第七話
〜夜想と過去の挟間(中編)〜

41 桐谷隆司の手記1(18 Years Before−1)

私がいつからそれを意識し始めたのかは分からない。
だが、どす黒い血と感情とは、確実に私を蝕みつつあった。
私は何者だろうか?
勿論、決まっている。
人間だ。

だが、私は自分が人間であることを段々信じられなくなってきていた。
こんなことを書いてみて、私は苦々しい笑みが浮かばずにはいられない。
誰かがこの手記を見たら、それは私の下らない妄想だったと思うだろう。
或いは何かの小説かと思うかもしれない。
ホラー小説? 幻想小説? 否、これは現実なのだ。

現実に私を蝕みつつあるものの名前を挙げろと言えば、即答することが出来る。
そう、その名は……吸血鬼。
夜な夜な棺から甦り、生あるものの生き血を啜る罪深き存在。
月光を愛し、殺戮を愛し、ロザリオの淡い光を愛するもの。
そう、吸血鬼とは偉大なる主の教えを尊び、そして愛するものなのだ。

彼らは主のワインの味に似た、人の生き血を求める。
主の愛を、より多く受けるために。
殺戮もまた主に反する行為でなければ、彼らは羨望の存在であったろう。
嗚呼、漆黒の衣を纏いさまよう異形なるものよ。

しかし、それは正しくは無い。
吸血鬼とは、決して異形の化け物ではないのだ。
ブラム・ストーカの小説に出てくるような、不気味な夜の帝王ではない。
吸血鬼とは……そう、人の心に巣食う本能とでも言えば良いだろうか。
血を啜ることは、人間の本能なのだ。
人は生の過程で、自滅的な行為を深層へと追いやって来た。

カニバルという言葉を聞いたことがある方もいるかもしれない。
人食い……一言で言えばそういう存在だ。
人食い族なんて、野蛮な民族の馬鹿げた風習だと思われるだろう。
しかしそれは過ちなのだ。
古代、食糧が不定的で有った頃には、多くの民族が人を食らったと私は考えている。

生きるためなら同種であれ食らう。
それはギリギリの生存状況に置かれた生物が必ず選択する事実だ。
日本でも江戸時代、ひどい飢饉の際には死体を掘り起こして食らったという文献がある。
中国では人間が食材だという考えが、実に近現代になるまで存在した。
生の選択として同種を食らうことは、原初の生より受け継がれた生存のための本能だ。

今でこそ、食糧が充足した人類は同種を食らわなくても生きていけるようになった。
先進諸国では……という限定付きだが。
だが、それより明らかに貧困度の高い国々でも、現代社会においては人食いは起きない。
それは人食い……人殺しが重大な罪とされているからだ。
人を殺したものは、下手をすれば自分も殺されかねない。

では、現代社会では人食いなど起きないのだろうか。
いや、それは断じて否である。
誰もが極限に追い込まれれば、人を殺す可能性を秘めている……食うために。
現に多くの戦争では、兵隊が、民間人が、生きるために人を食った。
戦争という極限状態では、人食いなど日常茶飯事なのだ。

骨を断ち、切り取られた肉はジュウジュウと肉汁の滴る音を立てる。
腹を空かした人間共は、嬉々としてそれを食らうのだ。
勿論、倫理という輪に縛られたものは後に後悔するだろう。
だが、食らっている最中に躊躇する者はいない。
或いは喉の渇きを潤すために、人の血を貪っただろう。
そう、つまり吸血鬼とはそういう存在なのだ。

吸血鬼という存在は、カニバリズムの延長線上にある。
好んで血を啜るものは、運悪く古代人の業を深く受け継いでしまった人たちなのだ。
例えば、ルーマニアのブラド・ツェペシ公の名前は耳にしたことがあるだろう。
或いはハンガリーのエリザベト・バートリ夫人を聞いたこともあるかもしれない。
前者は好んで戦場に血をばら撒き、後者はその生き血を嬉々として浴び、そして啜った。

当時の人々は彼らを悪魔だと罵った。
主を求めるものは、主の法によって裁かれるのか。
それは主の存在を同等と見る愚かなりし者への罰か?
或いは人食いに反逆する人間の本能か?
そう、人食いが本能であると同時に、人は人食いに絶大な嫌悪をも抱く。
矛盾していると言われそうだが、誰だって死は恐ろしい。それは正しいことなのだ。

