第三話
〜不穏と事件の挟間〜

18 水瀬家のごく一般的? な朝

朝にはその家庭の特色が現れる。
緩やかに過ぎる家庭もあれば、妙に慌ただしく過ぎる家庭もある。
水瀬家の場合は、そのどちらをも内包していた。

祐一は昨日と比べるとやややつれた顔で、風に吹かれれば飛んで行きそうな足取りを交わし、
二階にある祐一の部屋へと向かっていた。
僅かに唸りをあげる腹を抑えながら、片目を辛さのために瞑る祐一。
ドアを開ける直前で鳴り響く目覚まし時計の斉唱が、祐一に新たな打撃を与えた。

「こ、こんな時だけは……勘弁して欲しい」

祐一は響くベルの音に、収まった腹が再び刺激されるのを感じていた。
どれだけ出せば、この痛みは収まるのか……考えたくも無い。

しかも、昨日の夜は変な夢を見たせいか、余計に調子が良くない。
寝起きの頭が僅かに疼くのを感じながら、夢の残滓ごと腹痛に持って行かれたが。
夢の中で、何故か祐一は大声で泣いていた。隣には名雪がいて、
彼女も一緒に泣いていた。多分、祐一が子供の頃だったと思うが、それすらも分からない。

しかし、今はそんなことを考えている暇などなかった。
急いで、この頭痛がしそうな目覚まし群を全てシャットしなければならない。
祐一はノックもせずに、名雪の部屋へと入る。
悠長にノックなどしたところで、返事などありはしない。
ベッドの上で蛙のぬいぐるみを抱きながら幸せそうに眠る名雪を他所に、
祐一は職人的早さで目覚ましを止めていった。流石に数をこなせば慣れる。

全ての目覚ましを止めたところで、今度は本体の名雪を起こしにかかる。
目覚ましを止めるよりも数倍、苦労する場面だ。
出来ることならスリッパで頭の一つでも殴って起こせば良いのだが、
家主の秋子は強度暴力系の起こし方を禁じているので、手段が少ない。

「おい、名雪、猫だぞ、猫」
「ねこ〜? ねこ〜……くー」

数ヶ月前までは飛び跳ねるようにして起きていた秘技も、名雪には既に耐性が付いていた。
頬を引っ張ってみたり、揺さぶってみたりするが、効果は一円玉以上に小さい。

「むーっ……名雪起きたあ?」

真琴が細めた目を擦りながら、入口の方で祐一の姿を伺っている。
祐一は溜息を付いて、首を大きく横に振った。

「俺が努力するほど、耐性が上がっているような気がする」

ふと、平日時に名雪を起こしている秋子のことに考えが及んだ。
何だかんだ言っても遅刻がないということは、何か名雪を起こす決定的な手段が存在する筈だ。
祐一は希望的観測を抱き、台所にいる秋子の元へと向かった。
階段を降り、朝餉の良い匂いがする方角へと向かえばそこが台所であることは自明である。

台所ではエプロンを身に付けた秋子と佐祐理が、朝食の準備に忙しなく動いていた。

「あっ、おはようございます、祐一さん、真琴」

佐祐理がお玉を持ったままこちらを振り返り、元気の良い挨拶をする。
目の覚めそうなその挨拶を、名雪に分けてやりたいと祐一はふと思った。

「秋子さん、今日の御飯は何?」

いち早く食卓に席を確保した真琴が、片手に箸を持って秋子に尋ねた。

「今日は御飯に納豆、なめこと豆腐の味噌汁、胡瓜の朝漬けね。
祐一さんはお腹の調子が悪そうでしたから、有り合わせのもので雑炊を作っておきました」

「あ、すいません」 秋子の気遣いに、祐一は思わず頭を下げる。
「ところで舞はどうした?」

食卓には、佐祐理と一緒の部屋にいた舞の姿がない。

「舞なら今さっき目が覚めて、今は着替えている最中ですよ」

と佐祐理が説明してくれた。

舞と佐祐理は、一階にある秋子の隣の部屋を使っている。
最初は舞が名雪の部屋、佐祐理が真琴の部屋を借りていたのだが、
余程目覚ましの大音響が恐かったらしい……舞は名雪と一緒に眠るのを嫌がった。
しかし、真琴の部屋は真琴が嫌がるので、舞は行き場所が無くなってしまった。

そこで空いている秋子の隣の部屋を、二人で使うことになったのだ。
そこは亡くなられた秋子の夫の部屋だったが、今は故人を偲ばせる品は一つもない。
恐らく、倉庫に保管してあるか処分してしまったのだろうが、部屋には見当たらなかった。

