第八話
〜夜想と過去の挟間(後編)〜

45 現場検証(18 Years Before−5)

「なんだって? 密室殺人?」

世田谷刑事は少々不機嫌に、現場の警官へと喚き散らした。
ようやく忙しい事件が終わったら間髪いれずに厄介事が起きる。
これじゃあ妻の機嫌が悪くなるばかりだと、思わず溜息を漏らしたい気分だった。
現場の指揮に関わることだったので、それはぐっと堪えたが。

「ええ、そうなんです……」

怒鳴られたのが効いたのだろうか……相手は伺うような目付きで言った。

「いえ、僕もそんなことはないと思ってるんですよ。だって、密室殺人ですよ。
そんな古臭いの、今時流行りませんからねえ」

警官はそう言うと、最もらしく頷いて見せた。

「けど、この家の住人である……佐々木という住み込みで働いてる男性ですが、
僕も宗子夫人も先生の……これは被害者に対する呼称で、被害者は桐谷隆司という男性ですが、
彼の部屋のドアからは誰も出てこなかったと証言してるんです。
死体を見たところでは他殺の可能性が高いと鑑識の方では言ってるのですが、
ドア以外にあの部屋から出られる場所はなかったんです。だから密室だと……」

最初は能弁に話していたのだが、最後の方になるに従って口調の歯切れが悪くなる。
確かに密室なんて、トリックだのとこねくり回している推理物くらいにしかでてこない……、
そう世田谷は考えている。となるとどちらかに相違があるのだとうと判断する。

「まあ、密室というのは馬鹿らしいな。恐らくはその佐々木とかいう奴の証言が間違っているか、
他に出入り口があるのかだろう? 第一、現場は一階なんだから窓から出られるだろう?」

「いえ、それが……現場の部屋には窓はないんです。空調と換気扇は付いていますが……。
本当に真四角の部屋ですよ……まるで大きな棺桶みたいな」

窓がない……というのは、些か妙だと思う。
防犯だったら鉄格子を嵌めておけば良いし……。
ここに来る途中、世田谷が見た限りでは窓にそんなものは降りていなかった。

「窓がないというのは、後でコンクリートか何かで潰したのか?」

「いえ、最初から窓は付いてなかったようです」

「ふーん……」

それは物好きだなと思いながら、世田谷は桐谷家に足を入れる。
全くの洋風建築だが、靴は玄関で脱ぐようになっていた。

玄関を入って廊下を突き当たり、左に曲がる。その一番奥が、桐谷隆司の部屋だ。
右手には窓があり、カーテンはかけられていなかった。
既に午後八時前で外は真っ暗闇だが、雨の白い線と雨音は微かに伺える。
実際、パトカーから屋根のあるここまで歩くだけでも、かなり濡れたのだった。

隆司の部屋のドアは全開にされている。
これは作業をする警察の関係者が通り易くするためだろう。
世田谷はそんなことを考えながら、視線に飛び込んで来た光景を冷静に分析する。
これはひどい……今まで何人の人が思ったことを世田谷も同様に感じた。

血の飛び散り方が半端じゃないのだ。
これで自殺だとしたら、死んだ奴は余程の変人か狂人だ。
世田谷は馬鹿馬鹿しいと思いながら、最初にドアを調べた。

激しくぶつかったためか、木製のドアには幾つかの亀裂が走っていた。
蝶番が曲がっているようで、ドアを少しでも開け閉めするにもつかえてしまう。
世田谷はその中でも、特に損傷が激しい小さな金属性の閂に目をやる。

「ドアには鍵が付いてないようだから、これでドアは塞がれてたってことになるよな……」

そう呟きながら、他に何か異常はないか調べる。
例えば、蝶番以外でドアを固定するような何かを。
しかし、そのようなものは一切発見されなかった。
糸で擦ったような後も、その他の不自然な点も全く見受けられない。
そのことを確認すると、世田谷は部屋に足を踏み入れた。

部屋の中では、既に到着した鑑識官たちが微かな痕跡も見逃すまいと忙しなく動いていた。
事件の起きた空間と時間を保存しようとカメラのフラッシュは引っ切り無しに焚かれ、
或いは血の飛び散った範囲を調べたり、指紋等を採取したりとその動きは様々だ。

