第十一話
〜事実と真実の挟間(前編)〜

57 真実は最も近い場所に

もしかしたら、知らなかった方が良かったのかもしれない。
けど、知ってしまった今となってはどうしようもなかった。
祐一は頭の中で様々な考えを巡らせながら、必死に自転車を漕いでいた。

そう、色々と布石は敷かれていたのだ。
例えば十七年前に結婚したという事実一つを取って見ても分かる。
八月の時点で妊娠六ヶ月ということは、誕生予定日は十二月。
計算はぴったり合う……あいつの誕生日は……。

ただ、十二月生まれの人間なんてごまんといる。
祐一が彼女を登場人物表の中の一人として加えられる筈がなかった。

しかし……直感的に浮かんでくる一つの思考の塊、或いは推論。
佐祐理は恐らく、このことを知っていたのだ。
その事実を知ったからこそ、舞や祐一にさえ素っ気無い態度を取った。
そこには祐一にも察し得ぬ何らかの事情があるのだろう。

けど、どうやってそのことを知ったのだろうか?

祐一の得た情報と佐祐理の得た情報は基本的に同じな筈だ。
そこから何故、佐祐理だけが一早くあの驚くべき真相を看破し得たのか。
それだけは、幾ら考えても分からなかった。

しかし、全ての答えは今から祐一が向かう先にある筈だ。
十八年前に起きた奇怪な殺人事件の答えも、先程の謎も。

真実は最も近い場所にあったのだ。
幸せだけが詰まっていると祐一が疑わなかった場所。

祐一は、その場所の目の前で自転車を止めた。
何の変哲も無い普通の一軒家、祐一や舞にとって馴染みの場所。

「……どうした祐一? 何故、ここに急いで来る場所がある?」

背後から、僅かに息を切らせた舞の声が聞こえる。
それでようやく、舞が後ろから自転車で付いて来ていたことに気付いた。

「それは……中に入ってから話すよ」

そして、祐一はいつものように玄関のドアを開ける。
居間を真っ先に覗くが誰もいない、続いてダイニングへと早足で向かった。

そこに二人はいた……沈痛な面持ちで。
祐一の姿を見ても、二人は驚く素振りは見せなかった。
多分、世田谷刑事からここに電話で連絡があったからだろう。
十八年前の真相を教えた人間には、全てを片付いたことを知らせた筈だから。

「話は聞きました」

祐一はそれだけを言った。
しかし、目の前の二人にはそれでも充分に通じることを知っている。

「どうして二人とも、黙っていたんですか?」

「祐一さん……」その中の一人、佐祐理は申し訳無いという表情を祐一に向けた。
「黙っていたことは謝ります……」

「佐祐理さんは悪くないですよ、黙っていて欲しいと頼んだのは私なんですから。
遅かれ早かれ全てを話すつもりでした。ただ……真実を明らかにする時間が、
ほんの少しだけ欲しかったんです。だから佐祐理さんには、祐一さんや舞さんの気を
逸らすようなことまでさせてしまって……本当に申し訳無いと思ってます」

けど、ようやく昔から背負っていた重荷を降ろせました。
だから、祐一さんと舞さんにも全てを話そうと思います。
事件のこと、そして私の夫である宗一郎さんのことを……」

もう一人の人物……水瀬秋子は決意を宿した目と共にそう言った。

 

58 大切な人の記憶(前編)

紅茶の香りがダイニングルームを柔らかく満たす。しかし、場に和みを与える筈のそれさえも
滞った重い空気を払拭するには余りに力不足だ。湯気の勢いが徐々に削り落とされていく様
だけが、刻々と過ぎ行く時を如実に表わしていた。

誰も紅茶に手を付けることなく、開幕ベルを待ち侘びる観客のように静まる声。やがて、水瀬秋
子は軽く溜息をついて……、

「私があの人と出会ったのは、通学路途中の公園でした。冬を間近に控え、重くのしかかる
雲が街を雪国へと変える……そんな季節の変遷期でした。木々は激しく紅葉し、桜にも似た
速度で枯れ落ちる短い北国の秋……」

過去を回顧する時に人が見せる、寂しげな空気を漂わせながら語り始めた。

「私はその時、遅刻寸前でいつもの通学路じゃなくて細い路地裏を縫って進む、地元のごく
限られた人が知っている道を走ってました。もし、私がそこを走らなかったら……しかも、遅
刻寸前でその道を通ることなんて年に二、三度だから、出逢いにも何か運命的なものを感じ
た、実際に運命というものはあるのかもしれませんね。

そして、公園の前を通り掛った時にふと目に一人の男性が映りました。ブランコを小さく揺らし
ながら、悲しそうに俯くあの人はまるで捨て犬のようで……私、その姿を見てどうしても放って
おくことができなかったんです。無意識のうちに、彼の前まで近寄り、そっと傘を差し出しました」