そう言えば……祐一はふと思う……秋子の夫の名前を自分は知らないなと。

まあ、亡くなったのが祐一が小さい頃らしいし、
秋子も名雪もその人のことを話したことは一度もなかった。
或いは忘れているだけかもしれないが……。

「あの、どうかしたんですか?」 当の秋子から声が掛かり、祐一は俄かに心臓を震わせる。
「まだ、調子が悪いんですか?」

ぼーっと立っている祐一のことを、秋子は気分が悪いのかと勘違いしたらしい。
祐一は「何でもありませんよ」と被りを振ると、当座の質問を秋子にぶつけた。

「秋子さん、名雪を起こすコツってあるんですか?」

「ありませんよ、そんなもの」 秋子は一秒もしない内に、きっぱりと答えた。
「ただ根気よく起こす……それだけしか無いですね」

祐一は目の前が真っ暗になる。名雪の寝起きに有効な手段は無い……。
そう考えただけでも、暗澹たる未来がまた一つ約束されたようなものだ。

「……起こしてきます」 祐一はふらりと立ちあがった。

階段を登り名雪の部屋に入るが、そこには名雪はいなかった。

「あれ? 起きたのかな?」

微妙にすれ違ったらしいと思う一方、ふと疑問に思う。
名雪の部屋から台所までは、階段を降りた先に二手に分かれる道がある以外は、
迷うこと無き一本道だ。どうして名雪とすれ違わなかったのだろうか、謎だった。

しかし、そんな思考は原初の欲望の前には一瞬で崩壊する。

「ぐあっ、また来た」 ウエイブの再発が祐一を襲う。急いでトイレの前まで来るが、使用中だった。
「は、早く出てくれ〜」

しかし、中からはなんら返答がない。
戸をひっきり無しに叩いてみても、やはり同様の反応しか示さない。
腹をせめぐ顫動は、加速度的にその強さを増している。
このままでは間違い無く……祐一は最悪の可能性を首と共に振るった。

「……うるさい、祐一」 後ろから声が掛かる。着替えをすっかり完了した舞だった。

「舞、誰かトイレに入ってないか?」

それは、真琴か、佐祐理か、秋子が中にいないかという問いだ。しかし、舞は首を振った。

「……私の知る限りでは、誰も入っていない」

となると……祐一の頭に最悪の可能性が過ぎる。
中にいるのが名雪で、しかも眠っちゃっていたりするパターンだ。

祐一は叩いた、死ぬ気で叩いた。
メロス、カミング・バック……祐一は錯乱した頭で思う。
ふと、祐一はメロスを疑ったセリヌンティウスの気持ちが痛いほど分かったような気がした。

 

19 祐一の悩み相談室(前編)

祐一は机に寝そべっていた。
そこには精も根も尽き果てた、一人の男の姿がある。
いや、二人だった。

彼の隣の隣に座る北川潤も、祐一と全く同じ悲哀を背負っていた。
芯から冷えるほど大量のパフェを食し、そして腹を壊した戦友。
横を向くと、ふと北川と目が合う。その鯖のように淀んだ視線は、

(ブルータス、お前もか)

という思いを発散していた。正に腹痛故の友情だ。
そんな友情は嫌だと、祐一は心底思った。

「二人とも、私を挟んで虚ろな目をしないでくれる?」

祐一と北川を挟むように位置する香里は、交互に厳しい目を向けた。

「そんなことを言うがな、そもそもの発端はお前の妹なんだぞ」
「あれくらい食べただけでお腹を壊すような、軟弱な胃腸を持ってる貴方たちが悪いのよ」

香里は無慈悲なる女王然とした口調で切り返す。

「香里……そこに愛は無いのか?」 北川がひきつる顔と共に呟く。

香里はしばし逡巡した後、 「……ないわね」 と冷徹に答えた。
その言葉に、北川は完全に沈黙したのだった。

「あーみんな、席に着け」 その時、二時間目の授業を告げる教師の声が響いた。

ふと気配がない後ろを振り向くと、名雪は完全に夢の世界にいた。
涎を僅かにノートに垂らし、まるでモップのように髪をたゆたわせる姿に、
最上級生、或いは受験生としての緊張感は微塵もない。

「……ねこ〜」 寝言は完全なままに、名雪の夢と願望を示していた。

この時間は厳しい教師では無いので、進んでこのまま眠らせておこうと思う祐一。
祐一は素直に黒板に向かう。彼には佐祐理と舞と同じ大学に行くという目的分の、
凍らせた蜜柑ほどには強固な意志があった。
後で名雪にノートを見せて恩を売ろうという不埒な企みも多少はある。

