の姿を見かけた。彼女は辺りをきょろきょろと見回し、何かを探しているようだ。もしや奇声の主についての手がかりを持っているのかもしれないかと近付いて挨拶すると、文は見事なまでに典型的な狼狽を示し、上擦った声で話しかけてきた。
「さ、早苗さんじゃないですか」文はこほんこほんとわざとらしく二度咳をしてから、微妙に視線を逸らしながら言葉を続ける。「今日は里へのお使いですか?」
「はい。ときに文さんは奇声の主を探しているのですか?」
「奇声、ですか。ええ、そうですそうですわたしは夜雀がこの辺りに迷い込んだのではないかと疑っていまして。あ、夜雀というのはですね」文は聞いてもいないのに、夜雀についてぺらぺらとまくし立てていく。「きっとこいつが山に紛れ込んだのですよそうに違いありませんではわたしは急いでいるからこれで」
怒濤のようにまくし立てると同時、文はもの凄い速度で飛び去っていく。早苗は夜雀がどのような存在であるかを知らなかったが、天狗をあそこまで慌てさせるのだから余程の妖怪に違いないと考えた。今回の件を解決すれば、山における守矢への信仰がより集まるに違いない。
早苗は進路を博麗神社に変更する。夜雀についてやんわりと聞き出す必要があったからだ。
守矢神社ほどの標高はないにしても、博麗神社は山の上にある。紅葉は今が見事に散り時であり、境内にて鮮やかで傍迷惑なオブジェクトを作り上げていた。その事実に同情を覚えながら、早苗は縁側に腰掛けて休みを取る霊夢に声をかける。迷惑な奴が来た的な顔を浮かべたけれど、早苗は敢えて黙殺し、いきなり本題を切り出した。
「実は妖怪の山に夜雀が現れたのです」
「夜雀?」霊夢は訝しいと言わんばかりの表情を浮かべる。「そんなものどうとでもなるでしょう?」
「しかし天狗の追跡から何日も逃れているのです。余程の妖怪なのでは?」
「いや、確かに厄介な能力ではあるけれどさあ。種族としての数は多くないし、天狗に比べれば遙かに御しやすい相手よ。あの組織立った天狗ですら見つけられないの? そんなことあり得ないわよ」
「でも事実なのです。文さんも夜雀の仕業だと」
「あいつの情報なんて大抵は根も葉もない噂レベルよ。いちいち真に受けていたらどうしようもないわ」
「しかし、現に奇声が発生しているのですよ」まだ一度も聞いたことはないけれど、堅物の天狗が伝えてきたことなのだから間違いないはずだ。「何かが妖怪の山で……」
そこまで言ったところで早苗は素早く口を噤む。霊夢が興味を持ったのではないかと思ったからだが、特に乗り気な様子はなさそうだ。どうやら夜雀の仕業でもなし、霊夢にこれ以上訊ねても収穫はなさそうだ。
「わかりました。こちらでもう少し調べてみますね」
「首尾が判明したら教えて頂戴」
早苗は曖昧に頷き、博麗の社を後にする。文は夜雀の仕業だと決めつけていたけれど、霊夢はその可能性は低いという。どちらが妥当なのか新参である早苗には判断することができず、少し考えてから椛のところに持ち込むことにした。
幸いにして今日の歩哨は椛本人であり、これまで得た情報を説明するやいなや腕を組んでしまった。
「博麗の巫女が言うとおり、夜雀は天狗の包囲網からずっと隠れていられるほど強い種族ではありません。どうしてあいつは見え透いた嘘をつくのだろう。もっと別の可能性を隠しているのだろうか」
口にしてみたものの、椛に大したあてはなさそうだった。早苗にも特別な思い当たりがあるわけではなく、しばらく二人して立ち尽くしていた。そのとき「グワーッ」という叫び声のような響きが辺りに木霊し始めた。
「この声、例の?」
椛は素早く上空へ抜け、その眼をもって不埒者を探り当てようとしたが、視界の届く場所にはいなかった。一方の早苗は風を手繰り、音の出所から奇声の主を探し出そうとした。
聞き覚えのある、涼やかな旋律が耳朶を打つ。鮮やかで透き通るようなそれをかき消すように再度、爆発のような轟音が飛び込んでくる。
慌てて音の流れを遮断し、降りてきた椛に音源のある方向を指さす。椛は獣の敏捷さで木々を縫い、あっという間に姿を消した。これでは下手人も逃げられないと思う一方、早苗は俄に暗澹たる思いであった。あまり有り難くない真相に辿り着いたからだ。
戻ってきた椛は、苦虫を噛み潰したような顔をしており、早苗が報告を求めると大きく首を横に振った。
「内々で処理したい内容なのですね?」
「かたじけない」
椛の返答で、早苗は推測が事実であることを確信する。
