第四話
〜事件と夜想の挟間(前編)〜

25 事件の表層

S大学文学部社会学科、大涯研究室の院生室にて発生した事件が、
最初にテレビ・ニュースで報道されたのは、翌七月十三日の夜だった。
一地方に過ぎない事件がここまで早く報道されたことには、
やはり大学という特殊な場所で起きた事件だということがある。

犠牲者の名前は河合優子という名前だったが、まだ顔写真は公開されていなかった。
ただ、舞が「……河合、まさかな」と呟くのを、祐一は微かに聞いた。

翌朝になると、事件のことはもう少し詳しく報道されていた。
顔写真も不鮮明ながら公開された。四角く切り取られたモノクロの写真は、
仏壇の写真と一緒で幾ら笑っていても空虚にしか見えない。

ようやくそこそこと言えるレベルになって来た祐一作の食事を平らげた後、
三人は自然と朝のニュースに目を移すことになったのだが、
「あ、この人」 と写真を見た佐祐理が突然、画面を指差した。

「佐祐理さん、この人と知り合いなのか?」 祐一が尋ねると、佐祐理は首を振った。

「いえ、知り合いって訳じゃ無いんですけど。事件が起きた日に、
生協購買部の近くをふらふらと歩いているのを見たんですよ。
かなり体調が悪そうでしたので、心配してたから覚えてるんです」

「ふーん、奇妙な偶然もあるもんだな」
祐一は何気なく言ったが、佐祐理の表情は微かに曇っていた。

まあ、その気持ちは祐一にも理解できる。
今際の際までぴんぴんしていた人間が、突然の死を向かえてしまえば、
周りの人間としては抱かなくても良い罪悪感まで抱いてしまう。

あの時、自分が何か手を差し伸べていれば、もしかしたら……。
佐祐理は特に自責の強い人間だから、後悔の念も強いのだろう。
しかし、それはやはり抱く必要の無い罪悪感だ。

テレビには文学部棟の映像と共に、レポータが〆に掛かっていた。
詳しい情報が入り次第、追ってお伝えいたします、と。

結局、その日の朝も死亡遠因が何かについての説明は無かった。
すなわち、自殺か、事故か、他殺かということである。

 

26 蟻の一穴(前編)

授業も全て終わり、栞は一人帰路を辿っていた。
姉の香里は部活動があるので、一緒に帰ることが出来ない。
二年に上がってから出来た友人も、部活や用事が重なっていた。

だが一人とは言っても、商店街に寄って、夏限定の美味しいアイス屋さんで……、
などと計画を組み立てながら歩いているので、その顔は必然的に緩んでいた。

栞が商店街の入口まで来た時だった。
一人の人物に声を掛けられた。

「やあ」 と右手を挙げて栞に薄い笑みを浮かべる。それは栞の知っている顔だった。

「久しぶりだね……でも無いか」 照れるように頬を掻くと、こちらに向かってくる。

「えっと、何の御用ですか?」 栞は鞄を両手に掴み、その人物に近寄った。

「今日は重大な話があるんだよ」 そこで一旦、思わせぶりに言葉を切る。
「貴方のお姉さんのことで」

その言葉に、栞はぴくりと体を震わせた。
そして挑むような表情で、目の前の人物に言い返した。

「お姉ちゃんが……どうしたんですか?」

「大事な話だよ。そうだね、ここでは場所が悪いから……近くの店に入ろうか」

 

27 蟻の一穴(後編)

『私』は商店街から離れると、寂れた一件の喫茶店に、栞と共に入った。
ここなら知り合いに現場を目撃されることも少ないだろう。
店内は明かりも薄く、天井のファンが小さく唸りをあげている。
カウンタでは店のマスタが、暇そうにグラスを磨いていた。