しかし、その企みは成功しなかった。
再び腹痛が、これまでで最高レベルのものが押し寄せてきたのだ。

(ぐはっ、こんな時に……)

祐一は自分の間の悪さを呪った。
最早、恥や外聞を考慮できるレベルではない。

「あの、先生!!」
「あ、すいませんが……」

二人の声がダブる。そして錆びたロボット・アームのように拙い動きでお互い声をした方を向いた。

(ブルータス、お前もか)
(何だ、ブルータスって。俺は北川潤だ)

そんなアイ・コンタクトすら耳に聞こえる極限状態だ。
祐一と北川は事情も説明せずに、教室を飛び出した。

「……流石に、ちょっと気の毒な気がするわね」 香里は誰にも聞こえないくらいの声で呟いた。

 

五分後。
トイレの入口には、最後の猛攻撃を凌ぎ切った清々しい顔の二人がいた。
相沢祐一と、北川潤である。

「ふう、死ぬかと思った……」 それは祐一の心からの思いだった。

北川は神妙に、そして僅かに前屈みの体勢で頷く。
祐一と北川は間の悪さゆえか、しばらく沈黙を交わしあっていた。
特に北川は、珍しく思案げな表情を見せている。

先に口を開いたのは祐一だった。

「なあ、そろそろ教室に戻らないか?」 祐一が切り出したが、北川はうんともすんとも言わない。
「どうした? まだ腹が疼くのか?」

確かに、北川は顔色が微妙に青白かった。
もっとも、北川から見ればこちらも青白く見えるのかもしれないが。
そんなことを思いながら、じっと北川を見る。

彼は意を決したように口を真一文字に力を込め、それから光のこもった瞳で問うた。

「祐一、今の授業、サボれるか?」

最初は何を言ってるのか? と思ったが、柄も無く真面目な表情をしている北川を見ると、
思い詰めていることでもあるのかなと、次には微かに訝しんだ。

「未練は無い」 祐一はきっぱりと答えた。
「でも、今更何の用だ? 何か悩み事か? 俺はみのもんたみたいに上手には捌けんぞ」

もっとも、みのもんたが相談者に的確な解答を示しているかと問われれば、
疑問符を提示しなければならないが……。

「そんなところだな……ここじゃちょっとまずいから……」

それは授業中という意味もあるし、他人に聞かれたらまずいという意味もあるのだろう。
祐一はそう判断した。

「気がね無く話せる場所なら、一箇所知ってるぞ」

祐一の脳裏にふと閃いたのは、かつて佐祐理と舞の三人で食事をしていた、
屋上前の踊り場だった。あそこなら、誰も訪れない。

こうして祐一と北川の二人は、授業をふけた。

 

20 祐一の悩み相談室(後編)

「なあ、お前、美坂のことどう思う?」

階段に腰掛けるや否や、北川が尋ねてきたのはそんなことだった。

「美坂って、どっちの方だ? 姉か、妹か?」 それとも両方、と聞こうとしたが良心が拒否した。
「それにより、こちらの対処法も変わる」

「……姉の方だ」 北川は逡巡した後、答えた。
「俺には、どうも美坂の気持ちが良く分からない」

美坂香里の心情を正確に把握できる人物なんて、この世にはいない。
いや、一人が他人のことを完全に分かるなんてこと、出来る筈が無いのだ。
歩み寄ることはできても……そう、祐一は思う。

但し、今の北川の気持ちくらいなら簡単に読める。
つまりは、美坂香里が北川潤のことをどう思っているかが彼は知りたいのだ。
もっとも、北川が香里に好意を抱いているなんて、祐一はとっくに知っていた。
最初の質問も、どちらかと言えばからかいの意味合いが強い。

「そんなことを言われてもな……」 ただ、改めて質問されると、祐一としても困る。
「第一、なんで俺なんだ。聞くんだったら、仲の良い名雪に聞けば良いだろ」

「こういうことはな、異性には話し辛いんだよ、察しろ」

北川は祐一の、一方では呆れるような鈍さに溜息を付く。

「そっか……まあ、気持ちは分からんでもないが……」

確かに祐一としても、色恋沙汰(明示されては無いが、恐らくその通りだろう)を異性に語るのは、
非常に抵抗感がある。こういうことが身近な友人に相談されるのは自明の理だ。

「で、北川……お前は何を望むんだ?」
「何をって……それは……」

北川とて呼び付けてはみたものの、何を相談して良いかは分からないようだ。

「俺は美坂のことをもっと知りたい……それだけだ」

「北川……」 祐一は北川の肩に手を置くと、首を振った。
「つまり、それは香里のことが好きだということだろ」

気になる人がいて、その人のことをもっと知りたい……その感情は、多分恋だろう。
そこまで思って祐一は、気になって、もっと舞のことが知りたくて夜の校舎に通っていたのは、
つまりは舞のことが好きだったからなのだろうか……と考えてしまった。