その中でも世田谷は、死体を取り囲んでいるグループに声をかける。
身分を明かすと、彼らは暫定的ながらも死体や部屋の状況について話を始めた。

「まず、被害者の状況ですが……詳しく検死をしていないので分からないのですが、
まず頚動脈がすっぱり切断されてますね。後は腹部に数箇所、背部に数箇所、
それぞれナイフで突いたか切ったかした痕がついていました。
死因は恐らく出血多量によるショック死……喉の傷が致命傷でしょうね」

そう言われて、世田谷も喉の傷を注視する。
赤黒い血の塊が付着しており、濁ったピンク色の肉が僅かに覗いていた。
それから背中の傷に目をやる。見た所では二、三箇所に傷があり、
そこから出たであろう血液が洋服をその色で染めている。

「うつ伏せになっているが、死体を動かしたのか?」

世田谷が聞くと、鑑識の人間は首を振った。

「いえ、私たちはそんなに動かしていません。一応、生死を確認する為と、
簡単な死亡原因を確かめる……それくらいです」

「となると、死体はうつ伏せに倒れたんだな?」

「はい、そうだと思います。第一発見者が動かしていなければ」

世田谷は、そのことを後で発見者に訊いておかなければならないと思った。

「で、凶器の方は見つかったのか?」

「はい。部屋のベッドの下から発見されました。血がべったりと付着していましたし、
死体の傷もナイフ状のものでつけられた可能性が高いですから、間違いないかと」

凶器があるなら、そんなに賢い犯人ではなさそうだ。
大体、凶器を残す人間というのは思慮も分別もなく殺人を犯した人間なのだ。
少なくとも、今まで世田谷が担当した事件においてはそうだった。
そこから犯人の指紋が、或いは購入先が割り出され、それが元で御用となるのだ。
それは警察官の足と根気が生み出した勝利であり、今回もそうなる筈だと世田谷は考えた。

密室というのも何かの勘違いだろう。
そんな思いを強めながら、部屋をぐるりと見回した。
少し考えた後、世田谷は本棚に近付く。
この部屋にしては、やけに不釣合いな大きいものだったからだ。
とは言ってもごく普通の本棚で、一番下の段だけが戸付きになっている、
一般に市販されている域を越えないようなものだ。

世田谷は念のため、その一番下の戸棚を開けてみた。
そこが空なら、人間が一人隠れるほどのスペースがあったからだ。
しかし、中には本や資料がぎっちり詰まっていた。
とても人が隠れるスペースなど存在しない。

「そこは私たちも調べましたが、人が隠れるのは無理そうです。
ベッドは隙間が狭くて子供の頭一つ入りそうにないですし……」

これだけの数がいるのだ、自分と同じことくらい誰だって考えてるだろう。
そんなことを自嘲的に思うと、次に机の前へと立った。
とても中に人が入れそうには無いのだが、一応調べてみることにする。
机の上は電気スタンドとティッシュの箱以外、紙切れ一枚置かれていなかった。

「被害者は几帳面だったのかな」

そんなことを口に出しながら、上から二段目の引き出しを開ける。
そこで世田谷の考えは一気に吹き飛ばされた。
中にはいかにも一気に押し込みました……と言わんばかりに、
古今東西の資料や論文、原稿が押し込まれていた。

次のの段も似たようなもので、中には鼻を噛んだティッシュさえ入っている。
下の段は比較的重要な資料がバインダごとに保管されているようだが、
これもやはり世田谷にはごちゃごちゃとしたものにしか見えない。
署にある自分の机よりもひどいと、資料の山を見ながらそんなことを考えた。

そして最後に一番上、鍵付きの引き出しに手を伸ばす。
世田谷の予想に反して、引き出しは抵抗する事なく開いた。
中には引き出しの鍵と、一冊の日記帳らしきものが入っていた。
鍵はついていない。

「日記か……ずぼらなのか几帳面なのか分からんな……」

プライバシという言葉は世田谷にはなく、彼はぺらぺらと日記帳をめくった。
内容は日記というより思い付いたことを書き記すアイデア帳のようなもので、
日本語、英語、仏語など多国籍の言語で記述されている。
文字の汚さや乱雑さが加わって、世田谷にはさっぱり意味が分からなかった。

それでも気合を入れて読んで行くと、ようやく世田谷にも分かるような文章の塊が現れる。
しかし、その意味不明度は今までの内容と全く変わらない。
寧ろ理解できる分、その内容の奇妙さに世田谷は頭を捻らざるを得なかった。