客は自分たちを除くと二、三人しかいない。
典型的な、売れない喫茶店というやつだ。
『私』は珈琲、栞はクリームソーダを注文した。

そのことを確認すると『私』は話を切り出した。

「貴方は、お姉さんのことをどう思っているのかな?」

『私』は好奇心と共に、そう尋ねた。
ただ、返って来る言葉は検討が付く。
きっと優等生らしい、虫唾の走る解答なのだろう。

「お姉ちゃんは、私の憧れです。頭も良いし、運動神経も抜群だし、
スタイルも良いし、綺麗だし、優しいし……」

「そうだね……」 『私』は一応、お座なりに肯定してみせた。それから一石を故意に投じる。
「だが、本当にそれで全て?」

「どういうことですか?」

『私』の思わせぶりな言い方に、栞は強い警戒感を示しながらもこちらを伺っている。

「それは、貴方が最も知っていると思ったけど」

栞は何も答えようとしない。鋭い目付きで『私』を睨み付けるのみだ。

「貴方の尊敬するお姉さんが、綺麗な、尊敬できるものだけでできていると本当に思っているの?」

栞はその問いに、沈黙を持って答えた。

「貴方がお姉さんを思うほど、お姉さんは君を思ってはいないよ。
むしろ、心の底では嫌っている……邪魔で鬱陶しいと思っているだけなんだよ。
貴方は……それに気が付かないの?」

「嘘です!!」 栞はおっとりとしたいつもの剣幕からは想像できぬほどの声を絞り出す。
その声に店内の注目が瞬間集まった。だが進展がないのを見届けると、
再び興味を無くしたように、運ばれて来た珈琲に視線を戻した。

「嘘、です……」 栞は蚊も聞こえぬほどの細い声で繰り返した。

「嘘では無いよ。私は……そう、君に証拠を提示することができる。
お姉さんが貴方のことを取るに足らぬとしか思っていないという、決定的な証拠を」

『私』の毅然とした言葉に、栞は初めて自らの信念を揺らがせていた。
少なくともこちらからはそう見える。

彼女に微妙な心理の変化を与えた時点で、今日の目的は果たしたも同然だった。
今日のこの会話は、言わば栞の心の袋に蟻の一穴ほどの穴を空けることが目的だから。
その穴は徐々に袋を萎ませて行く。疑心暗鬼という心の動きと共に。

「そうだな……二、いや、一週間もあれば充分だね。
だから一週間後の今日、またここで会おうよ。
その時に、貴方が欲する証拠を見せてあげるから。もし、貴方が望むのなら」

栞はしばらく押し黙っていた。
私はそれからすぐに運ばれて来た珈琲を啜りながら、微妙な表情の変化をじっと観察していた。
だが、当の本人は気付いていないだろう。
迷っているという現在の心理状況故に、答えは既に決定されているということに。

栞が力無く頷いたのは、それから五分後のことだった。

「じゃあ、一週間後の今日、午後四時にここで会おう。
あと、ここでの話は誰にも話してはいけないよ……分かったね」

「……分かりました」 栞はそう言うと、口を真一文字に結んで店を出て行く。
結局、クリームソーダを一口も食べることはなかった。

『私』は余り美味しくない珈琲を最後まで平らげると、二人分の勘定を払って店を出た。
顔は自然と綻んでいたかもしれない。

『私』の計画が滞り無く進んでいるとすれば、欲するものはすぐに手に入る筈だった。
『私』はそれを、ただじっと待ち続けていれば良い。

機は、徐々に熟しつつあった。

 

28 空虚な関係

舞は講義室に入ると、一番最初に河合恵美子の姿を探した。
しかし、今日も彼女の姿は何処にも無い。

火曜日、水曜日と彼女はどの講義にも出席していなかった。
もっとも、水曜日には一つしか講義がないため、無断で欠席したとも考えられる。
実際、彼女は二度ほど授業をサボり、舞にノートを無心していた。

だが、今回はもっと別の不安があった。
月曜日にこの大学で起きた事件のことについてだ。
被害者が恵美子と同じ河合という名前だったので、
もしかしたら彼女の家族か親戚なのではと心配になったのだ。
実際、テレビに映っていた被害者の顔は恵美子に似ていた。

最初は多分、杞憂で終わるだろうと思っていた事柄が、
日が立つに連れ大きな不安となって舞に覆い被さっていた。

電話を掛けて聞いてみようかと思ったが、舞は電話番号を知らなかった。
一層のこと、直接家を尋ねてみようとも思ったが、舞は恵美子の住んでいる場所を知らない。
結局は、しっかりと距離を保った空虚な関係だったのかなと思うと、舞は少し悲しかった。
そして、それは自分に勇気が無いからなのだ。そう考えると、余計に辛い。

結局、恵美子は今日も大学にはやって来なかった。

 