主を求めるものは血を求める。
主を愛するものは人を求める。

それは今だってそうだ。
猟奇殺人鬼の数割かは確実に、犠牲者の肉と血を求めているのだ。
それは自らの命を賭けた恐るべき同種食い。
本能に負けた哀れなカニバリスト。それが……吸血鬼という存在なのだ。

 

42 父の変遷(18 Years Before−2)

桐谷宗一郎はこの日、机に向かっていた。
とは言っても、勉強を熱心にしているわけではない。
教科書に漫画を隠し挟んで、それを読んでいただけだ。
何度も読んだものだが、教科書よりは各段に面白い。

片付けないといけない宿題は幾つかあるのだが、今日はどうも気が進まない。
色々なことが頭をよぎり、脳を圧迫していたからだった。
宗一郎は本を閉じると、ベッドに寝転がる。
それから今まであったことを、一つずつ整理し始めた。

宗一郎を悩ませている原因。
その大勢を占めるのは父である隆司の変遷だった。
元々、変わり者であったから他人から見れば気紛れの範囲内で収まるかもしれない。
しかし、宗一郎にはその違いがくっきり分かる。

桐谷隆司が変わって見えるのは、まずその性格が大きい。
とにかく何か物事に没頭したら、他のことが目に入らなくなる。
下着だって母である宗子に注意されなければずっとそのままだ。
もしかしたら、三度の食事だって全く取らないかもしれない。
宗子がいなければ、隆司は間違いなくゴミと資料とで埋もれてのたれ死んだだろう。

髪の毛は櫛など滅多に通さないからぼさぼさだし、
服だって宗子が買えというのに滅多なことでは買ったりしない。
曰く、服は保温と羞恥の隠蔽さえできれば他の機能は必要ない……らしい。
そんな隆司の科白を宗一郎は呆れながら聞いていた。

だが、人間性が欠落していると言えばそういうことでもない。
仕事が比較的、暇な時には食事だって一緒に食べるし、
近場の動物園に連れて行く……なんて普通の家族が行うようなサービスもやった。
パンダに関するやたらと小難しい論議を吹っかけて来た時には、
当時十歳の宗一郎はかなり辟易させられたものだ。

しかし、それは一般から僅かに逸脱した偏執さでしかない。
少なくとも宗一郎はそう判断していた。
自分のことや、それに宗子のことも愛している。
ああ見えても、隆司はかなりの愛妻家だった。
誕生日には目一杯の花束を買って来て宗子を驚かせていたし、
宗子だってかいがいしく隆司の世話を焼くことを苦痛には思っていない。
宗一郎は二人のことを、かなり仲睦まじい夫婦だと思っている。

だが……最近の隆司の行動は偏執さが際立っているように見えた。
まず第一に、家にいる時は自らの部屋をほとんど出ようとしない。
父の部屋は一階の廊下突き当たりにある部屋で、本当に素っ気無い。

父の素っ気無さを凝縮したようなものだと、宗一郎は考えていた。
部屋には窓すらなく、換気扇がなければ空気が濁ってしょうがないだろう。
簡易ベッドと小さな机に椅子が一脚、それだけ特別に豪奢な本棚が一つ。

本棚には研究資料だろう……洋書の類が沢山並んでいる。
英語、仏語、独語……英語は授業でやってるのだが、専門用語の多い研究書故に、
内容はほとんど理解できない。一回読んで、一ページも読めずに諦めた。

隠れんぼの一つだってできないことだけは保証できる。
それほど何もない部屋なのだ。宗一郎は自分の部屋をぐるりと見渡した。
親より子供の方が広い部屋を占有しているのは少し気が退けたが、
父の趣味みたいなものだから今では宗一郎も気にしていない。

……何のことだっただろうか。
思考が横道に逸れて、本筋から外れてしまっていた。

「えっと、そうだ……」

独り言を思わず口にしたが、何とか思い出す。
隆司は滅多に部屋から出なくなった。
勿論、仕事に出向く時は部屋から出て来る。
だが、それだけだ。朝と夜の食事も、宗子が運んでいる。
勿論、父の方では催促しない。母が黙って運んでいるのだ。
しかし、忙しい時でも欠かさない謝辞の言葉すら漏らさなくなった。