雪降る街、失意の男性に傘を差し伸べる一人の女性……まるでドラマのワンシーンのようだと、
祐一は思った。出会いというものは多分、そんなものなのだろう。実際、舞との出会いは幾つも
の分岐から選ばれた中の一つなのだ。祐一は更に続く秋子の言葉へと耳を傾けていく。

「その日は高校に入って初めて、一時間だけ授業をサボりました。今まで皆勤賞の私がどうして
授業を投げ出したのかは分かりません。けど、この人を放って行ってしまえば一生後悔する……
ふと、そう思いました。

傘を差し出されて、あの人は驚いていました。見知らぬ人からそんなことをされたら、そう思う
のは当たり前なんでしょうね。けど、瞳の奥に潜む悲しみの色は全く目減りしていませんでした。

『どうしてこんな所で座っているんですか?』

そう訪ねると、あの人は翳りを帯びた笑みを浮かべて言いました。

『なんで、見ず知らずの僕に突然、そんなことを尋ねるんですか?』

問い返されて、私は少し困ってしまいました。理由なんて……そんなものなかったんです。
けど、次には気を取り直して言いました。

『あなたのことが心配だったんです……だって、凄く悲しんでいるように思ったので。
あの、もしかしたらそういう理由じゃなくて、単に学校をさぼってたんですか?』

あの人は、しばらく沈黙を貫きました。それから一度、僅かに首を縦に振って……次には
考え直すように横に振り直しました。

『悲しいことがあったんだ……とても、悲しいことが……』

『悲しいこと……ですか?』

『……母さんが、死んだんだ』

絞り出すようなその口調と歪んだ表情に、私はもしかしたら立ち入ってはならない領域に
土足で踏み込んだんじゃないかって……そう思い、慌てて頭を下げました。

『あ、その、訊いてはいけないことだったんじゃないですか?』

すると、あの人は先程と同じ笑みを浮かべながら再び首を横に振りました。

『いや、そんなことはないよ……まあ、思い出したら辛いことだけど』

肉親の死……それが人にとってどのような作用をもたらすのか、その時の私は知りません
でした。でも、長い間育んでくれた親が永遠に失われるのだから悲しいんだって……、そう
漠然と感じることしかできませんでした。

『そう、ですか……それで、何かの病気だったのですか?』

そう尋ねると、あの人は目を逸らしながら答えました。

『まあ、そんなものかな……病んでいたのは確かだから』

明らかに嘘が混じっていたのですが、、あんな様子を見せられたらそれ以上は聞けません。
しばらくの沈黙のあと、私の方から他愛のない話を色々とけしかけました。通っている学校、
同じ学校だと分かったからクラスとか部活動とか……。でも、決して自分の家に関すること
は話しませんでした。或いは、お茶を濁して曖昧なことしか言わなかったんです。

そして、最後にあの人は言いました。

『明日も……同じ場所で会えないかな?』

明日は学校をサボれませんよと言うと、放課後にと答えました。私は、それよりも良い方法が
あると言いました。朝にこの場所で待ち合わせして、一緒に学校に通おうと。

けど、あの人は首を横に振りました。そうすれば、絶対君に迷惑がかかるって言うんです。私
は微笑みながら、例え宇宙人だったとしても私は迷惑じゃないですよ。そう、答えたんです。す
るとあの人、こう返しました。

『もしかすると、宇宙人より厄介かもな』

しかし、次にはこう付け加えたんです。

『善処はするよ、でも守るかどうかは分からないけど……』

その日は、それで別れました。彼の名前を聞くのを忘れていた……それが分かったのは、その
日の番のことです。

次の日、私は公園でずっとあの人を待ち続けていました。腕時計を見ると、九時半。今日は二
時間目も休みだと思いながら、黙ってブランコを揺らしていました。雪もちらついてましたね。

私は傘をささずにじっと座っていました。傘は持っていたんですが、何故かそうやって待っていた
かったんです。それからしばらく経ったでしょうか……私の頭に傘が差し伸べられました。

『お前、何やってるんだ? 傘、持ってるのにささないでいるなんて』

私は可笑しさを抑えながら、こう言ったんです。こうしていれば、貴方が傘を差し伸べてくれるんじ
ゃないと思ったからって。

『馬鹿だな、お前。本当に……馬鹿だよ』

ええ、と私は頷きました。

『じゃあ行きましょう……今から行けば三時間目に間に合いますよ』

そう言うと、あの人は頭を掻きながら黙って付いてきました。二人で晩秋の町を……しかも制服
姿で並んで歩くというのは、正直言うと少し恐かったです。誰かに見咎められないかって。けど、
あの人が隣にいるとそれもピクニックのように楽しかったんです。