29 鏡映しの光と影

バイトから帰って来た祐一は、いつも通り佐祐理の明るい声と、
舞の事情を知らない人が聞くと全く歓迎していないような、そんな声で迎えられた。

「お疲れ様です」

何故かキリンのプリントされたエプロンを身に付けた佐祐理が、
まるで一日の仕事を終えた夫を労うが如く現れた。
世の男たちが見たら、狂喜乱舞する光景だろう。

舞は既に並べられた皿を、じっと見つめている。
これは、舞が本気で空腹な時に行う無言のサインだった。
まるで餌を無心に待つ犬か、空腹で動く気力も無い子供のようだ。

三人での生活が始まってから既に三ヶ月が過ぎる。
その間、自然に三人の役割みたいなものも定まっていった。
佐祐理が一家の長、兼、母親役。
舞がその無邪気な子供で、祐一は二人に振り回される父親役。

何だか一番損な役回りではないかと祐一は時々思うのだが、
実際に三人で過ごしているとそんなことなど吹き飛んでしまう。
結局は自分も、割り当てられた役を好きで演じているのだと祐一は思う。
そして、そう思うことは不快では無かった。

「お待たせしました〜」 キッチンから、佐祐理の甘い声が響く。

今日の夕食はロールキャベツだ。
もっとも、佐祐理の作るロールキャベツは普通の家のものと少し違う。
どちらかと言えばコンソメスープのメインの具が、ロールキャベツというのが正しいだろう。
底の深い器にはロールキャベツの他に、玉葱、ブロッコリ、南瓜等の具も入っている。
そこにお好みのトッピングで、クルトンと刻みパセリを加えて頂く。

ロールキャベツはごはんが進むように、僅かだが和風の味付けにアレンジされている。
佐祐理曰く、少量の味噌と愛情が隠し味だそうだ。勿論、後者は佐祐理の冗談だろうが。
野菜を主体にしながらも飽きの来ない味は、正に佐祐理の料理技術の賜物だ。

舞はロールキャベツにほふほふと息を吹きかけると、口一杯に頬張った。
その仕草が妙に面白くて、祐一と佐祐理は舞が食べる姿をしばらく見つめていた。

「……二人とも食べないのか?」
舞はそんな思いも知らず、それだけ言うと二人を交互に見渡した。

祐一はそう言われて、玉葱に箸を伸ばした。
味がよく染み込んでいて、とても美味しい。

佐祐理はその様子を見届けてから、ようやく食事に手を付け始めた。
これは勿論、祐一や舞に毒見をさせている訳では無く、二人が自分の料理を食べて、
どんな顔をするのかを見たいからなのだ。とても佐祐理らしい仕草だと祐一は思っている。

自分の幸せよりも相手の幸せを常に願うのが、倉田佐祐理の性格なのだ。
故に、祐一はたまに歯痒く思ったりもする。もっと自分のことだけを考えても良いのに……。
祐一がそう言ったなら、佐祐理はきっとこう答えるだろう。

「あははーっ、佐祐理は今のままで十分幸せですよ」 と。
例え、どんなに辛いことがあっても、佐祐理は最後まで笑っているに違いない。
だから、佐祐理には本当に幸せで笑っていて欲しい。祐一はそう願っている。

そんなことを思うのは、佐祐理の笑顔に僅かながら翳が疾っているように見えたからである。
いつも一緒に顔を付き合わせていれば、それくらいの感情の機微は分かった。
だが、何故だろう……と考えてみて、ふと一つの出来事にぶつかる。

佐祐理はもしかしたら、例の事件のことを気にしているのではないだろうか。
そんな思いが、祐一の中に漠然ながら浮かんで来たのだ。
S大学で起こった事件は、現場の密閉状況から自殺の可能性が高いと、
ニュースで説明されていたからだ。

そして佐祐理は、その直前にその人物に出会っているのだ。
明らかに憔悴し切っている筈の彼女を放って行ったという自責の念があるのかもしれない。
口には出さなかったが、佐祐理はニュースを見て青い顔をしていた。

その時は祐一は「気に病むことは無い」と言って佐祐理を諭した。
実際、佐祐理は全然悪くないのだ。自殺というのはそういうものだと祐一は考えている。
事情を知っていた人間ならともかく、事情を知らない人間が自殺を止められなかったとしても、
それは何も苦に思う必要は無い筈だ。だが、佐祐理はそう考えていないようだ。

舞の様子も少しおかしかった。
彼女の場合は口にも出さず、表情も変えない場合が多いのだが、
ずっと舞を見続けて来たが故に祐一には分かるのだ。今日は、舞も元気が無い。

