翌日。きみはいつの間にか眠っていて、辺りには濃い日差しがさしている。
体が無性に重く、苛立たしい。最近の朝はいつもそうで、きみは夜に眠るのが良くないのではと感じ始めている。
きみは空を見上げる。昨日の訪問者は、また明日と言っていた。別に待ち遠しいわけじゃない。暇だからと自らに言い聞かせながら、広遠の園から目を離せないでいる。
煙のような薄い雲が、眩いほどの青をゆるりと漂っている。こんな空は何故か、きみを安心させる。ずっと昔、こんな景色を飽きるまで眺めていたような気がする。それでいて、きみは自分がこの世に生まれてからまだ数年しか経っていないことも、はっきりと自覚している。知識と力が発達しだしたのは、鈴蘭の毒気がこの地に充填し始めた頃だから、半年にも満たない。きみにとって世界とはこの鈴蘭畑だけであり、昨夜ようやく少しずつ広がり始めたばかりだ。
それなのにもっと長い時間、もっと昔に、存在していたような気がする。
ぼんやり考え事をしているきみの目に、鮮やかな人影が映る。まるで舞い散る葉のようにひらひらと、それはきみの目の前に着地する。
アリスだ。
「こんにちは」
きみは不審者を見る目つきでアリスを睨みつける。
「今日もまた怖い顔ね。歓迎されてないのかしら」
きみは昨日と同じようにそっぽを向く。アリスも昨日と同じように、きみのそんな姿を見て笑いを噛み殺す。
「折角、可愛く作って貰ったというのに、そんな表情してちゃ台無しよ」
可愛い、と言われてきみは何故か、馬鹿にされたような気持ちになる。自分がきちんと評価されていないような気がする。
きみが表情を堅くすると、アリスは少し真面目に尋ねてくる。
「もしかして、可愛いって言われるの、嫌いなの?」
きみは大きく頷く。
「わたしも可愛いと言われるのは嫌いよ」
「じゃあ、どうして可愛いなんて言うの?」
「普通、女の子は可愛いと言われると嬉しがるものだからよ」
「だったら、普通じゃないの?」
「かもしれないわね。でも、わたしは普通じゃない子のほうが好きよ」
アリスが自然な仕草できみの頭をそっと撫でる。嫌悪感が思わず先走り、濃い毒の蒸気が無意識のうちに吐き出される。
きみは慌てて、毒を体の内側に抑えこむ。大きな風が、毒を根こそぎ巻き上げてゆき、辺りはごく微量の鈴蘭毒がやんわりと漂う、いつもの鈴蘭畑に戻る。
退避していたアリスが、空から戻ってくる。これまで毒を扱って申し訳ないと感じたことなど一度もなかったのに、今の出来事は何故かきみの心をちくりと刺した。
でも、きみは謝らない。触ってくるのが悪いのだと、それでも頑なに思い込んでいるから。
「わたしに触られるのが、そんなに嫌?」
きみが何も答えられずにいると、アリスはとりなすような笑みを浮かべる。
「冗談よ。でも、凄まじい毒の質量ね。もう少し、逃げるのが遅かったらまずかったかも」
アリスはきみの体に観察の視線を巡らせる。
「鈴蘭ってことは、コンバラトキシンがベースになってるのかしら。でも、吸い込んだだけで体がびりびりと痺れ出したって魔理沙は言ってたから、それだけじゃないのかも。魔力が毒自体の能力を強化させて、成分以上の特質を発揮しているのかな」
きみにはアリスの言っていたことがよく分からない。
「まあ、良いわ。触られたくないのなら、無理強いはしないから」
誰にも人にされたくないことってあるわよね。そう言いながら、瞳は別のものに注がれている。
「これは何かしら」
アリスは昨夜、夜雀の屋台から失敬した日本酒の瓶を拾い上げる。
「昨日はこんなもの、なかったような気がするけど。しかももう空だし。もしかして一晩で飲み干したの?」
きみが頷くと、アリスは顔をしかめる。
「頭が痛かったり、吐き気がしたりしない?」
「全然。これを飲んだと思しい人が毒を発散するようになったから試してみたんだけど、何も変わらなかったわ」
「ふぅん……あー、そういや酒精の途中分解物質であるアセトアルデヒドも毒だったわね。毒を主属性に持つメディスンに通用するわけないか」
そもそもどうやって分解してるのよ、と呟きを加えるアリスに、きみは質問する。
「どういうこと?」
「この瓶に入っていた飲み物は、確かに毒よ。ただし、あくまでも普通の人間や妖怪にとって。きっとこの世界にあるお酒を全て飲み干しても、貴女はけろりとしているでしょうね」