桐谷隆司がこうなり出したのは、半年ほど前のことだったと宗一郎は記憶している。
市内から一時間以上もかかるこの町に新居を構えて、八ヶ月程後のことだった。
徐々に部屋へと閉じ篭ることが多くなった。
部屋に入れるのは住み込みの書生である佐々木勉だけだ。
しかし、その彼も無闇には部屋に入れてもらえなくなっている。
最近は特に症状が酷い……宗一郎はそれが心配だった。

そのことで以前、佐々木と話をしたことがあった。
彼は暇な時、いつも宗一郎の宿題を見たり話し相手になってくれた。
兄弟のいない宗一郎にとっては、兄のような存在となっている。

彼は丁度宗一郎の家族が越して来た頃、両親が事故に遭い天外孤独の身になった。
中規模の工場を営んでいたが、土地などを清算すると財産は零に近かったらしい。
学業を行うことが困難になった佐々木を父が衣食住に渡って支えているというわけだ。
その代わり、父の嫌う雑多な雑用や文書の整理、対外的なスケジュールなどをこなしている。

それだけの労働(父の厄介事を引き受けるのは相当の骨だろう)をこなしてまで、
学業を修める理由が宗一郎にはいまいち分からない。
佐々木曰く……好きだから苦痛にはならないとのことだった。
勉強が苦痛にならないという感情自体、宗一郎には理解できない。

その意味では、隆司も佐々木も変わり者の域を脱しない。
ただ、若い分だけ話は合う。ポピュラーソングも宗一郎と同じくらい知っているし、
漫画やアニメの話だって知っている。だからこそ、相談する時は真っ先になるのだが。

だが、結局父の様変わりの理由は佐々木にも分かり得ぬことだったらしい。
困惑気味に首を傾げるだけで、何の解決にもならなかった。
そして……昨日のことがあって宗一郎はますます混乱している。

昨日もこうやって、勉強する振りをしながら漫画を読んでいた。
別にどうどうと読んで良いのだが、何となく気が退けた。
それは恐らく、勉強に果てしなく集中できる隆司への気後れみたいなものがあると、
宗一郎はこの性癖を分析している。

良くできた親に対する、息子のみっともない劣等感なのだ。
桐谷隆司と桐谷宗子の血をひいているにしては、余りに欠陥品な子供だと、
宗一郎は思っている。母も大学をかなり良い成績で修了していた。
そこで父に出会わなければ、彼女は専業主婦ではなかっただろう。
まあ、その辺りに運命の糸というものを感じたりもする。

そんなことは考えていなかったが、漫画を読んでいると突然、父が部屋に入ってきた。
ノックをするということはしない。家族同士で、隆司はそんな気遣いをしないのだ。

宗一郎がドアの軋む音と気配に気付いて振り返ると、
そこに父の姿があった。目が少し充血し、呼吸も少し荒い。
何か、悪い病気にでも罹っているのではないかと疑いたくなるような様子だった。

「……勉強をやっとるのか」

父が机を覗き込んできたので、宗一郎は慌てて教科書と漫画を一遍に閉じた。
その姿を見て、何かを悟ったようにふっと笑顔を浮かべる。

「成程……そうでもないと見えるな」
「あ、うん、まあ……」

こういうところを発見されると、子供としては気恥ずかしいものだ。
しかし、隆司は咎めることなく平易な調子でこんなことを話してくれた。

「別に良いんだよ。私だって、小さい頃は親に隠れて冒険小説や探偵小説を読んでたからな。
それで親に、ちゃんと勉強しろって怒られたことだってある」

それは宗一郎にとって、意外な話だった。
父は小さい頃から机に噛り付いて、勉強ばかりしていたと思ったからだ。

「まっ、やる時にやって来たからそのうち文句も言われないようになった」

宗一郎も、赤点は取ったことがない。
一夜漬けの集中力というか、そういうものだけは極めてキャパシティが高い。
ただ、テスト後にかなりの脱力感が襲って来ることは否めないが。
隆司や宗子が文句を言わないのは、単に放任的だからだろう。
或いは学業とは別の方向に進んで欲しいと思っているのかもしれない。
宗一郎には深いことは分からなかった。

「ふーん……」宗一郎は表面上素っ気無く答えながら、父である隆司のことを観察していた。
顔は鋭利な刃物で頬の肉を剃り落としたかのようにやつれており、
それだけに日本人らしからぬ鼻の高さが気になった。
父の祖先には外国人がいたのではと、宗一郎は疑ったことがある。
それだけ顔立ちが西洋的なのだ。勿論、その血は宗一郎には受け継がれていない。