こちらが聞いても、舞は何でもないと言ってふいと顔を背けてしまうだろう。
そういう点では、佐祐理も同じだった。
性格は全然違うが、重荷を一人で背負い込もうとするところは驚くほど似ている。
まるで鏡映しの光と影のようだ。

それが同居人の祐一には辛い。
それぞれが一人で荷物を背負い込むなら、三人でいる必要などないのだから。
全てを分かち合えるからこそ、三人は一緒にいる筈なのに。
自分が唯一の男性なのに、何の役にも立てないことが嫌だった。

佐祐理と舞を見ていると、その思いが知らずに積もる埃のように、微妙に心を覆うのだ。

表面的には和気藹々と進む食事も、微妙に影がさしているみたいだ。
それは舞も気付いていたのだろう。佐祐理が食器を片付け始めると、祐一の方に顔を寄せた。

「……佐祐理、今日は少し元気が無い」
「…そうだな」

お前もな、と祐一は心の中で付け加えた。

「……どうしたんだろうか?」
「…さあな」

祐一はわざと口を濁した。舞に余計なことを背負いこませることはないと思ったからだ。

「舞〜っ、ごめんけど、バスタブにお湯を張って」

キッチンから佐祐理の通る声が聞こえて来た。
舞は眉を少し険しく寄せたが、何も言わずに風呂場へと向かった。
すると、今度は佐祐理が入れ替わりで話しかけて来た。

「祐一さん、今日は舞の元気が余り良くないですよね」
「…そうだな」

佐祐理さんもな、と祐一は心の中で付け加えた。

「どうしたんでしょうね……佐祐理は心配です」
「…さあな」

馬鹿みたいだった。

そして不意に、こんなことで悩んでいる自分が嫌になった。
舞が戻ってきたら、元気の無い原因を尋ねようと決心する……少し拷問気味でも良い。
渋るようなら擽り地獄にでも合わせてしまえば良い。佐祐理も賛同するだろう。

舞のことが片付いたら、今度は佐祐理の元気の無い原因を解決する。
佐祐理が自分を傷つけるようなことを言ったら、擽り地獄にでも合わせてやろう。
先程の反撃とばかり、舞も嬉々として参加するだろう。
それで何もかもが解決する訳では無いが、少なくとも鬱積した何かを吹き飛ばせる筈だ。

そして、三人で飽きるまでしりとりでもやろう。
テレビを見て一緒に笑うでも良い。
祐一はそんな計画を頭の中で立てると、佐祐理を計画に引き込もうと口を開く。

「なあさゆ……」 祐一の言葉は、そこで中断された。
玄関から、煩わしいチャイムの音が聞こえて来たのだ。

新聞勧誘員だろうか、祐一は咄嗟に思った。
こんな時間に尋ねてくるのは、勧誘員くらいのものだ。
祐一は佐祐理を制して立ち上がると、玄関に向かう。

「……お客?」 風呂場から舞が顔を出す。

「多分違う」 祐一は舞の頭にぽんと手をやると、鍵を開けてドアを開いた。
ドア・チェイン越しに覗くその顔は、見覚えがあるものだった。
だが、いかついその男性の顔は、特徴あるものだというのにすぐには浮かんで来ない。

「よぅ、久しぶりだな」

と相手は気さくに声を掛けるものの、水面下の所で記憶は停滞していた。

「えっと……どなたでしたっけ」

祐一が尋ねると、相手はわざとらしくずっこけて見せた。
そんな吉本新喜劇のようなことをされても、記憶にないのだから仕方がない。

「例のペット殺害事件の担当をやっていた刑事だよ。
お前らがよりにもよって署内でアクションを起こした時に、指揮を取っていた……」
「ああ、あの時の……」

祐一はぽんと手を打った。確か、名前は世田谷とか言っていた筈だ。
そこまで思い出してみて、祐一はふと不安に襲われた。
目の前の男性が刑事だとして、何故わざわざこんなところに尋ねてきたのか、
その目的が全く不明だったからだ。

祐一は俄かに警戒の度合を増やして相手を見る。
しかし、その辺りは感情の機微に詳しい警察官だった。
祐一の態度を見て、世田谷は即座に懐柔工作に掛かる。

「いや、今日ここに来たのは別にお前たちが容疑者とか、尋問しようとか、
そういう理由じゃないんだよ。ただ……その、非常に刑事という身分からすれば恥ずかしいんだが」

僅かに覗く不精髭を擦りながら、世田谷はそう言った。
表情には恥じらいの感情など微塵も浮かんでいなかったが、そこは警察官、
感情を抑える術が身についているのだろう。少なくとも祐一はそう考えた。