分からない、それが瞬時に出した祐一の結論だ。
自分は恋愛の相談相手としては全く向いてないのだなと、自嘲気味に思う。

「そう、だな……多分、そうだと思う」

北川は胸の中で徐々に、その確信を強めて言った。俺は美坂のことが好き……。

「でも、何時からそう思うようになった?」 祐一は興味本位で尋ねてみた。

「それは……二年になって少ししてかな。漠然と可愛いなって思ってたよ。
でも、しばらく見ていると、妙に悲しい目をする瞬間があって……。
もっと美坂のことを知りたいって思うようになったんだ。
結局、俺には勇気も何もなかったんだけどな。
その理由を聞く勇気も、自分の心情を告白する勇気も。
決定的だったのは、少し前に香里に妹の栞ちゃんのことを告白された時だと思う」

そう言って、北川は祐一に花見の日のことを話した。
栞が不治の病に侵されていたこと。
香里は栞のことを忘れることで、悲しみから逃れようとしていたこと。
結局、それができなかったこと。
これからは、栞の幸せの為に努力しなければならないということ。

「それを聞いた時、俺が美坂にしてやれることはないかなって……そう、思うようになったんだ」

北川の話を聞き終えた祐一は、思わず感心した。
単なる色恋沙汰と思っていたが、北川は北川で真剣に物事を考えているんだな、と。

「成程、事情は良く分かった。それなら、お前の取るべき行動は一つだ」 祐一は宣言した。
「告白してしまえ、すぐにでもな」

祐一の助言に、北川はバランスを崩した。

「相沢、お前本当は良く分かってないだろ」
「別に伊達や酔狂で言ったわけじゃないぞ」

何処か二人の間に相違があると思った祐一は、慌てて補足説明した。

「話を聞いた所、お前が美坂香里にぞっこんだということは分かった。
だがな、香里の方だって満更だとは思って無い筈だぞ」

昨日のゲームセンターの一件を見ても、香里が北川のことを悪く思っていないことは、
容易に見て取れる。それも根拠の一つだった。

「本当か?」 北川は両肩をがっしりと捕まえ、祐一を揺さぶった。

「馬鹿、揺さぶるな、落ち着け」 祐一は宥めに掛かったが、北川のシェイクは止まらない。
仕方なく強引に引き剥がすと、沸騰した頭にヘッドバッドを食らわしてやった。

「いてっ、何をする相沢」
「お前が落ち着かないのが悪いんだろ……」

頭を擦りながら抗議する北川を無視し、祐一は続けた。

「それにな、自分の身の打ち明け話、それも自分にとっては後ろ暗いことを異性に話すってのはな、
相手がこっち側に好意以上の感情を抱いている証拠だ」

何処かのドラマで聞いたことがある台詞を祐一は引用した。
確か「一千年目の夏」とかいう、数年前に流行った話だ。

「だから、結局北川、お前に足りないのは押しだけだ」
「押しだけ……」

北川は右手でぐっと拳を固めると、皺ができるほど力を込めてみせた。

「相手だって素直じゃない。最初は透かされることもあるかもしれないが、
それで挫けたら駄目だ。押せ、そして押しまくるのだ」

自分ながら適当な助言だと思ったが、祐一とて恋愛巧者ではない。
俗っぽいエールしか、目の前の友人に向かって送ることはできない。
だが、北川の目には炎が宿っていた。

「分かった相沢、何処までできるか分からないが、押してみる。
何も考えずに突っ走って、美坂の心をゲットしてみせる」
「お、おう、頑張れよ」

よく考えれば燃え過ぎという感じもしないではない祐一だったが、
どちらかと言えば不断気味の北川にはそれくらいが丁度良いと思った。

「相沢、やっぱりお前に相談して良かったよ」
「そ、そうか?」

祐一にしてみれば、対した助言をしたとは思えない。
だが北川にしてみれば、何かつかえが取れたのだろう。
そう決め付け、心の中で密かなエールを送る祐一だった。

 