「私がいつからそれを意識し始めたのかは分からない。だが、どす黒い血と感情とは、確実に私を蝕みつつあった。私は何者だろうか? 勿論、決まっている。人間だ……ってなんだこりゃあ!!」

つい感歎の言葉を口にしながら、世田谷はそれらを読み進めて行った。

 

46 桐谷隆司の手記2(18 Years Before−6)

もう、終わりだ。
私の理性はきっと、粉々にまで砕かれたに違いない。
私は骨の髄まで、人肉に飢えた祖先の血に侵されてしまったに違いない。
私は最早、狂ってしまった人間だ。

例えば少し前、私は紙で指を軽く切ってしまった。
その時、流れた血を舐めた時、とても美味いと感じられたのだ。
これは、私が吸血鬼になってしまったからだ。

一昨日の晩だ。
私はナイフの鋭く光る刀身に自らの咎を映していた。
昔から、銀には吸血鬼に限らず、霊的な存在を退ける能力があると言われている。
そのせいだろうか、吸い込まれるような光は私を魅了して放さなかった。
それは寧ろ、私がそのような存在に近かったことを暗示しているのかもしれない。

このナイフは昨日、とある骨董屋で購入した。
特に謂れなどないと店主は話していたが、何故か私はそれに惹かれたのだ。
理由は……分からない。

しかし、恐れるべきはそのようなことではない。
部屋に入ってきた妻の首筋を眺めて、
その柔らかい肉に歯を突き立てて、血を啜りたいという欲求が込み上げて来たのだ。
いや、私はもう少しでそれをするところだった。
妻が声をかけなければ……。

そう、真に恐れるべきことはこのことなのだ。
今回は耐えられたが、いつまた吸血の性が湧き出してくるか分からない。
薬を使って抑えては来たが、限界が訪れている。

このままでは、私は本能の願うままに家族を虐殺してしまうかもしれない。
そして、嬉々としてその血を啜ってしまうかもしれないのだ。
もし、そうなったら……思うだけで体が異様に震えを来す。

翌日、私は息子の部屋を久々に尋ねた。
私は何かあったら、即座に自分を殺して欲しいと頼むつもりだった。
しかし、久々に声を交わしているうちにそんなことは頼めなくなっていた。
そうだ、息子にそんなことを頼むなど決してしてはいけない。

これは、私自身で決着を付けなければならないことなのだ。
しかし、いつ決着をつけようか?
なるべく早いうちに決断しなければならないのだが……。

心配なのは、自分の悪い血が息子に混ざっていないかということだ。
もし、そうだとしたら対策を考えないといけないのだが……。
ともあれ、できる限り急ごう。
私が大切な人たちに災禍を振り撒く、その前に……。

 

47 三人の容疑者(18 Years Before−7)

日記はそこで途絶えていた。
世田谷はそれを全て読み終えた後、しばらく茫然自失の状態だった。
余りにも常軌を逸した思い込みと非日常に、圧倒されていたのだ。

被害者……筆跡は同じに見えたからそうなのだろう……、
桐谷隆司は何を思ってこんな言葉を残したのだろう。
まさか、本当に気が狂っていたのだろうか?
そうに違いないと世田谷は判断した。これはまともな人間に書けるものではない。

そして、世田谷は記述の中で一つ気になる点に気づいた。薬……この一言だ。
被害者は何かの薬を服用しており、彼曰くそれは吸血鬼を抑える薬だった……。
吸血鬼などいないにしても、何かの薬を服用していたことは間違い無い。
世田谷はそう推測し、これも家の人間に尋ねておくべきだと考える。

それからもう一度、部屋を見回してみたが他に気になる点はなかった。
とにかく、探す点は極めて少ない部屋なのだ。
結局、密室の手掛かりは全く得られなかった。

世田谷は日記帳を鑑識に託すと、今度は家の人間に話を聞こうと思った。
そこでふと、ある考えが浮かび、懐中電灯を一つ警官から受け取る。

「懐中電灯なんか、どうするんですか?」

尋ねる警官には答えず、世田谷は黙って廊下と外を繋ぐ窓を開けて外を照らす。
しかし、そこには足跡の一つすら存在しなかった。
それから廊下を念入りに調べたが、誰かが侵入した跡はみつからなかった。
そのことを確かめると、世田谷は懐中電灯を警官に返した。