「じゃあ、今日はどんな用で来たんだ?」 祐一は警戒を崩さぬまま尋ねた。

「実はな、先程この近辺でちょっと厄介な事件が起きてな。後で知ったんだが、
あんたらは四ヵ月程前にロッジで起きた、連続殺人事件を解決したんだってな」

「えっと、まあ、そうですが……」

もっとも、あの事件の解決に祐一は殆ど関わっていなかったが。
閉鎖されたロッジで起きた複雑怪奇な三重殺人事件。
あの事件を解き明かしたのは祐一ではなく、佐祐理だ。

「そこで起きた三つの事件のうち、二つが密室の殺人だったと聞いてね。
私が今遭遇している事件も、どうやらその密室殺人らしんだ、これが……」

参ったなと言わんばかりに、今度は白髪混じりの頭を掻いて見せる世田谷。
と同時に、祐一は世田谷が何故、面識も薄いこのマンションに尋ねてきたか、
その理由が分かったような気がした。要するに、普通の捜査じゃ検討の付かない事件が起きた。
だから、そういう事件を解決した前歴がある祐一たちに協力を仰ぎに来たということだ。

そう考えて、祐一はまるで推理小説の世界に入り込んだような気がした。
難解な事件を抱えた冴えない刑事が探偵事務所のドアを叩く……、
『やあ探偵さん、実はこんな事件があってね……』と語り、座りながら話を聞く探偵は、
『成程、それは難儀な事件だね』と言いながら、ちょちょいと事件を解決してしまう。

幼い頃に読書感想文で少しだけ読んだ(短編だから、感想を書くのが楽だと思った)
探偵憚を祐一は思い返していた。確か『赤髭連盟』と(注1)いう題名だっただろうか……、
いや、多分間違えていると思った。髭の赤い人間なんて、聞いたことがないからだ。

「つまり事件について、相談しに来たってことですか?」
「飲み込みが早いね……流石だ」

わざとらしく、世田谷は祐一を誉めて見せた。
もっとも、祐一はおだてに簡単にのるような人物ではない。
舞も佐祐理も余計なものを背負い込んでるようだし、今日はもう遅い。
祐一は適当な言い訳を付けて、丁重にお帰り願おうと思った。

「あの〜、随分長い話ですけど、知り合いですか」

いきなり隣から、佐祐理の声が聞こえる。
祐一は僅かに体を反らして、それから冷静さを装い佐祐理の方を見た。
思考に夢中になっていたため、気配に気付かなかったようだ。

「あっ、あの時の刑事さん、お久しぶりです〜」

佐祐理はドア越しに世田谷刑事を見て、愛想の良い笑みと行儀のいった礼をした。
その上品な仕草に、世田谷はつい直立不動のポーズで礼を返す。

「えっと、こちらに何か用ですか……あっ、お茶でも出しましょうか?」
「そうだな、じゃあ遠慮なくご相伴に預かろうか」

世田谷は渡りに船と言わんばかりに、佐祐理の申し出を受ける。
こうなると、祐一も彼を部屋に招かざるを得なかった。

 

30 密室のエキスパートたち

「ふえーっ、じゃあ刑事さんは、その為にここまで来たんですか?」

世田谷は供出された麦茶を一気に飲み干すと、佐祐理に事の顛末を簡単に説明した。

「うーん……でも、佐祐理は少し頭の悪い普通の女の子ですから、
あまりあてには出来ないと思いますけど……」

佐祐理は口癖のように、その言葉をことあるごと口にする。
祐一や舞が幾ら頭が良いと言っても、佐祐理自身はそのことを真っ向から否定する。
佐祐理が頭の少し悪い普通の女の子だとしたら、自分など足し算も出来ない子供以下だと、
祐一は思う。けど佐祐理はやはり、自分は少し頭の悪い普通の女の子だと主張する。

まるで自らの頭の働きを憎むかのように……だ。
だが、そのことを知らない世田谷は目を丸くして皮肉の笑みを浮かべるだけだった。

「ふーん、古今東西名探偵には尊大な奴が多いんだがな、特に小説なんかじゃそうだ。
なんとヤク中の癖に名探偵だと豪語して、それに頼る警察までいるからな……。
自分なら即座に豚箱に放りこんでいるね」