21 夏の幻影の如く……

佐祐理は一限目、経済基礎論の授業が終わると、ルーズ・リーフをバインダに閉じ、
席を立ち上がろうとした。

「あの……」 声を掛けて来たのは、同じ経済学部の学生だった。
もっとも、佐祐理は目の前の女性の名前を知らないし、会話も無い。

「えっと、何ですか?」 どうも何かを頼みたがっている様子なのだが、佐祐理には心当たりが無い。

「ちょっと、頼み難いことなんだけど、その……。倉田さんって、毎回この講義に出てるよね?」

「はい」 と佐祐理は当たり前のように答えた。

佐祐理が出席を取らない授業になると、自主的に欠席する人がかなりの数存在するということを、
知識として得たのは大学に入ってすぐのことだった。

中には最初の講義に出て、後は出席しない人もいる。
そうでなくても、佐祐理のように毎回出席してノートもきちんと取るものは稀だった。

もっとも、高校の時から試験前になるとノートを見せてと頼まれたことは幾度かある。
佐祐理のノートは見易くて分かり易いと口々に話していたが、
自分にしてみれば綺麗でも分かり易くもないと思っていた。

「良かったら、ノートをコピィさせてくれないかな?」
「ええ、良いですよ。けど再来週がテストですから、早く返して下さいね」
「うん、分かってるって……有り難う」

その名も知らぬ女性はノートを受け取ると、佐祐理の手を掴んでぶんぶんと振った。
講義に出ていれば、いつかは帰ってくるだろうと楽観的に思った。

「しまった、一足遅かったか……」

その光景を見ていた別の女子学生が、指を一つパチンと鳴らして悔しがっている。

「貴方も経済基礎論のノートですか?」 佐祐理は目の前の女性に話し掛けた。
「今、出て行ったばかりですから、走れば追い付けると思いますよ」

目的が同じなら、まとめて行動した方が良いと佐祐理は判断しての言葉だった。

「あ、そうか。じゃあ、私の分もコピらせて貰うね……有り難う」

その女性は佐祐理に大きく頭を下げると、先を行くノートを追って講義室を後にする。
それを見た男女混合軍五人組が、更に佐祐理の所へと押し掛けた。
笑顔でそれを承諾すると、再び火の玉のように走って行く学生たち。
そんなことがあと二、三度あり、講義室が空になった所で、ようやく佐祐理は退出した。

今日は二限目に予定が入ってないので、佐祐理は図書館へと向かった。
今期は受講している講義の数も多いので、早いうちから勉強しておかなければ追い付かない。
ハードカバーの本が五冊に弁当箱が入った重量のある鞄を肩に担ぐと、
佐祐理は夏の日差し照り付ける外へと歩を進める。

太陽が恨めしい程に世界を焼いていた。
蝉の合唱が夏の大気をざわめかせている。
佐祐理は手で目を覆い、天空の蒼を見上げた。
遠くに見える入道雲は、壁のようにして南の空を覆い尽くしている。

「今日も、暑くなりそうですね」 佐祐理は空に語り掛けるようにして呟いた。

道を行く学生たちは皆、一服の涼を求めて足早に歩を進めている。
佐祐理のように図書館に向かうものも入れば、次の講義がある校舎へと向かうものもいる。
或いは生協の建物で、早めの昼食、遅めの朝食を取ろうと考えている人たちもいた。

その中で、佐祐理の視界に夏の光景には不似合いな一人の女性が映った。
彼女はペンギンがプリントされたTシャツに、ジーンズを穿いている。
ラフな服装の彼女は、周りの学生に比べて大人びて見えた。
マスタかドクタの人かなと佐祐理は検討を付ける。

しかし、佐祐理が一番心配だったのは彼女の体調だった。
額からは大量の汗を流し、呼吸も乱れているように見える。
顔色も白いほどに青く、何らかの症状に苦しんでいるように佐祐理には思えた。

「あの、大丈夫ですか?」 佐祐理は心配になって、その女性に声を掛ける。

女性は喋るのも億劫な様子で佐祐理に顔を向けた。
間近で見ると、思いの他、痩せていた。
目には大きな隈ができており、僅かだが体を痙攣させている。

「余計なお世話よ」 女性は眼窩を大きく見開き、恫喝するような表情で佐祐理を見た。

「でも……」
「大丈夫だって言ってるでしょう」

女性は差し伸べられようとしていた佐祐理の手を邪険に払うと、
病人の様相でふらふらと歩いて行く。どうやら向かう先は、文学部棟のようだった。
佐祐理は大丈夫かなと思いながら、その女性が視界から消えるまで見守るしか無かった。

 

22 強くあるために

同じ頃、舞はクラスメイトの河合恵美子に首を羽交い締めされていた。
彼女は元々、出席順が近いのと舞に個人的な興味を持っていたことで、
舞に話し掛けてきた唯一の女性だった。

それがゴールデン・ウィークの一件以来、余計にくっついてくるようになった。
恵美子はわざわざ舞が赤面するようなことを言い、チョップを受けることを楽しみにしている。
そして、予定調和に舞がチョップをお見舞いすると、彼女は笑うのだ。
恵美子のグループの女子学生たちも、皆、声を立てて笑った。
もっとも、舞は何故彼女たちが笑うのか良く分からなかったが……。