「で、家の人間はどこにいるんだ?」

「えっと……多分、ダイニングにいますよ。そこの突き当たりのドアです」
「そうか、ありがとう」

世田谷は柄にもなく礼を言うと、ダイニングのドアを開けた。
そこには付き添いの警官が一人と、家のものらしい男性が二人いる。

「すいません、私はS署の世田谷というものですが……」

警察手帳を見せると、二人は些か緊張の面持ちを見せた。
まあ、相手が刑事と知った時の反応としては真っ当だと世田谷は思った。

「家の人間は、これで全員ですか?」

世田谷が大人の方に尋ねると、彼は首を振った。

「いえ、先程宗子夫人……亡くなられた先生の奥さんなんですが、
かなり弱っておられたようで、先程警官に付き添われて部屋に戻りました」

その口調は冷静で、取り乱したり淀んだ様子はない。

「そうですか、まああの有様ですからね……本当に、家族の方にはお悔やみ申し上げます」

世田谷は適当に悔やみの言葉を述べると、
次には目の前の相手からできるだけ多くの情報を引き出そうと目を光らせた。

「ところで事件の第一発見者というのは貴方ですか?」

冷静な受け答えを見せた男性にあたりをつけて問い掛けると、相手は首を縦に振った。

「ええ。警察に連絡を行ったのも僕です」

「成程……お名前は佐々木勉さん、ここに住み込みで働いてますね」

「そうです」

佐々木はそれだけ答えると、僅かに俯いた。
その顔色は悪く、事件に対する動揺も僅かだが見て取れる。
桐谷隆司の部屋が密室だったとは彼が言い出したことだ。
それから考えても、まず彼に話を聞かなければならないと思った。

「それで、貴方が第一発見者ですよね。
事件のあった前後のことを詳しく話して欲しいのですが。
勿論、これは強制ではありませんが、事件を早急に解決するには
貴方の証言が是非とも必要となるので……お願いできますか?」

そう言い、世田谷は佐々木の顔を覗き込んだ。
彼の様子には動揺と言った態度は少なく、上辺には冷静に見えた。

「はい……そうですね。僕としても先生を殺した犯人を捕まえて欲しいですし、
それよりも不可解な出来事でとても混乱していて……」

佐々木はそう前口上を述べると、事件の巻き込まれるタイミングについて詳しく述べた。
廊下の方から物音と微かな叫び声が聞こえて来たこと。
部屋を出ると桐谷宗子が夕食のお盆を落として動転していたこと。
そして被害者である桐谷隆司の部屋を訪れたこと。
その時は、まだ中で犯行らしき音が聞こえていたということ。
ドアを破って中に入ると、桐谷隆司が血を大量に噴き出しながら倒れたこと。
中には間違い無く、どのような人間の影も見つけられなかったこと。
それからすぐに、玄関先の電話で救急に電話したこと。
そこで他殺の可能性が高いことを指摘され、初めて電話をかけたこと。

「取りあえず、服は警官の方に了承を得て着替えさせて貰いました」

それから佐々木はそう付け加えた。

世田谷は彼の述べたことを心の中で反芻する。
その全てを真実と受けるなら、正に完全密室殺人が成立する。
正しく犯人は、犯行現場から霧のように消えたことになるのだ。

そこでふと、吸血鬼という言葉が浮かび、世田谷はすぐにそれを打ち消す。
人外の魔物など持ち出すなんて刑事らしくないなと、自らに活を入れた。

「そのことは分かりました。しかし……」

服のことで了解の言葉を述べ、それからわざとらしく言葉を切った。

「貴方の言うことが全て事実なら、これは密室殺人ということになります。
けど、実際にはそんなことがあるとは思えないんですよ」

「僕だって思いませんよ。そんなの、横溝正史とかその辺りの話としか考えてなかったんですから。
でも、僕の見聞きしたことは全て事実なんですよ。これはもう、犯人が消え失せたとしか……」

佐々木は興奮の口調で世田谷にくってかかった。
それからふと、自らの取り乱し方を察し、再び顔を伏せてしまう。

「でも、人間が煙のように消えるなんて有り得ないですよ。
ということは、何処かに貴方も見過ごした点があるんです。
例えば……死体に気を取られているうちに犯人が脱出したとか……」