きみはとうとうと説明を行うアリスの表情に注目する。こちらをたばかっているようには見えないが、しかし解せないことも沢山ある。そのうちの最たるものが、きみの口から零れ出る。
「だったらあの女、紅い薔薇はやはり同属じゃなかったのね。でも、だとしたらどうして、毒をわざわざ飲んだりしていたのかな?」
「紅い薔薇? アリスの話に紅い薔薇なんて出ていたかしら」
アリスは少し考え込み、それから合点を得たときの表情を浮かべる。
「そういや、ハートの女王が白い薔薇は嫌いだといって、ペンキで紅く塗らせているってくだりがあったわね。そんな細部まで知ってるのに、どうして肝心の物語を知らないのかしら……と、これは脱線ね。どうして毒だと分かっているものを飲んだりするかってことが知りたいのよね」
きみが頷くと、アリスは物知り顔をして語りだす。
「お酒の中に入っている酒精はある程度までなら、人の心をふわふわと幸せな気分にするの。人型の妖怪にも同じ作用を起こすようだけど、人間と違って研究者がいないから、同じように代謝しているのか、わたしには分からないわ。強い弱いはあるけれど、基本的に妖怪は人より酒に強いみたいね」
閑話休題と言い添え、アリスは話を続ける。
「ただ、酒精は体内で代謝されてアセトアルデヒドという毒に変化するの。更には酢酸――つまりお酢のことだけど――に変化して無毒になるんだけど、それが留まっている間は頭が痛くなったり、吐き気がしたりするわけ。それがおそらくは、貴女の感じた毒の正体。もっとも貴女は妖怪といっても規格が違うから、同じように代謝されるとは限らないけど」
分解すれば分かるのかなあ、とアリスは少しだけ危険な目をきみに向ける。
「それは……遠慮しとく」
きみは分解という言葉に良い意味を感じられない。だからやんわりと、しかしきっぱり断る。
「そうね。貴女ほど精緻な人形、分解して復元できる自信がないもの。表情の細やかさ、関節のスムースな動き、自然毛のように柔らかくしなやかな髪繊維」
あの子なのかしら……と囁きを朧にもらし、アリスは小さく首を横に振る。
「まあ戯言はさておき。お酒と毒物の関係についての講義はこれでおしまい。納得した?」
「そういう仕組みがあるってことは納得したわ。紅い薔薇はきっと、毒のせいで嘘をついたのね」
「そんなところでしょうね。ところで、紅い薔薇って誰のことかしら。そもそも貴女はどうやって、お酒を手に入れることができたの?」
きみは面倒臭いと表情を作るが、内心では誰かに話したくてたまらない。初めて鈴蘭畑の外に出たこと、騒音を撒き散らす夜雀を退治したこと、紅い薔薇との会話と、白い薔薇のしゃなりとして瀟洒な身のこなし。語ることに慣れていないきみは最初こそたどたどしかったものの、少しずつ上手く出来事を伝えられるようになる。
アリスは時折、笑いをこらえながら、楽しそうに耳を傾けてくれて、きみはそれが嬉しい。
「やっぱり、貴女って面白い娘ね」
どこかからかうような口調と表情に、きみは反感を覚える。でも昨日に比べれば、棘も毒々しさも随分と薄れていることにはまだ、気づいていない。
アリスは暫く笑っていたが、深い瞬きを一つ、次の瞬間には真面目な顔になっている。
「でも、貴女のやったことはあまり感心できないわね」
「どうして? だってあの雀、耳障りで煩かったのよ」
きみが不愉快な騒音を思い出し苛々し始めるのを見て、アリスは少しだけ声を厳しくする。
「この地には数多の人間、妖怪が住まっているわ。ありとあらゆる属性がひしめき合ってるし、中には鬱陶しいやつも確かにいる。不愉快に感じることもあるかもしれない。でも、だからといって最初から一方的に、力で片付けようとしてはいけないの。例えば、こう考えてみて。貴女より圧倒的に強い力を持った存在が現れ、鈴蘭が鬱陶しいから全て焼き払う、と言い出したら、どう?」
あくまでもたとえ話に過ぎないが、それでもきみの怒りを駆り立てるには十分過ぎる。
「そんなことは絶対に許せないわ!」
血煙のように濃密な毒気が、きみの心を中心として漂い始める。アリスは宥めるように、しかし余裕のある様子できみに道理を言い聞かせる。