そんなことを言われても、祐一にはどう答えて良いのか分からない。

「……佐祐理はそんな人間じゃない」

が、舞はその言葉を真に受けたのか、鋭い眼光で飄々と語る世田谷を睨み付けた。
その表情と隙のないこなしに、世田谷は表情を凍らせる。
舞の眼光は、何人をも畏怖させる力が宿っているようなものだからだ。
しかし世田谷は、次の瞬間にはふやけた麺のような表情に戻っていた。

「それは例えだよ、例え。彼女には最も遠い印象を受けるってことでな。
実際、突然尋ねて来たのに嫌な顔一つせずに麦茶を出して貰ったし、
身のこなしも礼儀作法も素敵だ……余程、躾が良かったのだろう」

「はい。佐祐理は立派に躾られました。それだけは誇れることです」

佐祐理にしては厳格な口調だった。

「それで、事件が起こったって言ったんだよな。しかも、密室なんて言葉が……」

本論に入らない世田谷を急かすように、祐一は話を促した。
言ってみて、もしかしたらこちらから話に入らせるためにこちらを焦らしたのでは?
という疑問が浮かんだ。だが、あえて考えないでおく。

「ふむ、それなんだが……地元だから、S大学のことは知っているね?」

「ええ、佐祐理と舞はそこの学生なんですよ」

世田谷は佐祐理の言葉に眉を僅かに上げたが、すぐに目を伏せた。

「まあ、見た所二人とも大学生くらいに見えるし、不思議ではないか……。
ところで二人は、何学部に所属している?」

世田谷は身を乗り出すと、迫るようにして二人に聞いた。
多分、刑事として尋問する時の癖なのだろうと祐一は思った。

「佐祐理は経済学部ですよ」
「……文学部」

佐祐理と舞はほぼ同時に答えた。

「成程……奇遇だな、実は事件というのは文学部棟で起こったんだ。
文学部A棟、正確に言えば文学部社会学科大涯研究室……舌を噛みそうな名前だがな。
そこの一室、院生室隣の物置にて起こったんだ、その事件はな」

世田谷の言葉に、祐一は声をあげるのをぐっと堪えなければならなかった。
S大学文学部A棟で発生した事件……それは佐祐理を悩ませているかもしれない事件なのだ。

「ええ、ニュースで聞いています」 だが、佐祐理は冷静を装って答えた。
「確か、自殺だと言っていましたけど……」

そう。根拠は分からないが、ニュースでは現場が密閉空間だと断定していた。
つまりは自殺である筈だ。しかし、それならばわざわざ刑事がこんな所まで相談には来ない。
しかも、目の前の刑事は事件が密室であることを仄めかしている。

今度は佐祐理の方が、身を乗り出す番だった。

「警察は、自殺だとは考えていないんですか?」

「さあな」 世田谷は明確な解答を控えた。
「ただ、個人的に自殺とは思えないんだ。根拠は薄いがな」

と、世田谷は前置きする。

「現場の状況や証言を総合すると、何者かが侵入して犯行を犯すことは不可能としか考えられない、
そんな奇妙な状況なんだ。所謂、密室殺人ってやつだ」

祐一はまがりなりにも刑事である世田谷が、密室殺人という言葉を衒いもなく使ったことに驚いた。
しかし、それよりも祐一の注目を引いたのは、自殺と他殺(或いは事故)の境界線を、
曖昧にぼかしているにも関わらず、他殺であることを半ば確信していることだ。

「だが、私には密室殺人なんて解決した経験が無い。第一、小難しいトリックなんてのは苦手だしな。
だから、三件もの密室事件を解決している君たちエキスパートに協力を願ったというわけだ。
勿論、君たちには拒否する権利もある。元々、あんたらを束縛する理由もない。
ただ、この老兵を哀れに思うのなら、知恵を貸してくれないか」

そう言って、老兵は佐祐理たちに向かって深く頭を下げた。
それは、長年事件に携わって来たもののプライドとは掛け離れた態度だ。
言い換えれば、プライドをも投げ捨てる何かが今回の事件には存在しているのだ。
これは祐一の直感に近かったが、恐らくは外れていない。

祐一は佐祐理の様子を伺った。
彼女は視線をテーブルに移し、何事かを考えているようだった。
だが、祐一は佐祐理がこの話を受けるだろうと思った。
彼女はどうあれ、S大学文学部棟で起きた事件に関して、持つ必要のない責任を感じているから。