「で、何の用? わざわざ尋ねてくるんだから、余程の用事なんだろう?」
「……そうだな」

隆司は少し考える仕草を見せてから、決意の目を宗一郎に向けた。

「お前は……私が突然、狂い出したらどうする?」

言葉の意味が分からない。
狂うって……何が狂うのだろう。

「宗子やお前を、いきなり殺そうとしだしたらどうする?」

何故、こんなことを聞いてくるのだろう。
宗一郎には意味が分からなかった。

「お前は……私を殺してくれるか?」

殺す? 何故、父を殺さなければいけないのだろう。
それともこれは、父の得意なナンセンスの問いなのだろうか。
答えに窮し、宗一郎は脳をぐるぐる回転させながら相手の次の言葉を待った。
いきなり自分を殺せとか言って、即答出来るはずがないから。

隆司は溜息を付くと、大きく首を振った。

「いや……そんなことは息子に頼むことじゃないな」

自嘲的な口調でそう言った後、隆司はぽつりと呟いた。

「これは私自身の手で何とかしなければならない問題だな……。
いや、済まない……妙なことを言ったな」

そう言うと、隆司は宗一郎が引きとめる間すら与えず、部屋を出た。

「……なんだってんだ?」

宗一郎は思わず独り言を漏らす。
自分を殺してくれだの、自分でどうにかする問題だの……。
分からないことだらけだ。

何を思って父はあんなことを言ったのだろうか。
宗一郎はそれ以上、勉強に手が付かず、ベッドに寝転がってそれだけを考えていた。
そして、何時の間にか眠っていた。

まる一日考えてみたが、宗一郎にはやっぱり訳がわからない。
結局、父の気紛れと言うことで強引に片付けることにした。
そして宗一郎は首を何度か振ると、今日すべきことに全精力を集中させた。

窓から外を見ると、雨はまだ振り続いている様子だった。

 

43 狂気の宴(18 Years Before−3)

桐谷宗子はその日、夫である隆司の夕食を作っていた。
メニューはおにぎり、あさりの味噌汁、南瓜のコロッケだ。
油に投じられたコロッケは激しい音を立て、香ばしい匂いを充満させている。
それと平行して、煮たってきた味噌汁の様子も見る。

使っている味噌は赤味噌だった。
宗子の実家では合わせ味噌を使っていたが、隆司がどうしてもというのでこちらが妥協した。
夫は妥協するということについては、多大な嫌悪感を示す。
だから何か衝突があると、結局は宗子の方が折れてしまう。
最初の方は少し辟易したものだが、今では慣れてしまった。

そんなことを考えているうちに、宗子の思考は最近の隆司の動向へと移っていった。
夫は最近、変だと宗子は思っている。勿論、元々桐谷隆司という人間は変わりものだった。
それは大学で出会った時から重々と承知している事柄だ。

それにしても……現在の夫の行動は少々度が過ぎてるように思えた。
言うなれば、研究が軌道に乗った時の高いテンションをずっと維持し続けている……、
と考えると宗子には最もしっくりきた。

とにかく躁鬱にかなりの起伏が現れるのが、そういう状態の特徴だった。
まるで世界に名立たる発見をしたかと思うと、
次にはそれを幼稚園児の玩具と同義にみなしてしまう。
そんな不安定さが、自己集中をかけた時の桐谷隆司の性格だった。

そういう時は、周りのことに目がいかない。
下手すると食事すら取らないので、宗子が一から十まで仕切らねばならなかった。
そのこと自体は苦痛でない。だが……それが長時間続くと流石に心配になってくる。

それに不安なのはそれだけではなかった。

一昨日の晩だ。宗子はいつものように、隆司の部屋を訪れた。
資料は机の上にぶちまけられており、隆司でなければその配列は把握できないだろう。
驚くことは、隆司にとってはこれが整頓された姿であり片付けようとすると怒り出すことだ。

その日はノックしても返事がないので、宗子は黙って中に入った。
鍵は掛かっていない……というか、ドアに鍵はついていない。
内側からかけられる簡易な閂が一つ、取りつけられているだけだ。
それこそ、軽く体当たりしただけでも壊れかねない簡易なものだった。