「そうね。でも、そいつは貴女よりも力が強いから、簡単に事を成し遂げてしまう。さて、メディスン。いま、貴女は毒煙を出すほど憤っているようだけれど、それは昨夜、夜雀に対して貴女がしたことと全く同じなのよ」
あ、ときみは合点の呟きをもらす。それを見て、アリスは満足そうに微笑む。
「わたしが何を言いたいか、分かったのね」
「うん……」
「良かった。生まれたての妖怪って普通、この手の初等的な論理も理解できないのが普通なんだけど、貴女は割と特別みたいね。ある程度の込み入った話も理解できるようだし」
「でも、言いたいことは分かるけれど」きみの体は煙のような毒を出すのをやめたけれど、まだ完全に収まってはいない。「あの煩い歌声を思い出すだけで、やっぱりむかむかして、毒を浴びせたくなってくるわ。長く続けば我慢できず、同じことを繰り返しそうな気がする」
「毒の属性をもった妖怪の本能か。それだけは如何ともし難いけれど――まあ、妖怪は属性に見合った悪さをやらかす存在だから、そこのところは仕方ないのよね。我慢するか、あるいは妥協点を見つけて相互不可侵の約束を取り付けるしかないんじゃない?」
妥協という言葉は、きみの心にダイレクトに圧し掛かってくる。何故ならきみはこれまで、短い時間だけれど好き勝手に生きてきた。欠片ほどの煩わしさとはいえ、好き勝手を侵害されることに抵抗感がある。
「そんなこと、できるのかな?」
「できなければ、その時は縄張り争いね。貴女か夜雀か、戦ってどちらかが勝つ。勝ったほうは負けたほうに強制的に、条件を押し付けられる。出て行け、と追い出すこともできるでしょうね」
「でもアリスはさっき、そんなことしちゃいけないって……」
「わたしはたとえ話をしただけ」
きみの不満をアリスはぴしゃりと封じる。
「最初から一方的に力を押し付けるのは良くないわ。でも、力でしか解決できない物事というのもあるの。全てを一意に平和的に処理できるのが理想的だけれど、現実にはそう上手くはいかない。そもそも存在的に決して分かり合えない場合もある。特に光と闇、静と動、正気と狂気、といった相克するもの同士の間では、必然的に争いが生まれる。そういった場合でも他方の殲滅ではなく、妥協で収める場合もある。もちろん、殲滅も起きる。要はケース・バイ・ケースってことね」
長く話し過ぎたのか、アリスは小さく息をつく。
きみは彼女の話したことを何とか咀嚼しようとするけれど、上手く行かない。
「アリスの話すことは、難し過ぎるわ」
「でしょうね。それにこれはあくまでわたしの持論だから、貴女にも当てはまるとは限らないわ。わたしは基本的にものぐさで、些事には関わりたくないの。研究ができて、その成果を試せればそれで満足。そのために喧嘩を吹っかけたりもするけれど、相手を殲滅しようなんてことは考えない。だから適当に妥協できるし、必要とあらば他者と共に行動することも出来る。でも、貴女はわたしと由来が違う。由来の違うものは、例え同じような姿形をしていても、全く別種の生き物なの」
「それも、よく分からない」
「だと思うわ。でも、考えるべきなのよ。これからもこの人外魔境で暮らすのならばね。その結果、もし貴女が好戦と殲滅に傾いてしまうならば、わたしはそれも仕方ないと思う。但しいずれ、ハートの女王が現れて『そのものの首を刎ねよ!』、そして終わり。この世界のハートの女王は、不思議の国のものと違ってごっこ遊びはしないものよ」
きみはハートの女王が何を表すか分からないし、具体的にアリスがどの人物を差して述べているかも分からない。でも何故か、きみにはアリスの言いたいことがよく分かる。
きみの仕草や表情からそのことを読み取ったのだろう。アリスは懲りた様子もなく、きみの頭を優しく撫でる。毒が噴き出し、しかしアリスは既に空へと舞い上がっている。
「今日は話し過ぎて疲れたから帰るわね。また明日」
紫煙の晴れたとき、既にアリスは空のどこにも見えない。きみは微かに寂しさを感じ、否定するために強く首を横に振る。彼女はどうしていちいち自分に声をかけたり、説教したりするのだろう。優しく接してくれるのだろう。そんなことを考えていると無性に眠たくなり、きみは今日も真昼から鈴蘭畑に身を横たえる。
眠りに落ちる前、ごく遠目に昆虫の羽根のようなものを生やした人影が、風にあおられた毒煙に巻かれて墜落していくのを見たような気がしたけれど、きみは気にせず目を瞑る。