でも……私はその時、あの人のことを何も知りませんでした。それを知ったのは、四時間目の
授業が終わってあの人の様子を見に行った時です。

それは……傍から見てもひどい状況でした。彼の座っている場所は、一目でわかりました。そ
して、机が落書きや汚物で散々な状況になっていることも。

そこにはこう書かれていました。

お前の両親は気違いで、気が狂って死んだ。
気違いの血をひいた奴も気違いだ。
お前も早く死んじまえ。

それは寒気がするような文句でした。そんな中で、あの人は歯を食いしばって俯いていました。
私は無性に腹が立ってきて、あの人の前に立ったんです。

行きましょう……と私は言いました。
あの人は驚いていましたが、やがて弱々しく立ちあがって付いてきました。
屋上……は寒いので、その前の踊り場に私たちは腰掛けました。

どういうことなんですか? と私は尋ねました。
あれは明らかに陰湿な苛めです……しかも肉親を失って間もなくなのにあの仕打ち。
普通なら、労いや慰めの言葉がかかる筈なのに……。

あの人はしばらく逡巡したのち、ゆっくりと口を開きました。
彼から漏れた言葉……それは、自らの家で起きた恐ろしい事件の一部始終でした。

 

59 大切な人の記憶(後編)

祐一と舞は、秋子の説明に思わず溜息を付いた。
それは十八年前に起きた事件の詳細な説明だったからだ。

事件のあった日、桐谷家で起きた出来事。
夕食時の叫び声から始まり、死体発見、事情聴取、そしてその後……。

「それから私たちは毎日、屋上前の階段で一緒に話をしました。
相変わらず苛めはありましたけど、無視してたら向こうは何もしなくなりました。
その時にははっきりと分かっていました。私は彼のことが本当に好きなんだなって。

それからは……色々とあって、結局私は高校を中退する事になりました。
そして、あの人と……宗一郎さんと結婚しました。
このことを祝ってくれたのは私の姉……祐一さんの母だけだったんです。

結婚式は、私たちが初めてあった公園で行いました。
と言っても、指輪の交換と誓いのキスだけしかない簡素な式でしたが。
ブーケも用意しましたが、それは意味を持ちませんでした。
この時、姉さんはもう結婚していて、生後一ヶ月になる子供もいたんですから」

秋子は祐一にだけそっと目配せする。
その子供というのは……自分のことだろう。

「祐一さんは、式の一部始終を見届けたもう一人の観客だったんですよ。
それから、私たちは小さなアパートを借りて暮らし始めました。
色々あったけど、私たちは幸せでした。
そして、永遠にその幸せは続くと思ってた……。

けど……この家が建ってすぐにあの人は入院したんです。
最早、施しようがないほどの癌に侵されていたことが検査で分かりました。
若い頃の癌は転移が早くて、自覚症状が出始めた時には遅かったんです。

あの人は……娘を頼むと最後に言い残して……逝ってしまいました。
それから私は女手一つで名雪とこの家を守ってきました。
あの人の望みと思い出が込められた大切なものたちを……。

私の話は、これで全てです」

秋子は話を終えると、大きく溜息を付いた。
それからしばしの間、天を仰ぎ見る。

再び正面を向いた時には、いつもの頼もしく優しげな表情に戻っていた。
微かな憐憫と、悲しみを称えたままで……。

祐一には、どう話を切り出して良いか分からなかった。
自分とは全く関係ないところで発生したと思っていた事件。
しかし、その事件には端役としてだが自分も出演していたのだ。
そのことに、奇妙な感覚を覚える。

だが、しばらくしてまだ肝心な謎が明かされてないことを思い出す。
十八年前の事件が殺人なら、それはどうやって行われたのか……ということだ。

祐一は唾を飲み込むと、問いかけの言葉を秋子に発した。

「秋子さんと事件の関係については分かりました。じゃあ、十八年前の……」

が、その言葉は別の明るい口調によって掻き消された。

「お母さん、ただいま」

それは名雪の声だった。予期せぬ乱入者、いや名雪はこの家の住人なのだから乱入者では
ない。しかし、この話は……。

廊下を続く足音が徐々に近付く。そして扉は開け放たれた。

「あれ、みんなどうしたの? 神妙な顔して集まって……どうかしたの?」

「えっと……何でもないのよ。それよりどう、名雪も紅茶を飲む?」

最初に僅かばかりの動転をみせた秋子だが、すぐに冷静を取り持ち台所に向かう。

「それと、お菓子もあるから皆さんも食べますか?」

祐一はその時までずっと硬直状態だったのだが、ようやく話が一時中断されたことが分かった。
そして、これから話す内容が名雪にとって酷なものであることも同時に感じ取った。

それは佐祐理や舞も感じ取ったのだろう。表情は僅かに強張っていたが、普通の一家の団欒を
作り出そうと苦心している様は強く見て取れる。

結局、その時は十八年前の謎も解明されなかったのである。

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