隆司は机に向かい、何かを集中して見ていた。
宗子は夕食を乗せたお盆を手に持ち、ふとそれを覗き見た。

資料は外来語で詳しくは分からなかったが、
どうやら中世西洋で残虐行為を行った貴族、神父、僧侶などの記録であるらしかった。
これが現在、隆司の研究していることであるのは宗子も知っている。
しかし、宗子が本当に目を奪われたのはそんなものではなかった。

隆司は机の真ん中にある、一本のナイフを見つめていた。
ぴかぴかに光る、銀色の鋭い刃先を持つナイフだ。
その目は紅く血走っており、呼吸は獣のようだった。
宗子は慌てて夫の方を叩き、声をかける。

「隆司さん、夕飯ですよ」

すると隆司は肩を鋭く震わせ、それからこちらを振り向いた。
しかし、今度はナイフを眺めていた視線をそのまま宗子に向ける。
その様子に、宗子は畏れに近い感情を抱いた。
純粋に怖いと思ったのだ。

それから気力を振り絞って、宗子は隆司の視線の先を追う。
その双眼は、宗子の首筋に注がれているように思えて咄嗟に両手で首を覆った。
するとようやく、隆司は正気に戻った。

それから何かに脅えるように顔を俯かせる。
全身を震わせ、その時隆司は確かに何かを恐れていたように宗子には思えた。

「あ、そうか……そこにおいといてくれ」

隆司は何とかその言葉を絞り出すと、机にあるナイフを引き出しにしまう。

「悪いが、今日は一人にしておいてくれ……」

それから、弱々しい口調でそれだけを告げた。
宗子は声をかけたが、隆司は一人にして欲しいの一点張りだ。
仕方なく、宗子は部屋を出た。

しかし、あの時のことを宗子は克明に覚えている。
だからこそ、余計に恐い。
何か、良くないことが起こりそうで恐いのだ。
このことは誰にも相談できずにいた。

宗子はそれをもどかしいと思いながら、コロッケとご飯、味噌汁をお盆に乗せる。
そして、ダイニングから一階の廊下に出ようとした時だった。

隆司の部屋から、まるで狼が吼えるような叫び声が聞こえた。
その声に、思わず宗子はお盆を落としてしまった。

「どうしたんですか、さっきの声は?」

その時、自分の部屋にいたのだろう……書生をやっている佐々木勉が顔を覗かせる。

「分からないわ」宗子はそう答えた。
「でも、何だか隆司さんの声みたいだった……」

「そうですか……それで先生は今どこに? やっぱり部屋ですか?」

宗子はこくりと頷いた。
確証はなかったが、最近の動向からしてそうとしか考えられない。
宗子はお盆を端に寄せると、佐々木と一緒に隆司の部屋の前に立った。
と言っても、ダイニングへの入口から数メートルも離れていない。

「おかしいな……」ノブを掴んだ佐々木が、訝しげな声をあげる。
「鍵が……いや、閂だけどそれが掛かってる」

その時、部屋からは再び苦痛に満ちた声が漏れ出す。
それは宗子と佐々木を戦慄させるに足る、恐ろしい声だった。
佐々木は少しの間、俯いて何かを考えていたが、やがて決心するように頷いた。

「仕方ない、ドアを破りましょう」

ドアは木製だし、鍵は簡素なものだから簡単に蹴破れると思ったのだろう。
事実、ドアは四度の打撃で開き、宗子と佐々木は意を決する間もなく部屋に雪崩れ込んだ。
この時、微かに金属が何かとこすれるような音が聞こえた。

宗子が部屋に入るとほぼ同時だった。
刹那、生暖かい何かが宗子の全身を汚した。
目に紅い幕が掛かったように、視界を遮る。
その先に、桐谷隆司はいた。
そして、宗子は浴びた液体の正体を判断する。

隆司は全身が血塗れの状態だった。
腹部からは大量の血が染み出しており、
それ以上の血液が喉から迸っていた。
宗子と佐々木が浴びたのは、そんな鮮血の返り血だった。

しかし驚くべきことに、それほどの出血を帯びながら隆司は未だに立っていた。
その顔には、恍惚の微笑さえ浮かんでいる。
これだけの血を流せば苦しくて仕方ない筈なのに、隆司は確かに笑っていた。
その光景は、まるで安物の映画にある滑稽なスローモーションのようにして、
宗子の目に映した。まるで焦点をぼかしたように、隆司以外のモノが強く目に留まる。