どうしても密室という事態を認めたくない世田谷は、尚も食い下がる。
しかし、佐々木が返した答えはそんな希望を簡単に否定してしまった。

「それはないですよ。あの時、僕と夫人はドアを塞ぐようにして立ってたんですから。
それにあの部屋に隠れる所なんてないですよ。いつも出入りしてますから分かります」

確かに、世田谷もその点は詳細に確かめた。

「ええ……そうですね。まあ、その辺りは警察の捜査によって追々分かっていくことでしょう」

世田谷は取りあえず、未解決の問題を棚にあげた。
密室からのアプローチを諦め、別方面から責めることにしたのだ。

「それで別の点について二、三伺いたいのですが。
貴方は死体を動かそうとしましたか? また、それを行った人間はいますか?」

「いいえ……僕も夫人も動かしたりはしてません。
僕は生死を確認するために少し触れただけですし、
救急隊員の方も刑事事件の可能性が高いというので動かすことはしませんでした」

となると、死体はうつ伏せで倒れていることになる。
そう判断して、次の質問に移る。

「被害者の桐谷隆二さんですが、何か特別な薬は服用してませんでしたか?」

「薬ですか? 確か、時々睡眠薬を服用するくらいでしたよ」

「他には何かなかったですか?」

「いいえ、ありませんけど」

佐々木はきっぱりと言い切った。
その口調は確信に満ちていたので、彼の言うことは本当だと判断する。
しかし……だとするとあの日記にある薬の理由が繋がらない。

その時、世田谷の頭に一つの考えが浮かんだ。
つまり、他の誰にも服用していることを知られたくない薬。
イリーガルな薬ではないか……世田谷はそう考えたのだ。

となると、部屋の捜索は念入りにやらなければならない。
世田谷はそんなことを考えながら、次の質問に移った。

「隆二さんに、何か殺意を抱くような人間はいましたか?
或いは、何か変わったこととか?」

これが分かれば、今までの質問は余り意味をもたなくなるだろう。
しかし、佐々木は頑として首を横に振った。

「ありません。確かに少し変わった性格ではありますが、
他人に反感を買うようなものではありませんでした。
金銭上のトラブルもありませんし、人間関係も良好でした。
思い当たる節は、全くありませんね」

彼はすっぱりとそう言い切った。しかし、恩師に対する評価もあるだろうから、
こちらの方は第三者への訊き込みで固めた方が良いと考えた。

「変わったことと言えば……かなり前からかなり閉じ篭りがちの研究を続けてました。
最近は何かぶつぶつと呟いたり、家族にも滅多に顔を合わさずじまいの日を送ってました。
それで宗一郎くんとも何度か話し合ったんです……様子がおかしいって」

様子がおかしかった……それはあるかもしれないと世田谷は思う。
何しろ、あんな日記を書くような状況だったのだから……。
そして、今度は名前が出た宗一郎という若い男性の方に質問の矛先を移した。

「それで、次は君に訊きたいんだが……まず、名前は?」

「桐谷、宗一郎です」

確認のために名前を尋ねると、宗一郎は少し覇気のない調子で答えた。
やはり実の父を殺されたことで答えているのだろうか?
そんなことを考えながら、世田谷は彼の一挙手一投足に注目する。

「桐谷ということは、隆司さんの息子かな?」

「はい、そうです」

「見た所、高校生くらいだけど……年は幾つ?」

「十七で、高校二年生です」

「高校はどこ? 部活は何をやってるの?」

「高校は近くの……あの、この質問に意味はあるんですか?」

世田谷としては緊張を解そうとしていたのだが、宗一郎にはそれが逆効果だったようだ。
或いは回りくどい訊き方が嫌いだったのかもしれない。
そう考え、世田谷はもう少し単刀直入に尋ねることにした。

「事件があった時の君の行動を話して欲しいんだが、いいかね?」

「はい、構いませんけど……。
と言っても、ずっと部屋でボーっとしてただけですよ。
それで、ふと時計を見ると七時過ぎなので下に降りました。
大体、この時間になると母さんが下から大声で呼ぶので。

そうしたら廊下で血塗れの佐々木さんに出会って、
話を訊くと父さんが血塗れで倒れてるって言うから。
後はずっと、佐々木さんや母さんと一緒にいました」

宗一郎の説明はごく簡潔なものだった。

「君は物音とか声は聞かなかったのかな?」

「いえ……部屋は二階ですし、ひどい雨が降ってましたから」

「確かに……ところで君は、父親が最近、少し変わったと言っていたけど、
何か心当たりみたいなものはないかな?」

そう尋ねると、宗一郎は曖昧に首を振った。

「分かりません。父が変わり出したのは、大分前からで……。
その時は、そう言えばそうかなって感じの変化だったんですけど、
その内に家族とも余り顔を合わさないようになってきて……。
挨拶とかも殆どしないで、部屋に閉じ篭っていました。それに……」