そんなことがあって、最近では舞も同じ年代の学生とも行動するようにになって来た。
もっとも、舞は他の人が話をしているのを専ら横目で聞いているだけだが。

で、何故舞が羽交い締めにされているかと言えば……。

「舞、お願いがあるんだけど〜」
「……何?」

舞は少し苦しいなと思いつつ、筆記用具を片付けながら言った。

「先週、私、体の調子が悪くて講義休んだでしょう? 舞のノート貸して欲しいの。
中世西洋史のノートだけでも良いから。ほら、あの講義の講師、大涯教授ってさ、
テストが悪いと即留年だし。出席は取らないけどその辺はシビアでさ、追試もないでしょう?」

そこまでまくし立てると、舞を羽交い締めしている腕の力を僅かに強めた。
舞にはその辺りの機微が良く分からないが、絞められた首が痛いということだけは、
正しく痛いほど認知されている。

「だから、あれだけはきっちしやっとかないとまずいのよ。
まあ、過去問は持ってるけど、気紛れで問題変えられたらアウトでしょう」

「……分かったから、首を離して欲しい」
「あっ、ごめん」

恵美子は舞の戒めを解くと、申し訳無さそうに頬を掻いた。

「で、ノートは?」
「……分かった、二限目の授業が終わったら貸す」
「うわあ、有り難う。じゃあ、二限の終わった後でね。
ところでさあ舞、たまには一緒に昼食でも食べに行かない」

いつもの恵美子の誘いに、舞は大きく首を振った。

「……それは駄目」
「むう……やっぱり例の佐祐理さんと食べるの? 綺麗な娘だよね。
髪の毛は流れるようなストレートで、頭にでっかいリボン付けて、朗らかに笑う……」

細をいった説明に、舞は思わず恵美子を凝視した。

「……何で知ってる?」
「いや、ああまで断られ続けたからさ。どんな人かなって、ちょっと後を付けちゃったりしたのよ。
ちょっとした探偵気分かな?」

あっけらかんと言う恵美子に、舞はかねがね疑問に思っていたことを訊いた。

「……何故、私が拒否し続けてるのに、話しかけて来ようとする?」

舞の質問に、恵美子は額を二、三度こつこつ叩いた。
それからにぱっと笑って答える。

「やっぱり、川澄さんのことが好きだからかな。逆に私が訊きたいんだけど……。
川澄さんは何故、私のことを佐祐理さんに紹介するのが嫌なの?」

「それは……」 舞は僅かに俯いた。
「……河合さんの方が話すのが上手いから。きっと、佐祐理は貴方のこと気にいる。
そしたら私は、いらなくなるかもしれない」

そして、そこに舞の入り込む隙間が小さくなる……そう思った。
それは子供が親に持つ独占欲のようなものだ。

「……私はいらなくなるかもしれない」 舞は繰り返し呟いた。

しばらく双方共が、口を聞かなかった。
沈黙に耐えかねて、舞が恵美子の方をそっと覗き見る。
すると……。

「うーん、川澄さんってば、可愛い〜」

そんなことを言いながら、舞に頬擦りしてくる。流石に、舞もその行為には面食らった。
だが、慌てる暇も無く恵美子は頬を離した。

「分かった。じゃあ、当分は勘弁してあげる。でも、いつかは紹介してね」
「……約束する」

舞はしばしの逡巡の後、そう答えた。
もっと自分に自信がもてるようになったら、その時佐祐理に紹介しよう。
そして、三人で楽しく昼食を取るのだ。
きっと、今まで以上に楽しいだろう……そう、舞は思った。
だから、もっと強くならなければならないのだ。

思っていることを口に出せるように。
楽しかったことも、苦しかったことも。
嬉しかった事も、悲しかったことも。
これからはもっと口に出す練習をしよう。

舞はそう心に誓った。

「あ、入って来たよ」 舞が心の中で拳を固めていると、恵美子が黒板の方を指差した。

空色のストライプネクタイにYシャツ。
紺のズボンを穿き、手には『悪即斬』とプリントされた扇子を持っている。
髪をぴっちりと五分に分け、吊りあがった目は集まった生徒を睥睨しているように見える。
月曜二限の講義、中世西洋史の講師、大涯熊八郎はそんな出で立ちで登場した。

 

23 白昼の悪夢

藁苗龍巳はうだる熱気を他所に、クーラの利いた部屋にて必死にペンを走らせていた。
向かい合わせにされた机が四対、合計八脚ある机の内、一番窓際の席を陣取って、
彼は卒業論文の中間報告をまとめている。