血塗れの床、壁、ベッド、本棚、机……そしてナイフ。
それから徐々に焦点を絞るかのように、今度は隆司だけが視界を支配した。
彼は僅かに、僅かにこちらへと向かって来る。

声がでない。
これは何だろう。
夢? 幻? それとも……。

赤に遮られて働かない思考。
宗子は何をして良いのか、全く分からなくなっていた。

そうしてどのくらい立ち尽していただろうか。
突然、隆司の姿が視界から消え、左足を鈍い感覚が襲った。
無機的に顔を向けると、隆司は宗子に跪くようにうつ伏せで倒れていた。

その痛みが、この光景を現実のものへと残酷にも引き戻す。
と同時に、明らかに過負荷と思える感情の爆発が宗子を襲った。

「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

日本語にすらならない叫び声は、その一端に過ぎなかった。

 

44 消失の謎(18 Years Before−4)

桐谷宗子の叫び声に、ようやく佐々木勉は正気に戻る。
そして、ねっとりと身を覆うものの正体も理解した。
桐谷隆司、彼の恩人の血でこの身は塗れていた。

「あぁぁぁぁ!!!!!」

宗子が絞るような叫び声をあげる。
腰が砕けたかのように身を崩し、宗子は声をあげ続けていた。

その様子を見て、逆に佐々木は冷静になることができた。
そして、これから何をしなくてはならないか考える。
目の前には血塗れの男性が一人……。
となると、救急車を呼ばないといけない。佐々木はそう結論を下した。

「僕、救急車を呼んできます」

そう言うと、佐々木は部屋を飛び出した。
そして玄関先にある最新式のプッシュホンを119と押す。
受話器の持つ手は明らかに震えていた。

電話が繋がると、佐々木はまくし立てるようにして話し始めた。

「すいません。今、先生が血を大量に流して倒れているんです。
至急、ここに来て下さい。早くしないと……」

「ちょ、ちょっと待って下さい」

電話の向こう側の声は、佐々木を慌てて諌めた。

「住所が分からないのに、駆け付けるのは無理ですよ。
まずは落ち着いて……連絡先と簡単な症状を話して下さい」

「あ、す、すいません……」

どうやら、自分でも気付かぬほどまだ神経が昂ぶっているようだ。
そんなことを考えながら、佐々木は見た限りの状況を詳しく説明していった。

「ええ、住所は……です。桐谷という名前です。
僕ですか? 僕は佐々木と言って住み込みで先生の雑務みたいなことをやってます。
ええ、その先生が血塗れで倒れていて……ええ、そうです。
喉や腹部から血が大量に噴き出して……とにかく早く来て下さい」

「分かりました。至急、救急車と隊員をそちらに向かわせます」

それを聞くと、佐々木は電話を切った。
それから大きく溜息を付くと、再び佐々木は隆司の部屋に戻る。

部屋は佐々木の見た所では、先程と変わりないようだった。
相変わらず血塗れで、隆司は部屋のほぼ中心にうつ伏せで倒れている。
その側には茫然自失とへたり込んでいる宗子の姿があった。

「大丈夫ですか?」

佐々木は宗子の肩を揺さぶりながらそう声をかける。
しかし、彼女からの反応は全くなかった。
まるで人形に話しかけているかのように、感情が希薄なのだ。
これは重傷だなと、佐々木は思う。

結局、佐々木は宗子を抱えるようにして部屋から出した。
彼女はそのことは嫌がらなかった。

それから廊下の壁を背にして座らせる。
しばらくすると、二階から足音が聞こえた。
その時になってようやく、佐々木は宗一郎にことを説明していないことに気付く。

早く説明しなければと思い、佐々木の方も階段に足を運ぶ。
丁度、中間地点で二人は遭遇した。

「うわっ、な、どうしたんですか?」

宗一郎は佐々木の姿を見て、かなり驚いているようだった。
そして、自分が今、血塗れであることを思い出す。
しかし、今はそれを気にしている場合ではなかった。

佐々木が事の顛末を宗一郎に説明すると、彼の顔はさっと蒼ざめた。

「そ、それ本当なんですか? いや……」

宗一郎はそう言いかけて、佐々木の全身に目をやる。
その惨状から、自分の言ってることが嘘でないと察したのだろう。

「で、父さんはどうなったんですか? 死んだの?」

宗一郎の言葉に、佐々木ははっとなる。
今まで動転していたせいか、彼は隆司の生死を確かめることをしていなかった。
そのことが無性に気になり、佐々木は三度、隆二の部屋へと向かう。
宗一郎もその後に付いて来た。