向かいに座る佐祐理に注目を傾けながら、祐一はちらと舞の方を覗き見る。
すると舞も、厳しい視線を同じく下に落としていた。
だが、何故舞があそこまで真剣に悩む必要があるのだろうか。
いくら考えても、祐一には分からなかった。

「佐祐理は構いませんが……」 そう前置き、佐祐理は気遣うようにして舞を見る。

「……私も構わない」 佐祐理の言葉が決心になったかのように、舞もそれに同意する。

そうなれば、祐一が断るいわれは何処にもなかった。

 

31 吸血鬼の犯行?

「事件が起きたのは、七月十二日の午前十一時四十八分から五十分の間だ」

世田谷はまず最初に、犯行が起きた時刻を語った。

「何で、そんなにはっきりと時間が分かるんだ」 祐一は当然の質問をする。

「事件が起きたのは院生室の隣にある……まあ、物置代わりに使われた部屋なんだが、
そこから悲鳴がするのを二人の学生が聞いている。
二人は悲鳴を聞いて隣の部屋、これからは物置ということにするが、物置に駆け込もうとした。
だが、そこには内側から錠が掛けられており、入ることが出来ない。

扉を破ろうとしたが鉄製で、しかも普段錠を掛けないから鍵の在り処も分からない。
その時、講義を終えて戻って来た大涯教授が二人に声を掛けた。
事情を聞いた大涯教授は、教授室から使われない鍵の束を取り出して来た。
学生の一人、雲場央という男性だが、彼が鍵を開けたらしい。

で、中に入ってみると被害者である河合優子が血塗れで倒れていたということだ。
この時、被害者は辛うじて生きていたようだな。
彼女は最後の力を振り絞って床に落ちていたナイフを拾おうとしたが、途中で力尽きたらしい。

その時、窓は確かに閉まっていたし鍵も掛かっていた。
第一、院生室はA棟の三階にあって窓から人が出入りしたとは考えられない。
物置に出入りできる唯一のドアは、ずっと雲場ともう一人の学生、名前を藁苗辰巳と言うが、
二人の目に入る所にあったし、二人とも河合優子が物置に入って以来、
誰も入っていないと言明している。

つまり、誰も部屋に入れなかった筈なのに、殺人が起こり、
犯人は何処かへと消えた……というわけだ」

彼はそこまで説明すると、テーブルの上に物置の見取り図(注2)を広げて見せた。

「この物置には、背合わせにして重ねられた机が二対、
古い資料や論文をまとめて保管してある整理棚に電気スタンドと古い型のワープロが一つ、
これだけしかない。人が隠れる所など無いし、隠れた形跡もなかった」

祐一は見取り図を穴を空くほど眺めたが、
どんなに眺めたところで出入り口は窓と鉄製のドアの二つ以外に存在しない。
世田谷刑事が話した事実と総合すると、物置は完全な密室だった。

「何か質問は?」 世田谷は事務的に三人に問うた。

「あの……」 おずおずと手をあげたのは佐祐理だった。
「この物置は、古い資料や論文を納めているんですよね。何故、鍵を掛けないんですか?」

「ああ、それはこちらでも聞いたよ。少し無用心じゃないかって。
だが部屋は三階だし、窓から人が侵入する心配は無い。
ドアの方は直接院生室と繋がっているし、もう一つの廊下側のドアの施錠管理をきちんとしておけば、
大きな金庫と相違無いというのが大涯教授の意見だった。もっともこれは、
以前からの慣例で大涯教授はそれを踏襲しているだけだと付け加えていたがね」

「成程、理に叶っていますね。やはり無用心ですけど」

佐祐理は一応納得した様子だった。

「それで、今三人ほど名前が出てきましたけど、他に登場人物はいないんですか?」

佐祐理と世田谷との会話の間に見付けた疑問を、祐一はぶつけてみる。

「いや、他にはいないよ。他の院生は大抵昼過ぎから出てくるらしくて、
雲場と藁苗の二人以外は誰もいなかった。

雲場が院生室に顔を出したのは午前十時前、彼が一番に到着したらしい。
合鍵で、これは大涯研究室所属の人間は皆持っているものだが、鍵を開けて中に入った。
彼は教授に頼まれて、いくつかの調べごとをしていたらしい。
それで一度資料を取りに物置に入ったんだが、その時には誰もいなかったと証言している。