最も、六月一杯の段階では簡単な中間報告さえ提出すれば良い。
論文用に用意された学術本の中から興味深いテーマを選び出し、
図書館で幾つかの調べ物をすれば簡単に書き上げられる代物だった。

四月の間に数回行われる研究室セミナさえ出席すれば、
後は研究室に出席せずとも、レポートさえ出せば夏休みは迎えられる。
大学生活最後の夏休みを、試験も無しに三ヶ月まるまる過ごせる筈だった。

藁苗は、それすらもしなかった自分の怠惰さを今ほど後悔している時はなかった。
何とかなるだろうと適当な解釈を付けて提出した中間報告は見事に駄目を出され、
彼は図書館から借りて来た数冊の本と論文用に用意された本とを交互に読み、
時にはバリバリと頭を掻き、一向に進まない中間報告を恨めしそうに眺めていた。

まだ見ぬ甘美なヴァカンスを想像する度に、自らが置かれた境遇に嫌気が差す。
気分が鬱になると、中間報告が捗らない。見事なまでの悪循環だった。
唯一の救いと言えば、クーラが利いていることくらいだ。

藁苗は両手を後頭部に持って行くと、大きく溜息を付いた。
そして、意味も無く周りを見渡す。現在、この部屋にいるのは一人だけだ。
大抵、ここに所属しているマスタやドクタは昼過ぎにならないと現れない。

彼は唯一、部屋にいる雲場央の方に顔を向けた。
健康的に刈り揃えられた髪に、フレーム・レスの眼鏡を掛けている。
夏場だというのに、黒の単色シャツを着ていた。
顔はやや痩せぎすで、神経質そうな表情を崩さない。藁苗の最も苦手なタイプだった。

いつもは黙々と資料を睨んでいる雲場なのだが、今日は何だか様子が違った。
彼は落ち着きのない様子で、ちらちらと隣の部屋に通じるドアを眺めている。
その原因を藁苗は知っていた。

今から一時間程前、同じくこの研究室所属の河合優子という女性がやって来た。
雲場と少しばかりの諍いを起こし、優子は今も隣の部屋に閉じこもっている。
隣の部屋は使用頻度の低い資料やガラクタを保管している倉庫となっていた。
昨日、掃除をしたばかりで藁苗も人員として駆り出されたのでよく覚えている。

優子は藁苗のような鈍感な人物から通しても、尋常では無かった。
顔はすっかり蒼ざめていて、おこりのような震えが彼女を支配していた。
まるで目に見えない何者かに脅えるかのように、彼女は憔悴し切っていたのだ。

だが、そんなことは自分とは関係無い。
そう言い聞かせて、再び机に集中の目を向ける藁苗。
まるで地獄の底から響くような叫び声が聞こえて来たのは、そんな時だった。

「いやあっ、来ないで……」

ドア越しから、再び甲高い女性の叫び声が聞こえる。
それはこの部屋に閉じこもっている筈の、河合優子の声だった。

藁苗と雲場は同時に立ち上がった。
雲場が素早くドアに駆け寄ったが、ノブを捻るだけで扉は開かない。

「くそっ、鍵が掛かってる。鍵は……掛けないから場所なんて分からない」

そのことを確認すると、藁苗の方を縋るような目で見た。

「……すまないが、扉をぶち破るのを手伝ってくれ」

だが、隣の部屋を隔てる扉は鉄でできている。
とても男二人の体当たりで破れるようなものではなかった。
二人で数度体当たりしてみて、絶望的な思いでそれを悟る。

その間にも、隣の部屋からは「来ないで」とか「やめて」など懇願する声、
そして痛々しい呻き声、それが呟きのように変わって行く様子が、
擦り込むように耳に入ってくるのだった。

「どうした、何かあったのか?」

その時、騒ぎを訝しむ様子を見せる男性が部屋に入って来る。
この研究室の主、大涯熊八郎だった。

「それが……優、川合さんが隣の部屋で何者かに襲われてるんです。
けど入口には鍵が掛かってて入れなくて……」

雲場はかなり慌てているのか、断片的で不充分な伝え方だった。
しかし、それで大体の様相を掴んだのだろう……大涯は向かい側にある教授室へと向かった。
鍵を使って教授室の扉を開き、中に入る。
それから一分もしない内に、十個近く鍵の付いた束を持ち出して来た。