それに……という言葉の後を、宗一郎は故意に飲み込んだ。
それから、強い躊躇の様子を見せる。

「それに……何かあったのかな?
何でも良いんだ、もしかしたら事件に関係あることかもしれないから」

世田谷がそう後押しすると、宗一郎は昨日に父が尋ねてきたことや、
そのやり取りについて語り始めた。

それは世田谷を驚かせる告白だった。
少なくとも、息子に自分を殺してくれと頼んだ記述は真実だと証明することになるからだ。
それは佐々木も同じようで、まるで幽霊を見たかのように驚きの表情を顕わしている。

「それは、本当かね?」

「ええ……こんなことで嘘をつくわけないじゃないですか?」

宗一郎は戸惑い半分、怒り半分の怒声を世田谷に向けた。

「いえ、それは分かってますから……落ち着いて。
実はですね、隆二さんは奇妙な記録を残していたんです」

世田谷は相手を宥めると、隆司の日記のことについて二人に説明した。

「そんなことを……先生が書かれてたんですか?
確かに先生は異常犯罪と古代中世の怪物の因果関係について調べていましたが、
そんなことは僕には一言もおっしゃられませんでした……」

恩師の言葉が衝撃的だったのだろう。
佐々木は落胆と困惑が混じったような、そんな感情を剥き出しにしていた。

一方の宗一郎は、小刻みに体を震わせていた。
何しろあんな主観の狂った書き物とはいえ、
自分も吸血鬼かもしれないと名指しされたのだ。
その動揺は推して測るべきだろう。

会話が途切れてしまい、気まずい空気がダイニングをはしる。
世田谷としても、今はこれ以上聞くことがなかった。

「それでは二人とも、ご協力ありがとうございました」

今まで何十篇も言ってきた言葉が義務的に口から飛び出す。
最早、その言葉には何の感慨も含まれてはいなかった。

それから世田谷は桐谷宗子の部屋へと向かった。
ドアをノックして、それから部屋に入る。

「あの、すいません。警察のものですが……」

世田谷の言葉に、しかし桐谷宗子は無反応だった。
部屋の隅に屈み込み、その淀んだ目は何もみつめてはいない。
これは確かに重傷だと、世田谷は思った。

「夫の隆司さんの事件で、尋ねたいことがあるんですが」

そう言うと、宗子は少しだけ体をこちらに向けた。
そして、ぼそぼそと口をつく言葉。

「隆二さんですか……あの人は吸血鬼に殺されたんですよ……」

それきり、宗子は世田谷がいくら問い掛けても言葉を返すことはなかった。
仕方なく、彼は宗子の部屋を後にした。

そして、世田谷は心の中で舌打ちする。
この事件はどこか、狂ったところだらけだ。

 

その後、世田谷は桐谷邸から撤収した。
それから幾つかの情報が入って来たが、
その中でも彼の気をひいたのはこの報告だった。

それは桐谷邸の回りからは、不審な足跡は一切発見出来なかったというものだった。
つまり、桐谷邸に外部からの侵入の可能性はないということになる。

「つまり、犯人はあの時桐谷邸にいた三人の中にいるって訳か」
「そうなりますね」

相手の刑事はそう相槌を打った。
世田谷はその事実と、先日に仕入れた情報を整理する。

桐谷邸にいた三人のうち、桐谷宗子と佐々木勉は事件前から一緒にいた。
となれば、桐谷宗一郎が殺害の犯人に違いない。
動機は親子の確執か、或いは漫画の影響でも受けて殺人依頼を真に受けた……。
とにかく、犯人は絞れたのだ。後は彼がどうやって密室を作ったかだ。

世田谷はそう考えながら、この事件ももうすぐ解決だと考えていた。

まさか、この事件が十八年も尾を引き、しかも刑事生活において最大の汚点になるなどとは、
微塵も想像していなかったのである。

 

48 唐突なるエピローグ(17 Years Before)

三日前、母が自殺した。
宗一郎の頭には、そのことがリフレインしていた。

理由は分からない。
ただ、遺書は残されていた。
そこには父の後を追うとだけ言葉が残されていた。
何故、死ぬのかという理由は一切なく、
またそのことも知らされずに母は首を括ったのだ。