数日後、文は飄々とした様子で神社に顔を出した。落葉の代わりに冠雪が始まり、箒をシャベルに持ち変えて奮闘していた最中だったので無闇に腹立たしく、つい喧嘩腰になってしまった。
「随分と久しいですね。余程の特ダネを追っていたのですか?」
「寂しい思いをさせたなら申し訳ありません」
「煩い天狗がいなくて気楽でしたよ」
つんとした返事をすると、文は狡いことに寂しげな表情を浮かべ、早苗をじっとりとした視線に捉える。
「そういう狡いのやめてください、嘘つき」
「ううむ、誤解されてますねえ」
「あの時も嘘をついた癖に」悪びれない様子の文に、早苗はこつんと釘を打った。「奇声騒ぎの原因は文さんでした。わたしが何も知らないと思って、夜雀だなんて出鱈目を口にしたんです」
「だってしょうがないじゃないですか。それに早苗さんが悪いんですよ、空を飛びながら歌うと気持ち良いなんて言うから、わたし帰りしなに実践したんです。そうしたら上司に聴かれてしまって、音痴を直す手助けをして欲しいと相談されちゃったんですから」
あの日、自分は二つの声を聞いた。高く澄んだ文の声と、似ても似つかわぬ奇声。早苗も外の世界にいた頃、同様の相談を父に受けたことがあるからすぐにピンと来たのだ。
「無理だって言ったのに聞き分けなかったんです。その結果が御覧の有様、上司の覚えも微妙に悪くなるしもう散々ですよ」
文は素直に恨みがましい表情を早苗に向ける。珍しく堪えた様子の文を面白いと思う一方、理不尽に晒されているのは可哀想だなと感じた。いつも意地悪されているけれど原因がほんの少しでもこちらにあるのは間違いないから、今回は助けてあげることにした。
「音痴を直す方法なら最低限ですけど伝授してあげられます」要するにこれまで受けてきた音楽の授業を、その上司に施せば良いのだ。天狗に正しい音感を身につけさせるのにどれだけかかるかは分からないけれど。「正しい音の出る楽器、できればピアノを用意して頂ければ」
早苗はお気に入りの曲を弾くため、父にねだって電子キーボードを買ってもらい、目一杯練習した過去がある。ここに電子キーボードはないだろうから、ピアノで代用するつもりだった。
「筋金入りの音痴を治せば、信仰に繋がるかもしれませんし」
「なるほど、しっかりしてますね」
「タフでなければ生きていけない、優しくなければ生きている意味はない。ある高名な作家の一節です」
「はいはい」文はあくまでも素っ気ない。やっぱり助けるのはやめようかなと思ったけれど。「ではお願いしちゃいますね」
素直な笑顔を向けられると、何故か断ることができない。色々な意味で狡い人、もとい天狗だなあと思いながら、早苗は細っこい喉に視線を注ぐ。
「綺麗な声のうえ、どうコントロールして良いか完全に分かってますよね。いっそ音痴であったなら、多少は溜飲も下げられたのに」
「ご期待に添えられず申し訳ありません。生憎ながらわたしは天狗、人間みたく分かりやすい弱点など存在しないのです。悪しからず」
「上司の方は筋金入りの音痴みたいですが」
「それはそれ、これはこれです」文は意地悪な笑みを向けていたが、少ししてこほんと喉を整えてから覗き込むように訊ねてきた。「ついでにお願いなのですが、わたしに早苗さんの持ち歌を教えてもらえないでしょうか」
「それは、別に構わないですけど」何の魂胆があるのか、早苗にはよく分からない。「レッスンが終わってから文さんのために時間を作るのは簡単ですけど、どういう風の吹き回しですか?」
「いえいえ、早苗さんの歌は飛びながら歌うと気持ち良さそうでしたから。それだけですよ」
あからさまな強調が怪しげだったけれど、それを言うなら天狗の行動なんてよく分からない。用もなさそうなのに訊ねてきては、露骨にからかったり面倒臭い提案をしてくるのだ。きっと彼女なりの気紛れで、特別な意味はないのだ。
何だか無性に面倒臭くなり、早苗は蠅でも追い払うように手を振って文を遠ざける。
「約束しましたからね!」
文は何故か嬉しそうに言うと、今日も疾風のようにいなくなる。早苗はわざとらしくその方向から背を向けて、ぼんやりとする。どうやら自分は文のことを考えるが苦手らしい。
やらないように、やらないように心が動いてしまう。
「面倒臭いですねえ」早苗はわざとらしく呟き、それでも何故か頭の中では色々と考えていた。「やっぱり最初はあれですかね。風が喚んでる、ってやつでいきましょうか」
早苗はスコップをふるいながら、その顔はほんのりと楽しげだった。