それから十分ほどして、藁苗がやって来た。
彼は卒業論文の中間報告をまとめるために、朝早くから院生室にやって来たらしい。
こちらの方が資料も多いし、困ったら先輩に聞けるからと藁苗は話していた。
中間報告の内容が教授に駄目を出されたと、事情聴取の時もごねていたのを覚えている。

被害者の河合優子が院生室に顔を出したのは、十時半頃だった。
そこで雲場と河合優子が少しばかり諍いを起こしたとも藁苗が話していた」

「諍い?」 事件に関係ありそうなキィワードに、祐一は飛びつくように尋ねた。
「二人の間にどんな諍いがあったんですか?」

「うーん……諍いと言ってもほんの些細なことだ。
雲場が河合優子の体調を気遣うようなことを言って、
優子がそれをヒステリックに撥ね付けたらしい。
そして、怒った優子は例の物置に閉じ篭り、雲場は不遜ながら作業を再会した。
もっとも、雲場の態度はかなり落ち着きがなかったらしいね……藁苗がそう話していた」

「ああ、そうなんですか……」 佐祐理は寂しそうに目を伏せる。

「何か、心当たりがあるのか?」

「ええ」 と肯定して、佐祐理は事件の当日、河合優子に出会っていたことを話した。

「成程な……河合優子は親切に差し伸べられた手を振り払うほどに、
激昂していたと言うことか。或いは何かを恐れていたか……」

恐れていた……何をだろうか?
河合優子は自分が狙われていることを知っていたのだろうか?
だから、密閉された部屋に自ら閉じ篭った?
どれも推測の域を得ない考えだ。

だが今までの話を聞いて、河合優子という女性は何かを恐れていたのではないか?
という思いが祐一の中で強くなっていた。

「あと、これは後に研究室の同級生から聞いたんだが、
雲場央と河合優子は恋人同士だったらしいな」

これも初耳だ。ただ、そんなことをしれっという自体、
事件とは余り関係無さそうな証拠だった。

「二人の仲はどうだったんですか?」 それでも祐一は聞かざるを得なかった。

「概ね良好というのが、同僚たちの共通した意見だった。
二人とも研究に没頭するタイプだったし、話もあったみたいだ。
二人とも変わったというか、研究過程が日常会話みたいな感じだったらしい。
もっとも研究室の中では、恋人同士らしい態度など微塵も見せなかったみたいだがね。

まあ、雲場はずっと藁苗と一緒にいたんだから物理的に犯行は不可能だ。
それはほぼ完璧と言って良いほど、間違い無い。だが……」

「だが?」

「どうも、彼の証言には的を得ないことが多いんだ。
事件の前後のことは極めて精緻に語れるし、頭の方も冷静に見える。
しかし、その一方で変なことをぶつぶつ呟くようになったらしい。
もっとも、これも雲場の同僚に聞いた話だがね。

その同僚が言うには、

『優子の言っていたことは本当なのか?』 とか、
『もしかして、本当にいるんだろうか?』 とか、そんなことを言っていたらしい」

奇妙な言葉だった。言葉尻からすると、雲場は優子に生前、何かを聞かされていたらしい。
それは何だろうか……それが分かれば、事件の謎に近付けるのだろうか。
祐一には検討も付かない。

「しかしね、本当に奇妙なのは雲場の言い分だよ。
私は昨日、雲場に聞いてみたんだよ。かなり脅えているようだった。
君は犯人について、生前河合優子さんから何か聞いていないかってね。
そうしたら、何て答えたと思う?」

世田谷は気を持たせるようにそこで一旦、言葉を切った。
そして肺腑に空気を貯め込むと、鼻から僅かに息を吐き、渋い声で言う。

「彼は言ったよ。『優子を殺したのは、吸血鬼かもしれない』とな」


あとがき

……ちっす。
……おら…作者代理のなぎー。
……えっと…第四話はこれでおしまい。

……第四話が確実に50KB超えそうなので二つに分けたらしい。
……事件です…奥さん。

……えっと。
……今回はお米が出てくる。
……日本人は…お米族。

……えっと。
……犯人、分かっちゃったんですけど。
……うそぷー。
……それじゃ…ばいちゃ。

(注1)赤髭同盟なんてミステリィはこの世に存在しません。
(注2)詳しくは資料の現場見取り図参照のこと。

[第三話][第五話][BACK]