葬儀は簡単に行われた。
あんな事件があったので、親戚は誰も来なかった。
それは宗一郎にとっては好都合だった。
顔もロクに知らない奴らが押し寄せてきても迷惑なだけだ。

宗一郎はブランコに揺られながら、不幸の発端となった半年前の事件を思い返していた。
あれから分かったことは、父が覚醒剤をやっていたことと、
犯人があの時家にいた三人の中にいるということだけだった。
その他には、何も分かったことはない。犯人も、密室の作成手段も何もかもだ。

父の変遷は、覚醒剤を使用していたことで理解できる。
あの狂った内容の日記は、その歪みを最も大きく顕わしたものだろう。
しかし……宗一郎にはそれが全てだとは思えないのだ。

あの密室状態は、正しく吸血鬼が霧となって隙間という隙間から脱出したと考えなければ、
説明が付かないくらいの不可能状況だった。

あれから宗一郎も、色々な推理小説を読んであの現象を解明しようとした。
しかし、駄目だった。宗一郎は、自分が理論家でないと知っている。
それでも冷静な分析を加えれば、答えは導きだせると思っていた。
密室講義という、密室を分類したというものも読んでみた。
でも、父を屠った密室の謎を解き明かすことはできなかったのだ。

或いは……容疑者が近しい人物ばかりであるから、
どうしても冷酷な推論ができないのかもしれない。
もし、この事件を純粋な推理クイズにでもしたら、
謎を解く人間ももしかしたら存在するかもしれない。

しかし、それをすることは宗一郎には躊躇われた。
この問題はやはり、自らが解くべき問題だと思ったからだ。
答えは二分の一、実の母か、兄のように慕っていた男性か……。

そう推定する度、自分の卑近さが嫌になる。
こんな問題はなかったことにしたら良いじゃないか。
もう一人の自分がしきりに訴えかける。
しかし、謎の解明を欲する自分も確かに存在するのだ。

ただ、その容疑者は宗一郎の前に存在しない。
佐々木は三ヶ月前、東京の小さな会社に就職が決まり家を出てしまった。
そして、母である宗子はこの世にいない。

宗一郎は、この世界に一人だけ残されたのだ。
そう考えると無性に悲しかった。
ただっぴろい家が自分を圧迫するようで恐くて、
学校に行くこともなく朝の公園でこうしてブランコを揺らしているのだ。

雪が降っていた。
世界を白で覆い尽くすかのように、どんよりと黒い雲が雪を吐き出していた。
宗一郎の体にも、白い結晶は容赦なく積もっていた。

わざとらしくブランコを揺らす。
その金属音すらも物悲しく、そして辛かった。
一層のこと、このまま雪に呑み込まれてしまおうか。
宗一郎は天を仰ぐ気力すらなく、ただ俯いていた。

どれくらいの時間が経っただろう。
実際には、それほど時間は経っていなかったのかもしれない。
宗一郎の上に、不自然な影が覆い被さった。

宗一郎は何かと思い、思わず天を仰いだ。
そして、それが彼に差し出された傘であることに気付く。

「そんなところに座ってると、風邪をひきますよ」

その少女は、少し間延びした口調で言った。
制服は宗一郎の通う高校と同じものだったが、
宗一郎は目の前の彼女のことを知らなかった。

しかし、彼にとってそんなことはどうでも良かった。
差し出された傘、そして宗一郎にだけ向けられた暖かな微笑。
どこか上品な物腰を感じさせる、それでいて心安らぐ笑顔だった。

「あ、ああ……ありがと」

緊張してうまく喋れない。
それほど宗一郎は、目の前にいる少女に惹かれていた。
出会って一分も経っていないのに……。

それは晩秋の……。
そして、宗一郎にとってはまさしく運命の出会いだった。


あとがき

終わった……。
Kanonが全く関係ない部分が……。

ともあれ、貼らなくてはならない伏線は全て貼りました。
細かいところまで綿密に仕掛けてあるので、じっくりと読んで下さい。

そして最後の場面です。48で少しだけ出てくるこの人物は、
第六話に出てくる佐祐理の感じた違和感と密接な関係があります。
それが分かっている人なら、彼女の正体も検討が付く筈です。

問題編は予定通り、あと二話で終われそうです。
次回からは普通のKanonワールドに……実は戻らなかったりします。
それでは、また近い内に……。

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