「うっ……ひどい……」

宗一郎は口元を手で強く抑える。
どうやらこの惨状を見て、吐き気が込み上げてきたらしい。
そんな様を見ると、佐々木の胸にも込み上げる血の臭いに対する嫌悪感が浮かんで来た。
しかし、今はそんな感情を引き出している場合ではない。
そう判断して、佐々木は宗一郎の脈を取った。それから呼吸を確認する。

そして佐々木は首を振った。
その両方とも、既に桐谷隆司からは感じ得ることができない。

「駄目だ……もう亡くなっている」

佐々木の言葉に、宗一郎は表情を貼り付かせた。

「亡くなったって……何故……」

「それは……僕にも分からない……」

しかし、確かにそうだと佐々木は思う。
何故、隆司はこの部屋でこうも無惨に死ななければならなかったのだろうか。
第一、遠因は何なのか?

部屋の唯一の出入り口であるドアには閂が掛かっていた。
よって、誰も外から中には出ていないことになる。
となると……自殺なのだろうか? 佐々木は疑いながらもそう結論を下す。

しかし、自殺にしては死に方が少々、凄惨過ぎるのではという思いは、
佐々木の頭から抜け出そうとはしなかった。

「……とにかく、ここから出た方が良い」

自分はともかく、宗一郎にとっては余りに残酷な空間だ。
佐々木はそう考え、彼と一緒に部屋を出ることにした。
宗一郎も素直に頷き、二人は部屋から離れる。
そして、静かにドアを閉めた。蝶番の壊れたドアは上手く閉まらないが、
それでも開けたままにしておくよりは数段増しだと思った。

しばらくすると、サイレンの音と共に救急隊員がやって来た。
佐々木と宗子の状況に驚いていたので、再びその辺りを軽く説明する。
取りあえず納得してくれると、佐々木は隆司の部屋へと隊員たちを案内した。

「うわっ、こいつぁひどいな……」

隊員の一人が、顔を顰めながらそんな言葉を漏らす。
それから状況を確認し、より強く眉を潜めた。
その仕草が気になって、佐々木は隊員に尋ねる。

「あの、どうかしたんですか?」

「あ、いえ……酷い死体だなと思いまして。
ところで貴方……警察の方はもう呼びましたか?」

警察……その言葉に佐々木はぴくりと肩を震わせた。

「いや、変死の場合は一応、警察による解剖を受けると言うのが、
規範となっているもので……。にしてもこれは、他殺の可能性が高いですよ」

「えっ!?」佐々木は思わず声を漏らした。
それは先程、彼が下した結論を覆すものだったからだ。

「どうして、そんなことが言えるんですか?」

思わずそう問い掛けると、隊員は背中を指差した。

「見れば分かると思いますが、背中を複数回刺された後があります。
自殺だとしたら、こんなところに指し傷はありませんからね」

そう言われて、佐々木は傷痕を観察する。
確かに背中には、刃物のようなもので何度か刺された痕が見られた。

しかし……部屋からは誰も出られない筈だ。
閂は確かに掛かっていたのは、自分が確認した。
だとすると、犯人はどこから脱出したのだろうか?
そんなことを考えて、佐々木の頭に推理小説でよく出てくる四文字熟語が浮かぶ。

密室殺人。

その言葉は今や、佐々木の頭の大部分を支配していた……。


あとがき

今回の話はKanon関係ありません……はい。
しかし、現在と過去を繋ぐ接点のような話なので、蔑ろにできません。
というわけで退屈かもしれませんが、あともう一話お付き合い下さい。

いきなり電波な文章でびびったかもしれませんが、その辺りは勘弁下さい。
尚、詳しい文献で調べた訳でもないので考証はいい加減です。

問題編はあと三回くらいってところです。
何とか年内には、問題編を全部公開できたら良いなと考えてます。
そんなこと言って、また計画倒れになる可能性もなきにしもあらずですが……。

では、また近い内にあいませう。

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