「普段使わない鍵は全てこれにまとめてある。どれかの鍵で開く筈だ」

雲場はひったくるようにして鍵束を手に取ると、一つ一つ確かめて行く。
鍵は四回目で符合した。雲場、藁苗、大涯の三人は雪崩れるようにして中に入る。

そこは、惨たる現場だった。

窓際には机が一対積み上げられており、向かい側にも同じようにして机が置かれていた。
扉と反対側の壁際には天井まで伸びる生理棚がある。そこには日本語、英語、仏語、独語等の
学術書や過去のものとなる論文誌や専門誌、卒業論文、修士論文などが納められていた。

他には何も無い、平坦なる部屋。
そのほぼ中央付近に、河合優子は倒れていた。
鋭利な刃物で切り裂かれた傷が椀部、咽頭部、腹部と分かるだけでも数箇所。
顔や咽頭部には更に、爪で掻き毟ったような跡が見える。
流れ出る血は全身を赤で塗れさせていた。

床は優子から流れ出た血で赤黒く染まり、刃物で切り裂いた際に飛び散ったであろう血は、
飛沫上に机や壁を濡らしていた。

側には血に塗れたナイフ。

しかし驚くべきなのは、これ程の傷をもって尚、優子は何かに憑りつかれたかのように、
身体を動かしていたことだ。彼女は血に塗れた体で、必死に手を伸ばす。
彼女はナイフを掴もうとしていたのだ。しかし、その手は空を掴んだ。

そして口から大量の血を吐き、僅かな音を立てて倒れる。
そして、二度と動かなくなった……。

窓は閉まっている。
換気扇だけがゴウゴウと唸りをあげていた。

三人はその光景を、しばらくの間黙って見つめていることしか出来なかった……。

 

24 サイレンのなる昼食

昼食時。
佐祐理と舞の二人は茣蓙を広げて木陰で昼食を食べていた。
舞が無心に出汁巻き玉子をほうばっていると、その足元に一匹の来訪者が現れた。

『彼』はこの大学に住み付いている犬で、名をラインバッハという。
もっとも学生からは「ジョリィ」「ポチ」「ポテト」「アスカ」などと様々な名前で呼ばれている。
茶色を基調とした毛に、精悍な体躯、反比例して野性味の無いだらしない顔。
それら全てが愛嬌として存在し、『彼』を大学のマスコット的存在としていた。

「あ、今日も来たんですね」 佐祐理はラインバッハの頭を軽く撫でる。
『彼』は佐祐理の目の前まで来ると、行儀良くちょこんと座った。

「はい、どうぞ〜」

佐祐理は弁当箱から骨付き空揚げを一つ取り出すと、ラインバッハに加えさせた。
尻尾を大仰に振る『彼』は嬉しそうに、骨付き空揚げをしゃぶるように食べている。
『彼』は食糧を与えてくれる人を覚えていて、毎日彼らの元を巡って糧を得ているのだ。
非常に賢い犬だと、佐祐理は思っている。

舞はそんなラインバッハを、恍惚に近い表情で見つめていた。
まるで小さい頃、動物園で珍しい生物を見て回った子供のように。

時計はもうすぐ正午を指し示そうとしている。
その時、遠くから救急車のサイレンの音が聞こえて来た。
距離に比例して唸りを増すその音は学内に響き渡り、道を行き交う人々は、
皆、その音と救急車とに目を奪われていた。

そんな中でラインバッハだけが、救急車のサイレンを追いかけていった。
『彼』は赤と白の交叉するランプを灯すそれを、無心に追跡している。
そう言えば近所にも、救急車の音に過剰に反応して吼えたてる犬がいたなと、
佐祐理は心の隅っこで考えていた。

舞はラインバッハが走って行った方を、名残惜しそうに見つめている。

「……行っちゃった」
「大丈夫ですよ。明日もお弁当食べますから、その時に会えますよ」

佐祐理がそう言うと、舞は僅かに笑ってみせた。

救急車がやってきて一分も立たない内に、今度はパトカーが同じようなサイレンを鳴らし、
学内へと入って来た。それも一台や二台ではない。
それらは全て、文学部棟へと向かっている。

その時は佐祐理も舞も、何か事件があったのかな? くらいにしか考えていなかった。


あとがき

……すいません…事件が起こった所で第三話はおしまいです。
……えっと…余計な描写が多過ぎますか?
……ぽ。
……えっと…補足です。

今回は容疑者以外にオリジナルのキャラが一人と一匹出ています。
彼らについては第三部の方でちらりと出てきましたが、今回本出場ですね。
あと、事件に関係無い話が多過ぎると思っている方もいるかもしれませんが、
これでもエピソードは必要最小限に留めてあります。

……伊達にプロットを書いて綿密にやっている訳ではないのです…えっへん。
……段々一話が長くなってます…頑張って読んで下さい。
……それでは…また会いましょう。

(口調が美凪風ですが、余り気にしないで下さい)

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